か、ご主人が亡くなられて、一人暮らしだったお婆さんが事故で死亡されてからもう何年になるか。他家へ嫁がれた一人娘さんが戻る気配もなく放置されたまま10年あまり、最近は雨漏りが始まり窓は破れトタン板ははがれて荒れ始め、放置するわけには行かなくなった。
そこで娘さんは解体を決意、業者を頼んで屋内の整理を始めたんだ。長年使い込んだ家具をはじめ夜具など、押し入れや屋根裏、 倉庫、等々、農家1軒といえども膨大な量、おまけに最近は焼却禁止で業者の手を借りないと処分できない、そして家格を表す巨大な仏壇、(これは仏壇屋が引き取った)、2日続いた家の中の整理はトラッが3台も来る騒ぎだった。最近は不用品の処分にもお金がいる。もの不足の昔なら近隣の人が集まって、見事に何もなくなったものだが、何時の頃からか不用品の処分も費用がいる。
見浦家は貧乏のどん底を歩いた。まだ工夫すれば使えると思ったら修理し大切にする、それを見た友人達が不用品を持ち込んでくる、ゴミにするのは心苦しいとね。持ち込まれたラジオなどは10台あまりもある。息子の和弥は暇つぶしに修理をやるものだから数だけは多い。私の愛用している大型ラジオは友人のY君が団地のゴミ集積場から拾ってきた代物、あれから20年あまりにもなる。
お向かいの家の解体は来春、雨戸などのサッシ類、車庫のシャッターなどは解体時に引き取ることにした。ところが昔のお米が入った1トンあまりの容器が出現、これは堆肥に混入して処分と考えているがもったいない話である。
もっとも他家の後始末で頭を使っている場合ではない。見浦家も倒壊した隣家を土地ごと購入したので、この処分後始末の大仕事が控えている。
家が新築され人ロが増えるのは明るい話だが、住民が一人去り二人去りして家屋が消えてゆくのは寂しい限りである。その寂しい風景が小板には多い。倒壊した家が3軒、盛大に雨漏りを始めた家が2軒、よく見ると荒れ始めた草屋根の家が1軒、整理を済ませた更地の家まで含めると十数軒の農家が生きることをやめた。
今日ははからずも買う羽目になった隣家の整理をしている。昭和4年好日と墨書が柱の一部に記されていたから89年前に新築された比較的新しい建物だった。家人が大阪に居を移して40年あまり、積雪で倒壊を初めて10何年の年月の間に中庭の土間に10センチばかりの幼木が育っていた。その現状は人の最後にも似て鬼気迫るものがあった。150年前?に失火で焼失したと父から聞いた覚えがある。当時は明かりは肥松(油の集積した松の節や根)の切れ端が灯りでロウソクは貴重品、したがって行灯なる明かりの使用はよくよくのこと、その不始末で火事になったと聞く。隣家と大畠 (見浦)の間は100メートルばかりの距離、安心していたら風向きが変わって火の粉が茅屋根に飛んできてもらい火、母屋も作業小屋も蔵も焼けたとか。唯一味噌を蓄える味噌蔵と呼ばれた建物が残ったと、しかし、その味噌蔵の天井にも焼け焦げの跡があったから火は入ったのかも。その後の大畠は火事場普請、 大木が使ってはあっても床は凸凹、建具はうまく滑らない、とにかくにも巨大であっただけ、雇い人がいて、田植えや稲刈りで臨時の働き手が泊まり込むのには役立っても、巨大な農家には巨大の茅屋根が乗っかる、40年毎に助け合いで屋根を葺き替えて回るのが昔からの集落の定めだったが、巨大な屋根はそれだけでは完全に葺き替えられない。従って手入れが行き届かなかった処は雨漏りを始める。さすがの茅屋根も雨漏りが始まると無力、草が生える。そのうちに小さな松の木まで屋根に根を下ろして人手のない大畠は抗うすべはなかった。そこで、まだ若かった私が無謀にも小さな家に建て替えたんだ。それら60年余になる、貧乏な若者には瓦屋根は高嶺の花、貧乏人の屋根材だったセメント瓦で一時しのぎ、周囲の新築や改造の屋根が高価な本瓦になるのを横目で見ながら今でもセメント瓦、そして生き残りのための農業を追っかけたんだ。
その家も60年を越し雨漏りをはじめて床が波打ち始めた。基礎のコンクリートに鉄筋を入れて補強する工法はまだなかった時で、ひび割れは入り始めるし、耐用年数も限界、そろそろ終末に近づいていることだけは間違いない。
人にも建物にも寿命がある。買い入れた古家の巨大な梁や長押が半ば腐り果てて倒壊しているのを整理しながら、時間の大切さを痛感している。そして若者にいかにしたら正確に現実を伝えることが出来るかと、自分を振り返りながら思いをはせる。一度きりの人生、多くの人は来世がある
と儚い望みで老残に日々を過ごすのだが、誰も本当のことは知らないのだ。朽ちた農家の周囲の木々は精一杯背伸びして枝葉を茂らせる、その生きるという活カにあやかりたいと思うのだが、現実には気力が後ろ向きになりがちである。
2018.11 お向かいの廃屋の解体のための重機が入った。10トン足らずの中型のバックホー、先端に特殊な作業機をつけて片っ端から粉砕してゆく。屋根のトタンも、材料の茅も、大量の建材も。他人である私にも思い出がある住居が廃墟になってゆくのは、やはり寂しい。空洞になった家屋の断面には、丁寧に補修した今はなき先人の奥さんの思いが伝わってくる。
在りし日、10年余りも昔、亡きご主人の法事に招かれて末席に座った。あのときの雰囲気が思い出の中に蘇る、今はなき女主人が懸命に客人をもてなしていた姿を。その残像を無残に機械が粉砕してゆく。これも世の中の流れだと納得しなければ。
2019.11.17 解体は終了した。残渣もすべて持ち出され、均された敷地は在りし日の面影の全てが消えた。山間の小さな集落の小さな歴史、それも何年かしたら人の記憶からも消える。お向かいに住んだ老人の「昔は良かったがの一」の咳きだけを残して。
更地になった農家の庭に、 シュウメイギクが何事もなかったかのように咲いている |
2018.11.18 見浦 哲弥
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