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2023年2月8日

除雪で死亡事故

 朝、亮子君が、昨日松原で除雪機の死亡事故があったと報告、名前は発表されてないが事故のあった家はこれこれだとパソコンの画面で表示、地図と家の写真ではH君らしい、高齢者 と云うから間違いはない。松原の友人に確認したいが葬式にゆく気力もないし、ウイルス騒ぎで必要以外は集まるなの要請の中で、要注意の老人の私も動けば迷惑と云う人が多いかも知れないと、聞こえなかったことにした。 

それでも私は働く、後ろを向いたら、そこで私の人生は終わりだと。しかし、ショベルでの除雪はところによるがタイヤがギリギリのところまで川べりに近寄る。この雪のように一度に多量に降雪があると家の周りの小川はすぐにいっぱいになる。勿論、2月の後半にもなると水温も上昇して 投入した雪もすぐ消えて流れてくれるのだが、 1月では水温が低すぎて溶けるよりたまる量が多くて小川がいっぱいになる。ギリギリまで川べりに近寄って雪を押し込まないと処理が出来ない、今年はその典型的な雪なのだ。従って老化した頭脳に極限の緊張を強いての作業、疲れることは想像の以上である。 

雪国では除雪機はぜひとも持ちたい有力な機具である。ところが構造上回転部分が露出している危険な機械の一つ。小さな小板の集落でも2度も事故があった。死亡事故までは行かなかったが不注意に回転部に近づいての怪我あり、騒音で屋根の積雪が滑り始める音に気づかず下敷きになって死亡したの2件。今回の松原の事故の詳細は聞いていないが、除雪機での作業中だと聞いた。 先日、孤独死をしたS君の口癖が「大雪が降らなけりゃ、小板はエエー処ところで」だった。私も全く同感だが、物事には必ず裏側がある、毎日が雪との戦いだが、2月の10日をすぎると春の香りがただよって来る、そして2月の21日まで生き伸びれげ私の90歳まで生きるという目標を達成したことなる。 あと少し機械操作に気を付けて頑張ろうと思っている。

2021.1.14 見浦哲弥

2021年8月13日

ふるさと納税

見浦牛肉がふるさと納税に参入して何年になるか?。ミートセンターの律子(私の3女)君の奮闘で徐々に数量が増加してきたのだが、昨年末からは数量が急激に伸び始めた。時には現場が悲鳴を上げるほど多忙にと、想像してなかった急激な伸び、見浦牧場の歩み方にはかつてなかった現象が起きている。

ところが見浦牧場は小さな経営、さらに現在は経営の世代交代期とあって少々混乱している最中、商業と違って急激な伸びには対応しにくい。おまけに牧場と直販店とキャンプ場の3部門、小さな小さな経営の集合体だから、急成長には耐えられない。おかげで悲鳴を上げる部門と、辛うじてこなしている部門と、急激なユーザーの増加への対処に追われている部門と、リタイヤした老人の目から見ると大変だなとしか云う言葉がない。

しかし、考えてみると飼料効率と枝肉重量の増大を目標に改良と飼育期間の増大を追い続けた和牛飼育、本来の食味の良さより見栄えを追求するシステムに疑問を持ち続けた見浦牧場、このままで結論が出るとは思わないが、少数でもいいから見浦方式にファンが出来て欲しいと、好評なら好評の過大の評価を恐れている。

どう考えても、見浦牧場には体力を越した急激な伸びに耐える力はない、 力に応じたお客さんの数をと願っては居るのだが、老人が介入するには厳しすぎる世界である。

世の中は巨大化システムが正しいと様々な理論がまかり通っている、その一方で小規模企業は切り捨てられると、恐怖の中でひしめいている。でも私は信じている、小さな企業も生き残る道はある。野生動物は生き残るために全力で生存競争を戦っている、その姿に学ぶものが山積している、見つめれば競争の勝者の教えが秘められていると私は考える。

思いもかけずに好評の見浦牛肉のふるさと納税、つまずかないことをひたすらに願っている。

2020.12.29 見浦哲弥


2021年4月16日

2020.09.28 長い間、海を見に行く機会がなかった。小板は中国山地の頂点近くにある、どちらの海にも60-70キロは走らなくては行けない。体力が落ちてからは久しく行けなくて、何とか気力、体力がある間にもう一度海を見たいと思っていた。

今日、3女の律子君が暇が出来たので連れて行こうかと誘ってくれた。午後で気力が落ち始めていたが彼女も仕事の隙間を作ってのこと、好意には従わなくてはと彼女の自動車に乗り込んだのだが。

10年あまり前の元気な体なら気にもかけなかった益田の海は遠かったね。 途中で止めるわけには行かないし、体力の限界だった。それでも、たどり着いた益田の海は最高だった。市街から高津川を渡って2-4キロで萩につながる国道9号線は10キロばかり海岸に沿って走る、そこは日本海、遮るもののない大海から波が押し寄せてくる。

牧場をはじめて何度も困難に行き当たった、精神力が強くない私は止めようと思ったことは何度かあった、その都度、この海を見に来たものだ。日本海の荒波が後から後から絶えることなく押し寄せる、海岸で砕け散っても、次の波が押し寄せて。はじめたからは命のある限り追い続けよと教えているようにね、その波頭を見続けているともう少し頑張ってみようと思ったものだ。

あれから何十年たったのか記憶はさだかではないが、この海の押し寄せる波に何度も勇気をもらった、もう少し、もう少しとね。その益田の海は懐かしくもあり、厳しくもあり、そして私の先生でもある、最後まで全力で生きよと声をかけてくれた心の師だった。

私は地球という自然の中に生きている。生まれてくるのも、この世を去るのも私が決めるのではない、総て自然の命ずるまま。でも私は自然と会話ができる感性を持てたと思って生きた。変人見浦と評価するのは貴方の自由だが、一度は視点を変えて自分も自然の影響下にあると考えて見ることは出来ないか。考え方が広がるかもしれない、見えなかった幸せに気付くことができるかも。

2020.11.6 見浦 哲弥

2021年4月14日

病院食

2020.10.14 明日は直腸の内視鏡検査、従って今日から明日の検査のための病院食以外の食べ物は禁止となる。折角食欲が出て間食が欲しくなった現況では一種の悲劇になった。それでも仕事から手を引く気にはなれない。空腹を抱えても、秋の日は気まぐれ、仕事はできるときに片付けないと、とは長年の習性である。ところが、この直腸の内視鏡検査の準備食と云うのはチキンの入ったお粥、味はいいのだが、ごく少量で食事の内には入らない、準絶食に近い食事、これは飢餓に近い空腹である。

10.15 朝食の病院食のおも湯のような食事をして安芸太田病院へ。血液検査をしてレントゲン写真をとったら予測外のところに貧血の病巣が見つかった。内視鏡検査は中止、即入院と云うことに。そこで病院食にありつく。美味しかったね。病気や怪我は不可抗力の場合が多いが治療はできる。しかし、老化した体では回復するかしないかは神のみぞ知るで、 結果は運命に任すしかない。そして残念ながら老化は止めることは出来ない。老人は健康が第一だと痛感したね。それからは毎日の抗生剤の点滴、採血、2日毎のレントゲン撮影、血液検査、 病巣が少しずつ小さくはなっては行くが、その進行は遅くてね。それでも食事が待ち遠しくなっていた、それが回復に向かったサインだったんだ。今度は時間が気になって、90歳にあと少しの私にとって残された時間は僅かなことは確か、その時間を病室の天井を見るだけに費やすのはいかにも残念で、何時始まるかわからない頭脳の劣化は、2度ない時間が失われてゆくのを考えると1種の恐怖だったね、

この恐怖の対策の為、ボケとか痴ほうとかが1種の防衛本能として起きると考えているのだが、それが幸せか不幸かは凡人の私にはわからない。とはいえ老化の進行は止まることを知らない、おまけに体の機能の低下も同行する、昨日が出来たことが今日は出来ない、トラクターに乗り込むのも最新の注意が必要と劣化が進む、残念だが、これが老化だと理解をするしかない。で、病室で無為に時間がすぎるのが悔しくてね。そして病が回復に向かうと毎回の食事の量が足りない、次の食事の時間をひたすら待つ自分がいた。そして人間、何歳になっても食欲が出ると言うことは素晴らしいことだと気がついた。

病院食は限られた費用で決められた栄養を供給しなければならない。だから苦心の作とは思うのだが2度ほどあった小さいシシャモ (最近不漁の小魚)の千物など、高価と言われる材料の使用は調理会社のセンスを疑ったね。如何に安く如何に美味しくを追求する、プロなら当然のことなのにねと。

入院して幸い少しずつ快方に向かうにつけ、様々なことに関心が広がり始めた。私には貧しいながら、どうしてと考える経営者の素質が少しはあったのかも。

たかが入院、たかが病院食、その中にも改良点がある気がしてね。老人の戯言である。

2020.11.7 見浦 哲弥


2021年2月25日

ヘルペスと闘う

2020.02.14  昨夜から左の頭部から顔面が急速に腫れる。作業の流れで家の人間は都合がつかないので、キャンプ場を建設中の淑子くんに依頼して安芸太田病院に連れて行ってもらう。ヘルペス(帯状疱疹)と診断され、即、可部の安佐市民病院に入院する。友人の的場君がヘルペスで顔面が変形するほどに腫れて、1年の闘病の結果やっと落ち着いたと聞いたばかり、それが我が身に起きるとは信じられなかったね。

まだ調べてはいないが、ヘルペスは体内に潜んでいたヘルペスウィルスの一種の水疱瘡ウイルスを抑えきれなくなって発症するのだと。ウィルスを退治する薬はまだない。彼等は生物でないから、体が反応して抑え込んでいるだけだと。調べるとインフルエンザをはじめウイルスが原因の病気は数多い。かつて私が患った日本脳炎も同類である。

入院してもウイルスそのものをたたく特別の薬はない。ひたすらにウィルスの増殖を抑える点滴が毎日続くだけ。しかし、ヘルペスの領域拡大の速度は徐々に減って左眼の黒目に到達の寸前で止まって、眼科の先生が「これなら視力は戻るでしょう」と診断、危ういところだった。

老化は体力の低下ばかりか、病の抵抗力も低下する。残念ながらそこまでは気が付かなかった。現在のバランスを保ちながら徐々に衰えてゆくものと理解していた。ところが現実は抵抗力が低下した体に様々な病が押し寄せてくる。生きることは甘いものではないと警告しているようにね。

しかも、なれない病院生活を理解してゆくには努力がいった。ベッド、トイレ、車椅子、その他、エトセトラ、その対応に衰えた頭脳が悲鳴をあげる、そして失敗の連続、我ながら情けなかったね。

4人部屋の病室には、他の患者さんのご家族が次々とやってくる。そして聞くとなしに耳に入る会話で、知ることがなかったよその御家族の生活をかいまみる。それぞれの温かい会話の中で、一人娘さんに頼り切った患者さん、奥さん天下だったねの御家庭、小さな病室で聞こえてくる小さな社会の断面は私が気が付かなかった世界を教えてくれた。

入院の中にも教室があった。そして退院ができた。私に少しばかりの時間が与えられた、大切な時間をね。さてどう生きるか、最後のささやかな時間を仕事に全カ尽くしてみたいね、そして報告できれば。

2020.10.05 見浦 哲弥


2021年2月3日

巨大な猪家族

元スキー場の草刈りで巨大な猪家族に出会った。50メートルも離れていたかな。巨大な成獣のペアと仔猪が4頭。人間がいると確認しても逃げないのだから、小板も野獣の天下になり初めた。仔猪は懸命に餌探しだが、巨大なペアは時おり顔を上げてこちらを確認をするだけ、人間のほうが飲まれてしまってね。本来ならトラクターに飛び乗ってその場を離れるべきなのだが、奴さんたちの行動に注意を集中してしまって、彼等がやぶの中に消えるまでをただ見つめるだけ。消えてから危ないと感じたのだから私ももうろくした。

小板も豪雪の時期が過ぎて暖冬が続くようになった。そのせいで昔は見なかった動物までご機嫌伺いにやってくる。サギもその一つ、アオサギとシラサギが二羽か三羽、お陰で小板川の小魚は激滅してたまにしか見かけない。少しは遠慮してくれと声をかけたくなる。

ただ、あれほどいた兎は見かけなくなった。冬の朝は彼等の特徴ある足跡が雪面一杯に広がっていたものだが、最近は年に1一2匹見かけるだけ。ところが猪はバツグンに増え、牧草地を初め道路端まで、およそミミズがいそうなところは徹底的に掘りまくる。普通の田畑は電柵を設置しないと収穫皆無になるありさま、おまけに日中でも見かけることが多くて、人間何するものぞの勢いである。これでは年老いた住民が集落から逃げ出すのも無理はない。

ところが小板で見かけるのは、この一家族だけでない。我が家の近くでも5頭のウリ坊(縞模様の残る仔猪)を連れた一族を確認したと家族が報告、とんでもない非常事態が発生しているのだ。

かっては2-3人もの猟師がいて獣を追い回していたのに、老齢化で一人もいなくなってから小板は彼等の天国と相成った。少数になった人間様は被害におののくだけ、幸い事故は先年、熊に引っかかれた1件だけで、幸いと云うしかない。

さて、見浦牧場はこれからこの野獣たちとどう付き合ってゆくのか、老人は大いに気がかりである。

2020.09.26 見浦 哲弥


2021年1月18日

私とウイルス

コロナウイルスが世界中で暴れまわって順調だった世界経済は大混乱、コロナ対策とて外出の制限、集団会食の禁止?、等々、経済も急激な減速で、見浦牧場にも牛価の低下で甚大な影響が及んでいる。

コロナウイルスの出現で忘れていた私のウイルス歴を振り返ることになった。日本脳炎を初めとして麻疹やインフルエンザ等等、数多くある。病気は細菌によるものと単純に思い込んでいたが、振り返ってみたら投薬無しで何日も補液だけの治療が続いたことが何度もあった。あれがウイルスが元凶だった病気と最近勉強、少々気づき方が遅すぎる。

ところが昨年の11月、ヘルペス(帯状疱疹)を発症した。3日で前頭部の1/3と左目の付近まで患部が広がった。最初は細菌による化膿症かと思ったのだが広がり方が異常。実は一昨年、友人のM君もヘルペスを発症、顔が変形して入院したと開いたが、私には関係ないと開き流していた。ところが、嫁の亮子君が私の症状はヘルペスではないかと言い出した。これには驚いて安芸太田病院に駆け込んだんだ。診察した先生「ヘルペスですね、入院しますか」 と。相手がウイルスともなると抗生物質でと云うわけには行かない。翌日、可部の市民病院の4階に入院して闘病が始まったんだ。

貴方も御存知の通りウイルスには抗生剤は効かない。奴さんは細菌でないから、ひたすら体が耐性を思い出す時間を稼ぐしかない。その時間内で体力が尽きたら、終りとなる。したがって体力保持のためひたすら補液で時間を稼ぐ。ところがその体力が老人では衰えていて、死亡する確率が高いとくる。見浦牧場は生物の和牛を飼って生計を立てている。勿論、彼等も生物、 ウイルスから無縁ではない。若い個体は生命力が強いから人間の助力で大部分の患畜は立ち直るが、中には急速に伝染し対応のすべのないウイルスも存在する。これに侵入されたら悲惨である。公的な防疫機関が全頭屠殺し地中深く埋設する。豚も牛も例外はない。幸いこの地方では発生はないが、猪や熊くん、鹿君、狐、 たぬき等々の野生動物が増えてきた。牧場を牧柵で囲ってあるから安心と言うわけには行かないので、考えすぎかもしれないが危険が一杯と云うわけだ。

とは言え、これが私達が住む世界、ウイルスも細菌も全滅させて無菌状態の世界にする、そんなことは望むべきもない。与えられた条件の中で全力を尽くして生きる、それしかない。

私の体力が極限まで落ちてきた現在、与えられた残りの時間を全力で生きる、これが私に与えられた最後の命題である。

2020.9.3 見浦 哲弥


2020年10月21日

選挙違反

2020年6月、目下、当地区では河井前克行元法相と奥さんの案理参議院議員の選挙違反の記事でにぎやかである。すなわち金銭買収、昨年の案理さんの参議員選挙の運動員への高額支払いから端を発して旦那の政治資金?のバラマキが表面化した。云うまでないが金銭で投票を左右するのは選挙違反である。しかも重大なね。

私も社会党の大原さんの部下として働いた事があるから政治の裏側には多少は知識がある。勿論、大原先生は生涯清貧に甘んじた人だから手下も手弁当、茶菓子も出なかったね。それが民主主義だと懸命に働いたものだが、左派と言われた社会党の中でも多少はあってね。党の研修会のあと右派の領袖の一人が一部の手下を引き連れて流川 (広島の飲み屋街) に繰り出して行った時は人間は右も左も根底は大差ないかと思ったものだ。

今回の選挙違反の買収は選挙法で固く禁じられてはいるが、時々は噂は聞こえてくる。実は1度だけ町議会に立候補したときに、某所に15票、金で動く票がある、買わないかと声をかけられたことがあるんだ。勿論、断ったら案の定14票差で落選、 なるほど金権選挙が存在すると言われるわけだと納得したもんだ。政治家になるのは嫌だとグズったのを、加計の前田先生に一度は選挙をしろと半ば強制された立候補だったので、これ幸いと表面に出なくて政治の勉強が出来た、私にとって大きなプラスだったのだが。

あれは農業委員になるきっかけだった。小板から立候補する人間がいなくて(各集落から一人ずつ出すと申し合わせがあった。 地域の中の農地の現状は住民が一番知っているという理由で)、それに目をつけた義弟が無投票につけ込んで立候補、農業委員になったのはいいが、奴さん仕事をする気などまるでない。少ないとは言え年20万円の手当がある。手当の支給日と視察旅行には出席(酒が飲めるので) するが月1回の定例会議には全く出ない、農地の実地検証(これは農業委員の重要な仕事)はボイコットするわで、 見かねた前町長の丸山さんが「何とかしろ」 と電話をかけてくる始末。それでも私の云うことなど馬耳東風、私には辞めさせる権限はない、地元の人間も関わり合いを恐れて我関せず、なんとも出来ないとお断りしたんだ。ところが私の留守に某氏から電話、家内が義弟の姉とわかってから随分罵倒されたらしい。帰宅してみたら、 どんな手段をとっても義弟の農業委員を辞めさせろと訴えられた。それでも話してわかる相手ではない、が、丁度3年目の改選時期、 私が立候補して落選させるしかない。後味の悪い話でね、 春さんが私に要求した最大の嫌な出来事だったんだよ。

勿論、敵もさるもの、届け出の日には役場近くの飲み屋に居座って圧力、 こんな思いの選挙は嫌だと他の集落の連中が、俺が辞退するので小板から二人委員が出てもええじゃん、という連中が出る始末。参ったね、あんたらの誰かは知らないが、仕事をしないで給料と飲み会だけに出るのはけしからんと家内に怒鳴り込んだから始まったこの選挙、途中で投げ出すなどもってのほかと説得、選挙になれば私に街宣で本当のことをしゃべられるのは、あいつが最も嫌うところ、選挙にはならないと説得するに一汗だった。締切30分前になって奴さん諦めて帰宅したから選挙にはならなかったが、私が正式の農業委員ということになって3期か4期、 務めることになって見浦牧場は大被害と相成ったんだ。

しかし、農業委員には毎年1回の山県郡内の委員の持ち回りの総会がある。その席で金銭による選挙違反の内幕を、当事者になって留置場に40日放り込まれた話を聞かせてもらった。某県会議員の違反の内幕である。ご本人は真面目で信望が厚い人だったので選挙運動に参加したのだとか、ところが手弁当で飛び回るのはいかにも気の毒とガソリン代として金一封が配られたと、それも本当に金一封をね、ところが配って歩いた人のメモが警察の手に渡った、それで金銭買収という事になって留置場に40日、選挙は怖いですのと、以来、その地区から県会議員が出ることもなくなった。あの人はええ人だったですがの一と、私も社会党の選挙運動に何度も参加したが、茶菓子もなくて手弁当だったが、話を正面から開いてくれる人のためには、それで満足だった。

しかし、金銭買収の話は何度も聞こえてきた。某町会議員は議長まで登りつめたが彼の選挙にはそんな話が渦巻いていた。でも巧妙に立ち回るのでボロが出ない。ところが末端の運動員の中に心が許せる下級生がいた。彼が時々、世間話とて裏情報を持ってくる。それに今日はどこどこに票を買いに行ったなどと、どうも票を売買をする集団があるらしい、私のときも話があったから満更つくり話ではないと開いたものだ。

選挙運動で空約束を本物らしく話す某議員は言い逃れの天才だった。 おかげで空約束を信じて投票した友人が私に何とかしてくれと泣きつく。「ええ話をするんじゃがの一」 と長々と愚痴を聞かされた。そんなことが何度もあった。それでも警察沙汰には一度もならなかったから一種の天才だったかも。

その彼が町長選挙に出るので応援をしてくれとやってきた。普通なら 「ハイハイ」 空返事をするのだが裏話を知っているから腹の虫を抑えきれなかった。「あんたにはいれらんよ」 と言ってやった。途端に遠い縁戚の縁は切れた。彼の兄妹は善人だったのにね。

それに較べると河井夫妻の選挙違反は幼稚というか、選挙民をなめているというか、実に大胆な選挙違反である。私も農協や森林組合の総会で来賓として挨拶をする克行氏と案理氏の話を何度も聞いて、政治家になるのも大変だなと思ったものだ。大原先生と違って内容はなかったがね。

それが今回は何千万円のばらまきときた。安芸太田町の町長も20万円の現金を貰っていて辞職、県内の市長や議員さん達が上は何百万円から、下は何十万円まで新聞の報じる金額は表向きだけでもこれ、本当の裏の話はどこまで膨らむか。民主主義だと言っても玉石混交、人間を見抜くのは大変である。

裁判が始まって結論が出るのは暫く先、 無駄に人生を使った両氏は気の毒なのか、アホなのか、答えが出るのは、まだ時間がかかる。

2020.7.3 見浦 哲弥


2020年10月8日

N君とコッちゃんのキャンプ場

何日かぶりにキャンプ場の進行状態を見学に行く。昨日依頼してあったトイレの建前が済んだのを拝見。さすが近郊の工務店、 親父さんと息子の2人がかりで建前は完成、後は付属工事だけと、電気工事は西田君は免許持ちだから自前とあいなる。

しかし、廃屋の除去から始まって、瀧木の除去、排水と2年余りの時間は環境を一変した。ミニユンボと軽ダンプを使いながらの整地と建設はすこしずつだが環境を一変した。 荒廃した農家の跡地に、こんな素晴らしい自然が隠されていようとは、隣地に居住していた私達も気が付かなかった。目下、排水して整地した平地に芝張りの最中である。日に日に緑が広がってゆく、私も忘れがちの新しい世界が生まれる楽しさが、そこにある。

時はコロナウイルスで人口密集の危険の警告を大衆が予感し始めて、世論の流れが変わり始めた。僻地の小板に移住する奇特な人は少なくても、自然に近づこうとする風潮は一つの流れに成り始めた。人工減少期を迎えた日本は山ボーイも山ガールも高齢化して危険な高山トレッキングは救助費用の高額化、救急体制の人材不足で、 無謀な登山は非難の対象に成り始めた。ところが規制の多い都会の生活の中で、登山と言う自然の接点の味を知った人は、体力の衰えは感じても、あの自然との感触は何物にも代えがたいものらしい。

そこに目をつけたN君とコッちゃん(次女)、 自然が身近に感じられて、交通の便がよくて、電気と水道があってと考えたら案外身近にあった、それが廃屋の藤田屋だった。そこは持ち主の財政の都合でなんとか売りたい、たまたま牧場に接した山林は面積は少ないものの見浦牧場には喉から手が出るほどの場所、しかし、まとまった資金が必要な持ち主は小板の持ち分全部を買い取れが希望、泣く泣く手持ちの資金を総動員、兄弟に不義理になるが止むをえないと、谷底に飛び込む気持ちで購入した土地、その土地にN田君とコッチャンが眼をつけた。

山ボーイ と山ガール、目の付け所は鋭いが、田舎の現実と離れての都会生活は長い。立案したプランが甘すぎる。何でも計画どおり進行するとは工場や研究室の中でも辛いのに、まして自然の中ではだ。それでも取り組んで2年、ある程度の予測が出来るくらいには進行が目に見えるようになった、が、自然は気まぐれ、計画どうりに進行するなどは紙の上のペーパープランと云うやつ、現実は極めて厳しい、それを乗り越えて初めて桃源郷が見えてくるのだと何度も何度も繰り返して話したのだ、そして目標までにはとんでもない時間を費することになるかもと。でも、そんな事を考えていたら何もしないで酒でも食らうか、大ぼらの夢でも見るかしかない、それを義弟が演じて破滅したのだから私も気が採める。

コロナウイルスの蔓延で都会人が田舎に視線を転じたのは私でも感じる、それでも都会が生産性が高くて生活がしやすいのは変わらないが、疑似田舎体験はこれからの流れの一つになることは間違いなさそうだ。トイレも出来て水道も引けてテントを張る芝地も出来上がった。それでも目標の1/10くらいだが関心をよせるお客さんの問い合わせもあって、お盆には未完成ながら一応の開店の予定とか。

8月の小板は夜は涼しくて星空は素晴らしくて、それに見浦牛肉のバーベキューと来れば不足ながら魅力の一つや二つは提供できるかもしれない。その結果は是非開きたいものである。

2020.6.26 見浦哲弥

2020年5月4日

ヘルペス後日談

2020.2.23 2月12日に帯状疱疹で入院し19日に退院。ヘルペスの進行は止まったが発疹は頑固に患部に居座っている。おまけに微妙にかゆい。命は取られなかったが後遺症は残りそうだ。おまけに患部の位置が悪すぎる。頭の左半分、最初は眼の中への侵入はないと喜んだのだが、対策が効果を上げる前に一部が侵入した。従って視力が落ちて画像が一部変形して対応に努力が必要。神様はとんでもないいたずらをなさる。これまでもずいぶん厳しい?人生にも耐えてきたのに、まだ足りないと試練をお与えになる。神様は私がどこまでやれるのかと試しているのかと。もっともここまで頑張れた私だからむざむざと悲鳴はあげないが、この調子では次の難題が現れそうである。

昨日は2時間、今日は3時間あまり働く、勿論、軽作業だけれども何とか体は動く。さてどこまで回復するか、残りの時間はいくらあるか、私の最後のクエスチョンである。

2020.2.23 見浦 哲弥

2020年4月22日

小板で動乱を感じて

2019.11.25 GSOMIA日韓軍事協定の破棄の期限が23日午前0時だった。韓国からの一方的な破棄の宣告だったが、この間題で連日ユーチューブやテレビ、新聞のかしましかったこと。山奥の小板ではほとんどの人が関心を持たなかったが、実は情勢の変化は頭上に示されていた。今日は、その話を書いておこうか。

小板はアメリカ空軍の訓練空域エリア567の真下にある。ほとんど隔日おきぐらいに飛んでくるアメリカ空軍の戦闘機の練習時には長年聞き慣れた騒音でもうるさいなと感じることもあるが、馬鹿な東条さんが犯した敗戦のおかげだと諦めている。この地域には時折、やかましい騒音の対策をと声を張り上げる敗戦を忘れた世間知らずの御仁も現れるのだが、私は世界情勢を知る恰好のニュースソースだと利用させてもらっている。

随分以前のことだが北朝鮮問題で緊張が走った頃、峰一つ向こうの樽床ダムに急降下して急上昇する訓練が連日行われたことがあった。単機でなく複数機でね。部外者として眺めている私にも真剣味が伝わってきた。あれは北朝鮮の日本が建設した鴨緑江の大発電所爆撃の訓練だなと素人解釈をしたもんだ。

ところが今回は3機編隊で小板と八幡の境界近くの3基の無線塔の回りを高速で突っ込む訓練をしているように見えた。これは戦乱が起きたら韓国の通信網を破壊する訓練だなと理解したんだ。打ち続く平和でこの状態がいつまでも続くという世間の雰囲気も、切り口を変えてみれば動乱と背中合わせ、戦争を経験している老人には冷や汗が出るほどの緊張をもたらす、テレビもマスコミも私にとって異次元世界の住民という感じだ。

テレビ、ラジオ、新聞、ユーチューブ、私の住んだ時代と違って情報は氾濫して、平和は当然の雰囲気だが、アメリカ空軍訓練場の真下の住民として戦争が背中合わせの気配を感じているのは私だけかと不思議になる。

2019.12.13 今日はアメリカ空軍の戦闘ヘリが2機、編隊で深入山を旋回していった。超低空でね。 機首の機関砲はさすがに不気味である。まだ韓国の情勢が不安定なのか?

思えば、2.26事件のクーデターの犠牲になった松尾大佐のお葬式の記憶(遠い縁者)から、国家総動員法の徴集で経験した広島の大空襲、原爆、敗戦、それから焼け野原のバラックのお店での丁稚奉公、朝と夕方で値段が違ったインフレーション、そして朝鮮戦争、天地がひっくり返るほどの大発展、そして農村の没落、現在は世界第3位の経済大国、有為転変の大変化の中をよく生き延びたと我ながら感ひとしおではあるが、注意して観察すれば私の知る80年前からの混乱はまだ終わってはいない。
しかし、視点を変えれば現在も混乱と平和との混合の環境に住んでいる。気が付いていないだけ、生きるということは大変なことだと痛感している。

ただ、今日も平穏な一日を過ごすことが出来たと感謝することだけは忘れないようにと思う。そして困難のなかの人生を生き抜けたことを。

2019.12.7 見浦 哲弥


2019.12.7 見浦哲弥

2020年3月22日

老人様々

2019.11.26 今日は若い連中はそれぞれ自動車で仕事に、従って留守番は私達老人が二人ということに相成った。ところがめったに無いことだが昼過ぎにミートセンターにお客さんが相次いで2件、晴さんは骨折で脚が痛いのでお店まで行けないとお断りしたのだが、” 見浦牛肉を買って帰れ"との奥様のご命令だとかで、捨ててはおけぬと緊急で晴さんを車でお店まで運んだ。

たった30メートルほどの距離だが骨折中で松葉杖の晴さんが自力で3メートルの階段を登るのは無理。しかし、お店を経営している以上、お客さんの要望が第一なのは当然のことだ。
ところが老人2人は足が悪い、お店は住居より5メートルほど高いとくる、お客さんを何時までも待たせるわけにゆかぬ、そこで乗用車で行くことにした、たった4-50メートルの距離なのに。それでも間に合った。一人は別荘の社長さん、小板に行く時は必ず見浦牛肉を買って帰る約束ごとだと、有り難いお客様である。続いてもう一人別荘の方、こちらはお土産にするのだと。老人二人のささやかな努力で、お客さんの要望に答えることが出来た。

農民が作物をただ作るだけの時代は終わった。生産者が消費者までの心配りを持たないと折角の農産物も売れない時代になった。士農工商の時代ではないが、プライドだけでは農業は成り立たくなった。この現実を皆さんは理解しているのだろうか。
ともあれ、今日はお客さんの要望に答えることが出来た。笑顔で帰って行かれる後ろ姿に商売を離れた喜びがあった。

2019.11.26 見浦哲弥

2020年3月10日

ばーちゃん骨折す

2019.10.26 晴さんが歩行困難になる。気丈な彼女が腰が曲がって小さな台車を押しながら、それでも健常者に負けない速度で歩くのを、ビッコで歩行困難で数十メートルを歩くのが限界になった私は、さすがは晴さんと羨望の眼で見ていたのだが、昨日の朝、脚が痛いと歩行困難になった。早速、子供たちが病院へ有無を言わせず連れてゆく。診断は踝(くるぶし)の一部の骨折でとギプスを巻かれて松葉杖を貸与されて帰宅。気丈な彼女でも老化の骨粗愁症が進行していた。それでも平常、体を使っているので骨密度は平均以上だそうだが87歳の年には勝てない。常人でもこの年令になれば骨密度の低下は当たり前で、80過ぎにもなると進行して骨折が何時起きてもおかしくないとは聞いていた。私が先だと思っていたのに、彼女のほうが先に症状が出るとは、不意打ちを食らった感じである。考えてみれば彼女も87歳、元気印の彼女なので、わたしが世話になるものとばかり思っていたのに。

脚が痛いといいながら、曲がった腰で家事から牛飼い、畑まで動き回っていた彼女が足先とは言え、ギブスで固定された足では起立も困難で、トイレに行くのも悪戦苦闘、まさか夫婦でこんな状態になるとは想像もしなかったね。が、気丈な彼女は介助はなくても自力でと努力をしている。老化でも気力は落ちていない、子供のときから男勝りだったからね。

それでもギブス3日めにもなると、せめて自分の出来る仕事をと探し回って色々と頑張っている。そんな彼女を見ていると見浦牧場は彼女のおかげでここまでこれたのだなと痛感している。

しかし、老化は人の定めとは言いながら身近で起きると笑い事ではない。私も目下歩行が困難になり始めて行動範囲が40メートル以内に限定されはじめて機械に乗車するのも一苦労の状態なのだから。だから彼女の悔しさは私の悔しさでもあるのだ。人には誰にでも訪れる老化、意識しないようにして毎日を送ってはいるが、迫りくる終滞の日を意識しないわけには行かない。それはあまり遠くではない。

晴さんも私も、長かった人生を喧嘩をしながらでも懸命に生きた。もう充分だの声も聞こえるが命の終わりが現実になるのは、やはり辛い。私は人間、やはり凡夫である。

2019.11.1 見浦哲弥

2020年3月1日

トイレで転倒す

残念ながら私の老化は休むことなく進行中である。歩行中の転倒はこれまではなかった。ただ機械に乗り降りする際の転倒は1-2度あって細心の注意で何とか防いではいたものの、今朝方は屋内でトイレに行く途中で転倒した。

最近は牧草地で転倒することは珍しくない。左足の脚力が弱くなって持ち上がらなくなった、従って草に引っかかる、そこで転倒ということが多くなったためだ。頭の命令は以前と変わらないが脚が命令どおりに動かない。そこで転倒ということにあいなる。だから牧草の中に害草のギシギシを発見して刈る前にトラクターから降りて除去するという作業が困難になったのだ。刈る前の牧草畑を歩くことなど不可能に近い。それでも刈ったあとや平地ではビッコを引きながらでも歩けて、トラクターの操縦も何とかこなしてきたのだが。

ところが老化は休むことなく進行していた。前夜、トイレに行く途中で見事に転倒した。左足が小さな段差に引っかってね。トイレに行く廊下は幅1メートル、周囲に適当なつかまるものがない。現在の私には体を引き起こすだけの力は右腕しかないので、暫く起きあがる方法を模索したんだ。這いずり回りながらね。大声で助けを呼べば騒動になる、まだそこまではしたくない、頼りになるのは右腕だけ、しかも、全体重を1本にかけても耐えるのはと見渡す、まだ考える力は少々あるのでね。そして洗面台の縁が手頃の高さ、握りやすいと踏んだんだ。ところが洗面台は床に置いてあるだけ、私の体重を引起こす力に対抗できるか、まだ検討する思考力はあって暫く考える。それで少しずつ体重をかけてみて動いたら別の手段をと、寝静まった夜中の廊下での無様な失敗で本人は必死で考えたんだ。幸い試したら動かない、これならと体重をかけて引き起こせたときは嬉しかったね。 1年前までは想像もしなかった現象が我が身に起きつつある。しかも引き返すことができない老化の現象がね。避けることができない生き物の常とは言いながら厳しい現象である。

そんな時に信心という宗教が必要なのだろうが、私にはその道を選ぶ気がない。辛くてもそれが私の人生、素直に終末を迎える気でいる。それが明日か、半年後かは私は知らないが。
2019.9.25 見浦哲弥

2020年1月18日

大谷

新庄の青原木材に木の皮を2台で取りに行く。この日ばかりは堆肥運搬の老人ダンプも洗われて25万キロ近く走った老朽車も全力を上げる。もう一台は年数は老人ダンプより若い、何しろ窓が電動であるし走行距離も10万キロ台。しかし、慣れ親しんだ老人ダンプが私の受け持ちなのである。

目一杯の2トン余の木くずを積んだマイカーは老人ながらよく走る。まだ廃車は嫌だとばかり爆音を上げながら。もっとも、これが都会の中なら、お巡りさんの注意を引くこと請け合いではあるが。

大朝は江ノ川の流域で川の水は日本海に注ぐ。その大朝の筏津から大谷川に沿って一気に旧芸北町の高野まで4キロの坂を一気に登るのだから凄まじい。注意標識に10%とあった。戸河内と松原との虫木の急坂でも7%だから大変だ。その急坂を老人トラックは悲鳴を上げながら登る。

振り返れば70年余前、泣きながらこの道を何度通ったことか。非道な国家総動員令で動員された芸北の14歳の少年達が、忘れようとしても忘れられない1年間の苦闘の記憶の道である。当時とは道路は改良されて舗装道路にはなったが、大筋では変わっていない。山肌にしがみつくように張り付いた数軒の農家にも記憶がある。リュックサックを背負って地下足袋 (動員で支給された当時の貴重品)を履いて登った道、長い年月が過ぎたが途中の数軒の家は懐かしい。筏津の農家の縁側で休ませてもらったあの家は、このお寺の数軒の隣だったな、などと過ぎた時間を偲ぶのである。

特に大谷の入りロの小さな農家は夕暮れに行き暮れて一夜の宿をお願いした家、屋根こそ鉄板ぶきに変わっているが佇まいは70年あまりの昔を留めて今に残る。親切だったお爺さん、お婆さんを思い出して懐かしかった。泊めてもらった晩には同宿者があって、それが同級生の父親で種子島の守備隊に派遣されていた松原の同級生I君のお父さん、囲炉裏端で聞かせてもらった南の島の話は今でもはっきりと覚えている。動員の中で唯一、心和んだ楽しい一時だった。

そこから一気に芸北高原に登るのだ。老人とロートルダンプのコンビには細心の注意が要求される。特に私が乗るダンプには2度ばかり放熱しきれなくてラジュエーターから蒸気を吹き上げた前歴がある。対策としてサーモスタットは外して、室内のヒーターを全開にしてエンジンの放熱を助けて辛うじて登坂する。
そこ移原から上り下りの高低差4-50メートルの峠を3つ越せば小板である。その中でも橋山部落から空城川に沿って小板までの上り道も高低差は100メートルに近いが大谷登りに比べれば子供である。空城川をさかのぼって、頂上を過ぎれば見浦牧場、少しばかりの下り道で我が家に帰り着く。

往復約100キロメートル、畜舎の敷料集めも牧場には大切な仕事の一部なのである。

2019.3.20 見浦哲弥


2020年1月8日

手が痛くなりました

2017.10.16 昨夜から左腕の痛みがひどくなりだした。かねてから左腕の腫れはあったのだが、痛みが我慢できないほどではなかったんだ。ところが今朝は病院に行こうかと思ったほどだった。が、病院嫌いの私は今日1日は様子を見てそれからと言うことで通常の仕事をしたのだが左手に力が入らない。考えてみると左足にも力が入らない。 終末が近い私としては来るものがきたかという感じ。それで病院へ行って薬や電気治療をとまでは考えたが、所詮これも一時しのぎ、さてどうするかはもう1日様子を見ようと平日の様に日課をこなしたんだ。ただ、片手一本では能率の上がらないこと、今日ばかりは若かりし遠い日が羨ましかったね。

ところが人生と言うやつは、まっしぐらには終末に向かわないものらしい。ひたすらマッサージを続けたら痛みが収まり始めた。勿論、完治するはずはないが、何とか病院に行かずに済みそうである。でも人生の終わりは限りなく近い。

覚悟は出来てはいるが、やはり1日でも長く元気で働きたい。まだやり残した仕事は山積していると働いているのだが、力をいれることができない。最盛時の体力は遠く他人のものになった、そんな気がする衰え方である。

しかし、長いようで短い人生だったな。 まだまだ、やり残したことが山積しているのに体力も知力も低下して、あれも、これも、やっておけば良かったと反省しきりである。

2017.10.24 痛みは薄れ始めて、片手で仕事をすることが少なくなった。暇があればの右手マッサージがきいたらしい。但し左手のカは減少し重い物は持てなくなったがトラクターの操作は何とか出来る。

老化は誰もがたどる道、避けることは出来ないが、一進一退ながら、まだ体力が続く。迷いながらも懸命に生きた私への神様(自然) の贈り物だと私は思っている。

2017.10.25 見浦 哲弥

2019年4月27日

励まし

2018.1.1 旧国道191号線が深入峠を目指してひたすら登る途中に小さな別荘がある。その昔、小板に移住してきた青年が建てたログハウスの小さな小屋、青年が新国道沿線に別棟 を新築して移住して行って売却した小さな別荘、これを広島郊外のご夫婦が買い取って週末を楽しんでいた。見浦牧場のスキー場跡の牧草地に作業に行くときに時々お会いする、 一言二言ご挨拶をするささやかな関係だった。

その牧草地がある場所は深入山の頂上に続く稜線と稜線の間の谷がひたすら峰を目指す、その途中に山葡萄の自生地があってブドウ谷と古人は呼んでいた。そのヤブの下が格好の熊くんの居住地で牧場は彼らの餌場の一部、草刈りに行くと熊くんの通り道がくっきりと浮かんで、所々に新鮮な排泄物の山がある始末、家の背戸の牧場で牛が被害にあっている当事者としては他人事ではない。立ち話のついでに熊君の情勢を知らせて夜間はあまり出歩かないでと要請したもんだ。

人伝に、その人が亡くなったと風の便り、 2-3度話をしただけのお付き合い、私より少しばかりお若いお二人に、何歳だったかなと思っただけで忙しさの中に忘れていた。突然、そのご主人がお出でになった。午後の作業に出かける準備をしているときだった。

最初はどなたか理解が出来なかった。亡くなったのはご主人だと思い込んでいたからだ。 「別荘の○○です、親切にしてもらった家内が亡くなって」と挨拶されても、一瞬理解が出来なかったが、話しているうちに、亡くなられたのは奥様、少し太めの優しい人、通りすがりの牧場の人間の余計な一言を熱心に聞いていただいたと思い出したんだ。

お話を聞くと今は巨大な太田川放水路になった祇園の下流の土地持ち農民だったらしい。土地整理組合で苦労した話をされていたっけ。勿論、広島市の膨張で農地は市街地に一変、環境の激変で散々苦労をされたとか。今はビルを持つ地主さんに変身したが、その間の奥様の苦労は尋常ではなかったとか。彼女がいなかったら私の現在はなかったと、そして彼女が先立っとは想像もしなかったと、そのショックからまだ立ち直れないと心の内を明かされる。

平凡な都会人の気まぐれと思った別荘人にも人知れぬ苦しい人生があった。お話を聞いて先輩面をして、「人間の寿命は自然が、天が決めて、人の力の及ばないところ、悔やんで後ろ向きにならないで前向きに、前向きに生きて頂くことを奥様も望んでおられると思います。"貴方の思い出の中に奥様は何時までも何時までも生きている "、そう信じて残った人生を精一杯、生きましょうや」と申しあげたんだ。名もない田舎の老人の話を聞いて、少しは明るい顔になって「そうですの」と帰られた。

私自身が老境の最後の段階、人に意見を述べる状態ではないのだが、成り行きで、でも元気を出してほしいと思うのは本心である。

2019.2.7 見浦哲弥

2018年10月6日

2018.8.13 久方ぶりに本格的な夢を見た、それは思いもかけず本を買った夢だ。

それはどこだか判らないが、用事で街に出る度に立ち寄る小さな本屋、その店は私が関心を持っ本ばかりが並んでいた。月刊誌やサイエンスの小冊子から、専門誌。貧乏な私は立ち読みは出来ても安い本が買えれば御の字という夢の中のお店だった。

でも、3冊セットの専門書、欲しくても貧乏で買えない、専門書の立ち読みで理解ができる頭ではないし、それが連続して夢の中で繰り返す、最後に勇気を絞り出して注文したんだが代金をどうやって支払おうかと思案して目が覚めた。それが真に迫っていてね、とても夢だとは思えなかったんだ。私の貧乏は人生の最後までつきまとうらしい。

目が覚めたら貧乏は貧乏でも夢の中と違って何とか暮らして行ける有り難い生活、少しばかり安心したんだ。

しかし、ここ何年か夢の中の旅をしたことはなかった。先日の熱中症で脳神経が少しばかり傷ついたのかな?ともあれ貧乏な本読みが現実のような夢を見たと云う報告。

2018.8.13 見浦哲弥

2018年9月19日

雨が降らない

2018年7月7日の呉、広島の豪雨で雨はもう要らないと呟いたら、その反動が来た。あれから2ヶ月近く、この間1日だけ少しばかりの雨が降っただけ、その雨は小板川の水量を2-3日増やしただけで、また元のチョロチョロの流れに戻った。
幸い完全には干上がってはいないので川の住民がひっくり返って死ぬとまでは行かないが、牧草畑は伸びるどころか、赤くなって枯れ始めたところもある。例年なら刈っても刈っても追いつかない位伸びる草だが、今年は毎日の給与の粗飼料にも事欠始末。したがって購入の乾草の消費が増えて支出の大幅増に悲鳴を上げそうである。

そこに天から援軍と2つの台風がやってきた。19号と20号、西日本目がけて2-3日のズレでね。これで今年の水不足は解消すると期待したのだが、台風が連チャンで到来となると被害は免れない。凡人の常で雨だけ持ってきて台風はそれてなどと欲の深いお祈りをしたら、台風はそれてくれたが、雨はほとんど降らなかった。天罰覿面(てんばつてきめん)である。

しかし、捨てる神あらば拾う神ありで、25日の早朝一雨きた。本格的な雨ではないが、ないよりはまし。この天変地異は地球温暖化のせいだと論じる学者もいるが、貧乏な牧場には、日々が何とか過ぎてゆこことを、ただひたすらに祈るだけなのである。

が、例年なら無数の赤とんぼが天を舞うのに、今年はとんぼがいるねと確認するのみ。ツクツクボーシも一声二声、例年なら鎮まれと号令したくなるほど聞こえて来るはずなのに、今年は異常である。

2018.8.25 見浦哲弥

2018年8月26日

熱中症で倒れる

2018.8.9 熱中症で倒れた。7月7日の大豪雨の次は連続の猛暑がやってきた。1ヶ月の間に1日だけ雨が降っただけ、それも少雨だったんだ。おかげで草刈りの方ははかどった。草は伸びないが、刈り取った草は何の苦労もなく干し草に仕上がる。気温は35度を超す毎日、テレビは最高40度を超したと報道する始末、そして熱中症対策に水分と塩分を補給するようにと連日訴えた。

もちろん、毎日のトラクター作業、ペットボトルに塩を添加した水を持ち歩いて補給はしたのだが、87歳の年齢を忘れていた。前回と違って体が水分を受け付けない。意識して飲水するのだが食欲が減る。それでも好天では草刈り作業をやめるわけにはゆかない。2-3時間もトラクターに乗り続けると頭がボーッとしてくる。それでもと頑張って前日に全草地の刈り取りと集草を終えてホッとしてみたら体調がおかしい、まともに歩けない。歩行が少しづつ困難になるのは老化のせいだと思い込んで気にしていなかったのだが、今日は急に酷くなったなと独り合点をしたのだが、これが熱中症の症状だとは気が付かなかった。そのうちにフラフラし始めて気がついた。その様子を涼子くんも気がついた。体温を測られたら39度を超していて大騒ぎになる。もうその時は思考力はゼロ、ただ辛いだけ。車を猛スピードで飛ばす涼子くんの運転するトラックで病院へ。意識はあるのだが、ただ辛いだけ。幸い渡辺医師がまだ病院にいて、早速点滴が始まって500ミリグラムの1/2位が体内に
入った頃から意識が正常になり始めた。しかし点滴終了後も足のもつれと思考力が正常には回復しない。ただ楽になって、頭の中にあった厚い霞が少し消えた感じはしたが、体力は戻らなかった。

もちろん、翌日は休養、考えてみると今年になって丸々仕事を休んだのは初めてだった。
長年の労働にも耐えてきた自信が俺だけはとの過信があった。大いに反省している。しかし、熱中症が最初に脳からダメージを与えてくるとは知らなかった。これでは一人暮らしの老人などは熱中症、即人生の終焉と言うことになる。症状が現れる前の対策がいかに大切かということを、もっと周知しなければ思ったんだ。

ともあれ、命にかかわる大切な知識の一つを理解した出来事だった。

2018.8.12 見浦哲弥

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