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2020年7月19日

ボールペン

今はどの家庭にも何本もある使い捨てのボールペン、私の机の上だけでも常時10本近くある。私の少年時代は万年筆と言いたいが貧乏人には高嶺の花、鉄製の付けペンが常用品だった。それも10本ぐらいしか買えなくてね。一度に1グロス (144本) 入の一箱が買えたときは嬉しかったね。書き味が悪くなったら、すぐ替えることができる。インクは小瓶で売っていた。パイロットとかセーラーとか記憶は危ういが。付けペンは鉄製ですぐ錆びて書き味が落ちるから、ペン先が小箱で買えたときは、それだけで勉強が進む気がしたね。

ところが戦後、75年前の話、アメリカからボールペンなる新兵器が進出してきた。インクをつける必要はないし、文字がにじむことはない、おまけに署名など重要書類にも使える、とんでもない文房具だったね。でも高価で庶民には高値の花だった。

ところが日本人はこれはと思ったらコピーをする。パテントを盗んだりはしないが盲点があれば制約をくぐり抜ける努力をする。先端のマイクロボールの真円度と仕上げ研磨で先進国を追い抜いて、インクも黒は日本には長い歴史と技術があった。そして日本人のこだわりで、先進国を追い抜いて独占して、安価で実用性の高い日用品から高級品まで、世界を席巻したと思っていたら、何時の間にか中国がさらに安価で多色の華やかなボールペンで進出してきて。我が家にも新旧の、そんなボールペンが何十本と転がっている。日本製もあるが中国製が多い。東京で長年スーパーに勤めた遠縁の義姉が時折訪れるお店で余分な買い物をした物を集めて送ってくる。その中に中国製のボールペンが毎度含まれていて、何時の間にか我が家のデスクで存在を誇示するようになった。書き味などは日本製と変わりがない。先端の超ミニボールは日本製とかで当然ではあるが、書き味が違うのはインクに技術の差があるらしい。

ボールペンに限らないが、どの業界も常に前進を心がけないと後発者に追い抜かれて衰退という羽目になる。ボールペン1本にも、その経済の厳しさが現れている、そんな事を考えながら使っているのだ。

でも使い比べてみると日本製は華やかさはないが書き味、インク等で1日の長は今も守れている。競争社会の世界だから華やかさを取るか実質を取るかは判断が難しいが、地道に本道を歩く日本製に私の歩いた道を重ねてエールを送っている。

ボールペン1本の盛衰にも、 私の人生と重ねて振り返る、色々あったなと。

長生きをすることは、様々な事を見ると云うことだ。前向きに考えると結構面白い。

2020.5.2 見浦 哲弥

2018年10月6日

原爆の広島駅

2018年7月 インターネットで原爆直後の広島駅の写真を見た。橋の近くから見た広島駅正面の遠景は初めてだ。私の想像していた惨状より遥かに凄まじい。70何年前、原爆の12時間前にあの駅のドームの下にいた私が生き残れた可能性は限りなくゼロに近かったと恐怖が甦った。そして”正義の無賃乗車”の出来事はまさに間一髪の行動だったんだと再認識したんだ。14歳の少年にしては出来すぎた判断、行動だったと自分ながら感心している。

あれから起きた様々な困難も、人生プラス・マイナスゼロの原則で良いことがあればその逆が必ずあるという法則が適用されただけ、そして私は生き残った。

私の人生は良いことが51%と僅かに幸運が多かったと感謝しているが、あのとき切符をなくした向井くんを連れて帰ることで正論に背く行動をとったことが、間違いではなかったと来るから、人生の歩き方は難しい。

しかし、駅の大ドームの下にいた沢山の人たち、その内の幾人が生き残ったのだろうか、思い出しても心が痛む。70年もの年月の彼方だが、あの人たちの声が聞こえるのは私の心の迷いだろうか。

2018年7月 見浦哲弥

2018年4月25日

久方ぶり

2017.2.22 久方ぶりに若い人に私の生き方論を話すことになった。

畜産では家畜にも保険をかける。医療保険と死亡保険だ。1年毎の契約で、その打ち合わせにI獣医と共済組合(農業保険のクミアイ)の若い職員さんの二人が来場、折悪しく亮子君は子供を連れて病院へ、和弥は契約の木材工場からオガコのタンクが詰まったとの電話で戸河内へ、従ってお二人の時間つぶしの相手は私と言うこと相成った。

I獣医さんが先日差し上げた私の小冊子”見浦牧場の空から”の書評を始めて、事務所のボロストーブの傍らで時間つぶしが始まった。若い共済の職員君(K君としようか)には気の毒だが、引退した私には牧場の事務関係は説明できない。担当の亮子君の帰宅まで時間を潰すしか方法がなかった。

私の小冊子”見浦牧場の空から”には私の短文34個が掲載されている。「面白かった」というI獣医さんに、どれが一番でしたかの問かけに、”こがーなお客さんがおるんじゃーけー”が良かったと言う。広島の”エディオン”という巨大な家電量販店が倒産から立ち直った先々代の重役氏との会話に出会った小さな物語、貴方もインターネットで読んでほしい。キーは”見浦牧場の空から”。何度も危機に遭遇した私の生き様に大きな影響を与えた出来事だったから。

あれから60年以上も経つ。広島の小さなバラックのお店は日本の3大販売店エディオンに成長した。その再起の一瞬に触れた小さな文章は若者に訴える何かをもっていた。

それから諸々の雑談、見浦牧場のモットーの「自然は教師、動物は友、私は考え学ぶことで人間である」などと話は尽きなかった。

考えてみれば、私は貧乏だったかもしれないが、素晴らしい先人や先輩方に出会えた幸せな人生だった。話すことは山ほどあって尽きることがない。有り難いことである。

たった一度の人生である。与えられた環境は様々だが、生まれたことだけでも幸運、後は努力に応じて人生が開けると私は考える。たとえ子供であっても、この理は変わりはない。問題はそれを誰から学ぶかである。幸せな人は父母から教えられるかもしれないが、父母がだめなら学ぶ先は、自分が暮らす集団の中の先輩かも知れないし、友人かもしれない。大切なのは人間は集団で暮らす動物、生き残るための集団を見つけ、その中で学んで成長する、それが一度きりの人生を有意義に生きる方法だと信じている。

でも漫然と暮らしている人が多いね。今日が過ぎても明日がある、明後日もあると錯覚、若い時は人生には必ず終末があるなど考えない人ばかり。熱心に老人の昔話に聞き入ってくれた青年、彼等の人生が素晴らしいものになることを祈りながら話を終えたんだ。

2017.2.22 見浦哲弥

2017年7月29日

(番外編)空から小板をみてみたら

空から小板をみてみたら、懐かしいものが見れるかも。
現在 
過去を見るにはまず国土地理院の地図サイトでメッセージに同意します。その後、それぞれのリンクをクリックしてください。
  1997(H9)
  1993(H5)
  1988(S63)
  1976(S51)
  1964(S39)
  1947(S22)
  1947(S22)その2

 191号線 ライブカメラ
  安芸太田町 深入山
  北広島町 八幡

2017年2月18日

嬉しい話(I工業奮戦す)

久しぶりに広島のI工業の社長が訪ねてきた。開口一番「見浦さん、経営が安定した」と嬉しそうに報告されたのです。
彼は60代、家族経営の小さな精密研磨の町工場の社長が、田舎の小さな牧場の爺様に会社の現状を報告する、何か変だと思いませんか。今日はその話です。

もう、何年になりますか、ひょんなことから、彼との付き合いが始まりました。
小板に別荘が増え始めて20年余り、小さな集落の小板に、もう40数軒にもなりますか。彼は遅れてやってきた別荘人、小板橋の近くにヒューズ社のキャンピングカーを据え付けて別荘人になった。
当時、私はその近くの今田さんの畑を借りて牧草を作っていました。この話は、その草刈の作業の休憩時に交わした世間話から始まったのです。

彼が別荘を持とうと思い付いたのは、仕事がようやく安定して利益が出始め、長い苦労のご褒美にささやかな贅沢をと思い立ったからだといいます。
そこで、かねてから付き合いのあった大野モータースの社長に相談したのが事の始まりで、彼の勧めで小板に別荘を持つことになり、キャンピングカーを据えて、小さな贅沢を楽しもうと思ったのが間違いの元だったと話し始めたのです。

長い間辛酸をなめて、ようやく摑んだ幸せにほっとしたのは7ヶ月間だけだったと、突如始まった赤字経営で、金策に四苦八苦するようになって、別荘なんて買わなきゃ良かったと後悔してるんだ、こんな話でしたね。

そんな時に、親しくもない私に内輪話を聞かせる、これは月並みな返事はできないなと思ったのですよ。そこで、腰を入れて聞き始めたのです。

彼の親会社は自動車部品のギヤを作るメーカー、そのギヤの最終研磨をするのが彼の工場、但し技術は最高で3/1000の精度があるんだと自慢していましたっけ。
ワーゲンの部品の加工依頼も来る、世界的にも認められているんだとね。
ところが時代は何が何でもコストの低減、人件費の安い中国に工場も仕事も移転する流れが起きたんだと、そ
して俺のような孫受け工場にも加工賃の切り下げ要請が続いたんだ、その挙句、仕事まで中国に持ってゆかれてな、偉いことになってしまった、こんな話でしたね。

ところが聞いている内に何か違うなと思ったのですよ。私の牧場は和牛肉の生産をしています。ところが仲間の農家は如何に高く売れるかと、そのことだけに血道をあげています。
その為には、ありとあらゆる手段をとるのです。現在の和牛肉の評価は肉の中に如何に多くの脂肪が入るか、その脂肪がいかに小さく均質に入るかで決まるのです。味でなく見た目の美しさでね。それがサシと呼ばれる評価法です。和牛の場合、A1からA5 の5段階評価、A5になるとA1の3倍以上の値段がするのですから、気持ちは判りますが、その為に牛の健康をぎりぎりまで追い込んで目的を果たす。

例えばビタミンAは脂肪の分解ホルモンの役割をします。サシは脂肪を筋肉の中に小さく均質に霜が降りたようにいれる、これが霜降り肉の語源です。ビタミンAはその小さな霜降りの脂肪を分解してしまう、だから人為的にビタミンAの欠乏症をおこさせるのです。和牛は肝臓の脂肪の中にビタミンAを蓄える力が大きいといいます。6ヶ月くらいは全くビタミンAを給与しなくても耐えるですが、それを越えると起立不能、視力低下、ひどい時は盲目になります。おまけに筋肉の細胞膜が弱くなり細胞液が流れやすくなります。その結果ドリップという肉汁が出やすい牛肉になります。それをいかに抑えて見事な霜降りA5肉を生産するか、それが腕の見せ所、それが高級肉だと評価され高値で売れてゆく、食品が味や食味に関係なく見た目だけで売れてゆく、それは間違いだと思うのです。

食べ物は安全で、美味しくて、リーズナブルな値段でなくてはいけない。恩師中島先生の教えを忠実に守ろうと努力してきたのですが、社会は見た目重視に変わった。でも諦めずに消費者の意識改革に微力を投じてゆく、これが見浦牧場の目標の一つなのです。

ところが社長の話を聞いていると消費者は全く登場しない。親会社の営業の仕入れ担当の事ばかり。少しばかり不自然でしたね。農業も工業も最終的には消費者が品質的に価格的に妥当と感じたら買ってくれる、そうやって経済が動いてゆく。仕入れ担当が動かしているのではないのに、仕入れ係が全て正しいと信じることが生き残ることに繋がるとは、私には理解できませんでした。
そこで聞いたのです。貴方の仕事が最終の製品の何処にどう繋がるのか、調べたことがありますかと。「そんなことは知らない」という返事を聞いて、こういったのです。

私達が作っている製品は最終的に消費者が評価する。いいものはいい、悪いものは悪いと、値段と品質とを吟味して購入してくれる。私達生産者はその消費者の意見をいかに汲み取るか、そして、いかに対応するかが事業の成否を決まると私は理解している。貴方とは仕事は違ってはいるが、長い目で見ると消費者の意見をいかに反映するかが基本ではないのか。中間の業者は生産者の代弁者に過ぎない。どうして貴方の仕事が最終の消費者のどの部分にどのように使われているかを知ろうとは思わないのか。たとえ下請けの孫受けであっても、その仕事は最終的に消費者が評価するのでは?、間接的だけどね、と。

それを黙って聞いていた彼は三ヵ月後に再び訪ねてきました。「どうしたい」と聞く私に「3ヶ月ほどセールスに各会社を歩いたよ」と答えました。消費者への対応は各会社の企業秘密の一つ、真正面から聞いても答えてくれるわけがない。それならどうするか、新規注文の開拓にと各会社をまわる分には警戒されないだろう。
一代で会社を興す奴は考えることも行動力も常人とは違う。「私のところは、こんな加工が出来ますがお宅の会社で仕事はないでしょうか」と、売込みをかけたそうな。本当の目的は他にあるのだから仕事がもらえれば棚ぼた、断られても話が聞ける、ヒントがもらえれば拾い物とセールスに歩いたんだと。

その最大の収穫は発注元の求めている精度は3/1000でなくて5/1000でも良かったということ。それなら合理化の余地はある、一括削磨でも対応はできそうと考えたんだという。「そこでな、システムを考え直してな、何個かを一度に研磨するようにしたんだ。システムは出来たがセッテイングが自動では精度が出ない。試行錯誤をしてね。ふと気がついたんだな、俺は熟練工の手を持ってるんだ、使わない手はないとね。熟練の腕と新しいシステムで加工したらうまくいってな。親会社の言い値でも利益が出てな。親会社からこの値でどうして利益が出るのか教えてくれときたんだ。どうしようか迷ったけれど、俺の腕は真似ができないはずと教えてやったんだ」と。

そこで質問をしてやった。「また調子に乗って1社だけの仕事をしてるんじゃないだろうな」と。「誰がそんなことをするかい。そしたら親会社が文句を言ったがな。他社の製品の間に仕切りを入れろといっただけ」と明るい顔でのたまった。

そんな親父さんを見て、サラリーマンの息子が、親父の技術がこのまま消えるのは勿体ない、元気なうちに自分の物にすると帰ってきた。そして俺の技術の上にコンピュータをのせてな、新しい加工法を開発していると、天国の顔をしていた。

明るくなった奥さんとの二人連れ「見浦さんは、まだようならんか」と自信を取り戻した顔のご夫婦を眺めていると他人の事ながら嬉しくなってね。私の小さなアドバイスでも少しは役に立ったかと。

しかし、見浦牧場は依然悪戦苦闘が続いている。昔の軍歌ではないが"何処まで続くぬかるみぞ”である、それでも私達は頑張るのだ。

2016.2.18 見浦哲弥

2017年2月10日

稲作講座

物置がわりにしていた廃バスが朽ちて雨漏りが激しくなった。何とか整理をと気にはしていたものの、忙しさに取り紛れて放置してあったが、何の気の迷いか?整理を始めたんだ。
詰め込まれた様々な品物の中には古い雑誌も決算書も子供たちの教科書や通学服など、出るは出るは、どの品物も記憶があるものばかり。その子供たちも長女が60何歳、末っ子の和弥で50に近い。ずいぶん長い時間が過ぎたものだ。

その中に混じって私の稲作の専門書が現れた。半ば朽ちてはいるが、かろうじて表題は読める。60年もの遠い時間の彼方から記憶を呼び戻した本は朝倉書店の”稲作講座3巻”著者は戸苅義次・松尾田考領、両先生、分厚い本でね。確か価格480円。当時は小板の日当は400円。3巻ともなると崖から飛び降りるほどの勇気がいったものだ。でも、この本のお陰で小板では稲つくり1番になったのだが、本の丸写しでは成功しなかったろう。もう一つ”13度”に書いた小板独特の条件を見つけて付加したことが成功に繋がった。世の中、丸写しだけでは成功しないと教えられた一事でもある。

勿論読書だけで成功するわけはない。泊がけで通った西条の試験場での学習も大きな力になった。勉強は進学しなければ出来ないのではなくて、強い意志さえあれば、あらゆるところに教場はある。没落の家運の中でも学びの場を見つけだすことが出来たのだ。

勉強するということは人生の大きな条件の一つでもある。その結果が電気事業主任技術者検定に合格したのだ。環境に恵まれなくても、それを口実に後ろ向きにならなければ道は開ける。運が悪くて目指す道が閉ざされても再び新しい世界が現れる。俺は運が悪いと諦めるのでなく、一度きりの命、どこまでやれるか試してみるかと挑戦することで、新しい道が向こうからやってくる。人生とは不思議なものである。

その過程の私の道標の一つがこの”稲作講座”、私の大切な人生の道標の一つが遠い時間の彼方を蘇らせてくれた。朽ちた表紙が若かった私の生き様を語りかけて。

2016.10.29 見浦 哲弥

2017年1月22日

5度飯

春が来て田植え時になると大畠(見浦の屋号)は5度飯になる。朝5時になると五月女さんの頭が(上殿のおばさん、大畠の女中頭みたいな人で親父様でも頭が上がらなかった)「哲弥さん起きんさいよ」と起こしに来る。泊まり込みの五月女さんの起床時間だ。そして、お茶漬けをかきこんで田植えの苗取りのために田圃へ出る。春とはいえ5月はまだ寒い。日によっては苗代は薄氷が張っていて、5年生の男の子には厳しい気象である。尻込みしても跡取りの男の子はこのぐらいは我慢しろと容赦はなかったね。

それにしても5度飯は都会の3度の食事が当然だった子供には異様だった。勿論、貧しい田舎のことである。漬物と自家製の味噌汁、5度の内、1度か2度、野菜の煮物があればご馳走の世界、魚や肉は盆と正月、食べられるだけ有り難いと思えの世界だった。でも腹が減らなくてね。

ある時、集落の会合で喧嘩があった。山国の例とて集まりの最後はドブロク(密造酒)で酒盛り。どうして、そんな話になったのかは覚えがないが、3度飯が常識の時代に5度目飯とは時代錯誤だと大論争になった。終いには殴り合いでね。会合はメチャメチャ、まだ少年だった私の目には異様だったんだ。

そこで親父さんに聞いたんだ。「なんで5度飯なん?」ところが親父さんの答えは予想外だった。「田植の手伝いに来る人は、家では朝飯を食べないで来るんだ。そして夕飯も家では食べないんだ」。小板にも水呑百姓と呼ばれる貧しい家庭がありました。その人達に配慮して5度、飯を出していたのです。そう言えば5度飯を主張した人はどん底を経験した人、時代遅れと攻撃した人は物持ちの若者でした。

それは人のプライドを傷つけないで人に配慮することの大切を学んだ第一歩だったんだ。

社会が豊かになり制度も充実して、その日の食事にこと欠く話は聞かなくなったが、社会弱者は何時でも存在する。そして相手のプライドを傷つけないで配慮する援助は何時の場合でも大切なんだ。

時代は進んで社会のシステムも生活も進化したようにみえるが、声高に正邪を論じる人が多くなった。そして5度飯のような見えない思いやりは日本人から消えた様に見える。それは社会が生き続けるための潤滑剤だったのに。

2016.10.19 見浦哲弥

2016年12月13日

山口六平太

山口六平太は我が家の愛読書の漫画である。それぞれに趣味の違う我が一家が、唯一全員で愛読している漫画である。
時折、書棚に並んだ蔵書の山口六平太のシりーズからランダムに取り出して読みふける。ご存知の通り、この漫画は主人公の山口六平太を中心に悪役の有馬係長、その他の人物が登場する、そして何処にでもある人間関係がユーモラスに描かれている、そして何処にでもありそうな社会生活の一面が読者をひきつけてヒットしたんだ。

読み返してみると、まだ壮年だった頃の書感と人生を振り返っている現在とでは微妙にインパクトが違う。そして作者も年齢を加えるにつれての経験から、この本の当場人物にも成長があり、停滞がある、そんな人生の縮図が描かれていて、読みふけるほど、親近感と嫌悪感が深くなる、そして私の人生の中にも有馬係長が何人もいたし、山口六平太に近い人も何人かいたと、思い返しながら読みふけるのである。

しかし、何度読んでも有馬係長は憎らしい、それが現実に私の周囲にも居た実在の人物と重なる、思い出しても気分が悪くなる。

世に言う目立ちたがり屋君はどこにでもいる、実力はないのにしゃしゃり出るものだから、欠点が目立って人が心を開かない、ご本人もそれが弱点と、ご存知なんだが、それを認めて修正する勇気がない、だから周囲の人をあげつらって陰に陽に攻撃する、そんな人を私は知っている、でも素直に自分を見詰めさえすれば素晴らしい能力も持っているのに、それを見失って人生を失ってゆく、悪役有馬係長にも同情の感情はある。

人間の能力は人それぞれである、能力の範囲内で誠実に暮らせば大きな失敗はない、そして持てる力を100パーセント出すように努力すれば、育ててくれる人が何処からとなく現れる、若い頃は、そんな話は夢物語だと思っていた、が、年齢を経るに従って、それが本当だと思えることが我が身におきた、一つだけでなくてね。

大畠(見浦家の家号)は私で9代続いたと親父から教えられた、(小板でもっとも古いのは西という家だが小板では絶えて今は雄鹿原で血が続いている)小板のもっとも古い血筋とはいえないが血筋が続いたのは我が家だけと。

栄枯盛衰を繰り返した家系だが辛うじて遺伝子だけは繋がった。私の代は衰退の時期で逆風の嵐のなかで苦しんだが、懸命に生きた御蔭で暖かい励ましと指導の先生方に恵まれた。その御恩返しにと、懸命に生きる人達に私もささやかな応援を続けてきた。本当に取るに足りないことばかりだったのに、見浦にというファンがいて驚くことがある。漫画の中でも六平太が起こす小さな出来事が読者の共感を呼び、それがが彼が社長になったらと期待を膨らます。ところが作者も商売で山口六平太が社長になったら物語が終わると出世をさせない。このいたちごっこは何時まで続くのか、いい加減に社長にしないと、たとえ漫画でも理想の社長像を読めないうちに人生が終わりそうである。

漫画でも本書だけは愛読している。人生のペーソスをほのかに感じさせてくれるからだ。しかし、大いに不満もある。繰り返すが六平太が何時までも社長にならないことだ。こんな人物が身辺にいたら是非とも友人になりたい、教えを請いたい、そう思うのは私だけではないはず。この漫画のファンは、そう考えて読者になっているのだから。こんな人が組織のトップになったら、なにが起きるのだろうか、たとえ漫画の中でも、どんな物語になるのだろうか、そのストーリーを想像しながら新刊を待つのだが、依然と総務課の平社員の物語がつづく、大いに不満である。


2016.1.31 見浦哲弥


追記:2016年11月14日、インターネットが六平太の著者が死亡したと報じた。従ってこのシリーズは終了すると。”六平太”の社長就任を夢見て愛読してきた私は長年の夢を絶たれて空想するしかなくなった。
しかし、私の人生と重なった長い時間、大いに楽しませてくれた”山口六平太”の作者の一人、高井研一郎先生には感謝の言葉を贈りたい、「長い間有難うございました」と。

2016年9月10日

テレビが癌治療の進歩を伝えていた。新しい放射線治療の仕組みと完治した患者の報告である。私の生きた時代は科学や医学が猛烈に進化した時代らしい。
見浦家は癌の遺伝子を見事に伝えている。野村の祖母が胃癌、父が直腸癌、母が肝臓癌、妹は癌だと言ったが幸い完治した。孫が喉のリンパ腺に癌、これも医学が進歩したおかげで命は取り留めた。

癌は細胞分裂のときの母細胞と違った細胞を作り出すところに原因があるという。ところが神ならぬ人間は、基本的に細胞分裂で母細胞と同じ細胞を作り出す筈が、少しばかり狂った細胞を作り出すという。その数一日に数千個と言うから、人間は癌という地雷の中で生きているようなもの、これは神様の大きなイタズラ、現実にはキラー細胞なる正義漢がその狂った細胞を常に退治して癌の発生を防いでいてくれる、それで我々は生きることを続けることが出来るというんだ。ところがキラー細胞も生き物、完璧ではない、時には癌細胞を見逃す、そのがん細胞が運良く、いや運悪く定着して増殖し始めて癌患者の誕生ということになる。

そこで、私は出来るだけ自然の中で生活し、そして自然の食品を愛用することを推薦する。人間は本来自然の子、ところが近代社会になって自然から遠ざかる生活が近代化ということになった。
20年ほど前、”世話になったら他人に返せ”の前田先生の教えに従い、野菜つくりをするリタイヤ老人へ堆肥の無料提供を始めたんだ。ところが何でもお金で解決出来ると思い込んだ連中は無料で高品質の堆肥がもらえる、ということが理解できない。見浦牧場の無料堆肥には確かに裏読みはあるが、これは私欲ではない。老人が身体が動かなくなって、病院のベットで呻吟しながら最後を迎えるよりは、畑に出て野菜を作り、自家用の果物を作って、食べて周囲におすそ分けをする。堆肥が充分な作物が旨いのは当然で、誰にも喜ばれる。それが励みになって畑に出る。
新鮮な空気と日光と、それが健康を約束してくれる。そして健康な身体のキラー細胞は懸命にがん細胞を退治してくれる。素人の思い込みかもしれないが身体の動く限り畑に出て自然と親しむ老人は、病院で何本もの管に繋がれて最後を迎えることが少ないことを私は知っている。

年末にも18年ここへ堆肥を取りに来て野菜つくりをしていますという、ご夫婦がこられた。さすがご主人は足が少し曲がったがお元気、この堆肥で来年もと意気込みは高かった。

癌は細胞分裂時、遺伝子配列が母細胞と異なるところから始まるという。生物は老化した細胞の代りに細胞分裂で新しい細胞と置き換えて生命を維持してゆく。ところが人間も、その細胞も生き物、新しい細胞が元の細胞と同じものに再生するといっても、膨大な数の細胞の再生が行われているのだ。完全無欠というわけには行かないのが生物であり、それが進化の条件なんだ。
そうして母細胞と少々違った細胞が出来るんだ。その違った点が細胞の寿命をつかさどる部分で、ここが機能しないと無限に生き続けて増え続ける、それが癌である。
勿論、体の方も無抵抗ではない。キラー細胞なる警官がいて常時この無法者を退治しているのだが、不健康な生活で体力が衰えるとキラー細胞も実力を発揮できなくなり、癌細胞を見逃して増殖を許してしまう。

無学の私の独断と偏見ではあるが、人間は出来るだけ自然に接して、適度に身体を動かし、飲酒や喫煙や薬物を避ける、それが最良と信じている。だから小さな畑でも結構、太陽の下で花や野菜や果樹をつくろう、と提唱している、そのための堆肥は無償提供をします、を、もう何十年も続けている。

また春がやってくる。何組かのご夫婦が長靴、スコップのいでたちで、軽トラに乗ってやってくる。どなたも長い、長いお付き合い、そのお元気な姿を見ると幸せな気分になる。人間は自然の子、少しでも暇があったら日光を浴び、新鮮な空気を吸い、与えられた時間を精一杯生きる、それが本当の幸せだと思うのだが。

2016.2.3 見浦哲弥

2016年1月30日

掃除刈り

10月も終わりに近くなると元気な牧草も伸びなくなって冬支度の季節である。冬将軍の到来の前に牧草地は掃除刈りなる作業がある。牛が食い残したまずい草を刈り払って来春の牧草の生育の助けをする作業だ。

放牧をしている草地は牛が美味しい草だけを食べるので、イグサのような雑草が繁茂する。だから最低年1回の掃除刈りは欠かせない作業なのだ。
ところが見浦牧場は山の中、総面積25ヘクタール近い草地も山の中あり、水田の転作もあり、小は5アールの小区画から4ヘクタールの斜面まで条件は千差万別、日本の山岳農業の欠点をすべてが揃っている。おまけに草地には毎年牛糞の堆肥を散布する。その肥料を狙って周辺の木々の生長の早いこと。伐採して調べると草地が肥沃になるにつれて年輪の間隔も2倍3倍と増加している。おまけに伸びるためには日光が必要とばかり、草地に張り出してくる。何と30センチを越す大木まで幹を曲げて伸びるのだから、凶暴である。

牧草の成長期は収穫に追われて気付かなかった周囲の変遷も、掃除刈りの時は思い知らされるのだ。もともとこの地帯は雨量が多い上に西日本でも比較的温暖と来る。臥竜山には一部原生林が現存するほど樹木の生育は旺盛なところだ。そこへ牧草地を開いて牛の糞尿を投入したから、樹木の生育が倍増してしまった。ここ20年の年輪を見ると、それ以前の倍以上の速さで成長している。専門家に聞くと、樹高の高さだけ根が伸びて、草地に散布した肥料を吸収するのだと。伐採して樹木の草地への侵入阻止を図るのだが自然の力には及ばない。

10月26日、草地の掃除刈がほぼ終了した。後は3番草が1ヘクタール弱、気候も冬に向かってまっしぐらである。

2015.10.26 見浦 哲弥

2016年1月4日

薪用材の伐採

2015.11.5 秋口に切り倒した薪用の雑木の小切りの仕事をする。草地の仕事が一段落と思ったら冬将軍が間近に迫り、東北や北海道は積雪の便り。毎日は飛ぶように過ぎ去り、老体の懸命は季節に追いつかない。

牧場を始めて50年余り、ふと気がつくと牧草地の周辺の木々が異常に生育していた。牧草地が堆肥の投入で肥沃になるにつれて、肥料の横取りで猛然と生育を始めた、そんな感じである。とはいえ、肥料だけでなく日光もよこせと、牧草の上に覆いかぶさるように横伸びをする。そのつもりで観察すると、3メートルから5メートルばかりも侵入されている。これはたまらんと、薪は牧草地の周囲の木ということに決めたのだが、予想外の生育で仕事のはかどらないこと。もっとも私の老齢で能率が落ちているから余計に、である。

牧草地の周りは初期の牧柵代わりに立木を有刺線の杭代りに使用したこともあって、思いがけないところに針金あり釘ありで、刃物にとって大敵がいたるところにいるという状態なのだから、仕事がはかどらないのもやむを得ないか。

もう一つ問題があって、足の衰えが仕事に影響する。特に斜面での伐採は細心の注意がいる。倒れ始めて避難するのに昔のように敏速に退避が出来ないためだ。伐採は昔とった杵柄で何とかこなせるが、倒れ始めるときに避難の距離を稼げない。特に斜面の伐採は根元がどのくらい跳ねるかの予測が難しい。だから余裕をもって逃げなくてはいけないのだが、それが出来なくなったのだ。せいぜい2~3メートルも離れれば上等といった現状は、老人には勧められない作業である。
だからお前は若くはないのだと、何度も自分に言い聞かせながらチエンソーを操るんだ。幸い今年は何とか仕事をこなせている。

思えばチェンソーという高能率の機械が私達にも買える値段で供給されるようになって、山仕事の能率も一変した。何しろ鋸で木を切る仕事は手作業の最たるもの、薪きりの伐採も大小2種か3種の鋸を使う。切る樹種によって歯の研ぎ方を変えて等々、腕の違いで能力は何倍、いや何十倍も違うのだから、素人から見ると専門家は神様に見えたもんだ。ところが70年前、始めてチェンソーなる機械を見た。国産で現在の機械から見ると巨大な代物だったが、間もなくマッカラーというアメリカ製の小型機が国内市場を圧倒した。その能力の高さ、使用の簡単さ、山仕事の人間にとって垂涎の機械だった。
しかし、その高価だったこと。それに原動機が2サイクルで性能が悪く、なかなか起動しない。しかしエンジンが回り始めると、その高性能は従来の手鋸など視野に入れられないほど。国産化して改良されて、私達も何台ものチェンソーの遍歴をした。そう、大金を投入したんだ。

現在は当然のように大小2台のチエンソーと腰鋸と腰鉈を持参で山に入る。簡単に伐採できるようになった反面、危険は倍増している。長い人生の中で何人かの知人を山事故で失った。近代化は細心の注意と知識が必要だった。

手鋸の時代は研ぎの技術の差がその人の能力とされた。チェンソーの現在でもプロとアマチュアの差は歴然として存在する。私は老化の進行で技術が落ちたとくるから切れ味もいまいちになって歯がゆいこと。俺も昔はプロの炭焼だったのに悔やむのだ。

チエンソーの製造会社は世界に無数にある、日本でも十指に近い。改良の競争のおかげで使いやすさと値段の低下で昔のような財産でなく普通の道具になった。ところが戦後登場したオレゴン社のチェンソーのナイフは独創的な発想と絶え間ない改良の積み上げで他社の追従をゆるさない。チェンソーのナイフはどの会社もオレゴンで共通なんだ。

気がついてみたら、牧場を始めて50年以上も経った。牧草地の周りの木が異常に生長していた。伐採して年輪を数えると、ここ20年余りの成長が明らかに異常と思えるほどの年輪の幅を広げている。最近は牧草地の上に枝を伸ばすだけなく、幹まで曲がって日光を奪おうとしている。山仕事のプロいわく、根は日光と肥料を追っかけて、幹の高さの長さまで伸ばすのだと。

そんなわけで薪用に切るくらいでは樹木の生長には太刀打ち出来そうもない。自然というものは人知の及ばない力を持っている。自然を教師として生きてきた私がいまだに感銘を受け続けている。自然万歳。

2015.12.30 見浦 哲弥

2012年5月6日

金城牧場

金城牧場は島根県の旧金城町にあります。見浦牧場がまだ十数頭の規模だったころに建設された、面積140ヘクタールの大牧場、牛飼いの知識吸収に血眼になっていた私たちが何度も訪れた学んだ最新鋭の牧場でした。それが廃場になり、今年は完全に解体するという。先日中国新聞の社会部長だった島津さんが来場され、人生の集大成に中国山地の近代史を出版する。そのために取材している。でも、調べれば調べるほどこの地方の和牛牧場の変遷が理解できなくなる。どうしてだろうと嘆いていたのを思い出すのです。

私たちが和牛の牧場建設に挑戦をはじめたころ、この周辺でも公営、私営の大小の牧場設立されました。
全国的に紹介されたのが芸北町の大規模草地、4箇所に分断していたものの220ヘクタールの大牧場、吉和村(現在の廿日市市)には農協が経営した、樅の木森林公園の前身の400町歩の和牛牧場、豊平町(現在は北広島町)の20ヘクタールの牧場、等々。
町内の寺領にも20ヘクタールの放牧場を持つ個人牧場が開場されていましてね、小板も60ヘクタールを開墾して和牛を飼う計画でした。そのいずれもが試行錯誤の末に倒産、廃業していったのです。
その中では大規模草地が経営が農協から県営に変わって、一番長く続いたのかな。

これらの失敗を見て始まったのが金城牧場。農民5人の共同経営の形で自己資金5億円、国や県の補助金が20億円、700頭の母牛で子牛から肥育牛までの一貫生産が目標で、前述の広島県の各牧場に比べたら比較にならない近代的な牧場を作り上げたのです。前車の轍を踏まない万全?の牧場をね。
林立するタワーサイロ、清掃も給餌も機械化された畜舎、汚水の草地への自動散布等々、最新の農業機械はいうに及ばず、新築の従業員宿舎まで何から何まで完備していました。制服の若者がきびきびと作業をする牧場は本当にまぶしかった。

最新の農業誌のグラビアが目の前にある。違うのは平原ではなくて、傾斜のある山麓ということと、牛が日本独特の和牛ということだけ、その当時は農業は気象風土の産物で、条件がひとつ変われば仕組みも大きく変わる、変えなければ成立しないということを指摘する人は少なかったのですよ。

でも何かがおかしかった。私の書いた文章に「背負うた子に教えられ」という一文があります。その中に当時小4だった息子の和弥を連れて見学に行ったときのことが記載してあります。抜き出してみましょう。

”その時は、小学4年の和弥が一緒で、曇り空の少し寒い午後でした。金城牧場は牧場とは名ばかりの見浦牧場とは違って、200トンのタワーサイロが立ち並び、最新の外国製の大型機械が勢ぞろいする近代的な牧場、子供の和弥も興味津々でした。

「父ちゃん、これは何?」「これはな、ブロアーゆうて、刻んだ草をあのサイロの上まで吹き上げて詰め込む機械や。あのサイロはな、高さが20メートルもあるんよ。見浦の機械は5メートルも上げると詰まって大変だがな、大きい機械はすごいんよ。」「中の草はどうして出すん?」「一番下にな、アンローダーちゅう機械があっての、掻き出すんよ。ここじゃー、その草をベルトコンベアで運んで畜舎の餌箱に自動的にいれていくんよ。」彼はだまって説明を聞いていました。やがて、おもむろに「父ちゃん、それなら牛の病気はどうして見つけるん?」

衝撃でした。ハンマーで横っ面を張り飛ばされた、そんな一言でした。

その視点で施設を見直すと、なるほど工場のような雰囲気です。この牧場を訪問する度に感じていた違和感はそれだったのです。
命ある家畜を無機物の機械と同じ感覚で扱うのは間違いではないか?
見浦牧場のモットーは「自然は教師、動物は友、私は考え学ぶことで人間である」です。この標語が生まれたのはこの時なのです。"

私たちの牧場では、牛の集団の中に入って比較しながら異常を見つけています。もちろん人間のやることですからパーフェクトは期待できませんが、効率のよい観察方法だと自負しています。
見浦牧場では牛は友人なのですから、事故があれば損益の前に心が痛みます。それが牛飼いなのです。
牛は生き物です。考える頭をもった高等動物です。私たちより知能が劣るとはいえ生き物としては仲間なのです。ただ、家畜として人間が利用させてもらっている、これが私たちの基本の考え方なのです。

そういえば前述の各牧場はいかにして牛を飼って利益を上げるかがすべてでした。近代的な畜舎も省力が主眼で、牛の環境は二の次でした。彼らは生き物、生きるためのの環境は企業経営の利益の追求と共に整備してやらなければなりません。見浦牧場ではそれを自然に近づける、放牧という形で追い求めているのです。

何回目かの訪問のときに、サイロのそばで仕事をしているメンバーの人と話す機会がありました。私たちの質問に答えられたあと、「このサイロの草を取り出す機械がよく故障して」と話始められました。サイロの下に取り付けられたアンローダーが詰まって草が出なくなると。
元々タワーサイロはトウモロコシサイレージの貯蔵装置として開発された機械、それを牧草用に転用するには運用する方法を再検討する必要がある。電気工学を学んだ私にもそのくらいのことはわかります。
「故障すると大阪からメーカーのサービス員が来て何日も修理にかかる。一遍故障すると50万円ぐらいかかっての」と暗い表情で話された、そのときこの牧場は成功しないかも、と漠然と思ったのを覚えています。

その翌年、農水省の山本課長が視察においでになりました。いろいろ見て歩かれ質問され、最後に「見浦君、島根の金城牧場を知っているか」と尋ねられました。「よく存じています。一時間ぐらいの距離ですから勉強のため何度も伺いましたから」とお答えすると「実は経営がおかしくなって再建を考えている。君ならどういう方法をとるか」と聞かれたのです。まだ若かった私は思ったことを素直に口にしました。「日本は南北に3000キロ、高低差1500メートル、そんな様々な条件の中の農業なのです。牧場も千差万別の自然環境の中での経営です。それをもっともよく知っているのは地元の農民、その知恵を大事にしないと再建は難しいと思います。」と「そうか、そう考えるか、手元にある再建計画はきれい過ぎるな。これは農家はかかわっていない、お役人の仕事だな」とつぶやかれたのが印象に残っています。

2-3年して再び金城牧場を訪問しました。県営の畜産事業団に変身した金城牧場に。工場のような牛舎は見慣れた一般的な畜舎に変わって、牛がひしめいて活況を呈していました。しかしそこには私たちが求めていたきらめきも先進性もありませんでした。ただ巨大なだけ。もうここには学ぶべきものはない、そう感じたのを覚えています。

使われずに放置された機械がやけに目に付いた、それが私の最後の印象でした。

帰り際に、気になっていた経営主体だった農家の消息をお聞きしました。係員の方が牧場の片隅の建物を指差して、「あそこで豚を飼っている。豚は牛と違って回転が速いからね。」と。

これが私の金城牧場についての記憶のすべてです。

前述の島津先生の話で思い出して、インターネットで検索すると、島根県が今年中に完全に整理するとありました。Google mapで探すと建物群はまだ残っていました。できれば消滅する前には訪ねてみたいと思っています。見浦牧場の思い出のひとつですから。

2012.1.20 見浦 哲弥

2012年4月16日

ある老人の死

2009年4月21日 牛の出荷で三次にいった息子の和弥が「親父さん、空城の新田さんで葬式があるらしい。今晩お通夜とあったで。」と。
翌日、雄鹿原の大工の斎藤さんが立ち寄りました。新田さんの葬式の帰りだと。
そこで初めて新田さんの死亡の原因が判明したのです。家の後ろにある雪の溶解用の池で死んでいたと。

彼との付き合いはひょんなことから始まりました。3年前、芸北の森林組合からおがくずを引き取って帰る途中、道路の真ん中でミニショベルを転倒させて悪戦苦闘している老人を見たのです。見過ごして通過するわけにもいかず、手伝ったのですが、ミニとはいえど重量物、人力ではいかんともしがたく、帰宅してタイヤローダーを走らせて起こしてあげたのです。

その次が難題の解決、小板の一番下流にある今田さんというおばあさんが住居の改修を新田さんに頼んだ。改築して40年ばかり経た家は、床下の根太の交換から始まって、修理すればきりがない。古い大工の新田さんが、ここも、ここもと修理と仕事が拡大、手持ちの貯金が底を尽き始めて娘さんから苦情が。「どこまで家にお金をつぎ込むのか、病気になっても面倒をみるのはお断り」と宣告され、工事の中止をしたいのだが、大工さんにそのことを話して解決してもらえないか、という難題。田舎は変な、それでいて難しい頼みごとが舞い込むところなのです。
自分で撒いた種、自分で解決しろというのは簡単ですが、相手が80歳を越しているおばあさんとくれば、そういうわけにもいかず、ここまでかかった費用は完成していない分も含めて支払うことを約束させて交渉した、そんなこともあったのです。

私はご存知の通り、ざっくばらんな性質、ばあさんと話し合って決めた仕事の邪魔をするのかと文句をいう新田さんに、娘さんの苦情の話をして80の年寄り、万が一病気になり娘さんが面倒を見ないということになれば、貴方の立場も難しいことになりかねない、仕事のお金は未完成の部分も含めてもらってあげるから手を引いては、と。

そして彼の出した請求書のとおりに支払いをしてあげたのです。ところが何が気に入ったのか、それから何事かがあると”見浦さん”と訪ねてくる。自動車の調子が悪いと相談にきたことや、怪我をしたからと病院に運んだこともある。子供さんが2人もいるのにね。
友人たちが「一の隣だけぇ、仕方がないの」とからかう始末、確かに6キロ離れてはいるものの、道路をたどっていけば確かに隣人でした。町村も集落もちがってはいましたがね。

最後に会った時は、「見浦さんには世話になってばかりだが、一番気兼ねがなくてね」と話していました。歯に衣着せぬ私のしゃべりも彼は裏がないと受け取っていたのでしょう。
怪我も病気も切り抜けた幸運も思いもよらぬところで切れて、想像もしない終焉を迎えてしまった。ご本人も驚いたでしょうが、妙な縁で友人?になった私にも生きることのもろさを教えられた別れでした。

2009.8.15 見浦哲弥

2012年4月2日

敬老会

2011.9 今年も敬老会の季節になりました。
昔は年寄りはどちらかといえば役立たず、邪魔者扱いでした。ところが日本が経済大国と発展するにつれ、功労者として大切にしろとの政府からのお達し、そこで始まったのが敬老会。

当初は小学校分教場の運動会に便乗、教場の窓際に設えたひな壇に座らせられて、婦人会の手作り弁当をいただくという敬老会が出来上がりました。
当日の接待係は婦人会長と部落長さんと決まっていて、自分の子供が運動会の主役というお母さんはいい迷惑、他家のお父さん、お母さんが子供と運動会を楽しんでいるのを横目で見ながらお年寄りの面倒をみるという、行き過ぎた敬老会でした。

そのうち分教場も本校に統合されて、小板に運動会もなくなりました。それでも9月15日が来ると分教場の教室に年寄りが集められて手作り弁当をいただくという構図は続いたのです。でも想像してください。子供たちがいない教室で年寄りがぼそぼそと世間話、世代が違う接待係の部落長さんと婦人会長さんが、仕事や家事や子供に気をやりながら貴重な時間をつぶす、今考えると昔の出来事や集落の歴史、仕事の内訳など貴重な知識を聞くための大切な時間だったのですが、そこまでは気がつかなかった。

そんな時代の部落長を押し付けられて、「今年も敬老会かー」とため息をつく私に家内の晴さんが例のごとく一言、「そんならホテルでやったらええ、飯を食って風呂へ入って、気兼ねがなくて、年寄りは喜ぶで」。

4キロばかり離れた深入山のふもとに”いこいの村広島”という年金基金で建てられたホテルがある、それを利用はできないかとの彼女の提案は、いつものことながら的を得ていました。

いわれれば招待されるほうも気兼ねしている、接待係とは年代が違って話題も少ない、そんなシステムより、日常と違った食事をし、お風呂に入ってのんびりできる、忙しい現役の人間がいらいらしながらの接待よりは喜ばれるかもしない、そう思いましたね。
後は費用が問題。役場から敬老会用と支給される金額はそう多くはありません。送迎用のマイクロバスの派遣を含めてホテル側と交渉、やりくりで何とかできるとわかったときはうれしかったですね。

最初のホテルでの敬老会は好評で、おまけの食事後の入浴は大好評、参加のお年寄りから「よかった」とお礼を言われましてね。

ところが、反対派のボス連中は大批判、見浦は集落の行事を独断で変更した。民主主義をいい始めたのは見浦ではないか、それが民意を踏みにじったと喧々囂々の騒ぎになりましてね。これは予想外の反響でした。
でもこの件では主役の接待を受ける老人たちが喜んでいるのだからと、ほっかぶりを決め込んだのです。おかげでますます反対派の評判は悪くなりましてね。が私の任期中はこの方式で敬老会を押し通したのです。

さて、後任の部落長に反対派のボスが就任、早速見浦色一掃に乗り出しました。中でも敬老会改革?は世論(小さな集落でも世論はあります)の支持を得る最短距離と意気込みなすった。

そこで最年長の某おばあさんに、今年からは敬老会は旧方式で行いますと通告したといいます。ところがそのお婆さんが怒った。「のんびりできて、お風呂まで入れてるのに、どうして変えなきゃならん。わしゃー反対ぞ」と「実は前々回から敬老会をホテルでやると決めたのは見浦の一存で、部落の決めでなかった。それで元に戻したいから」と返事をしたとか。ところがこのお婆さんは小作人をしながら、貧乏の中で営々と5人の子供を育てた気丈者、そんな答えでは引き下がらない。「敬老会は年寄りを慰労する会ではないのかい?部落のために開く会なのかい?わしゃー見浦さんの敬老会のほうがええ」と譲らなかったとか。

この一言で小板では、敬老会はホテルで食事してお風呂にはいってマイクロバスで送迎してもらう今のシステムが確立したのです。

反対派のボスたちも敬老会に招待される年齢になりました。今日は敬老会とご夫婦がお迎えのマイクロバスに乗られる風景を遠くから見て昔を思い出して複雑な気持ちになりました。

でもこれが底辺の庶民の素直な姿、それを理解し、それでも支えていかないと小さな集落は成り立たない。私もそれが理解できる年齢になりました。人の世は複雑で面白い。命の終わりまでそれを楽しんで生きようと思っています。人生万歳。

2011.9.15 見浦 哲弥

2012年3月25日

非常識

小板は中国山地の小さな集落です。ところがここで起きた非常識が日本という国でも起きて、世界中の笑い物になっています。日本国崩壊の兆しかもしれません。今日はそういう話を聞いてください。

人間は集団で暮らす生き物です。集団は必ずリーダを選んで行動します。見浦牧場では大きな牛から生まれたての子牛まで100頭余りの集団で放牧しています。牛は集団で暮らす動物。彼らもリーダを選んでその行動にしたがって暮らしています。何しろ猛獣の月の輪熊が出没していますから、彼らも命がかかっています。
とはいえ、日本の農村には牛を子牛の時から集団で飼う農家はありません。ですから私たちも最初は1-2頭飼いの農家から子牛を集めて牧場をはじめたのです。集団で暮らすのは牛の本能ですから、経験のない彼らでも集団で暮らすようにはなりましたが、問題が山積みでした。

その一つにリーダの選び方がありました。牛も動物ですからリーダになるためには力比べてをして勝たなければなりません。集団とは言え、人工授精が普及した現在ではブルと呼ばれる雄の成牛はいません。受胎のための精液は液体窒素の魔法瓶のなか。したがってリーダは雌の成牛同士で争われます。角と角を突き合わせての力比べ、ぶつかったときは心配になるほどの音を立てて力負けして後ろに下がったら勝負ありで順列が決まるのです。
最初の頃は勝負がついても突き合いをやめず、怪我をすることが再三でした。除角という角切りが必要と指導されましたが、何代か経つと変化がありました。勝負がつくとそこで喧嘩は終わり。無駄な争いはしないようになりました。
自然は素晴らしい。動物には学ぶところがある。”自然は教師、動物は友”の見浦のモットーのそのままです。

この他に、集団の進化につれて学ぶ点が増えましたが、それは後ほど報告ということで。

見浦牧場がスタートした頃は深入山にあった共同の放牧場が機能していました。小板分は面積が145ヘクタール、山の反対側に松原集落の放牧場が隣接していましたが、こちらは集落に牛がいなくなり、早く廃場になりました。
放牧場は1-2頭の役牛を田植えが済んだあと等に放牧するという形で利用されていたのです。そのころは牛たちは牧場の中では5-6頭の小さな群れで行動していました。
時々群れから外れた牛が行方不明になる事件もあって、牛飼いが総出で探すなどのハプニングもありましてね。

私が覚えている4件は、急斜面の小道を通って谷の奥に入り出られなくなり草を食いつくして痩せこけた2頭連れ。幅の狭い谷に入り込み、向きが変えられなくて立ち往生していた牛が2例、そのうちの1頭は餓死していました。それから、地下水のトンネルを踏みぬいて穴に落ちた牛、これは深入山に遠足で登山した小学生が偶然発見して大騒ぎになりましたっけ。そのほか見浦の牛も牧場から連れ帰るのに歩き辛そうにする、とうとう家まで500メートルのところで走行不能、獣医さんにみせたら腰骨にひびが入っていて廃用、そんなこともありましたね。

しかし、この集落も牛がいなくなって、放牧しているのは見浦の牛だけとなり、様子が変わりました。どう変わったか?集団が大きくなったのです。
最初は2頭だけで脱走して他家の山に入り大騒ぎになりました。次は1頭が群れから外れて反対側のキャンプ場に現れ、熊に間違えられたこともありました。牧場から帰る時、リーダに従わす雪の中で食べるものもなくて痩せこけて集落の辺まで帰ってきた若い牛もいました。

これらは集団で暮らすという牛本来の習性を忘れた牛たちが起こした事件でした。ところが生まれて1週間ごろから仲間を探す習性の牛たちは、成長するにつれ集団生活のルールを本能の中から呼び起こしたのです。

でもリーダを選ぶ本能が本格的に目覚めてくるのには、それからもう少し時間がかかりました。
牛は力の強い順に見事な順列を作ります。順列の低い牛が上位の牛のえさ箱に頭を突っ込んだら、思い切り突き飛ばされる、そんな力の世界なのです。
最初の頃、力の強い乱暴な牛がリーダになりました。気に入らないと追いかけてとことんまでやっつける。それでも黙って従っていた牛たち、やっぱり畜生じゃなと思いました。
ところが何年かして彼女は体力が落ち始めました。そして力比べにやぶれました。と3番目の牛が喧嘩を売りに登場しました。懸命に応戦したリーダ、しかしすでに1戦して体力を消耗しています。負けるべくもない戦いに敗れました。それを見ていた4番目が挑みました。そうして次々と挑戦者が登場、とうとう最下位の牛にまで敗れる始末、前日まで牛舎の最上席で寝ていたリーダは、吹雪の吹きさらしで震えていました。

”いいあさひめ号”という中型の牛がリーダになりました。気持ちが優しい牛で自分の餌箱に頭を突っ込まれても角を振って追い払うだけ、追いかけていくことはありませんでした。
私たちは牛でも手加減を知っている牛がいる、と感心したものです。
彼女も年を取り、リーダ争いに敗れました。順列が下がりましたが、驚いたことに下がり方が2-3位でした。彼女はリーダでなくなっても畜舎の最上席ではないにしても、風の当たらない屋根の下で寝ていました。優しさは自分のためなのだと理解したのはこの出来事からでした。

リーダの必須条件の一つは他人に対する優しさだと思います。ところがそれだけでリーダとは認められない、もうひとつの大きな要素があります。それが集団が生き延びてゆくための必須条件ですから。

私が書いた”愛国心を考える”という文章があります。その中に猟犬が子牛を襲った話を書きました。その時の牛群のリーダの取った行動が、リーダとはかくあるべきと教えています。次に引用してみましょう。

”何年か前、猟犬がイノシシを追って牧場に入ったことがあります。気がつくと、牛が大騒動をしていました。すわ何事と眺めると、近所の猟師が連れた3頭の猟犬が、子牛を追いかけています。猟師の話によれば、2キロほど離れた道戦峠で猪の足跡を発見して追跡しているうちに、牧場に入ったといいます。犬達は、そこで子牛の集団を発見して、追跡の相手をかえたのです。興奮した犬達は主人の制止にも耳を貸さないで、悲鳴をあげる子牛を追いかける、それを守ろうと母親が走り回る。すると、それに気づいたリーダーが、群を集め始めたのです。子牛を中心にして、育成牛と呼ばれる若者の牛、お母さんに成り立ての若い牛、と群れ全体が輪になり始めたのです。壮年の牛は1番外側で角を外にむけて。
 まるで、アフリカの草原の映画を見ているようでした。そして、ボスや幹部級の牛が、3-4頭で猟犬を追いだしたのです。大きな牛が頭を下げて突進して来る、猟犬も悲鳴を上げていましたね。”

リーダの必須条件は緊急の時に何が大切で何が優先するかを瞬時に判断して行動する、この能力を欠かすできないことができないのです。前述の事件では子牛を守ることが最優先でした。その次は何をするか・・・・、その時の牛のリーダの行動は私に大切なことを教えていました。

後年、戸河内農協の組合長になれと、理事さん数人から話がありました。もちろんその任ではないと断りました。牧場の仕事をやめるきはありませんでしたから、考えたこともなかったからです。
戸河内のような小さい町では、一番偉いのが町長さん、次が議長さん、農協の組合長の順序で、町民が一歩譲る存在、それを言下に断るとは何事と思われたようです。先輩の幹事さんが後年「あの時はあんたでよかったのに」と述懐された時は返す言葉がありませんでしたが。

しかし、お断りしたのは牧場のこと以外に私の性格がありました。前述したようにリーダは緊急時には瞬時の判断が必要。ところが、私は理詰めの理科系の人間、瞬時の判断は自信がありません。遅れた判断は集団の破綻と牛に教えられています。黒子として働くなら役立っても、トップになれば集団の足を引っ張りかねない、そう信じていたのです。

そして、2011.3.11、東日本大震災が起きました。そして福島原子力発電所の大事故が発生、リーダの瞬時の判断が必要な事件が起きました。日本という集団の浮沈を決める大事件です。ところが最高責任者の管総理大臣はリーダの本質を理解できていない政治家でした。理系の大学卒を自負していた彼は、正確な判断をするためと称して自分で確認したり、意見を聞き歩いたりで、時間を浪費したのです。結果は原子炉のメルトダウン、建屋の爆発、放射性物質の拡散と最悪の結果をもたらしました。
さらに、自分の行動を正当化するためのいいわけに終始して6カ月を無駄にしました。ようやく辞任した彼が四面楚歌だったとつぶやいたとか、言ったとか。
史上最悪の宰相と評価されたのはたった一つ、彼が緊急時に瞬時に正しい判断を下すというリーダの必須能力を持てていなかったせい、もしくは持とうとしなかったせい。

無能ではない彼が、集団が生き残るための必要な人材の意味を理解して、その才能を生かしてくれたらと思うのは買いかぶりなのでしょうか?

2011.9.2 見浦 哲弥

2012年3月18日

文章を書く 2

取りとめのない文章を書き始めてずいぶん時間が経ちました。書きためた短文は50を超しました。時折読み返すと現在の自分があのころとは頭が鈍っているのがよくわかります。
私も例外なく終末に近付いている。書き残したいことが山積みになっているのに。

しかし、徒然とは言わないまでも、読み返すとなかなか面白い。平凡と思い込んでいた私の人生も小さいながら、山あり川あり谷ありで結構波乱万丈、こんなことは誰もが経験しているのだろうが、記録していないと石の下、物言わぬ墓となって忘れ去られてゆく。

友人のH君は老境に入り始めて自分史や小板の歴史を記録するとて、高いワープロを購入。意気込みは良かったが操作の習熟で躓いた。読み書きそろばんの教育が昔人間の彼には最新の電子機器は異次元の世界だった。おかげで高価な機械は使われずに押し入れの中、したがって、彼の記憶も体験も墓の下、もう面影もおぼろになった。

そこで登場の私の文章、目的は孫に読ませる、が気がついてみると、小板の歴史の語り部の役割も担っていた。
ところが人間は弱いもので都合のいいことは書きやすいが、後ろ向きの話は筆が進まない。「大畠は人の悪口を言う」とは若いころからの私への批判、あいつもこいつもと抗議してきた顔を思い出す。忘れてほしいだろうなと思うと筆が止まる。それでは真実の記録にはならぬと気力を振り絞るのだが弱気に。ここにも人生の終わりの兆候が出てきたような気がします。

さて、そういうことで
たとえマイナスでも、悪口ととらえられても実際に起きたことは勇気を出して書くことにします。公開するかどうかは別にして。

小板集落の記録屋としての役割も果たすことを目標に。。請うご期待。

2011.8.28 見浦 哲弥

2012年2月22日

TPPについて

”衣食足りて礼節を知る”ということわざがあります。日本人ならよく知っている言葉です。世界の人口が70億人を超えた現在、この人たちに十分に食料を提供することが可能なのか不可能なのか、を考えることがこの問題の基本です。

私が子供のころは、世界人口は21億とか25億とかいわれていました。あれから農地の新開発や品種改良、農薬の普及などで食料の生産は飛躍的に増加しました。
しかし生産の増加を上回る速度で人口が増え、食事の内容工場で農産物の需要も増加したのです。アメリカをはじめとした穀物輸出の主要国では余剰農産物が問題になったのはそう昔のことではありません。ところが最近は世界のどこでも余剰農作物の話はありません。その中で米が余ると大騒ぎをしているのは日本だけ、しかも食料の自給率は40%をきるというのに、対策が後手に回って、足らなければ輸入すれば、との議論が主役なのは、農民の一人として空恐ろしい気がします。

私は敗戦直後の混乱を目の当たりにした老人の一人です。平時でも5000万人しか扶養できない日本列島に8000万の人間が押し込められたのですから、食料危機が起き、弱者が飢餓に追い込まれて死者が出たのは当然のことです。今でも広島駅の地下道に転がっていた餓死者の姿は脳裏から離れないのです。

政治は国民の衣食住を確保し、生活の安全を保障するのが仕事なのです。最悪の事態のとき、国内で自給できる食糧はどのくらいかを想定し、その対策を立てた上で貿易問題を取り上げるのが筋ではないでしょうか。今国内では農村が崩壊を始めています。社会が国家が適切な対応を怠ったがために農村から優秀な人材は流出してしまいました。
政治家も評論家も農村再建のためには資金を投入して新しい体制を作らなければと声高ですが、現在の農村にはその受け皿の人材がないのです。農業教育で若者を育てるといいながら、教えるほうはサラリーマン、教科書の内容は伝わっても農業は伝わらない。作物にしろ、家畜にしろ、農民が相手にするのは命のある生き物なのです。教科書から抜け出さない限り、成果を手にすることはない。私が見てきた小板の農業は作物や家畜をモノと見始めて崩壊していきました。牛の気持ちがわかる、稲と話ができる、そんな言葉が消えていって田畑が荒廃し農家が崩れていった、そう認識しています。

貴方はデンマークとドイツが戦ってデンマークが肥沃な国土を失って、再建のため当時不毛といわれたユトランド半島を開発して肥沃な農地とし、国家の再建をした話を知っていますか?その主役は農民学校で育てられた農民だったことを、今の日本のように、農業技術を教えてそれで農民の出来上がり、とは違う、農民が主役だったことを。

「自然は教師、動物は友、私は学ぶことで人間である」は見浦牧場のモットーですが、現在の技術万能の農業教育では本当の農業者は育たない、そう思うのです。
もちろん戦前の精神論を主張する気はありませんが、市場経済だから金儲けだけが目標というのでは、農業のような時間の積み上げが必須の産業は育たない、自然から学び、生き物の命から真理を読み取る、そんな農民が主役にならないと、日本の農村は再生しないと思うのです。

その視点から現在の農村を見ると、何のために働くか、何のために生きるか、目標を失っているように見えます。もちろん、子育て中のお父さん、お母さんは懸命に子供を育てていますが、その他の人は金、金と市場経済の亡者です。自分たちが誰に護られているかは頭にはない。
何十年か前に小板にもあった、集団で生きる、という考え方は消え去ってしまったのです。
もちろん、昔のボスどもに苦い思いをさせられたことは忘れてはいませんが、一人では生きられない、集落、自治体、国家なくしては生き延びることはできない、の意識は感じることができません。

外国では集落、部族、宗教、国家などと集団意識が強いのに、日本人はどうしたのかと思うのです。長い間の平和ボケ、権利に偏った平和教育、数え上げればきりがないでしょうが、目の前だけに右往左往している、そのひとつがTPPだと思っています。

農業は国民に食料を供給するのが仕事、国民に餓死者を出さないための政治、それに答える農民、そのためには憲法を変えてでも新しい道を模索する、TPPをそんな契機にしてほしいと思うのですが、現状では不可能でしょう。何十年かして見浦という農夫が戯言を延べていたと伝わったら、それでよしとしなければと思っています。


2011.11.4 見浦 哲弥

2011年9月13日

集落一周は 逆立ちで

昭和44年に見浦牧場は国の構造改善事業に参加しました。小板地区にある呼気誘致に60ヘクタールの牧草地を作り6戸の畜産農家と6戸の兼業農家を作る計画でした。

その事業に各農家がそれぞれ計画を立てて申請したのです。
大多数の人が2-3頭から10頭の規模なのに、私は一貫経営、子牛から肥育までの165頭飼育と計画書を出したのですよ。
それを聞いたH君、我こそは昔から牛を飼っている牛飼いぞ、こんな戯言は聞いたことがないとみなの前で笑ってみせた。「見浦はトオスケ(阿呆)を言う、そんなことができるわけがなーがな」と言ったと、友人のO君が注進してきたのです。

そして、彼曰く「それんだがのー、俺もわからんのよ、一人で165頭もどうやって飼うか、教えてくれーや。」

無理もありません。乳牛では多頭飼育は実現していました。
20頭ー40頭ぐらいを大きな牛舎で飼う、若者の夢でした。隣の雄鹿原地区では乳牛飼育をはじめる農家が増え、小さなマンサード屋根(腰折れ屋根)の牛舎がこれ見よがしに建ち始めました。私の頭にある七塚腹種畜場の牧場とはかなりの差はありましたがね。

そこへ聞いたこともない和牛の放牧飼育をやる。しかも165頭で。Hボスが見浦が気が狂ったと笑ったのは無理もありません。

昔は、小板にも30頭ばかりの和牛がいました。もちろん役牛として農耕や運搬が仕事でした。トモダヤと称する棟続きの畜舎や、ウチダヤという母屋の人間が住む部屋と隣り合わせの畜舎で飼っていました。
見浦家はウチダヤでした。6月の終わりになるとハエが大発生。ダヤと境の壁穴から人間の住居に殺到。食事時など、ご飯の上が真っ黒になる。いま思い出しても食欲がなくなります。

4月になると、役牛の活躍の場、冬じゅう暗いダヤ(駄屋:牛舎のこと)で過ごした牛は田起こしに、代掻きにと春の風物詩の一翼を担うのです。
エサも、屑米や麦、ぬか、ふすま、等が加わって上質になりましてね。牛もええもんを食わにゃー力がでんでー、と。

ところが、春になってからでは間に合わない。早すぎては太りすぎて力がでない。この辺りの按配が素人の見浦家ではわからない。冬飼いの悪かった見浦の牛が力尽きて田んぼの中で倒れて大騒ぎ、痩せてはいても重量はありましたから、泥田の中から担ぎ出すのは大変でした。
ですから、見浦が牛のことでオオモノ(大言壮語のこと)を言う、と皆が笑ったのは当然でしたね。

さて、そこで、私の悪い癖がでました。
「訓練するんよ。見浦の牛はの、”集まれ”と号令すると一列に並んで、”右向け右、前に進め”というとついてくる、だから心配はいらんのよ。」馬鹿にされたと思ったO君、怒ったのなんの。「そーがーなことは聞いたことがない、それができたら小板を逆立ちで回ってやらー。」

子供のころから動物好きだった私は、小学校4年の時に出会った、パブロフの反射条件の理論に心酔していました。サーカスの動物芸も、叔母の家の飼い犬が私によく馴れるのも、条件反射の応用、牛でも訓練すれば人間の命令に従う、と信じていました。

現に田んぼで牛を動かすのは、手綱と号令(止まれはバッ、前進はシーチョッ、チョッチョッ)で動くではないか。

さて、売り言葉に飼い言葉、牛を訓練しなければなりません。すでに数十頭いた牛群をどこから訓練をはじめるか、試行錯誤が始まりました。

最初にエサやりの合図を覚えさせなければと思いました。その合図は人間の声にするか、笛にするかを決めなくてはなりません。今日は笛を忘れたから人間の声にする、では牛が覚えるわけがないと思いました。そこで物忘れ名人の私はいつでも持ち歩いている自分の声を使うことにしました。
しかも牛にもわかる特徴ある声、連載記事”中国山地”でも話題になった、唸り声にもにた腹の底から出す「もーん」という声を使うことにしました。

訓練をはじめました。夕方の餌やりの時、必ず合図の「もーん」を使って呼びかけるのです。餌場でね。それから牛を追い集める。
最初は牛は見向きもしてくれません。1カ月たち、2カ月たっても、牛群に変化はありませんでした。さすがに3カ月になるとこれは駄目かと疑心暗鬼になりました。パブロフの理論は牛には通用しないのか、と。
O君の、やっぱりできなかったかとの高笑いを思うと気が重かったですね。

ところが3カ月目の終わりに呼び声に応じて頭を上げた牛がいたのです。
翌日は頭を上げただけでなく、周りを見まわした。これはいけるかも、と思いましたね。
3日目には、頭をあげ、周りを見渡し、そしてゆっくり帰り始めたのです。
「やったー」飛び上がって喜びたい、そんな気分でした。
帰ってみれば餌がある、翌日からは呼ぶとまっすぐ帰ってくるようになりました。それにつれて他の牛も動くようになり、全群がコントロールできるようになるのに、時間はかかりませんでした。

リーダか上位の牛を教育しさえすれば、他の牛はそれを見習う、そして全群をコントロールできる。しかしリーダが交代したら又初めから訓練か、と思うと憂鬱でしたが、群れの中に知識が保有されていました。
世代交代でリーダが交代しても、群れの中の知識がコントロールを受け継いでいく、素晴らしい発見でした。朝牧柵の扉をあけると牛舎から親牛も子牛もわれ先に草地に走りこむ。夕方大声で呼ぶと、一列になって草地から帰ってくる。「牛は学習する」と胸を張りたい気持ちでした。

O君の家からは、夕方一列になって丘を越えて帰ってくる牛の列は見えるはずなのに、逆立ちをして集落を回るという約束には一言も触れませんでした。どういいわけをするのかと意地の悪い期待をしていたのにね。

しかし、この出来事で牛は高等動物だと実感したのです。

家畜というのは、動物を人間が生きるために利用させてもらう、乳牛はミルクを肉牛は牛肉を作る能力を利用するのだと。しかし私は牛たちは高等動物、高い知能を持っている。その知能も能力、利用しない手はない。これが、見浦牧場の考え方なのです。
産肉能力(肉を作る力)だけでなく、習性や記憶力や思考力なども利用させてもらう、それで労力が節約できれば、コストダウンの大きな力になると考えているのです。
その出発点のコントロールに成功したのです。でもO君の「なんぼ見浦でも、そんなバカなこと」の発言には少々頭に来ていたので、約束だから小板中を逆立ちで回れと言ってやりたかった。

でも40年あまりたったある日、彼がひとりごとのように「あればっかりは出来るとは思わなかった」といったのを聞いて溜飲を下げたのです。

あれから長い年月が経ちました。O君も幽明界を異にしました(ゆうめいさかいをことにする:あの世とこの世とに別れる。死別する)。今では意地悪をしなくてよかったと思っています。

2009.6.23 見浦哲弥

2010年5月16日

13度

”13度”、これは、この世の中には、まだまだ見落とされている技術の隙間があって、努力すれば私のような無学な人間でも見つけることができる、それが経営に結びついて利益を生み出してくれる。その体験談です。

60年前、敗戦の混乱の中から立ち上がり始めた日本の農村に農業普及員がやってきました。食糧不足で農産物がひっぱりだこ、わが世の春がやってきたと沸き立っている農民に最新の農業技術を教えるために。
役場に駐在した技術員さんは、各集落を回って指導して歩きましたね。ある時は公民館で講義を、ある時はあぜ道で実地指導をと、当時の農村は今では想像もつかないほど活気がありました。

その中に稲作の合理的な施肥の指導があったのです。何しろ肥料は山草の堆肥と役牛の糞尿、ダル肥と呼ばれた人糞尿、ときたま配給があって硫安と呼ばれた硫酸アンモニア、カリンサンという過燐酸石灰、硫加なる硫酸カリが配給されるのですが、なにしろ使い方を知らない。
現在の化成肥料は作物ごとに3要素が配合されていて、しかもとける早さまで調整してある。何々の肥料と称するものを施しさえすれば、そこそこに生育して収量があがる、当時はそんな便利で進歩した時代ではありませんでした。

ですから、農民自身が地域の気候に合わせて、品種を勘案して、前述の単肥を配合して施さなければいけない。しかも田畑の土質によってその割合も微妙に変化させなければならない。

硫安をまいたらカラが青黒くなっての、ようできたんだが、イモチで全滅じゃった、なんてのたまう農民を教育しようと行政機関も普及員さんもシャカリキになった。そのてんやわんやぶりを想像してください。

ところが問題が起きた。普及員さんの指導で作った稲が出来が悪い。ひどいのは全滅。よくても半作以下、藁はギョウサン(注:たくさん)できたが、シイラ(注;米麦の結実しない物)が多くての、青玉や白米がおゆうて(注:多くて)の、原因はイモチ病。
農民の信頼はガタ落ち、それでも翌年は来年こそはうまいことやるで、と挑戦した連中がいた。少数でしたがね。
この現象には地域差がありましてね。暖かい地方、板が谷以南では指導が効果をあげている、松原でも小板のような被害はでなかった。

その原因はこうです。まず指導の概略から説明しますか。
肥料は作土(稲の根が張って肥料を吸収する、一般には黒土と呼ばれる耕作されている土のこと)全体に肥料を混ぜなさい。全層施肥というのですが、こうすると肥料が流れにくい、従前はシロカキの時に肥料を撒いていたので、表面2-3センチのところに肥料が集中し、空気中に水に溶かされて流亡する割合が高い、特に窒素は空気中に蒸発してしまう、だから少ない肥料を効率的に使用するために全層施肥をしなさい、こういう指導でした。

ところが、この方法で稲を作ると、まず、稲がなかなか伸びてくれない。肥料不足のような症状をしめすのです。ところが7月に入って気温が上昇するととたんに青黒く見えるほど肥料が効いて急成長を始める、本当は7月の中頃からは葉の色が引いて、茎の中に稲穂を作るために体が引き締まる大切な時期なのに、どんどん徒長する。そんな稲ですからイモチ病の得意先で発病、全滅するというパターンでしたね。

なぜ小板だけがこんなことになるのか、考えて考え抜いてもわかりません。ところがある日、田んぼにはいって冷たいな、と思ったのです。5月だというのに田んぼの深いところは氷のように冷たい。実は没落した見浦家では田仕事にはく田靴という長いゴム靴は買えませんでしたから素足でした。これが幸いした。
もしかして土の中も13度の原則が支配しているのでは、とひらめいた。
稲の生育温度は13度以上と、専門書に書いてあったのを思い出したのです。そしてこれが原因ではないかと。

植物の根は新根と呼ばれる白い新しい根が肥料や微量要素を吸収するのです。根が伸びなければ稲は肥料を吸収することができない、肥料不足を起こす。
そして小板は豪雪地帯、根雪が遅くまで消えない。小学校の入学式に本校の松原に行くと桜が咲いているのに、小板に帰ると山影にまだ残雪が残る。

土は比較的比重が大きい物質、地表から伝わる熱で作土の深いところが13度以上になって、指導どおりの効果を上げるのは時間がかかるのでは?

答えがでました。
肥料の全層施肥は取りやめて、シロカキ(注:代掻き。水田に水を引き入れ、土を砕き、ならして田植えの準備をすること。)の時にまく表層施肥に蒸発が多いとの指摘に対してどのくらい増量すればよいか、10パーセント、20パーセントと、それぞれ試験区を設けて確認をしました。
その結果、確か15パーセントぐらいが見浦家の田んぼの適量だったと記憶していますが。

稲はできました。悪口雑言の村人の期待を裏切って最高の稲が。
イモチ病で枯れるぞとの予測も、普及員さんの指導の適期の予防で防ぐことができて。
大人連中の大反感を買いましたから、私の鼻が高くなって、見たか、の態度だったのでしょうね。

しかし、この出来事で大きな人生の教訓を得たのです。

・世の中には99パーセント正しくても、1パーセントの見落としでゼロになることがあるということ。

・よそで正しくても条件が違えば、取るに足らないと思える見落としも、結果はゼロであること。

・大学や試験場でも普及員さんでも見落としはあるということ。

・見落としは、なぜ、なぜの繰り返しと注意力で私にでもみつけられたということ。

あきらめないことが条件ですが、これが、私の人生の大きな教訓になったのです。

この出来事が文章”信頼”のJさん物語や、新鋭普及員Kさんとの”技術員の農民への理論の押しつけはいけない、技術と情報の提供者であるべき”との論争に発展するのです。

遠い遠い若かりし20代、そしてその後の私の人生を決めた小さな出来事、それは今でも新鮮な教訓かもしれませんね。

今日は懸案の”13度”を書いてみました。

2009.6.23 見浦 哲弥

2010年3月6日

プラスマイナスゼロ

見浦牧場に配合飼料(トウモロコシやマイロ、ぬか、油粕、等々を子牛用、成牛用、肥育用に配合を変えて調整してある飼料)を運んでくるバルク車(ばら積みのトラック)の運転手さんの愚痴を聞くことになりました。
彼はこの定年間近、この道一筋に社会の底辺を支えたまじめな人間、娘1人の3人家族を懸命に支えて生きた、そして60歳を過ぎて晩年、ふと周りを見渡すと恵まれた環境の同年代が目について、”なんでわしばっかり厳しい人生を送らにゃーいけんのんかいの”と気持ちが暗くなってと、話されたのです。

彼が見浦牧場に飼料の配送に来始めてもうかなりの年数がたちました。これまでそんな内面的な話しをされたことはなかったのに、ふと私に愚痴を漏らされた。
これも出会いのひとつかと思って真正面から対応することにしたのです。

最近読んだ天文学の本に、宇宙は真空の中から生まれたというのがあります。
何もない真空という空間も、ある衝撃が加わるとプラスの粒子とマイナスの粒子が現れる、たまたま近くにブラックホールがあって、マイナスの粒子が吸い込まれると、プラスの粒子だけが残り、物質が誕生する、我々の宇宙はビッグバンでこのようにして誕生したと。

人間の人生も同じではないかと思っているのです。幸せなことも、運のいいことも、不幸や、辛苦の積み重ねも、加え合わせると、プラス、マイナス、ゼロになるのではないかと。

私が暮らした小さな小板もそんな見方で振り返ると、まさにそのような解釈ができる実例が山積みです。
お金持ちでわがままで自分中心であのくそたれと憤慨されたあの人も、結果は大変不幸だった。

クラスメイトで優等生で弱い同級生をいじめる奴がいました、その彼は30半ばで傷心自殺。

いじめられてもいじめられても笑顔を絶やさなかったM君は貧しいながら心豊かな老後を送っている。

友人に「お金がない、貧乏だ、不幸だ」が口癖の友人がいました。
私が「食べるだけお金があって、なんとか生活していければ、それだけでも幸せなのでは」というと烈火のごとく怒りました。「お金があれば何でもできる、なんでも買えるんだ」と。
その彼も年には勝てず、痴呆になって人生を終えました。その晩年はお金では買えなかった。彼は私の言葉を思い出してくれていたでしょうか?

人生にはお金の価値だけでは計れない、心の幸せがあります。物質的な面と精神的な豊かさを合わせて考えると、プラスマイナスゼロの方程式が成り立つと考えているのです。

そして、それがビックバンという宇宙の大原則にも一致すると思うのです。
もしかして貴方は幸せは物質的な面だけと考えているのでは?それでは前述の友人と同じではありませんか。「なして、わしゃ、ええことがないんかいの」と悔みながら人生を終えることになる。

私の人生はもう限りなく終わりに近い。思いもかけず与えられた長い時間で、周りを振り返るとこの方程式が浮かび上がってきたのです。それがプラスマイナスゼロの法則だったのです。

うまい話しのなかった私も、考えてみれば何度も死線を越えました。そう考えれば幸運のほうが多かった恵まれた人生だったのかも。喧嘩をしながらですが暖かい家庭も持てましたし。

運転手さんに申し上げました。「奥さんに不満があるのかな」「家内に不満なんかはないよ。料理のうまい人での。」「娘さんはどうですか」「孫が可愛うての。」
「それなら少々収入が少ないのは仕方がないですね、私の理屈からいうとプラスマイナスプラスで幸せなのでは」と申し上げたのです。
彼曰く、「そう考えたことはなかったの、私は幸せなのかもしれませんの」、と。

今日は、見浦風の屁理屈、人生はプラスマイナスゼロの話しを聞いていただきました。

2009.6.14 見浦哲弥

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