小板の生活環境は厳しい。幼稚園も小学校も20キロの彼方になって、中学校も30キロの距離を役場指し回しのタクシーが迎えに来る。小板にもあった小学校の分教場、中学校が消えてからもう何年たったろうか、記憶も定かではなくなった。幸い小学校の校舎は集落が払い下げを受けて僅かに面影を残していて住民に昔を偲ばせてはいるが。
しかし、人は減って、ささやかな賑わいも減って、寂しくなった小板、それでも自然の素晴らしい風景は昔日と変わらない。心ある人にしか届かないのが残念だが、古い住民は「小板はええーの一」と去りし日の記憶を新たにする。
どんなに世の中が変わっても小板の自然は地球が続く限りそこにある。それを感じる人が住む限り、この素晴らしい風景には意義がある。生きることの素晴らしさという意義がね。
小板の厳しい生活環境は引き換えに自然の素晴らしさを贈り物にしてくれた。友人の「小板はええーところで」のセリフには私も同感である。
前深入の山腹をためらいながら白雲が登ってゆく。この風景が見られるのは今度は何時だろうかと思いながら見送るのだ。
2019.4.19 見浦哲弥
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