目一杯の2トン余の木くずを積んだマイカーは老人ながらよく走る。まだ廃車は嫌だとばかり爆音を上げながら。もっとも、これが都会の中なら、お巡りさんの注意を引くこと請け合いではあるが。
大朝は江ノ川の流域で川の水は日本海に注ぐ。その大朝の筏津から大谷川に沿って一気に旧芸北町の高野まで4キロの坂を一気に登るのだから凄まじい。注意標識に10%とあった。戸河内と松原との虫木の急坂でも7%だから大変だ。その急坂を老人トラックは悲鳴を上げながら登る。
振り返れば70年余前、泣きながらこの道を何度通ったことか。非道な国家総動員令で動員された芸北の14歳の少年達が、忘れようとしても忘れられない1年間の苦闘の記憶の道である。当時とは道路は改良されて舗装道路にはなったが、大筋では変わっていない。山肌にしがみつくように張り付いた数軒の農家にも記憶がある。リュックサックを背負って地下足袋 (動員で支給された当時の貴重品)を履いて登った道、長い年月が過ぎたが途中の数軒の家は懐かしい。筏津の農家の縁側で休ませてもらったあの家は、このお寺の数軒の隣だったな、などと過ぎた時間を偲ぶのである。
特に大谷の入りロの小さな農家は夕暮れに行き暮れて一夜の宿をお願いした家、屋根こそ鉄板ぶきに変わっているが佇まいは70年あまりの昔を留めて今に残る。親切だったお爺さん、お婆さんを思い出して懐かしかった。泊めてもらった晩には同宿者があって、それが同級生の父親で種子島の守備隊に派遣されていた松原の同級生I君のお父さん、囲炉裏端で聞かせてもらった南の島の話は今でもはっきりと覚えている。動員の中で唯一、心和んだ楽しい一時だった。
そこから一気に芸北高原に登るのだ。老人とロートルダンプのコンビには細心の注意が要求される。特に私が乗るダンプには2度ばかり放熱しきれなくてラジュエーターから蒸気を吹き上げた前歴がある。対策としてサーモスタットは外して、室内のヒーターを全開にしてエンジンの放熱を助けて辛うじて登坂する。
そこ移原から上り下りの高低差4-50メートルの峠を3つ越せば小板である。その中でも橋山部落から空城川に沿って小板までの上り道も高低差は100メートルに近いが大谷登りに比べれば子供である。空城川をさかのぼって、頂上を過ぎれば見浦牧場、少しばかりの下り道で我が家に帰り着く。
往復約100キロメートル、畜舎の敷料集めも牧場には大切な仕事の一部なのである。
2019.3.20 見浦哲弥
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