2018年7月21日

母の記憶

若くして(44歳)世を去った母の記憶は5人の兄妹の中で私が一番多い。振り返ると私の人生は厳しかったが、引き換えに母の思い出も多い。それは私の幸せの一つだった。でも同じ血を分けた兄妹にその記憶を伝えることは私の義務の一つだと思いついて、この拙い文章を書くことにしたんだ。

昭和16年、三国から小板に帰った日のことから始めよう。あれは確か4月の16日?だった。八幡まで通っていた小さなバスは、松原止まりになっていた。秋には太平洋戦争が始まる年だからガソリンの備蓄が始まっていたのか。

トーチャンがヒロ子さんをカーチャンが乳飲み子だったサチ子さん背負って、男の子もそれぞれに荷物を背負ってね。小春日和の温かい日だった。松原の停留所の奈良津商店の前から3キロほど歩いてオシロイ谷の近道の入り口の山桜が満開だったのを覚えている、しかし記憶はそこまで、急な近道は辛かったんだろうね。

大畠の家は茅葺き屋根の大な家でね。囲炉裏端の大部屋に10ワットの裸電球が一つ、これには親父も驚いて臨時灯を何箇所かにつけたのだが、便所が大変だった。ダヤとよばれた畜舎が囲炉裏端の部屋と壁一つで隣り合う内ダヤとよばれる方式で、そのダヤを取り巻くように小便所と大便所が作られていてね。大きな木桶が埋められてその上に厚板が並べてある、その隙間に用をたす方式だから怖かったね。おまけに、そこには電灯がなかったから、行灯(あんどん)のロウソクに火をつけて恐る恐るゆく。落っこちる危険があったからね、とても一人で行ける代物ではなかった。カナダのサチ子さんも「あれは怖かった」と、恐怖だった。

そんな前時代な環境の中での生活が始まったんだ。水は横穴からでる溜まり水、大木を刻み込んだ水槽に時々ナメクジが来訪してね。煮炊きはガスでなくて囲炉裏の自在鉤に掛けられた鉄鍋と煙突のない竈(かまど)で煙が天井から屋根裏に這い上がる、これが茅葺屋根を長持ちさせている秘訣らしい(福井では都市ガスがあった)。壁1枚で牛馬と同居の劣悪な環境、おまけに蚤君とハエ君とは遠慮なく人間に襲いかかる、除虫菊の殺虫剤を物ともせずにね。おかげでノミ取りの名人にはなったが、その劣悪な環境は都会人のカーちゃんには厳しすぎたんだ。それでも目を閉じると重いダオケ(木造の餌桶)を引きずって牛に餌をやっていた姿が目に浮かぶ。辛かったろうと思えるようになったのは牧場を初めてからだ。子供だった私は懸命に働くカーちゃんの姿だけが記憶に残っている。

確か稲刈りが終わった頃、「首の所にグリグリが出来たのよ」と言ったのを覚えている。「痛くはないんだけど」と話していたっけ。秋口の天候が厳しくなった頃だったから「春になったら病院に行こう」と。

翌年、4月の温かい日に隣の雄鹿原病院に行くとて、お供を申し付けられた。カーちゃんがサチ子さんをおぶって、私がヒロ子ちゃんの手を引いて、一日がかりで雄鹿原病院に行った。10キロ足らずの山道だったが峠が2つあってね、大変だった。

確か、ここでは病名の診断も治療もできない、もっと大きな病院に行ってほしいと言われたとか。帰り道で話した地元のおばあさんに「朝鮮から何時きなさった、日本語が旨い」と言われて憤慨していたっけ。この地方では福井の方言は珍く、私達も学校で言葉がおかしいとイジメられたから。

ようやく、田植えが済んで広島の県病院(だったと記憶しているが)へ行ったんだ。その頃は病気の進行が本人にも判って行く気になったんだと思う。

慣れない百姓で手の離せない親父さんは、私にお供を命じたんだ。勿論、松原までは歩き、バス、市内電車、乗り継いで行った病院の診断は「付添はきているのか」と聞かれて「息子が来てます」と言ったとか、「子供では話にならない、大人をよこしなさい」と言われたと。話を聞いた親父どんが飛んで行って病状を聞いて、もっと大きな病院でなくてはと、親戚の東京の山村病院に連れて行ったんだ。ところが診察をした院長が親父さんを叱ったという。こんなに病状が進行している人間を東京まで連れてくるとは非常識だとね。すぐ連れて帰れ、途中で倒れるかもしれないが一刻を争うとね。その予言どおり広島で動けなくなって、昔、お世話をした岡本さんの二部屋の小さな家を借りて寝付いたんだ。

私は覚えてないがヒロ子ちゃんとサチ子ちゃんは福井の野村に預けられた。叔母ちゃんが迎えに来たのだと思うけれどこの部分は記憶がない。男の子3人は学校があるからと、藤政の婆さまに飯炊きを頼んであって食事の心配はなかったが、オカズが毎日高菜の煮付けばかりで閉口した。高菜の葉っぱを下からもいで煮付けるだけ。でも兄弟3人だけの生活は心細かったね。何日かして戸河内の若本のタクシーが親父さんに頼まれたと迎えに来た。近道をするとてバスのルートとは違う道を走る車に不安で肝を冷やしたのを覚えている、おまけにスペアタイヤを落として探しにもどるハプニングまであってね。それでも広島でトーチャンとカーチャンの顔をみて安心したんだが。

衰弱したカーチャンに少しでも栄養になるものを思っても戦争で自由に物が買えない時代、岡本おばさんが「まだ広島駅で牛乳の立売がある」と言うので達ちゃんと買いに行ったんだ。勿論、数に制限があるから行列に並んでね。うまく行ったら一本づつでカーチャンに2本飲ませることができる。毎朝、にきっさんとよばれた広島東照宮の前の道を広島駅に通ったんだ。ある朝、怖いお兄さんが凄んできた、「お前らが並ぶけー、俺らーの取り分が減った、明日からくるな」とね。恐ろしかったけどカーチャンに飲ませる牛乳だ「はいわかりました」というわけにいゆかない。「おかーさんが死にかけているんだ、それに飲ませる牛乳だけー止めるわけにいかん」と大声で泣いてやった。達ちゃんも一緒に泣いてくれて、大人が子供二人を泣かせていると人が集まり始めて事なきを得たんだ。恐ろしかったが、それからも何日か広島駅に通ったんだ。

病気が進行して痛みに悲鳴を上げるカーチャンに親父どんが医者に「何とか痛みを止めてほしい」と願ったんだ。丁度、私が隣の部屋にいる時、医者が答えていわく、「モルヒネがあるが、それを初めたら10日も持たない」と。

そしてモルヒネの注射が始まったんだ。痛みを感じなくなって何日目かの記憶はない。カーチャンの部屋にタッチャンと信弥さんが呼び込まれて、鮎の塩焼きを一口づつ食べさせてもらっていた。そして「仲良く暮らすのよ」と言い聞かせていた。隣の小部屋に居た手伝いの上殿のおばさんが声を殺して泣いていた。

そして私が呼ばれたんだ。小板のお爺さんが母に木彫りの仏さんを持ってゆくようにと頼まれたのを宗教が違うと断ったことを知っていて、「人の真心は宗教も人種も国籍も年齡も貧富も関係がないんだよ、なぜそれが判らない、情けない」と叱られた。そして人の真心がわかる人間になれと諭された。そして「兄弟仲良く」と。それが母と話した最後になった。確か夕方頃だった。翌朝、目を覚ましたらカーチャンは死んでいた。それからの記憶はない。最後に厚生館(そう覚えている)という大きな火葬場でカーチャンが大きな火炉の鉄の扉に消えた瞬間の絵が頭に残るだけ、小板であった葬式も記憶はない。

小板の葬式に来た律ちゃんおばさんが仏壇の遺骨に花を備えながら、「優しい姉だったのよ」と話してくれたのを覚えているだけ。

ヒロ子ちゃんもサチコちゃん福井から帰っていたが「カーチャンの所に帰る」と大変だったとか、「聞いてくれない」と風呂場で化粧品を壊されてねと。

それから半年後の冬に82歳の弥三郎爺様が息を引き取った。その死に水は取ることが出来たが、それから親父さんの悪戦苦闘が始まって、大畠はどん底に走り込んだんだ。百姓素人の親父さんとカーチャンが居ないと半泣きの5人の子供達の泣き笑い人生がね、今日はここまで。

でも、県病院の帰りに道端の甘酒屋の前で「哲ちゃん、甘酒を飲もう」と言った母に、「甘酒は嫌い」と断った事が生涯、悔いとして私を苦しめた。何故一緒に甘酒を飲まなかったのだろうと、反省しきりだった。

でも兄妹5人、80歳を越えて元気で生きている、有り難いことである。心を残して先立ったカーチャンの願いが私達を守ってくれた、そう信じている。兄妹の中で一番の不肖の兄貴だが、皆が「兄ーちゃん」と呼んでくれるのに甘えて迷惑ばかりかけて一生を終わることになった、「本当に有難う」。

2018.3.24 見浦哲弥

0 件のコメント:

コメントを投稿

人気の記事