私が20代の頃、行商のオッサンが衣料品を売り歩いてきた。腕時計もその商品の一つだった。新品あり中古品ありだったが、その高いこと、私には高嶺の花だった。小板の青年のステータスは背広と腕時計とバイクだった。戦後間もない頃の話である。
このクオーツ時計は説明書には寿命は5年とあるが、ばらつきはあるものの7年も8年も動き続ける。寿命が尽きるのは樹脂性のバンドが先である。したがって私のデスクの中にはバンドが切れただけで時間は正確な腕時計が4個も転がっている。バンドだけを購入して取り替えればと思うのだがバンドの価格が新品の時計の6―7割もするのだから取り替える手間まで考えると、つい新品に手を出してしまう。結果、机の中で4個のバンドの切れた古時計が正確な時を刻んでいるという次第。
振り返ると世の中の進歩で様々な事柄が変わった。そして便利になり想像もつかなかったような恩恵を人間に与えた。飯炊きも、洗濯も、衣料品も、昔を偲ぶよすがもない。食品だって冷凍で腐らない、冷蔵庫には冷凍庫が付随しているから、これが当たり前だと思いこんで技術の進歩に感謝の一言もないのは如何かと思うのだが。
私の少年の頃は各家に振り子時計はあった。ネジでゼンマイを巻いて振り子の長さで速さを調節する。高級になるほど一回のねじ巻きで長い時間動き続ける。我が家の時計は三国から持ち帰った新式だった。それでも一週間しか動かなかった。ところが乾電池が動力のクオーツの電気時計になり一度の電池交換で1年以上動いた。素晴らしいと感心していたら電波時計なるものに変化して自動的に時間の遅れを調整してくれる。今や我が家の時計が”何時何分”と言ったら日本中の時計が同じ時間を示すのだ。それが当たり前だと開発した人々に感謝の思いを一片も持たないのは近代人のおごりなんだろうか?
ともあれ私の生きた短い時間の間でも、様々で素晴らしい進歩があった。60年も70年も年齡の違う孫達の人生ではどんな出来事が起きるのだろうかと夢を見る。しかしながら、老いた私の頭脳は未来の画像を描く想像力は、もはやない。ただ幸せな未来であれと祈るのみである。
2018.2.15 見浦哲弥
0 件のコメント:
コメントを投稿