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2023年2月18日

小さな牧場の小さな肉屋

2021.1.16 見浦牧場は中国山地の芸北地区にある小さな小さな牧場の一つである。この牧場を開設して60年余りになる。色々な経緯があって生涯を畜産の和牛飼育にかけようと思ったのは、まだ若かった28歳。開設時の苦労も昔話になって経緯を知る人は皆無になった。

 私は人生は出会った人々の生き方に影響を受けると信じている。七塚原牧場の現場の人達は少年の疑問に親切に答えてくれた、黒ボク(火山灰土)の話(黒い土は豊かな土と信じていた) 、馬鈴薯の2度作り、ラミー(西洋麻)収穫から機械加工まで、燕麦という飼料麦の栽培と収穫、西洋式の畑の除草の方法。私の生き方が変わったのは、あの七塚原の半年の体験からだ。

もっとも新庄にあった農兵隊山県支部では極限まで追い込まれて、絶望したことも何度もあった。そんな時に辛うじて耐えることが出来たことは両親の教えだと感謝している。 

しかし、世の中は競争だとは云うものの、対立相手の足を引っ張って勝つと云う手段を取る連中もいて一筋縄では行かないものだ。そんな連中が存在する社会の中で自分の信念に忠実に生きるためには、逆境に如何に耐えるかを学習するしか方法がない。逃げ道はなかった、辛かったと感傷にふける時間ももったいない、人生は短くて1度きりのなんだと痛感する今日この頃ではね。 

しかし、没落地主の子倅が牧場経営を目指すなどは目標が大きすぎる、小板の大多数の人達が百姓を知らない見浦が成功するわけはないと思い込んだのも当然だった。特に資産家を自認する小金持ちは高校にも行けんやつが生意気にと批判する、その舌の根が乾かないうちに、助けろと やってきた、連中の牛に事故が起きて獣医さんが間に合わないとなると「なんとかしてくれ」とやってくる、そして応急手当が成功すると「ありゃーまぐれじゃー」と批判、その舌の根が乾かないうちに次回もとやって来る。生活に追われている貧乏な人達は誠実で金持ちがインチキとくれば結果は当然のところに帰結する、但し、徐々にね。

とは言え見浦牧場も失敗が無いわけで はない、次々と死亡する牛が出て涙も出なかった事もあった。が負けず嫌いだけが取り柄の私 だ。原因の追求のためには努力を惜しまなかった、これだけは胸が張れる。

 何度か危機があったが牛の下痢O157に感染して衰弱した時は出入りの獣医さんが「今度は見浦さんは危ないで」と話すほど体力が低下した。流石の私も音をあげて進学を予定していた三男の和弥に家に帰るように依頼したのだ。が、彼の人生の可能性を揃み取った責任を私は忘れることが出来ない。 

幸運にも彼に好意を寄せていた亮子君が追いかけてきてくれて人生をともにしてくれた。苦難の見浦家には最大の贈り物だった。しかも3人の男の子にも恵まれた。

そこへ長女の裕子さんの府中ニュースで働いていた三女の律子さんが帰ってきて見浦の牛肉を売ると、道端に小さな加工場とお店を建設、ゼロからの加工販売を初めたんだ。律子は私の子供の中で最高に意思が強く行動的、こうだと目標を決めたらひたすらに走り出す、男尊女卑ではないが男だったら 成功者の一員に数えられたろうな。見浦牛肉のみを仕入れて加工をして、宣伝をして、販売に飛び回って。あれから何年経ったろうか、見浦牛肉の味の良さが徐々に広がって、遠くからのお客さんも来始めて、思いの外の好評で。

昔何度か行った試食肉の頒布で「子供が脂まで食べた」と云う評価に支えられて追求してきた見浦牛、霜降りの神戸牛の後追いをしないで独自路線を歩いたことは正しかったと思っている。牛肉は食品、商品である以上、見た目も必要だが、その前に安全で美味しいことが必要と牛をできるだけ自然の中で育て、外見の等級でなくて小板の自然に適応した牛を追い続けた。そして外部からの遺伝子の導入は雄牛の精子のみの方式を6 0年以上続けて作った見浦牛は独特の味を持っているのでしょうね、その価値を純真な子供の舌が教えてくれた。今その味を理解したお客さんが遠方からお店に訪れてくれる、有り難いことです。

小さな小さな見浦牧場、その中で育てた大きな夢、それをお客さんが認めてくれた、それが私の勲章なんです。それは家族の協力と私の小さな願いに協力していただいた多くの人々の善意の結果だと思っています。

有難うございました、心から感謝をしています。

2021.2.21 見浦哲弥

2021年1月30日

全農見浦

「全農見浦」、屠場に牛を出荷すると出荷主の確認を容易にするために牛の腹部に黄色いペンキでマーキングする、その折、見浦牧場の牛に書く ネーミングである。従前は農協専属の屠場への出荷だったから、出荷主の確認は、日本の牛全頭に装着が義務付けられている耳標の確認でことが足りたのだが、現在は合理化のため小さな屠場は廃止されて、この地区は広島の屠場に出荷する。100万都市広島の屠場には全国から牛が集まる。勿論、耳標確認はするのだが、屠場の職員が確認しやすくするために胴体に名前を書き入れる。確認を容易にするためにね。

最初に何と書こうかと思ったんだ。が、ふと思い出してね、遠い昔、農協の自前の屠場ができる前、まだ農協の肥育牛売買の部門が確立していないときだ。そのころは農協経由で広島や呉の屠場に処理を委託して肥育牛を出荷していた。最初の肥育牛を当時の広島の屠場に連れて行った時、弱小の農協経由の出荷と知った3-4人の業者に「よくそんなボロ牛を持ってこれるな」などと散々いじめられてね。その悔しかったことは、あれから60年も経ったのに昨日のことのように思い出す。

時代が変わって、今や農協の上部団体の全農(全国農業協同組合連合会の略)の食肉部も力をつけた。今は幹部となった黒木君や早世した中野君などの優秀な青年が入社してきて、旧態依然の食肉業界の実情に悲憤慷慨(ひふんこうがい)したものだ。その後、立ち遅れた農協組織も自前の屠場を持つほどに力をつけた。

そして大都市に成長した広島市は旧来の屠場を整理して近代的な大屠場を新設することになった。国も市も業者もそれぞれに資金を負担してね。それが現在の見浦牧場が利用している広島市の食肉処理場なのだ。資金力で力をつけた農協を無視して業者だけの屠場運営は不可能になったかどうかは知らないが、農協の発言力は大きくなった。

そのおかげで小さくなって屠場に肥育牛を搬入することはなくなったが、私には初めて広島の屠場に牛を出荷したときの屈辱を忘れることができない。そこで我が牧場の牛には、ことさらに「全農」の文字を加えて、「全農見浦」とマーキングしている。見浦牧場の小さな意地、他愛のないことだが、その意地が見浦牧場を支えてきた、私はそう思っている。

しかし、経済は常に走り続けなければならない。時代が止まることはないし、停滞は、即、競争からの脱落を意味する。小さな牧場だからこそ、意地も戦力にしなくては生き残れない。そして、今日も我が出荷牛には「全農見浦」と大書する。

これが小さな小さな見浦牧場の意地なのである。認められたいから大書するのではない、自分を支えるための意地なのである。

2020.09.24 見浦 哲弥


2020年11月9日

見浦牧場の初代として

見浦牧場をはじめたのは私が28歳の頃だと記憶している (最近は記憶があやふやになった)。 数えると60年を超す。末息子の和弥が進学をあきらめて小板に帰ってきてくれて、お嫁さんの亮子くんが家族の反対を押し切って追っかけてきてくれて30年余、男の子の孫が三人、 見事な大人になり始めた。

こう書くと順風満帆と思うかも知れないが、少資本の農家が牧場経営に乗り出して成功するのは稀で、この地方で成功しているのは乳牛牧場が1、2軒である。まして和牛の子牛の生産から肥育牛の出荷まで行う一貫経営で成功した話は開いたことがない。しかも見浦牧場はささやかな直販店を3女が経営していて消費者の気持ちが直に伝わってくる。資本的に労働力的に安泰になったとは言えないが一つの形にはなったと自負している。しかし見浦牧場が成功したと認められるのには、 まだ30年も40年もかかるのだろう。その姿を見たい気持ちはあるが、所詮叶わぬ夢である。

もし、私の夢が実現して子供さんたちが「見浦の牛肉は美味しい」 と買いに来てくれる、そんな牧場が出来たら、という思いが私を支えてくれた。恩師の中島、榎野、岡部、3先生方をはじめとして理解して頂いた方々に胸を張って「出来ました」と報告ができる、そんな日の来ることを、千の風になっても見たいと夢をみている。私の生きている間は可能性はないが、見浦牧場100年の歴史と胸をはって言える、そんな牧場が出来たら素晴らしいなと思うのは、私のささやかな夢である。

しかし、一つの仕事を仕上げるには人の命はあまりにも短い。結果は” 千の風” になって空の彼方から見つめるしかない。全力で築き上げたと自負していても、最終がプラスと出るかマイナスと出るかは神?のみぞ知る、である。それでも一度きりの人生、無為に過ごして後悔するよりも、子供たちに自信を持って話す実績を持つべきだ。努力を避けて安逸に流れて飲酒で夢の世界だけをさまよって、人生を悔事だけで世を去る人が小板にも数多くいた。それも晩年は我が運のだけを口実に酒で紛らわす、 そんな人を見るのは肉親でなくとも心が痛んだ。

私の時間はあとわずかになった。未完成の牧場を次に託す、心は残るが人生はあまりにも短い。有意に使わなければ過ぎ去った時間の後悔のみが残る。今度生まれたら、は戯言である。

でも、私は人に話せる自分を少しは持てた。それで良しとしなければ。それは、父母や先祖、先生、先輩方のおかげなのだから。

2020.6.26 見浦 哲弥


2020年9月29日

見浦家の栄枯盛衰

嬉しくない言い伝えだが見浦家は2代ごとに栄枯盛衰を繰り返すという話、聞きたくないことだが他人には恰好の世間話、何人もの人から聞かせてもらったから知る人ぞ知るの話なのだろう。

さて、問題になるのは私が、この栄枯盛衰のどこに当たったのかだが、残念なことにどん底にヒットしたらしい、お陰で家族にまでとんでもない苦労をかけてしまった。

その上、家族だけでない兄妹にまで迷惑をかけたのだから申し訳ないの一語に尽きる。

何度も言うようだが昭和16年、小板に帰郷するまでは中産階級のサラーリーマン一家として幸せな生活を送っていた。親父さんは県立高校の校長だったから、将来の恩給 (年金) が約束されていたし、かなりの山持(300ヘクタール) だったから分限者の端に記録されてはいた。ところが一人息子の親父さんが都会生活をする、留守は婆様を亡くした爺様が雇い人相手に一人で田畑と山を守った、これで発展すれば奇跡だが、そうは問屋は降ろさなかったんだ。

親父さんが当時の軍部に脱まれて54歳で退職し、小板に帰郷した時は植え付けが出来ない荒れた田園が2-3枚あった、大きな田園でね。合わせて30アール、小板では良田に数えられる田園だが野生のい草と茅が生い茂る荒れ地だった、田園がこの有様だったから畑も荒れ放題でね。馬が2頭、牛が2頭、田仕事や山草刈りに使っていたが、一頭は小さな雄牛で見浦で生まれたからと飼い殺しの雄牛、(去勢がしてないから小さくても気性が激しくてね) 、それに、たてがみが真っ白の老馬、赤毛の小さい馬、いずれもお爺さんが可哀想だからと飼い殺しを覚悟に飼っていたんだ、他家では廃用になるボロのオンパレード、したがって他家の様な仕事はこなせない、それでも馬喰に売り払うのは可哀想、それが爺様の方針だった、そこへ17歳から勉強一途に人生を送った親父どんが (一人息子だった)登場したのだから、その悲惨さは押して知るべきである。

負けず嫌いの親父どん、挑戦はするのだが思い込みの我流は失敗の連続、それでも頑張る、今振り返っても音を挙げない根性は尊敬すべきものがあった、私は弱音をロにしながら何度も投げ出そうとしたのだから少人である。

この見浦家の状態だけでも困難のオンパレードなのに戦争という大波が襲ったのだから親父どんも運が悪い、帰郷した翌年に母が、半年後に祖父が亡くなり、その年に馬が2頭とも死んだ、当時は馬や牛が死んでも、そのまま埋葬とは行かなかった、軍隊用の皮革の原料に皮を剥いで乾燥して国に納品して初めて埋葬がみとめられる、なれない仕事を依頼しようにも職人は軍隊に動員されていて、親父さんが年取った雇い人を相手に牛馬の皮を剥いでいた姿は忘れられない。

戦争が終盤になると朝鮮海峡にアメリカの潜水艦が出没するようになり大陸からの米、麦、大豆などの輸送が困難になった。その食料不足を解決するために米の政府管理が徹底的に実行されるようになった。

お百姓は収穫したお米の中から政府の決めた自家用米 (人数、年齢、性別できめられていた) を差し引いて残りを全部政府に売らなければの義務制になった。ところがお米の収穫量にはお百姓の上手下手で大差がある、それを標準と称して各集落毎に役場が決めてくる、百姓をご存じない父どん(部落長だった) が役場の査定を鵜呑みして帰ったから大変だ。隣村の八幡地区は小板と自然条件がほぼ同じ、従って米の反収(10アール当たりの収穫量)もほぼ同じ、それが1割も大きな割当を了承したと大騒ぎになったんだ。駆け引きの出来ない親父さんは差額を引き受けることで解決したのだが、お陰で小板で一二を争う大百姓が飯米がないと言う騒ぎになった。おまけにお母さんが死んで、お爺さんが死んで、仲良しだった白毛の馬も死んで、 元気な馬まで死んでしまった。幸い没落したとはいえ小板随一の山持ちだったことが幸いして売り食いで何とか生き残りはしたが、そこが貧乏見浦家の出発点だった。恨んではいないが、お陰で兄妹5人のうち上3人は小学校まで、 家計が何とか持ち直し始めた時点で下2人が大学と言うことに相成った。なんでやねと恨んだが、勉強好きだった親父どんは、どの子にも教育は受けさせたかったろうと、今ではその気持が理解できる。

かくして見浦家の栄枯盛衰ゲームが始まったのだ。

見浦家は没落したが私を除いて兄妹に優秀な遺伝子は受け継がれた。2番目の達弥は自衛隊に勤務した後、職工になったが野村の爺様の時代を見抜く遺伝子を受け継いでいて投資で成功した。もっとも子供さんが一人だったのは寂しかったな。私は親父どんに危ない手術を受けさせたが彼の結婚と娘さんの誕生とを見られたと親父さん大満足。もっとも、直腸ガンで手術の成功は30%しか望めないと宣告されたのを 「どうせ死ぬのなら」 と強行したのは私だったから、少しは心がやすまった。

3番目の信弥さんは我が兄弟で最高の成功者、頭が良くて頑張り屋、おまけに目標が決まったらまっしぐらという性格、カヤパ工業を退社した時は副社長だった。1番下のサチ子ちゃんは冒険家、通産省の通訳の試験で日本最初の最年少で合格した彼女は京都で通訳をやり、高校の教師になり、親父さんの死後、日本脱出、ワシントン大学に入学、ドイツ人と結婚、カナダに移住してセント·ジョン大学の図書館長まで上り詰めた。彼と一番下のサチ子さんは親父とお母さんのいい性格をモロ受け継いたんだ。他の兄妹も大なり小なりに受け継いだ両親の能力だが、この二人は図抜けていた。もっとも他の3人も普通人に比べれば頑張る、努力の2点だけは人に負けないものを持っていたが、残念ながら私はこの二人にも及ばなかった。

私は見浦家の没落のどん底の担当者としては何とか合格点かと自負してはいるが、再興の坂道を押し上げるだけの才能はなかった。だから非凡の親から生まれた平凡な人間として生きた、そして、これが私の限界だった。

中国新聞の編集部の記者さんだった島津さんが中国山地のレポートの本の中に” 異端の見浦牧場と紹介され続けられてきた見浦枚場、島津さんの御本”山里からの伝言” の表紙を飾った小板の全景は、どこにでもある中国山地、でもその中で懸命に生きた見浦牧場、それが懸命に生きた私のささやかな誇りなんだ。

小板では倒産、廃業、転居等々生き残った家は数軒に過ぎないが、見浦家は辛うじて生き残った。明日のことは予測は出来ないが全力で生きる気風は伝わったと思っている。

2020.6.20 見浦哲弥



2018年9月19日

私の本

2017年1月、 ”ひろしま食べる通信”が取材の協力の謝礼として私の文章を小冊子にしてくれた。読み返してみると少々立派過ぎる。私も普通の人間で、裏切られたり運が悪かったりは一度や二度ではない、小人の常として不運を嘆き、他人を恨んだこともあったのに、前向きの私の美点?だけを書き並べてあると面映い。さて何冊かある本を誰に贈ろうかと思い悩む。折角の”ひろしま食べる通信"の好意が店晒しになって無駄になるのもと心が痛む。

先日、芸北運送の娘さんに贈呈した。本の中の”素直すぎる貴方に”の中に前社長との出会いが記録したあるからだ。どのような反応を示されるかは判らないが、あの出会いが芸北運送の発展の要素の一つだと私は解釈しているから、心を残して世を去った前社長に私のささやかな贈り物として、娘さんがそれを理解して父君に胸を張って報告ができたらと40キロ離れた彼の空に思いを馳せる。

もう一冊は青原木材の専務に贈った。牛舎の敷料としていた製材カスのオガクズが木造建築の減少で入手が困難になった。勿論、製材所が減ったとはいえ全く無くなったわけではない。しかし、可動しているのは大規模な近代化製材所と木材港周辺の大工場のみ。おまけに牧場も何百頭、何千頭規模の大牧場の出現で、私達のような小牧場はお余りを頂くだけ。そして需要が供給を上回っているのだから配送業者は値段を釣り上げる一方。そこでチップ工場の青原木材に目をつけてダストなる木粉を買い取ることにしたのだ。その関係で彼と因縁が出来た。大人しくて真面目で、人の先に立ってよく働く、成功者の3代目とは思えない姿勢、この一族の成功はまだ暫くは続くのでは思える生き方で感心している。

私の周辺には、このような人が少数ではあるが何人もいる、その人達から見ると私の小冊子など小人のたわ言かもしれないが、少なくとも私の生き方の一片を表現している。

その中で一つでも参考になる考え、生き方を読み取ってもらえたらと、若い人たちにばらまいている。

2017年1月 見浦哲弥

2018年5月27日

意地に候


私は決して意志強固と誇れる人間ではない、それが50年余りも見浦牧場を続けてこられたのは家内の協力は勿論だが、様々な人のお陰だと思っている。

当然のことだと思っていたのだが、先日の”食べる通信”の記事を読み返すと、我ながら、よくも頑張ったと呆れている。米作りといい、しいたけ栽培といい、牧場経営といい、目標を定めたらひたすらに追い求める、愚直に、熱心に。そんなときには恥とか体裁などは考えたことがなかった。当然のことだと信じて歩んだのだが、考えてみれば少々異常である。

若者は先輩に服従し、集落の掟を守って、集落のボスの決定には無条件で従う、悪しき伝統は敗戦という日本国はじまっての大転換が起きても山奥の小板では無縁の話だった。

その絶対の権威に公然と歯向かったのだから、昔ながらのボス様のご機嫌が良いわけがない、それが貧乏人の小倅なら一捻りで潰すところだが、落ちぶれたとはいえ見浦先生の子供、真正面から手が出せない、ボスの年寄りたちが切歯扼腕(せっしやくわん:歯ぎしり・腕握りして悔しがること)した気持ちは自分が年寄りの仲間入りをして理解できるようになった。

しかし、時代は民主主義の時代、どんなにあらがってもが逆には回らない。理解の外のボス連中が見浦のあり方を認めないで無視の方針を取ったのは止むを得なかったのか。一方少数ながらも私には支持者がいた。しかし、その大部分は力のない底辺の人達だったが「見浦さんが言うのだけー」の信頼は有り難く強い支えだった。お陰で集落の中でも、集落の外でも崩れることはなかった。

しかし、繰り返すが集団の中での完全無視は辛い環境である。地域外で有力な理解者を持って居ても、日常の生活の場での悪口雑言、もしくは無視は集団で暮らす習性の人間には思いの外むごい環境なのだ。その中で何とか自分を支えきったのだから、私達は案外意思が強いのか、もしくは無神経なのか?。ところが振り返れば何度も崩れそうになったし、諦めかけた時間が蘇る、支えたのは「意地で候」の侍魂だったのかもしれない。

長い年月を経て片手で数える人数に減った住民の中では見浦を無視しては集落が成立しなくなった。そして表面に出ることを極力嫌う生き方に絶大な?信頼が寄せられていると感じることもある。力の無くなった小板ではあるが、生き残りの可能性は周辺集落よりは高い。しかし、この人数では集落の発展は望むべくもないが、何時の日か蘇る日もあるかと、微かな希望を持って今日も生きているのだ。

2018.3.9 見浦哲弥

マイストーブ


我が事務所に年末から登場した手作りストーブは、それまで活躍していたホンマの軽便ストーブと違って個性の強いストーブである。

我が小板は山の中、燃料の薪は至る所無尽蔵にある。昔は唯一の暖房が囲炉裏で見浦の前身大畠でも大きな囲炉裏に火が絶えたことがなかった。そして土間には天井まで届く薪の山、それが勤勉の証だった。ところが囲炉裏を心地よく燃やすためには乾いた薪が条件、それもマキダッポウとよばれるナラノキが最高、燃えて真っ赤になったオキ(オキ)の上でトロトロと燃える薪の灯りは懐かしい。

ところが我が大畠は素人百姓、雪が降るころに薪が山積みになっている、そんな光景は夢のまた夢。燃えるものならなんでも薪、松あり、杉あり、廃材あり、生木あり。訪ねてきた村人が「ゴッツイ木でがんすの」といったのは、今では理解できる、小さく割る技術がないと呆れていたんだ。ただし煙は人一倍、多量に発生する、茅屋根には都合が良かったとはやせ我慢の弁。

それが炭焼きを始めて副産物の粉炭が多量に発生、囲炉裏に投入され大コタツに変身、潜り込めば冬でも天国と変化した。やがて巨大なボロ家に雨漏りが大発生、修理もままならず小さな住居に建て替えた、それが60何年前である。

暖房は掘りこたつと炊事場の竈(かまど)、それでも家に隙間風が入らないだけ温かったね。やがて時代は変遷して石油ストーブなる商品が出現、我が家でも導入、機器の進化に伴って様々な形の機器を導入し、気がつけば日本は石油ドップリの世界に移住していた。石油は水より安いといわれた時代を通り越して、石油代が家計にずっしりと響くようになった、原油価格の高騰である。勿論、便利が良いということは費用の増大を伴う、しかし人間は一度快適を知ると、後戻りには多大の努力が必要だ。友人に金がなくてとの愚痴ばかりの人間がいた、あまりの羅列に、つい皮肉が出た「まさか君の家は“お風呂が湧きました”とアナウンスするロボット風呂ではあるまいの」と聞いたんだ、彼返事して曰く「そうよ風呂はロボット風呂よ」、「それじゃー、お金が足らんのも仕方がないの」。都会の華やかさを追って収入に関係なく流行を追う、小板も例外ではありませんでした。

便利と言うものはただではやってこない、知恵を絞って如何により良い生活するか、貧乏な私達も他人事ではなかったのです。

小板にも別荘がやってきました。いずれも大小はあるものの都会での成功者、ログハウスあり、北欧風のロッジあり、貧乏な住民には無縁の建物が増え始めました。そして新来の都会人の共通点は住居の一角にストーブを据えつけること、それも何十万円もする北欧製の薪ストーブをね。窓外の雪景色と赤々と燃える薪ストーブの対称は都会人のステータス、この風景は貧乏人には異次元の世界でした。

ところがあるログハウスの住人が「このストーブでも温かい」と紹介されたのがホンマ製作所の簡易ストーブ、ブリキ細工のような薄い鉄板製ながらよく燃え、安いときた。5000円でお釣りが来る、早速飛びついたね。乾いた薪でないとよく燃えない、煙突に煤が溜まりやすい、など欠点はあるものの我が家の事務所には欠かせない道具になったんだ。ところが2―3年で錆びて穴が開く、錆びにくいステンレス製の同じストーブも売られていたが値段が倍額になる、踏み切れなかったね。

話は変わるが我が家は肉牛を販売する畜産農家である。雪の多い冬場は市場に出荷する肉牛が汚れやすい。対策として40度位のお湯を沸かして洗うという方法を採用している。最初はドラム缶を半分に切った鍋にお湯を沸かしていたが、寒い冬では一大作業になる、それでも貧乏牧場は湯沸かし器を購入する資金はない、今でも思い出したくない仕事の一つだった。何年かして建材屋の友人が給湯器の故障品があるがと声をかけてくれた。新品だと何十万の機械が冬季の保守が悪くて凍結したのだとか、早速飛びついたのは言うまではない。自動運転の部分は手動で、バーナーは風呂用を利用して、幸いメーカー製でタンクの部分は大きな問題がなくて、このお陰でどんなに助かったことか。

何年かすぎて北広島町の建材屋にコンパネを買いにいったんだ。帰ろうとしたら軽トラが中古の風呂用ボイラーを積んでいる。「これをどうしんさるんか」と聞いたんだ。運転手曰く「ボイラーの調子が悪いと言うで、取り替えてきたんだ」「その古いのはどうするの」と聞くと「スクラップ屋へ持って行く」しめたと思いましたね、「儂に売ってってくれろ」「売ってもいいが足代くらいほしいね」「なんぼね」「1000円」やったと思いましたね。もっともスクラップにと乱暴に取り外した機械、動くか、ゴミかの自信はありませんでしたが、持ち帰って経営主の和弥に見せると動くかもしれんのと取り組んで、「親父動いたで」と直してくれた時は嬉しかったね。以来、牛を洗う時のお湯の心配は見浦牧場からはなくなったんです。

さて今まで使っていた湯沸かしボイラーはお役目御免となりました。ところが古いとはいえ山口のボイラー専門工場の製品、頑丈な作りで何とか再利用できないか頭を絞ったのです。

昨年末、ストーブへの転用を思いつきました。取り掛かって分解したら外側の鉄板が頑丈、これを利用することにしました。燃焼室と1/3の予燃焼室を溶接で作り上げ、下部に煙突の取り付け口と反対側に焚き口と空気孔をつけて完了、天井は2/3は開口できる様にしたのです。早速、事務所に据え付けて試運転、火力も強く実用になリましたが、燃え方に癖があって慣れるまでが大変でした。薪は小さく割らなくても燃えるし、着火さえすれば乾いていなくても燃えてくれる、そんな個性の強いストーブでした。ただ少々大食い、薪を選ばない特徴は、雪が消えたら山の整理に力を入れろと教えています。

たかが廃品利用のマイストーブ、ところが着火の方法から薪の燃え方まで様々な対応を要求する、これからも新しい発見が出てくるかもしれない、老人の頭の体操には最高の仕事でしたね。

そして思ったことは、老人だと後ろ向きにならないで、可能と思われることには、挑戦してゆく大切な教えでした。

2018.1.9 見浦哲弥



2018年5月13日

佐田先生

中国新聞の記者だった島津さんから例年どおり年賀状がきた。その余白に佐田さんが亡くなったと記してあった。もう3、40年にもなるか、彼もまた、見浦牧場に影響を及ぼした人の一人なんだ。今日はその思い出を辿ってみよう。

佐田先生は私より少し先輩、広島県畜産課の技術職員、私にとって、中島先生、榎野先生に次ぐ大切な指導者だった。当時広島県は日本和牛の3大産地の評価を守るために懸命だった。貴方も聞いたことがあるかもしれない。広島の神石牛は日本の3大名牛の一つだったのだ。比較的小柄ながら飼いやすくて力がある、しかも肉質が良いと、専門家でその名を知らない人はいなかった。しかし、時代は役牛の時代から肉専門の肉牛の時代に移り変わりの時、広島県の畜産関係の専門家はいかに対応するかと試行錯誤の時だったのだ。

増体とロースの大きさとサシが先行する神戸牛に追いつけ追い越せと走り始めた各地方の和牛作り、改良の基本は優秀な種雄牛の作出にあると懸命だった。

当時、広島にも名牛はいた。第42深川号、柿乃木号、とか、各県にも知られていた種雄牛がいたが、肉用牛としては物足りない。県の畜産技術陣が総力を上げて新しい種牡の生産に全力を上げていた。一日増体量然り、枝肉重量然り、勿論、A5と呼ばれたサシ(脂の入り方)しかり、その努力の結果、神石で”31青滝号”、比婆で”乙社6号”、の種牡が生産されたんだ。

ところが見浦牧場が目指したのは放牧一貫経営、出来るだけ自然に従って、自然を利用しながら和牛を生産し、経済的に成り立つ経営を目指したのだから、地域と経営方式にマッチした牛群を作らなければならない。ところが見浦方式で耐えうる牛だけを選抜して残していったら、牛が小さくなったと指摘されたんだ、飼い方が間違ってはいないかと。

当時は自分たちの技術を補うために折があれば見学に出かけていた。大きな牧場から小さな農家まで、牛がいれば覗いてみる、人がいれば話してみる、どこかに私達の求めている考え方が眠っているのではないかと。

ある時、八幡(北広島町)の向こうの山頂に弥畝山放牧場があると聞いて訪ねてみた。島根県の県営放牧場、弥畝山の山頂を中心に、中国山地の山脈に沿う形で峰が走り、北に日本海が見え、南に県境の八幡の峰々を眺める、なだらかな山頂を中心に草原が広がって面積400ヘクタール、素晴らしい景観だった。

しかし、それより驚いたのは放牧されていた島根の和牛だった。荒削りの感じはするものの胴伸びの良い大型の牛、斜面の草地を疾走する姿には自然を感じたんだ。これはと注目すると骨格が頑丈なんだ。広島の牛に比べると荒削りではあるが胴伸びが良くて足が太い、見浦の牛に不足していたのは、これだと思ったね。

そこで県外の種雄牛を探したんだ。そして鳥取の気高牛にたどり着いたんだ。そして入手可能な精液、気高号の子供の長尾号を交配したんだ。広島県の方針に反してね。当時は他県の種雄牛の利用はタブーとの暗黙の規則があって、担当の佐田先生が驚いた。県は青滝号と乙社号の優秀な種雄牛を奨励しているのに、浮気をするのは何事かとね。見浦牧場の生産する肉牛の肉に問題が出て広島の種雄牛を見限ったかと屠場まで肉質を確かめに来た。そして問題はないと安心して帰られたのだが、私は県外の種雄牛の利用を止めなかった。そのため佐田先生との関係は急激に悪化したんだ。

再会したのは、それから何十年後、小板にある古民家喫茶で会合があって退職して自由人になった佐田さんが出席していた。たまたま近くでトラクター作業をしていて顔をあわせた。「話にきなさいや」と誘ったのだが「また今度」との返事、それが最後になった。熱心で優秀な技術者だった彼だが、未熟とはいえ経営者の私と長期の展望で差が出来たのを気にしていたのだと思う。あれからの長い時間、鳥取の気高号の遺伝子を導入して牛の改良をするのは、兵庫の神戸牛を除いて全国の常識になったのだから。
県の職員だった島津さんからの年賀状に佐田先生の訃報が記されていたのは、佐田先生が島津さんとの間で見浦牧場が話題になっていた証拠、腹を割って昔話をしたかったな。

同じ、榎野先生の門下生?として昔を偲ぶ時間が欲しかったが、今はただ佐田さんの冥福を祈るのみである。

2017.7.15 見浦哲弥

2018年3月25日

心遣い~食肉加工場の建設~

3女の律子が我が家に帰ってきて、新しい風が吹き始めました。この人は20年余り以前に犬山の斉藤精肉店で2年働いた経験がある。斉藤さんは私の生き方を朝日新聞の記事で読んで共感し、サラーリーマンから転身して成功された人。訪ねてこられたこともある。特別に御願いして家族の中で働かせてもらった。それから20年、姉、祐子さんの会社を手伝うことで、ミニ新聞社の経営、販売、営業、など様々な業種をこなしてきた。ふと気がつくと世の中は電子化で新聞事業は斜陽化、社業縮小で居場所がない。そこで手についている牛肉の加工技術と調理師の資格を生かさない手はないと、牧場の牛肉を売ってやるかということになった、と私は理解している。

時は農業も6次産業化が必要と騒がれている時代、見浦牛肉の味はテスト試食の段階でもファンは多い。何時直販をするのかと声がかかってから久しい。もとより人生終末の私が音頭を取るわけには行かないが協力は出来る。限られた乏しい資金の中でのやりくり、できるだけ、手作り、中古品でスタートしようと一決、加工場の建設が始まったのである。

さて、場所は見浦家が大規模林道に面した崖、役場との交渉や登記で時間がとられて、和弥がユンボを操作して崖を崩して敷地づくりが始まったのが5月、基礎、床のコン打ちと始まった。職人ではないから仕上げは見事というわけには行かないが、何でもこなす見浦牧場の面々、敷地が出来、図面も出来上がって、基礎コンも、型枠作りから生コンの流し込みまで家族でこなす。何とか出来上がって、今度は建築材木の手当て、久方ぶりに山に入ると荒れた山でも自然木の松や杉で一杯、牧場の周囲の山だけでも充分すぎるほどの立木、さてこれを伐採して製材にかけないと、と思案する。なにしろ小板の近辺から製材所が消えているのだ。経済大国になったとかで、国産の木材を使うよりは外国の加工済み木材を買うほうが合理的だそうで、中小製材所は仕事がない、従って倒産廃業と言うことになって、近辺には20キロ離れた芸北の細見に1軒あるのみ。それも毎日は営業はしない。若い時に簡易製材所を動かしたこともある私は「機械がありゃー自分でやるがのー」と悔しがるばかり。

ところが工事場の前を芸北運送の社長が通り過ぎた。早速、電話がかかってきて、何を建てるのかと問い合わせ、斯く斯くしかじかで食肉の加工場を作ることになった、と返事すると「手持ちの製材品があるので使って欲しい」と。10年余り前、倒木が多量に出たときに製材した桁やタルキ等々、倉庫の邪魔にもなるので無償でやるから取りに来いと。続いて郵便配達の山根さんが、先年、道路の立ち退きで家を解体したときのサッシが取ってあるので使って欲しいと。別荘の真田さんも不要の材料があるからと。同じく大野さんも使えないステンの業務用の流し他を無償でと。何時の間にか建物の半分以上は材料が揃って工事が始まったんだ。

勿論、屋根や壁は中古品というわけには行かないが、皆さんの好意で材料の大部分が揃ったのだから、人生は日頃の生き方が大切だ。

基礎つくりは手作り牛舎の経験でお手のもの。水平作りも、最初のころは長い樋に水を張ってなどと笑い話をしながら、簡易とはいえ測量器で簡単にだす。型枠を組み立てコンクリートを流し込む。大工さんは長年付き合いの斉藤さん、高齢で緻密加工とは行かないが施主の無理がきく、私たちのとんでもない要求にも対応して無理な加工もしてくれて、問題がおきると大工さんと息子と私の3人で「エイヤ」と解決、それで20年も30年も持ちこたえる建物ができる、見浦牧場の最良の友。こうして低価格で使用可能(保険所の検査が通る)な加工場の建設が進んでいった。

とは言え、牧場の作業は、工事とは関係なく毎日進行する。そのやり繰りをしながらの建築は、なかなか思うに任せない。何とか建前を済ませて、屋根を葺いて、外装をして、内装にかかったのは10月に入って。計画では10月には完成、11月には保険所の検査に合格して仕事を始めようかが、遅れに遅れて、ようやく内装に。大工さんもあちら、こちらの友人の大工さんに声をかけてくれるのだが、皆さん高齢、鬼籍に入った人もいて、仕事よりは年金生活と応援の人がいない。さればと10月5日から家族の素人大工を総動員、律ちゃんと和くん(カックン)と3人で天井はりを始める。素人の悲しさ、最初の仕事と終わりでは仕上げに格段の差、プロのようには行かないが仕事は進む。それで、それから一ヶ月、雨降りは加工場の方へ全力投球をすることに決めた。

市場経済の議論をする気はないが、”投資は最小で最大の効果を”は原則である。建物は加工場であるかぎり食品衛生上の要件を満たせば豪華である必要がない。勿論、法律の範囲内に収まらなければ保険所は許可を出さないが、その限界が何処にあるかは、私達は素人であり、大工さんも始めての経験で知識がない。そこで堂々巡りの議論が始まる。特に内装工事が始まって喧々囂々、結論が出ない。そこで保険所に電話、16日にアドバイスに来てくれることになった、一歩前進である。

ここまでに、今回の加工場の構造の説明はなかったので、概容を記すことにする。

加工場は6メートル×8メートルで48平米、屋根はガルバニュームの波トタンぶき、外壁はカラートタンの乾式構造、屋内は倉庫、食肉加工場、食品調理場の3室、律ちゃんが働き易いようにと計画した。

ところが、骨組みの材木が貰い物で多少寸法が違う。大工さんが何とか組み上げたのだが、内張りの段階で修正の箇所が出て余計な手間がいる。壁は乾式構造なので、ラス板を張って断熱材を入れてボードを打ちつける。投資は最小にがモットーだから天井も壁も保健所の審査基準すれすれの材料、これが大工さん気にいらないと不満を並べる。それをなだめるやら、すかすやら気使いも大変である。

10.16 保健所に御願いして内検をしてもらう。広島から婦人の検査官が来場、親切な人で判らなかった問題が解決、仕事が軌道にのる。電気屋さんにも見積を御願いして、内張りも完了して床を仕上げ塗りをしてもらって、器具の搬入を始める。やっと終わりが見え始めた。

ところが意外なところに問題が発生、電気工事を依頼した会社が、合理化と過疎化で広い芸北地区で作業員がいない。中電を定年退職した社員に臨時で依頼しているのだが、高齢化で現場に出れる人は二人とか。これで旧6ヶ町村をカバーしているというから大変、新規工事で作業中でも故障修理の依頼が入ると飛んでゆく、それが並みの距離ではない、中国山地の過疎化がこんなところまで影響しているとは。電気工事が完成したのは12月に入ってから。それからガス屋さんに依頼して工事が完成したのは12月の19日、外は60センチの積雪だった。あとはレンジフードの取り付けだけ、年内に保健所の許可を貰うことは不可能になった。

ともあれ加工場の話が持ち上がって1年が経過した。何もなかった処にチープな加工場が出来上がった。巷間、かしましい6次産業には程遠いが小さな牧場の小さな挑戦が始まる。見浦族のささやかな旗の下でね。我が先祖はどう評価するのか、もうすぐ聞けるかもしれない。

2013.12.22 見浦哲弥

2017年7月23日

牧場の親父の社会構造論

もう50年余りも牛を飼っています。しかも放牧形式の集団飼育で、この方式の飼育形態は日本では数少ないのではと思っています。
近辺でも見浦牧場のような小さな牧場から中山、松永のような大牧場まで大小様々な牧場が存在しています。
私が生きたこの中国山地でも大小様々な形態の牧場が設立され消えて行きました。辛うじて生き残った牧場の一つ、見浦牧場が生きている日本社会の仕組みを、牛を飼う生活を通じて考えて見たいと思うのです。
最初の2頭から現在の180頭まで増えてゆく過程の中で、彼等が群れを作る仕組みや、集団のルール、ツキノワグマから身を守る護身術、等々、生きるための変化を作り上げて行きました。そんな彼等を見ていると人間も教えられるところが多々あるのです。今日はその話を聞いてください。

牛は集団で暮らす動物で厳然たる順列がありますが、その一生をよく見ると、生後12ヶ月くらいの所に境があります。それまでは、はっきりした順列が無いのです。勿論、餌を食べる時は力の強い子牛から食べ始めるのですが、横合いから小さな子牛が割り込んできても頭で押し出すくらいで、追っかけていじめることはありません。ところが12ヶ月を過ぎると押し出すだけでなく後を追いかけて順列を守れといじめるのです。
牛の世界は厳しい順列の世界、その能力と力で決まる順列を守ることで集団の中での生活が許される、そんな厳しい掟で集団が維持されている。注意深く観察すると他にも数々の掟があり、それを守ることで集団で暮らすことが許される、牛はそんな掟を守る集団なのです。

ここ小板はツキノワグマの生息地、近隣の山林が人工林に変わって、自然の食料が減りました。一方、登山客やトレッキングなど観光客が増加し、弁当のなどの残り物の味を覚えて集落の近隣で生活する個体が増えました。彼等は生きるための知恵を持っています。知能も体力も野生動物の中でも図抜けて高い。他の文章で報告した様に見浦牧場でも被害が出ているのです。

もともとこの地帯のツキノワグマは性質が温和と言われています。
天候が良くて、山にドングリや柴栗が豊富で食べ物が充分あれば、牧場の周りで気配は感じても、牛の餌を狙って畜舎や倉庫を荒らすことはありません。
ところが自然は時々悪天候も贈り物とする。山が不作で食べ物がなくなると彼等の頭がフル回転をする。生きるためにね。人間の周囲に現れて、農作物を狙い、果樹園を荒らす。そして畜舎に侵入して牛の餌を横取りをする。それでも足りない時は倉庫を壊して餌をあさる。

十数年ごとに、極端な悪天候がやってくる。輸入や備蓄の取り崩しなど、人間は生きるための手段を持っているが、それを持たない熊君は最後の手段として牛を襲うのです。

襲撃されて死亡した牛は、これまでに7頭あまり、食われたのは2頭ですが、追い回されて暴走して死亡、恐怖のショック死など死因は様々ですが、この50年間にかなりの被害がありました。

ところが牛も知能が高い動物、熊に対する恐怖は集団の中に知識として蓄積されて弱いながらも対抗する方法を編み出しているのです。
まず、1―2頭で行動することがなくなりました。近くで熊の気配を感じたら集団が大きくなり、一箇所に留まる時間が短くなります。たとえ美味しい草があっても絶えず移動します。そんな集団の行動を見ていると、熊がどの方向にいるのか、近くなのか、気配だけなのかが判るのです。
もっとも乳離れをしたばかりの子熊だけの時は集まってからかっていましたから、危険に際して彼等なりの判断を持っているようで、さすが高等動物と変な感動をしたものです。

朝夕、牛を見ながら生活していると、人間と同じように個体によって少しずつ性質が違います。優しい牛、気の荒い牛、仲間をいじめる牛、いたずら牛、など様々です。
ところが注意深く見ると、いじめる牛の集団は小さくて、いいリーダーで優しい牛の集団は大きくなるのです。

思い出すと見浦牧場の最初は1―2頭飼いの農家が生産した子牛を買って初めたのです。放牧しても夕方になると人間が集めて畜舎に連れて帰らなくてはなりませんでした。そして10数頭に増えた頃も夕方の牛集めは仕事の一つ、しかも何頭かは別行動、広くもない牧場を探して歩くことが日課でした。
ところが何時の頃からか、この作業がなくなりました。別行動の牛が出ても数頭以上の集団を組みます。熊の被害が出始めた頃からですね。

彼等は自然の摂理に從って行動しているのです。1頭でいる時に襲われたら100%殺される。ところが集団が大きいほど、殺される確率も確実に小さくなる。そして集団の大きさを、リーダーの優秀さと優しさが決めている。この法則に気付いた時は驚きましたね。動物の本能は人間の教科書より素晴らしいと。

戦後の日本経済の高度成長で道路が良くなりました。生活も豊かになりました。市場経済の恩恵を受けて一般の人達も、それなりの恩恵を受けました。そして、すべての事柄をお金に換算して利害を判断する悪しき考えが常識化しました。田舎から思いやりや、助け合いの精神が消えて、「なんぼ呉れるんなら助ける、儲けにならないなら、わしゃ知らん」などとぬかす奴まで現れて、殺伐な雰囲気が流れることもある、そんな時代になりました。

私が「ヒューマンリング」に書いた当たり前の人助けが美談となリました。文章「同行崩壊す」を読んだ人が感心して、これでないと田舎は成り立たない言ってくれました。当然のことが忘れ去ろうとしていると。

イギリスの産業革命をもたらした原始資本主義は極端な格差を生み出して、底辺の人達は基本的人権まで否定されました。この問題を理論的に論破したマルクスの資本論は議会制社会主義と一党独裁の共産主義の政治体制を生み出しました。しかし、70年余りの共産主義の政治体制は崩壊し、人間はひとつの枠、ひとつの考えに押し込むことは不可能だと答えが出ました。
そして時代はアメリカの修正資本主義、全世界がこのシステムに飲み込まれました。しかし、メイフラワー号でアメリカに移住したイギリスの清教徒のグループは資本主義の欠点を聖書の教えでカバーしようとしました。それが世界に修正資本主義を広める要因となりました。
が、日本人はキリスト教と資本主義の微妙なバランスで成り立っているアメリカの方式を宗教抜きで導入しました。いや日本の宗教家がことの本質を理解しないまま、政治に結びついたり、在来の殻にこもったりして新しい役割を担うことを放棄してしまった、私にはそう感じるのです。

敗戦から70年、都市には高層ビルが林立し、新幹線の高速運行は当たり前に、高速道路と自家用車は当然の必需品になりました。そんな豊かな日本なのに、何かが欠け、何かが間違っている、それが私の文章が思いもかけない人達に読まれ、感銘?を与えている原因では、そう思っているのです。

私は昭和29年に日本社会党に入党しました。「格差のない平等な社会」のモットーは、動員で強者が弱者を搾取する現実を少年の目で確認した私には魅力でした。が、この組織の中にも様々な格差があり、差別がありました。
広島であった若手党員の研修会で当時の江田書記長が会の終了後、取り巻きだけを連れて街に繰り出して行った時、理想と現実のギャップを感じたものです。

ある時、県本部に前田先生(山県郡の活動家の大先輩)のお供で立ち寄った時、呉の市会議員の立候補者と立ち話をする機会がありました。「どうして社会党ですか」と、お聞きすると「選挙で票が集まるから」と当然のように答えられた。思想信条が同じだからという言葉を期待していた私にはショックでした。左の人間でも目前の利益が優先するのだと。

しかし、前田先生は私心のない人でした。正しいと信じたら利害は思考の外でした。そのせいで加計町の3大名家の一つと評された前田家が崩壊したのですから、その生き方は私に影響を与えました。弱者に助けを求められたら全力を尽くせと、前田先生、私の親父さんなど、私は何人かの素晴らしい人生の師を持つたのですが、貧乏からは逃れることは出来ませんでした。でも、理屈だけの人間にならなくて済みました。

理論は大切です。しかし所詮は人間の考えたこと、絶対はありません。それを自然の摂理で補正しながら参考にして生きる、その一つが無学な農夫の社会構造論なのです。

たった、それだけのことなのに「見浦さんの方へ、足を向けて寝られん」と感謝された時は心臓が引っくり返るほど驚きました。平凡な人間にはショックが大きすぎた。
当然のことを、ほんの僅か、お手伝いしただけで、その言葉をもらえたのには、私の社会構造論が役立っているのかもしれません。

2017.3.11 見浦哲弥

2017年5月10日

年年歳歳花相似たり

和弥のお嫁さんの亮子くんは見浦牧場の大黒柱である。その彼女が後5年で50歳になると宣った。日々仕事に追われる毎日で自分の年を数えるのも忘れがちだが、歳月の扉は確実に時間を積み上げる。息子の和弥の所に半ば押しかけで来てくれた彼女、3人の健康な孫を見浦家に贈ってくれた、我が家の恩人である。

跡取りと思っていた長男がコンピューターの道を選んで九州で就職、会社の同僚と結婚、やりたい仕事が出来ないからと東京へ、そして40代でそのソフト会社の最年少重役に、彼は彼なりに自分の人生を追いかけた。

そこで後を継いでくれたのが一番下の和弥、ところが時は農村崩壊の始まり、妹が飛んできた「あんた気が狂うたんじゃ無いの、あの子は町でも食べて行ける頭を持っとる、こんな所に残したら嫁さんもおらんで」と。それでも親父さんが「見浦家が潰れる」と訴えた一言は重かった。そして彼は見浦家を継ぎ、亮子君は広島市から追いかけてきてくれた。そして3人の男の子を産んでくれた。それぞれ特徴のある子供たちを。長男は中学2年、私が動員で小板を離れた年になって、大人びてきた。

時は全国的な農村崩壊のとき、国内の食料自給率は30%あまり、1億人に及ぶ人口の食料の大部分を輸入に頼る危険は知識人でなくても感じているが、大変だの声は聞こえるが他人事のよう、戦後の食糧不足のときのような真剣味は感じられない。

農業の復興は人作りなくては不可能だと私は思う。農業の教育は高校から大学まで整備されてはいるが、知識の詰め込みだけで人作りには程遠い。長男の晴弥が九大の農学部に在学中に九大の実習牧場に行った折の報告が頭をよぎる。彼に九大は国立の有名大学、農学部なら研修農場がある筈、見浦牧場で未解決の問題のこれこれを調べてくれと依頼したんだ。ところが彼が報告して曰く、「実習に行ったら、場長が“ここは農業を教えるところではない、農業とはこんなものだということを伝えるところだ”と言った」とか、「親父さん、役に立つ話はなかったよ」と、そこで思い切ったんだ。習えるところが無いのなら自分で実証し教えるしかないと。学問のない1農民が挑戦するには、あまりにも巨大な壁だったが後へは引けない。お陰で家族を厳しい道に連れ込んでしまったのだが、やっとこさ、ここまでたどり着いて文章にしている。役には立たないかもしれないが、これは私の意地である。

幸い私の家族は、それぞれ気性は異なるものの、皆前向きの性格、有り難いことだ。彼等のこれからの人生を見ることが出来ないのが残念だが、生きてよかったと思える家族たちである。

年年歳歳花相似たり、歳歳年々人同じからず、長い年月この言葉を噛み締めながら生きてきた。大切な私の心構えの言葉である。

さあ今日も1日全力を尽くそう。同じ日は二度とは訪れない。明日は明日、今日は今日、前を向いて全力で生きようと、自分に言い聞かせている。

2017.2.6 見浦哲弥

2016年12月31日

私とお天気

昔は、といっても60年ほど前の話ですが、たいていの農家には牛や馬がいました。
ところが、この地方は中国地方でも有数な豪雪地、牛や馬を飼うといっても、冬場のエサが大変だったのですよ。
確かに、牛馬は草食動物ですから、周囲に繁茂している、あぜ草や野草、柴草を刈って食わすだけでも育ちます。春から秋口まではね。
稲刈りが済んだら豊富にあるワラがその役割を引き継ぐのですが、ワラは消化率が非常に悪い。確か消化率40何パーセントだったかな。ですからヌカ、ふすま、商品にならないくず米などを加えてやる。そして夏の間に作っておいた、山草やあぜ草などの乾草を食わせる。この量が多いと牛馬は元気で春を迎えましてね。

ところが、この干草作りが大問題、何しろ当地は中国地方で最高といわれる多雨地帯、お天気が続くのは、草の短い春先と8月15日のお盆前後の十日くらいと来るから大変、乾くまで3-4日もかかる干草を大量に作るのは先ず不可能でして、運が悪いと仕上がる寸前で雨、ひっくり返して乾かして又雨、なんて悲惨なことが起きる。
おまけに干草は1度雨に会うだけで養分の40パーセント以上が失われるとかで、2度雨に会った干草は牛は見向きもしない。
もちろん、ラジオの天気予報はありましたが、現在と違ってこれが当たらない。
特に夏場の短い安定期を過ぎると、天気予報は晴れなのに微気象的に雨がやってくる、深入山の頂上から見ていると、表側は晴れているのに、裏側は雨が激しく降りながら通ってゆく、そんな景色を何度も見ました、お天気は魔物でした。

ですから明日のお天気を占うのは大変で、まさか下駄を蹴り上げて裏表で決めるとまでは行きませんでしたが、えーいままよと干草刈を始める、その翌日が雨で、そんな事が多くありました。
ところが、ある日、遠い親戚のお婆さんが「雲が刈尾(刈尾山)から深入(深入山)へ流れると天気がようなる」と、教えてくれました、それから雲の流れに注意するようになりました。
確かに流れ方がお天気に関係があることは判ったのですが、流れる方向や、早さにも関係して、予測が6割も当たれば大当たり、でも下駄より遥かに進歩でしたね。

そこで、農業気象の専門書をとりよせて読みふけりました。ところが、義務教育の知識だけでの読みこなしは大変な努力が必要でした。
現在はテレビで時々刻々の天気図を見ることが出来ますから、大いに役だてていますが、ラジオだけの当時は自分で天気図に等圧線を書き込んでという、のめり込みまでは出来ませんでした。日々の生活に追われて忙しくてと、これは言い訳ですが。

ところが、この勉強は無駄ではありませんでした、思いもかけないところで役立ったのです。

見浦牧場も最初は水田1.5ヘクタールの米農家でした。小板は広島県の北海道と呼ばれる寒冷地帯、稲の品種も寒さに強く、病気にも強い、他では見られない特殊な品種でノギ(モミの先から出ている鋭い毛)の赤いアカヒゲ、白いシロヒゲ、ノギのないチョウシュウ、の3品種が見浦の稲でした、比較的多収でまぁまぁの味のアカヒゲ、ノギが長くて脱穀するのに力がいりました。収量がそこそこで、藁が比較的長くて(藁細工をするのに長さも重要でした)、でも脱穀は楽でした。シロヒゲは短幹ですがノギが落ち難く食味はよくない、でも比較的多収でした。最後はチョウシュウ、米はまずいは、収量は低いは、とんでもない品種でしたが冷害には滅法強い、冷害でシイラ(籾の中が空の事)しか出来ない年も、この稲だけは実る。この3品種での米作り、このほかにモチ米がありましたが名前は忘れましたが藁は長かった。

戦後、陸羽132号という品種が入ってきました。福井の試験場で開発された有名な品種で食味は格段に優れていました。ところがイモチ病に弱い、冷害にも弱い。
私が経営を担当してからは、小板に適した品種があるはずと奔走しました。なにしろ普及員さんが推奨する品種は戸河内の町中以南の平場に適した品種、海抜300メートルと780メートルでは北海道で関東の稲を作るようなもの、アテにならないと思った。小板の寒冷は戸河内では特別、自分で探すしかない、同じ努力をするのなら、少しでも多く取れて味が良くてと、新しい品種と追い求めました。農民は保守的な反面、大変な新し物好きなのです、とても臆病ですが。そして見付けたのは藤坂5号と八甲田という東北地方の品種、これは当たりましたね。種籾の分譲依頼が相次いで見る間に普及したのですが、国の普及員が渋い顔をしたのはいうまでもありません。

臆病ですがより多く収穫したいという欲望は農民の誰もが持っている願い、新しく導入した新品種が、少しばかり温度が足らないとなると、作り方も少しずつですが変えてゆく。
例えば、水を張っただけの水苗代が、表面に油紙を張って保温する保温苗代に、更には苗床の上にトンネルを作ってフイルムを張る保温折衷苗代にと、様々な改良をし工夫をして栽培法も改良する、そしておいしい米、増収と懸命だったのです。

進化の一つに病気の予防がありました。多収穫の品種は病気に弱かった、特にイモチ病は大敵でした。これは稲の熱病で非常に伝染性が強い、この病気にかかると稲の葉が赤くなって、最後にはゆでたようになって枯れてゆく、恐ろしい伝染病でした。穂が出る前に発生するのを、葉イモチ病と呼び、穂が出てからは穂イモチ病といいました。
葉イモチ病に罹らず、やれ一安心と気持ちを緩めた途端、稲穂が白くなって傾かない穂イモチ病、稲刈りをしてハゼ干しをして脱穀(籾を落とすこと)をすると籾が全部風に飛ばされる、僅かに籾入れに集まった籾も食べられるお米は入っていない病気の空籾だけという悲惨な結果になるのです。肥料を入れて良くできた稲ほどこの病気には弱かったですね。
ですから、当時のお百姓は山草を刈って牛馬に踏ませた厩肥(ダエゴエといいました)と下肥と呼ばれたダル(人糞尿)だけが肥料でした。この方式だとイモチ病の発生が少なかったから、収量も低かった。当然ですね。

そこへ、セレサン石灰と言う農薬が出ました。これがイモチ病に大変よく効く。ただし有機水銀剤で微量ながらお米に残留する、ある程度体内に蓄積するとイタイイタイ病を発症すると言う事がわかって姿を消しました。一時は日本人の頭髪に含まれる水銀量は世界最高と言われるほど使われたのです。

閑話休題、当時小板で使われたのは3キロ入りの粉剤でして、これを手回しのダスターなる送風機と薬剤の箱とを組み合わせた農機具で散布したのです。
農業普及員という技術屋さんが稲の葉の裏表に粉が附着するよう丁寧に撒くようにと指導されていましたね。
ところが、それが大変な労力でして、泥田の中の炎天下での重労働、全部の田圃に散布するのは大変で中々普及しなかった。2-3年後に動力散粉機なる機械が町の補助金付きで推奨され共同購入し、一気に予防が普及しました。
ところが小型のエンジンが付いたこの機械は薬剤を入れるとかなりの重量、浅い田圃ならまだしも、深い田圃になるとこれも悪戦苦闘の重労働でした。何とか田圃に入らないで全面に薬をまく方法はないかと考えましたね。

話は戻るのですが前述の穂イモチ病、この病気も稲穂が出る寸前と、開花が終了した時を狙ってセレサン石灰を撒くと、ほぼ完全に防ぐことが出来ると指導されたのです。
ところが出穂前の稲は60-70センチにも伸びて茂っている、茎葉全体に附着するように散布するは、言うは易すく行なうは難しでした。

農薬はある、散布の機械もある、後は新しい散布法を見つけるだけで、この病気は防ぐことが出来る、それを見つけることで小板でも米の多収穫ができる、必死でしたね。

ある夕暮れ、焚き火の煙が、たなびいているのをぼんやり眺めていました。何かが頭の中で懸命に訴えている、何かが。
煙が地表をある高さでゆっくり移動しながら下がっている、あれが農薬だったらいいのになと、”そうだあの煙の中に農薬を吹き込んだら”と思いつきました。
思いついたら即、行動が私の身上、すぐ機械を始動して農薬をたなびいている煙の中に吹き込みました。思ったように農薬の煙も地表に留まりながら下がってゆきました。
上手くいった、さてその理由はと、農業気象の本を読み返しました。今度は気合が入っていました。

貴方もご存知のように強風の日は別にして日中と夜間では気温に変化があります。陽が射せば地表の温度が上がり、暖められた空気は上昇してゆきます。夜になれば放射冷却で地表の温度は下がり空気は下降してきます。即ち一日に2度空気の向きが変わる時がある、そのとき空気が停滞するのです。そして上昇気流が下降気流に変わる時、短い時間ですが(15-20分)を狙えば田圃の中へ入らなくても農薬は撒ける、下降気流は天の助け、短い時間でも高い効率は人間にとってもプラスでした。もっとも少し遅れると稲の葉に露がついて薬害がおきましたが。

”大畠(見浦の屋号)が又オカシゲなことを始めて“と白い眼で見ていた周囲の農家も、効果があることがわかると早速まねを始めました。ところがその理論を聞きに来る人は一人もいない、「見浦に農薬を撒き始めたから家も撒かにゃー」で始めるのだから、貴重な時間が見る間に終了、上手く行かない。
一言「教えてくれ」が見浦には言い難かった、「ありゃー高等科も中退ぞ、あいつにだきゃー頭さげとうない」、私の態度が生意気だったのですね。

一冊の”農業気象”なる専門書、難しくて正直な話、ごく一部しか理解できなかったのですが、自然現象の観察と結びついて、農作業の効率化に役立った。
この小板でも高校の農業科を卒業した青年も2人いました。でも失礼なが゙ら学校で教えられた知識が実際の農業の中に生かされているとは思えなかった。学校で何をしていたのでしょうね?教える人がいなかったか?

ともあれ、あれから60年余り時間がたちました。現在はテレビで天気図や予報も何種か見ることが出来る、おまけにコンピューターの発達で正確度も100パーセントに近い、勿論、小さな集落の天気予報は完全とは行かないまでも生活や経営には大いに役立っています。若い世代は当然との事と利用してますが、前世代の私には驚天動地の出来事の一つなのです。今日は天気予報の昔話でした。

2016.2.16 見浦 哲弥

2016年9月16日

マイカー

我が家の足はインプレッサ、彼は4輪駆動、多少ガソリン食いの傾向はあるが、豪雪地帯の小板では代えがたい能力の持ち主である。勿論、10年落ちの中古車、見浦家に住み着いて10年余りになる。マフラーが錆びて自家修理をしたが遂に新品に交換したと言うからその古さを理解してもらえるだろう。
貧乏の生涯だった私は、たった一度だけ新車を購入した。親父ドンが直腸がんで入院して小板の仕事と看病との二本立てをこなした時、当時の自家用車はマツダのR360と言う軽三輪トラック、新車の半額と言う中古車だから故障がなくて走れば幸運と言う代物。空冷のV型2気筒で360cc 12馬力、当時のマツダは営業用の3輪トラックから民生用の小型車に進出しようとしていて、そこで登場したのがR360。対抗車はダイハツのミゼット、こちらは同じ軽三輪トラックとは言ってもバーハンドル、サドルシート、単気筒10馬力、しかし、頑丈で荷物を積んでよく走る、猛烈に売れ始めていた。後発であるし同じ路線では太刀打ちが出来ない、そこでR360はデラックス路線で対抗したんだ。即ち、丸ハンドル、完全キャビン、2気筒エンジン、等々、これが当たっていっぺんに売れ行きを伸ばしたんだが、その代償は高くて故障続出、その中古車ときたら、まず非力である。公称12馬力が虫木峠を登らない、国道だよ?。チェンジをローにして引っ張るとエンジンがヒートして力がなくなる、こうなると道端で停車してエンジンの冷めるのをまつ、それを何度か繰り返して、やっと峠を越したんだ。当時のマツダはエンジンに関しては技術が低かったね。50年を経て日本の自動車会社の中で注目されるエンジンを何個か持つ現在からは想像が出来ないが。

丁度、父が直腸がんで倒れて広大病院に入院したんだ。かなりの手遅れで手術の成否が30パーセントの状態だったから、広島と小板と掛け持ちで飛び回った。その足がR360、何せ片道5時間ぐらいかかったからね、おまけに故障続出、仕事にならない。手持ちの金をかき集めて当時一番安かったトヨタのパブリカを購入したんだ。トヨタが大衆車向けとして設計した100パーセントの実用車、これは故障知らずで良く走った。今でも名車だとおもっているが、空冷の対向2気筒700cc、28馬力、前輪はトーションバースプリングで独立懸架で4人乗り、シートはハンモックで暖房は無し、徹底的に軽量化がしてあって走りは抜群で100キロ出しても怖くはなかったね。ただしエンジン音はいただけなかったね。ポポポと乗用車らしからぬ音がして遠くからでも音さえ聞けばパブリカと判る、そして空冷だから暖房が効かない、冬は寒くてね、しかし故障知らずの快適で親父の看病に通えたんだ。   
その車重の軽さは雪の多い小板で抜群の威力を発揮して、スタッドレスタイヤ出現前の雪道は頼りになった。スノーチェーン装着で走るのだが硬い雪の上なら底まで潜らない、在来車が悪戦苦闘する横を走り抜けるという荒業が出来た、今でも傑作車だと思っている。
ところが、あのボボボという排気音は不評で販売は伸びなくて間もなく改良?普通の車になった。

新車に乗ったのはこの車だけ、あとは長い人生、中古車との付き合いばかりだった。御蔭で中には名車と呼ばれる車もあって結構面白い車人生だったが、現在は20年前のインプレッサ、基本設計の良さで傷だらけの車体が東奔西走、見浦一族の貴重な足をつとめている。

目下、見浦牧場には2トンダンプ2台、1.5トントラック1台、乗用車1台が活躍中、いずれも中古車であることはいうまでもない。

敗戦直後、数少ないバス便に乗り遅れて花見に来た消防車に便乗したことがある。デフのない昔のフォードでとんでもない走り方をした。それでも車の便利さを痛感させられて、どこへ行くのも2本の脚という当時の自動車は夢の機械だったんだ。あれから70年、日本には自動車があふれている。そして、その便利さを当たり前のように受け入れている。本当は、この時代に巡り会った恩恵として感謝すべきなんだけど、誰もそこまでは思いはいたらない。

今日も牛の出荷で三次まで高速道路を走る、当然のことのように。

2015.8.17 見浦哲弥

2016年5月25日

めだし帽

めだし帽、近頃コンビ強盗の犯人が顔を隠すために愛用している帽子である。本来簡易型の防寒帽として雪国で愛用されてきた帽子なのに犯罪の必需品になるとは心外のきわみである。

例年、積雪が始まると作業帽が防寒帽にとってかわる。私の愛用品は昔、淑子が土産に買ってくれたアメリカ製の皮製の防寒帽、もう何十年も愛用している。さすが本場物、性能は私の防寒帽の中では最高品、猛吹雪の時はかかせない。次は大野モータースの社長がくれたアメリカ軍の払い下げ防寒帽、軍需品だけあって布製だが実用的には満足できる製品、もう10年余り使っている。

しかし、肉体労働の見浦牧場では冬でも汗ばむ、この点ではこの2品は多少問題がある。そこで、もう一つの愛用の防寒帽は国産のめだし帽。第一に値段が安い、おまけに軽い、そこそこに防寒である。もっとも雨には弱いが、これは数を揃えればいいと、私の越冬の目玉だったのに今冬は行方不明。仕方がないから前二者の帽子で我慢していたのだが、やはり不便、それが発見された。勿論しまい忘れ、老人のさがである。しかも何枚も発見されたから嬉しい反面、物忘れの進行を突きつけられて、こりゃ大変だと痛感した次第。

85歳ともなれば、肉体も頭脳も衰えるのは当たり前である。それが毎日6-8時間、時には10時間も働けるのだから「有り難い」と感謝しなければならないが、それと引き換えに貧乏と馬鹿正直を引き当てた。が、S君の言に従えば家族が健康で仲良くて、しかも三人の孫達が元気とくれば、この上のない幸せだと、この周りには、そんな家族は見当たらないぞと。

めだし帽が活躍するのは冬である。冬でも時期によって気象は様々、風が強い時はめだし帽では役に立たない。気温が極端に低い時は毛皮で裏打ちされたアメリカ製が最高だが、老人となった現在では帽子の多少の重さでも気になって、出来るだけ軽い方が作業をしやすいためだ。仕舞い忘れの目だし帽の出現で頭だけは豊かな使い分けができている。

ともあれ、防寒帽の心配のない春風の訪れを、千秋の思いで待ちわびている今日この頃である。

2016.2.17 見浦 哲弥

2016年5月7日

オガコ一代記 敷き料おがくず変遷記

昔は、といっても私の子供の頃、家畜の寝床は刈草と藁(ワラ)を敷くと決まっていました。化学肥料などなかなか買えない農村が貧乏だった時代、肥料の主役は牛馬に踏ませて作った草や藁の堆肥(ダヤゴエ)が主役でした。
ですから、田植えが済んだら暇があると草刈、田圃の畦をはじめとして、家の周りの草地(勿論野草です)、草刈山の柴草(野草だけでなく、笹や萩や落葉樹の芽生えまで含めて)、ひたすらに草を刈る、草刈鎌もその土地、土地の鍛冶屋さんで使い勝手と切れ味が違う、おまけに研ぎ方で切れ方も違う、熟練が物をいう世界でした。

稲刈りが済むと敷き料には豊富な藁を投入する、ところが長いまま入れると、踏み固められてダヤゴエを掘り起こして橇(ソリ)に積むのが大変な重労働になる(重量物は雪を利用して橇で運ぶ、小道と細い畦道では重量物を多量に運ぶのは困難でしたから)、そこで掘り起こす専用のコエホリなる頑丈な三つ爪の鍬(スキ)が登場する、でも堀起こすのは重労働でしたね。

冬になって2月になると積雪も落ち着き、田圃も川も一面の銀世界、橇で何処にでもダヤゴエを運べる、なにしろ2メートルをこす積雪でしたからね、雪解けまでに運んでしまわないと川やら畦が現れる、毎日が戦争でした。もちろん吹雪の日はお休みでしたが、今度は屋根の雪下ろしが登場する。何日も降り続くと雪の重さで家が鳴りまして、こちらも戦争になる。さて田圃の真ん中に積み上げられたダヤゴエの山の大きさが、その農家の働き度の指針、隣よりも家のが大きいと鼻をたかくする、素人と子供が百姓の大畠では勝ち目がない、「道路から見ると大きく見えるように幅広に積め」と親父に言われたときは、本当に悔しかったですね。

その時代から20年近くたって本格的に牛を飼うということになって最初に問題になったのは敷き料でした。
でも、当時はまだ稲作が盛んで手刈でハゼ干し(細い木材や竹で作った何段もの干し場)が主役で稲藁は簡単に手に入りました。もっとも秋の晴天にどこの家でも一斉に脱穀(藁と籾に分離する)をする。藁は野天に放置されていましてね。雨に濡らさないで集めるのは一苦労でしたが、集められた稲藁は飼料に敷き藁にと大活躍でした。が牛の数が10頭を越すと充分な敷き料とまでは行かず、牛舎は糞尿で泥寧(ぬかるみ)と化し、新しい対策が必要でした。

当時も乳牛は多頭飼育が当たり前でした。ところが搾乳牛は敷料を敷かない、コンクリート床か木床、後に厚いゴムマットになりましたが、糞尿分離で繋ぎ飼い、尿は流れて溝に入り尿溜めに、糞はバーンクリーナーなる機械で自動的に集められる、見学に行くたびに羨望のまなざしで眺めたものです。もっと子牛を生む時は分娩房に入って、ここには敷きわらが敷いてありましたが、見浦牧場の参考にはならない、中身のない頭をしぼりましたな。
ある日、ふと見た農業雑誌の片隅に読者の投稿が眼に止まりました。畜舎に厚く川砂をしいている、尿だけ浸透して糞尿が分離できるとの文でした。糞だけなら自然乾燥で処理が楽になったと、小さな農家の思い付きだったのでしょうが、妙に気になりました。
ところが、小板では砂は貴重品、小川の小板川では川泥はあってもモルタルに使うほどの砂も手に入りません。40キロも50キロも下流から運んでもらう高価な品物、とても敷料に利用するのは無理でしたが、あるとき学校の砂場が頭に浮かんで来ました。走り幅跳びや三段跳びで着地する砂場です。そういえば小板に来て驚いた事の一つだったな、砂のかわりにオガクズが厚く敷いてあった。

そうだ、砂の代わりにオガクズを敷こう。早速、戸河内の製材所にかけつけました。幾らでもあげる、実は始末に困っていたんだ、あちこちの畑の隅に置かせてももらったり、山に捨てたり。
実は私も20代のはじめ丸鋸の簡易製材をしていたことがあるのです。出てくるオガクズは厄介者、大水が出たときに溝に流し込んで川へ放流、現在なら警察沙汰、なにしろダイナマイトを淵に放り込んで魚をとるなんて、無法がまかり通った敗戦の頃でしたから。
それでも、移動製材とも呼ばれた簡易製材は周囲に立木(リュウボク)が゙なくなると、後にオガクズとコワと呼ばれる木切れの山を残して移動してゆく。オガクズの処理が問題になったことはありませんでした。

ところが、帯鋸と動力の送材台車が導入されて、中小の製材工場が設立され、精度と能率の劣る簡易製材は姿を消したのです。しかし、定置式となった製材所から排出されるオガクズの処理が問題になり始めていたのを私は気がつきませんでした。畜舎の敷料としてのオガクズの利用は、私たちにとっても製材工場にとっても利害が一致したのです。

利益に結びつくとなると、新しい技術の波及は電光の速さでひろがります。畜産屋が製材所に殺到して、取りにいってもタンクが空ということが多くなりました。私たちも対抗策として木工所も集収先として次々と開発して行きました。機械カンナのカスや丸棒削りのカス等、オガクズとは劣る木屑も利用するようになりました。工場の外に山済みするよりも見浦を利用する方が得と工場側も積極的になってくれました。

が、オガクズが容易に手に入ることを知った畜産家の中には、冬は畜舎の暖房に使えると考えたのです。敷料だけでも冬場のオガクズは使用量が増えます。その上、暖房に使用されて冬場のオガクズが取り合いになりました。ところが夏場は不要です。そのご都合主義に製材工場が悲鳴を上げました。
「見浦さん、夏場のオガクズを引き取ってもらえんか」
「取るけど、要る時は貰えんで必要が少ない時だけ処理しろというのは、少し無理と違うか」
「無料というので、勝手に積んで行くんで、どうもならん」
「それなら前金で年間幾らで全量を買い取る、それなら他人のオガクズを勝手に取ることは出来ないはず」
「うまい考えだ、それで行こう」
「では最初は年間前払い5万円で全量買い取ることに」
「よろしく頼む」。

他の工場では木屑のタンクが満杯になったら1時間以内に必ず引き取りに行くと約束したりして、実行しました。約束ですから不要のオガクズは牧場の片隅につみあげたりして、5年も経つと見浦はあてにできると評価が確定しました。なにしろ、タンクが満杯でと連絡しても「今日は忙しい」と返事をする畜産家もいたそうで、ますます信用が高まって20年くらいは敷料の心配はしなくて済んだのですが。

ところが日本経済が発展するに連れてオガクズの環境にも変化が起きました。まず、簡易製材が姿を消し定置型の製材工場が旧町村ごとに現れました。その工場に山積みされていた国産の松や杉の丸太が消え、直径が1メートルもある外国の丸太が何本も置かれるようになりました。そして身近なホームセンターに製材された輸入木材の製品が並ぶようになりました。
森林組合の年間報告書に国産材の使用が20パーセントに落ち、外国からの木材製品に置き換わったと記されるようになりました。製材所の丸太置き場に山積みされていた外材も見られなくなり、次々と製材工場の廃止が起き、とうとう大田川流域の区域では1箇所になってしまいました。しかもフル操業をするほど原料が集まらない、従ってオガクズも手に入り難くなりました。もっとも近隣の牧場も廃業が相次いで、見浦牧場が生き残っているのが話題になる現状でしたから消費も減ったのですが。

しかし、需要があれば供給が必要、そこに商売が発生する。廿日市に木材港と呼ばれる輸入木材の拠点があります。したがって大規模な製材工場もある。思い余って電話をしてみたのです。担当者いわく「発生単位が大きくて、小さな個人牧場は対象にしていない。しかし、貴方が望めば搬送業者は紹介できる」と。勿論、お願いしました。

そして、連絡してきたのが、4トントラック1台で営業している Oさん、お会いしてみると、気さくな人のよさそうな運転手さん、専用の車で23リューべが2万5千円、ためしに1台御願いすると最高級のオガクズが納入されました。そこで毎月1台で契約、現金決済というのは辛かったがオガクズの心配はなくなりました。従前の引き取り先も減少したとは言えオガクズは発生していましたから。
ところが安定していたのは2年くらいだったかな、日本経済が混迷してデフレになっちゃった。おまけに政治が右往左往、適切な対応が出来ないものだから、経済も縮小するばかり、中型や大型まで製材所が廃業してゆく、したがって、ここでもオガクズの取り合い、価格がみるみるうちに高騰、4万円になって、それでも計画どうり納入してくれれば、我慢するのだが、納入が2ヶ月おきになり、3ヶ月ともなると対策を立てざるを得ない、本気になりましたね。

最初に考えたのがチップ工場、様々な原木を粉砕して製紙工場に原料として納入する、その際発生するのがダストと呼ばれる微粉と木の皮、これが代用にならないかと。勿論、オガクズに較べれば効果は数段劣ると判っていましたが、高騰を続けるオガクズにはもう頼ってはいけないと。ところが吸湿性がよくない、したがって多量に投入する必要がある、購入場所が往復で70キロと今までの倍の距離、欠点を数えればきりがありませんが、オガクズの代用が出来るかどうかが重要な点でした。

思い立ったら実験するのが見浦牧場のいいところ、牛は迷惑でしょうが直ちに実施、敷料としての厚さ、オガクズとの併用、単独使用、そして使用済みの敷料の発酵の状態、やることは山ほどありましたが、いずれも時間が必要な条項ばかりでした。

テストを始めて1年が経ちました。吸収力は劣るものの、多少は糞と尿が分離するので、案外敷料の役割を果たしてくれる、ことに木質部のオガクズと違って皮の部分は腐りやすいこともあって発酵も良好でした。ただ粉砕し切れなかった木切れが混在する、この堆肥を機械で圃場に撒く事ができるかが課題として残りました。しかし案ずるよりは行うは易くで、機械は順調に散布してくれました。もっとも大きな木片は手で拾いますが。

次から次へと新しい問題がおきる見浦牧場、でもまだ挑戦するエネルギーが残っているようです。

今日も巨大製材工場のオガクズを満載した巨大トラックが島根の巨大牧場へ見浦牧場の傍らの林道を疾走してゆきます。その巨大に抵抗して、ささやかな見浦牧場が智恵で対抗しています。そんな見浦牧場に理解と声援を御願いしたいと思うのですが。

2013.9.10 見浦 哲弥

2015年9月14日

春、草との戦い

小板の春はめまぐるしい。根雪が遅くまで消えないのが原因で、役場周りは春なのに車で20分の深入山は雪が居座る。そのため春は小板を駆け足で走り抜ける。
ところが牧場屋にとって、その急変は大変な重圧なんだ。西日本には梅雨がある、同じ春の遅い北海道はそれがない、この違いがこの地帯の重圧だったんだ。遅い春とかかさず訪れる梅雨、その短い期間の間に、雪で破損した牧柵の修理、1年間の溜まった堆肥の散布、そして一斉に伸びる牧草の刈り取り、これらの作業が殺到するんだ。おまけに牧場の大敵のギシギシ君(雑草で大敵)も懸命に成長する、除草剤のスポット散布が待ったなしと来るから、牧場の人間は春を楽しむ余裕などない。桜が咲いたねと横目で睨むだけ、新緑が綺麗と都会の車が土日には殺到するが私達にとっては異次元の話である。

しかし、私の長い人生の中で一つだけ激変した事がある。それは牧草の処理である。先にも話したが、春先に急激に成長する牧草は、年間で収穫する収量の2/3にも達する。在来の野草は牧草のような急激な成長はしないので、田植が済んで畦や家の周囲の草刈、梅雨が終わって草刈山の干し草刈と何とか農作業にパターン化されていたが、開拓で造成した牧草地の春先は異次元の世界だった。
何しろ、最盛期には一日で何センチも伸びる、野草と違って収量も桁違い、まだ少なかった牛達に懸命に刈り取っても膨大な草が余る、それは刈り取って貯蔵するしかないが、問題山積だったね。その笑い話のような経過を今日は聞いてほしい。

冬の牛達の食料のため干草を作るのは昔から行われていた。ただし、真夏の梅雨明けからお盆(この地帯は8月15日)までの強烈な日差しと晴天が続くことが条件、それでも最低3日の晴れが続くことが必要だった。しかし、その真夏も8月に入ると夕立がやってくる。折角の干草も1度の雨で草の養分の40パーセントが流れてしまう。ただし1回の雨なら、牛君は文句を言いながら食べてくれるが、3回となると見向きもしなくなる。干草づくりはお天気との戦いだったんだ。勿論、各地に測候所が設置されて、百葉箱とよばれる観測器がみられたし、戦後は高空気象の調査のためラジオゾンデが上げられていた。しかし、現在のように正確な予報でないので当たるも八卦、当たらぬも八卦と言う条件の中で、梅雨前の干草など不可能に近い。それでもスプリングラッシュがやってくる。何度も何度も挑戦して泣いたんだな。そして処理できないうちに梅雨に入る、1ヶ月近くの雨続きのうちに牧草は1メートル以上に伸びて花が咲き、種をつける、でもあと少しで梅雨が晴れる、そうしたら干草ができると神頼み、ところが伸びに伸びて頭が重い牧草は雨降りにそよ風が吹いただけで倒伏、広い牧草畑が絨毯を引いたようになり、腐り始める。おまけに根まで腐って裸地になるんだ。泣くに泣けないとはこのことだったね。

当時、中国山地で肉牛として和牛を飼うと農業の次の展開を考えた人間は少なからずいた。上は国の農水省から、県の畜産関係の部署から、末端の私達、農家に至るまで、研究会と称して講習から見学会まで、戸河内から高田郡へ見学に行った時は40人乗りのバスが満杯だった。それが50年経った現在、加計、筒賀、戸河内3日町村合併の安芸太田町で牛を買っているのは2件、しかも、後継者がいて長期展望で経営しているのは見浦牧場だけ、如何に困難な道だったか、もっとも、少々思考のちがう私達はとんでもない大仕事とは思ってはいなかった、ただ目の前にある問題を一つ一つ徹底的に追っただけ、それが農学の範囲を離れようが、離れまいが、自分達が納得できる答えを追い続けただけなんだけど、外部の人には変わり種の農民と見られていたらしい。

それは牧草の対策でも同じことだった。もともとが理科系の頭だから(電検の3種と2種をもっている)一つ一つ納得しないと前へ進めない。例えば牧草の刈り取り、昔からの日本の鎌でも刈れない事はないが、田圃の畦ならまだしも広い牧草畑では能率の上がらないこと、まさに蟷螂(カマキリ)の斧の状態なんだ。そこでオーストリアの西洋鎌を購入したんだ。ところが私の時代の日本人は体格が小さい、日本の鎌よりは能率が高いが疲労が激しくて仕事にならない、鎌の構造も違い研ぎ方も違う、おまけに日本の在来草が混じると能力がガタ落ちになる、勉強にはなったが見浦の戦力にはならなかったね。

その次は背負いのエンジンカッターと中古の軽トラック、猛然と伸びるスプリングラッシュに立ち向かうには、恐竜に立ち向かうドンキホーテといった感じで能力不足で畑には牧草が腐っているのに牛は腹を減らすという笑い話、仲間達があきらめるか、農機具屋の口車で借金で外国製の大型機を導入する中、見浦牧場は身の丈のシステムを追い求めたんだ。
さて、その頃、農業の近代化の掛け声で国が補助金と融資をすると声がかかった。14ヘクタールの牧草畑に悲鳴を上げていた私は借金に嫌悪を感じながら、その話に乗ったんだ。そして当時ようやく本格的なトラクターの製造を始めた24馬力のクボタトラクターを購入することにしたんだ。ところが当時の制度は補助金は個人でなく、その地区の農業集団を通じて申し込まなければいけなかった。そのボスが牧場に必要でもない付属機までつけて注文してくれた。御蔭で1/2の補助が1/3の効果しかなくて、貧乏のどん底の見浦牧場は苦しみを増やしたんだ。それに懲りて翌年から少しずつ購入した作業機は全て自前、和興農園の後粗末を押し付けられていたし、今考えると良く凌いだもんだ。それで最初に購入したモア(トラクターにつける作業機、モアは草刈機)はレシプロ(バリカン方式)国産の4フィートだったね。時は外国製のロータリーモアが輸入され始めていてお隣の牧場は70何万円の最新型、見浦牧場のモアは14万円、個性の強い機械で中々満足に動いてくれない、勉強もしたが苦労の連続だった、レシプロモアは石ころに弱い。運動しているナイフに小石が入ると曲がるんだ、ひどいときはナイフが折れる、途端にその部分は草が切れない、作りたての我が牧場は拾い残した小石が多い(「無限大」の文章を読んでください)、限られた天候の中の分解修理に何度泣かされたことか、それに比べお隣の外国製の能率のよさは垂涎の的、世は金の時代と悔し涙を流したものだ。もっとも24馬力のトラクターでは力不足で動かすことは不可能だったが。
そのモアの悪戦苦闘の最中に日本人の優れた特性を見た。当時、国産のモアでもナイフは北欧製だったが何年かして国産のモアの刃が供給されるようになった。硬くて切れ味が良くてそこそこの価格だったが、使ってみると大きな欠点があった。硬すぎて石をかむと折れるのである。北欧製の刃は曲がってもよくよくの事がないと折れない、圃場でハンマーで曲がりを直せば使える、そんなところにも先進地の知恵が秘められていた。
あれから日本型のコンバインが普及して稲作用では世界で高い技術を誇る、その刈り取り部のモアは手入れをしなくても能力が高い、日本の農業機械も大いに進歩したのだから、農業も進歩したかと問われると反省しきりになるのだが。

少しづつ牧草機械をそろえていったが、牧草の保存は干草が主流、降雨量の多い小板での干草は問題が多かった。当時は他にはサイレージしかなかった。七塚原の牧場で働いときから各種のサイロを見せてもらった。歴史的な木造のタワーサイロから石つくり、ブロックつくり、地下サイロなど、いずれも少なからぬ資金投入が必要な施設である。繰り返すが貧乏の私達、サイロ用のブロックを買い込んで3トンのミニタワーサイロを建設したんだ。確かにサイレージは出来たが材料の草の吹き込み、小さい取り出し口、手間のかかることおびただしい。さすがこれは主力にはならないと早めに諦めたんだ。それでもサイロ関係には色々な製品が出現した。合成樹脂と袋に詰め込むバックサイロ、結束した牧草を積み上げビニールフイルムで被覆するスタックサイロ、等々、牧草の保存方法は畜産関係者の難問の一つだったんだ。勿論、我が見浦牧場も試行錯誤、失った労力も資金もとんでもない大きさだった。

そこに登場したのが工場生産のタワーサイロ、鋼板で製作され新しい技術で塗装されたサイロは良質なサイレージの生産を可能にした。ところが原料を詰め込むのも取り出すにも専用の機械が必要なんだ。大型の200トンサイロは外国にも普及し始めていたから、それなりの専用機械が販売されていたが10トンや20トンの小型サイロは日本独自のもの、コスト的に和牛牧場が採用して採算を取るなど不可能、それでも島根の金城牧場で200トンサイロが林立しているのを見たときは、自分達の和牛牧場が成功するとは思えなかったね。ところが、何度目かの見学で最新サイロにも問題を抱えていることを知って中国山地独特の技術を追求することで、可能性はあるかも知れないと思ったんだ。
そんな折、愛読していた農業誌にロールベーラーの紹介記事が出た。水分が70パーセント以下になればフイルムでラッピングをすればサイレージになる。それから色々な本で確認をしたね。その結果は、これが唯一の解決策だと確信したんだ。
機械で巻き上げたロールの直径で機械の大きさを表す、輸入品は160センチと120センチ、国産化して小農の要望にも応える形で現在は60センチと90センチがあるが、私はドイツのアッセンブリの機械、タカキタの120センチを選んだんだ。しかし高価な機械でね、340万もする、ロールにフィルムを巻く機械は北欧製で100万円弱、貧乏人が出せる金額ではない、農林事務所に補助金の申請書を出して、残りは長期の低利融資を受けることで購入が出来たんだ。ところが問題があって、当時の見浦牧場には中古で買った38馬力のトラクターしかない。これでは平地では何とかなっても斜面ではベーラーを牽引することができないのではないかとクレームが入ってね。牽引できない斜面では空で上部まで上がって下りで作業をすると説明をするやら大変だった。
それや、これやで何とか機械は導入できた、作業も何とかこなした、ところが問題はそれからだった、運搬はどうするかである。トラックの荷台に歩み板を並べて押し上げる、当時、最初の24馬力のトラクターはフロントローダー(小さな土砂用のバケツが付いた荷揚げ装置)が付けてはいたが、どんなに頑張っても200キロ止まり、押し上げるしかない、さて折角の機械が宝の持ち腐れになると思案していたら、家内の晴さんが一言「戸河内のガソリンスタンドから貰ったトラックは使えんかい」。
考えてみればスタンドの配送用に使われた車、後部にドラム缶の積み下ろし用にリフトがある、荷台は小さいが2本同時に積み下ろしが出来る、ただしリフト重量は400キロ、でも力が足らなけりゃ人間が助けりゃいい、軽けりゃ1人、重けりゃ3人もちあげる、それなら使えるぞ。
しかし、ドラム缶用の荷台は小さいので改造が必要、当時はガス溶接の設備しかなくて、素人で、500キロにも耐える改造は至難の業だったね。
出来上がった改造車は3個のロールを積んで大活躍、随分長いお世話になった。廃車になっていたくらいだからエンジンの不調には泣かされたが。

そんなこんなで、一応牧草の収穫貯蔵のシステムが完成したんだ。このシステムは予想外の成果をあげて、牧草はおろか野草まで草と名が付くものは何でも貯蔵できる、水分70パーセント以下という条件に配慮さえすれば腐敗することはない、水分が少なければ干草の野外貯蔵にもなる、小板での草システムの完成であった。見浦牧場のような年間放牧の冬季飼育にはもって来いのシステムだった。ただベーラーがカッテングシステムのない旧型なので、給与時に少々無駄が多いが、荒い野草も刈り込む見浦牧場では牛が不可食部分を選別して食べると思えば我慢が出来る。

こうして小さな貧乏牧場が牧草の一貫処理のシステムを作り上げた。あれから、もう20年あまりにもなる。ラッパーを駆動するのは廃車のトラクターの活用から現在はミニショベルの廃車が動力を供給している。何台か揃った中古のショベルを動員すれば、一人でも刈り取り、集草、ローリング、ラッピングと作業が流れる。問題は我が家のベーラーは初期の製品で生産台数が少なく、部品の供給がおぼつかないことだが、にわか修理屋の親子が知恵をしぼり、アイデアを出し合いながら動かしている。

付け加えるとベールローダーには構造的に、芯から固くかためる芯巻き式と、外側から巻きしめる外巻き式の2種類がある。水分大目の干草を芯巻き式で巻きしめて芯部から発熱、火事になったと報告があって、見浦牧場は外巻き式である。

こうして私達の羨望の的であったタワーサイロは目標ではなくなった。出入りの農機具屋のセリフ、「私らタワーサイロのある農家には用心してセールスに行くんだ。ベーラをすすめたら、タワーサイロを作る前に言え、と怒られる」と。

ともあれ、この地帯の牧畜のブラックホール、牧草の保存は体系が出来上がった。石油資源が枯渇してラップが手に入らない事態が生じない限りこの方法は生き残るだろうし、この方式の放牧型和牛飼育は定着するだろう。挑戦を始めてから50余年、成功はしなかったが道筋だけは作り上げた、これが私の誇りなのである。

世人からみれば取るに足りない成功談、小さな小さな積み上げだが、そんな集積が日本社会だと思っている。

2015.6.30 見浦哲弥

2015年8月26日

スーパーデキスタ

スーパーデキスタ、イギリス製の農業トラクターである、出力は38馬力、私が牧場を始めようとしたころ、垂涎のトラクターだったんだ。貧乏な農村青年にとって夢のまた夢の機械だったんだ。

最初に購入したのはクボタの24馬力のトラクター、純国産でね。トラクターとはいいながら、耕運機メーカーのクボタが初めてトラクターと称して売り出した代物、外国製の機械に較べると一世代遅れていた。おまけにボディが折れる事故など起こしてね。ほかに変わる機械がないので騙し騙し使っていたんだ。そこへお隣から「新車を購入したから、今まで使っていたゼトアの38馬力のトラクターを買わないか」と来た。60万円の価格は痛かったが、なけなしの金を集めて購入。これが大変な機械でね。機械を知らない前の持ち主がうまく行かないとて分解組み立てを繰り返したもんだから、故障山積。でも東欧一のメーカーの製品とあって動けばクボタに倍する能力を上げてくれたが、電装品が悪くて、パーツが入り難い、ハンドルが重くて、操縦し難い機械でね。それでも故障しながらでも30年近く動いたかな。最後は油食いの原動機としてボロボロになるまで使ったんだ。

この機械で悪戦苦闘しているとき、ある代理店のセールスが機械の好きな牧場主が2台を1台に組み替えた2コイチのトラクターがあるが買わないかと来た。運んできて20万円、一応動くものの故障修理は自分でやってくれ、部品供給はするが代理店の保障はないと。それは、私が牧場を始める頃に油木の種畜場で見たスーパーデキスタ、当時の世界で中型トラクターとしては最高級の機械だったんだ。たしか新品は200万円は越していたはず、和牛の子牛が10万円余りだったから、計算してくれたまえ。その機械が油木の種畜場では複数走り回っていたな。

それが素人の組み換え品とは言え、一応は動く機械が20万円、貧乏人の見浦牧場が買い取ったのは無理がなかった。ところがセールスが帰って動かして問題がでた。燃料系統に漏れがあった。その程度のことは貧乏農場の常として修理はお手の物、かくして、この機械がフル回転をし始めたんだ。
ところが半年もしたろうか、エンジンブロックから漏水が始まった。さてはと観察すると5センチばかりのひびがある。不凍液の投入を忘れて凍結させたらしい。修理が悪くて漏れが始まった。素人の組み換えを承知で購入した機械、文句を言って行くところはない。対策には知恵を絞ったね。

考えた結果、傷にブリッジを溶接し鉄セメントを塗布したんだ。これが大成功で、以来20年あまりモア専用機として活躍した、今年もまだ動いている。
何しろ、セルモーターはあるもののピニオンギヤは手動で押し込む、油圧はドラフトはなくシングルである、ブレーキはシュー、変速は3速、パワステは勿論ない、トラクターの祖先みたいなデキスタだが使いやすさは抜群、寿命の来はじめた現在もデスクモアとコンビで活躍している。

2015.7.22 見浦哲弥

2014年8月30日

一輪車

最近は何処にでもあって珍しくなくなった一輪車、中国名は孤綸車、昔の農機具の本の挿絵で見た。

私が子供の頃、納屋の隅に小さな荷車の車輪が心棒つきでほってあった。何をするものかと随分思案したものだ。小型の大八車の車輪の片割れとすれば小さすぎるし、第一、片割れだけほってあるのが解せない。

そこで親父ドンに聞いて見た。彼いわく、昔は狭い畦道で物を運ぶのにはオイコ(ショイコとも言う、今でも強力さんが荷物を背おうて運ぶ時につかう使う道具)か、天秤棒で担ぐしか方法がなくて、なんとかならんかと弧輪車を作ることにしたんだ、ところが小さな車輪は店で売っていないので広島に特注して作らせたんだと、いきさつを話してくれた。もっとも車輪だけ放置してあったのだから、うまく行かなかったのでしょうな。

ところで本の挿絵の弧輪車は曲がった天然木を加工して車体としている。再現してみようと思っても、当時14,5歳だった私の能力では、そんな加工は出来ない。そこで考えたね、真っ直ぐな角材を組み合わせて出来ないか、それでなら先端に心棒の通る穴を開けて、あとは釘打ちでなんとかならないかと。今でも、その性格は変わらないが思い立ったら即実行が私の性分、出来上がった代物は今では想像も出来ない不恰好な代物だったが何とか荷物は積めた。早速、田植えの苗運びに使ったのだが、大切な事を見落としていて実用にならなかった。なぜ実用にならなかったか?それは田圃の畦は柔らかい、従って車輪がめり込む、押すのに大変な力が要る、重いものを少しでも楽に運ぼうと考えたのにね。もっとも固い道では多少は便利だったと覚えている。が、そんなわけで苦労して作り上げた弧輪車も再び放置される運命になったんだ。

ところが狭い道を楽に物を運ぶと言うことは誰もが考えたことらしく、小さなゴム車輪が売り出された。確か広島の横川にあったリヤカーなどを作る会社だったと思う。それは車輪軸にベアリングが使ってあった。早速購入して一輪車を製作して愛用した。もっともパンクと言う新しい現象を伴ってきたが、これは畦道で使えたんだ。

そのうち細いパイプで組み立てられ、タイヤの直径が少し大きくて細めの一輪車が工場生産されて店頭に登場した。これは軽くて安定していて3,40キロの荷物が積めたので、手造り一輪車はたちまち駆逐されたんだ。もっとも値段は高くてね、貴重品だったんだけれど。

販売店が農機具屋からホームセンターに変るようになり、安売りの目玉商品になって貴重品だった一輪車も気軽に買えるようになった。勿論、国産品は安価な中国品に駆逐されて姿を消して、溶接の不具合や、タイヤの空気漏れなど問題点が数多くあるものの、安くて便利と一家に1台はもとより2-3台あっても不思議ではなくなった。壊れたら買い換えればいい、空気漏れも安い空気ポンプを買ってつぎ足せばいい。

そんなわけで何千年か昔、中国で発明され、何百年か昔、日本に伝えられ、明治の小板で親父ドンが苦労して試作した一輪車は、今はどこの農家にもある使い捨ての道具になった。スクラップの山の中にその残骸をみると、時のながれを感じるのである。

2014.7.4 見浦哲弥

2014年5月4日

牧場の大敵 ウシスイバ

牧場主にとって大敵がいくつかある。熊をはじめとする野生動物、熊、猪、狐、狸、カラス、等々。
その次が天候不順、景気の変動の牛価の低迷、悪天候による飼料価格の高騰、その結果の資金繰り等々。
まだある、牧草地の雑草だ。なかでも大敵なのはウシスイバ、正式名をエゾノギシギシ。何しろ宿根性で巨大な根っこで何年も生き残る、おまけに無数の種が出来て何年も発芽力を失わない、そして肥料の吸収力も絶大、牧草も作物も見る間に駆逐して一面のギシギシ畑になる、たった一つの弱点は強い日光が必要なことだけ、直射日光が当たらなくなると生育が止まる、従って林の中には進入できない、いや畑が林地化すると絶滅してゆく、しかし畑や牧草には大敵である、何年も耕さずに利用する牧草地にとってこれほどの大敵はない。牛は食わないからね。
牛は同属のスイバは食ってもギシギシだけは口にしない。だから牛も食わないウシスイバの別名があるのだ。

この草がこの地方に侵入したのは牧草の種子にまぎれてのこと。牧草の種子といえば北海道、北海道は近代畜産の先進地、ここで生産した種子のなかに含まれてギシギシ君がこの地方にやってきた。内地の農民達がその恐ろしさを知らないうちに定着したという。
勿論、新米畜産家の見浦牧場はその本性を知る由もなかった。気がついたら猛然と繁殖を始めていた。そこで慌てて参考書を読む。そしてかの草が世界の3大悪草の一つと知ってその対策に奔走したという次第。

では北海道はどうしているか、調べたら”ギシギシ抜き”なる鍬が売られていることを知った。丈夫な2本の爪が付いた鍬、これを根っこに刺し込んで掘り起こす。何しろ無数に枝分かれした根っこが一部でも切れて残ったら、そこから再生するという、とんでもない植物。切らないように掘り起こすのも技術がいる。地上部といえば大きくなって一本で1万粒の種子を落とし、それが発芽率が高いと来る。弱点はたった一つ、日光だけだ。ただそれだけ。
畑も牧草地も太陽の光を充分に利用することで生産をあげるのが仕事、その環境がウシスイバも最適とのたまう。肥料の取り合いでも負けないとくると手も足も出ない。折角の牧草地がみるみるギシギシ畑に変化し始めて家族全員でギシギシ抜きに奔走。子供たちに一本1円の奨励金をつけた。始めはいやいやで挑戦した彼達は1年目のギシギシは根っこが枝分れのないことに気がついた。これなら簡単に抜けると本数を稼ぐ。夕方計算したらとんでもない数字になった。財布の軽い貧乏親父、一日で悲鳴を上げてジ・エンド、そんな笑い話もおきた。

さて、対策の歴史だが、水田も畑も除草剤なる新しい手段を人間は見つけたが、畑に使う薬も人間に害を及ぼしては困る、残留して家畜に害をしたのでは何のために使うのかという事になる。そこで該当する除草剤を探し、ようやくたどり着いたのはアージランなる除草剤、これを水溶液にして噴霧器でギシギシにかける、効果的で能率も高いのだが、残念ながら欠点がある。栄養成長が繁殖成長に入ると効かなくなる。即ち花が咲いて実がつきはじめるとギシギシ君、アージラン何をするものと効果がなくなる。小板の春は牧草もギシギシも猛烈に成長して、花が咲くのも早い。おまけに春先は牧場は眼が回る忙しさ、雪で壊された牧柵もなおさなければいけないし、遅れた畜舎や運動場の掃除、堆肥撒きなど仕事が山積している。おまけに中古機が主力の見浦牧場では機械連が連盟で故障をうったえる、明日はギシギシ退治と思っても日延べ日延べの連続、やっと牧草地に出てみればギシギシは我が世を春とばかり成長して花ならまだしも早い奴は実が黒くなり始めている。こうなるとアージランは効果がない。選手交代でカソロンなる除草剤の登場である。この薬は粒剤で500CCくらいのポリの空き瓶に入れキャップに5ミリ径くらいの穴を開けて持ち歩く、この時期のトラクターには必携の備品でギシギシを根際から刈り取る小さな鎌と刈り取ったギシギシを入れる飼料の空き袋との3点セットは必携である。ところがアージランと違って刈り取りと薬かけと工数が増えて、おまけに刈り取ったギシギシの種が落ちないように袋に入れるのも細心の注意が必要、その上もちかえっての焼却と、工数が増えて能率が上がらない。これをあきれずに何十年も続けたのだから、俺達は農民だと自己満足をしている。

ところが一般人はこの草が世界の3大悪草とはご存じない。今やいたるところでご面会となる始末。山の中でも日当たりが良くて肥料分の多いところには、ちゃんと生育しているから、油断するとすぐ進入してくる。勿論、田圃の畦も例外ではない。大株になって花が咲いているのを見るのは精神衛生上まことによくない。

しかし、この世界でも進歩がある。新しい除草薬がでたのだ。アメリカのマクドナルド社のラウンドアップなる除草剤。何しろ葉にかけるだけで根っこまで枯れる、土壌に接触すると速やかに無害の物質に分解する、おまけに散布時期を選ばないという特徴のある薬剤。ところがパテントがあって高価、それでも見浦牧場は、なけなしの資金を注ぎこんだ。ま、スイバ抜きなる道具を振り回して何ヘクタールのウシスイバと戦争よりは良くなった。色々と批判のあるマクドナルドだが私は感謝している。

9月ともなると、草地のいたるところで見逃したウシスイバの種が熟れる。真っ黒に色変わりしたウシスイバが草地の中に散在するのを見るのは辛い。したがって再びカソロンの3点セットがトラクター備品となる。いちいち機械から降りての作業は能率が悪いが欠かすことができない。見浦牧場のトラクター作業の能率の低さがここにある。

二番草を刈ると、さすがのギシギシも花を咲かせ実をつけることはまでは出来なくなる。ひたすら葉を伸ばして越冬のための栄養の蓄積に努める。それを横目で見ながら見落としの黒い穂はないかと神経を尖らす。しかし、今年のギシギシ戦争ももうすぐ終わりである。

牧場を始めて50年、毎年のギシギシ戦争にも変遷はあった。これからも奴らとの知恵比べ、何処まで続くのかは知らないが、自然という奴はとんでもない強敵を送り込んでくれた。ギシギシ君はその内の小さな巨人。

しかし、私も日本の農民、面子にかけてもこの小さい戦争を続けてゆく。来年も待ってろよ、ギシギシ。

2013.10.3 見浦哲弥

2013年1月8日

ウインドロー

岡部先生がこの牧場にお出でになる様になって、3回か4回目かに「見浦君、乾草が2日で出来ることを知っているか」と、聞かれました。「ええ、知っています、条件がよければ、この牧場でも2日で仕上げています」と申し上げると、不思議そうに「どうして、君はその事を知っているのか、日本では3日以上かかるのが常識なのに」と、聞かれたのです。
私にとって当然のことを、不思議そうに聞かれた先生に一瞬とまどったのです。今日は、その話を思い出して見ましょう。

昭和46年に見浦牧場の一番大きな牧草地が出来上がりました。1区画8ヘクタール、何しろ小板部落の水田総面積が20ヘクタールというのですから、当時は広大だと思ったものです。
春になりました。牧草が一斉に伸び始めます。見事な光景と感激したのは何も知らないからで、それを刈り取り、運搬し、牛に食わせて、余った草を貯蔵する、それがとんでもない大仕事で、その解決に何十年もかかったのですから、知らぬは仏の話はここにもありましたね。

勿論、ここ小板でも昔から草刈はありました。刃渡り30センチほどの手鎌で、なぐり刈と称する、この地帯独特の刈り方をする、ですから他の地方とは芸北の鎌は微妙に刃の曲線が違っていました。

殴り刈りというのは左手に固めの少し長い草を持ち、その草で前方の草を分け、曲がった草の根元に鎌を打ち込むようにして刈る。実演すれば簡単な動作も、文章で説明すると大変ですが、少ない力で多量の草が刈れる、質より量の方式なのですが、刈り取った草は不揃いになり勝ちです。

もう一つ握り刈り(にぎりかり)という刈り方もあって、これは左手で草を握って根元に鎌を入れる。
刈り残りはないし、刈り取った草は根元が揃ってきれいです。いかにも仕事が丁寧ですと宣伝しているように。しかし、能率の悪いこと。

動員で働いた牧場で殴り刈り方式で草刈をしていたら、仲間に「見浦は横着な草刈をする」と幹部に密告され、こっぴどく叱られました、この農場では握り刈りの方式でしたから、でも能率は何分の一以下でしたね。
このアホが何も知らんでと思いましたが、時は戦時下、口答えはとんでもない報復を受けます。我慢我慢、でも悔しかったですね。

ところが8ヘクタールの牧草地、見事に育ったと喜んだのも束の間、草は凄い勢いで育ちます。
最初は手鎌で殴り刈り、草の短い間は、さすがの殴り刈りでも量が刈れない、柔らかい牧草は鎌にまきつく、牛が食べるだけの量を刈るのも大変でした。ところが春先は牧草の成長は尋常でない、スプリングラッシュと呼ぶ現象だと教えられましたが、この時期の牧草の伸び方は手鎌で追いつく代物ではありませんでした。

そこで参考書を読む、西洋では牧草を西洋鎌で刈っていると記載してある、早速オーストリヤ製の西洋鎌を買い入れて挑戦。ところが西洋鎌は形が違うだけでなく、つくりも仕組みも異質、それを理解するまでが大変でした。ここにも異文化を理解すための苦闘がありました。

さて、日本の鎌と西洋の鎌は形が違うだけでなく構造までもちがうのです。ですから、そこが判らないと、刈り方も、研ぎ方もうまく行きません。事はついで、その説明もしておきましょう。

日本の刃物は柔らかく粘りの在る軟鋼と、脆いが堅いはがねを組み合わせて作ってあります。そのはがねが中心にあるのが両刃、片側に付いているのが片刃、草刈鎌も二通りありましてね。(ちなみに芸北鎌は両刃でした。)ですから、刃砥ぎも荒砥、中砥、仕上砥と3種の砥石を使って両刃は両側から研ぐ、剃刀のように切れるように、朝露の草刈は滑る様に切れるのが農夫の自慢でした。

西洋鎌は一種類の鋼で作られている、軟鋼よりは堅く、鋼よりは柔らかくて、日本の鎌の2倍もある大きさにもかかわらず軽い。長さは50センチあまり。
それに金属の独特に湾曲した長い柄がついて(木製のもあるらしく、見浦牧場が手に入れたのは金属製でした)、それで日本の鎌と大差ない重量、とにかく軽いのです。薄い鎌は強度を保つため曲面になるようにプレスがしてありましてね。

おまけに切れなくなったら、刃先を金床でハンマーで薄くたたき延ばし、棒状の荒砥でさっと削るだけ。
説明書には日本の鎌との違いや、独特の使い方の説明はなくて、使い方は知っているのが当然と記載してない、エイままよと芸北鎌のように使ったら草は切れなくて、鎌の方が曲がってしまいました。

西洋人は使えて日本人はうまく使えない、同じ人間なのに何故と考える、それが見浦の悪いところで、仕事をおっぽり出して、ああでもない、こうでもない。
試行錯誤の結果、横に滑らすと日本鎌には及ばないものの、牧草は気持ちよく大量に刈れる。
さすが西洋人と感心しましたね、もっとも日本の野草には無力でした、郷に入っては郷に従えの言葉のように。
ところがもう一つ問題がありまして、体力が入るのですよ。体格的に西洋人に劣る日本の農夫には、この鎌での長時間の作業は苦痛でしたね。

さて、ここ西日本は梅雨なる現象があります。6月の半ばから7月の中ごろまで、毎日毎日雨が降り続く。牧草にとって絶好な条件でして、朝草刈をしたのに夕方には、もう2-3センチも伸びている、そんな猛烈な生育をするのです。
見事に伸びた牧草が刈り取られないままに、倒れて腐ってゆく。これには、おまけがあって、倒れた草を放置すると牧草の根まで腐って野草地に変わってゆく、踏んだり蹴ったりの状態になるのです。

ところが適期に刈り取ると、肥料さえあればすぐ伸びだして再生する、年に3回も4回も刈れる。牧草は野草とは異なった凄い能力を持っていたのです。
ですが、適期刈り取りと口で言うのは容易いのですが、実際には不可能に近い。なぜなら、この地帯は年間雨量2200ミリ、とんでもない多雨地帯なのです。おそくまである根雪が消えると一度に春がやってくる。
牧草の成長が春先に偏るので余った草は貯蔵しなくてはいけない。勿論乾かして蓄える干草はこの地方でも昔からありました。お盆前の1時期、晴天が暫く続くのです。好機到来とばかり家内総出で干草作り、毎日草刈山に通いましてね。

こんなことが続いて、牧草つくりは在来の草作りとは違うと気がついて、必死で勉強を始めました。
参考書を読む、牧草の成長を観察する、見学に行く。
西洋鎌の勉強などは序の口でしたね。そんな時14歳の時の動員で七塚原牧場で過ごした経験と見聞は役に立ちました。牧草畑で馬が引いてはいたものの、草刈のモア、テッダー、レーキ、などの機械、西洋鎌や牧草用のホークなどは、そこで見たのでしたから。

しかし、転作の田圃まであわせると15ヘクタールの牧草畑、鎌やホーク、肩掛けの草刈機などでは、どんなに働いても処理できる量ではありませんでした。まさにドンキホーテ氏、風車と戦う、そんな有様でしたね。
和興農園の失敗でシイタケ栽培で蓄積した資本を失ったばかりですから、機械を買うのも儘ならない。それでも1971年に国産の20馬力のトラクターを1/2の補助金を頼りに導入しました、ところが補助金を貰うのにもボスが介入、あまりのことに作業機は自費で購入することにしたのです、何年もかかって。
次に買ったのがスターのレシプロモア、当時も現在のようなロータリーモアは外国製であったのですが、レシプロの4倍以上の値段で私達には手がでませんでした。

しかし、石ころが多い開拓地ではレシプロモアは故障の連続、貴重な短い好天を機械の修理で無駄にして何度も泣きました。いま思い返しても胸が痛みます。
考えられないことですが、国産機でも当時はモアの刃は北欧製、かなりの高価でね、折れた歯の交換などで、苦労しました。予備のバーの購入やら、修理の慣れで何とか使いこなせるようにはなったものの、2度刈りができない、最後の中心部の刈り取りは技術がいりましてね。
丁度、その頃からモアの刃の国産が始まって、見浦牧場にも入ってきました。切れ味もいいし耐久力もある、ところが圃場で使うと問題山積、石に当たると折れる、折れないまでも曲がった刃が堅くて叩いたぐらいでは元に戻らない、その度に作業を中断して分解修理、刈刃の交換、北欧製の刃は少々の曲がりは叩いて直すと作業が続けられる、実際の作業効率は格段の差がありました。

現在では、国内だけでなく、外国にも普及し始めている日本製コンバインは全部レシプロモアが着いている。しかも小農家の中にはモアの刃を研ぐということを知らないで使っている、それほど日本のモア刃の品質と実用性は向上しています。そんな小さな部品の一つからも技術屋さんの努力が伝わってきます。
農民はそこまでの努力をしたのだろうか、農業の衰退を思うたび反省しているのです。

閑話休題、干草の話でしたね。モアが買えて曲がりなりにも刈り取りは前進しましたが、刈った草をひっくり返えさなくてはなりません。裏側を乾かすためにね。小板では鎌で5-60センチほど引き寄せて足の甲に乗せ、バックしながら裏返す、そんな方式でした。こんなことでは大面積の干草の処理は出来ません。そこで牧草用のホークを購入して対策することにしました。
細長い刃が4本ついてスコップの柄がついたのがマニアホーク、小板でも早くから導入されていて、堆肥を積むのにはかかせない道具でした。3本爪で2メートル前後の真っ直ぐな柄の附いたのがへイホーク、七塚の牧場で馬車に干草を積むときに使い方を習いましたが、雨が多くて晴天が続かない小板ではヘイホークだけでの処理は難しかった。涙を飲んでヘイメイカーなるオランダ製の牧草を反転する作業機を買いました。36万円でしたか、貧乏のどん底の私達には痛い出費でしたね。でもこの機械が新しい考え方を教えてくれたのです。

当時は、農機具会社の対応もまずくて、日本語の説明書がついてこない。製造国のオランダ語と英語、ロシヤ語のオペレーションマニュアル(使用説明書と部品表)しかついていない。ご存知のように小卒の私には読みこなす力はない。泣きましたね。
実際に使って見るしか方法がない。試行錯誤、専門家がみたら笑うような間違いをしでかしながら。
そんな使い方だから機械の方もたまったものではない。故障続出、確か10年くらいで駄目になったのかな。現在だったらその2倍も3倍も持たせることができたのに。

しかし、この機械のおかげで、小板にあった畜産と、取り組もうとしている多頭飼育の畜産との考え方の違いを学んだのだから、それなりに大きな収穫があったのです。

さて長い前置きになりました。私には知り尽くした機械でも、見たこともない貴方には、どんな構造か想像もつかないでしょう、その説明から始めましょうか。
幅2メートル、長さはトラクターへの取り付け部を含めて1メートルあまり、進行方向に直角に両端にダブルの直径50センチばかりのリールがあって、2本のチェーンがかけてある。(百聞は一見にしかず、現在使用中の後継機の写真を添付します。チェーンが太いベルトに変わっているだけで殆ど同じ)2本のチェーンを30センチほどの棒が10本ばかりで結ばれていて、その棒に3本ほどのタイン(爪)がついていて、進行方向と直角に地面を引っかいてゆく。従って地面に刈り倒された牧草は片側に寄せられて列を作ってゆく。参考書によればその列をウインドローと呼ぶのだとか。
私は英語がわかりませんが、なぜ牧草の列をウインドローと言うのか、この単語が頭に引っかかりました。食事をする時も、仕事の最中も気になり始めると止まらない、この癖は高齢になって物忘れが普通になってようやく止まりましたが、若い頃はこれで苦労したのです。
が、ある時ふと思った、これは造語ではないか、ウインドとローではないか、そうすれば風と列ということになる。
それから考えましたね。どうして風の列というのか、頭の良くない私が何日かの思考のすえ、たどり着いた結論は”干し方の違い”でした。
小板の在来の干し方は日の光で干す、太陽に向いた側が乾いたら裏返す。ウインドローの考えは風にさらして乾かすだったのです。日本より緯度が高く日光が弱いヨーロッパで考えられた、太陽光だけでなく、風の力も利用する合理的な考え方だったのです。

さて結論が出ました。即実行、真夏の晴天にウインドローを作りました。刈って2ー3時間少し表面が乾いたらへーメーカーでウインドローを作る。でもまだ水分の多い牧草のウインドローは暫くすると潰れてくる。潰れるとウインドローの作り直し。それを何度か繰り返すと見事に2日で干草ができあがったのです。

驚きましたね。真夏の短い期間とはいえ、何日もかかった干草が、たった2日で仕上がりとは。しかし、これは大きな教訓でした。表面の現象だけでなく、考え方まで学ばないと本当のことは理解できない、これが見浦牧場の物事を見る原点になったのです。

何も知らないで機械の寿命は縮めましたが、それ以上のものを学んだ、それがウインドローの話でした。岡部先生は黙って聞いておられました。最後に「九大の農学部を出た牧場主が知らなかったのにのー」と。

「ナーして」という当地の方言があります。どうして?と疑問を持つことですが、当たり前と思っている事にも改善できる要素があるのではと思っています。そんな時「ナーして」とつぶやく、案外大切なことかもしれませんね。
厳しい市場経済のなか生き残るためには、こんな考え方も必要なのでは。

2012.5.17 見浦哲弥

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