2021年10月16日

読書

私は読書が好きだ。子供の頃から母から本を与えられて読書の習慣を植え込まれた。おかげで小卒の学歴ながら一応の知識を持つことができ、大卒の専門家と話してもなんとか意思が通じた。しかし、小板は山奥、中心の役場までは20キロの距離、雑誌がおいてある小さな文具店が1軒、本屋の体裁をした書店は30キロの彼方にあった。それも私が育った三国の書店の1/10にも満たない小さな小さな規模のね。10歳で小板に帰郷し敗戦1年後までの5年間が私の読書の最悪の期間だった。

戦後1年の冬、仕事ができない冬の間だけという条件で広島に働きに出た。英語の塾に通うのが目的でね。本通りの森井という文具屋さんが働き口で、夜学に通ったんだ。私が英語のラベルくらいは読めるのは、そのせいである。

働き先から泊めていただいた岡本さんの家まで帰る途中に広島駅があり、その道端で本の露天商がいた。勿論、混乱の極みの戦後である。道端のマットの上に数少ない商品を並べただけの露天商中の本屋?の中に月刊の"科学朝日”を見つけたときは嬉しかったね。乏しい財布をはたいて買ったのは云うまでもない。しかし時は戦後のインフレーションの時代、本の価格欄に次々と紙が貼られて新しい値段が表示される。朝、覗いたときは時間がないので帰りに買うことにして、その帰りには値上がりしていてね、物凄いインフレの時代だった。そんな「しまった」と思ったことは何度もあったね。しかし混乱の時代でも”科学朝日”は真面目な本でね、戦時中の空白の時間を埋めてくれた。私にとって貴重な雑誌だった。

小板は広島市から70キロあまり、道路事情は良くない。当時は行くのも1日、帰りも1日、文化には遠い地域だった。従って若者の憂さ晴らしは、神楽と田舎芝居と酒と女の子、貴重な人生の大切な時間が空転して過ぎ去ってゆく、虚しかったね。いっときは強要されて付き合ったこともあったが、振り返れば、あの時間は惜しいことをしたなと残念である。気がついて一線を画したが返って来たのは変人のレッテルだったね。

しかし、与えられた空間が時代と離れていたと悔しがっても、時は休みなく過ぎ去ってゆく、悔しかった。せめて読書ぐらいはと何度も思ったものだ。

地元の青年団の付き合いも止め、神楽団も退団して講義録や参考書を読みふけり、理解ができないときは発電所を訪れて教えを請うた。貧乏な1青年の疑問に真正面から教えてくれた人達、戦争には負けたが日本はいい国だった。

5年の歳月の積み上げは私のような凡人にも、それなりの評価をしてもらえた。

電気工事士1種の国家試験には合格したが、見浦家は私の願いを聞ける状況にはなかった。私の5年間の努力は親友のN君の発奮に資した、それだけで終わったのだが、少ばかりは役に立ったのでは。

しかし、本読みの習慣は一生残った。 科学物の雑誌や推理小説はいくら読んでも飽きることはなかったね。今、その本達が空き部屋を占領している。貧乏だった私は書架を作り収める事は叶わなかったので、一読したらダンボールの中に直行、専門書から、雑誌、 週刊誌まで至るところに積み上げてある、雨漏りの蔵の2階は古いリンゴ箱に詰め込まれた雑誌の山、古タンスには親父さんの数学の専門書が仕舞込まれいて腐り始めている、時代は変わって現代は電子の時代、コンピューターをはじめ、電子機器が氾濫、昔の書架に保存できるのは一部の金持ち族以外は困難になった。

そして、老人は自分がたどった道を思い出してはつぶやく。が、今はその声を聞く人はいない。

とにかく世の中は変わった。貧乏に追われたが私は読書と云う素晴らしい国に逃げ込む事ができた。これはこれで良しとしなければ、と思っている。

でも倉庫や物置に眠っている書籍の山、もう一度読むことが出来たら、あの希望に満ちた青春時代にもう一度、触れることが出来る、と叶わぬ夢をみる。人は愚かな弱い生き物なのだ。

2020.12.21 見浦哲弥


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