自分を語るときに、父見浦弥七を真っ先に記述しなければいけないのに、彼のことは散文的に文章のそこここに述べるに留まりました。それは、私のつたない表現力では描ききれない、大きな大きな人だったからです。素晴らしい人でした。そして、優れた点も欠点も合わせ持っていた大人物でした。見浦家は2代おきに変革が現れるという言い伝えがあります。人間の質もその法則に従うとしたら彼は偉大な人間でした。もっとも欠点も偉大でしたが。
しかし、そろそろ、この話も書き始めないと私の時間は残り少なくなりました。書き終わるまでには、長い時間が必要になりそうですから、老骨に鞭打って頑張るつもりです。
彼は祖父見浦弥三郎の1人っ子として生まれました。もともと頭がよかった彼が農夫でなく、都会人として歩き始めたのは、見浦家の内部事情が影響しました。 私の曽祖父見浦亀吉は頭の良かった人だと伝えられています。明治の終わりに広島ー益田間に国道191号線が建設され、小板が山奥の寒村から、国道沿いの集落に格上げになった折、その路線が通るのが深入山の南側か北側かで広島県と争ったといいます。1車線の砂利道とはいえ牛馬しか通れない古道がトラックやバスが走る車道になるのですから、当時としては大変革だったのです。
その重要性を、中国山地の小さな集落の、文盲の爺様が直感したというから凄いことです。ところが彼は役所から来た文書が読めない文盲、息子の弥三郎に読んでもらうのだが、彼は要点だけ読んであとは省略する、悔しがったそうですね。そこで考えた、孫の弥七は頭がいい、勉強させて弥三郎の代わりをさせよう、孫ならば素直に俺の言うことを開くだろうと。もともと勉強好きだった親父さんの環境がそれで一変したのだとか。それからは猫の手も借りたい農繁期でも勉強をすると言うと別扱いだったそうで、その話はよく聞きましたね。
もともと勉強好きだった弥七は爺様の後押しが始まってエンジンがかかった。当時は義務教育は小学校は4年制、その上は加計に高等小学校があって2年、これには授業料が要った、しかも民家に下宿してね。出してはもらったが資金が続かなくて中退。それでも負けず嫌いの彼は中退というハンディを独学で切り抜けようとしたんだ。後年、述懐して日く、数学は貧乏人の学問でね、鉛筆と紙さえあれば幾らでも勉強できると。その彼が実力を発揮して認められたのは20歳の兵役で徴集されて陸軍に入ったときから。
当時は国民の男子は20歳になったら2年間の兵役を勤めることが義務だった。特別に身体が弱くない限り兵役拒否は処罰の対象になった。最下等の2等兵で入隊し2年で1階級進んで1等兵で除隊する。義務でね、明治の初期に定められた兵役制度は欧米の列強に伍して生き残るための制度だった。
ところが親父さんは2年の兵役が終わって除隊する時は将校に任官していた。7階級昇進していたんだ。陸軍工兵少尉見浦弥七とね。 これには小板の人達は驚いた、いや戸河内が、いや広島が。この年、一年志願と呼ばれたこの試験に合格したのは全国で3人、その1人だったのだから驚くのは当たりまえ、その人物が上等小学校中退の学歴だけと来たのだから。
この1年志願の制度は他の文章でも紹介したので簡単に記述すると、 日露戦争のときに作られた将校の緊急補充のために兵隊の中から優秀な人材を発掘して対応した制度だったんだ。
ところが父が受験した頃は将校の不足はぼ解消していて、制度だけが残っていた。従ってその内容も随分厳しいものになっていたとか。そんなわけで、その年の合格者は全国で3人だったと。
除隊してから中等教員数学科の国家検定に合格、30何年の教員生活が始まったのです。 最初に奉職したのは広島第一中学校(現在の国泰寺高校)、牛田に住居を借りて住んだ、遠縁の柴木の岡本さんが広島で工務店を始めた時に、資金作りに少しばかり手伝いをしたとかで、後日私も可愛がってもらった。その関係で岡本の奥さんから、その頃の父の話を聞くことが出来たのです。その頃の父は最初の奥さんとの二人暮し、奥さんは小板の西岡の娘さんだったとか、子供はいなくて、勉強好きの親父さんは勉強に興が乗ると1週間ぐらいも口も聞かずに机に向かっていたとか、そんな話は多くあったな。
その最初の奥さんは早く亡くなられたらしいが、その詳しい話は開くことはなかった。
広島の次の奉職先は熊本の県立第一中学校で、それから福井の第一中学校 (現在の藤島高校) で福井中学校のの教頭から三国高校の校長まで13年勤務したんだ。そんな関係で福井第一高等女学校の家庭科の先生だった野村淑と恋愛、結婚したのだという。彼女が私の母である。野村家は女ばかり七人の姉妹、従って長女が婿を取って野村家を継ぐということが決まっていた。その淑が野村家を出るというので大騒ぎになった。勿論、裁判官だった爺様の定吉は絶対反対、広島の水飲み百姓のせがれに野村家の跡取娘をくれてやるわけにはゆかないとね。
野村家は陪臣とはいえ、殿様の松平春鎌公に直に進言ができる名家、ドン百姓とは身分がちがう、まだ土農工商の身分制度を引きずっていた時代だったから身分違いだと。それでも日頃おとなしい淑はこればかりはと1歩も引かない。定吉爺さん福井から二日もかかる小板に自分で調査にやってきた。彼は退官して公証人役場を開いて成功した才覚人、調べることはお手の物、財産の調査から家系、風評まで調べたんだとか、小板の古老も調査があったことは覚えていて話してくれた。
結果は百姓とはいっても、ただの百姓ではないらしいし、資産もあるらしい、やむを得ないかと結婚を許したとか。ところが野村家も定次が死亡後様々な問題が起きて、その解決に親父が東奔西走、その私心のなさが野村の姉妹の信用を得たのは後の話。
私が小学1年の時、野村の祖父、定次が死んだ。お葬式が盛大でね、福井市の有力者の一人だった事を記憶させられた。焼香の順序が私が筆頭でね、足が震えたのを今でも覚えている。
ところが祖父には2号さんがいてね、子供がいた。いわゆる庶子といはれる存在だ。当時は男子相続の時代、野村家が2号さんに乗っ取られると、大騒動になった。親父さんがこの後始末で東奔西走していたのを思い出す。親父さんは、こんな大人の世界のことも子供の私にみんな話してくれた。あれも家を守るための布石だったかも。そして私はこましゃくれた子供になった。
2020.5.3 見浦哲弥
0 件のコメント:
コメントを投稿