2020年5月29日

思いもかけず可部の町

帯状疱疹で入院した市民病院の4階から可部の町を見ている、そして過ぎた人生を振り返って記憶の中の可部の町を思い出している、子供の頃、少年、青年、若者、初めて自家用車を持った頃と、長かった人生の折々に触れた可部が走馬灯のように思いうかぶ。

最初の記憶は福井から毎年夏休みには小板に帰った。広島の相合橋のたもとの左官町から出ていた、屋根と後ろに荷物を積むところがあった小さなフォードの三段峡バス、太田川に沿って延々4時間(記憶では)、終点は八幡のよもぎ旅館前だったと記憶しているが定かではない。

このバス旅行は母親には苦難の旅だった。小さなバスが時には天井の荷物の枠まで人を載せて煙を吐きながら坂道をのぼる。体の弱い彼女が車酔いで苦しんでいたのを覚えている。
広島の市街を外れると1車線の狭い道路、それも舗装道路がすぐ砂利道になって、揺れながらひたすら可部の町を目指して走り続ける。両側に家並みが続くようになると可部、ところが町の真ん中で道路が鍵の字に曲がるところがある。そこで対向車に出会うものなら大変、運転手が高度な運転技術を発揮しないと離合できない、スリルだったね。その曲がり角に大きな背の高い石灯龍があったのが記憶に残っている。

可部の町を外れると現在の八千代を目指す道路と太田川の上流を目指す道路に分かれる。これからが狭い砂利道を太田川の上流を目指してひたすら走る苦難の道路になるのだ。
長い直線道路が亀山まで4キロあまり続く、歩いても歩いても終わらなかった道路、やっと終わると飯室に越す峠を登る、太田川沿いにたどる道は曲がりくねって距離が何倍にもなる、それで苦肉の峠越し、小さなバスは青い煙を吐きながらよじ登ったね。力が足りなくて登れなくなると男のお客さんはバスを降りて後押し、思い出しても気分が悪くなる風景だったね。都会人の母はバスの揺れとガソリンの匂いで車酔、青い顔して耐えていた、昨日のことのようだ。峠を越えて飯室をすぎると曲がりくねった太田川に沿って延々と川端を走る。途中に2箇所ほど手掘りのトンネルがあって道路のトンネルは珍しくて印象が深かった。それからが加計、それからも役場のある戸河内までは30キロもあった。

長い川沿いの悪戦苦闘の道が戸河内で終わり、それからはひたすらの登路、何しろ280メートルの標高から890メートルの水越峠を越さないと小板にたどり着かない、その間25キロ、オンボロバスが悲鳴を上げながらひたすら登る、何時間かかったろうかは、記憶の彼方である。
峠を過ぎ、上田屋なる一軒家を過ぎて1キロの谷間を抜けると、一望の田園風景が広が
る、最近のウォーキングで訪れる都会人が「えーところじゃー」と感嘆する平和なミニ田園である。

今でも私の記憶には、大きな茅葺きの農家の広い縁側から前深入が霧の中から現れて、やがて一望5ヘクタールの水田に一面の稲の葉が風にそよぐ風景、子供心に深く食い入った自然、それが小板だった。

家の前の小さな小川、色んな魚がいてね、 ドロバエもいた、ゲンゴロウもいた、都会の福井にはなかった自然、まだ生きる厳しさを理解できていない子供には天国だった。

80年も彼方の遠い思い出、はからずも入院して4階の病室から、変貌して様相の変わった可部の町を見下ろしながら、過ぎ去った様々な思い出をたどって、人生を振り返った。生きるということは、そんな時間も必要だよと教えられているように。
そして母の「テッチャン、人間は真心が大切なのよ。それがわかる人になって」の最後の一言が蘇ってきて。

遠い遠い過ぎ去った時間を思い出させてくれる可部の町、変貌を遂げて昔を偲ばせるものは少ないが、私には大切な記憶の中の街なんだ。

2020.3.10 見浦 哲弥

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