嬉しくない言い伝えだが見浦家は2代ごとに栄枯盛衰を繰り返すという話、聞きたくないことだが他人には恰好の世間話、何人もの人から聞かせてもらったから知る人ぞ知るの話なのだろう。
さて、問題になるのは私が、この栄枯盛衰のどこに当たったのかだが、残念なことにどん底にヒットしたらしい、お陰で家族にまでとんでもない苦労をかけてしまった。
その上、家族だけでない兄妹にまで迷惑をかけたのだから申し訳ないの一語に尽きる。
何度も言うようだが昭和16年、小板に帰郷するまでは中産階級のサラーリーマン一家として幸せな生活を送っていた。親父さんは県立高校の校長だったから、将来の恩給 (年金) が約束されていたし、かなりの山持(300ヘクタール) だったから分限者の端に記録されてはいた。ところが一人息子の親父さんが都会生活をする、留守は婆様を亡くした爺様が雇い人相手に一人で田畑と山を守った、これで発展すれば奇跡だが、そうは問屋は降ろさなかったんだ。
親父さんが当時の軍部に脱まれて54歳で退職し、小板に帰郷した時は植え付けが出来ない荒れた田園が2-3枚あった、大きな田園でね。合わせて30アール、小板では良田に数えられる田園だが野生のい草と茅が生い茂る荒れ地だった、田園がこの有様だったから畑も荒れ放題でね。馬が2頭、牛が2頭、田仕事や山草刈りに使っていたが、一頭は小さな雄牛で見浦で生まれたからと飼い殺しの雄牛、(去勢がしてないから小さくても気性が激しくてね) 、それに、たてがみが真っ白の老馬、赤毛の小さい馬、いずれもお爺さんが可哀想だからと飼い殺しを覚悟に飼っていたんだ、他家では廃用になるボロのオンパレード、したがって他家の様な仕事はこなせない、それでも馬喰に売り払うのは可哀想、それが爺様の方針だった、そこへ17歳から勉強一途に人生を送った親父どんが (一人息子だった)登場したのだから、その悲惨さは押して知るべきである。
負けず嫌いの親父どん、挑戦はするのだが思い込みの我流は失敗の連続、それでも頑張る、今振り返っても音を挙げない根性は尊敬すべきものがあった、私は弱音をロにしながら何度も投げ出そうとしたのだから少人である。
この見浦家の状態だけでも困難のオンパレードなのに戦争という大波が襲ったのだから親父どんも運が悪い、帰郷した翌年に母が、半年後に祖父が亡くなり、その年に馬が2頭とも死んだ、当時は馬や牛が死んでも、そのまま埋葬とは行かなかった、軍隊用の皮革の原料に皮を剥いで乾燥して国に納品して初めて埋葬がみとめられる、なれない仕事を依頼しようにも職人は軍隊に動員されていて、親父さんが年取った雇い人を相手に牛馬の皮を剥いでいた姿は忘れられない。
戦争が終盤になると朝鮮海峡にアメリカの潜水艦が出没するようになり大陸からの米、麦、大豆などの輸送が困難になった。その食料不足を解決するために米の政府管理が徹底的に実行されるようになった。
お百姓は収穫したお米の中から政府の決めた自家用米 (人数、年齢、性別できめられていた) を差し引いて残りを全部政府に売らなければの義務制になった。ところがお米の収穫量にはお百姓の上手下手で大差がある、それを標準と称して各集落毎に役場が決めてくる、百姓をご存じない父どん(部落長だった) が役場の査定を鵜呑みして帰ったから大変だ。隣村の八幡地区は小板と自然条件がほぼ同じ、従って米の反収(10アール当たりの収穫量)もほぼ同じ、それが1割も大きな割当を了承したと大騒ぎになったんだ。駆け引きの出来ない親父さんは差額を引き受けることで解決したのだが、お陰で小板で一二を争う大百姓が飯米がないと言う騒ぎになった。おまけにお母さんが死んで、お爺さんが死んで、仲良しだった白毛の馬も死んで、 元気な馬まで死んでしまった。幸い没落したとはいえ小板随一の山持ちだったことが幸いして売り食いで何とか生き残りはしたが、そこが貧乏見浦家の出発点だった。恨んではいないが、お陰で兄妹5人のうち上3人は小学校まで、 家計が何とか持ち直し始めた時点で下2人が大学と言うことに相成った。なんでやねと恨んだが、勉強好きだった親父どんは、どの子にも教育は受けさせたかったろうと、今ではその気持が理解できる。
かくして見浦家の栄枯盛衰ゲームが始まったのだ。
見浦家は没落したが私を除いて兄妹に優秀な遺伝子は受け継がれた。2番目の達弥は自衛隊に勤務した後、職工になったが野村の爺様の時代を見抜く遺伝子を受け継いでいて投資で成功した。もっとも子供さんが一人だったのは寂しかったな。私は親父どんに危ない手術を受けさせたが彼の結婚と娘さんの誕生とを見られたと親父さん大満足。もっとも、直腸ガンで手術の成功は30%しか望めないと宣告されたのを 「どうせ死ぬのなら」 と強行したのは私だったから、少しは心がやすまった。
3番目の信弥さんは我が兄弟で最高の成功者、頭が良くて頑張り屋、おまけに目標が決まったらまっしぐらという性格、カヤパ工業を退社した時は副社長だった。1番下のサチ子ちゃんは冒険家、通産省の通訳の試験で日本最初の最年少で合格した彼女は京都で通訳をやり、高校の教師になり、親父さんの死後、日本脱出、ワシントン大学に入学、ドイツ人と結婚、カナダに移住してセント·ジョン大学の図書館長まで上り詰めた。彼と一番下のサチ子さんは親父とお母さんのいい性格をモロ受け継いたんだ。他の兄妹も大なり小なりに受け継いだ両親の能力だが、この二人は図抜けていた。もっとも他の3人も普通人に比べれば頑張る、努力の2点だけは人に負けないものを持っていたが、残念ながら私はこの二人にも及ばなかった。
私は見浦家の没落のどん底の担当者としては何とか合格点かと自負してはいるが、再興の坂道を押し上げるだけの才能はなかった。だから非凡の親から生まれた平凡な人間として生きた、そして、これが私の限界だった。
中国新聞の編集部の記者さんだった島津さんが中国山地のレポートの本の中に” 異端の見浦牧場と紹介され続けられてきた見浦枚場、島津さんの御本”山里からの伝言” の表紙を飾った小板の全景は、どこにでもある中国山地、でもその中で懸命に生きた見浦牧場、それが懸命に生きた私のささやかな誇りなんだ。
小板では倒産、廃業、転居等々生き残った家は数軒に過ぎないが、見浦家は辛うじて生き残った。明日のことは予測は出来ないが全力で生きる気風は伝わったと思っている。
2020.6.20 見浦哲弥
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