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2017年2月25日

お客さんと話す

2015.9.10 雨、お店にお客さんが来る。横浜の人で山登りが趣味だとか、東日本は折から悪天候で西日本ならできるかと走ったが、こちらも雨、することもないので目に付いた牧場の売店で肉でも買って帰るかと立ち寄ったとか。

折角だから牧場でも見学させてもらうかと声をかけられた。丁度、私が通りかかって案内を引き受ける。都会の人は自分の専門外には智識が広くない。しかし、田舎の住民と違って好奇心は旺盛である。この人たちの関心を引くのには、地域の特性と一般に知られていない情報の提供が効果的である。そこで牧場が見える牛舎に案内、一望10ヘクタールの草地と約100頭の黒牛は、中国山地では珍しい風景になって、見る人の興味をそそるらしい。そこで見浦牧場の一風変わった情報の提供をしたんだ。

先ず牛が年間を通じて放牧されていること、そして海抜が800メートル近くで、積雪が2メートルばかりあること、厳寒期は零下10度以下が続くことも珍しくないこと、など。そして見浦牧場で生まれた牛のみで牛群が出来ていること、50数年外部から牛を導入しないで、選抜淘汰を繰り返したこと、高級牛のサシを追及する牛作りのでなくて、利益追求の大型化でなく、モットーは、安全で、美味しくて、リーズナブルな価格の実現を追及してきたなどを話して差し上げた。

自然の中での牛の集団飼育は、彼らが生きるために学び、その智識を次世代に伝えてゆく。頭脳は人間だけの特性でないんだと、人間の驕りを打ち砕くような彼等の本能等々、都会人はそんな話を興味を持って下さる。

見浦牧場の1-2キロ圏内には、ツキノワ熊の営巣地が2箇所はあるらしく、何度も牧場内に出現する。最初に襲われたのは30年余りも昔になるか、日暮れに子牛が2頭群れから離れて行動し1頭が殺された。母牛が夜中に我が子が群れにいないことに気付いて騒ぎ始め、翌朝、牧場内で叩きつけられて死んでいるのを発見したんだ。暴れん坊の熊君も、2頭同時に殺すことは出来なくて片方は助かったのだが、殺された子牛は衝撃で頭皮がはがれていた。しかし、それからの牛達の反応には教えられるものがあったんだ。

まず、集団で行動するようになった。子牛と親牛は離れることはあっても子牛同士で集団を組む。よく見ると中心になる牛がいてその牛が動くにつれて集団が移動してゆく。牛にも強弱があっていじめっ子や優しい牛と様々だが、中心になるのは優しい強い牛なんだ。教えられたね、ボスは優しさがなくてはいけないと。家畜の牛でもそうなら、人間はそれ以上でなくてはいけないんだとね。おもねることは要らないが、思いやりがとやさしさが必要なんだと。
最近の世の中は人は性善と信じて非武装、非暴力なら自分は何もしないでも安全だと信じている。ところが見浦牧場には牛は何もしないのに腹を減らした熊君がやってきて襲う。そして弱い牛達は集団を組み身構えることで対応している、決して攻撃することはないが。人間も動物だと私は思っている。攻撃してはいけないが、身を守る手段は持たなくてはと思うんだとね。

そんな話をお客さんは黙って聞いていた。反論されなかったのは私が老人だったからだろうか。軍国日本の戦前、戦後を体験した生き残りの人間として、動物が語りかけている行動の中に私達の真実があるそんな気がしているのだ。

お客さんは反論はせずに聞いて、来て良かったと帰られた。小板という小さな集落のはずれに起きた、ささやかな話である。

2015.9.10 見浦哲弥

2015年7月20日

角と教育

和牛は牛ですから立派な角があります。広島牛とか但馬牛とか地方によって角にも特徴があって、広島は横に広がって大きな角、岡山の千屋牛は細い角が上に曲がってと、エトセトラです。

ところが牛は集団で暮らす動物、ドミネンスオーダーと言う順列を作る本能があって、その為の喧嘩があります。
牛飼いを始めた頃は一頭飼いの子牛を導入して群を作り、放牧で経営を始めたのですから喧嘩が絶えなくて、牛の怪我が続き、困り果てました。先生方に教えを請うと簡単に除角をしろと。早速教科書を読むといろいろの方法が記述してありました。鋸で切る、油圧の切断ハサミで切る、子牛の角の伸び始めに苛性ソーダで焼く、等々。

当時は私は30才前半の蛮勇の固まりで、暴れる牛を枠場に固定して、大工鋸でゴシゴシ切り落としたのだからすさまじい。
切り始めて、直ぐに出血が始まりました。こりゃ止血がいると、急遽、焼きごてを準備しました。ところが焼いても止まらない。こりゃ全部切り落さなくては止血は出来ない。
切り落とすと血が赤い糸のように2~3メートルも飛んだのです。肝を潰しましたね。後で牛の角には3本の細い動脈が通っていると聞いたのですが、そのときは止血することで頭は回りません。焼き鏝で切断面を焼くのですが止まらない。試行錯誤、血管の周囲を焼きごてで潰して止血する方法を探り当てるまでは大変でした。

しかし、経験はしておくもので、後年、時折発生する角折れの対処などで随分役に立ちました。
牛の角は袋角で外側は5ミリ位の堅い角質なのですが、中は柔らかい軟骨で出来ています。その間に離層があるみたいで、物に挟んでひねると簡単に表面の角質部が抜けるのです。丁度、角笛みたいな形でね。抜けた当分は軟骨部分がものに当たって出血、手当が必要になります。群飼育の放牧形式となると案外発生が多く、見浦牧場では年間2-3頭くらい、ひどい出血の時は顔が真っ赤になっていますから、慌てます。そんなときは最初の角切りをを思いだしながら手当をするのです。
消毒をして4重にしたガーゼで覆い、ゴム輪を何本も掛けて止める、角はテーパー(円錐状の先細りの勾配)がついているので止まらないと思うでしょうが、これで上手くゆく、年の功です。

ところが世代が交代して何代か経つと、角の切断は不要になりました。牛が変わったのです。本来の姿に戻ったのです。
牛は、もともと集団で暮らす動物なのです。貴方も西部劇の映画で牛が大きな集団で移動して行く場面など見られた事があるでしょう。それが日本では1-2頭の少数飼いが基本、乳牛などで何十頭の規模はあっても舎飼いで、子牛の時から集団で暮す飼い方は日本ではまだ珍しかったのです。ましてこの地方では。

話は変わりますが前段で出たドミネンスオーダーと言う言葉、集団で暮らす動物がボスを筆頭に力によって順番が決めることを順列といい、その外来語です。その反対性質をテリトリー(縄張り)というのです。全ての動物はこの2つの性質を持ち順列が大きい動物は縄張りの力は小さい、縄張りの性質が大きい動物は順列の性質は小さいと言う一つの法則が成り立っているのです。
牛は本来集団で暮らしていた動物、12ヶ月以上にもなると、順列の仕組みの中にしっかりと組み込まれる、年に何回かある一寸したショックで群全体で力比べが始まって順位が入れ替わる、自分と相手の力の差が判ると力比べがおしまい、怪我をするなどは先ずない。
これが本来の姿だったのです。ところが集団で暮らしたことのない牛君はケンカが始まるとトコトン闘う、相手がもう参ったと降参しても角を振り上げて突いて行く、それで良く怪我をしましてね。そこで対策として角切りが奨励されたのです。
見浦牧場の牛も最初は市場から買い集めた舎飼いの牛の寄せ集めですから、ケンカ、イジメのオンパレード、角切りは多頭飼育の基本的な技術と錯覚しましてね、勉強したものです。
専門書には角切りの方法は列挙してありましたが、貧乏な見浦牧場では高価な道具が必要な方法は論外で、最初は苛性ソーダを使いました。ところが生長点を焼くと、簡単に書いてあるものの実際は大変、棒状のソーダの固まりで角の生長点をこすって焼くと、皮膚が焼け、肉も焼けて骨が見えるようになる、そこまでしないと角が生えてくる、変な形の狂った角がね。
ところが処置する間にも傷口から漿液がにじみでる、それが流れないように拭かないと他の処まで傷になる、おまけに焼き方が足ないと、変な角が生えてくる。これは見浦牧場には向かない、そう結論を出したのです。

次は鋸で切り落とす方法で除角を実行したのです。大工鋸をアルコールで消毒してゴシゴシと切った。驚いた牛が暴れるのを枠場に厳重に保定して1/3ほど切って驚いた、切り口から血が2メートルほど吹き上がった、焼きごてで止血をしろとテンヤワンヤ、専門書で勉強して再驚き、牛の角の中には2-3本の細い動脈があると、それを切ったのだから吹き上がるのは当然、おまけに血管に沿って神経が通っているのだから、牛が暴れるのもまた当然、何も知らないと言うことは飛んでもないことをする。
ところが集団の中で生まれ、集団の中で育った牛達は除角の必要性を認めない。むしろ受精や治療の時の捕獲に角はなくてはならない、投げ縄は角にかからないと止めることが出来ない、首にかかったら引きずられるだけ、専門書にはこんなことまでは書いてなかった。
学問は大切だが、実社会はそれだけでは通用しない、学問と現実の差を埋める目を持つ、それが大切なんだ。

同居している孫達は10才を頭に8才と6才、目下悪戯の天才達、彼等の好奇心の芽を摘つまない様努力している。その好奇心が成人して世の中の盲点に気付いてくれることを期待している。どんな小さなことでも、その集積が社会の進歩に貢献する、私はそう信じているから。
目まぐるしく進歩する近代社会、彼等が時代に遅れずに歩き、時には時代に先んじるためにも、失敗を恐れず挑戦してほしいと思うのです。但し被害は最小にしなければなりません。事前の勉強は忘れずにと忠告しておきます。

2012.9.30 見浦哲弥

2015年1月7日

爺ちゃんから、大人の入り口の明弥君に

2014.5.21 貴方も10歳、6年生になりました、この年齢は、少しずつ子供から大人に変わり始める年なのです。でもおおかたの子供たちはそれに気がついていない。昨日までの小さな子供の時と同じ気持ちで生きている。それが普通なのです。
でも、それでは本当の大人になれない。お父さんや、お母さんのような大人にはね。今日はその話をしましょう。

人間は1人では暮らせません。こう言ったら利口な貴方は1人で暮らしている人もいるよというでしょう。でもよく考えたら、何時も働いている貴方のお父さん、お母さんや、学校の先生、スクールバスの運転手さん、病院のお医者さん、看護婦さん、町では泥棒がこないようにお巡りさんもいます。お店やスーパーで働く人、道路を直す人、食べ物を作るお百姓さん、私達が住んでいる世の中は沢山の人達が色々と働いて助け合うことで成り立っている社会なのです。
それが人間の集まり、仕組みなのです。貴方も1人では一日も生きてゆけない。人間とはそんな弱い動物なのです。

さて、そこで考えてください。もし貴方がライオンのいる草原で1人でいるとする。どんなに大きな声で「俺は強いぞ」と言っても一人ぼっちは、たちまちに食べられてしまいます。ところが仲間が大勢で団結していると、そう簡単には餌食にはならない。それが動物の社会なのです。貴方は自分が住んでいる社会ではそんことは起きないと思っているでしょうが、人間の社会でも似たようなことが起きるのです。1人ぼっちは誰も助けてくれない、やけを起こして泥棒をして、警察に捕まって牢屋を出たり入ったり、誰からも相手にされなくなり、「何のために生まれたのか、勉強したのか」と人を恨みながら死んでいった友達がいます。利口な貴方は、俺はそんな馬鹿な生き方はしないと思うでしょうが。

そうならないためには、どんな生き方をすればいいか、それは見浦の牛が教えています。

見浦の牧場では30年ほど前、子牛が熊に襲われて殺される事件がおきました。子牛が2頭、群れから離れたのが原因です。熊が餌を狙うときは1頭でいる子牛か弱い病気の牛をねらいます。それは元気な牛や群れになっている牛に命がけで抵抗されると自分が危なくなるからです。そして事件が起きました。夕方、帰ってこない子牛を呼んで二頭の母牛が懸命に鳴いていました。それが夜中には鳴く牛は1頭になりました。一頭は逃げ帰ったのです。
あくる日、牧場の岡の向こうで発見した子牛は地面にたたきつけられて死んでいました。

普通の牧場では牛は牛舎で飼います。熊が牛舎の中まで入って牛を襲うなど、日本の内地では聞いた事がありません(昔は北海道ではあったそうですが)。牛舎の中で育った子牛を買ってきて始めた見浦牧場の牛は、自然の中に自分達を襲う熊がいる、そんなことは知りませんでした。そして何も知らない子牛が2頭群れから離れたのです。そこに腹を空かした熊さんがまっていたというわけです。そして1頭が捕まって殺された。

それから何が起きたと思いますか?見浦の牛達は生き残るための勉強したのです。一匹でいたら危ない、仲間が多い方が安全だと学習したのです。ところが子牛も人間と同じで仲間に優しい子牛と意地悪をする子牛がいます。見ていると意地悪をする子牛の周りには子牛が集まらない。角を突き合わせても、走りまわっても、相手の嫌がることや、いじめはしない、そんな子牛のところには沢山集まるのです。弱い子牛を何時までも突いて突いていじめる、そんな子牛はいつのまにか一人ぼっち、気がついて慌てて皆を追いかける、そんなことが多いのですよ。そんなときに熊に出会ったら誰が食べられるのでしょうね?動物は言い訳をしません。言い訳をしない代わりに行動で示すのです。

そうは言っても、お爺さんも子供の頃からそんなことが判っていたのではありません。喧嘩もしたし、いじめもしたかも知れません。でも小板の学校で一年上の上級生が大人しいモチノキからくる生徒や韓国から働きに来ていた人の子供をいじめているのを見て我慢が出来なくなりました。「弱いものをいじめるな」と、いじめっ子に文句を言いました。下級生に文句を言われたその上級生はカンカンに怒って「いらんことを言うな」と、喧嘩になりました。先生が止められないほどの喧嘩にね。ボカボカに殴られても泣きながらも喧嘩をやめないでね。僕の方が正しいと負けませんでした。最後は皆が味方してくれてやっけることが出来ました。それが境にいじめられていた生徒は「見浦君、見浦君」と信頼してくれるようになりました。

松原の中学校に通った時、同級生に子供の時の病気が原因で足が不自由な子と、小さいときの火傷で頭にハゲのある子がいました。初めて松原の学校に登校したときは驚いたのです。同級生の中に、この二人をからかったり、いじめたりする子が何人もいたのです。いじめる方はなんとも思わないだろうが、いじめられる生徒の気持ちを考えると辛かった、そこで私は、この二人の友達になったのです。

あれから70年余り経ちました。足の悪かった友達は学校を出て間もなく病気で死にました。でも、そのお父さんお母さんは「子供に仲良くしてくれた」と大人になってからも親切にしてもらいました。

やけどの友人は70年経った今でも「おい見浦君やー」訪ねてくる仲良しです。

大人になって判った事は、人に仲良くする、親切にすると言うことは、相手のためにするのではないということです。それがはっきり判ったのは牛を飼い始めてからです。君が知っているように見浦牧場の牛は群れで暮らしています。大将がいて、お母さん牛がいて、子供の牛がいて、集まって暮らしています。何故かな?

牛は草を食べる草食動物です。草食動物は肉食動物に餌としてねらわれる弱い立場の生き物と言うことは知っていますね。弱いとはいえ殺されて食べられるのが嬉しい生き物はいません。彼等も出来るだけ生き残る努力をしているのです。そのために集団で暮らす智恵をもったのです。そして大きな角を利用して肉食動物とたたかうのです。それでも後ろから襲われると逃げるしか方法がありません。そんなときは、集めた子牛を中に入れて角を外に向けて戦うのです。見浦の牛で一度だけ見たことがあります。爺ちゃんの書いた文章の”愛国心を考える”の中に出ています、いつか読んでください。

爺ちゃんは、小さい頃、(幼稚園から低学年)教会の日曜学校に通っていました。そこでキリストの紙芝居を見たり、牧師さんの話を聞いたり、賛美歌を歌ったりしていました。そのときに”自分がしてもらって嬉しかったことを他の人にしなさい、自分がされて嫌なことは他の人にしてはいけません”と教えられました。なかなか出来ませんでしたが、「見浦君、見浦君」と仲良くしてくれる友達を見ると少しは出来たのかも?

大人になり始めた明弥君、いい大人になってください。爺ちゃんは何時も何時も願っています。

2014.5.29 見浦哲弥

2013年1月27日

素直すぎる貴方へ

2001.10 久しぶりに貴方とお話をする機会がありました。最初の時は貴方はまだ大学生、後で色々と考えられたと人づてに聞いて真面目に聞いていただいたと嬉しかったものです。
いつの間にか随分と時間が経って30歳になられたとお聞きして驚きましたが、お話をしていて気づいた事があったのです。素直すぎると。
先輩面をするのは僭越であること承知ですが、半世紀も長く生きた老人の戯言と許して頂けると、この文章を書いています。

現在の日本は市場経済のシステムの中で動いています。別の言い方をすれば競争社会、その善悪を批評する気はありませんが、見方を変えれば激しい競争の繰り返し、学校でも会社でも地域でも。
このシステムは長所もあれば欠点もあるのです。肯定する人はあらゆる手段で勝とうとし、否定する人は競争の現場から離れようとするが、そんな両極端でなく中間に私達に生息域がある事を皆さんは見落としている、そんな気がしているのです。

貴方もご存じのとおり、見浦牧場は和牛を集団放牧の形で飼育しています。この方式は日本では少数派に属して十指に足らないでしょう。でもその牛達の生き方を見ていると競争しながら助け合っている、その微妙なバランスの取り方に教えられることが多いのです。

私達の社会と同じように彼等の世界も競争社会、強いものがリーダーになります。ところが弱い牛をいじめ回す牛は決してボスの座につけません。何故なのかなと長い間疑問でした。ところが二十数年前から起きた熊の被害の中で教えられたのです。

最初に6ヶ月ばかりの子牛が襲われました。2頭が群と別行動をとっていて熊に出会ったのです。1頭は地面に叩きつけられて死んでいました。ところが1頭はその隙に逃げ出して助かりました。問題はその後です。見浦の牛は集団で行動するようになりました。子牛でも出来るだけ多くの仲間と動くのです。考えてみれば1頭で熊と出会うと100パーセント命がない。10頭なら危険は1/10に減少する。そのためには集団が大きいほど助かる確率は高くなります。ところが優しくなければ仲間は増えません。思いやりがなければ集団が大きくならない。ここに思い至った時、自然は素晴らしいことを教えているなと思ったのです。

日本は資源小国です。国内資源で養える人口は5000万にから7000万人ぐらいでしょう。生きるためには外国から原料を購入し加工して世界の人達が求める商品を作って売る加工貿易しか生きるすべが有りません。誰もがほしがる商品それを作るのには知恵がいります、技術が要ります。それは努力と競争の中からしか生まれません。それが小泉さんのグローバル化、競争社会なのです。
その小泉さんの政治は富めるものと貧しいものとの差を拡大してしまいました。貧富の差が大きくなり社会の脱落する人(本当に脱落者なのか?)増えました。だから競争社会は駄目だと極論する人達が出てきたのです。

見浦の牛達はこの事も教えています。草を食べるときも、餌箱から飼料を食べるときでも、競争を忘れません。でも美味しい草がないから絶食するという牛はいません。みんなそれぞれに生きて行くために全力を尽くします。その積み上げの大きさの差で集団の中での地位が上がって行く、そしてリーダーにたどりつく。でもどうしても負ける牛が何頭かでます。その牛は私達が牛舎に連れて帰って飼直をしています。

私達の社会もそれと同じだと思うのです。資源が乏しく加工貿易で国が成り立っている、外国の人達がほしがる商品が生産できなければ、食料も原材料も手に入れることは不可能です、日本の成功を手本として、台湾、韓国、中国、インドなど世界の後進国が工業を発展させ加工貿易に乗り出してきました。ホームセンターに並んでいる商品の大部分が、これらの国々が生産したものです。同じ品質の商品を作っていたのでは、労賃の安いこれらの国の商品が勝に決まっています。
競争力のある商品、工業製品だけでなく、農産物、システムまで、それは発想の転換と努力の積み上げの中でのみ出来上がると思うのです。
こう話すと、とても難しい話しと思うでしょう。それでは身近に起きた話しをしましょう。

敗戦後、都市の復興のため中国山地から木材を始め様々の資材が都会に流れました。
その運搬のためトラック1台のミニ運送会社が乱立しました、小板にも松原にも。
しかし都市が再建され物資の流れが変わりました、勿論、時代を先取りして新しいニーズに対応し巨大化に成功した有名会社が続出しましたが、山間のミニ運送会社は減少する貨物の取り合いで運賃の値下げ競争、その結果、廃業、倒産が相次いだのです。

そんな時、牧草を運んできた運送屋の若い経営者が、もうお先真っ暗と訴えたのです。
その泣き言を聞いているうち猛然と腹が立ちました。部外者の私から見ても視野がせますぎる。
そこで聞いたのです。「あんた何で商売してるンね」
当然の答えが返ってきました。「運送をやって商売をしてる」
「なんでもう一つ売らんのかい」彼がキョトンとしたのを覚えています。
「たとえば問屋の倉庫に牧草を積み行く、どの種類の牧草の在庫が多くて、どれが不足しているか、見ることが出来るはず、現場の職員と立ち話をすれば、もっと詳しくわかる、その中には荷卸し先の牧場が必要な情報があるかも知れない、また牧場での世間話で牧草の本当の品質や牛や馬の食い込みの情報も得られるのではないか、それは問屋にも商売のプラスになる、何故情報も一緒に売らないのか」。
運送屋は様々な商品を運ぶ、そこには様々な情報があるのでは、その情報を選択してお客さんに伝える、そんな競争もあるのではと。

途端に彼の顔色が変わりました。私と違って大卒のインテリ、頭の回転は速い、愚痴の羅列はなりをひそめて、どうすれば新しい方法を取り入れられるかと真剣な議論になりましたが、それから先は門外漢、彼の発想の展開を見守るだけでした。

あれから30年余り愚痴の青年は山県郡最大の運送会社の社長に、目下は3代目の経営者になる娘さんの教育に全力をあげている。
そんな彼が「1年に1回はあんたの顔を見ないと心が落ち着かぬ」とやってくる。2回も来るときは会社に問題が起きたとき、あの時の一言がまだ続いているのです。

私達はこの巨大な社会の機構に目がくらんで何も出来ないと思い込んではいないだろうか、巨大故に生じた隙間や、発展ゆえのひび割れが数多くある、それを見落としているのでは、そして、そこから水漏れを見逃しているのでは。
この社会が健全に発展して行くためには、その隙間を埋め水漏れを止めなくてはならない。そこが若者や中小の起業者に取って腕を振るう絶好な場所なのです。大企業や大資本は小さな機会や利益は追っかける事はしないものです。資本金何百億の大会社がそんな小さな利益を追っていては大勢の社員を支える事は不可能ですから。

ところが、そこが隙間ですよとは誰も教えてくれない。朝が来て一日が終わって、これが普通だと思ってしまう、運送屋の社長さんの様に目の前の現象だけしか目に入らない、貴方が自動車のライセンスを取るときに、指導教官が道路の左右にも気をつけてと教えたはず、何が飛び出すか判らないからと、ところがいつの間にか注意するのは全面だけで回りの変化などは気がつかなくなる、それが人間のサガなのです。
それを気付かせてくれるのが出会い、それは会社の上司かもしれないし、隣のオジサンかも知れない、まれには後輩かも知れない。私の人生では、それが何度も起きました。とんでも無いところでね、それが無学な田舎の爺様の話を聞いてくれる多くの人を持つ事に繋がったのです。有り難いことです。

たった1度の短い人生です。少しばかりアンテナを延ばしてみませんか?思いもかけぬ出会いがあり、とんでもないチャンスに出会うかも知れませんよ。

今日は爺様の戯言を聞いていただきました。

2012.8.18 見浦哲弥

2006年8月19日

愛国心を考える

 牛と暮らしていると、家族とは何かと考えることがあります。当たり前過ぎて見逃していることも、目のまえで繰り広げられる、牛達のドラマに付き合っていると、世間一般の常識からはなれた考え方になります。ですから、なぜ皆さんはそんな考えをするのかと、思う事が多いのです。その一つに愛国心があります。

 牛はお産の前の破水のとき、床の上に流れ出た羊水をなめて飲みます。ほとんど例外はありませんね。そして子供が生まれると、同じ匂い、同じ味を確認して子牛をなめ始めるのです。そして舐めるにつれて猛然と愛情がわいてくる、時には飼い主にも敵意を持つ、私の子供にさわるなとね。それを見ている私達は、家族の意識、連帯感、そして異性愛とは異なる愛情、そんな感情を理解するのです。

 私の牛群たちは、集団で暮らしています。群飼育と言うのですが、彼らが日常では互いに争うこともあるのに、危険が迫った時など、見事に団結する、すごいなとおもいます。
 何年か前、猟犬がイノシシを追って牧場に入ったことがあります。気がつくと、牛が大騒動をしていました。すわ何事と眺めると、近所の猟師が連れた3頭の猟犬が、子牛を追いかけています。猟師の話によれば、2キロほど離れた道戦峠で猪の足跡を発見して追跡しているうちに、牧場に入ったといいます。犬達は、そこで子牛の集団を発見して、追跡の相手をかえたのです。興奮した犬達は主人の制止にも耳を貸さないで、悲鳴をあげる子牛を追いかける、それを守ろうと母親が走り回る。すると、それに気づいたリーダーが、群を集め始めたのです。子牛を中心にして、育成牛と呼ばれる若者の牛、お母さんに成り立ての若い牛、と群れ全体が輪になり始めたのです。壮年の牛は1番外側で角を外にむけて。
 まるで、アフリカの草原の映画を見ているようでした。そして、ボスや幹部級の牛が、3-4頭で猟犬を追いだしたのです。大きな牛が頭を下げて突進して来る、猟犬も悲鳴を上げていましたね。弱い動物は集団を組んで、強い外敵にあたる、まるで、自然の教科書を読んでいるようでした。
 それを見て私は、ああ、これが愛国心だと思いました。

 私が軍国主義の戦前に、学校で教えられた愛国心は、天皇の為に、神国日本の為に、命を捧げよ、でした。何度も何度も、事があるたびに教え込まれ、反論が許されなかった。そして、何時のまにか、それが、正しいと信じる様になっていました。
 昭和20年の敗戦で、それまでの価値観が全て否定されて、愛国心はタブーの言葉になりました。社会が落ち着いてくると、オリンピックなどの世界大会で、日本が優勝すると心が熱くなってくる。でも、それに愛国心の言葉は当てられませんでした。時折、新聞や雑誌の世界に、新しい愛国心と言う言葉が浮かぶことがありましたが、心に響くインパクトはありませんでした。
 しかし、この牛の事件で、私は愛国心の基礎は、家族愛だと思ったのです。

 自分や家族が住んでいる集落、住みやすく、お互いに助け合い、守りあっている。愛する家族がこの集落のお陰で、安全に暮らす事が出来る。だから、この集落が好きなのです、愛しているのです。
 その集落が、安芸太田町という行政区の中で、存在を保証されている。だから、私はこの町を故郷として愛しているのです。
 その様にして、広島県は、安芸太田町を、日本国は広島県を、それぞれ、安全と存続を保証してくれる。それで、始めて日本国を愛する愛国心が生まれ、祖国と感じる。そんな愛国心でないと、又戦前のように、国民を、私の家族を、自分たちの主張の為に死地に追いやる、悲劇の繰り返しになると思っています。

 小泉首相は、バブル崩壊の後始末には必要な政治家でした。しかし、彼の国家観は間違っています。政治は国民の生命財産の安全を守る事が基本です。その次に衣、食、住の確保が仕事です。そして、そのために、社会の様々な仕組みを作り、守り、維持して行く。
 靖国神社参拝で問題になった戦犯の人達の罪は、国民の生命財産を守る基本を忘れて、戦争を始めた事です。たとえ、どのような理由があったにせよ、国民を、私の家族を、死地に追いやり、国家を破滅させた罪は消えません。
 私は12時間違いで、原爆に逢わずに済みました。しかし、父の後妻として、母親になるはずの人は、結婚の支度をする為に広島にゆき亡くなりました。家内の兄は、将来を嘱望された青年でしたが、陸軍に召集されて死亡しました。原爆後、可部の町に運ばれてきた沢山の被災者が「水、水」と懸命に訴えていた声は、まだ耳の底に残っています。
 それは、日本国民だけではないでしょう。戦争に捲き込まれて命を失い財産を無くした外国の人々、その人たちの恨みは、どのような理由があるにせよ、その戦争を始めた人々の罪を許す事はないはずです。

 愛国心と言う言葉が歩き始めました。「にせものの愛国心」と「本物の愛国心」を区別したい、区別して欲しいと、私は思っています。

2006.4.15 見浦哲弥

2002年4月11日

牛の階級制度

牛の社会にも階級制度があるのを知っていますか?実は人間の社会より厳しい階級制度があるのです。
動物はすべて、ドミネンス・オーダーと、テリトリーの2つの性質を持っています。ドミネンス・オーダーは順列の事、テリトリーは縄張りのことです、そして一方が大きければ、他方が小さいと言った関係で、動物の種別によってこの表現が決まっています。例えば集団で暮らす猿は上位の猿と下位の猿の身分ははっきりしています。個々で暮らす熊は、縄張りを大切にします。普通の動物はその中間の性質を持ちます、我々人間は社会的には集団を作って順列を大切にしますが、家庭という縄張りには他人の干渉は排除します。
それで、牛はと言う事になりますと、彼らは本来集団で暮らす動物ですから、熊より猿に近いですね。縄張りは食事をしてるときの餌槽の周りだけでごく狭いのですが、群れの中での順位は非常にはっきりしていて、厳しく守られます。下位の牛は上位の牛が食べ終わるまで、絶対にえさを食べさせてもらえませんし、雪深い真冬でも畜舎のなかで寝させてはもらえません。もし、そのルールを破ると手ひどい体罰を受ける羽目になります。牛の順列は、牛同士の1対1の争いで決めるのです。
自然は良くしたもので、幼い子牛は順列の競争の対照にならないのです。体力のない・知識のない子牛が、体力勝負の競争には勝ち残れるわけがありません。それでは、種が滅んでしまいます。そこで12カ月くらいまでの子牛は、ボスや上位の牛にはいじめられないのです。そんな現象を目の前で見ると、自然の偉大さに、ただただ頭が下がるのです。
お産などで群れをはなれて牛房に入っていた牛が、子牛を連れて群れに帰ってきたときなどに、どの順位に入れるかで争いが始まります。それが群れ全体に伝播して、ボスの交代まで広がるときがあるのです。その時ばかりは私達、日頃飼育に携わっている人間の制止も耳を傾けません。勝負が付くまで争うのです。
 私達はボス交代を、詳しく観察して多くの事を学びました。
 まだ、群れが小さい頃、”いいあさひめ”号という小柄な牛がいました。頭がいい牛で、ボスでした。弱い牛をいじめない、人の子牛はかばう、そんな性格でした。
 ある冬の寒い日に、争いが起きて、ボスの交代がおきました。見浦牧場は冬でも屋外に放牧で、子牛と力が強い牛が入れるだけの避難用の牛舎しかありません。ボスの交代があった翌日、”いいあさひめ”号は順位が3位か、4位に下がっただけで、避難舎のなかで寝てました。勿論一等地ではありませんでしたが。
 その暫く後で、名前は忘れましたが、ボスになった牛がいました。大きな牛で格好も良くって、勿論力もあってボスになったのですが、彼女(繁殖牛群=メス牛と子牛の群れなので、「彼女」です)は気が荒くて、縄張りを犯されるととことん追っかけてやっつける、子牛でも容赦はしない、そういう性格の牛でした。そんな奴でも力さえあればボスになる。そのときは、なんだかやりきれない気持ちがして、「牛はやっぱり畜生だ」と思いましたね。
ところが、それからしばらくして、やはり寒い吹雪の日に、また、ボスの交代が起きたのです。2位の牛との争いが済むと、3位の牛がかかって行きました、3位が済むと、4位の牛がと、次から次へ争いを仕掛けます、へとへとになっても新手が登場して・・・・・
翌日、昨日まで特等席で寝ていたこの牛が、吹雪の中で震えていました。人の生き方を教えるようにね。
見浦牧場の哲学「自然は教師、動物は友、私は考え学ぶことで人間である」はこんな中から生まれたのです。

2002/4/11 見浦 哲弥



「なぜ、いいあさひめ号は3位か4位ですんだのに、もう1頭の牛は最下位まで転落したか」
牛はボス争いが勃発すると、「今なら勝てそう」、「このチャンスにあがっとこう」と考えて順位争いに参画します。
ボス争いのときには、上から順番にけんかをしていくわけですから、ボスだった牛は1回ごとに体力を消耗して弱っていきます。順位争いが単純な力比べだと、ボス争いで負けた牛は、一気に下に転落しそうなものですが、いいあさひめ号の場合はそうはなりませんでした。それは、なぜでしょう?
牛にもそれぞれ性格があり、何がなんでも一番になりたがる荒っぽい性格の牛もいれば、不都合がないかぎり争いをさける穏健派の牛もいます。
いいあさひめ号の場合は、4位か5位の牛が「こいつが上にいても、何の不都合もないし、このままでいいや」と順位争いを仕掛けなかったため、それ以上順位が転落しませんでした。
しかし、その後にボスになった牛の場合、それまでの所業が災いし、どの牛も、「こいつが上にいると、自分は快適に暮らせない」「以前、ひどい目に合わされたから、今が仕返しするチャンス」と考えたのでしょう。その結果、この牛は、次から次へと果てしなく順位争いをしかけられ、最下位まで転落してしまったのです。

2002/4/14 追記

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