ラベル 終末に向き合う の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 終末に向き合う の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年2月19日

運転免許終了

2021.2.21 運転免許の更新をしなかった。まだ運転は出来る自信はあったが老人の運転事故の報道が多発、老化で能力の低下は私も自覚していて、50キロ以上のスピードは出さないことにして注意を払ってきたのだが、やはり周囲の人からすれば90歳の老人が公道を走行するなど危険そのものと反対。その上老人の運転事故で死亡者続出と報道されれば、やはりこの あたりで自動車運転は止めるべきと、自分に言い聞かせたんだ。

とはいえ、20代中頃にマツダの軽三輪トラックを買って院てて免許を取りに練習所に通ったのが始まりで、運動神経が劣る私には免許取得は大きな障壁でね、何度も通っては落ちて自信を失っ たものだ。自慢するわけでは無いが、運動神経は人並み以下で周囲の連中には笑い話の種になっ た私の弱点の一つだった。

あれから65年、新車に乗ったのは親父さんが直腸癌で看病に広大病院と小板との掛け持ち往復をしたときだけ、最初は軽三輪で往復したのだが、故障の多い中古車では身動きが出来なくてね、有り金をはたいてパプリカの新車を買った、新車を買ったのは後にも先にもこれl台、空冷の2気筒で27馬力、シートはハンモック、暖房もラジオもなくてただ走るだけ、でも信頼性の高い車で、よく走ったね。ドライブに見学にと家族で走り回った。それ以後は、トラックから乗用車、軽自動車、トラック、ダンプと様々な車を乗り回したが中古車のみ、随分ひどい車もあっ て、牛の出荷の途中で故障、騙し騙し辛うじて家までたどり着いたこともあった。 

それでも、車のおかげで西日本だけだが多少は見聞が広がって、完全な井の中の蛙にはならなかった。私の置かれた人生では望外の見聞を得られたと満足している。

その運転免許証を失効させるのには流石に惜しくて迷いはあったね。しかし、最近のニュースに高齢者の引き起こす自動車事故の多発で死傷者の報道が話題になると、他人事では無くなって 免許証の失効を決意したんだ。

60何年に及ぶ運転歴の中で人身事故は起こさなかったから、それで良しとしなければと思っている。 しかし、小板の集落から外部へと思っても自動車の足がない今、随分と世界が狭まった感がある。私の持ち時間は後少しだが世界が自宅の周りだけになった。時折、親父さんのお墓の前で 「親父、まだ生きてるぞ」と報告する生活だけ、明日は判らないぞと思いながら。 

貧乏と言いながら自動車のおかげで多少だけれど世間が広がった。いい人生だった。もっとも現在はコンピュータを通り越して皆さん電子機器を手足のように使いこなす、私から見ると異次元世界、ま、自家用車の時代に行き合わせただけでも幸せとしなければと思うことにしている。 

大学に入学する孫の明弥のところに学校でコンピュータは必須だから購入して来るようにと通知がきた。 ザラ紙につけペンで勉強した私には現在は異次元である。

免許返納の老人が60年余りも恩恵に浴した運転免許証、失効の寂しさは思い出で補うことに している。

2021.2.21 見浦哲弥

2023年2月18日

旅立ち

 あと17日で90歳になる。最近の体力低下は著しくて思いの1/10にも達しない。こんな状態だから明日の目覚めがあるのか、ないかは全く不明だ。だが恐怖はない、中々人間はよく出来て いると変な感心をしているところだ。

ともあれ90歳には何とか辿り着けそうだが、こればかりは予測どうりにはゆきそうもない。S さんの死亡に引き続いて、松原からT馬君、F雄君達、下級生の計報が届いた。皆さんは私の下 級生、それでも二人とも80歳は越えているはず、近しい人の訃報が次々と届いて寂しい限りで ある。

悲しいことだが、これは生き物の宿命、悔やんでも仕方がない。与えられた時間を全力で生き抜いて爽快感を味あう、これしか無い。それで自分に問いかける、今日一日全力をつくしたかと。 ところが私も生物だから老化には抗えない、そうボケである。しまったあそこは、こうすべきだった、これはああすべきだったと後悔することが少しずつ増えてきて、無用な反省で時間を費 やす、そして痛感する、私は平凡な人間なのだと。

しかし、逆境で思うように行かないと飲酒に溺れる人を何人も知っている。彼らが人生の終わり に失った時間を振り返って何を思ったか、意地悪では無いが知りたいものだ。帰らない時間を惜しむ愚はおかしたくないものだが、凡人の悲しさ、それは私にもある。 

しかし、生身の人間が90歳まで生きると様々な出来事があった。思うことの何分の一も出来なかったが、それでも身近な知人達の生き様に比べれば、それは貴重な時間になった。 2度と手に することのない宝石の時間に、そして今旅立ちの前の最期の時を慈しみながら振り返っている。

はからすも与えられた貴重な時間、 1 0 0%有効に使ったとは言えないが、私にはこれ以上のことは出来なかった。優れた家族に恵まれた幸運をしてもこれ以上のことは出来なかった。 でも素晴らしい人生だった、俺は全力を尽くした胸を張って言える。 

いい家内に恵まれ、素晴らしい子供たちの父親になれた。親父どんとカーチャンに5 5点ぐらい は欲しいと言えるのではないかと思っているのだが。

2021.2.4 見浦哲弥

ねこやなぎ

2021.1.23 まだ厳寒なのに先日から冷たい雨が降る。冷たいと言っても雨は雨、昨日今日と雪が減って重い雪に変身した。今日は堆肥置き場の除雪でカッパを着ての作業、時はまだ1 月、春は遣いから、まだネコヤナギの蕾は見えないはずと小川を覗いたら、小さな白い蕾が伸び始 めていた。自然は春を忘れてはいないなと少しばかり心が暖かくなった。

最近は天気予報も正確になって、ほぼ1 0 0%近く当たる。私の子供の頃はラジオの天気予報よ り下駄を放り上げて、その表か裏かで判断をしたほうが正確なんて失礼なことを口にしたものだが、最近は降り初めの時間から雨量まで、ほぼ正確に予測する。もっとも日本の地形は複雑で局所的な予測の誤りは防ぎようがないが、昔を知る人間の一人として100%の信頼を置いている。

その天気予報によれば月末にもう一度、寒波が襲来すると云う。積雪で遅れた仕事が山積している身としては悪天候はなるべくこないで、私の健康維持に協力して欲しいと厚かましい願いをしている。

そこに膨らみ始めたねこやなぎの芽、こりゃぁエエことがあるかなと思ったり、衰える体を考えて春にはたどりつけないなと悲観してみたり、人間は弱い生き物である。 

しかし、自然は人間の思惑には関係なく粛々と時を進める、残った時間が判明しない私はプラスに考えたりマイナスに悲観したり。

 独り寝の私は最期は一人でだ旅立つ、その覚悟は出来ているが、本来は気の弱い私はちょっぴり寂しいだろうなと、考えたりして。 

でも精一杯生きたっもりだ。自然がご褒美に春風の時までの時間をくれないかなどと、儚い願いを持ってはいるがね。

小板の春は素晴らしい。あの爽やかな春風をもう一度味わうことが出来たら、望むだけなら誰にも遠慮はいらないはず。 

ねこやなぎの芽が大きくなり始めた。老人の堂々巡りの考えをよそに、自然の時は休むこを知らな い。 

2021.1.23 見浦哲弥

2021年10月20日

ちぢむ頭脳

技輩は老人である。85歳に限りなく近づいていく。体力の衰えは先人の老人達を眺めて理解していたが、頭脳の衰えは我が身に起きるまで理解することが出来なかった。それが確実におき始めた。その変化は脳細胞の衰弱が原因の現象だと理解しているが、その衰弱が時間と共に増えてゆく。

先立った友人が、あるとき田園にトラクターを運転して出たまでは良かったが、それからの操作が全く思い出せない、これはトラクターの故障だと騒ぎになって笑い話になったことがある。この話は人ごとではなくなった。ロールにフィルムを巻こうとして操作を忘れていた時は、私にも起きはじめたと思ったんだ。人生に終わりがあることは誰よりも理解していると思っていたが、現実を突きつけられると暗然とする。

振り返ってみると本好きの私でも、その読書量の減少は自覚できるほど落ちている、しかも数式が混在すると読み進むことが出来ない。あの数学好きの頭は夢の彼方に旅立ってしまったんだ。

貧乏牧場の見浦ではトラクターが中古ばかり、50年前の機械を筆頭に3社の外国のメーカーの骨董品が稼動している。従って運転操作も多様で、ギヤレバーの位置、ブレーキの踏み具合、ハンドルの切れ味、給油の場所、オイルその他の点検場所、 機械にはそれぞれに個性がある。それを覚えるだけでも大変なのに、作業機が又多様である。先頃までは何とか頭を痛めながらこなしていたのだが、それが苦痛になり始めたんだ。

昔、人間は100億の脳細胞を持つと教えられた、しかし実際に働いているのは1/10くらいだと、あとの遊んでいる脳細胞は現役細胞が倒れた時、記億や信号を変わって記憶し判断を下すのだというんだが。

私もなるほどと思う体験をしたんだ。私が生物に関心を持ったのは、4年生の時に母の妹の貞叔母から貰った科学の本からなんだ(貞叔母は女学校の教師だった)。その中に当時発見されたばかりのパブロフの条件反射の詳しい記事があったんだ。今でも試験に使われる管を何本もつけた犬の写真は鮮明におぼえている。あれが小板に帰って、すぐ小学5年生の子供が牛を使うことにつながり、馬を使ったり、動員で暮らした七塚原の牧場で数多くのことを学んだ出発点だったんだ。ところが、それほど強烈だったパブロフの名前が完全に失念して思い出せなくなったのは40歳過ぎ、さすがに若年性の痴果かと恐怖したね。私は19歳の時日本脳炎を患って後遺症が残った、それが原因の若年性の痴果のはじまりか?とね。ところが頭文字がパ行だったことは覚えていた。それからパピプペポと繰り返したんだ、何日もね。そしてある日パブロフの文字が頭に浮かんだ。うれしかったね、痴果ではないとね。

ところが何年かして再びパブロフが消えた。前回の経験に従ってパ行の繰り返しで記憶が戻った。それからこの年になるまで何度も同じ現象が起きた。しかも、覚えている期間が短くなるような気がする。そして最初の思い出した時の感激がだんだん薄くなる。そこで考えたんだ、記憶は何個かの脳細胞の共同作業で成り立っている、その中の一個の細胞が死ぬと記憶を呼び戻すために死んだ細胞の代りに遊んでいた周りの細胞に情報を伝えて記憶を再生する、その繰り返しで記憶が残って行くのだと。

ただ、5歳の時経験した2.26事件での出来事は80年経った現在でも鮮明だ。あの深夜の松尾大佐の(岡田首相の身代わりになって自ら反乱軍の銃口の前に出て死んだ軍人、私とつながりがあるとか)葬儀、あの灯火は鮮明に脳裏に残る。よほど強烈なインパクトで記憶されたのだろう、動員された脳細胞の数はけた外れに多いのかもしれない。

ともあれ脳細胞減少の現実は本人も実感している。様々な対応でしのいではいるものの、日に日に進行することはあっても回復することはない、生物の宿命である。この上はゆっくり考えることを最優先で衰えた頭脳でも判断は正確でありたいと願うのみである。

2020.12.08 見浦哲弥

お元気ですか、長らく眠っていた文章を仕上げました。



2021年10月17日

終わり

2020.12.20 脳天気の吾輩も遂に最後の日を意識するようになった。長年、終わりは90歳を意識して生きてきたから(92歳を目標にしていた時あった)、別に恐怖はないが体の機能が次々と失われてゆくと、あと何日、何時間と余命を考えるようになる。

ま、後続の諸君の参考?のため私の現況を少しばかり詳細に述べてみようか。

今年の最初の入院のヘルペスは現在辛うじて進行は抑えているが、症状は快方に向かう気配はない。肺炎は食欲は増加して検査結果も良好だが、相変わらず咳もでるし、多少の痰もでる。病院の岡藤先生の診断によれば、長年住み着いた肺炎菌を絶滅させる力は私にはもうない。歩行力は激滅した。杖がなくては10メートル前後の距離が限界点に近い。しかし、杖があれば2-30メートル位は移動ができるので多少の仕事は可能。幸い小型のショベルなら乗車してしまえば1-3時間ぐらいの仕事は出来るが、両足の血行が不良で氷のように冷たくなり、こたつやアンカで温めるのに2-3時間もかかる。その原因は下肢の血管の老化と理解はしているのだが、薬で治るたぐいではないと書物にあった。何しろ90歳だからね、これも老化が原因と理解している。この文のキーを叩く左手の甲にも4センチばかりの出血斑がみえる。どこに打ち付けたかは記憶にないが大きな出血斑である。もう一つあってヘルニアが再発した。20年余り前に手術して完治、忘れていたのだが再発した等、思いつくままに取り上げてもこのくらいはある。これでは嫌でも終わりが近いと意識せざるを得ない。しかし、90年近くもの長い時間を与えてもらった幸運は感謝しても感謝しきれない。

私の家族は一時しのぎの気休めは口にしない。変人、見浦哲弥としては最高である。振り返ってみれば全てが幸運だったと思っている。有難う、 本当に有難う。

最後に私は自然に帰りたい、” 千の風になって”の歌詞ではないが、見浦牧場の空を何時までも飛んでいたいと願うのだが、欲が深すぎるだろうか。

見浦哲弥

2021年2月25日

ヘルペスと闘う

2020.02.14  昨夜から左の頭部から顔面が急速に腫れる。作業の流れで家の人間は都合がつかないので、キャンプ場を建設中の淑子くんに依頼して安芸太田病院に連れて行ってもらう。ヘルペス(帯状疱疹)と診断され、即、可部の安佐市民病院に入院する。友人の的場君がヘルペスで顔面が変形するほどに腫れて、1年の闘病の結果やっと落ち着いたと聞いたばかり、それが我が身に起きるとは信じられなかったね。

まだ調べてはいないが、ヘルペスは体内に潜んでいたヘルペスウィルスの一種の水疱瘡ウイルスを抑えきれなくなって発症するのだと。ウィルスを退治する薬はまだない。彼等は生物でないから、体が反応して抑え込んでいるだけだと。調べるとインフルエンザをはじめウイルスが原因の病気は数多い。かつて私が患った日本脳炎も同類である。

入院してもウイルスそのものをたたく特別の薬はない。ひたすらにウィルスの増殖を抑える点滴が毎日続くだけ。しかし、ヘルペスの領域拡大の速度は徐々に減って左眼の黒目に到達の寸前で止まって、眼科の先生が「これなら視力は戻るでしょう」と診断、危ういところだった。

老化は体力の低下ばかりか、病の抵抗力も低下する。残念ながらそこまでは気が付かなかった。現在のバランスを保ちながら徐々に衰えてゆくものと理解していた。ところが現実は抵抗力が低下した体に様々な病が押し寄せてくる。生きることは甘いものではないと警告しているようにね。

しかも、なれない病院生活を理解してゆくには努力がいった。ベッド、トイレ、車椅子、その他、エトセトラ、その対応に衰えた頭脳が悲鳴をあげる、そして失敗の連続、我ながら情けなかったね。

4人部屋の病室には、他の患者さんのご家族が次々とやってくる。そして聞くとなしに耳に入る会話で、知ることがなかったよその御家族の生活をかいまみる。それぞれの温かい会話の中で、一人娘さんに頼り切った患者さん、奥さん天下だったねの御家庭、小さな病室で聞こえてくる小さな社会の断面は私が気が付かなかった世界を教えてくれた。

入院の中にも教室があった。そして退院ができた。私に少しばかりの時間が与えられた、大切な時間をね。さてどう生きるか、最後のささやかな時間を仕事に全カ尽くしてみたいね、そして報告できれば。

2020.10.05 見浦 哲弥


2021年2月16日

ツクツクボウシ2

夏の日、小板の自然はアブラゼミの大合唱である。暑い暑いと言いながら時を忘れて仕事に精を出す。タ方ふと気がつくとセミの声の中に微かにツクツクホウシと秋の前ぶれの声が交じっていた。

今は河川改修で消え去って偲ぶべきもないが、うまれ故郷の三国の九頭竜川と竹田川の河口の交点にあった汐見の桜堤防、夏はアブラゼミの大合唱だった、遠い遠い少年の記憶が昨日のことのように蘇る。あの大合唱には及びはないが、小板でも同じセミの合唱は聞こえる。そのセミの声にツクツクボウシの声が交じると、季節は一気に秋になだれ込むのだ。それを聞くと冬近し、小板の一番の厳しい季節が目前と身構えるのだ。時間は止まることはない、いや高齢になるにつれて時間が高速で過ぎてゆく、残りの時間は少ないよ、と声をかけながらね。

ツクツクボウシの鳴き声の時間は短い、何日かして、ふと気がつくともう聞こえない、時は急速に秋になり、冬に走りこむ、そこで若かりし時代とは時間の流れの速さが異なることに気がつく。二度とない時間が去る現在の感覚は体験したことのないもの、長い地中での生活の末、晴れやかに命を歌った蝉たち、彼等の地上の時間も短い、そして私も振り返れば短い命だった、精一杯生きたのだろうかは自信がない。

夏のひと時、ふと耳に止めた蝋の声が心に染み込んで幸せを感じている。

2020.09.26 見浦 哲弥


2021年1月22日

体力急速低下

人生を最後まで見届けてやると豪語したが現実は甘くはなかった。努力の甲斐あって常人よりもボケの進行は遅いと自負しているものの、その裏付けの体力が伴わない。おー、生きると云うことは簡単ではないんだと痛感する毎日である。

昨日は敷料のバーク (チップ工場の木の皮、畜舎の敷料にする)を取りに行った。勿論、積込みは同行の亮子君(2t車2台でいった)が仕切るので私は運転だけ。往復82キロ、平均時速40キロ、まだ2時間の運転には耐える、左右の確認、信号、歩行者、道路側の認識もできる、ただ道路工事で臨時の停車位置が設けられているのには、対応が遅れがちになった。そろそろ免許返納が近づいたと認識している。しかし25万キロ走った老朽ダンプで過熱を心配しながら、急坂の大谷道をセカンドで登るのには神経を使う。それでもこなせる、と自身に活、あと残された時間は幾ばくもないが、人生の終わりを時間で感じるのは辛いものだ。

午後は荷降ろしで潰れた。何しろ5キログラム以上の重量物を持ち上げる力はもうない。最盛期、60キロの米俵を担いだことは夢の彼方だ。おまけに歩行困難離とくる。残り時間が少ないのに思いだけが空転してね、老いると云うことは生き物にとって現実は厳しい。

それでも私は生きる、最後まで生きる、は苦難の連続だった私のささやかな我儘、何度も投げ出しそうになっても、ここまで頑張ってきたんだ、運命という仕組みが僅かなチャンスを繋いでくれた、これを幸運と受け取らないで諦めたら天の風が「まだ判らないか」と笑うだろう。

しかし、考える力も低下している。文章を書くことも、仕事の段取りのことも。勿論、仕事量は何分の1に減少して能率の上がらないことにイライラすることもあるが、これも生き物のたどる道。近い将来、命が終わる日に 「俺も頑張ったぜ」と胸をはるために気力だけは維持したいものだと思っている。しかし、同じ話を繰り返すようになったと若い連中が笑う、私も老人街道を自身の情勢判断以上の速さであるき続けていることだけは間違いがない。

明日、目覚めるかどうかは神のみぞ知る、そして全力の一日が始まると思い込みながら今日は終了である。

2020.9.7 ここまで生きた、だが体力は急速に低下して、歩行はすこぶる困難、 おまけに長い気管支炎で排たん量が増加してチョコレート色に着色され初めて、1度内科の先生に相談をしたほうが良いかと思ったりしている。

人間の性としては何時までも生きたいと願い、マイナスの面は見つめたくないと努力する、私も大言壮語?の割には凡人での終わりを予感するのは嬉しくない。が、原爆から、もらい自動車事故まで、何度も死神のそばまで流れ着いて助かった幸運は感謝しなければいけない、そして大声で叫ぶ、「辛かったが、いい人生だった」と。

2020.9.7 見浦 哲弥


2021年1月15日

まだ動ける

89歳も半ばを過ぎて体力の低下は進行を止めない。次の大台の90歳まで生き残れるかは微妙な瀬戸際の問題になった。勿論、老化は進行を止めることはなく、ちゃくちゃくと次の段階に進んで食事の量も昔の1/3にも及ばない。それでも体は動くから人間の意志の力には感心する。

もっとも作業量の低下は著しく1年前に出来た仕事の1/3-1/5にも及ばない。若いと云うことが、どれほど素晴らしいことかは老人になってはじめて痛感している。

しかし、周囲を眺めると私の年齢に達しないで、日常の生活まで他人に頼る、そんな話をよく耳にする。この小板でも私より年長の人はすでに介護施設か老人ホームである。自慢にはならないが、私が現況に満足しないとなると、欲深爺さんと呼ばれかねない。

さて、衰えた体をいかにコントロールして長く持たせるか、問題が起きる度に考える、仕事のことも、日常生活のことも、忘れてはならないのは頭脳の方も確実に劣化を続けていて、一つの答えをまとめるのにも時間が必要とくる。昔は瞬時に結論が出たのにね。これも悔やみ事の一つである。

しかし、幸いなことに根性だけは錆びついてはいない。そこで劣化した頭脳でどう対応するかを考える。そして正解の答えが浮かんできた時は俺はまだ生きているんだと力が湧いてくるのだ。

人間は不思議な動物である。前向きの努力を続けると終わりかと思うときでも道が開けることがある。もっとも最近の医学の進歩は私の知識の範囲を超えて、余命○○日と診断されると的中する確率は思いのほか高い。したがってF君の場合のように余命3ヶ月との宣告がほぼ的中したりする。だから診断をされてから生活態度を変えても、手遅れで無駄と言うことに相成る。要は日頃から頭脳と肉体に絶えず刺激を与えて訓練することをせず、ぼんやりと終わりの道を歩いていては、気がついて方向転換しようと思っても、加速がついた流れの方向転換は至難のわざだと云うことらしい。

能力が低下したとはいえ、現在の私は同年齢の老人から見れば異常に元気に見えるらしく、異口同音に「元気ですの」と、のたまう人が多い、お世辞かもしれないがね。

ともあれ、まだ動いている。明日の朝の目覚めは保証の限りではないが、眠りは怖くはない。正直なところ何時まで生き延びるかは確信はないが、恐怖心はない。

ともあれ、今日も生きた、食欲のないのが少々不安ではあるが、何とか最低の栄養は補っているから、見浦哲弥のやせ我慢人生がまだ続くかも。どこまでか続くかは神?のみぞ知るではあるが。

2020.8.4 見浦 哲弥


2020年9月29日

物忘れ

人生も終わりに近づくと様々な事が起きてくる。

その一つに物忘れがある。多少のことなら誰もが持ち合わせている欠点だが人生が終わりに近づくとただ事でない物忘れに進行する。勿論、自分でも最近は物忘れが進行しているなとは自覚しているから大切なことは常時確認するようには努力はしているのだが、いかんせん物忘れは人智の外で発生する。

私は総入れ歯である。就寝のときは外して寝るのは昔からの習慣、ところが朝、枕元に置いたはずの入れ歯が行方不明、探し回ることで起床が始まる。そんなときは就寝時に置き場所を決めてと自分に言い聞かせるのだが、その決めた場所が行方不明、 朝起きで気分が悪くなって精神衛生によろしくない。

ところが、それに加えて目下へルペスの治療の一部で目薬の使用を命ぜられている。一日4回、時間を気にすれば小さな容器が行方不明、容器が確認できるときは時間がデタラメ、散々である。

その他にまだある。まだなんとかトラックの運転ができる。ところが、いざ乗車と言うときに免許証はどことなると自尊心が傷つけられる。最高に運転に集中しなければいけないと言うときにね。

更にもう一つ、これは大事なものだから大切にと思った財布や病院から貰った薬などの袋が行方不明、何度も歩いたコースをたどってみても見つからず大騒ぎになる。 結果は昨日に限って別のコースを歩いていてね。物忘れは誰にもあると律子君、そう言えばそうだと気がついても、物忘れの進行が早くなったのは痛感してね。反省しながら、この文章を書いている。

痴呆ではないが、老人ボケも大変だ。まともに生きたご褒美に最後まで人間として生かしてほしと願っている。

2020.3.13 見浦 哲弥

2020年5月18日

Kさんが死んでいた

2020.2.2 Kさんが今年の初めに死んでいた。まさに晴天のへき歴だった。昨年の12月の初め、久方ぶりに我が家を訪問されて世間話をしたばかりで、次のニュースが死亡されたとは。動物の生き死にに関わって生活している私にとって、命に関わる出来事は常人より鋭いと自負していたのに全く気がつかなかったとは。勿論、最後の世話話で、お互いに老境、健康についての意見の交換はしたのだが。

彼は広島の人、亮子君(息子のお嫁さん)の父君と同じ三菱で働いて定年退職、環境の変わった田舎暮らしをしたくて小板にやってきた。道端で今は亡き親戚のY君と立ち話をしていた時、土地を探していると声をかけられたのが最初。
ログハウスのキットを買って自分で山小屋を作って、今度は炭焼き窯を作って、次は畑で野菜を作るので堆肥がほしいと。Kさんが購入した土地は倒産したT家の田園や山、長年の放置で荒れた土地は肥料を投入しなければ生産力は回復しない、それには堆肥しかないんだな。そこでまず土作りのアドバイス、以来、毎年1-2台の堆肥の搬入が恒例になった。一方でKさんから不要になった機械や資材を譲り受けて見浦牧場も大いに助かったのだが。

唯一問題があって、Kさんは酒が大好き、私は40代に飲酒で子牛を殺してから酒を断って以来一滴も飲まないのを信条としてきた。いくらKさんに酒を飲んで大いに語ろうと誘われても譲るわけに行かない。その度に一緒に酒が飲めたらと彼の愚痴、ところがこれだけは私の生き様、譲るわけに行かなかったね。しかし、何が気にいったかは知らないが時折は話に来て事務所で世間話、私は少年まで都会生活を経験している。そんな関係で親近感を持ってもらったのかも。

その彼が前立腺を患った。手術は成功したが、私も排尿が止まって危うく一貫の終わりを経験したことがあって親近感が増したらしい。貴方もご存知だろうが男性は老化すると大なり小なり前立腺に問題が起きる宿命である。
12月、例によってフラッと彼が事務所に現れた。免許を返納して遠出が困難になったと愚痴を言いながらね。世間話をして最後に「見浦さん前立線の具合は」と開いてきた。私は頻尿と尿もれが始まったかなと正直な返事をした。彼「調子が悪くて前立腺の手術はしたんだが、尿もれがあってね、オシメをしてるんだ」と。尿もれは老人のさが、これはどうにもならないと笑い飛ばしたんだが、本人が知ってか知らずか本当は余命3ヶ月の宣告を受けていたのだとか。当人はそこまでは知らされていなかったらしい。だから普通に雑談して別れたのだが、それから2ヶ月もしないうちに死なれるとはね。愕然としたんだ、彼より年長で老化の激しい私より先に逝くとは想像していなかった。

彼は私より10歳近くも若い、時々は怪我や病気で入院をしても、私より先に人生を終えるとは夢にも思わなかった。最後に訪ねてきて体の(前立腺)の不調を訴えられても、老人になれば男性が誰もが患う症状、私だって無縁ではない、適当に気休めな話で済ませたのだが、2ヶ月も経たないで死亡を聞こうとは。
人生の最後は突然訪れる、それが定めかもしれない。彼はそのことを話したかったのかも。ともあれ友人が1人旅立った、間もなく私も旅立つ。次の世界で彼に会えるとすれば、あの時もっと話すべきだったと謝まろうと思っている。

2020.2.29 見浦 哲弥

2020年4月25日

排尿が困難になった

2020.2.21
ようやく89歳になった。ところが老化が進行し排尿に問題が起きた。男性は前立腺の問題からは逃れられない。帯状疱疹で1週間ほど入院していた時、病室の隣のベットの老人に対する医師の説明も老齢になれば前立腺の問題は避けては通れないと説明していた。手術は危険が多すぎるし、後は常時パイプを入れておくしかないと。開業医と違って納得できる説明だが本人には厳しいだろうなと聞いていた。人のことではない、私もその年令、現実を逃げないで正確に認識しなければ、たとえそれが人生の終わりを宣告されることと同じでもと、心に刻んだんだ。

ところが排尿の問題は私にも現実になりつつある。頻尿の傾向があり、小便切れが悪くなった。下着を汚すことが多くなったんだ。家族に迷惑をかけていると思っているが、老化の進行に伴うものだから如何ともし難い。こんな心配がいらなかった過ぎし日が懐かしい。

とは言え、人手が足りない我が牧場、1時間でも2時間でも働いて家族の負担を減らすのが現在の目標、退院して3日たち、明日からは体ならしを始めようと思っていたが、現実は厳しい。持久力がなくなっている。

実際に仕事に復帰しても持久力がない。1時間働くと2-3時間も動けない。たまたま半日働いて次の日は二日休んで、これが現況である。後は春が来て暖かくなったら少しは元気が出るのではと空頼み、私の人生は最後まで厳しい、選んだ道ではあるが。

でも男性の常といえ前立腺の問題は他人事ではない。
オシメをする赤ちゃん返りだけは御免被りたいものである。

2020.2.21 見浦 哲弥

2019年12月23日

白髭

白髭は老人の象徴である。私もいつの間にか白髭になった。勿論、頭髪も真っ白。鏡と対面すると白髪、白髪の老人が姿を表す、これが現在の我輩である。そして体は衰えて行くのに、白髭は反比例して伸びる速度が上がった、そんな気もする。

白髭といえば祖父の弥三郎爺様が見事な白いそして長い白髭だった。小柄な爺様が私達悪童3兄弟のいたずらを「ほうほう」と言いながら目を細めて眺めていてくれた。あれは昨日の出来事のような気がする。何ともなしで見ていた祖父の白髭、そして自分がその年齢になってみれば体の衰えとは反対に白い顎鬚は猛然と急成長?をしている。死後の老人の死体の顎鬚が伸びた話を聞いたことがあるが、まさにその話を裏付けるような顎髭の伸びかたである。

年齢以上に見られるのが癪で気をつけて剃り落とすのだが、これがカミソリがすぐ鈍刀になる丈夫な顎髭、体力の衰えとは反対のこの現象は私にはいただけない。そんなこんなで孫を含む若者たちを見ると、もっと青春を、人生を大事にしろやと声をかけたくなる。白髭の報告をするようになると人生は終わり。私も青春の年齢のときには人生の終わりなど考えたことがなかった。そこで自分のことは棚に上げて白髭になってからでは遅いぞと忠告したくなる。老人のお節介だがね。

2019. 6. 13 見浦 哲弥

2019年9月7日

転倒

御年88才が4ヶ月過ぎた。まだ頭脳は何とか働いているらしいが、転倒を意識に置かなければいけないようだ。最初はショベルからの降車の際にステップを踏み外して転倒、起立しようとしても足に力が入らない。初めての経験でどうすれば起きられるかの試行錯誤、泥の中を這い回ってようやくショベルのステップに掴まることができ、体を持ち上げて起き上がったが、私は残念ながら左手がある角度以上では力が入らない。そこで、姿勢でも一苦労、感覚的には1時間近くもかかった気がしたが、実際は30分位か、なるべく泥だらけにならないようにと努めたが、それでは起き上がれないと気づくまでに時間が要ったね。

あれから半年にもなるか、左足の衰弱が原因だと気づいて注意はするようになって転倒は遠のいたと思ったら、つまずくことが多くなった。勿輪、注意は怠っていないが、老化による様々な現象にすべて対処するのには頭脳の衰えもある現在、完全の対応ができないことはよく理解しているが、優先順位を守って生き抜くのは大変な努力が必要とするのである。

最近は老人による自動車事故が多発して人身事故が多い。犠牲になる人も増えてニュースになる。他人事ではないが、理解ができないことも多い。確かに老化による能力の低下は自分でも感じている。それで運転をする時は注意点を繰り返し繰り返し思い返すことにしている。昨日も牛舎の敷料を取りに新庄の工場まで2トンダンプを運転して和弥のダンプと2台で行った。制限速度の50キロの遵守は当然だが、後続車への譲りもうまく出来たと思う。だが若干疲れた。最も2トンの積載で10%の勾配の大谷登坂は2速、これは辛い、25万キロ走行の我が愛車をなだめすかして何とか登った。私はまだ大丈夫か。勿論、交差点の信号など確実に見えるところで止まる、あたり前のことだが。

ただ乗車の時に注意が必要になった。運転台が高くなったとね。これは乗車姿勢を変えることで対応している。あと何年か何日か予見は出来ないが、最後の日まで全力で生き抜いてやる。これは私の命の実験である。

2019.6.22 見浦哲弥

2019年7月31日

文章が書けなくなりました

84歳と言うのは本人が考えていたより大変なことでした。貴方がご存知のように身の回りのことを雑文に書き流すようになってから、もう20年あまりにもなりますか。最初は小学生の作文のような拙い表現だったのが、おぼろげながら私の思いが伝わる(思い過ごし?)様になって、踏み越えてきた人生の記憶を短文として残してきたのですが、それが辛くなり始めました。意識の集中が続かなくなったのです。

振り返ると長い人生でした。大方を広島の最奥の山間で過ごした人生でした。様々な人との出会い、変動の日本の中で私なりに激変を体験しました。周囲の友人達が信じることが出来ないような出来事にも出会いました。ただ残念なことに多くの場合信じてもらえない、小板の中だけに住んでいて、そんなに広い経験が出来るわけがない、見浦は夢想家だと非難されました。でも私の考えが何時か理解される時がくると、拙い文章を書き続けてきたのですが?。

しかし、記憶を文章にすると言うことは、ただ文字を並べることではありません。拙いながら読み続けてもらう、読者の興味を繋ぎとめなければ意義がありません。頭の中には書きたいことが浮かぶのに、それが文章にならない、やりきれない気がします。従前は拙いながら文字が浮かんで繋がり文章になりました。読み返すと幼稚ながら思いが伝える形になったのに、今はまとまらない、何を言いたいのかと自分に問い返す始末、これが老いるという事なのでしょう。

先人の老化を見てきて、自分だけはああはならないぞと心に誓ったのに例外はありませんでした。今になって思います。一度きりの人生、人が読む読まないに関わらず、心に浮かんだことは記録すべきです。人の役に立つ立たないは別として、自分が生きた証なのですから。

そして、読まれた方が心に留めて、少しばかりでも私の思いが伝わったら、ものすごく素晴らしいことだと思うのです。

2016.10.1 見浦 哲弥

2019年7月1日

人には様々な夢がある。現実には厳しい生活があって、夢は夢でしかないが、夢を見ることは楽しいことには違いはない。子供の頃の夢は空想の世界、現実とは程遠い。それが大人に近づくにつれて夢も現実に近づいて変化してゆく。その夢の変わり目は何時だったのか、気づいてみれば私は中国山地の小さな牧場の老爺に変身していた。

でも、時折の夢の幾つかは記憶に残っている、そして関わった人達は夢の中では年を取らないで現れる。いい思い出は懐かしく、関わった人達は笑顔で微笑みかけてくれる。しかし、悪い思い出も蘇る、忘れたい顔も消え去ることは無い。

忘れたい出来事もある、思い出したくない失敗も少なくない。そんなときは、あの時はああすればよかったと、遠い昔を後悔するのだ。

少年や青年の頃の夢は希望に輝いていた。そして生きるという厳しい現実に無謀な挑戦をするのだが、夢は簡単に実現することはない。夢のまた夢、血の涙を流しながら何度も何度も挑戦して乗り越えても、容易に成功の道にはつながらない。それでも乗り越えなければ明日はないと教えられていなかったら、凡人の私はとっくに投げ出していたであろう困難、そして辛うじて終点の老境に達した。しかし、後続の若者たちに「1度きりの人生だ、 我に続け」などと声を掛ける勇気はない。それは辛い辛い道なのだ。それでも人生の終わりに「ああすれば良かった」と後悔をするのなら、厳しい道を選ぶのを止めはしない。たった1度の貴方の人生、歩くのは貴方なのだから。
でも老境になってから反省しても何も生まれてこない、反省しても過ぎた時間は蘇らない、その厳しさを学ぶべきだ。道を間違えれば悲しい人生に直結かも知れないのだから。

夢ははかないが、しばしの安らぎは得ることができる。しかし、現実と夢の隔たりの大きなことよ、でもささやかな憩いにはなる、辛かったがいい人生だったと、「良くやった」と自分を褒めてやろう、夢の中で。

2018.11.17 見浦 哲弥 


2019年6月16日

小便物語

老齢になると小便が飛ばない。特に男性はそれが如実に現れる。若かりし頃、いや50歳頃だったか、会合で「ションベンが飛ばなくなって」と先輩が話すのを笑い話と聞いたものだが、それが現実として我が身に現れると真剣に考えざるを得ない。老化とは筋肉の衰えだから、小便が飛ばなくなるのは当然のことだが、こんな形で警告してくるとは造化の妙と感心している場合ではない。

就寝時に排尿のためのトイレ回数が増え始めた。87歳の現在は3時間おきだが、少しずつ短くなる。先輩は尿瓶を愛用するようになったとのたまったが、むべなるかなと納得している。

おまけに尿意を感じたとき我慢ができる時間が短くなった。注意しないと下着に漏らす可能性すらある。先人は老人になると何時の間にかズボンが袴に変わっていた。それも知恵の一つだったんだ。最近はホームセンターで子供のオシメと並んで大人のオシメが堂々と商品棚を占領している。尿もれパンツと称しているが老人のオシメである。赤ちゃん返りまで行くと老人にも必需品になるのか、愛用者が多いらしい。私もお世話になるのも近いのかもしれない。老人になるのも 大変である。

少年の頃、小便の飛ばしっこをやったっけ。遠くに飛ぶのが当たり前と思ったが、あの頃は体が成人に向かって日に日に成長していたんだ、現在の孫たちのようにね。小便もよく飛んだと遠い昔を偲んでいる。

振り返ると、この集落では最年長者?になったが、そんな繰り言も老人の戯言と耳を傾ける人はいない。若かった過ぎさりし日の私のように他人事なのである。誰も自分がその老人になって悲哀を感じるまでは自分は例外なんだ。人が必ずたどる道なのだが、私がそうであったように我が身に起きるまでは他人事なのである。

小便物語は人生の中の小さな出来事、でも誰もがたどる道、この小文を読まれた人は、どこかに記憶としてとどめて、若さに感謝して時間を大切に生きてほしいと、在りし日の自分を振りかえりながら願っている。

2018.12.30 見浦哲弥

2018年7月21日

日々新たなり

最近は日々新たなりと痛感することが多い、とは言っても若者の時代とは違って老化の進行についてである。御年87歳にもなると老化の進行も想像していた以上に早い、從ってこんなふうに進行するものだなと感心している。

脚力が衰えて歩行に努力が必要になり始めたのは、そう昔のことではない。その現象は慣れる時間も与えてくれないで、着実に進行してゆく。そこで「へー老人とはこんな風に終末に向かうのか」と納得しているのだ。昔のご老人はお寺さんの説教を聞いて信心さえすれば、安楽に終末が迎えられるとお寺参りだったが、無信心の私は老化とはこういうものだと日々新たに起こる現象に感心しているだけ、これが間もなく到来する終点まで止まることなく進行する。抗うすべもない老化だが、新しい体験を好奇心で受け止めてやろうと待ち構える、他人事のように。

一昨年まで何とか体力の維持にと懸命にウォーキングに励んでいた先輩の老人方を思い出す。その努力の甲斐もなく老化は進行、現在は植物人間とか、音信も聞かなくなった。そして無住となった茅葺屋根の住宅は雪の下でひっそりと朽ち始めた。今は往年の活気を偲ぶべくもない。同じ老人としての道をひたすらに歩いている私には、生きることを止めた建物の悲しみが伝わってくる。

この間まで子供であった孫たちが見る間に少年になり大人になってゆく。男の子は表情が輝き、女の子は爛漫の花が咲いたようで、遺伝子の一部が私と共通とは想像が出来ない。青春が人生最大の輝きということを、あの頃の私は理解していなかった。今考えると大変な無駄遣いをしていたのかも、というのは繰り言で、貧しかった私にもあの時代はあった、思い返すと心が痛くなることも、希望に輝いていたときも。

思い出に浸っても時は止まらない。人生を全力で走り続けた私は、温かい家族や、目をかけて頂いた素晴らしい先輩方を持てたことが最大の幸せだったと思い返しながら終末に向かっている。

歩行がだいぶ困難になりました。

2018.3.20 見浦哲弥

2018年4月25日

老化

老人になりました。もうすぐ85歳、当然のことですが一度きりの人生が限りなく終わりに近づく、随分寂しいものです。

歩行が困難になりました。走ることは、もはや出来ません。急坂は休み休みでないと登れません。時速6キロを誇った健脚も休みながらでは3キロにも及びません。特に左足が痛い。どのような状態か姿見で全身像を見ることにしました。ここ何十年の変化の具合を詳細に見る気になったのは、私には特筆することなのです。

さて、姿見と対面しました。長年、肉体労働を続けていただけあって、上半身は、この年齢としては合格の点数かと思われる身体でしたが、下半身がいけない、O脚なのです。特に左足が湾曲している、これでは痛いはず。そういえば歩行時にも左足を引きずる感がありました。ま、70年間も酷使したのですから当然ですが、まさに老残の肉体、そこまではひどくはないか?

私は15-20頭の肥育牛の飼育が受け持ち、それと草刈、収穫、畜舎の掃除の計画と作業、それで毎日が消えてゆきます。幸い残り少ない人生だから温泉に行こうとか、物見遊山とかいう趣味はありません。仕事でも読書でも、少しでも新しい経験と知識を得られれば満足なのですから、世人とは少々変わった変人なのです。

ところが、ここ10年ぐらいになりますか、高いところが苦手になりました。昔は建前や屋根葺きには、若役として動員されました。ハンドウ(大きなカメのこと、落ちると壊れる)と呼ばれた高所恐怖症のH君ほどではなかったのですが、高いところの作業は志願したいとは思いませんでした。でも、後へ引けない時は高所でも作業をしたものです。が、高いところは足がすくむようになりました。トラックの荷物の積み上げが苦痛になり始めたのです。昔と違って落ちたら頭から落ちると。

最近はウォーキングと称して歩かれる方が多くなりました。年、何回か開催される安芸大田町ウォーキング大会の一つに深入山一周というのがあります。国道沿いのグリーンシャワーをスタートして旧国道を登り水越峠を越して、小板集落に出る、山間の道が急に開けて一望10ヘクタールばかりの緑の集落が開けます。田圃あり、畑あり、草地あり、まだ人の手が入っていて荒地にはなっていない、昔の山村が出現するのです。「わー、ええとこよのー」は大方の意見。ところが大規模林道との交差点を過ぎると荒廃した田畑や建物が現れる、山際に点在する別荘が異様に目立つのです。別荘の住人は高度成長時の日本で成功された人達、そして周りの荒廃した無人の館や荒地は変貌する社会に対応できなくて落伍、都会の底辺に沈んだ小板の人達、一概に即断することは出来ないでしょうが、私にはそう感じるのです。400年の昔、4つの沼の辺に生活の居を定めた4軒の先人の思いは、もはや消えてしまったかの様です。昔は働いても働いても食えないと農作業に家事にと身体を酷使していた老人達も、今は年金制度で働かなくても手当てが頂ける、有り難い事でと病院通いを日課とする、そんな老人が増えてきました。もっと身体を使わないと薬漬けになって、ご愁傷様でしたということになりかねないと思うのですが。

今年も「見浦さん、また堆肥を」と現れた町内の御老人は、もう80近い。畑に堆肥をと来られて、もう20年近くにもなりますか。でも髪の毛が少し白くなっただけで、お元気。もっとも歩くのは辛くなったとか。息子さんの運転する軽トラでこられて、「これから白菜を植えますんで、畑はよーがんすのー」と。

人間は自然の中の一員、近代化のお陰で田舎の人まで野菜はスーパーで買うということになってしまった。自家菜園を推奨する我が家でも時々はスーパー産の野菜が登場する。自家産の味に親しんできた老人には形は立派でも無味無乾燥で野菜本来の味は感じられない。昔の白菜の漬物は今考えると表現できない至上の味だった。勿論、品種改良が見栄えと多収穫に進んだのだから当然ではあるものの、このあたりにも農民の生きる領域がある、そんな感じもしています。

そこで”畑に出よう、自然と友達でいよう、それが幸せな老後につながる”と提唱したのだが、これは少数意見。長い間懸命に働いてきた老後、働かなくても何とか食べるだけの年金と貯金があると、優雅な時間を過ごす老人が増えました。ところが人生の終末は休むことなく近づいてくる。そして怠惰に慣れた老人は急激に衰え病院と介護のお世話になる。そんな老人を見るにつけ、“畑に出よう、自然に会おう、そして適度な労働を”、の私の主張は間違いではないと自信を深めている。

又、愚痴を並べました。能力の低下をいつも確認して、事故に気をつけよう、コンピューターの時間も減らすようにしよう、しかし、仕事は山積している、細心の注意で今日も頑張ろう。

また駄文を読んで下さい。

2017.2.15 見浦哲弥

補聴器

耳が聞こえなくなるのは高齢者の誰もが通る道だ。家内は私と一つ違いだが彼女の難聴は私より早く始まった。

幸い私はまだ聞こえるので不自由を感じないが、確実に難聴の道を歩んでいることは自覚している。音楽の高音が聞こえなくなってもう何年になるか、貧乏の中でたった一つの趣味だった音楽好きも、手作りのHi-Hiがコンポにかわり、そして現在はラジオで満足している。高音が聞こえなくなり、音楽に艶がなくなったからだ。幸い、まだ人の声はほぼ?聞こえているので不自由は感じないが。

しかし、晴さん(家内)の難聴は深刻な段階に差し掛かった。最初は補聴器を購入すれば解決すると安易に考えていたらしいが、老人の難聴は生理現象だから受け入れなくてはと遠回しの意見をしても、頑固な彼女は(頑固だからここまでやってこれた)補聴器さえ買えば解決すると聞き入れない。実は私の友人のY君は90を越す高齢者だが、彼も4―5年前から耳が聞こえなくなり始めた。話好きな奴で近くで作業をすると缶コーヒーを持ってやってくる、畑の畦に座って延々と世間話。友人だから付き合うのは苦にならないが、話が終わらなくて仕事が出来ない、これには参った。その彼が耳が遠くなり始めた。長い間、工場勤めをした彼は相応の年金を受け取る。早速、補聴器を購入、これで大丈夫と思ったとか、思わなかったとか。が、今度は物忘れも進行、補聴器が行方不明となった。探しあぐねて新品を購入、再び行方不明。メーカーは喜んだが、さすがに本人も疲れた。おまけに補聴器でも難聴が解決出来なくなるほど進行、ついに諦めて、昨年は近くに仕事に行っても手を挙げるだけ、話にこない。仕事の邪魔にはならないが寂しさもある、老いるということは厳しい現象である。

この経験があるから、晴さんも難聴を素直に受け入れなくてはと思うのだが、彼女中々納得しなくて、補聴器に解決を求める、これも老化の過程の一つかと静観することにした。

自然の掟として、人間は生き物、必ず老いる。私は他人の批判でなく、自分の老化を素直に受け入れなくてはと、自戒しているところである。

2017.1.4 見浦哲弥

人気の記事