tag:blogger.com,1999:blog-7291727508225349552024-02-02T17:11:35.249+09:00見浦牧場の空から中国山地の雪深い山間部で黒毛和牛の一貫生産に体当たりで取り組んできた見浦牧場の元経営者とその家族が、
和牛のこと、牧場のこと、農業のこと、自然とともに生きるということ、少しじっくりお話します。koppe119http://www.blogger.com/profile/10398092846627434036noreply@blogger.comBlogger244125tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-10833896341771186872023-06-26T17:01:00.000+09:002023-06-26T17:01:20.646+09:00 国道1 9 1号線、改修工事裏話<p>もう何年昔になるだろう、国道1 9 1号線の改修工事が一時中止になった。その時、はからずも
後始末を仰せつかって、超多忙の毎日の中で、地元の説得やらお役所との折衝やらで1年を棒にふった。当時、金儲け組が新道を種に横車を押しまくって工事が中断、その連中が新道が完成し
たら昔を忘れて利便を謳歌しているのを見ると、あの時のことは忘れたかと嫌味の一つも言いたくなる。世間では珍しくはないことだが。ま、文章にして残して溜飲を下げるかと、書き残すことにしたんだ。 </p><p>前口上はこのくらいで国道1 9 1号線が建設されるとき、深入山の北側にと運動したのは我が曾祖父の亀吉爺さん、小板の将来を最優先した我儘だったかもしれないが、おかげで過疎が声高に言われて山村の崩壊が始まっても、小板集落は比較的穏やかな住民の減少で壊滅的な激変は免れた。私は亀吉爺さんの国道1 9 1号線の深入山北側コースへの無理押しが遠因の一つだったのではと思っている。その視点からすると亀吉爺さんは先見の明があった。 </p><p>ところが頂点の水越峠は海抜8 8 0メートル、ひょうたん曲がりと呼ぶ小さなつづら折りの頂上付近の急坂が降雪時の交通を妨げる。そして堀割った峠は雪のたまり場、ブルドーザーで押しても難所であることには変わらない。それは小板に遅い春をもたらす、国道1 9 1号線の最大の難所だったのだ。 </p><p>それを深入山の南側に付け替えれば最高点が海抜820メートルと峠の高さが各段に低くなる。たかが6 0メートルと言うなかれ、中国山地の脊梁を越す1 9 1号線最大の難所だったんだ。それが改修の目玉の一つだったのだから。</p><p>貴方は覚えているかもしれないが、功罪半ばの田中首相が日本を復興するには物流の効率化が大切と主張、その一つが道路を改良、整備、新設、して交通利便の改革を図らなければ日本の復興はないと、ガソリン税なる制度を作った。その内容がすごい、本体のガソリンより税金の方が高い、おまけにガソリン税は全部道路改良と新設に放り込むと云うのだからとんでもないと思ったものだ。そして至るどころで道路建設と改修が始まった。砂利道が舗装道路に、1車線が2車線に、曲線道路は直線になって建設業が1大産業になった。○○組などと云う巨大建設会社が出現し、小さな田舎町にも建設屋が乱立した。そして競争に次ぐ競争、起業をしない人間は労働者として比較的高賃金の建設業で働いた。 </p><p>ところがもう一つあってね。道路の拡幅や付替えの為の用地買収、これがゴネればゴネるほど値上げになると思い込んだ人達が出現、おまけに、そこ以外に通すところがないとなると地価が暴騰、儲けた連中がでた。金儲けの話はこんな山奥にも伝わってくる。ところが田舎の御仁が知る頃には、すでに時代遅れになっているのだが、金に目がくらむと人間は非常識になって平常心では考えられない行動に出る、そんな人が小板にも現れてね。後始末で難儀をさせられた。</p><p>1 9 1号線国道の改良工事の一つは島根と広島の県境から始まって、安芸太田町に向かって進行した。気がついてみればお隣の甲繋(こうつなぎ)集落まで到達していて、物好きにも見学に
行ったものだ。曲がりくねった1車線の道路が2車線に改良されていて、つづら折りの曲線も穏やかに、そして直線に、木造の橋は頑丈なコンクリート橋に変貌していて、凄いねと感心したものだ。 </p><p>改修が町境の道戦峠に間近になると、小板にも役場の建設課と県の建設事務所が用地買収の話でやってきた。ときは小板一番の財産家と言われた某氏がちょうど自治会長で小板の代表、用地買収で一儲けと考えたのだから、小板も運が悪い、いや後始末をさせられた私が最悪の被害者か。現地説明とて某氏が案内してここをと指差した土地は彼の所有地、しかも数箇所もあって、その1角を必ず通れと強要、曲がりくねったその路線は改良どころか改悪、第一繋がらない、案内されて呆れた係官の顔は今でも目に浮かぶ。ところがそれを聞いた住民の中から一人で決めるのは民主主義ではないとの声、あわてた某氏、道路改良の会合を開いた。その過程が、あまりにも
馬鹿馬鹿しいので欠席したのだが、出席した人が報告にきて白く、 「各人が最良と思うところに
新設道路の希望線を書き入れてくれ」と、のたまったのだとか。金儲けの話は伝わるのも早い、
自治会長氏が自分の土地のことだけで新設道路の予定線の変更を要求した話は皆さんすでに全員が御承知、遠慮することはないと自分の土地の1角を通る予定線を書き入れた、 6本だったか
9本だったか忘れたが、切れ切れの新道路の予定線が提案されたんだとか。さすがの某氏これには手を焼いた、ご自分の都合はそのままに、関係者を説得するのは不可能と思ったらしい、それで、この道路改修問題はほって置くことにしたんだとか。 </p><p>当時、 (現在でも楽ではない)危機的状態だった牧場を放り出して道路改修問題に首を突っ込むわけには行かず、危うきは近寄らずの方針が私の現実だった。ところがお隣の松原の自治会長から「小板は道路改修には興味がないらしいから、松原と板ケ谷の路線から改修をお願いする」と言ってきた。農協の合併の時に、はからずも混乱を収めた事があって、私は松原では小枝の実力者?との認識があっての申し入れ、勿論、買いかぶりだったがね。戸河内から松原にひたすら登る路線は海抜300メートル足らずの役場前から600メートルを越す虫木峠への急坂を登る難所、松原集落の早期改修の願いの強かったところだ。小板が道路改修に反対ならこちらを先に、は当然の話し。云われて、この問題は某氏が自分の都合で放置してあったな、と気がついたんだ。世話をするのは勘弁してもらいたいが、道路の改修は見浦牧場にも出荷や餌の購入で是非ともの事業、それが5~10年も繰延になるとは笑い事ではない、逃げるわけにはゆかなかった。収拾ができないと気がついた某氏が故意に放置したなと気付いたんだ。そこで松原の自治会長氏に、すぐに対策をするからしばらく時間をくれろと願ったんだ。 </p><p>ところが松原集落にもこの問題は切実、小板の対応のまずさは絶好のチャンス、簡単には譲ってはくれない。仕方がないので、松原が先行すると云うなら板ケ谷から深入山に道路トンネルを新設するように運動すると脅したんだ、あくどいとは思ったがね、板ケ谷は虫木峠の登り口、地図で確認してもらうと理解できるが板ケ谷、虫木峠、深入山を線で結ぶと正三角形、虫木峠―松原の路線は、この三角形の2辺を走る、板ケ谷と深入山をトン
ネルで結ぶと距離は1/2になる。先日、島根県の長大道路トンネルを見学に行ったばかりだから、まんざらの空論ではなかったのだが、これは格好の脅しになったね。松原氏に「判った、待つからトンネルの話はするな、その代わり小板の道路改良は速やかにやれ」と要求されたんだ。 </p><p>こうなっては逃げるわけには行かない。小板に帰って中堅のO氏とH氏にこの話をしたんだ。O氏は小さな木材業者、H氏は食品の移動販売の仕事、両者とも道路の改良は切実だった。</p><p> 両君とも話を聞いてすぐ行動した、何しろ生活がかかっている、道路改良の内情を知ったからには放っておけない、早速、某氏のところに押しかけて道路改良を促進しろと要求した。ところが何本も予定線を作り上げた原因が自分にあることは某氏もご存知で、それをすぐ解決して役場と県に交渉して 道路改良を進行させるなどとは、お坊ちゃんの某氏は恐ろしくて返事ができなかったらしい。そこで何年も放置しておいて今更できないと云うのなら自治会長を辞職しろ要求して辞任させたと。 </p><p>それから両君が今度は「どうする」と聞きにきた、時間がないから自治会の会合を開いて事情を話して私を自治会長に選挙しろ、急いで体制を立て直して役場や県と交渉しなければ道路改良
は松原が先行する、それが嫌なら直ちに行動を起こせと、だだし、O君とH君は道路委員として協力してくれることが条件だがと。勿論、お隣まで伸びてきた立派な道路を諦めて松原に先行を譲るなど、お人好しで金儲け好きの某氏以外に反論する人はいなかったとか。</p><p> 2―3日もしないうちに会合が開かれて私の要求が全部通った、そして今度はどうすると来た。勿論、ここまで来れば逃げるわけには行かない。役場に連絡して道路改良の話を進行してくれ、集落の意見は統一したと伝えたんだ。</p><p> 役場の担当者は喜んだね、県と間で言い訳に苦労していたらしい、早速、飛んできて打ち合わせ、来たっいでにと現在の大規模林道の交差点(当時は林道は建設されていなかった)付近の所有者に道路改修で用地買収の問題がおきたらどうしますかと聞きに行ったんだ。小板で2番目の 某某有力者をつれてね、ところがここの親父さん、かねてから小板の金持ちを信用していない、
上手いこと話に乗せて利用するだけで裏切るからと相手にしない、某某有力者が「ワシが立ちあって居るのだから信用して」とのたまったが「余計悪い」と話に乗ってこない、ついに役場氏、見浦を呼んで頼もうと云うことになった。そこで呼び出し、忙しいのにね、道路改修の進行を役場に申し入れている関係で行かないわけに行かない、「私が聞いたから、もし話がちがったら自分のこととして戦う」と約束、途端に親父さん「見浦さんが受けあってくれたら前向きに話す」 、と豹変、某某有力者のメンツは丸つぶれ、お陰で生涯「見浦の野郎」と恨まれたね、勿論、底辺の人たちに信頼のない某某氏の家は息子の代で傾き始めて倒産、崩れかかった巨大な藁屋根はまだ
残っているが、所有者は不明である。 </p><p>閑話休題、建設事務所がやってきた。「今度は見浦さんが代表だとか、小板の要望は何ですか」
と。 「一つだけあります、改修道路と旧国道の接点が都合とはいえ離れすぎる、できるだけ集落
の中心に近づけてもらうこと」と、お願いした。他はすべて県の方針に従うと、特に場所は指定しなかったが、小さな谷が埋められて現在の乗り入れ口になったんだ。 </p><p>工事は急ピッチで進行したが用地買収で問題がでた。杉の植林地で植えて3-4年目、2度目の下刈りがすんで伸び始めた杉林を通ると云う。流石に持ち主の親父さんが頭にきたね、そこで道路委員の3大衆の登場、ところが買収の価格には国が定めた評価基準がある、その項目に当てはめて買収金額を設定する、現場の査定員が勝手に金額を変更するわけに行かない。ところが査定価額が一律でね、何年生だから〇〇円と云う査定。貴方はご存知かもしれないが、
植林は皆伐をして枝葉は横畝に積み上げて畝の間をきれいに刈り払って苗を植える、積雪で傾いたり、食害にあったり、枯れたり、雪起こしあり、植え替えもありで、枯れ苗の捕植もする、その上、 2度目の刈直しありで、 4-5年までが一番、手がかかる、その前半があって造林した木が
やっと伸び始める、買収する植林地はその段階だった、やれやれと思ったところに買収騒ぎ、文句を言ってきたから自治会長として聞いた、買収の査定には一本一本切って年輪を数えて査定す
るのかと、査定官いわく、そこまではやらない、それなら、せめて10年くらいの年数の評価をしてもらえないか、それで終わりと云うことで、と。査定官が渋い顔をしたのは云うまでもないが、こちらの言い分を真剣に考えてくれた、それで話が纏まるのならと。ところが欲張りのご当人これは交渉次第でいくらでも値上がりできると思い込んだ、10年生ではまだ足りぬ、40年で査定しろとね、さすがに査定官も、この無理難題には承知しかねると相談にきた。「ほっておきましょう、どうせ工事は5-6年はかかる、その間に解決がつかなければ公用地の強制買収の法律を適用しましょう、地元は反対しませんよ」と。係官は喜んだね、それきり欲張り爺様のとこ
ろには係官は現れなかったとか、欲張り爺様は見浦の世話にならんでも県庁に勤めている友人に頼むと憤慨したとか、それでも工事は着々と進行、爺様期待の友人氏の世話の話が聞こえぬうちに解決したらしく、完成時に所長さんが挨拶に来て日く「大変お世話になりました、何か記念品を差し上げたいが」ときた。「滅相もない当然のことをしただけ、鉛筆の1本でも貰ったら私の信用は丸つぶれになる」と丁重にお断りしたんだ。
ちなみに申し添えるが道路用地に私の山林も買収されて2 0 0万円余の代金をえた、ところが道路問題で飛び回った関係で牧場も2 0 0万円を越す大赤字、資金ぐりで四苦八苦の見浦牧場には痛撃だったね、ゆきががりで道路改良に付き合ったのだが厳しい選択だった。 </p><p>しかし、新道で問題を起こした連中が颯爽と利用するのを見ると、嫌味の一言も言いたくなる。そして私は大人物ではなかったなと、自分に言い聞かせている。 </p><p style="text-align: right;">2021.1.18 見浦哲弥</p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-92105735448188036182023-02-21T12:10:00.002+09:002023-02-21T12:10:23.570+09:00町議選<p>お隣の元町議会議員だったご婦人が亮子くんを訪ねてきた。今年は我が安芸太田町の町議会議員の改選期である。思い出せば私も政治の師、前田先生の勧めで町会議員に立候補したことがある。見事に落選したが私の人生には幸運だった。それはその選挙で人間の裏側をまともに見ることが出来たからだ。応援をすると自己推薦でやってきて見浦には絶対投票するなと運動した自称友人がいて、将来自分が選挙に出るときに障害になりそうだから潰しておかなければとの考えだったようだ、そんな人が何人かいた。世間知らずの私が知らなかった異次元世界の一面だった。 </p><p>私は侍の子として育てられた。卑怯なことはするな、弱者には配慮をが母の口癖だった。おまけに親父さんは天下無類の正義漢で、努力する生徒には無償の補修授業を毎晩続けていた。教職を去っても教え子に出会うと異口同音に「先生には世話になって」が聞かれたものだ。私はそれが
当然のことと聞いていたのだが、人生をあるき始めると、その生き方を貫き通すのには強烈な意思の裏付けがなくては出来ないと知ったものだ。 </p><p>昭和20年の敗戦で世の中の常識が反転して何が正義かがわからなくなって、社会主義に興味 もった私は当時の社会党に入り加計の活動家の前田睦夫さんの弟子になった。党の会合で労働組合の活動家の議論(幹部連は大卒のインテリが多かったね)を聞く機会が増えて、我が身の知識の欠落を痛感、アダム・スミスの国富論、マルクスの資本論、など付け焼き刃で勉強したもんだ。ところがこれらの経済のバイブルと云う理論も現実の経済の中で四苦八苦の見浦家の実情からは理解ができなくてね、社会党の代議士大原亨先生の末端の部下となって現実の政治を教えてもらったんだ。 </p><p>あの時、一度だけ前田先生の熱心さにまけて町議選に立候補したことがある。とは言え実際の地方政治には知識がなかったので、当時、猛烈なインフレで物価の値上がりに庶民が悲鳴を上げていた頃で、このインフレで誰がどんな仕組みで庶民の懐からお金を巻き上げているか、仕組みを話して歩いたんだ。それが大変な人気になって街頭演説に行くと人っ子一人見えなくなる、行きががりでなどで選挙をするものではないな、友人に話したら「物陰を見ろ」と注意された、よく見 と家の影、物の後ろに人陰がみっしりだった。見浦の演説を聞いたと云うことがボスに知れたら、どんな圧力が掛かるか判らないと、隠れて聞いてくれたのだと云う。それを見た味方の候補者がこのまま行ったら自分が危うくなると方針を替えたのたのだとか。選挙は住民の利益を守るためにあると信じていた私だが、保守も革新も自分のために行動すると知って距離を置くことにしたんだ。いい勉強だった。</p><p>でも選挙後色んな所で叱られたな。一つは見浦先生の子供だと云うことを言わなかったこと、 2つ目は選挙で見えた人間の裏側が嫌いで、それきり政治の表側には立たなかっこと。 40年も
経って町の反対側の二郷で1度きりで選挙に出なかったと叱られたことなど、見えない信頼は大きかったようだ。政治は勉強はするものだが人間の裏側が見えてしまうのが恐ろしい。大原先生には政治を辞めるなと引き止めていただいたが私の住む世界ではなかった。先生が「農業にも人がいるからな」弟子を辞める許可を貰ったのは16年後、いい勉強にはなったがね。 </p><p>遠い遠い70年も昔の思い出、選挙があるたびに自分の判断の正しかったことを痛感するんだ。選挙は清濁併せ持つ度量がないと住む世界ではない、それには強烈な意思がいる。一度きりの私の人生をそれにかける勇気はなかったね。そして農業に人生をかけて、少しは自信をもって人に
話せる世界を持てた、そんな遠い遠い過ぎた日の決断を思い出したんだ。</p><p> 一度きりの人生、貴方も最良の道を歩かれることを心から願っている。 </p><p style="text-align: right;">2021.3.3 見浦哲弥 </p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-19710389062132717332023-02-19T11:14:00.001+09:002023-02-19T11:14:29.193+09:00運転免許終了<p>2021.2.21 運転免許の更新をしなかった。まだ運転は出来る自信はあったが老人の運転事故の報道が多発、老化で能力の低下は私も自覚していて、50キロ以上のスピードは出さないことにして注意を払ってきたのだが、やはり周囲の人からすれば90歳の老人が公道を走行するなど危険そのものと反対。その上老人の運転事故で死亡者続出と報道されれば、やはりこの
あたりで自動車運転は止めるべきと、自分に言い聞かせたんだ。</p><p>とはいえ、20代中頃にマツダの軽三輪トラックを買って院てて免許を取りに練習所に通ったのが始まりで、運動神経が劣る私には免許取得は大きな障壁でね、何度も通っては落ちて自信を失っ
たものだ。自慢するわけでは無いが、運動神経は人並み以下で周囲の連中には笑い話の種になっ
た私の弱点の一つだった。</p><p>あれから65年、新車に乗ったのは親父さんが直腸癌で看病に広大病院と小板との掛け持ち往復をしたときだけ、最初は軽三輪で往復したのだが、故障の多い中古車では身動きが出来なくてね、有り金をはたいてパプリカの新車を買った、新車を買ったのは後にも先にもこれl台、空冷の2気筒で27馬力、シートはハンモック、暖房もラジオもなくてただ走るだけ、でも信頼性の高い車で、よく走ったね。ドライブに見学にと家族で走り回った。それ以後は、トラックから乗用車、軽自動車、トラック、ダンプと様々な車を乗り回したが中古車のみ、随分ひどい車もあっ
て、牛の出荷の途中で故障、騙し騙し辛うじて家までたどり着いたこともあった。 </p><p>それでも、車のおかげで西日本だけだが多少は見聞が広がって、完全な井の中の蛙にはならなかった。私の置かれた人生では望外の見聞を得られたと満足している。</p><p>その運転免許証を失効させるのには流石に惜しくて迷いはあったね。しかし、最近のニュースに高齢者の引き起こす自動車事故の多発で死傷者の報道が話題になると、他人事では無くなって
免許証の失効を決意したんだ。</p><p>60何年に及ぶ運転歴の中で人身事故は起こさなかったから、それで良しとしなければと思っている。
しかし、小板の集落から外部へと思っても自動車の足がない今、随分と世界が狭まった感がある。私の持ち時間は後少しだが世界が自宅の周りだけになった。時折、親父さんのお墓の前で
「親父、まだ生きてるぞ」と報告する生活だけ、明日は判らないぞと思いながら。 </p><p>貧乏と言いながら自動車のおかげで多少だけれど世間が広がった。いい人生だった。もっとも現在はコンピュータを通り越して皆さん電子機器を手足のように使いこなす、私から見ると異次元世界、ま、自家用車の時代に行き合わせただけでも幸せとしなければと思うことにしている。 </p><p>大学に入学する孫の明弥のところに学校でコンピュータは必須だから購入して来るようにと通知がきた。 ザラ紙につけペンで勉強した私には現在は異次元である。</p><p>免許返納の老人が60年余りも恩恵に浴した運転免許証、失効の寂しさは思い出で補うことに
している。</p><p style="text-align: right;">2021.2.21 見浦哲弥</p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-83350473655234064622023-02-18T11:00:00.005+09:002023-02-19T10:58:35.818+09:00小さな牧場の小さな肉屋<p>2021.1.16 見浦牧場は中国山地の芸北地区にある小さな小さな牧場の一つである。この牧場を開設して60年余りになる。色々な経緯があって生涯を畜産の和牛飼育にかけようと思ったのは、まだ若かった28歳。開設時の苦労も昔話になって経緯を知る人は皆無になった。</p><p> 私は人生は出会った人々の生き方に影響を受けると信じている。七塚原牧場の現場の人達は少年の疑問に親切に答えてくれた、黒ボク(火山灰土)の話(黒い土は豊かな土と信じていた) 、馬鈴薯の2度作り、ラミー(西洋麻)収穫から機械加工まで、燕麦という飼料麦の栽培と収穫、西洋式の畑の除草の方法。私の生き方が変わったのは、あの七塚原の半年の体験からだ。</p><p>もっとも新庄にあった農兵隊山県支部では極限まで追い込まれて、絶望したことも何度もあった。そんな時に辛うじて耐えることが出来たことは両親の教えだと感謝している。 </p><p>しかし、世の中は競争だとは云うものの、対立相手の足を引っ張って勝つと云う手段を取る連中もいて一筋縄では行かないものだ。そんな連中が存在する社会の中で自分の信念に忠実に生きるためには、逆境に如何に耐えるかを学習するしか方法がない。逃げ道はなかった、辛かったと感傷にふける時間ももったいない、人生は短くて1度きりのなんだと痛感する今日この頃ではね。 </p><p>しかし、没落地主の子倅が牧場経営を目指すなどは目標が大きすぎる、小板の大多数の人達が百姓を知らない見浦が成功するわけはないと思い込んだのも当然だった。特に資産家を自認する小金持ちは高校にも行けんやつが生意気にと批判する、その舌の根が乾かないうちに、助けろと
やってきた、連中の牛に事故が起きて獣医さんが間に合わないとなると「なんとかしてくれ」とやってくる、そして応急手当が成功すると「ありゃーまぐれじゃー」と批判、その舌の根が乾かないうちに次回もとやって来る。生活に追われている貧乏な人達は誠実で金持ちがインチキとくれば結果は当然のところに帰結する、但し、徐々にね。</p><p>とは言え見浦牧場も失敗が無いわけで
はない、次々と死亡する牛が出て涙も出なかった事もあった。が負けず嫌いだけが取り柄の私
だ。原因の追求のためには努力を惜しまなかった、これだけは胸が張れる。</p><p> 何度か危機があったが牛の下痢O157に感染して衰弱した時は出入りの獣医さんが「今度は見浦さんは危ないで」と話すほど体力が低下した。流石の私も音をあげて進学を予定していた三男の和弥に家に帰るように依頼したのだ。が、彼の人生の可能性を揃み取った責任を私は忘れることが出来ない。 </p><p>幸運にも彼に好意を寄せていた亮子君が追いかけてきてくれて人生をともにしてくれた。苦難の見浦家には最大の贈り物だった。しかも3人の男の子にも恵まれた。</p><p>そこへ長女の裕子さんの府中ニュースで働いていた三女の律子さんが帰ってきて見浦の牛肉を売ると、道端に小さな加工場とお店を建設、ゼロからの加工販売を初めたんだ。律子は私の子供の中で最高に意思が強く行動的、こうだと目標を決めたらひたすらに走り出す、男尊女卑ではないが男だったら
成功者の一員に数えられたろうな。見浦牛肉のみを仕入れて加工をして、宣伝をして、販売に飛び回って。あれから何年経ったろうか、見浦牛肉の味の良さが徐々に広がって、遠くからのお客さんも来始めて、思いの外の好評で。</p><p>昔何度か行った試食肉の頒布で「子供が脂まで食べた」と云う評価に支えられて追求してきた見浦牛、霜降りの神戸牛の後追いをしないで独自路線を歩いたことは正しかったと思っている。牛肉は食品、商品である以上、見た目も必要だが、その前に安全で美味しいことが必要と牛をできるだけ自然の中で育て、外見の等級でなくて小板の自然に適応した牛を追い続けた。そして外部からの遺伝子の導入は雄牛の精子のみの方式を6 0年以上続けて作った見浦牛は独特の味を持っているのでしょうね、その価値を純真な子供の舌が教えてくれた。今その味を理解したお客さんが遠方からお店に訪れてくれる、有り難いことです。</p><p>小さな小さな見浦牧場、その中で育てた大きな夢、それをお客さんが認めてくれた、それが私の勲章なんです。それは家族の協力と私の小さな願いに協力していただいた多くの人々の善意の結果だと思っています。</p><p>有難うございました、心から感謝をしています。</p><p style="text-align: right;">2021.2.21 見浦哲弥</p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-79970501116133319212023-02-18T10:41:00.004+09:002023-02-18T10:41:29.416+09:00旅立ち<p> あと17日で90歳になる。最近の体力低下は著しくて思いの1/10にも達しない。こんな状態だから明日の目覚めがあるのか、ないかは全く不明だ。だが恐怖はない、中々人間はよく出来て
いると変な感心をしているところだ。</p><p>ともあれ90歳には何とか辿り着けそうだが、こればかりは予測どうりにはゆきそうもない。S さんの死亡に引き続いて、松原からT馬君、F雄君達、下級生の計報が届いた。皆さんは私の下
級生、それでも二人とも80歳は越えているはず、近しい人の訃報が次々と届いて寂しい限りで
ある。</p><p>悲しいことだが、これは生き物の宿命、悔やんでも仕方がない。与えられた時間を全力で生き抜いて爽快感を味あう、これしか無い。それで自分に問いかける、今日一日全力をつくしたかと。
ところが私も生物だから老化には抗えない、そうボケである。しまったあそこは、こうすべきだった、これはああすべきだったと後悔することが少しずつ増えてきて、無用な反省で時間を費
やす、そして痛感する、私は平凡な人間なのだと。</p><p>しかし、逆境で思うように行かないと飲酒に溺れる人を何人も知っている。彼らが人生の終わり
に失った時間を振り返って何を思ったか、意地悪では無いが知りたいものだ。帰らない時間を惜しむ愚はおかしたくないものだが、凡人の悲しさ、それは私にもある。 </p><p>しかし、生身の人間が90歳まで生きると様々な出来事があった。思うことの何分の一も出来なかったが、それでも身近な知人達の生き様に比べれば、それは貴重な時間になった。 2度と手に
することのない宝石の時間に、そして今旅立ちの前の最期の時を慈しみながら振り返っている。</p><p>はからすも与えられた貴重な時間、 1 0 0%有効に使ったとは言えないが、私にはこれ以上のことは出来なかった。優れた家族に恵まれた幸運をしてもこれ以上のことは出来なかった。
でも素晴らしい人生だった、俺は全力を尽くした胸を張って言える。 </p><p>いい家内に恵まれ、素晴らしい子供たちの父親になれた。親父どんとカーチャンに5 5点ぐらい
は欲しいと言えるのではないかと思っているのだが。</p><p style="text-align: right;">2021.2.4 見浦哲弥</p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-72512377935814845582023-02-18T10:33:00.002+09:002023-02-18T10:33:14.753+09:00ねこやなぎ<p>2021.1.23 まだ厳寒なのに先日から冷たい雨が降る。冷たいと言っても雨は雨、昨日今日と雪が減って重い雪に変身した。今日は堆肥置き場の除雪でカッパを着ての作業、時はまだ1
月、春は遣いから、まだネコヤナギの蕾は見えないはずと小川を覗いたら、小さな白い蕾が伸び始
めていた。自然は春を忘れてはいないなと少しばかり心が暖かくなった。</p><p>最近は天気予報も正確になって、ほぼ1 0 0%近く当たる。私の子供の頃はラジオの天気予報よ
り下駄を放り上げて、その表か裏かで判断をしたほうが正確なんて失礼なことを口にしたものだが、最近は降り初めの時間から雨量まで、ほぼ正確に予測する。もっとも日本の地形は複雑で局所的な予測の誤りは防ぎようがないが、昔を知る人間の一人として100%の信頼を置いている。</p><p>その天気予報によれば月末にもう一度、寒波が襲来すると云う。積雪で遅れた仕事が山積している身としては悪天候はなるべくこないで、私の健康維持に協力して欲しいと厚かましい願いをしている。</p><p>そこに膨らみ始めたねこやなぎの芽、こりゃぁエエことがあるかなと思ったり、衰える体を考えて春にはたどりつけないなと悲観してみたり、人間は弱い生き物である。 </p><p>しかし、自然は人間の思惑には関係なく粛々と時を進める、残った時間が判明しない私はプラスに考えたりマイナスに悲観したり。</p><p> 独り寝の私は最期は一人でだ旅立つ、その覚悟は出来ているが、本来は気の弱い私はちょっぴり寂しいだろうなと、考えたりして。 </p><p>でも精一杯生きたっもりだ。自然がご褒美に春風の時までの時間をくれないかなどと、儚い願いを持ってはいるがね。</p><p>小板の春は素晴らしい。あの爽やかな春風をもう一度味わうことが出来たら、望むだけなら誰にも遠慮はいらないはず。 </p><p>ねこやなぎの芽が大きくなり始めた。老人の堂々巡りの考えをよそに、自然の時は休むこを知らな
い。 </p><p style="text-align: right;">2021.1.23 見浦哲弥</p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-25072198728732931552023-02-18T10:21:00.002+09:002023-02-18T10:21:24.695+09:00春風<p>あと10日で2月である。2月の10日にもなると、一瞬温かい風が吹いて、春遠からじを期待する。それがあと10日の我慢である。今冬は仕事が何もかも遅れて季節に追われどうしだった。従って心にも体にも余裕がない、おまけに老齢と病後の体力低下が相まって作業の能力低下がおびただしく牧場の戦力にならない、そんな無力の私だから後何日で春風が吹くと、ひたすら
それを期待している。</p><p>ところが神様は中々のひねくれ者で我々凡人の願いとは反対のことをなさる。今年は最近にない降雪で辛うじて準備が間にあったスキー場には恵みの雪だったが、仕事の遅れた見浦牧場には最悪をもたらした。おまけに老人の私の体調はこの冬を乗り切れるかどうかが紙一重の状態にある。肺炎の後遺症、ヘルペスの不安定、その上ヘルニアときた。こんな状態にコロナの恐怖まであって、直近の生きる目標は誕生日までだが後32日もある。どうも人生の終わりは穏やかには行かないものらしい。</p><p>今日は1月20日、快晴だが気温は低い、対策がしてある水道も凍った、最近は暖冬が続いて小板にとって有り難い傾向と喜んでいたが自然はそんなに甘くない。久方ぶりの厳寒がやってき
た。寒いなと屋外の寒暖計を見れば零下1 0何度、それが日中だからたまらない。もっとも小板で体験した最低温度零下24, 5度、あまりの寒さだったので忘れられない、冷たいのでなくて
痛かったね。 </p><p>だから小板の春風は極楽の風と待ちわびる、小春日和の小板はまさに天国、その天気が1年中続くなどは夢のまた夢だが、人の性で、その夢に限りなく憧れる。</p><p>先日、亡くなったS川君の口癖は「小板はええ所で」だった。私も同感と何度も話し合ったものだ、冬がなければね。</p><p>小板の春は彼の言葉どうりの極楽、しかし、まだ当分は冬将軍は立ち去らない、気弱になった老人がひたすらに春を待ちわびているのに。 </p><p style="text-align: right;">2021.1.21 見浦哲弥</p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-5770740090520449022023-02-08T10:10:00.003+09:002023-02-08T10:10:42.414+09:00除雪で死亡事故<p> 朝、亮子君が、昨日松原で除雪機の死亡事故があったと報告、名前は発表されてないが事故のあった家はこれこれだとパソコンの画面で表示、地図と家の写真ではH君らしい、高齢者
と云うから間違いはない。松原の友人に確認したいが葬式にゆく気力もないし、ウイルス騒ぎで必要以外は集まるなの要請の中で、要注意の老人の私も動けば迷惑と云う人が多いかも知れないと、聞こえなかったことにした。 </p><p>それでも私は働く、後ろを向いたら、そこで私の人生は終わりだと。しかし、ショベルでの除雪はところによるがタイヤがギリギリのところまで川べりに近寄る。この雪のように一度に多量に降雪があると家の周りの小川はすぐにいっぱいになる。勿論、2月の後半にもなると水温も上昇して
投入した雪もすぐ消えて流れてくれるのだが、 1月では水温が低すぎて溶けるよりたまる量が多くて小川がいっぱいになる。ギリギリまで川べりに近寄って雪を押し込まないと処理が出来ない、今年はその典型的な雪なのだ。従って老化した頭脳に極限の緊張を強いての作業、疲れることは想像の以上である。 </p><p>雪国では除雪機はぜひとも持ちたい有力な機具である。ところが構造上回転部分が露出している危険な機械の一つ。小さな小板の集落でも2度も事故があった。死亡事故までは行かなかったが不注意に回転部に近づいての怪我あり、騒音で屋根の積雪が滑り始める音に気づかず下敷きになって死亡したの2件。今回の松原の事故の詳細は聞いていないが、除雪機での作業中だと聞いた。
先日、孤独死をしたS君の口癖が「大雪が降らなけりゃ、小板はエエー処ところで」だった。私も全く同感だが、物事には必ず裏側がある、毎日が雪との戦いだが、2月の10日をすぎると春の香りがただよって来る、そして2月の21日まで生き伸びれげ私の90歳まで<span>生きるという</span>目標を達成したことなる。
あと少し機械操作に気を付けて頑張ろうと思っている。</p><p style="text-align: right;">2021.1.14 見浦哲弥</p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-14358695358647588342023-02-08T09:56:00.006+09:002023-02-08T10:01:08.217+09:00 農兵隊のM上君<p>2019.11.3 見浦牧場ミートセンターへ農兵隊での同僚のM上と名乗ってお客さんが買い物に来てくれた、と店番の家内から伝言があった。が、75年も彼方での同僚、名前を記憶しているのは出身学校が近接の町村の1 0人あまりでしかない。まして旧都谷村と言えば当時の私
には外国、しかも、90近くもなると生き残っている仲間も数人でしかいない。どう記憶をたどっても彼が誰だったか思い出せないのは残念である。</p><p> しかし、農兵隊の1年は私にとって苦難の1年でもあったが、新しい農業への視点をもたらしてくれた。失う物も大きかったが得るものも大きかった。志願して行った七塚原牧場の半年がなかったら現在の見浦牧場は存在していなかった、私の人生では、それほど大きな出来事だったん
だ。敗戦後の混乱の小板を振り返ると時代の変化を認識出来なくて敗退していった人の多かったこと。私にとって農兵隊は人生の学びの世界の一つだったのだ。そこでは生き残るための戦いがあって友と呼べる人を得ることが出来なかったが、私を信頼をして生涯付き合ってくれたのはM場君ただ一人だったから。 しかし生き残るのが精一杯の敗戦直前の弱者の集団、それも平等な社会ではなく小利口や強者が力を振るう生存競争、敗戦後のより平等への道をたどった日本の社会からは想像もできない非条理の世界だった。そのなかで七塚原牧場の使役の募集があった時、それに志願したことが生涯のプラスになったのだから、逆境もまた、プラス、マイナスの世界だった。</p><p>しかし新庄にあった山県郡農兵隊の本部には楽しい思い出は皆無だったね。敗戦後、マッカーサー司令部の手前、教育機関と看板を替えて、つけ焼刃の教育が始まってからは、数学と理科が得意の私は仲間から大切にされたね。何しろ教える教官が素人、仲間も利口な奴は進学で高校(中学校)へ、勉強ができない生徒が農兵隊に振り向けられたのだから、 1 2 0人の隊員のなかで何とか先生?の話が判るやつは2-3人もいたかな。そんな状態だから、宿題でも出ようものなら大変で出来るやつのところへ殺到する。数学と理科が得意の私のところにも集まったね。もちろん、先日まで鈍いと嫌がらせ専門の連中は、さすがに来なかったが、遠くで睨みつけるだけ。おかげで、後年、私の記憶にない人まで農兵隊の見浦君と親しく声を掛けてくれる、M上君もその中の一人だったらしい。 </p><p>何年か置きに開かれた同窓会に1-2度参加したが、大部分が江の川水系の連中、太田川水系の人間は少なかったね。M上君は都谷村だったから江の川系か、申し訳ないが、彼の記憶はその程度である。しかし、何十年も覚えていてくれたことには感謝である。 </p><p>私の人生を語る時、農兵隊は良きにつけ、悪しきにつけ、強烈な思い出の宝庫である。あの極限状態の中で生き抜けたのだからと逆境でも頑張れた、その意味では私の大切な記憶である。</p><p style="text-align: right;"> 2021.1.14 見浦哲弥</p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-85321889725126632742022-11-23T14:29:00.004+09:002022-11-23T14:29:28.071+09:00 カイツブリ<p>牧場の沈殿池に飛来して来たカイツプリ、小型な水鳥が13羽が小さな池を泳ぎ回るのは愛らしかった、幸い見浦牧場は養鶏業ではないので、鳥インフルエンザにはご縁がない、伝染される心配はないので安心して可愛いねと言う、素直に眺めることができる、牧場に住み着いているカラスたちが餌にはならないかと狙うのだが、さすがのカラスも水の中では手が出ない、池の周りを取り巻くだけ、おまけに飛行速度はカイツブリの方が早い水面から飛び立てばカラス何をするものぞである。</p><p>ところが養鶏場に水鳥が伝染すると伝染病のウイルスが蔓延、鶏が死だのでと検査を受けると渡り鳥が運んだ鳥ウルスと云うことで全部の殺処分、そして埋設の報道がニュースソースにのる、越冬のため渡来する水鳥がウイルスの運び屋では対策が大変である。</p><p>最も偶蹄目の牛も野生のイノシシも偶蹄目、牛の伝染病が発生すると彼等が運び屋になると云うから、見浦牧場のような放牧形式の飼育牧場では全滅の可能性が高い、近隣に牛の飼育場がないのが唯一の頼みの綱、一種の神頼み、物事は簡単には成功させてはくれない。</p><p>牛も口蹄疫などウイルス由来の伝染病があり、何年か前、熊本の周辺で蔓延、全頭殺処分が行われた、あの時はひたすら中国地方にはこないことを祈ったものだ、放牧経営の見浦方式は伝染病には弱い、流行すると、即、羅患、全頭処理の憂き目に合う、他人事ではない。</p><p>しかしながら、野生の鳥獣を全滅させて対策するなど言い出す奴が出ないのは、人間にも常識があると云うことか、地道な消毒管理で可能性を少しでも少なくする、その努力の積み上げしかないのだ。</p><p>従って牛の伝染病に関係のない、カイツプリは降雪寸前の風物詩、5面ある沈殿池を渡り歩いて厳冬の雪の到来で水面が見えなくなるまでの時間をこの集団が羽を休める、カラスと違って愛らしい姿で水面を泳ぎ回るのは一服の絵である。</p><p>小板は厳しい気象条件の中にある。都会の快適な生活環境とは程遠いが、目を凝らせば都会人が見ることのない自然があり、生物の営みがある。その価値を認めるか、認めないかで地域への愛着心が違ってくるのだと思っている。小さな風物画のカイツブリはその自然の贈り物の一つ、しかし、間もなく厳しい冬がやってくる。それが過ぎて温かい春の日が小板に訪れるまで、凍らない水面を探して姿を消すカイツブリ、温かい春の日差しが戻って来て、彼等が北の故郷にもどる前に見浦牧場を訪れてくれる日を思い浮かべるのだが、私の命がそれまで続くかと言われると?マークになる。私も年老いた、愛らしいカイツブリの集団が泳ぐ姿を見れるか否かは神のみが知る、できれば小春日和の日にもう一度会いたいものだと願っている。</p><p style="text-align: right;">2021.1.10 見浦哲弥</p><div><br /></div>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-91606771905871521532022-11-23T14:20:00.002+09:002023-06-26T16:50:58.973+09:00 観光は世間話から<p>2015.9.26 お産の牛や子牛、育成牛用の牧草刈が私の仕事の一つです。毎日、約1トンの草刈は機械化のおかげで2時間ほどで完了します。牧場初期は刈払機で刈り、ホークで軽トラに積み込んで運ぶ、一連の作業は肉体的にも時間的にも大変でした。その草をあっという間に平らげて足らないと鳴く牛達、他家の夕食のにおいのする中、暗闇まで作業をしたことは思い出したくもありません。そんな昔は遠くなりました。 あるお爺さんの話ではないが「昔のことを思えば極楽で」、そんなきつい作業だったのです。</p><p>見浦牧場は旧国道と大規模林道に接して牧草地があります。機械化したとはいえ40年も50年も前の外国製のトラクターでの作業は道路を散策する都会人には珍しい風景なのでしょう。立ち止まるのは歩行者だけでなく、乗用車までもとまります。そんな時は機械を止めて一言二言世間話をするのです。<br />時々は温かい言葉が返って来ることがあります。それが私達、田舎人が忘れかけていることを思い出させてくれるのです。</p><p>なぜか昔から田舎の人から話しかけることは少なかったようです。方言の強いこの地方は小学生の頃から標準語を話せ、方言は使うなと教えられたせいなのでしょうか、それとも生活の違いから共通の話題がないと思ったからでしょうか、転校、 転校で違う方言を体験してきた私にはその壁がありませんでした。そして田舎の人は無愛想だなどと思ったものです。しかし、それは間違いでした。標準語の都会人に方言が日常の田舎人は気後れを感じて話せなかったかも知れません。本当は田舎の人も話し好き、都会の生の情報のように、ここ小板の日常の出来事には都会人も興味があると云うことを知らないだけでした。</p><p>一方で、都会人も自分たちの生活と異なる社会や生活のしくみに興味をもつている、ただ話しかけるきっかけがないだけでした。その扉が開かれると次々と異次元?の世界の扉が大きく開かれる、興味深々が始まるのです。でもなかなかそんな機会がない、でもきっかけさえ掴めれば立ち話からその地方の産業、歴史にまで話が繋がる、方言を気にしなければ田舎の人も話し好きなのです。</p><p>例えば、ここ芸北地区は明治の初めまでタタラ製鉄が生き残った地区、歴史のかげでは松江の尼子氏と吉田の吉川氏が商品としてのタタラ鉄を巡って争ったと云う話を聞いたことがあります。そして小板には関係のありそうな地名が数多く残っているのです。公的に道路地図記載されている道戦峠(ドウセンタオ)、その隣の島根側の集落の名前が甲繋(コウツナギ)、鎧を修理すると読める、集落をながれる小川が太刀洗川(タチアライカワ)、小板側に越して道路脇の峰が鷹の巣城、その麓が城根、その前の谷あいの小川が応戦原、その下流の分岐した小川の小さな原っぱ(現在は大規模林道が通っている)が血庭、まだある、鷹巣城の裏側に麓からは確認できない平地があって隠れ里。</p><p>こんな小さな集落にも昔をしのぶ地名が山積している、しかし住民は語り継ごうとはしないし、こんな話が都会人の興味を引くなどとは想像もしない、道端の世間話が、この小板の歴史が観光資源の一つだとは考えたこともない、いやこの話を知る住民は私で最期になりそうである。</p><p>見方を変えれば足元に色々な資源が埋まっている、この話は一例にすぎない、都会人が興味をもつ話は山積しているのに、 観光、観光と浮かれている。私は足元の資源も見つめ直して欲しいと思っている。</p><p>無価値と思っていることが立場が変われば資源であることが多い、ただ視点を替えて見つめ直す思考がない、都会が華やかだと思いこんでいるだけでは物事が正確にはつかめない、無価値と思うことが実は有用な資源かも知れない。都会の華やかさにつられないで、もう一度足元を見つめ直して欲しい、これは小板に生きた老人の提言である。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: right;">2021.1.10 見浦哲弥</p></blockquote><div><br /></div>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-26456395661684734482022-11-23T13:56:00.001+09:002022-11-23T13:56:10.381+09:00 ひらべ<p>2015.8.20 早朝、牛を飼いに牛舎に行く途中、道沿いの小板川にひらベ( ヤマメ )を見た。青年時代、水眼(水中メガネ)を片手に水中ホコを持って追っかけた魚だ。私は不器用でね、三国ではテンガマ(手長エビ)を追いかけて竹田川の浅瀬を水眼で探し歩いたものだが、なかなか取れなくて、中型の1匹をゲットしたときは嬉しかったね。ただそれを食べる方法を知らない。大家のお婆さんが食べないのならくれろと云うので差し上げたが、あの三国での川遊びの記憶は今でも鮮明で、80年の時の流れを経ても昨日の出来事のようだ。</p><p>小板に帰って大畠(見浦家の屋号)の家の前の小川は深入山から流れ出る水、清川で都会の少年の好奇心をそそる世界だったね。</p><p>小板川は三段峡に流れ込む、その流れ口が高い滝でね、本流から小板川に魚などが遡上できない、それに気づいた地元の青年たちが三段峡で釣った魚を小板川に放流したのだと聞いた。私が帰郷した頃は臥龍山にも途中の滝のため魚が遡上できないところが幾つかあって、あの谷は私が、この谷は俺が放流したと云う人の話を聞くことが出来た。小板の魚たちには少なからず人の手が加わっているのだ。地域にはそれぞれの歴史があるものだと興味を持った最初である。最も同じ川の住民でも亀さんは足をお持ちで、雨降りの日、自力で道路によじ登ってくる強者、一度発見して捕まえた。うなぎは雨降りの日、坂の小道に小さな水流が出来るとそれを利用して上流によじ登るのだと、餅の木の先輩から聞いたことがある。しかし、小板川の合流点は急すぎてそんな登り口はない。従って小板川ではうなぎは見かけたことはなかったね。もう一つ不思議なのは生活力の強いウグイを見かけないことだ、同じ仲間のドロバエ(アブラハヤ)は多いのにね。</p><p>開話休題、中でも美しい、ひらべ(ヤマメ)は宝石に見えたね、横腹の紋様に魅了されてね。それでホコ(ヤス)と水中メガネで追いかけたのだが、敏捷な魚でね、町場の少年の手には負えなかった。時たま捕まえた時は嬉しくて、塩をつけて焼いたら格別な味で、感激したものだ。</p><p>臥龍山に六の谷と云う渓流がある。松原川が空城から滝山川に流れ下るところから分流して上空城を遡る、そして人道から離れて山中に消えるのだが、2-3キロ先で大きな滝に出会い乗り越えて、向きを変え臥龍山の頂上を目指す、それが六の谷。この川も滝が大きくて魚が登れなくて、先輩が放魚したのだとか。魚影の濃い川でね、よく箱眼鏡と水中ホコを持って魚とりに行ったものだが、熊の棲家が近くにあることに気付いてからは恐ろしくて行けなくなった。しかし、大きな岩の陰の巨大なひらべの魚影を見た時は興奮したのを覚えている。</p><p>小板の川はひらべとゴギ(イワナ)の棲家、ゴギは薄猛な魚で小さな蛇をくわえて泳いでいるのを見たことがある。ゴギも美味しい魚だが敏捷で町場の少年には捕まえることが不可能に近かったね。</p><p>河川改修とて護岸を改修してからは小板川の魚影は極端に薄くなった。辛うじてヒラベとドロバエは散見するが、ゴギも、テンギリも、イモリも姿を消した。コンクリートとブロックで固めた護岸は彼等の隠れ場所を激減させたのだ。おまけにアオサギやシロサギが足繁く訪れて川をあさる。隠れ場所が少なくなった小板川は格好の餌場になったらしい。</p><p>私が帰郷して80年、小さな小川の小板川も変貌した。そして昔を知る人は私を含めても1-2人か、少年の頃の小板川は老人の記憶のなかで消えつつある。</p><p style="text-align: right;">2021.1.6 見浦 哲弥</p><p>#書きかけだった文章をようやく仕上げました。</p><p><br /></p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-61518862059702571872022-07-14T14:25:00.003+09:002022-07-14T14:32:01.637+09:00明けまして<p>2021/1/1 明けましておめでとう。あと50日生き延びたら90歳になる。ヘルペスと、ヘルニアと、常在肺炎と、左足の交通事故の後遺症、まだある、 落ち着いているが日本脳炎のウイルスが体内にいる、こんな体でも、ここまで生き残れる、有り難いとしか言いようがない。</p><p>92歳まで生きるという目標を90歳に引き下げて懸命に生きたつもりだが、少しばかり欲が深すぎた。体力の低下がこれほど大きな影響を持つとはね。誰も話してはくれなかった老化の現実、おまけに例年どおり冬も到来して歩行の困難は積雪で倍増、愛用のミニショベルにたどり着くまでが一大事業と相成った。</p><p>それでも、まだコンピュータのキーボードは叩ける。切れ切れに浮かぶ文章をより多く残そうと目下懸命の努力中、いつか誰かの目に留まるかも知れないと、僅かな希望を持っているのだが。</p><p>しかし、振り返れば90年は長い時間だ。記憶の最初は小学校に入学する年の2月、2.26事件の松尾大佐の葬儀の記憶から84年もの長い時間を見つめてきたことになる。通常、人間の老化は体だけでなく頭脳の老化も引き起こす。いわゆる老人ボケ、死の恐怖から逃れるためにね。これも長い進化の歴史のなかで取得した防衛本能、 私が接した老人達に例外は殆どなくてボケていったね。無謀にも、それに挑戦して最後まで見てやろうと考えたのだから、神をも恐れぬ所業と厳罰に処せられそうである。</p><p>しかし、その結果学んだことは、前向に生きる努力を怠らなければ、頭脳の劣化の速度は遅くなるのでは、ということだ。老人になるほど体の諸機能は急速に衰える、その速さは想像以上だったが。</p><p>前向きに生きることで、私は今、たどる指針のない道を懸命にひた走っている。毎日起こる新しい現象に、「ヘ一終わりはこんな具合にか」と感心しながらね。それに比べるとお向か重さんが心臓の血栓?で急死したのは、余計なことを考えることなく終わりを通過したのだから、幸せだったかも。しかし、最期に友人の私(思い込みかもしれないが) には一言、言い残したかったのではと想像している。</p><p>しかし、人生は苦しいことが山積みだったが、視点を替えてみれば楽しかったこと、嬉しかったことも山積みだった。幸運だけを追いかけなかった、苦難も前向きに何とか耐え抜いたおかげでだと思っている。勿論、 家族を初め多くの人々の協力のおかげと感謝をしているが、素晴らしい人生だったね。</p><p>ただ、使い抜いた体は満身創痩、最期まで気力を保てるかは不明であるが、何とか頑張りたいと思っている。</p><p>最期に支えてくれた家族に、 先生方に、友人達に感謝の言葉を残さなくては、有難うとね。</p><p>本当に有難う、そして残る人達の幸せを心から祈っている。</p><div style="text-align: right;">2021.1.5 見浦 哲弥</div>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-38658918095446321852021-11-09T14:57:00.000+09:002021-11-09T14:57:57.466+09:00 重さんが死んでいた<p>2020.12.29 お向かいの一人暮らしの重さんが死んでいた。私の晩年のよき友だった重さんが推定2日前に死んでいた。ショックである。</p><p>最近、時々姿が見えないことがあって、85歳の彼も年取ったなと見ることもあったが、私より5歳も若い、当然、 私の終末が早いと決め込んで、時折の姿が見えない時も、今日は早仕舞かと気にもかけなかったのに、朝、西田君とコッチャンが「Sさんが死んでいる」と飛び込んできて大騒ぎとなった。</p><p>昨日、彼の松原の同級生のT君が、S君がいないと尋ねて来て立ち話をしたのだが、まさか死んでいるとは思いもしなかったね。</p><p>原因が不明で孤独死となれば警察が出動、一般人は手が出せない。警察が来て救急車もやってきて死亡診断書の作成のため病院へ。おまけに彼の子供さんは奈良県、緊急と電話をしても小板につくのは夜の9時頃になるとのこと。おまけに明日の午後は大寒波が襲来するとて、大雪と暴風雪警報がでている始末。お向かいの無人の無点灯のS家を見ていてもなすすべがない。息子さんが戻ったら集落の人に連絡をとって一応集まろうと云うことにはしたが、8時半になってもS家は無点灯、気が焦るがいかんともし難い、まさに最悪のタイミング。</p><p>重さんは心臓の血管に問題があって2箇所にステント (血管拡張の器具)を入れている。半年ごとに検査を受けて不具合を事前に察知して手当をするシステムだとか、10月にその検査を受けに行くと言っていたのだが、帰宅しても変わった様子が見えなかったので長生きをするなと思っていた矢先、最近体の各所に異常が起きて不安感いっぱいの私が後になろうとは思っても見なかった、まさに一寸先は闇、 人の命は儚いものだ。</p><p>大阪で大型トラックの運転手として働き、 結婚して、子供さんを大学に進学させ、働きに働いた彼、親父さんの死亡を機に折角手に入れた農地を荒らすわけにはいかないと帰郷、地元の建設会社の大型トラックの運転手として長年働いた。ご存知のように小板は街の中心から20キロメートル離れていて、冬は積雪の多いところ、そこからの通勤は普通なら不可能に近い、それを軽トラの4輪駆動車を駆って通ったのだから根性である。母親を看取って、奥さんの癌との戦いに明け暮れて、疲れていた彼の自慢は、腕のいい石工さんだった親父さんに仕込まれた腕。 彼の自宅が小板の氏神さんの入り口にある関係で、お宮と私有地の境界は土を削っただけではっきりしていない、この境界を石積みしたいが彼の口癖だった。 あまり熱心なので、私は忙しいので石積みの手伝いは出来ないが、使う石は私が提供しようかと提案したんだ。彼、本当に持ってきてくれるかと乗り気になってね。ちょうど大規模林道の餅ノ木峠の残土を牧場に埋める話があって、その中から石垣に適した石を選び出して運べばと云うことになって、彼が石を積む役、私が石を選んで境内までダンプで運ぶ役、私もまだ若くて元気だったが大変だった。石が境内に運び込まれると彼が懸命に石積み、現在の小板のお宮になったんだ。</p><p>彼の努力を知っている私は、寄進の額を神殿に掲載しろと神楽団のボスに要求、神殿の壁を見渡すと”寄進、誰々" と書かれた板額が目に入るはずだ。主役は重さん、私達は手伝い、それを文字の大きさで表わせと要求して、以来、小板のお宮は重さんを無視しては何もできなくなった。で、 境内で二人きりになるときは、あの時、石垣を作ってよかったなと話し合ったものだ。</p><p>それから重さんの私への信頼度が変わったような気がする。まもなく集落の人数が減りはじめたとき葬式は家々で個々の責任ですることと、当時の自治会長と新任のボスが決定、息子の和弥と随分反対したのだが、俺達がボスで決定したから余計なことを言うな、と受け付けない。そうしているうちに新たに小板に定住したお家のおばーさんが死んで、小板では葬儀はこの方法でやると押し付けて強行、あとで身内の人に聞くと寂しい思いをしたのだとか。そこで放っておけなくて私がお葬式の同行(どうぎょう:自治会等で葬儀の運営全般をお手伝いすること)再建に乗り出したんだ、相棒に重さんを選んでね。二人で見送った人は10人を越すはずだ。減りゆく住民では出来る手伝いは限られてはいたが、皆で見送る方式は再現された。そして重さんは名実ともに小板の実力者になった。</p><p>彼とは色々な仕事をした。死んでやると雪山に入ったH君を二人で救出したこともある。あの時は、スキー場の事故の救援で集落で動けるのは私と彼の二人、人命には替えられないと雪山に入った。H君は助けたが、彼も私も疲労は極限、 危うく倒れるところだった。</p><p>力を合わせてこの小さな集落を守ってきた。振り返ってみれば彼は自分の親、 兄弟、家族のために人生の殆どを費やしたように見える。粗削りに見えるが優しさを秘めていた彼、私の数少ない親友の一人だった。</p><p>大切な友が先立った。5歳も年長の私がまだ生き残っているのに。道路端の日だまりに椅子を並べて「小板はええところよの一」と語り合った日は思い出の中に消えた。5歳年長の私はまもなく後を追う。そして別の世界で「あん時はの一」と世間話を語るのを楽しみにして暫しの別れに耐えようと思っている。</p><p style="text-align: right;">2020.12.31 見浦哲弥</p><p><br /></p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-43880274508634437232021-11-08T19:48:00.002+09:002021-11-08T19:49:35.336+09:00田舎も流行<p> 2015.11 住民の流出で衰退した経済を何とか立て直そうと田舎が懸命に知恵を絞っています。でも私には上滑りに見えるのですが、そんな感じの地方再生です。</p><p>我が町でも新商品が出ては消え、消えては出現する、そんな繰り返しが何度かありました。木工品あり、農産物あり、漬物あり、様々でした。そして最初はマスコミも華やかに報道してくれる、役場の有線もこれこれしかじかと放送する、これは本物かと思っていると何時の間にか話が消えて話題にもならなくなる、 その繰り返しでした。そろそろ本物が登場してもいい頃だと思っているのですが。</p><p>現在の日本は資本主義経済の時代です。またの名を競争経済、資本の大きさで相手に打ち勝勝つのか、一歩先を歩いて先行利潤を手に入れるのか、この二択しかありません。この集落の自称お金持ちが資金に物を言わせると競争に参入して、間もなく敗者になり無産階級に転落したのは、何億円規模の資金だけでは競争ができる金額ではないことを知らなかったためです。</p><p>日本経済が発展するにつれ、資本だけで競争に勝つためには、私達が想像も出来ない大きな額が必要になっていたのです。そして資本家と呼ばれる階層の人たちと労働者と呼ばれる無産階級の人たちに分化していたのです。しかし無産階級とはいえ持ち家があり、ささやかな近代家具を持ち、子供たちに高等教育を受けさせることが出来て、自分たちは無産階級ではないと信じている人たちから、全く資産を持たない本当の無産階級の人達まで様々です。 しかし、日本は大部分の国民が自分たちの生活は向上したと認識できる社会を作り上げたと満足している、大部分の国民がそれで良しとしている、その意味では日本は平和国家です。しかし、その平和を続ける為には何をなすべきかの意見を聞くことは非常に少ない、そんなことでは、平和がいつまでも続くとは思えないのです。</p><p>でも小さな小板のような集落ではこんな社会論は適用されないと貴方は思うかもしれませんが、現実にはいくつも起きたのです。そして分限者(ぶげんしゃ:金持ちの意)と呼ばれた人達が次々と破滅して無産階級に落ち込んでいったのです。しかも一般の人達よりは高い教育をうけていて、無知だとは言えない人達が例外もなく破滅していった。私はなぜかと何度も何度も考えたものです。</p><p>そして彼らの共通しているのは肉体労働を極端に嫌っていたことだと気づいた、それは小板だけの特殊な現象だったかもしれませんが、少なくとも私の周辺では例外はなかった。</p><p>さて、どうすればいいのか、それは私たちの生産した品物を買ってくれるのは誰かと考えることです。それが農協や市場だと考えると現実が見えなくなります。たしかに農協や市場に出荷して代金が入ってきますが、それはただの中継ぎでしかない。本当のお客さんは末端の消費者以外ではありえません。しかし、消費者にも大会社の原料部門から、サラリーマンの奥さんまで数多くあります。その誰に買ってもらうのか?、その相手によって生産する商品の品質が違い、数量が決まります。ところが一般の農家の人は物が出来たけーと農協に持ってゆく、市場の卸問屋に持ってゆく、それだけで満足の行く代金が手元に入ると考える、実際には商品が不足している時には有り得ますが、それは物が不足して、国民が飢えに苦しんだ頃のお話です。様々な商品、 もちろん食品から衣料品、家具、自動車に至るモロモロの品物は消費者の要求を満足させたとき以外は、需要供給のバランスで一定の価格に定着するものです。生産者のコストに関係なくです。</p><p>私達は、そんな経済システムの中で暮らしている、それを理解しなければ農民と言えども生き残ることは不可能なのに、そんな話をしてくれる農家にお目にかかることはまれでした。</p><p>食料の自給率が38%と報道されているとき、 国の底辺を支える農民がもう少しこの社会システムを理解して前向きな経営をしてもらいたいと願うのは老農夫の高望みなのでしょうか。</p><p>私は、こんな老人の迷論に反撃される人が一人でも多いことを願っています。どうすべきか、真面目に考える時期にきている、そして、底辺の人達にもっと温かく、後進国と呼ばれる国々には、もっと思いやりをと望むのは考えすぎなのでしょうか。</p><p style="text-align: right;">2020.11.12 見浦哲弥</p><p><br /></p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-88322720447584741622021-10-20T21:20:00.003+09:002022-01-13T17:23:55.725+09:00 ちぢむ頭脳<p>技輩は老人である。85歳に限りなく近づいていく。体力の衰えは先人の老人達を眺めて理解していたが、頭脳の衰えは我が身に起きるまで理解することが出来なかった。それが確実におき始めた。その変化は脳細胞の衰弱が原因の現象だと理解しているが、その衰弱が時間と共に増えてゆく。</p><p>先立った友人が、あるとき田園にトラクターを運転して出たまでは良かったが、それからの操作が全く思い出せない、これはトラクターの故障だと騒ぎになって笑い話になったことがある。この話は人ごとではなくなった。ロールにフィルムを巻こうとして操作を忘れていた時は、私にも起きはじめたと思ったんだ。人生に終わりがあることは誰よりも理解していると思っていたが、現実を突きつけられると暗然とする。</p><p>振り返ってみると本好きの私でも、その読書量の減少は自覚できるほど落ちている、しかも数式が混在すると読み進むことが出来ない。あの数学好きの頭は夢の彼方に旅立ってしまったんだ。</p><p>貧乏牧場の見浦ではトラクターが中古ばかり、50年前の機械を筆頭に3社の外国のメーカーの骨董品が稼動している。従って運転操作も多様で、ギヤレバーの位置、ブレーキの踏み具合、ハンドルの切れ味、給油の場所、オイルその他の点検場所、 機械にはそれぞれに個性がある。それを覚えるだけでも大変なのに、作業機が又多様である。先頃までは何とか頭を痛めながらこなしていたのだが、それが苦痛になり始めたんだ。</p><p>昔、人間は100億の脳細胞を持つと教えられた、しかし実際に働いているのは1/10くらいだと、あとの遊んでいる脳細胞は現役細胞が倒れた時、記億や信号を変わって記憶し判断を下すのだというんだが。</p><p>私もなるほどと思う体験をしたんだ。私が生物に関心を持ったのは、4年生の時に母の妹の貞叔母から貰った科学の本からなんだ(貞叔母は女学校の教師だった)。その中に当時発見されたばかりのパブロフの条件反射の詳しい記事があったんだ。今でも試験に使われる管を何本もつけた犬の写真は鮮明におぼえている。あれが小板に帰って、すぐ小学5年生の子供が牛を使うことにつながり、馬を使ったり、動員で暮らした七塚原の牧場で数多くのことを学んだ出発点だったんだ。ところが、それほど強烈だったパブロフの名前が完全に失念して思い出せなくなったのは40歳過ぎ、さすがに若年性の痴果かと恐怖したね。私は19歳の時日本脳炎を患って後遺症が残った、それが原因の若年性の痴果のはじまりか?とね。ところが頭文字がパ行だったことは覚えていた。それからパピプペポと繰り返したんだ、何日もね。そしてある日パブロフの文字が頭に浮かんだ。うれしかったね、痴果ではないとね。</p><p>ところが何年かして再びパブロフが消えた。前回の経験に従ってパ行の繰り返しで記憶が戻った。それからこの年になるまで何度も同じ現象が起きた。しかも、覚えている期間が短くなるような気がする。そして最初の思い出した時の感激がだんだん薄くなる。そこで考えたんだ、記憶は何個かの脳細胞の共同作業で成り立っている、その中の一個の細胞が死ぬと記憶を呼び戻すために死んだ細胞の代りに遊んでいた周りの細胞に情報を伝えて記憶を再生する、その繰り返しで記憶が残って行くのだと。</p><p>ただ、5歳の時経験した2.26事件での出来事は80年経った現在でも鮮明だ。あの深夜の松尾大佐の(岡田首相の身代わりになって自ら反乱軍の銃口の前に出て死んだ軍人、私とつながりがあるとか)葬儀、あの灯火は鮮明に脳裏に残る。よほど強烈なインパクトで記憶されたのだろう、動員された脳細胞の数はけた外れに多いのかもしれない。</p><p>ともあれ脳細胞減少の現実は本人も実感している。様々な対応でしのいではいるものの、日に日に進行することはあっても回復することはない、生物の宿命である。この上はゆっくり考えることを最優先で衰えた頭脳でも判断は正確でありたいと願うのみである。</p><p style="text-align: right;">2020.12.08 見浦哲弥</p><p style="text-align: right;">お元気ですか、長らく眠っていた文章を仕上げました。</p><p><br /></p><p><br /></p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-33253798244483991572021-10-18T20:14:00.001+09:002021-11-09T15:04:05.831+09:00小板の雪景色<p>小板の冬は、おおよそ2月の10日がピークである。12月の終わりから、ひたすら寒さに向かって走り続けた冬将軍が一息をつく、それが2月の10日頃、昔の小板の住民はひたすら体を小さくして冬将軍のご機嫌を損じないようにと、その日を待った。時折、無謀にも「何を」と挑戦して事故につながった人もいて自然は非情である。私の知る限り近辺で雪で死亡の悲劇をもたらしたのが2件あった。かく云う私も死の直前まで追い込まれた事がある。大自然の前には私達は本来は無力なのだ。</p><p>私は福井市の生まれで三国港で育った。彼の地も雪国で雪は珍しくないが雪質が違う。標高のせいなのか、海が近いせいなのかは知らないが、小板に帰っての冬は異常な体験だった。人生の殆どを過ごして厳しい小板の冬が私の常識になったのだが。</p><p>貴方は雪の結晶をご存知だろう、六角形の見事な結晶を。雪国でなくても雪が降れば見ることができる。ところが雪片に目を凝らすと見る見る溶けてあの見事な造形をはっきりとは確認できない。結晶が六角形であることぐらいは見れるが写真で見る鋭角の美しい造形は運が良くても一瞬で消え去る。</p><p>ところがここ小板では中国山地の北面を駆け上がってきた水蒸気が低温と低湿度のお陰で見事な結晶を披露してくれる。その六角形の芸術品は数々の造形の違いを演じて、雪国の寒さを一瞬忘れさせる。寒さの厳しい日は結晶が崩れるのが遅くて次々と現れる造形に時間を忘れたものだ。</p><p>貴方が早起きなら新雪の雪面に様々な生き物の足跡を見る。その形で昨夜の動物たちの行動を想像する。雪に覆われた世界は動物たちにとって生き残りゲームの壮絶な戦い、しかし私達人間は足跡から動物を想像し、彼等の行動を想像する。その生き残りゲームの足跡から、こっちも負けられないと気力を振り絞る。静かな早朝の新雪は命の戦いの厳しさを伝えてくる、そんな視点で足跡を見てやってほしい。</p><p>早朝、一面の銀世界は雪国ならどこでも同じ、ではない。地形や気候、高度、湿度、温度で様々に変化する。冬も日毎に新しい側面を見せる。それを感じ取るか、取らないかで、貴方の思いも変わるだろう。都会は住みやすい、小板は住むには様々な困難がある、 しかし、目をこらせば貴方の知らなかった一面を持っている、住む住まないは別にして、貴方の知らない小板の自然を見て欲しい、これは都会で育ち、小板で人生を送った老人のささやかな願いである。</p><p style="text-align: right;">2020.12.14 見浦哲弥</p><p> </p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-15546009966435832512021-10-17T16:09:00.001+09:002021-11-09T15:05:04.664+09:00 終わり<p>2020.12.20 脳天気の吾輩も遂に最後の日を意識するようになった。長年、終わりは90歳を意識して生きてきたから(92歳を目標にしていた時あった)、別に恐怖はないが体の機能が次々と失われてゆくと、あと何日、何時間と余命を考えるようになる。</p><p>ま、後続の諸君の参考?のため私の現況を少しばかり詳細に述べてみようか。</p><p>今年の最初の入院のヘルペスは現在辛うじて進行は抑えているが、症状は快方に向かう気配はない。肺炎は食欲は増加して検査結果も良好だが、相変わらず咳もでるし、多少の痰もでる。病院の岡藤先生の診断によれば、長年住み着いた肺炎菌を絶滅させる力は私にはもうない。歩行力は激滅した。杖がなくては10メートル前後の距離が限界点に近い。しかし、杖があれば2-30メートル位は移動ができるので多少の仕事は可能。幸い小型のショベルなら乗車してしまえば1-3時間ぐらいの仕事は出来るが、両足の血行が不良で氷のように冷たくなり、こたつやアンカで温めるのに2-3時間もかかる。その原因は下肢の血管の老化と理解はしているのだが、薬で治るたぐいではないと書物にあった。何しろ90歳だからね、これも老化が原因と理解している。この文のキーを叩く左手の甲にも4センチばかりの出血斑がみえる。どこに打ち付けたかは記憶にないが大きな出血斑である。もう一つあってヘルニアが再発した。20年余り前に手術して完治、忘れていたのだが再発した等、思いつくままに取り上げてもこのくらいはある。これでは嫌でも終わりが近いと意識せざるを得ない。しかし、90年近くもの長い時間を与えてもらった幸運は感謝しても感謝しきれない。</p><p>私の家族は一時しのぎの気休めは口にしない。変人、見浦哲弥としては最高である。振り返ってみれば全てが幸運だったと思っている。有難う、 本当に有難う。</p><p>最後に私は自然に帰りたい、” 千の風になって”の歌詞ではないが、見浦牧場の空を何時までも飛んでいたいと願うのだが、欲が深すぎるだろうか。</p><p style="text-align: right;">見浦哲弥</p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-41878106815487462522021-10-16T15:49:00.000+09:002021-10-16T15:49:06.693+09:00読書<p>私は読書が好きだ。子供の頃から母から本を与えられて読書の習慣を植え込まれた。おかげで小卒の学歴ながら一応の知識を持つことができ、大卒の専門家と話してもなんとか意思が通じた。しかし、小板は山奥、中心の役場までは20キロの距離、雑誌がおいてある小さな文具店が1軒、本屋の体裁をした書店は30キロの彼方にあった。それも私が育った三国の書店の1/10にも満たない小さな小さな規模のね。10歳で小板に帰郷し敗戦1年後までの5年間が私の読書の最悪の期間だった。</p><p>戦後1年の冬、仕事ができない冬の間だけという条件で広島に働きに出た。英語の塾に通うのが目的でね。本通りの森井という文具屋さんが働き口で、夜学に通ったんだ。私が英語のラベルくらいは読めるのは、そのせいである。</p><p>働き先から泊めていただいた岡本さんの家まで帰る途中に広島駅があり、その道端で本の露天商がいた。勿論、混乱の極みの戦後である。道端のマットの上に数少ない商品を並べただけの露天商中の本屋?の中に月刊の"科学朝日”を見つけたときは嬉しかったね。乏しい財布をはたいて買ったのは云うまでもない。しかし時は戦後のインフレーションの時代、本の価格欄に次々と紙が貼られて新しい値段が表示される。朝、覗いたときは時間がないので帰りに買うことにして、その帰りには値上がりしていてね、物凄いインフレの時代だった。そんな「しまった」と思ったことは何度もあったね。しかし混乱の時代でも”科学朝日”は真面目な本でね、戦時中の空白の時間を埋めてくれた。私にとって貴重な雑誌だった。</p><p>小板は広島市から70キロあまり、道路事情は良くない。当時は行くのも1日、帰りも1日、文化には遠い地域だった。従って若者の憂さ晴らしは、神楽と田舎芝居と酒と女の子、貴重な人生の大切な時間が空転して過ぎ去ってゆく、虚しかったね。いっときは強要されて付き合ったこともあったが、振り返れば、あの時間は惜しいことをしたなと残念である。気がついて一線を画したが返って来たのは変人のレッテルだったね。</p><p>しかし、与えられた空間が時代と離れていたと悔しがっても、時は休みなく過ぎ去ってゆく、悔しかった。せめて読書ぐらいはと何度も思ったものだ。</p><p>地元の青年団の付き合いも止め、神楽団も退団して講義録や参考書を読みふけり、理解ができないときは発電所を訪れて教えを請うた。貧乏な1青年の疑問に真正面から教えてくれた人達、戦争には負けたが日本はいい国だった。</p><p>5年の歳月の積み上げは私のような凡人にも、それなりの評価をしてもらえた。</p><p>電気工事士1種の国家試験には合格したが、見浦家は私の願いを聞ける状況にはなかった。私の5年間の努力は親友のN君の発奮に資した、それだけで終わったのだが、少ばかりは役に立ったのでは。</p><p>しかし、本読みの習慣は一生残った。 科学物の雑誌や推理小説はいくら読んでも飽きることはなかったね。今、その本達が空き部屋を占領している。貧乏だった私は書架を作り収める事は叶わなかったので、一読したらダンボールの中に直行、専門書から、雑誌、 週刊誌まで至るところに積み上げてある、雨漏りの蔵の2階は古いリンゴ箱に詰め込まれた雑誌の山、古タンスには親父さんの数学の専門書が仕舞込まれいて腐り始めている、時代は変わって現代は電子の時代、コンピューターをはじめ、電子機器が氾濫、昔の書架に保存できるのは一部の金持ち族以外は困難になった。</p><p>そして、老人は自分がたどった道を思い出してはつぶやく。が、今はその声を聞く人はいない。</p><p>とにかく世の中は変わった。貧乏に追われたが私は読書と云う素晴らしい国に逃げ込む事ができた。これはこれで良しとしなければ、と思っている。</p><p>でも倉庫や物置に眠っている書籍の山、もう一度読むことが出来たら、あの希望に満ちた青春時代にもう一度、触れることが出来る、と叶わぬ夢をみる。人は愚かな弱い生き物なのだ。</p><p style="text-align: right;">2020.12.21 見浦哲弥</p><div><br /></div>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-39050424360190988882021-08-13T17:44:00.004+09:002021-08-13T17:44:56.888+09:00 ふるさと納税<p>見浦牛肉がふるさと納税に参入して何年になるか?。ミートセンターの律子(私の3女)君の奮闘で徐々に数量が増加してきたのだが、昨年末からは数量が急激に伸び始めた。時には現場が悲鳴を上げるほど多忙にと、想像してなかった急激な伸び、見浦牧場の歩み方にはかつてなかった現象が起きている。</p><p>ところが見浦牧場は小さな経営、さらに現在は経営の世代交代期とあって少々混乱している最中、商業と違って急激な伸びには対応しにくい。おまけに牧場と直販店とキャンプ場の3部門、小さな小さな経営の集合体だから、急成長には耐えられない。おかげで悲鳴を上げる部門と、辛うじてこなしている部門と、急激なユーザーの増加への対処に追われている部門と、リタイヤした老人の目から見ると大変だなとしか云う言葉がない。</p><p>しかし、考えてみると飼料効率と枝肉重量の増大を目標に改良と飼育期間の増大を追い続けた和牛飼育、本来の食味の良さより見栄えを追求するシステムに疑問を持ち続けた見浦牧場、このままで結論が出るとは思わないが、少数でもいいから見浦方式にファンが出来て欲しいと、好評なら好評の過大の評価を恐れている。</p><p>どう考えても、見浦牧場には体力を越した急激な伸びに耐える力はない、 力に応じたお客さんの数をと願っては居るのだが、老人が介入するには厳しすぎる世界である。</p><p>世の中は巨大化システムが正しいと様々な理論がまかり通っている、その一方で小規模企業は切り捨てられると、恐怖の中でひしめいている。でも私は信じている、小さな企業も生き残る道はある。野生動物は生き残るために全力で生存競争を戦っている、その姿に学ぶものが山積している、見つめれば競争の勝者の教えが秘められていると私は考える。</p><p>思いもかけずに好評の見浦牛肉のふるさと納税、つまずかないことをひたすらに願っている。</p><p style="text-align: right;">2020.12.29 見浦哲弥</p><div><br /></div>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-43531465658008788232021-08-13T16:59:00.000+09:002021-08-13T16:59:16.579+09:00 仲間<p>見浦牧場の牛の飼育方法は群飼育と言います。</p><p>ここ中国山地では、昔から役牛 (トラクターなどの代わりに仕事をする牛) として和牛が飼われていました。私も子供の頃は牛を使って田んぼを耕していましたから、7- 80年前も前の話です。その頃は1頭毎の牛房(牛の部屋)が一般的でしたが、大畠 (見浦牧場の古い屋号)では大きな牛小屋の柱に何匹も繋いで飼う大駄屋 (おおだや) と呼ぶ古い方式でした。窓も換気口もない部屋にハナグリ(鼻輸)で繋ぐのですから、 非牛道的(?) な飼い方でしたね。おまけに踏み込み式と称して、草やわらを放り込んで行く、1年に一回冬の積雪を利用して、敷料や糞を田んぼに運ぶと駄屋の底が低くなってね、それまでは刈草や牛の糞で牛小屋の底が高くなって見上げるようになる、そんな環境の牛は、今考えると悲惨でしたね。</p><p>それを今から60年ばかり前に、群飼育方式の一貫経営に切り替えたのですから大変で、次から次へと新しい出来事の連続、今までの知識は全く役にたたず、試行錯誤の連続でした。周辺の農家が「わしらーも、昔は牛を飼うとったけー、 素人の見浦とは違う」と、彼等もふたたび牛を飼い始めたのですが、如何せん役牛と肉牛の飼育は全く違う世界、問題が起きると「見浦君、済まないが見てくれ」と頼みにくる、解決すると途端に昔はこうだった「見浦は何も知らない」と批判する、人に頼ったり、自分の考えに固執したり、皆さんも大変だなと同情したりして。</p><p>役牛としての飼い方と、肉牛として利益を上げるための飼い方は全く別物なのです。同じ和牛を相手にしながら異質の考え方が必要だと言うことを理解できなければなりたたない、そんな世界だったのです。</p><p>見浦牧場も最初は上殿の家畜商から2頭、芸北町の家畜市場から2頭、北広島町の家畜市場から5頭、三次の家畜市場から2頭など、あちらこちらから買い集めた子牛と、飼えなくなったと持ち込まれた県有の貸付牛など雑多な牛の集まりでした。勿論、昔の飼い方の中で生産された1頭飼いの牛ばかりでしたね。</p><p>和牛は神経質な牛でして、乳牛と比べると集団では飼い難いと言われていました。これは見浦牧場だけでなく全国的な傾向でした。北海道の白老町から見学に来られた農家の方も、見浦牧場で和牛を集団で放牧飼育していると聞いて、自分の目で見なくては信じられないと、わざわざ確認にお出でになりましたから。</p><p>見浦の牛を見て、放牧に適するように選抜淘汰して牛を作るのが、肉牛としての和牛の基礎の基礎と知って、自分たちも考え方を変えなくてはと理解をして頂いた時は嬉しかったですね。しかし、60年以上も経過した現在もこの考えは少数派なのです。</p><p>勿論、私達の見浦牧場も初期はそんな知識の持ち合わせはありませんでした。参考にする論文は、動物の行動や習性について詳しく論じたものはありませんでした、試行錯誤、まさに試行錯誤、その為に犠牲になった牛達には可愛そうなことをしたと、今でも心が痛みます。</p><p>動物はドミネンスオーダーとテリトリーと呼ばれる相反する本能を持っています。ドミネンスオーダーとは順列のことで、仲間との集団生活の中で、力の強い個体がリーダーになり、力の順に集団の中での順位が決まります。一方、テリトリーは縄張りのことで、より広い自分の勢力範囲を守るために死力を尽くします。どの動物も、この2つ本能を一方が大きければ他方は小さいと言う形で持っているのです。</p><p>皆さんも、よくご存じのニホンザルは順位の本能が大きく、縄張り本能は比較的小さい。だから必ず集団を作り、順位を決め、リーダーを選びます。縄張りを守る本能は小さくて、僅かに食事時の餌を守る程度。</p><p>ツキノワグマは縄張りの意識が強く、繁殖期以外は個体が自分の縄張りを死力をつくして守ります。見浦牧場に時々来場する熊君は何時でも単独で行動、複数でも母親と子供のペア、同時に二頭の成獣が現れた事はありません。彼等の縄張りは5キロ四方だと聞いていますが。</p><p>最初、見浦牧場の牛群は、この順列を決める際の争いで傷つきましてね。幸い死亡事故はありませんでしたが、獣医さんのお世話になるような傷が多かったものです。そこで専門家に意見を仰ぐと角を切れとの指導。参考書を見ると「除角」という項目があり、そのための方法や道具が列挙してありました。そこで早速角切を実行、素人が生半可な知識で新しいことに挑戦するのだから、失敗の連続、 この詳細は”<a href="https://miurafarm.blogspot.com/2015/07/blog-post.html" target="_blank">角と教育</a>”の文章を読んでください。ところが集団で周年放枚するシステムが確立するにつれて喧嘩は少なくなり、順列が決れば争いも即おさまる、怪我をして治療が必要な話はどこへやら。 従って角切の話など昔話になってしまった。専門書にかなりのスペースで紹介されて重要な技術だと思ったのにね。</p><p>その認識で動物や鳥を見ると、この本能の持ち方は種によって大きく異なることがわかりました。例えば我が牧場の大害鳥のカラス君、見事に順列を守って集団行動を取る、狸君や狐君は家族単位の小集団で、そして牛は集団で暮らす動物でした。そんなことは畜産の教科書には書いてなかった、 盲点の一つでしたね。</p><p>現在でも、この性質を経営に利用しようと言う話を聞く事はありません、私の寡聞なのかもしれませんが?。大投資が出来ない私達のような小さな牧場では個々の動物の理解を深めることは、経営を続けてゆくための大切な要件の一つではと思うのですが?。</p><p style="text-align: right;">2019.12.30 見浦哲弥</p><p><br /></p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-85349823388581056932021-04-16T17:09:00.000+09:002021-04-16T17:09:04.718+09:00 波<p>2020.09.28 長い間、海を見に行く機会がなかった。小板は中国山地の頂点近くにある、どちらの海にも60-70キロは走らなくては行けない。体力が落ちてからは久しく行けなくて、何とか気力、体力がある間にもう一度海を見たいと思っていた。</p><p>今日、3女の律子君が暇が出来たので連れて行こうかと誘ってくれた。午後で気力が落ち始めていたが彼女も仕事の隙間を作ってのこと、好意には従わなくてはと彼女の自動車に乗り込んだのだが。</p><p>10年あまり前の元気な体なら気にもかけなかった益田の海は遠かったね。 途中で止めるわけには行かないし、体力の限界だった。それでも、たどり着いた益田の海は最高だった。市街から高津川を渡って2-4キロで萩につながる国道9号線は10キロばかり海岸に沿って走る、そこは日本海、遮るもののない大海から波が押し寄せてくる。</p><p>牧場をはじめて何度も困難に行き当たった、精神力が強くない私は止めようと思ったことは何度かあった、その都度、この海を見に来たものだ。日本海の荒波が後から後から絶えることなく押し寄せる、海岸で砕け散っても、次の波が押し寄せて。はじめたからは命のある限り追い続けよと教えているようにね、その波頭を見続けているともう少し頑張ってみようと思ったものだ。</p><p>あれから何十年たったのか記憶はさだかではないが、この海の押し寄せる波に何度も勇気をもらった、もう少し、もう少しとね。その益田の海は懐かしくもあり、厳しくもあり、そして私の先生でもある、最後まで全力で生きよと声をかけてくれた心の師だった。</p><p>私は地球という自然の中に生きている。生まれてくるのも、この世を去るのも私が決めるのではない、総て自然の命ずるまま。でも私は自然と会話ができる感性を持てたと思って生きた。変人見浦と評価するのは貴方の自由だが、一度は視点を変えて自分も自然の影響下にあると考えて見ることは出来ないか。考え方が広がるかもしれない、見えなかった幸せに気付くことができるかも。</p><p style="text-align: right;">2020.11.6 見浦 哲弥</p>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-63591535054613212942021-04-14T21:31:00.000+09:002021-04-14T21:31:37.635+09:00 病院食<p>2020.10.14 明日は直腸の内視鏡検査、従って今日から明日の検査のための病院食以外の食べ物は禁止となる。折角食欲が出て間食が欲しくなった現況では一種の悲劇になった。それでも仕事から手を引く気にはなれない。空腹を抱えても、秋の日は気まぐれ、仕事はできるときに片付けないと、とは長年の習性である。ところが、この直腸の内視鏡検査の準備食と云うのはチキンの入ったお粥、味はいいのだが、ごく少量で食事の内には入らない、準絶食に近い食事、これは飢餓に近い空腹である。</p><p>10.15 朝食の病院食のおも湯のような食事をして安芸太田病院へ。血液検査をしてレントゲン写真をとったら予測外のところに貧血の病巣が見つかった。内視鏡検査は中止、即入院と云うことに。そこで病院食にありつく。美味しかったね。病気や怪我は不可抗力の場合が多いが治療はできる。しかし、老化した体では回復するかしないかは神のみぞ知るで、 結果は運命に任すしかない。そして残念ながら老化は止めることは出来ない。老人は健康が第一だと痛感したね。それからは毎日の抗生剤の点滴、採血、2日毎のレントゲン撮影、血液検査、 病巣が少しずつ小さくはなっては行くが、その進行は遅くてね。それでも食事が待ち遠しくなっていた、それが回復に向かったサインだったんだ。今度は時間が気になって、90歳にあと少しの私にとって残された時間は僅かなことは確か、その時間を病室の天井を見るだけに費やすのはいかにも残念で、何時始まるかわからない頭脳の劣化は、2度ない時間が失われてゆくのを考えると1種の恐怖だったね、</p><p>この恐怖の対策の為、ボケとか痴ほうとかが1種の防衛本能として起きると考えているのだが、それが幸せか不幸かは凡人の私にはわからない。とはいえ老化の進行は止まることを知らない、おまけに体の機能の低下も同行する、昨日が出来たことが今日は出来ない、トラクターに乗り込むのも最新の注意が必要と劣化が進む、残念だが、これが老化だと理解をするしかない。で、病室で無為に時間がすぎるのが悔しくてね。そして病が回復に向かうと毎回の食事の量が足りない、次の食事の時間をひたすら待つ自分がいた。そして人間、何歳になっても食欲が出ると言うことは素晴らしいことだと気がついた。</p><p>病院食は限られた費用で決められた栄養を供給しなければならない。だから苦心の作とは思うのだが2度ほどあった小さいシシャモ (最近不漁の小魚)の千物など、高価と言われる材料の使用は調理会社のセンスを疑ったね。如何に安く如何に美味しくを追求する、プロなら当然のことなのにねと。</p><p>入院して幸い少しずつ快方に向かうにつけ、様々なことに関心が広がり始めた。私には貧しいながら、どうしてと考える経営者の素質が少しはあったのかも。</p><p>たかが入院、たかが病院食、その中にも改良点がある気がしてね。老人の戯言である。</p><p style="text-align: right;">2020.11.7 見浦 哲弥</p><div><br /></div>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-56658419187637117042021-03-28T12:52:00.001+09:002021-03-28T12:52:34.479+09:00 田舎は子供の天国なのに<p>2009.9.27 別荘のOさんが通りかかりました。わざわざ車を止めて「ヤー見浦さん」と立ち話、私の周辺には立ち話して行かれる別荘の人が多いのです。中にはブログ”見浦牧場の空から”を見ていると云う人まで現れて。</p><p>その一人、Oさんが楽しそうに「こんどの日曜日、孫の運動会での、見に行かにゃーいけんけー」と、さらに言葉を継いで「元気でね、よその子供とは全然ちがうんよ」「そりゃー、 土日に田舎で走り回りゃー、元気になるで」「ほうよ、小板に来始めて5-6年、だが人間、変わるもんよの一」 、目を細めて嬉しそうに話す彼に、先日、隣村に息子とトラックを走らせた時の会話を思い出したのです。</p><p>最近、どこの田舎を走っても荒れた田畑と空き家が目に付きます。都会へ住居を移して若者や子供達の消えた村々、時たま登校する生徒さんを見かけると「子供がいる」 と懐かしくなる、そんな農村の現状は、若者が消えて、留守を守る老人ばかり、なにしろ60代では、まだ若者と見られる、そんな田舎には女性が多い、おまけに80歳を越える男性は珍しくないのです。</p><p>そんな中で住む人がいなくなると、途端に家が腐り始める、外見は同じでも勢いが無くなって荒れた感じがして、何年かすると外見も痛み始めて、ここも無住になったのかと時代の流れを感じるのです。</p><p>私の少年の頃は、田舎は子供の天国でした。遊び場も探検場も山積みで、学校とは違った学びの場所でしたね。</p><p>お年寄りが他家の子供でも気軽に声を掛け、悪戯が過ぎると叱られました。ロやかましい年寄りには「糞爺、糞婆」と悪口をたれて、優しい年寄りには「どこどこの爺っさん、婆さん」 と敬称?をつけてね。</p><p>時代は流れて田舎の子どもたちは都会に消えた、イタズラも消えて田舎は静かになった、そして活力も消えたのです。私の知っている、 いたずらっ子はどこへ行ったのか、老人になった私は、貧しかったが活力があった昔は懐かしく、記憶の中の子供の頃をよく思い出すのです。</p><p>テレビが田舎にも普及して子どもたちが漫画にのぼせたのは、あまり昔ではない気がします。そして今はコンピュータでゲームが主役、老人の私には何がそんなに面白いのか理解が出来ません。</p><p>でもお隣に出来た小さなキャンプ場、4-5歳の子供たちが自然の中で遊び場を見つけて嬉々として走り回る、そんな姿を見ると忘れていた自然の中の昔の自分を思い出すのです。</p><p>そして、豊かになった時代の今の子供たちが本当に幸せのなのかとね。</p><p style="text-align: right;">2020.11.10 見浦 哲弥</p><p><br /></p><div><br /></div>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-729172750822534955.post-1227003395442869352021-02-25T12:36:00.000+09:002021-02-25T12:36:00.958+09:00ヘルペスと闘う<p>2020.02.14 昨夜から左の頭部から顔面が急速に腫れる。作業の流れで家の人間は都合がつかないので、キャンプ場を建設中の淑子くんに依頼して安芸太田病院に連れて行ってもらう。ヘルペス(帯状疱疹)と診断され、即、可部の安佐市民病院に入院する。友人の的場君がヘルペスで顔面が変形するほどに腫れて、1年の闘病の結果やっと落ち着いたと聞いたばかり、それが我が身に起きるとは信じられなかったね。</p><p>まだ調べてはいないが、ヘルペスは体内に潜んでいたヘルペスウィルスの一種の水疱瘡ウイルスを抑えきれなくなって発症するのだと。ウィルスを退治する薬はまだない。彼等は生物でないから、体が反応して抑え込んでいるだけだと。調べるとインフルエンザをはじめウイルスが原因の病気は数多い。かつて私が患った日本脳炎も同類である。</p><p>入院してもウイルスそのものをたたく特別の薬はない。ひたすらにウィルスの増殖を抑える点滴が毎日続くだけ。しかし、ヘルペスの領域拡大の速度は徐々に減って左眼の黒目に到達の寸前で止まって、眼科の先生が「これなら視力は戻るでしょう」と診断、危ういところだった。</p><p>老化は体力の低下ばかりか、病の抵抗力も低下する。残念ながらそこまでは気が付かなかった。現在のバランスを保ちながら徐々に衰えてゆくものと理解していた。ところが現実は抵抗力が低下した体に様々な病が押し寄せてくる。生きることは甘いものではないと警告しているようにね。</p><p>しかも、なれない病院生活を理解してゆくには努力がいった。ベッド、トイレ、車椅子、その他、エトセトラ、その対応に衰えた頭脳が悲鳴をあげる、そして失敗の連続、我ながら情けなかったね。</p><p>4人部屋の病室には、他の患者さんのご家族が次々とやってくる。そして聞くとなしに耳に入る会話で、知ることがなかったよその御家族の生活をかいまみる。それぞれの温かい会話の中で、一人娘さんに頼り切った患者さん、奥さん天下だったねの御家庭、小さな病室で聞こえてくる小さな社会の断面は私が気が付かなかった世界を教えてくれた。</p><p>入院の中にも教室があった。そして退院ができた。私に少しばかりの時間が与えられた、大切な時間をね。さてどう生きるか、最後のささやかな時間を仕事に全カ尽くしてみたいね、そして報告できれば。</p><blockquote style="border: none; margin: 0px 0px 0px 40px; padding: 0px;"><p style="text-align: right;">2020.10.05 見浦 哲弥</p></blockquote><div><br /></div>まきばの里管理人http://www.blogger.com/profile/16875607617574494216noreply@blogger.com0