2023年2月18日

小さな牧場の小さな肉屋

2021.1.16 見浦牧場は中国山地の芸北地区にある小さな小さな牧場の一つである。この牧場を開設して60年余りになる。色々な経緯があって生涯を畜産の和牛飼育にかけようと思ったのは、まだ若かった28歳。開設時の苦労も昔話になって経緯を知る人は皆無になった。

 私は人生は出会った人々の生き方に影響を受けると信じている。七塚原牧場の現場の人達は少年の疑問に親切に答えてくれた、黒ボク(火山灰土)の話(黒い土は豊かな土と信じていた) 、馬鈴薯の2度作り、ラミー(西洋麻)収穫から機械加工まで、燕麦という飼料麦の栽培と収穫、西洋式の畑の除草の方法。私の生き方が変わったのは、あの七塚原の半年の体験からだ。

もっとも新庄にあった農兵隊山県支部では極限まで追い込まれて、絶望したことも何度もあった。そんな時に辛うじて耐えることが出来たことは両親の教えだと感謝している。 

しかし、世の中は競争だとは云うものの、対立相手の足を引っ張って勝つと云う手段を取る連中もいて一筋縄では行かないものだ。そんな連中が存在する社会の中で自分の信念に忠実に生きるためには、逆境に如何に耐えるかを学習するしか方法がない。逃げ道はなかった、辛かったと感傷にふける時間ももったいない、人生は短くて1度きりのなんだと痛感する今日この頃ではね。 

しかし、没落地主の子倅が牧場経営を目指すなどは目標が大きすぎる、小板の大多数の人達が百姓を知らない見浦が成功するわけはないと思い込んだのも当然だった。特に資産家を自認する小金持ちは高校にも行けんやつが生意気にと批判する、その舌の根が乾かないうちに、助けろと やってきた、連中の牛に事故が起きて獣医さんが間に合わないとなると「なんとかしてくれ」とやってくる、そして応急手当が成功すると「ありゃーまぐれじゃー」と批判、その舌の根が乾かないうちに次回もとやって来る。生活に追われている貧乏な人達は誠実で金持ちがインチキとくれば結果は当然のところに帰結する、但し、徐々にね。

とは言え見浦牧場も失敗が無いわけで はない、次々と死亡する牛が出て涙も出なかった事もあった。が負けず嫌いだけが取り柄の私 だ。原因の追求のためには努力を惜しまなかった、これだけは胸が張れる。

 何度か危機があったが牛の下痢O157に感染して衰弱した時は出入りの獣医さんが「今度は見浦さんは危ないで」と話すほど体力が低下した。流石の私も音をあげて進学を予定していた三男の和弥に家に帰るように依頼したのだ。が、彼の人生の可能性を揃み取った責任を私は忘れることが出来ない。 

幸運にも彼に好意を寄せていた亮子君が追いかけてきてくれて人生をともにしてくれた。苦難の見浦家には最大の贈り物だった。しかも3人の男の子にも恵まれた。

そこへ長女の裕子さんの府中ニュースで働いていた三女の律子さんが帰ってきて見浦の牛肉を売ると、道端に小さな加工場とお店を建設、ゼロからの加工販売を初めたんだ。律子は私の子供の中で最高に意思が強く行動的、こうだと目標を決めたらひたすらに走り出す、男尊女卑ではないが男だったら 成功者の一員に数えられたろうな。見浦牛肉のみを仕入れて加工をして、宣伝をして、販売に飛び回って。あれから何年経ったろうか、見浦牛肉の味の良さが徐々に広がって、遠くからのお客さんも来始めて、思いの外の好評で。

昔何度か行った試食肉の頒布で「子供が脂まで食べた」と云う評価に支えられて追求してきた見浦牛、霜降りの神戸牛の後追いをしないで独自路線を歩いたことは正しかったと思っている。牛肉は食品、商品である以上、見た目も必要だが、その前に安全で美味しいことが必要と牛をできるだけ自然の中で育て、外見の等級でなくて小板の自然に適応した牛を追い続けた。そして外部からの遺伝子の導入は雄牛の精子のみの方式を6 0年以上続けて作った見浦牛は独特の味を持っているのでしょうね、その価値を純真な子供の舌が教えてくれた。今その味を理解したお客さんが遠方からお店に訪れてくれる、有り難いことです。

小さな小さな見浦牧場、その中で育てた大きな夢、それをお客さんが認めてくれた、それが私の勲章なんです。それは家族の協力と私の小さな願いに協力していただいた多くの人々の善意の結果だと思っています。

有難うございました、心から感謝をしています。

2021.2.21 見浦哲弥

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