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2022年11月23日

観光は世間話から

2015.9.26 お産の牛や子牛、育成牛用の牧草刈が私の仕事の一つです。毎日、約1トンの草刈は機械化のおかげで2時間ほどで完了します。牧場初期は刈払機で刈り、ホークで軽トラに積み込んで運ぶ、一連の作業は肉体的にも時間的にも大変でした。その草をあっという間に平らげて足らないと鳴く牛達、他家の夕食のにおいのする中、暗闇まで作業をしたことは思い出したくもありません。そんな昔は遠くなりました。 あるお爺さんの話ではないが「昔のことを思えば極楽で」、そんなきつい作業だったのです。

見浦牧場は旧国道と大規模林道に接して牧草地があります。機械化したとはいえ40年も50年も前の外国製のトラクターでの作業は道路を散策する都会人には珍しい風景なのでしょう。立ち止まるのは歩行者だけでなく、乗用車までもとまります。そんな時は機械を止めて一言二言世間話をするのです。
時々は温かい言葉が返って来ることがあります。それが私達、田舎人が忘れかけていることを思い出させてくれるのです。

なぜか昔から田舎の人から話しかけることは少なかったようです。方言の強いこの地方は小学生の頃から標準語を話せ、方言は使うなと教えられたせいなのでしょうか、それとも生活の違いから共通の話題がないと思ったからでしょうか、転校、 転校で違う方言を体験してきた私にはその壁がありませんでした。そして田舎の人は無愛想だなどと思ったものです。しかし、それは間違いでした。標準語の都会人に方言が日常の田舎人は気後れを感じて話せなかったかも知れません。本当は田舎の人も話し好き、都会の生の情報のように、ここ小板の日常の出来事には都会人も興味があると云うことを知らないだけでした。

一方で、都会人も自分たちの生活と異なる社会や生活のしくみに興味をもつている、ただ話しかけるきっかけがないだけでした。その扉が開かれると次々と異次元?の世界の扉が大きく開かれる、興味深々が始まるのです。でもなかなかそんな機会がない、でもきっかけさえ掴めれば立ち話からその地方の産業、歴史にまで話が繋がる、方言を気にしなければ田舎の人も話し好きなのです。

例えば、ここ芸北地区は明治の初めまでタタラ製鉄が生き残った地区、歴史のかげでは松江の尼子氏と吉田の吉川氏が商品としてのタタラ鉄を巡って争ったと云う話を聞いたことがあります。そして小板には関係のありそうな地名が数多く残っているのです。公的に道路地図記載されている道戦峠(ドウセンタオ)、その隣の島根側の集落の名前が甲繋(コウツナギ)、鎧を修理すると読める、集落をながれる小川が太刀洗川(タチアライカワ)、小板側に越して道路脇の峰が鷹の巣城、その麓が城根、その前の谷あいの小川が応戦原、その下流の分岐した小川の小さな原っぱ(現在は大規模林道が通っている)が血庭、まだある、鷹巣城の裏側に麓からは確認できない平地があって隠れ里。

こんな小さな集落にも昔をしのぶ地名が山積している、しかし住民は語り継ごうとはしないし、こんな話が都会人の興味を引くなどとは想像もしない、道端の世間話が、この小板の歴史が観光資源の一つだとは考えたこともない、いやこの話を知る住民は私で最期になりそうである。

見方を変えれば足元に色々な資源が埋まっている、この話は一例にすぎない、都会人が興味をもつ話は山積しているのに、 観光、観光と浮かれている。私は足元の資源も見つめ直して欲しいと思っている。

無価値と思っていることが立場が変われば資源であることが多い、ただ視点を替えて見つめ直す思考がない、都会が華やかだと思いこんでいるだけでは物事が正確にはつかめない、無価値と思うことが実は有用な資源かも知れない。都会の華やかさにつられないで、もう一度足元を見つめ直して欲しい、これは小板に生きた老人の提言である。

2021.1.10 見浦哲弥


2021年2月24日

デキスタが作業

今日はデキスタが活躍している、と言っても貴方は何事か理解は出来ないだろう。デキスタはイギリス製の小さな(当時は中型に属した) トラクター、私が彼を最初に見たのは20代の半ば、広島県の試験場で、どこかは記憶意がさだかではないが、本格的なトラクターで素晴らしいと思ったね。当時のイギリスは農業機械でも先進国、それから何年か後に導入した三菱製やクボタ製は機構的にも設計も加工技術も格段の差があった。同じように戦った日本は頂点の技術では辛うじて対抗できても、末端の技術では雲泥の差があったように思う。特に農業機械ではね。巨大な単気筒の石油エンジンを積んだ日本製の耕運機、ロータリー式はわらが巻き付いてね、耕転式はものすごい振動でね、そこにメリーテーラーなる2.55馬力の耕転機が輸入されて大人気になった。非力だが作業機を変えれば牛一頭の仕事を何とかこなす、これはいけると一大ブームになった。大切にしていた役牛を売り払って購入、 農繁期はこのミ二耕転機でしのいで、農繁期が済むと都会の建設工事の労働者として賃仕事に励んだ。何しろ餌をやらなくて済む、小板も例外ではなくて冬は都会、夏は地元の土建屋、 草を刈る人は少なくなってね、あれが小板崩壊の兆しだった。

おまけに除草剤なる商品まで現れて農作業は確実に減った。やがて日本の復興が軌道に乗ると都会の賃金は上昇、居家離村が始まった。小板も例外でなく、最初はひっそりと、それからは周囲に堂々と挨拶をして離村、農村崩壊の嵐が小板にも吹き荒れた。

さりとて住民も徒手傍観して時代に流されたわけでもない。何とかしたいと思っても、学校教育は経営者を育てるところではない、労働者、いや勤労者を育てるところだ。商売をと考える人も皆無ではないが、変化し続ける経済の理解が足りないから成功する人は限られていた。

そんな農村の中で、稲の刈り取り脱穀が1度にできるコンバイン、生籾から手入らずで乾燥できる乾燥機、等々、新しい農機具が次から次へと登場、農村からの資本流出の流れは止まらなかった。

そして気がつけば日本の農業機械は世界レベルに到達、稲作機械は世界一を標務しても笑われることがなくなった。そんな長い歴史を知る一人として我が家の60年以上前のデキスタが動く、しかもニコイチ(2台の中古機の使える部品を合わせて組み立てて再生すること)の機械がと、考えると感無量である。

2020.10.04 見浦 哲弥


2021年1月16日

ツクツクボウシ

仕事に追われて気がつくとツクツクボウシが鳴いていた。長い梅雨が晴れてミンミンとミンミンゼミが鳴いて、やっと夏が来たと思ったら、ツクツクボウシ、お盆近くで、はや秋が気配をみせた、それがツクツクボウシの声、それでも塩辛トンボは飛んでも、まだ赤トンボの大群は姿を見せないから、もう少しは夏があるのかな。

振り返ると70年前のこの頃は、向深入で野草の干し草刈りの真最中、草刈鎌一丁で刈り取りから、転草(裏返しにする) 、草集めまで手作業、出来上がった干し草を背負って山腹の急坂を道端まで運ぶ、そんな重労働の連続だったな。元気盛んの青年でも辛かった仕事でね。お盆が過ぎると晴天が続く日がなくて毎日通り雨ががやってくる。お陰で折角の干し草が牛が食べない敷科となって残念がった遠い違い日の思い出が蘇る。

小板は中国山地の小さな集落である。戦後ようやく訪れた平和でも広島から小さなバスで4時間も5時間もかかる超山奥、日に2本のバスが都会と結ぶ、たった一本のラインだった。なにしろ電話もなかったから役場と連絡するのも1日がかり、病気になったら大変だった。そんな超辺境の地だった小板には、自然だけは一杯だったね。

雪が降って、春が来て、夏がタ立を連れてきて、そして田園が稲穂で色づいて、そんな自然の営みが当たり前のように続いていた。よく見れば微妙に変化はしていたのだが。そして今年も最高の気温の猛暑のときが過ぎようとしている。それを教えてくれる一つがツクツクボウシ。

忘れがちな時の移ろいを教えてくれる自然、そして我が身の老いを痛感させられる時間、そして、よく生きたなと感慨にふけっている。

2020.8.15 見浦 哲弥


2019年10月12日

昔話

私の文章に”幻の古戦場”という題名の短文がある。小板にある地名に疑問を持った若かりし頃、親父どんの話を元に書いた短文だ。この話でただの地名が一気に昔話に変身し、小板の小さな歴史が現実の昔話に昇格したんだ。

中国山地に生涯を送って異様に感じたのは、昔からの言い伝えや物語がなかったことだ。仕事の方法は昔からこうだった、ああだったと厳重に守らされたが、囲炉裏端や集落の集まりでの昔話は聞いたことがなかった。小板での生活80年近くの間、一度も聞いたことがなかったから、いや1度だけ○家の2-3代の前の話を聞かされたか、それが小板での唯一の昔話。どの集落も何百年かの歴史があり、しかも小板はタタラバと呼ばれた溶鉱炉跡が4つもあったのに。そして、たたら鉄は浅野藩の主要貿易品の一つで、製品は遠く北陸の刃物産地まで運ばれて加工されたという記録もある。産業にまで育った製鉄業、従事した人は少なくなかったと聞いている。人が集まれば、様々な情報が行きかい、歴史の記録や、民話が生まれていたはずなのにである。

小板での昔話が私の”幻の古戦場”だけというのは、いかにも異常である。しかし耳を長くしても周辺の集落からも昔話が聞こえてこない。私の勉強不足か異次元の力が関係しているのかと思いたくなる。

歴史の記録は官公庁や学校などの記録が全てだとは思いたくない。私は名もない民衆の中の記憶の集積も重要な歴史の一つだと考えているからである。そして庶民の記憶の底に眠っているであろう昔話を掘り起こす、そんな運動が起きたらと私は願っている。
この地帯は浄土真宗一色の宗教王国だった。私の知る限り宗旨の中に昔話の否定はないが、来世は誰も平等の考え方が昔話の否定に役だってしまったのかと憶測をしている。

私の昔話論には色々な意見があるとは思うが、これまでの話が残っていないのなら、今からの住民の生活の中の小さなエピソードを伝え残すことで昔話をつくるという案は無謀だろうか。ここ中国山地にも人は住んでいた、そして住んでいる、その証として、それぞれの生活の小さな出来事を新しい昔話として残す運動は夢物語であろうか、私は戯言ではないと思っている。

そして西日本の豪雪地帯にも考える人が住んでいた証に、小さな人間の出来事を昔話として語り継ぐ、そんな運動を起こしてみたい、老翁のささやかな願いである。

2019.1.17 見浦哲弥

2019年9月20日

農家解体

2017.11.27 長年無住で放置されていた農家に解体の調査のため業者が入った。旧国道と大規模林道の交点にある大きな茅葺屋根、いやトタンでカバーがしてあるから鉄板葺き?
か、ご主人が亡くなられて、一人暮らしだったお婆さんが事故で死亡されてからもう何年になるか。他家へ嫁がれた一人娘さんが戻る気配もなく放置されたまま10年あまり、最近は雨漏りが始まり窓は破れトタン板ははがれて荒れ始め、放置するわけには行かなくなった。

そこで娘さんは解体を決意、業者を頼んで屋内の整理を始めたんだ。長年使い込んだ家具をはじめ夜具など、押し入れや屋根裏、 倉庫、等々、農家1軒といえども膨大な量、おまけに最近は焼却禁止で業者の手を借りないと処分できない、そして家格を表す巨大な仏壇、(これは仏壇屋が引き取った)、2日続いた家の中の整理はトラッが3台も来る騒ぎだった。最近は不用品の処分にもお金がいる。もの不足の昔なら近隣の人が集まって、見事に何もなくなったものだが、何時の頃からか不用品の処分も費用がいる。

見浦家は貧乏のどん底を歩いた。まだ工夫すれば使えると思ったら修理し大切にする、それを見た友人達が不用品を持ち込んでくる、ゴミにするのは心苦しいとね。持ち込まれたラジオなどは10台あまりもある。息子の和弥は暇つぶしに修理をやるものだから数だけは多い。私の愛用している大型ラジオは友人のY君が団地のゴミ集積場から拾ってきた代物、あれから20年あまりにもなる。

お向かいの家の解体は来春、雨戸などのサッシ類、車庫のシャッターなどは解体時に引き取ることにした。ところが昔のお米が入った1トンあまりの容器が出現、これは堆肥に混入して処分と考えているがもったいない話である。

もっとも他家の後始末で頭を使っている場合ではない。見浦家も倒壊した隣家を土地ごと購入したので、この処分後始末の大仕事が控えている。

家が新築され人ロが増えるのは明るい話だが、住民が一人去り二人去りして家屋が消えてゆくのは寂しい限りである。その寂しい風景が小板には多い。倒壊した家が3軒、盛大に雨漏りを始めた家が2軒、よく見ると荒れ始めた草屋根の家が1軒、整理を済ませた更地の家まで含めると十数軒の農家が生きることをやめた。

今日ははからずも買う羽目になった隣家の整理をしている。昭和4年好日と墨書が柱の一部に記されていたから89年前に新築された比較的新しい建物だった。家人が大阪に居を移して40年あまり、積雪で倒壊を初めて10何年の年月の間に中庭の土間に10センチばかりの幼木が育っていた。その現状は人の最後にも似て鬼気迫るものがあった。150年前?に失火で焼失したと父から聞いた覚えがある。当時は明かりは肥松(油の集積した松の節や根)の切れ端が灯りでロウソクは貴重品、したがって行灯なる明かりの使用はよくよくのこと、その不始末で火事になったと聞く。隣家と大畠 (見浦)の間は100メートルばかりの距離、安心していたら風向きが変わって火の粉が茅屋根に飛んできてもらい火、母屋も作業小屋も蔵も焼けたとか。唯一味噌を蓄える味噌蔵と呼ばれた建物が残ったと、しかし、その味噌蔵の天井にも焼け焦げの跡があったから火は入ったのかも。その後の大畠は火事場普請、 大木が使ってはあっても床は凸凹、建具はうまく滑らない、とにかくにも巨大であっただけ、雇い人がいて、田植えや稲刈りで臨時の働き手が泊まり込むのには役立っても、巨大な農家には巨大の茅屋根が乗っかる、40年毎に助け合いで屋根を葺き替えて回るのが昔からの集落の定めだったが、巨大な屋根はそれだけでは完全に葺き替えられない。従って手入れが行き届かなかった処は雨漏りを始める。さすがの茅屋根も雨漏りが始まると無力、草が生える。そのうちに小さな松の木まで屋根に根を下ろして人手のない大畠は抗うすべはなかった。そこで、まだ若かった私が無謀にも小さな家に建て替えたんだ。それら60年余になる、貧乏な若者には瓦屋根は高嶺の花、貧乏人の屋根材だったセメント瓦で一時しのぎ、周囲の新築や改造の屋根が高価な本瓦になるのを横目で見ながら今でもセメント瓦、そして生き残りのための農業を追っかけたんだ。

その家も60年を越し雨漏りをはじめて床が波打ち始めた。基礎のコンクリートに鉄筋を入れて補強する工法はまだなかった時で、ひび割れは入り始めるし、耐用年数も限界、そろそろ終末に近づいていることだけは間違いない。

人にも建物にも寿命がある。買い入れた古家の巨大な梁や長押が半ば腐り果てて倒壊しているのを整理しながら、時間の大切さを痛感している。そして若者にいかにしたら正確に現実を伝えることが出来るかと、自分を振り返りながら思いをはせる。一度きりの人生、多くの人は来世がある
と儚い望みで老残に日々を過ごすのだが、誰も本当のことは知らないのだ。朽ちた農家の周囲の木々は精一杯背伸びして枝葉を茂らせる、その生きるという活カにあやかりたいと思うのだが、現実には気力が後ろ向きになりがちである。

2018.11 お向かいの廃屋の解体のための重機が入った。10トン足らずの中型のバックホー、先端に特殊な作業機をつけて片っ端から粉砕してゆく。屋根のトタンも、材料の茅も、大量の建材も。他人である私にも思い出がある住居が廃墟になってゆくのは、やはり寂しい。空洞になった家屋の断面には、丁寧に補修した今はなき先人の奥さんの思いが伝わってくる。

在りし日、10年余りも昔、亡きご主人の法事に招かれて末席に座った。あのときの雰囲気が思い出の中に蘇る、今はなき女主人が懸命に客人をもてなしていた姿を。その残像を無残に機械が粉砕してゆく。これも世の中の流れだと納得しなければ。

2019.11.17 解体は終了した。残渣もすべて持ち出され、均された敷地は在りし日の面影の全てが消えた。山間の小さな集落の小さな歴史、それも何年かしたら人の記憶からも消える。お向かいに住んだ老人の「昔は良かったがの一」の咳きだけを残して。

更地になった農家の庭に、
シュウメイギクが何事もなかったかのように咲いている


2018.11.18 見浦 哲弥

2018年8月11日

私と秘境Y部落

2008.10.3 突然アマチュア写真家が来訪、例によって牛の写真を撮らせてほしいと、老夫婦が訊ねてこられました。お二人とも高級なデジカメを持たれて。
見浦牧場に牛の写真をと来場されるプロやアマチュアの写真家は多いのですが、ご夫婦だけで写真を撮りにお出でになる方は珍しく、お聞きすると、隣部落のY出身で昭和35年に集落を離れられた方とお聞きしました。
今でこそ大規模林道が開通して距離15キロ、自動車で15分足らずの距離ですが、従前は餅ノ木集落を過ぎ、大きな峠を越して田代集落(道上に斜面にへばりつくように6戸の農家がありました)を通りこして20キロあまりの山道、健脚を誇る若者でも徒歩で5時間の遠い遠い集落でした。

小板は深入山の麓にある集落です。朝夕眺めるその山は子供の頃から裏庭のような身近な山、小学生の頃は何かというと深入山の登山、成人してからも深入山にあった放牧場の山焼きや牧柵の修理など何度登ったことやら、1153メートルの頂上から南を望めば恐羅漢山の麓から三段峡の名勝猿飛の上流にY部落の全景が真下に見えるのです。更に頭を右に回すと山かげに三段峡の中流から分岐して三つ滝を経て八幡川の上流、樽床と八幡の一部も見えました。

伝聞ですから正確ではありませんが、樽床もY集落も源平の戦いに敗れた、平家の落ち武者が隠れ住んだところとか。見浦の先祖は関が原の落ち武者と聞いていましたから関心がありました。小板と樽床は4キロしか離れていません。そんな近い集落なのに樽床から小板に移住してきたのは、家内の親元が5代前、約150年ほどの昔、それまでは周りの集落と交流が少なくて独特の文化を維持していました。それが特徴的だったのは言葉のアクセント、福井から帰ってきた私には小さな峠一つで大きく違う言葉は異様でした。この疑問をぶつけると父は落ち武者集落の言い伝えを話してくれました。
樽床集落の中央を流れる八幡川、それによって、二分された集落、そこにも成り立ちの影響があったのかも知れません。

Y集落も平家の落人集落と聞きました、ところがY集落の人達には樽床のような言葉のアクセントの違いは感じられませんでした。現在は林道が通じていますが隣部落の那須にも、吉和にも大きな大きな峠がそびえていて、連絡路は急な小道と三段峡の峡谷の中の小道だけ、ここも樽床と同じ孤立集落だったのに、何故かと随分考えたものです。

そうは言っても微妙にアクセントの違いはありました。でも隣部落の樽床と違い、Y集落は間に田代、餅ノ木の2部落があってY集落の人と接触が出来たのは成人になってから、落人部落と言うのは私の記憶違いかもしれません。

私がY集落に始めて足を踏み入れたのは昭和29年、Y集落が電化されて集落が喜びに沸きたっていた頃、煌々と電気がついて華やかでしたね。
それまでは交通も儘ならぬ山奥への配電線の建設に電力会社が二の足を踏んでランプ暮らしだったのです。小板、八幡、樽床は小水力発電の大佐川電気利用組合に加入、60キロワットの小水力発電所を建設、一応の電化は出来ていましたから、未電化で満足な道路もないY部落は本当の秘境集落だったのです。

そこで、落差もあり水量もある横川川に発電所を作ることになったのです。ところが電気の智識のない住民が明かりほしさに闇雲に作った発電所、電力の消費のない夜中と昼間の電力はどうするかと問題が起きました。そこで夜中でも電灯を点けっぱなしにしろということに、真っ暗な山中に突如と現れる不夜城、異常な光景でした。その余剰電力を使った産業をおこす術を見つけられなくて、発電所の建設資金の返済に行きずまって町に肩代わりしてもらう羽目に、代償に広大な集落の共有林を町に引き渡した、そこからY部落の衰退が始まったのです。周辺の集落の崩壊より10年以上早く始まったと記憶するのですが。

無責任の外部の人間として一言言わせて貰えば、集落から離れて行くのは資産家、インテリから、この人たちは本来は最後まで頑張るべき人たちからでした。それがまだ若かった私は異様に感じたのでした。外界の文明をより多く理解している階層から崩れたのは、老人になって理解が出来るようになりました。でも、その人たちは地域を大切にと説いたはず、そして団結することで生活を維持してきたはずの人たちから崩れたのは私には理解の外でした。

私の母方は越前の武士、娘ばかりだった長女の長男が私と言うことで幼い頃から侍の子として育てられました。辛いからと真っ先に逃げ出すなど教えのなかにはありませんでした。そんな環境で育った私だからY集落の崩壊は異様に見えたのかもしれません。

残った集落が3戸余りになった頃、広大な部落有林だった山林はスキー場となって登場しました。日本でも有数のパウダースノーのスキー場は有名になりましたが、旧住民は民宿やレストハウスの経営でお茶を濁す、または季節労働者として働いています。

もっとも、見浦牧場も完全に無関係ではない。餅ノ木集落とY集落の間の田代峠の道路残土は近辺が国定公園で捨て場がない、従って見浦牧場の谷を埋めて牧場整備に利用させてもらいました。何十年かして牧草地から三段峡の岩石が出て何故と頭をかしげる人が出ないともかぎりません。

ともあれ私の見るY集落は微妙に時代に乗り損ねた集落に見える。長い時の流れの中では取るに足らない出来事かもしれないが?

2016.2.6 見浦哲弥


2017年8月27日

小板の日米戦争

日本が歴史上で始めて外国に敗れた日米戦争から60年あまり経ち、戦争の体験者も次々と世を去って行きました。私は軍隊には行かなかったものの、国民総動員令で14歳で食糧増産や建物疎開に連れて行かれて戦争を経験しました。その仲間達も世を去り、生き残りは少なくなりました。

この小板でも、あの戦争中に戦死したもの、戦病死した人、シベリヤ抑留で辛うじて生き残った者、敗戦の年に緊急動員されて外国に行かないで敗戦となり命拾いをした幸運な人など様々でした。
折々に聞かせてもらった戦争の話も、私の人生と共に消えて行くのかと思うと少々残念で文章にしておこうかと書きました。

集落の上(かみ)から、まずYさん、彼は戦車兵、満州(北中国)のロシアとの国境部隊に派遣されていた。小便も凍る寒さの話しや、100キロも走ると戦車のキャタピラーを交換しなければならない話など、私には興味があった。
鋼板で出来た日本の戦車は、厚い鋳鉄製の防弾板で囲まれたアメリカやロシヤの戦車には、全く歯が立たなかったことは、後日の読書で知った。
彼は幸運にも終戦直前に内地に配属替えとなりシベリヤ行きは免れた。

隣がKさん、海軍に志願して、水兵から下士官、そして敗戦時は士官だった。たたき上げの潜水艦乗り、電気関係の機関員で電検3種の資格保持者。
私の父の崇拝者で休暇に福井の家に泊まりに来ていたのを覚えている。水兵帽の水兵さんが、いつか短剣を下げて白の夏服の下士官に変わったときは、子供心に格好がええと感心したのを覚えている。
日米開戦の時は大型のイ号潜水艦の乗組員で、シンガポール軍港沖でイギリス東洋艦隊の見張りに従事、新鋭戦艦プリンスオブウェールズと、戦艦レパルスの出港を補足、追尾して海軍航空隊に連絡、マレー沖で雷撃機の集中攻撃で撃沈、チャーチル首相を落胆させた、日本海軍の華やかな戦いの話しを聞かせて貰った記憶がある。
でも、戦争の中期からは戦っては敗れるの連続、レーダーの開発がうまくゆかず、出港直前まで東芝の技術者が調整に来てな、それでもうまく行かなくてな、仲間の潜水艦乗りは殆ど死んだと、そして「俺は戦争は嫌いだ」とはっきり宣言していた。

そのお隣がKFさん、彼は敗戦の年に徴兵検査、すぐさま徴兵されて九州に配属、1ヶ月か2ヶ月で終戦、戦争の厳しさを経験しなかった。おかげで軍国主義否定の私とは基本的に意見が対立、陸軍は悪くないとのたまう、小板で数少ない幸運な人間だった。

次はSさん、彼は19年に動員された、腕のいい石工さんで真面目な人間だった。小板の上田屋の娘さんと結婚、戸河内の寺領から小板に移り住んだ。見浦の田圃50アールを小作していた、小学校3年を頭に5人の幼子を残して兵隊に。
奥さんが懸命に働いたが仕事が遅れて、雪が降っても稲こぎが出来ない。稲を干す稲ハゼが雪の中に残った。見るに見かねた父の命令で稲の脱穀を手伝った覚えがある。
動員先は陸軍船舶部、輸送船に乗って船を守る?部隊、(当時は輸送船でも小型の大砲か機関砲を積んでいた)敵の軍艦や潜水艦、航空機に発見されれば即沈没だが気休め的装備の操作係。
秋に一時休暇で親父さん挨拶に来られた折り、「命拾いをしました、サイパン島に軍需物資を運びましてね、陸揚げが済んで島を離れた翌日、島はアメリカの艦隊に包囲されましてね、もう何時間か遅れたら命を落とすところでした」と話されたのを覚えている。その後サイパン島の軍隊は全滅、民間人も多数死亡したのは周知のとおりである。
その後は輸送船の消耗が激しくて乗り組む船がなくなり、無事に復員された。

そして、F君、芸北町にあった大佐川電気利用組合の電工さん。
彼のことは、陸軍で満州のロシアとの国境の警備隊だったことしか知らない。が、彼は小板でただ一人のシベリヤ抑留の体験者、ご存じだろうが満州で逃げ遅れて捕虜になった軍人がシベリヤに連行されて強制労働をさせられた話、彼は不運にもその一員となった。何年働かされたのかは私の記憶にはないが、一、二度地獄のようなシベリヤ体験を聞いた覚えがある。
極寒の地で劣悪な居住環境、不足の食料、独ソ戦で荒廃したロシアでは一般の国民も苦しい生活だったと言うから当然かもしれないが、膨大な死者(5万人とも6万人ともいわれる)を出した。その話しを彼は「仰山死んだでー、ところがの大方が町の人での、田舎の人間は中々死なんのんよ」と、日本国内の貧しい農村で育った人間は、町の人より耐久力があったと言う話しだ。しかし、粗食でも血糖値を高く維持して命を支える貧農の体は、豊かになった戦後の食事で糖尿病の多発を引き起こし、寿命を縮める一因になったのだから皮肉である。
彼の話で忘れられないのは、日本での職業を何度も調べられたと言うこと。大工、左官、電工、その他、エトセトラ・・・当時のロシアで不足していた技能の持ち主だったら、即、収容所から出されてロシア女と結婚させられ職場につかされる、腹いっぱい飯が食えてな、地獄から天国への道があったんだ、でもな、それは生涯日本に帰れない道、歯を食いしばって頑張ったんだと。
当時、ロシアは独ソ戦争で2000万人ともいわれる若者を失い、荒廃した国土を再建する為、猫の手も借りたい事情だったと、勉強になりました。

晴さんの長兄のKRさん、彼は吉田町の青年学校の先生だった。私に動員がかかる前年、彼の家族が次々と広島の陸軍病院に見舞いに行くのを見た記憶がある。間もなく病死と聞いた、陸軍に徴兵された彼が過酷な新兵教育に耐えられなかったと。何しろ5歳も6歳も年下の私達の動員の現場でも殴る蹴るの暴行は日常茶飯事だったからね。人間の値打ちは一銭五厘(徴兵通知の葉書の値段)と言われた時代 、死因は肋膜炎だと聞いた。優しい大人しい青年だった記憶がある。

隣はTさん、彼は海軍の志願兵、要領のいい奴で悪運強く生き残った。燃料の尽きた軍艦が樹木で偽装されて、瀬戸内海の島陰に砲台代わりに係留されていたなど、敗戦間際の海軍の話をよく聞かされた。夏で偽装の木が枯れ始めると「木を取り替えないと丸見えですよ」とアメリカ軍機にビラを撒かれて馬鹿にされたと。

KHさん、彼はKFさんと同年兵、敗戦の年に緊急徴兵された。配属されたところが陸軍の通信隊、伝書鳩の世話をするのが仕事、善人の塊だった彼は軍隊では苦労は少なかったらしい。ところが親父さんも徴兵されて、予備役の衛生兵だった、御年47歳、平均寿命が50歳に満たない時代、正直よぼよぼの兵隊さんだ、それまで召集しなければいけないほど追いつめられたんだ。そんな戦争を天皇まで脅かして始めた将軍は現在靖国神社に祭られている、そんな矛盾には国民の声が小さい。
でも考えて欲しい。一軒の農家から働き手の男を2人も軍隊に招集して農村が成り立つはずない。それでも国民の食料を作れという、軍国主義とはそんな思想なのだ。
ちなみに47歳の老人兵として徴集されたのは、他には松本熊市さん、児高徳馬さんの2人がいた。

N君、彼は腕のいい溶接工、広島郊外の軍需工場で働いていた。幸い原爆の直接被害はうけなかったものの、直後の市内で死体処理に動員されて連日作業をした。実体験だけに身の毛もよだつ話を淡々と聞かせてくれた。私も8月9日に出張で立ち寄った可部駅で駅前広場にぎっしり並べられた被災者の死体を見た。まだ息のある人は日陰や貨車の中、目と口だけを残して包帯だらけの被災者が水、水と訴える微かな声、今も耳に残る、真夏のことで生きている人にも蛆が湧いて這い回る姿は正に地獄だった。
西岡君は街に倒れている死体をトラックに積んで街角に積み上げて重油をかけて焼く仕事をしたと、2人で手足を持って放り上げる、皮膚がズッルとむけてねと、私の体験の何百倍もの辛い話しは戦争を始めた指導者を憎む私の原動力だった。

Mさん、陸軍の下士官、陽気で明るい人で私の製材の師匠さん。
彼は南方に派遣された。そのニューギニア島での戦闘の話しは忘れられない。ニューギニア島は有名なラバウルの近くと言えば判って貰えるかな。オーストラリアの隣の島でね。
島とはいえ本当は日本の本州にまけない大きな島、オーストラリアの反対側に上陸して島を横断してポートモレスビーという港を占領して対岸のオーストラリアを攻撃するという、壮大な計画だったとか。密林の中に道を造り中央の大きな山脈を越えて対岸に達する、口で言うのはたやすいが、筆舌で表わせない現場の苦労は東京の参謀本部いる奴らに判らない、ただ命令するだけ、こんな事が山盛りの戦争だったのですよ。

ようやく山脈を乗り越えてオーストリヤ軍に接触して驚いた。上官の話と違って彼等の勇敢なこと。攻め込んだら、すぐに敗走すると聞かされていたのが、案に相違で猛然と反撃されて手も足も出ない。おまけに我が軍は明治38年制定の38(サンパチ)銃なる小銃、弾が5発しか出ない、それも一々操作をしてね。ところが豪州軍は自動小銃、連続して80発も弾が出て戦争にならない。そこでオーストラリア軍に出会ったらひたすら密林の奥に逃げ込だと。彼らも地下足袋なる履物で足音も立てずに出現する日本兵は怖いから林の中までは追ってこなかったからなと。ところが大問題が起きたという。日本の軍隊は米の飯が食料、飯盒なる鍋で炊いて食事をする。ところがジャングルの中で焚き火をして煙が上がろうものなら戦闘機から爆撃機までが殺到して爆弾をおとし飯が炊けない。飯が食わないと戦争は出来ぬと、日本兵の士気は地に落ちたんだって。そこへ知恵者が現れて炭を使えば煙は出ないぞと発言、おまけに日中なら敵機の目にとまらない、当時は赤外線センサーなるものは前線になかったからな、その案は直ちに採用されて「誰か、炭焼きが出来るものはいないか」と募集されたとか。但し炭焼きといっても炭窯を築いて木炭にする全工程の技術屋でなくてはいけない。彼は動員前は炭焼きさん、早速、応募したとか。即、木炭の増産を命令されて監督に、敵機の来ない後方の密林で木炭生産が始まったんだとか、命令される兵隊から炭焼きの監督さんに昇進、近場のガダルカナル島では日本軍全滅の悲劇もあったのに、敗戦まで楽をさせてもらいましたと。

次は陸軍上等兵のKさん、衛生兵である。陸軍で習ったことが全て正しいという軍国主義者、社会主義にかぶれた見浦を認めるなどもってのほか、敗戦後も20年位は私の話を聞こうとはしなかった。しかし、全てが逆転した戦後の社会は彼を受け入れなかった。様々な試行錯誤の末、全てを失った彼は死に際に、「見浦が正しかった」と呟いたと息子さんから聞いたときは、なにも言えなかった。

IHさん、彼も陸軍上等兵。確か中国戦線だったと思うが、記億が定かでない。機関銃の砲手と聞いていたが、戦争の話を聞く機会がなかった。ただ腕に小銃の貫通銃創があった。
IMさん、Kの兄さん、大下に養子に入った。彼は中国戦線で2度目の召集で戦死した。私が中学の1年の折、奥さんが生まれたばかりの娘さんを背負って広島まで見送りに行くのに出会った。2人とも泣きながらオシロイ谷を下って行くのを見て戦争の悲劇の一端を感じた。兵隊になって戦死することは名誉だと教えられて、信じていた少年が、先生の言葉は本当かなと疑問を持った最初である。彼は中国戦線から白木の箱で帰った。

Nさん、私を弟のように可愛がってくれた好青年。彼は海軍に志願した。そして戦争の末期、戦死したと箱に入って帰ってきた。中には名前を書いた白紙が1枚、それで好青年が海に沈んだ。もう一度言う、あの戦争を始めた将軍は靖国神社にいる。

軍隊に行った人達は、他にも2-3人いる。現存している人も居るが、戦争の話は語られることがなかった。辛い、悲しい、矛盾が山積していた世界だったのは、私も動員で経験したことから推測できる。思い出したくないことが山積みだったのも。

最後に声を大きくして言う、私は戦争が嫌いだ、始めた奴はもっと嫌いだ。
                                       
2015.1.17 見浦哲弥



追記
私の同級生も2人死んでいる。一人は斎藤正司君、彼は高等科卒業後(いまの中学3年の年齢)海軍航空隊に志願して入隊した。敗戦前の日本には訓練する飛行機も機材もまったくなくて、毎日が手作業の飛行場作りだったとか。短い時間だったが過労で体を壊して帰宅後間もなく死んだと聞いた。アメリカの飛行場作りはブルドーザだったのにね。

もう一人は一級上の藤本さん、彼女は従軍看護婦を志願して帰ることはなかった。

豊かな時代になって爺ちゃんの時代に起き、体験したことを誰も話さなくなった。でも2度と起こさないためにも聞いておくべきだと思うのだが。

2017年8月5日

ウォーキング

毎年10月になると深入山ウォーキングなるイベントが催される。目下、その準備の人達で山道が賑やかである。深入山のグリーンシャワーなる広場が起点で、旧国道191号線を歩いて、小板で新国道に合流して深入山を1周する、延長7キロ位か。途中に私が松原校に通学するときに泣かされた、標高890メートルの水越垰がある。

そして今日は開催日、9時頃から道路に人影が。日頃人影の少ない旧国道にウォーキングとはいえ賑やかになるのは心楽しいものである。それに若者の途絶えた道にカラフルなウェアが続くのは、往来の激しかった昔をしばし偲ばせる。

それにしても時代の変化の大きさに驚かされる。道路が整備され、公共交通が不必要なほどマイカーが普及して、歩くことがスポーツになり始めている。戦時中の動員で北広島町新庄にあった宿舎まで徒歩40キロあまり、休憩時間を含めて10時間かかった。勿論、歩き難い砂利道は子供にとって遠い異次元の世界と感じたものだ。

我が家の孫くん3人のうち下の二人が10キロコースにチャレンジした。ところが4キロでダウン、家に走り込んでゲーム三昧、日本の将来を思うと背筋が寒くなる。少子化で子供を甘やかしすぎると思うのは老人のひがみか。

考えてみれば旧国道が賑わうのは”しわいマラソン”と”深入山ウォーキング”だけ。戦中、戦後の、悪路に国運と生活を委ねた賑わいは、繰り返したくはないが、懐かしい。

我が家から旧道の峠まで約2キロ、(峠から谷に沿って下る急坂(オシロイ谷)があって徒歩の時は、このコースを歩いた)松原の高等科に通った2年間、お世話になった道である。自然が一杯でね、ムササビを見たのも、ドンビキと呼ぶ巨大なヒキガエルを見たのもこの道だ。もっとも人権もへったくれもない戦時中のこと、勤労奉仕と称して遅くまで作業をさせられて、明かりもなくて夜空を見上げて頭上の隙間に導かれて帰った道でもある。自動車が普及を初めて、オシロイ谷の近道の人通りが途絶えてから40年近く、細い山道はヤブの中に埋もれて知る人以外は道の存在も忘れ去られた。

深入山ウォーキングは旧国道の車道を通って深入山を一周する。秋日和ならば絶好のハイキングコースだが、この道にまつわる物語を語る人はいないし、誰も知らない、ただ歩くだけ。100年あまりのこの道の歴史は、日本の近代史の一部と重なっているというのに。

時代が進んで便利になったのは有りがたいかぎりだが、歩くことが少なくなって要介護の老人が増えた感じがする。新聞の老々介護に疲れての心中やら殺人と言った記事を見ることが多くなった。他人事ではない、懸命に生き日本の復興に力を注いできた人生、その功労の報酬に人に迷惑をかけないで、ひっそりと旅立つのが理想である。私は小5から働き続けてきたのだから、せめてそのぐらいの我儘は聞いてほしいものだと思っている。

今年も無事、深入山ウォーキングは終了した。ただ歩くだけでなく、私の提言の一部でも聞いて欲しいと思っている。

2016.10.2 見浦哲弥

2017年3月12日

ひろしま

2016.5.27 広島の平和公園にアメリカの大統領オバマさんがやってきて記念碑に献花して下さった。間一髪12時間の違いで命を永らえた私にとって感無量のものがある。

日本が暴走した2,26事件から我が家の近辺で起きた日本暴走の結果、内外の多くの人命が失われた。その張本人の陸軍の急進派の御大は靖国神社神社にいるというから日本人も狂っている。天下の秀才と言われた東条が2000年も続いたという日本を破壊して、他の指導者がそれぞれ自決して自分を裁いたのにピストル自殺の真似事ですまし、責任をヒロヒト天皇に擦り付けようとした、その彼を靖国へ祀るというのだから狂っている。陸軍きっての秀才と言われた彼の生き様は頭でっかちだけでは集団を指導し生き延びさせることは不可能だということかもしれない。自然の中で暮らしている牛群を見ていると利口な牛即リーダーでは牛がうまく育たなかったね。強さと利口と優しさと決断とのバランスの取れた牛がリーダーだと安心して見ていられたがね。

あれから70年、幼いながら戦前の広島を知っているし、(毎年夏休みには親父さんの勤務地の福井から小板に帰省していた。昔は2日がかりの大旅行、必ず広島に一泊した)戦時中の広島も陸軍の幼年学校受験の為、広島で宿泊した。原爆直前の広島に建物疎開の作業で県庁の講堂に泊まって10日ほど働いた。広島の原爆前日の夜広島を離れて辛うじて生き残った、あの一日の記憶は未だ新しい。そして原爆投下の3日後、一時帰宅を許されて帰宅の途中、乗換の可部駅で被災者を見た。駅前の広場や構内の貨車の中に並べられた数多くの瀕死の被災者や、死体を見た。「水、水」と微かに訴える声は未だに耳に残る。数年後小板にお婿さんに来た友人は動員で広島で被災者の死体処理で働いた体験を話してくれた。感情が麻痺して何も感じなかった、そして恐怖を実感するまでには長い時間が必要だったと。

牛田に住んでいた岡本の伯母さんは6日の朝、挨拶をしながら家の前を通り過ぎた人たちが15分もしないのに焼けただれた皮膚をぶら下げて幽鬼のような姿で「水、水」と訴えながら帰ってきた姿を忘れることが出来ないと話してくれた。それは地獄だったと。70年は草も生えないと言われた広島だが私が働いた1年半後,道端には雑草が生え、八丁堀から本道通りには、まばらながらバラックのお店が並んだ。現在、パン屋のアンデルセンのお店になった銀行の廃墟は無残な姿を晒していたが、広島は生きていた。もっともバラックの裏は水道の鉛管が幽鬼のように無数に立ち並び、傷んだ蛇口から水が無駄に流れてはいたが。

お店の坊っちゃんの子守で歩いた道端の本川小学校の地下室にはドス黒い水が溜まっていた。近所の伯母さんが「まだ何人も沈んでいるのよ」と話してくれた言葉は頭から離れない。
早朝、荷物を積んだ馬車が本道りを通る。その馬糞を素早く掃除するのも小僧さんの役目だった。でも日本人は凄い、復興し始めた広島は見る見る変化していった。夜学の途中の広島駅の変化は今でも思い浮かべることができる。でも裏道りは寂しくて怖かったね。
その広島が見事に復興した。廃墟の中にあつた原爆ドームは華やかなビル群に囲まれて感心を持つ人以外、注目をひかない。あの惨劇を思い出すのが8月6日の原爆記念日のときだけ、体験した人以外、あの惨劇は想像出来ないのだろう。

そして私の文章の中でも語られることが少なくなった。でも忘れてはいない。拙い私の文章の中の、あちこちに散見する戦争や原爆への思いを嗅ぎ取ってほしい、そんな気持ちでキーを叩いている。

2016.9.22 見浦哲弥

2016年5月10日

スクールバス

毎朝7時30分に赤いマイクロバスが大規模林道小板橋から出発する。我が家の孫三人の通学のためのスクールバスである。
これは各集落ごとにあった小学校や分校が消滅したためである。そのための費用は国や自治体が負担するのだが、相当の金額であろうことは素人の私達でも理解できる。教育の機会均等は国の基本理念であることはいうまでもないが、恩恵を受ける側に感謝の気持ちが薄いのでは国家としての団結力は弱くなるのでは。

私は小板に帰郷して始めて遠距離通学の現実を知った。福井市でも三国町でも10分も歩けば学校に着く。それが小板分校に通う餅ノ木集落の生徒は1時間かけて4キロの山道を通ってくる、小学生も高学年にもなれば体力もつき、差して困難の距離ではないが低学年の1-2年生を庇いながらの登校は毎日1時間の遅刻、複複式の授業だから抜け落ちた教科の補修などする時間は先生にはない、従って期末試験で好得点を取るなどは夢のまた夢、それを小板の連中は餅ノ木は頭が悪いときめてかかったんだ。ところが都会の転校生から見ると餅ノ木の自然の子は私が知らない山のような智識の持ち主だった。

餅ノ木の上級生はどんなに天候が悪くても、都合が悪いことがあっても、下級生を学校まで庇いながら登校する。地元の人間は、当たり前としか評価をしなかったが、私は素晴らしいと思った。だから餅ノ木の生徒とは仲良しだったし、彼等も見浦君と見浦君と親しんでくれたんだ。

それから松原にあった中学校へ(高等科といった)通った。旧国道191号線は深入峠を越えて9キロ近くある。深入峠からはオシロイ谷という近道を走って降りて7km、どんなに急いでも1時間、天候が悪いと1.5時間はかかったもんだ。おまけに、ご存知の太平洋戦争で中学生も勤労奉仕なる強制労働があって作業の終了が夕方の5時ということもあって、校門を出る時は、すでに夕暮れ、山道のオシロイ谷は真っ暗、懐中電灯も何もない坂道を空を見上げて、僅かに見える隙間の下が道と判断して登ったものだ。ちなみに松原の校舎は海抜650m、深入峠は870m、見浦家は780m、従って高低差は220m、その1/3を一気に登る近道は日中も厳しい道、それを中学生が夜道を1人で帰る、今なら人権問題になる。

樽床にダム工事が始まって小板の分校にも生徒が増えた。工事関係の子供さんが通学してきたためだ。最盛期には70人を超す生徒がいたから、当然中学校も分室が出来て本校から先生が通ってくるようになった。小板の生徒が松原の本校に行くのは入学式と卒業式の2度だけになって徒歩での毎日通学はなくなったが、やがて松原の中学校も廃止されて中学生は戸河内中学校に通うことになった。そこで登場したのは寄宿舎制度、私の子供達はそのお世話になった。山奥の小さな学校から人数が多い学校への環境変化は当然イジメが発生した。大きな学校を経験した私は小3で発生したイジメに何とか対応して免疫が出来たが、おかげで高等科(2年制の中学)でも、動員でも、大人の新入りの時も、なんとか対応することが出来たんだ。
人間は集団で暮らす動物、順列をつけるためのイジメは大なり小なり必要悪として存在する、その訓練のためにも小規模校よりは中規模校以上の生徒数が欲しい、その配慮不足がイジメが原因の生徒の自殺という悲劇を呼ぶのだと私は考えている。

最近はイジメによる若者の殺人事件が珍しくない。イジメは悪として完全否定をしている社会にも無理があるように思う。決してイジメを肯定するわけではないが、順列をつけるための一つとして小さなイジメは必要悪の気がするのだ。

とはいえ逼迫する地方財政の中で義務教育とは言いながらスクールバスの配慮はありがたい。暖房のきいた車内は冬季の雪中登校の厳しかったことを孫達は想像も出来ないだろう。

人口減少が始まって各所で学校統合が論議され、実行されて、スクールバスによる遠距離通学が珍しくなくなった。勿論、廃校になる地区の心情も猛反対も理解が出来ないではないが、限られた財源と国民の負担を考えると、一方的な主張は子供達に笑われるのではないか。最低の費用で最大の効果は教育の世界でも例外ではないのだから。

ともあれ、今朝も赤いスクールバスは孫達を迎えに来た。将来、彼達が国家の為に役立つ人にならんことをと祈りながら見送った。

2016.1.10 見浦 哲弥

2016年1月10日

山深い中国山地にも遅い春がやってくる。その季節、誰も気がつかないままに、山肌の林の中に細い白線が現れるのを、貴方は知っていますか?住人は春の風物詩の一つと見過ごしているこの現象、それを何故か気になったのは私が町で育った異邦人?だったせいです。

この地帯はタタラ鉄を巡って山陰と山陽が争ったところ、その戦いを阻んだのは急峻な山肌と積雪だった。その山腹を乗り越えるために何本も刻みこまれた道、その残雪跡が雪解けに白線をつくる。ひそかに、ひそかに切り開いた何本もの道、敵対する相手の目をかすめて作り上げたその道が、雪解けに一時姿を現す。そのつもりで見ると、そこここの斜面に遠い戦国の戦いの痕が見える。長い年月の風雪に、ところどころは消え去った白線の彼方に、過ぎ去った時代の中国山地が見えるんだ。

目を転じて集落の中の小道を見る。幅1メートルばかりの古道が田圃や屋敷で消えては現れ、現れては消える。そして谷川にそって峠を目指し、急斜面を下り、雑木林の中に姿を消す。戦いに敗れた落武者たちがたどった道、人足が牛馬の背にタタラ鉄を積んでひたすら海を目指して歩いた道だ。次の宿場の松原には茶店があった。飯を食って牛馬に餌を食わせて一休み、それを楽しみにひたすらに歩く。その遠い昔の小道は今は知る人もなく、心をやる人もいない。しかし、古道にたたずんで目を閉じれば、遠い遠い昔の息吹を感じるはず。貴方は感じないか、草いきれに混じってほのかに漂う歴史の香りを。

集落を縦貫する1車線の道路がある。100年余り前に建設された近代日本の夜明けを告げた旧国道だ。広島から益田まで人力で切り開いた191号線、この道は戦いに明け暮れた近代日本の象徴、舗装のない砂利道だった。その道をフォードの小さなバスが住民を満載して走った。車の後ろに荷物籠をつけて、それでも足りずに屋根にも荷物を積むガードがあった。お客が満員の時は荷物のかわりに若者が屋根の上でガードにしがみつく。非力で荷物満載の車は、峠にかかると青いガソリンの煙を吐きながら、ひたすらにローギヤで走る。体力のない婦人は車酔いに耐えながら嘔吐をこらえる。そんな難行苦行の田舎道、それが中国山地、それが小板、それが幼い日のわたしの記憶。

勇ましい軍人さんの号令で75年前、第二次世界大戦が始まった。アメリカと戦った太平洋戦争というやつだ。あえぎながらでも広島と結んでいた小さなバスは燃料不足で廃業、山間の住民はただ歩くのみ、役場も病院も買い物も、ひたすらに歩く、そして背負う。靴もズックも長靴も、お金持ち以外には遠い夢、藁で作ったワラジとゾウリが履物の全て、一度きりの時間が藁細工と歩くことで失われてゆく。それが当たり前だった、疑問は持たなかった。
だが戦争が始まるとトラックが通り始めた。小さなトラックが木炭を積んでね、加計にあった小さな製鉄所が増産でね、戦争でコストの高い倒産寸前の小さな製鉄所も仕事が増えたんだ。ところが道路は旧態依然、穴ぼこだらけの砂利道を砂埃を巻き上げながらトラックは走り、悪童達の格好の遊び相手となった。登り坂でスピードが落ちたところで車の後ろにぶらさがる、何百メートルかいったところでスピードが出ないうちに飛び降りる。今考えると危ないゲームだったね。手を離す瞬間を間違えてスピードが出ていて着地に失敗、スリ傷を作ったこともあった。

閑話休題、戦争も末期になって国道とは名ばかりの小板の道路に緊張が走ったんだ。トラックの交通量が飛躍的に伸びた、その一つは前にも書いた戦闘機の防弾板、もう一つはイギリスの傑作機モスキートの登場だった。それが影響をもたらした。防弾板の話は別の文章に書いたので重複は避けよう。今日はモスキートの話にしよう。
この飛行機は正式にはデ・ハビランド・モスキートと言う双発の戦闘機、足が速くて、旋回性能が良くて、機体が木製で軽いと来る。おまけに大出力のエンジンを二つ積んで高速が出るという代物、多目的機である。戦争の末期に日本軍がミャンマー(当時はビルマといった)に侵攻した頃から活躍を始めたという。
忠勇無双の日本軍はこの飛行機に散々な目に合わされたとか。わが国は物まね日本と陰口をたたかれたお国柄、木材は沢山ある、日本でも木製の飛行機を作れと軍人さんが号令をかけたからさあ大変。この地帯で唯一残っていた原生林、中の甲谷からブナの大木を切り出してベニヤ板にして飛行機を作るという大計画、泥縄もいいところだが頭に血が上った軍人さんは大真面目、途端に小板の道路は賑やかになったね。

穴ぼこだらけの砂利道、悲鳴を上げる木炭車、手もっこと鍬とショベルの修路工夫さんがつききりで道直し、でもひと雨来ると穴ぼこ道が再現する、まさに賽の河原だった、あの風景は昨日のことだ。

敗戦の混乱が落ち着き始めて、そう1955年頃かな、日本の産業復興の兆しが見えると、隣部落の樽床にダム建設が本格化し始めた。長い前哨戦があったと聞くから、ダム建設の話は終戦後間もなくおきた。
大田川の最後の発電ダムの建設とて、落差も大きく出力も巨大、住民は樽床ダムと呼ぶが、地図上では聖湖と記されている。この地帯でも有数の大きな樽床部落を殆ど飲み込む大工事、1車線の砂利道での資材搬入は無理と15キロ下流の三段峡の入り口からケーブル線を建設、峰を3つ越して建設現場へ直接資材の搬入を始めた。ところが工事用のケーブル線での人間の輸送は危険で資材以外は道路を利用するしか方法がなかった。
そこで冬季でも交通を確保すための除雪が始まった。ブルドーザーが轟音を響かせて積雪を排除して道を確保する。積雪で諦めていた冬季の交通が約束されて病人を橇で搬送する苦労も昔話になった。私もその恩恵で命拾いをした人間の1人。
ところが除雪機械が工事用のブルドーザー、従って雪だけでなく路面もけずる。春ともなれば沿線の田圃は雪と共に放りこまれた砂利が小山になって続く、これには苦情が殺到した。そこでようやく路面舗装が始まったんだ。

戦争をしないと国内は様々な点で改良され進歩する。都市近郊でしか見られなかった舗装道路、アスファルト舗装で夢のようじゃなと感激したのも束の間、舗装がされても道幅や急坂は昔のまま、自動車が増えて1車線での離合(すれちがい)が苦痛になる、対向車がくれば道幅が広いところまで後退しなければいけない、どちらがバックするかで争いになる、なかには居据わる奴がいて小心者が割りを食うこともあって、問題もおきた。

その時期、かの有名な田中角栄氏が登場、政治力を発揮して道路が良くなり始める。なにしろガソリン税なるものを新設、国庫に集まった新税は全て道路改良・新設に向けるというのだから画期的。しかも、その税率たるや、本体のガソリンより高い。その税金は建設省がにぎって全部が道路に使う目的税。時あたかも日本の経済が上昇期に入ってマイカーブームがおき、猫も杓子も免許を取って自動車を買う、それが生きる目的。従ってガソリンが売れる、そして道路にお金が回る、とんでもない循環が始まったんだ。勿論、抜け目のない政治家諸君には土建屋さんから政治献金が潤沢に入ってくる、公共事業が資金源とは怪しからんとの世論はあっても、僻地の道路はあれよあれよと言う間に2車線になり、高速道路に接続し、長大なトンネルが掘削されて、七曲の山道は山の下のトンネルに変わり、歩いて二日がかりだった広島が、マイカー時代の初期で5時間、高速道路を利用すると2時間はかからない。住民は先日までの不便など何処吹く風、当然のように自家用車をぶっとばす。

一家に1台のマイカーは常識で、見浦牧場では乗用車、トラックが計5台、運転手が5人、役場も学校も病院も20キロの彼方、買い物一つでも3、40キロ走らなければ用がたせない。自動車は生命線になって、一人暮らしの老人が車がなかったら生きてゆけない、とんでもない世の中になってしまったんだ。

ところが近代化された道路は昔は夢だった大きな橋やトンネルを建設することで成り立っている。私達が日常的に利用する橋にも何億円もする高価な橋が珍しくない。ところが人工物なのだから耐用年数なるものが存在する。老朽化した時は寒気がするほどの巨額の費用がいるはずだ。人口が減り始め、経済も停滞しがちの日本にそんな資金が何処にあるのかと、いささか不安である。

取越し苦労の老人の呟きを踏み潰すように、今日も家の横の大規模林道を岡山の港から益田の巨大牧場に20トン積みのバルク車(バラ積みの飼料の運搬車)が吹っ飛んでゆく、時代は移り変わる、か?

2014.8.9 見浦 哲弥

2015年11月7日

廃屋

日本が人口減少に変じて、各所に起きた現象に廃屋がある。もっとも、わが小板で廃屋が目立ち始めたのは、ここ20年余りにもなるか、無住はそれ以前からだから、随分昔からの現象である。しかし、無住と廃屋は大きく違う。とくに解体されることなく朽ちて行く廃屋の住民に与える影響は大きい。まるで年老いて衰え行く我が身を見せられるようで、気持ちが沈んでゆく。

見浦牧場の前にある一軒のお家も廃屋に向けて進行中である。私が帰郷した70年前すでに新築の面影はなかったから、築100年余りのお家である。典型的な茅葺で、私が10代の頃、葺き替えの出役に行った覚えがある。確か40年毎の周期だから、その点からも100年以上の古家であることは間違いない。

旧国道、広島-益田線の道路沿いで小さなお店だった。駄菓子が少々と缶詰と酒と酒のつまみが並んでいた。それだけでは食べてゆけないので、田圃も2-3反あったのでは。親父さんは陸軍の伍長さん、我が小板では親父の陸軍中尉を除くと最高位、何事かあると軍服を着て肩章をつけて現れる小板の名士だった。何しろ小板最古の先住民、某家の分家と来るから、小板の住民は煙たくても頭があがらない。
彼には娘さんと息子さんがいた。でも娘さんは原爆で行方不明になり、息子さんはシベリヤ抑留になった。何とか生きて帰る事は出来たが、帰国後の生活はうまく行かず、離婚して一家離散、幸いお爺さんはその前に死んだ、が、家は人手に渡った。

新しい住人は、家に手を入れて大事にした。お店だったところも部屋に改造、住宅としては大きな家となった。時代の流れで屋根は萱屋根に鉄板で蓋う流行の鉄板葺きになった。新住民の改造で家の中は見違えるようになった。立派な仏壇も座り、屋根も5年おきの塗装で、貧乏、貧乏と口癖ながら手入れの行き届いたお家だったが、一人娘さんが町内に嫁いで跡継ぎがいなくなった。それでもお婆さんは家を守った。屋根も塗装をかかさなかった。除雪機も自分で使って除雪もした。しかし、冬のある日、見取る人なく旅立って無住になった。

家は生きている。無住と言うことは、家にとっても終わったということだ。まだ命が続いている間に次の住人が現れれば再生もするが、無住が数年もすると家も死んでゆく。かの家も無住になって、はや10年、屋根が崩れ始めた。あの鉄板の破れの下には仏壇があると人は言う、が゙固く閉ざされた屋内のことは誰も知る由もない。辛うじて窓の破れから見える室内は山積した埃の下に昔の栄光が見える。

小板には廃屋がまだ数件ある。大規模林道の道下にも大きな藁屋根の農家が倒壊している。お爺さんが腕のいい山仕事の職人で、自分の住宅を新築するに当たって材木を吟味して建てたんだ。それがお婆さんの自慢で板の間や縁側に足跡が付いたら大変な騒ぎで、子どもの頃はそれで叱られた。それでも、お婆さんがこだわるだけあって、つやが出るまで磨き上げた囲炉裏端の板の間は、見事だったね。
しかし跡継ぎの娘さんが大阪に出て、老人が死に絶えて無住になると手入れをする人もなく荒れ始めたんだ。
それでも婆様が自慢していた家だけあって、無住になっても往時の姿が崩れなかった。さすがだねと話し合ったものだ。ある年大雪が降って滑り落ちた雪が屋根まで届いた。それが例年になく高いところまで、そして暖かい日に少し融けて凍りついた。その重量で鉄板がずり落ち、棟に大穴が開いたんだ。それでも作りのいい建物は中々倒れない。少しずつ腐ってゆくだけ。倒壊するまで10何年もかかったんだ。そして婆様が自慢だった美邸は残骸と化して醜態をさらしている。

廃屋を見る度に思う。田舎には自他共に認める名家がある。しかし、跡継ぎがいない、いても人生教育がされていない、などで人為的にも滅んでゆく。何代も続いたと言う誇りも、それを裏づけする人間が繋がないと幻に終わってしまう。私の短い人生の中でも数多く見せてもらったんだ。

廃屋を見る度に生き様の廃屋にならないようにと自戒している。

2015.8.8 見浦哲弥

2015年5月9日

深入山は火山

2014.9.14、今日は小板の話をしてくれとの依頼で大野モータースのイベントに出かけました。雑談の相手なら嫌いではないのですが衆目を集める演壇は苦手で、そんな話があると「尋卒(小学校しか出ていない)に恥をかかせなさんな」と断り続けてきたのですが、お隣で日頃の付き合いを考えるとそうも行かず、衰えた頭に鞭打って30分ばかり”誰も話さない小板の話”をしゃべって来ました。

ところが聞き手の中に友人の娘さんがいた。
彼女曰く、「私の知らんことばかりだった」、「おい、おい、あんたは小板で生まれたんぞ」、「それでも見浦さんは算数しか教えてくれんかった」
そこで気がついた。今日は深入山が死火山だったことも話そうと思ったんだ。それを完全に失念していた。
それで「深入山が火山だったことは?」と聞くと「えっ、ほんま」と、のたまった。その言葉で深入山の話を書かねばなるまいと思ったんだ。

深入山は国道191号線と旧191号線(現在は町道)が麓を取り巻いて走っている独立峰。広島側の松原から走ると柔らかな曲線の山峰がみえる。転じて島根側から道戦峠を越えると深入山の主峰と前深入と呼ばれる副峰が眼前に迫る。そして地元の住人が"イデガタニ”と呼ぶ巨大な深い谷が見える。

私が深入山が火山と知ったのは、そんな昔ではない。「ありゃー死火山ど」と教えてくれたのは誰だったか忘れたが、それまでの様々な疑問が解けたのだから、あの一言は強烈だった。
それが前述のイベントでの話に結びついた。

小板川の上流に一枚岩の川底が500メートルばかり続くところがある。地元の人がナメラとよんでいた、川遊びでヒラベ(イワナ)追っかけて川を上ると行き当たる、魚の隠れる溜りがなくて、たまの溜りも小さなヒラベしかいなかった、刈尾山側の六の谷とは異質の川だった。もしかすると、あれは溶岩か?と思ったんだ。そのナメラに合流する小さなカジヤ谷の急な谷底も同じ岩盤が続いていた。そういえば反対側の小山に植林された檜は何年たっても大きくならない。古老曰く、「この山は木が育たん山での、植林なんかしても無駄での」とのたまった。その小山を越した斜面は木の生長が早く、よく繁る、そこの宇名(あざな)は繁濃(シゲノウ)。そこで思い当たったんだ。稙林地は土が薄いから木が伸びない、土の薄いのは底に溶岩があるからだ。

考えてみると小板には井戸が一つもない。横穴と称して崖に小さなトンネルを水が湧き出るまで掘る、にじみ出た湧き水を集めてそれを飲料水にしていた。住民が増加するまでは4つあったとも伝えられた沼もことごとく田圃になった。小板全域で最盛期は約20ヘクタールの水田があった。梅雨時の朝靄の中の稲田は一幅の絵画だった。ところが、お盆の8月15日前後の乾期になると川の水が一気に減って水の取り合いが始まる。深入山は死火山、溶岩で出来ている、だからであった。溶岩の上には何千年か何万年かで出来た岩石や土が積もってはいるが、褶曲で出来た山々に較べると沁み込む雨水が格段に少ない、従って夏の渇水期が一月も続くと谷谷の湧き水が止まってしまう。小板の命の川、小板川も干上がりはしないが、田圃にまでは水が届かない。そこで日頃の付き合いは何処へやら、隣同士がにらみ合う。そんなことが何年かごとに繰り返されたんだ。ところが深入山の旧火口から流れ出る谷は、比較的水が切れない。これは渇水に苦しむ小板の住民には垂涎の的、悪い奴が山腹に溝を掘って盗水をした。松原の水が峠を越して小板に流れたので、峠の名前が"水越しの峠(みずこしのたお)、峠で双方の住民が鎌を持って睨みあいの喧嘩までしたと古老が話した。

1960年代に小板に開拓の話が持ち上がった。農閑期には飯を食わない、テーラーなるミニ耕運機の普及で役牛の和牛が急速に減って、堆肥の供給源がなくなると、農業の専門家が危機感をもったんだ。そこで和牛を肉用牛に転換して利用しよう、そのために草地開発をして畜産農家を育てようという事になったんだ。
その開拓事業に便乗して、全戸に水道をつけた。これが小板簡易水道の始まりである。貧しいお爺さんに「見浦さん、御蔭で毎晩新しいお湯の風呂に入れる。極楽で」と感謝されたのはこのときである。以来、小板の水不足は大いに改善された。

ところが集落外の住民が増えた。いわゆる別荘、その他である。経済的に余裕のある新住民の中に地下水を求める人が出た。掘削の機械も進化して比較的簡単に掘れるようになった。勿論、費用は高価、一般的ではないが挑戦する人が出た。そして3箇所で水を掘り当てた。深さ80メートル、50メートル、150メートル。即ち、溶岩の厚さがそのくらいあるということだ。

話がそれた。先日、テレビを見ていたら、中国地方の火山帯の分布が表示されていた。瀬戸内海の沿岸と島根県の海岸沿いに、そして二つの火山帯を結ぶブリッジ、それが湯来温泉を経て吉和、筒賀、そして細長く深入山、さらに匹見、美都、有福と島根の温泉群に続く。まさに深入山は火山だった。但し死火山(休火山かもしれない)。もっとも瀬戸内海側はいずれも加温する温泉、中国山脈に近づくほど湯温は下がり、頂上を越して日本海に迫ると再び湯温は上昇する。
ちなみに筒賀に温泉を泉源とする小さな池がある。その池では金魚が自然繁殖して様々な姿を見せてくれる。美しくないのもいてね。池の温度は年間を通じて19度で一定だとか。

深入山と前深入の間に大きな円形のくぼみがある。測って見たことはないので正確ではないが、直径が7-800メートル位の草原である。一箇所、壁が大きく切れ込んで、小板の水道の谷に水が流れこむ。この谷が深入山の唯一水が切れない谷、火口の証拠だ。湧水が切れないのは火口跡にたまった地下水が流れ出るためだと考えられる。勿論、素人の独断だから間違いかもしれないが、疑問を持たれた人は学術的に調べて欲しい。

深入山の頂上に陸地測量部の三角点がある。そこから聖湖側に少しばかり下ると板状の石が散乱している。遠足で登ったときは変な石があるなと思ったが、今考えると、この火山特有の石だったのかもしれない。

お天気の日は頂上から日本海が見える。空気が澄んでいるときは益田の沖の小島までが見える。貴方が登山を楽しむ時間を持っているのなら、是非、深入山にも登って欲しい。穏やかな表情の山の、もう一つの側面を探りながら。

2014.10.8 見浦哲弥



参考
・深入山は「約1億年前~6500万年前に噴火した火山の岩石」でできているそうです。
日本シームレス地質図」より

・そのころの日本はまだ大陸に引っ付いていました。
(1)日本列島の地質構造の変遷』の6ページ参照 (図中の「30Ma以前」とは「3000万年以前」という意味です。)

2015年3月10日

田植え歌

数えて見ると、もう70年あまりの昔になった、田植えの季節に聞こえていた田植え歌、子供だった私が大人に混じって懸命に働いた田植えの日、腰の痛みに耐えながら親父さんの前歌に続いて五月女さんと後歌を歌う、歌の意味は判らなくても土の香りのメロディは心の休まるものがあった。
梅雨時に何日も続いた田植え、そして五月女さんとの合唱、私の心には、まだ聞こえている。

田植機が進化して手で苗を植えれば新聞社が飛んでくる昨今では想像もつかないが、腰を曲げて一株一株と早苗を植えてゆく作業は昔かたぎの農民でも悲鳴を上げるほど辛い作業だった。朝の5時起きで始まる田植えは日が暮れて田圃が夕闇に包まれるまで、4-5回の食事とその間の休憩で束の間、身体を休めるだけ、それが田植えが終わるまで連日続くのだから過酷である。自分の家の田植えが済んでも集落全体の田圃が緑にかわるまでは、田植えは終わらない。テゴー(手伝い)という形の賃仕事が、貧しいこの田舎では高給に属する賃金になるのだから、体が悲鳴を上げても休むわけには行かない。

田植は黙ってするには辛い作業、そこで世間話、「何処そこの誰それは怪しい」から始まって夜這いの話まで、子供には少々刺激が強すぎたが、学校の勉強よりも興味があったね。そんな話の種が尽きると、誰となく田植え歌が始まる。苗代(当時は田圃の一角に厚く種籾を撒いて苗を育てていました)には苗取りの歌、今は一つしか覚えていないが「ミヤジマノー、ゴカイローハ、ドナタガ、コンリュウナサレター、」と早乙女(ソウトメ)の頭が声を張り上げる。「シンタノ、タクミノ、タケタノ、バンジョウ、キヨモリ、コンリュウナサレター」と残りの早乙女が声をあわせる。まだ薄暗い早もやの苗代で歌った苗取り歌、ひなびた合唱に声を合わて何度も何度も繰り返したのは昨日の事のようだ。ちなみに仮名の歌詞を独断で文章に変えると「宮島の御回廊はどなたが建立なされたー、新田の、匠の武田の万上、清盛建立なされたー」となる。

9時過ぎに2番目の朝飯がある。一日、5度の食事の五度飯の制度は随分変なしくみだと思ったのだが、親父ドンに非合理だと文句を言ったら、とんでもない答えが返ってきた。彼曰く「働きに来てくれる人の中には貧乏な人もいるんだ。朝は朝飯を食わずに、夜は夕食抜き、そんな人の為に遅めの朝食、早めの夕食なんだ」。
私が始めて知った世間の裏側、そして思いやりのシステムだった。
しかし、この意味の深さを本当に理解したのは、随分後のこと、当時は5度飯のおかげで、朝は5時起き、夜食後の10時ごろまでの夜なべ、子供には辛かった。それで随分この仕組みを恨んだもんです。

現在も一つのショーとして田植え歌が歌われています。でも昔の生活に直結していた田植え歌とは感じが違います。生活観がにじみ出ていた昔の田植え歌は、私の老化とともに消えようとしています。苗取りが終わって田圃での田植えになると、男衆(おとこし)の即興の歌いだしに、早乙女さんの1人が即興で応える。2度目からは同じ歌いだしに、早乙女さんの大合唱。何度か繰り返すと、又、新しい歌いだし、今度は五月女さんの誰が応えるのかな、ベテランの五月女さんが2-3人もいると次から次と繰り出される即興の田植え歌に腰の痛みが軽くなる。
歌の中には、子供には理解の出来ないエロチックな歌詞あって、それが、おてんとうさんの下で明るく合唱される。田植えは嫌だが、雰囲気は楽しかった。日暮れになると、男衆が「ヒハクレル、ユクヤゴウデ、コマドヘツナイダ、」と歌いだす、と、本日の田植えは切りを付けて終了になる。現金なもので「ヤマヲコシ、タニヲコシ、サガリマツニ、ツナイダ」と応える声には力が入りましてね。耳を澄ますと今でも、その歌声が時の彼方から聞こえてくるようで!!
ちなみに先の歌を文章に直すと「日は暮れる,行くや郷で、駒を何処に繋いだ、山を越し、谷を越し、下がり松に繋いだ」となるのですよ。
 
2014.9.17 見浦哲弥

2014年3月21日

魚切の話

小板にも魚釣りがやってくる。いわゆる渓流釣と言う人達らしい。狙いはゴギとヒラベ、山女と岩魚と呼ぶのだそうだが、どちらも美味しい魚で、とれたてを塩焼きにしたら、人にもよるが鮎は足元にもおよばない。そのほかにドロバエと呼ぶアブラハヤもいるが、これは論外、食えたものではない。

ところが小板川には、うなぎ、ます、ハエ(ウグイ)、などは見かけた事がない。何故かと疑問を持ったと言う話も聞いたことがない。人の噂話にはあることないことを詮索するのに不思議な現象である。あまりなことに私が見聞きしたことを書きのこさなければと、この文章を書き始めた。

町の子、見浦は、異次元の小板の話は、どんなことも興味しんしんで耳を傾けた。その中にヒラベの話があった。先輩がいわく「昔は小板にはヒラベがいなかった」と。
その理由を聞くと「魚切があるけーの」と。そういえば三段峡の柴木川に注ぐ小板川は合流点で絶壁を流れ落ちる。「あれがあるけーの、小板にはおらん魚がおったんで」「それでの、先輩がヒラベを捕まえて小板川に放したんだげな」、話は続く、「ゴギも放したんだげな、それから増えての」と。ゴギは獰猛な魚で小魚は勿論、蛙や小さな蛇まで食べる。むかしの小板橋の下でゴギが蛇を咥えて泳いでいるを見たときは驚いた。彼らは源流近くまで生息する、ヒラベはその下流と言った感じ。もちろん併走して泳いでいるの見たこともあるが普通は住み分けている。

この放流の成功は小板の若者にヒントを与えたらしい。小板から空城へ林道をたどると、六の谷(ロクンダニ)、中の谷(ナカノタニ)の二つの小川を渡る。空城川の上流なのだが、これには魚がいない。実はこの二つの川には中流に大きな滝があって魚の遡上を阻んでいる。鬼の木戸(オンノキド)と無名の滝だ。鬼の木戸は大規模林道の交点から山の中を1キロ下流に、川がエル字型に大きく曲がるところがある。その屈曲点が大きな滝になって滝壺が魚止りになっている。滝壺には遡上できなかった魚が群れをなしているが、何しろ深い。落下点は岩盤が大きくえぐられて奥は光が射さない暗闇、少年の頃、何度か魚とりにいって淵(滝壺)の中を水眼(水眼鏡)でのぞくとヒラベの大行進、切歯扼腕(せっしやくわん:歯ぎしりをし、腕を握りしめてくやしがること)したものだ。ここが魚切、上流にはヒラベもゴギもいなかったよし。先輩が「俺が放したんだ」と自慢していたから、あまり昔のことではなかったようだ。

私が魚突きを始めた頃は、すでに魚影はかなり濃くなっていて25センチのヒラベを取った事もあるし、5センチくらいの幼魚は数多く見た。ところが林道から500メートルほど遡るとちょっとした平場があって流れが緩やかなところがある。最初は気がつかなかったが、2度3度と入るごとに異様な雰囲気を感じるようになって、魚とりに入るのを中止した。今考えると月の輪の視線を感じていたらしい。牧場を開いて熊が来場するようになって注意して観察すると、その平場に巣穴があるようだ。何十年も昔のことを思い出して冷や汗をかいたものだ。

中の谷も空城川から分流した小川で林道に沿って1キロほど深い谷底をのぼる。並走する林道の中ほどで20メートルばかりの滝を経て穏やかな小川になる。この滝が魚切である。これも探検したことがある。水量は多くはないが落差の大きな滝には小さな滝壺があった。それが魚切。小さなヒラベが5-6匹いたのを覚えている。つい道端なのでのぞいて見たいが今では藪が繁っていて、さすがの好奇心も鈍る。この谷にも放流したというが、私は魚とりに入ったことはない。友人もヒラベがいたと話したのを聞いた記憶もないので、定着しなかったのかもしれない。

大田川は水量が多く急流で有名、水力発電に適しているとてダム建設が盛んに行われた。魚道など対策はなされたが現実には魚切が数多く出現したんだ。例えば夏の魚の鮎も戸河内では放流の鮎が全てである。自然は変わった。でも、昔は天然の宿命を乗り越えようとして努力した人がいて、小板にもヒラベもゴギもいる。釣り人は当然のように釣り上げて行くが、そんな先人の努力を少しは思いやって欲しいと思っている。

2013.10.5 見浦哲弥

2014年2月23日

水道物語 2

前回、”小板昔日”で小板の簡易水道の建設の成り行きを書きました。その組合が安定して運営されるまで、様々な出来事が起きました。今日はその後日談です。

水道は出来ました。しかし、その運営を本気で考える人はいませんでした。水道は出来た、邪魔な見浦は追い出した、水道の水が欲しければ頭を下げて頼みに来い、それならお前にも水道をつけてやる。私は頭を下げる理由がないと突っぱねました。全戸の飲料水を供給するのが初期の目的でした。M爺さんのように極楽だと喜んでいるのに騒ぎを大きくするのは本旨ではありませんでしたから。

幸い飲み水は昔の横穴から清水が出ます。畜舎用の水は小板川の伏流水を汲み上げて使いました。

ところが2年ほど経ったある日、友人のO君が訪ねてきました。水道組合がうまく行かないから立て直して欲しいと。詳しく話を聞くと、水は余っているからと使い放題、豚を飼うボスやその一党と、飲み水と風呂だけに使用する人達とで出役が同じ、それで不満がたまったのに、沈殿槽の砂の交換の費用や線路の修理部品代まで負担を平等にかけた。これには、さすがに大人しい人達も憤慨して収集がつかなくなったと。

小板に潜在している古い悪習に、日頃は声を上げない人達が怒り狂って、小ボス達の手に終えなくなった、だから言いだしっぺの見浦に始末させよう、そういうことになったとの話でした。

最初のいきさつを忘れるのには時間が短か過ぎた、あのときの立腹はまだ収まっていない。だが水道がなくなれば、たちまち困るのは小農や貧乏な人達、逃げるわけには行きませんでした。そこで私の案に異論を唱えないこと、一つでも反対したら手を引く、それでもよければ後始末をしようと。普段なら「見浦の野郎」とのめない提案も住民の怒りを納めるすべを失った彼等は不承不承でも承諾するしかない、出来るものならやってみろと。

解決法は一つ、水の使用量に対して料金を取る、この方法しかありません。しかしメーター(量水計)を設置する資金がありません。そこで集落の共同財産を利用することにしましたが、何かと雑音が入る。そこでもう一つの要求をしました。「共同財産を管理する小板振興会の会長にしろ」。
もう一つありました。「水道組合員でもない奴の意見を聞くのかと言う人がいる。組合員になってくれ」「いいよ、組合員になろう」。最初の敷設の時、各戸一個ずつの蛇口と配管をした、これをどうするか。「見浦は勝手に組合に入らなかった。そんな奴に配慮はいらん」、ボス連中には随分憎まれていたのです。しかし、そんなことは瑣末なこと、「配慮はいらん」と宣言してゴリ押しをやりました。

さて、ボスどもの不満を押しのけて組合長と会長になりました。そこで振興会が費用を負担して各戸に水道メーターを取り付け、使用量に応じて料金を徴収する案を提示しましたが、一つ問題がありました。振興会の会員のうち、私ともう一軒が水道を利用していない。
私は組合に入ることにしました。前述のクレームには「ハイハイ、そのとうりです」と反論しませんでした。そんなことより本当に水が必要な人達のためには早急に解決しなっければなりません。それより、もう1人の方の方が大変でした。現時点では豊富な谷水が落差を伴って流れてくる。水道の必要は全くありませんが、権利は権利です。将来必要になったときは水道組合が無料で敷設するということにしました。ところが水道の端末から、お宅まで1000メートル近くあります、大金が要る、そんな金は出せないと、又ボスどもが騒ぎ始めたのです。その人は振興会が敷設を保障してくれれば反対はしないと約束してくれました。そこで成り立ての会長の私が「そのときは組合員の皆さんにも協力してもらうが、個人としても責任を持って約束を実行します」と答えて賛成を得たのです。幸いボス連中よりは私の信用度のほうが高かった。

工事が始まりました。しかし、まだ問題がありました。料金を取ることです。「小板では今まで水を買うような生活はなかった、水代を取るとは何事か」。
あら捜しに躍起になっていたボスどもが、ここでも声を荒げました。そこで基本料金は30リューべまで300円、30リューべ以上は、1リューベ15円と決めて振興会の会員には振興会から配当金として月300円を支給、これを基本料金に充当することにしました。
これは効果がありました。殆どの人が実質無料となり、料金を支払うのは一部の畜産農家と学校と別荘の人達、おまけに今まで奉仕だった労力提供も時間給を支給することにしましたから、不満は一挙になくなりましたが、収まらないのは、これまで無制限に水道水を使っていた畜産農家、ハウスの散水に使用していた農家です。

小ボスの畜産農家が怒鳴り込んできました。7万円も水道代を取られたぞと。そこで、水道は濾過の費用や消毒の費用がかかった値段のある水なんだ、それを豚小屋の床洗いまで無制限に使って、お金が要らないと思う方が非常識、掃除用には前にある小川の水をくみ上げて使え。この論理に負けた彼は川端にポンプ小屋を作って対応してくれましたが、間違った論理を信じる性癖は彼の事業を倒産に導いてしまいました。
もう一軒の畜産農家は豚舎に家と別回路に水道管が繋がれていました。それを住居の方だけメータを繋いで豚舎は内緒で水道を使っていました。あれはどうしたと聞くと不正に気がついた小ボスが、大ボス君に「有力者のくせにけしからん」と、抗議したといいます、公にするぞと。さすが大ボス君これには参って以後高額の水道料を払う羽目になりました。しかし、波及効果もありましてハウスに内緒で使っていた連中も、何時の間にか自費でメータをつけ、水道に関する限り不正はなくなりました。
以来、40年間、飲み水にも苦しんだ小板では、渇水期に節約を要請することはあっても給水が止まることがありませんでした。

しかし、歯止めのない人口の流出は維持管理の人員も足らなくしました。今年は人手不足で沈殿槽の手入れが2ヶ月も遅れて、遂に見浦家だけで作業をする羽目になりました。しばらくは、この状態が続くかもしれませんが、松広のお爺さんの「見浦さん、毎晩新しい、お湯の風呂に入れる、極楽でよー」の言葉を思い浮かべながら、何とか頑張ろうと思っています。

追記:「後日、水道をつけてあげる」の約束は、その方が国道191号線の辺に住居を移されて権利を行使して解決しました。

2013.11.13 見浦哲弥

2013年5月10日

小板昔日 2

今でも、目を閉じると瞼に浮かぶ風景があります。
田植えが済んで早苗が伸び始めて、一面の田面に初夏の風が吹き渡る。
見浦の大きな藁屋根の縁側で、そんな風景を見るのが好きでした。都会の長屋のちゃちな縁側と違って、荒削りでもゆったりした縁側は、まだ子供だった私には、ほっとする世界でした。
今の見浦より30センチも低い地盤にあった縁側から見る田園風景は、一望5ヘクタール、それはそれは広く感じられたのです。
朝靄に煙って遠くのカヤ屋根がかすんで見える、彩りに柱だけの稲杭が遠近を強調する、稲の葉先が揺れ、畦豆の大豆の葉が露で頭を傾ける、今でもまざまざと思い浮かべられます。
それは昭和16年頃の話、ガソリンが割り当制てになって、あの小さな定期バスは、もう通って居なかった。
運転台の後ろに大きなガス炉を積んだ木炭トラックが、中の甲から加計にあった木炭鉄の製鉄所、帝国製鉄行きの木炭を運んでいましたっけ。私たち悪童が上り坂でスピードの落ちたトラックの後ろにぶら下がる、そんな危険な遊びをしてました。
飛び降りる瞬間を間違えるとスピードが出ていて、転んで擦り傷を作る、恐ろしい目にも会いました。

昔は今のような金肥万能の時代では有りませんでした。少しでも多くの収穫を上げるために畦草や山草を一本でも多く刈り取られて牛の敷き料になり堆肥になりました。
その道ばたや周辺の草刈り場にはゴウランと呼んでいたササユリが花盛りでした。中には二股も三股もありで甘い香りと清楚なただすまいは初夏の風物詩でした。
過疎になり人手の入らなくなった野山は荒廃と乱獲でゴウランも絶滅状態になりました。
今年は1本見たと喜ぶ、そんな自然を見る、悲しいことです。

広島から国道191号線をドライブして、ホテル”いこいの村広島”の下を過ぎ、なだらかな登り道を走ると峠、それが深入峠です。その向かい側の山が”向こう深入”、小板の草刈り場でしたね。

当時の小板は田植えが済んだら山草刈り、草刈り山は2年に1度の割合できれいに刈取らなくてはなりません。怠ると草が荒くなりましてね、牛が食べなくなる。
見浦の割り当ての草刈り場は、長年、年老いた祖父と雇い人で仕事をこなしていたので管理不足、山草でなく柴草でしたね。

4カ所か5カ所にあった草刈り場、あちこちに散らばっていましたが、それぞれに湧き水が有りましてね。それぞれに味が違う、しかも生水で美味しい、番茶を入れて沸かすと更に抜群、お茶の葉の代わりに熊笹を入れても美味しい水、すばらしい大地の贈り物でした。
最近はどこを訪ねても昔の水の味には及ばない、自然が変わったのか、私の老化のせいなのか。

昭和38年、歴史に残る大雪が降りました。1月の中頃まで「今年は雪が少なくて有り難いのー」と喜んでいたのに、連日休みなく降り続く大豪雪が始まりました,初めはよく降るなと感心する余裕がありました。その内屋根の雪下ろしに追われ始めました。しかし降雪は止まりません。雪の重みで家が鳴り始めました。
この年の雪の降り方はシンシンと只ひたすらに雪を積み重ねる、異常な降りかたでした。
誰もが懸命に雪下ろしを始めたのは言うまでもありません。

その内に、降ろすところが無くなりました。幸いなことに見浦家は家の前は小板川が流れています。最初は川の中へ捨てれば水で溶けてくれる、低いところへ降ろせる事は好条件でしたが、その内川が一杯になりました。でも降り止みません。雪を川の中へ積み上げる始末 、最後は川に積み上げた雪が屋根より高くなってついに除雪は挫折、ままよ潰れたらそれまでと屋根の雪下ろしを中止、春になって雪が消えた軒先は全部折れて悲惨な状態になっていました。

最高積雪は4メートル、前代未聞の大豪雪にマスコミは連日報道、奥地は交通途絶で今にも死人が出るような騒ぎと報じても地元の住人は、冬が過ぎれば春がくるよと腹をくくっていました。でも行政はマスコミの手前ヘリコプターに医師を乗せて緊急着陸、地元の住民は雪上ヘリポートの造成にかり出されて、自家の除雪は一時停止、マスコミの騒ぎと裏腹に「何で大騒ぎをするんなら」と冷めた感覚でした。

お宮の鳥居は跨いで通れましたし、配電線は腰を曲げないと3000ボルトの電線に触れて感電する恐れがありました。
当時は、まだ水道がありませんでした。幼子の汚れ物の洗濯に川の水の利用は不可欠でした。雪の下にトンネルを掘りましてね。高さが1.5メートル以上もある本式のトンネル、お米が貯蔵してある倉にも掘りましてね、まさに野ネズミ状態の生活が始まっていました。
ところが、幾ら大雪でも2月も中頃を過ぎると気温だけは高くなり始める。トンネルがドンドン低くなりましてね、しまいには腰を曲げないと通れない。
4月の初めになっても積雪が1メートル近くも残っていまして、苗代が出来ないと急遽ブルトーザで除雪、除雪が完了した翌日に暖かい雨が降り続いて一夜にして雪がなくなったときは・・・・・自然に翻弄され続いた大雪でした。これが後に38(サンパチ)豪雪と称された大雪でした。

翌々年の41年も大雪でしたが、それ以来、年年降雪量が少なくなりました。いわゆる温暖化の影響が出始めたのですが、スキー場関係の人以外は”今年は雪が少なくて、ようがんすのー”と大歓迎でしたが、雪不足対策として各スキー場に人工降雪機なるものが設置され、高価なエネルギーを投入して川の水を凍らしての人工雪をコースに積むゲレンデ作りが日常化して、各スキー場の赤字が表面化しました。なにしろ雪作りの為に3000キロワットの変電所が出来、毎日飛んでもない資金が消えて行きました。そこへ人口減少が追い打ち、スキー客が減って昔日のスキー物語は遠い思い出話になりました 。

スキー場華やかな頃は、小板でもスキー場を作ってあやかろうと、お熱を上げた連中がでました。
「雄鹿原村では一年で24億円の売り上げがあったげなー、小板も雪だけはあるけースキー場を作って一儲けしようやー」。
「エー話があるんど、雄鹿原スキー場がの、ロープ塔(滑降点と出発点の間に太いロープを張って動力で回す、スキーヤーはロープにつかまって登る)廃止してリフトにするんだげな。そのロープの設備を安う売ってくれるげな。それを買ってスキー場をつくろうや」
市場経済という現在の仕組みの中では、人の一歩先を歩かないと何も手に入らない、丁度、栗拾いで人の歩いた後は、どんなに懸命に探しても栗のイガしかない、山国に住んでいて嫌というほど判っているのに、金儲けと言う言葉で盲目になってしまって、自治会の積立金を投資をしろと言う騒ぎになりました。丁度、私が会計係で、そんな馬鹿な話に大切な積み立て金は出せないと頑張ってやりました。

ところが、積立金は集落全員の財産、皆のためにスキー場をやって儲ける、それを止めるとは何事か、多数決で金を出す事を決めると言い始めました、そこで、儲かるか、損をするか判らない内から大切な積立金を出すのは反対だが、皆が賛成するのなら、儲かることが判ってからなら出す、それなら目をつぶると妥協したのです。

喜んだ連中、取らぬ狸の皮算用で、儲かったら積立金で返金するから出資金を出せと金を集めました。欲の皮の突つぱった連中がなけなしの現金を差し出したといいます。出さなかったのは私と都合のつかなかった、もう一人の二人だけ。

あまりのことにあきれたのですが、一言アドバイスはしました。
「儲けるためには、お客さんに来てもらわにゃ、宣伝がいるで」
それには賛成する人がいました。
「広島にビラを配りにいこうや」。
後日、そのメンバーの一人にビラ撒きの後日談を聞きました。
「どこで、ビラを配ったのかい」と聞くと、「広島駅」と答えました、「どうだったらー」の問いに、吐き捨てるように「もう二度といかん」と。
どの様な設備と聞かれて、正直に答えて笑われたのでしょうね。時はシングルリフトからペアリフトに変わり始めていましたから、ロープ塔のスキー場を新設と聞いて失笑されたのは当然でしょう。
お客さんの来ないスキー場が営業したのは2年くらいかな、スキー客より従業員の方が多い、それが日曜日でというのだから、なけなしの懐からかき集めたお金は雲と霞と消えて嵩むのは借財ばかり、さらばと当時まだ珍しかったスノーモービルを4台ほど揃えて、これではと挑戦、しかしモービルは起伏のある広いゲレンデなくては面白くない、起死回生の妙薬にはなりませんでした。
翌年、配当と称して出資者に幾ばくかのお金が配られました、儲からないのに配当金とはこれいかに、笑い話になりました。それからも手を変え品を変えてスキー場建設の話が持ち上がりました。詐欺まがいの話まで登場して、ともすれば信じがちな善人の村人を止めるのには苦労しました。何年かしてメンバーだった友人を「スキー場建設でご意見を」とからかった事があります。即座に「あの金は、淵に放り込んだ方が、よっぽど気持ちが良かった」と返ってきました。

時代が変わって、暖冬とスキー人口の減少で、各地のスキー場が続々と廃業、スキー場のメッカと言われた芸北地区でも残るのは1社か2社といはれています。でも此の集落ではスキー場の話はタブー、笑い話になるのには、まだ時間がかかりそうです。

もう二十年余り前になりますか、道戦峠の旧国道沿いに始めて別荘建ちました、道路から小道を少しばかり歩いたところ。
それから、いつの間にか集落のあちこちに二十数軒も別荘が増えました。
この地帯は、臥竜山 、深入山、十方山などトレッキングのメッカ、地元の住人が知らぬ間に、リタイヤしたら小板に住みたいと言う人達が増えたと言います。
おまけに、土地持ちの旧家が倒産して所有地が売りに出され事もあいまって、一挙に増えたのです、ところが地元の人の対応が今一だったのです。

小板は江戸時代はタタラ製鉄に関わって生き残り、戦前は米作、大麻など農産物と、木材搬出の林業労働者、木炭生産は製鉄用と民需用などで生き残ってきました。昭和20年の敗戦後は都市復興の建築用木材、都市の台所を支える木炭の生産で賑わいました。都市が復興するに連れ、製紙の原料としてのチップ材の出荷も盛んになりました。
ところが都市が復興し日本の経済が発展を始めると人口の流出が始まりました、38の豪雪は契機になりました。最初に移住したのは、何処だったか忘れましたが、一軒が消えると次々と続きました。残留を決めた家も新しい事業で都会に負けない生活を夢を持ちました。お隣の松原が建設業に転進し成功したのをみて、安易な挑戦を始めたのです。結果は無惨な敗退、5軒あった「分限者」と言われた小金持ちが消えました。もっも大畠は敗戦前後に没落しましたから、消えたのは4軒ですか?

その間に中国山地の村々は過疎化の嵐に晒されました。谷間の小さな集落は過疎から崩壊にそして無住になり自然に帰ったのです。小板は目下崩壊中。
お隣の空城は3軒になりました。餅の木は1軒、田代は杉林の中に消えました。甲繋も無住のバラックだけ。小板は常住者は、畑中、住福(冬季は広島)、大前、見浦、原田、堀田、田川、堀江、大谷の9軒、内一人暮らしは3軒、50歳以下成年のいる家は4軒、60以下の男性は2人(一人は身障者)、自治会の業務をこなすのは70台を含めても3人しかいない、幼稚園の年少組が1人、これがこの集落の最後の子供で次に幼児を見るのは20年後、危機を通り越してしまったのが現況なのです。

さて、450年余りも続いた、この集落がこのまま森林の中に埋もれるとは考えたくありません。どうしたら再建できるのか、この老人にも名案はありません。ただ言えるのは、この中国山地の自然を生かしながら共存して行く、その道はあると考えています。
豊作の時は柴栗が地面の色が変わるほどなりました。たった一度ですが甘い黄色の木苺に出会って飽きるほど食べたことがあります。ナメコを始め天然の茸の宝庫でした。荒廃した30町歩の開拓地があります。まだまだ小板の自然の中には可能性がある。私は日本は豊かな国だと思っているのです。そしてこの中国山地に再び賑やかな人の声が聞かれる、そう信じているのです。

人の営みには栄枯盛衰があります。小板が再び栄える日、私は見ることはないでしょうが、どんな形になるのやら、この文の続きを書く人に期待をしています。

2012.10.9 見浦哲弥

2013年1月6日

農兵隊 14才で動員に

昭和20年1月 松原尋常高等小学校から的場八郎君と二人、基礎訓練を受けるため、県立七塚原伝習農場に出発しました。降り積もる雪を踏みしめて。
 
敗戦につぐ敗戦で追いつめられた政府が子供まで戦争に動員を始めていました。ちなみに友人の斉藤正司君は少年兵を志願した。彼は戦後、帰宅は出来たが航空隊で罹った病でまもなく死亡。一級上の女の子は従軍看護婦で戦死。私の周辺でも戦争の犠牲になった人数は枚挙につきません。
中東の戦争やアフリカの内戦で子供を戦争に使うと非難していますが、狂気の日本軍部も全く同じ事をしていたのです。
自分たちの過ちを祖国を守る愛国心にすり替えて、動員と言う名目で強制労働に、志願兵にと子供達を送り込んだのです。
 
国家とは何ですか、愛国心とは何ですか、私達は口に出してこの問題を論ずる事はまれです。戦前の間違った愛国心が国民をどんなに悲惨な環境に追い込んだか、広島の惨状の一片でも知る人は、その起こった事だけを非難し、その由来までは思いをはせない、現在はそんな不可解な平和論が横行しています。
私が体験した農兵隊と言う組織、その中での記憶を記述することで、貴方とこの問題を共有したいと思うのです。
 
昭和19年から20年、すでに日本の近海はアメリカ海軍の潜水艦で監視されていました。特に大陸からの資源を運ぶ輸送船は格好の標的になったのです。国内で不足する食糧は中国の東北部(満州と呼ばれていました)から、朝鮮半島を経て、船で朝鮮海峡を渡りました。その船が狙われたのです。
敗色が濃厚になった日本は近海の朝鮮海峡の制海権まで失っていたのです。国外からの資源がなくては生きて行けない事は今も昔も変わらなかったのに。
食料はとうの昔に配給制になっていて、軍関係は何グラム、一般人は何グラムと詳細に決められていましたが、それが危うくなったのです。
一般の市民は米の飯など夢のまた夢、麦飯になり、芋類が入った芋飯になり、雑穀が入る、米粒が少なくなり、一部の人達を除いて白米のご飯は夢で見るだけ、食堂はとうの昔、雑炊になり、それも政府から配られる配給切符や食料切符がないと食べられませんでした。しかも、長い長い行列に並んで。
 
しかし、軍人には腹が減っては戦はできぬと重点的に食料は回ったのですが、社会は餓えに苦しんでいたのです。軍需物資の増産はかけ声だけでは人は動かない、腹が減っては戦は出来ないと、政府は閣議で食料増産を決定しました。席上、石黒農林大臣が軍隊や工場に若者が取られて老人だけの農村では、どうやって働き手を確保するのかと問題提起をしたと聞きます。それなら子供を使えと。
そこで各学校から2名づつ集めて農兵隊を作ったのです。幹部として実業高校の3年生が、隊長として校長先生の古手が、そして寄せ集めの集団が出来上がったのです。そのアマチュアの集まりは何もかにもが試行錯誤、やることなすこと上手く行かない、従ってしわ寄せは子供達にと言うシステムが出来上がったのです。
 
まず幹部の養成、当時、茨城県内原にあった満蒙義勇軍養成所で(少年を満州の農村に日本村を作る為に送り込んだ組織の訓練所)(松原からも1年上の友人が参加させられて満州に行った)即席訓練された17、8の少年5名と、先生の古手と、軍人の古手の大人が2人、これで何も知らない14歳の子供120人をコントロールして働かせ、食料を増産すると言うのだから、負け戦というものは、何もかも狂ってしまうものらしい。
 
農兵隊広島県大隊山県中隊第2小隊第4分隊、分隊長見浦哲弥が私の肩書き、分隊長にされたのは学校の成績が参考にされたのだろうが、そんなものが通用するような環境ではない。お陰で仲間からいじめられるわ、幹部からは標的にされるわ、散々な目に会わされた。
 
本部は新庄村、宿舎は現在は浜田道のインターのところにあった廃牧場の畜舎。
 
最初は畜舎の改造が間に合わない。そこで新庄中学の講堂の二階に間借り、同じ年齢の少年が片や農兵隊でぶん殴られても命令に絶対服従、片や中学生で自分の意志の表現が出来て家に逃げても警察が逮捕に来ることはない、そんな天と地の違いが同じ空間にいた。
 
一応、寝る場所と食事が出来るようになると開墾作業が始まってね。サツマイモの植え付け時期が迫っている、何月何日までにこれこれの面積を畑にして苗を植えろ、命令するのはたやすいが、与えられた土地は熊笹の密生地、全面を耕していては間に合わない、笹を刈り取って大きな溝を掘り、溝と溝の間に土を盛り上げてそれに芋苗を植えろ、簡易開墾と称してね。
おまけにノルマがあって一人一日にこれだけを畑にしろと面積が割り当てられる、要領のいい奴は笹の少ないところを我がちに占領、ポサットした奴は密生地と決まっていて、完了しないと宿舎に帰れない、勿論食事はない。
例によって、のろまな常連が5-6人荒れ地で泣きながら鍬をふるっていましてね。勿論私も一員、お月さんが出ても誰も呼びに来ない、宿舎から2キロ以上も離れた山の中、幹部連中が就寝前の点呼で人数が足りないと騒ぎになって、始めて命令した奴が気がついた、「あいつら、まだ山の中か」。
「もう帰ってもええ」と迎えに来て、宿舎に帰って、冷え切った盛り切りの麦飯と塩汁の夕飯にありついた時は、こんな事がいつまで続くのかと暗澹な気持ちになりました。14歳の子供がね、そこにあったのは正邪の世界ではない、いかに上手いことをするかの要領の世界でした、見浦の家庭では教えられなかった世界があった。
 
昭和20年(1945)には戸河内に上殿、戸河内、松原の3国民学校(尋常高等小学校)がありましてね。松原校からは的場八郎君と私、上殿からは鈴木君ほか1名、戸河内からは中津君ほか1名の計6人、もう何十年も会っていない人もいて記憶も定かではない。
何年か毎に農兵隊の同窓会と称して集まりを持った事が何度かあったが、辛い思い出が多かった関係で、総勢120人あまりの中で出席するのは20人足らず、それも年毎に減って集まりも出来なくなった。
 
山県郡は地勢的に3つに別れるらしい、太田川流域の安野、加計、筒賀、戸河内、地区、江の川流域の大朝、新庄、本地、八重、壬生、南方、原、吉坂、都谷、地区、急峻な中国山地中腹部の八幡、雄鹿原、中野、美和、地区、の各町村。
この3地域は比較的交流が少ない、ことに太田川流域と江の川流域の対立は敵対意識に近い、後年、県会議員の選挙では見事に争った、お陰で芸北地区は漁夫の利で宮本氏が3代に渡って議席を保った、それは後世の話し。
 
ところが農兵隊でも、この関係が見事に起きた、団結の江の川系に対して太田川系は対立の意識はあるもののまとまらない、芸北は無色で傍観の姿勢、その中で私は目立ったものだから集中攻撃を食らった、辛かったね、七塚原の牧場派遣に志願したのも、それが原因、何十年かして、道路が整備され、自家用車が普及して交流の範囲が広がって始めて、地形的にも成る程と理解できた。
 
江の川流域は山や川で別れていても、町村の境が判らないほどなだらかで繋がっている、太田川流域は山は高く急峻、僅かに細長く太田川で結ばれているだけ、芸北地域は尼子と吉川の勢力の接点で支配者の交代が頻繁に起きて住民が保身のため日和見を決め込んだところと。
 
私が本領を発揮できたのは敗戦後、10月の終わりに七塚原牧場から帰隊してから、戦争の為の動員が農民教育の一環に変更されて、労働と共に授業が開始されてから。
何しろ神様より強いマッカーサー総司令部の命令は軍国主義の色彩は完全に払拭せよと、農兵隊も泡を食って取って付けたような教育機関に変身、もっとも高校を出たての17,8の子供が大声を上げて教えても理解できる奴はいなくて授業の最後に「判ったか」と聞いても返事をする者がいない、さらばと、やっと見つけてきた黒板に問題を書いて「出来るものは」と聞いても誰も手を挙げない、困り果てた即席の先生、出来そうな奴に「おい誰々、できるか」と聞く、そして答えが合うと「よう出来た、みんなも判るの、わからにゃ○○に聞け」で終わりにする手を考えた。
当時でも経済的にゆとりがあって頭のええ奴は広島や新庄の中学校へ、行けない奴が小学校の高等科ときまっていた、その高等科でも、卒業したら程度のええ奴は加計か八重の実業に行く、同級生の中には志願兵で航空隊へ行ったのもいたな、農兵隊は農業の跡取りか進学の出来ない奴か、勉強が大嫌いで学校が持て余した奴が送り込まれた、そんな感じだったね。
 
特に数学が出来ない、何しろ食品のカロリー計算も出来ないと言うので大変、業を煮やした先生「宿題にする、明日までにやっておけ」、自由時間が来ると2-3人いた見浦派が「教えてくれと」とやって来た、九九と足し算が出来れば誰でもできる、奴さん達、これで安心して寝られると大喜び、それを見ていた日和見派の勇気のある連中が「俺にも」と来た。
高等科でも上級生にも教えていた数学は得意の科目、「わかった」と喜んで貰うのは一種の快感でね、日頃の垣根が取れると後から後からやって来た、順番を取るとて貢ぎ物まで差し入れる奴もいて、前日までとは天と地の違い、あきれたねが、さすがに目の敵にして私をいじめていた連中は、遠くに固まってにらみつけるだけ、でも手は出てこなかった。
 
12月の終わり頃になって希望者は帰宅しても良いことになった、動員の命令が無効になったと通告があったらしい、表向きは一種の教育機関になっているので正式の解散は翌年の3月、それまでは存続するので出来れば居て欲しい、解散時まで在隊したものは、加計、八重の両実業学校に無試験入学の恩典がつく、軍需物資の払い下げ品も与えると、この説明は効果があって、それでも帰宅すると頑張ったのは10人足らず、その一人が私だった、農兵隊から持ち帰ったのは、1食の握り飯、お米が少々、琺瑯引きの海軍食器、その帰途の雪道遭難は”雪国の教え”に書いた。
 
敗戦の年の苦しかった1年、14歳のひ弱な都会子がタフな少年に変身した、黙って泣きべそをかくより、反撃して殴られろとタフな少年になった、そのために必要な1年だった。
 
時折あった同窓会の誘いもなくなった、苦楽を共にした仲間達も生きの残りは僅かになった、そして農兵隊山県中隊は忘却の彼方に消えようとしている      。
 
2012.7.10 見浦哲弥

2012年9月9日

穏亡の大将

物心がついて70年余り、お葬式の風景も変わりました。今日はここ小板の火葬の話をしましょう。そして私が”穏亡の大将”と呼ばれた理由も聞いてください。

私が子供の頃、すでに葬式は火葬が常識でした。ところが16歳の時、小板神楽団に入団して中国山脈島根県側の臼木谷のお祭りに呼ばれたことがありました。先輩にここは土葬でねと、教えられました。まだ土葬の所が存在していたのです。

好奇心の見浦の記憶の中に初めて火葬場が登場したのは、小1の時、福井市の郊外にあった競馬場まで足をのばし、帰り道迷い込んだ小さな小屋が火葬場でした。大きなかまどがあって轟々と火が燃えていました。変なにおいに気付いた友人が火葬場だと声を上げ、悪童ども(私を含む)が悲鳴を上げて退散したのをおぼえています。

次が広島で母が亡くなって、広西館(字は当て字です)でお骨にしたのですが、大きな火葬場でした。お棺をレンガ作りのかまどに押し込んで鉄の戸をしめる、母がこの世の中から消えていった瞬間は、今でも瞼に残っています。確か重油で焼くのだと大人が話していた、焼きあがったお骨が微かにくすんでいた、そんな記憶もあります。

翌年、祖父が亡くなりました。それが小板のお葬式の初めての体験でした。そして藁焼きと称する、小板(この地方かも)独特の火葬を見た最初でした。
休火山の深入山の火口からの深い谷が小板側にえぐられたように刻まれている、その先端が血庭(幻の古戦場に登場します)、血庭の最上部の林の中に、その火葬場がありました。少し盛り上がった丘の上の直径2メートル深さ50センチばかりの穴が火葬場、小板の住民は誰もが最後に訪れる場所でした。

血庭は昔から蕨(ワラビ)の良く生えるところ、蕨取りに夢中になって、太い美味しそうな蕨がエットあるのーと気がついて見ると火葬場に近く、あわてて逃げ帰った事が何度かありました、。葬場の灰が流れ出て肥料になって蕨がよく出来ていたのです。

私は19歳から見浦家の代表として部落の出役を務めました。お葬式も人夫としての役割が回ってきました。新人は焼き場(火葬場)の人足と決まっています。見ること聞くこと新鮮で知らないことの山積みでした。好奇心の私ですから嬉しくはありませんが興味深深でしたね。
野普請とも野武士とも言われたこの役には6-8人が割り当てられ、年長者が頭を勤めることにはなっていたのですが、上手下手がありまして時々生焼きを製造する、そんな最下層の野武士を志願する人はいませんでしたね。
お葬式は願人(ガンジン)が一切の指揮をしておこないます。願人は不幸の出た家の両隣と決まっていて、必ず二人、適不適があるものの、お互いに補なって何とか運営してゆく。それでも前の切れない人が願人の時は、デボウサゲ(でしゃばり)のサイチンヤキ(世話焼き)がイレジョウネ(入れ智恵)をしてテンヤワンヤ(右往左往すること)でした。
葬式での役割は、願人、大工、帳場、板場、野武士、飛脚、小走り、等々、役割や呼び名の記憶は、もう定かではなく、呼び名がまちがっているかも。
でも今日の話は穏亡、野武士です。こちらはよく覚えていますから。

さて、お葬式の役割の中で穏亡(野武士)は最下位の役割とされ、何度も続くと憤慨する人もいましてね。新人と役割で残った人が穏亡と決まっていましたが、さすがに婦人や老人には振り当てはなかった。
勿論、新入りの私は先輩の野武士の指図で火葬場までの道刈り、藁集め、お棺の運搬の準備(夏は荷車で、冬は橇(ソリ)で、そのうち軽四輪トラックになりました。冬は除雪もありまして、これらが前日の作業、運がいいと仕事は半日でかたずく、ところが棺つくりの大工さん、願人(葬式を取り仕切る)、小走り(雑用一切、家の中の片付け、家の内外の掃除、草刈など、)、板場(賄い方)も豆腐つくりまで入れて3日も勤める、これに較べると野武士の穏亡は2日、それも仕事が片付くと自分の家の仕事をする時間まである、人手の足らない見浦家では、これが魅力で野武士を志願したものです。
同じ理由で奥さんが怪我で面倒を見なければいけないSさんがいつも一緒、彼は20歳あまりも年長だったかな、藁焼き火葬の基礎は彼から学んだ。

藁焼きの基本は蒸し焼き、他の方法のように火力で焼き上げるのではない。体脂肪も利用してゆっくり白骨にしてゆく。大体3時ごろに着火して翌日の10時頃に焼きあがる、ほぼ20時間もかかるわけだ。最新の火葬場では1時間から2時間で焼き上げるのに較べると随分悠長な話だが、当時は時間の流れもゆったりしていた。

火葬の藁はただ並べるのではない。各戸から集められ火葬場に運び込まれた藁は葬儀の当日、野武士が加工する。先ず藁の小束をブッチガイ(束の方向を変える)にして長さ1メートル直径50センチ前後のわらたばを作る。束を作る時5-6箇所を藁縄で堅く結ぶのだが、これが重要で如何に堅く締めるかが藁焼きの成否を決める。これを12-15個つくる。それをお棺の下に並べる。堅く縛るのにこだわるのは、一番後に火が回るようにするため。手抜きをすると、ここに早くから火が回って灰になる。そうなるとお棺の重みに耐えかねて陥没、お棺は転倒して火力の中心から外れて生焼になる。

ある時、自称名家の主人が野武士の頭に指名された。日頃は号令をかける役を渉り歩く彼にどういう風の吹き回しか穏亡が割り当てられた。
年長とは言え火葬の技術は素人、ところが何かにつけて大将の彼は知らないとは口に出来ない。まして昔の小作人や年少者に教えを仰ぐなどもってのほか、野辺送りの光景や、人の話を思い出しながら段取りをした、一緒の野武士も人が悪い、敵討ちとばかり指導も忠告もしない。「ハイハイ」と指示されたとおりに仕事を進めたのだ。見るに見かねて「そこは、こうせにゃー」と忠告したから怒った。一回りもの違う年少者にみんなの前で恥をかかされたとばかりに「いらんことを言うな」。

見よう見まねとは良く言ったもので「野武士は野普請ともゆうての、綺麗につんであげにゃー」と藁の積み上げは見事だったね。ところが肝心の藁の台座が結びの締めが足らなかった。
台座の火の回りが速すぎて最悪事態に、翌朝、骨上げの前に見に行って生焼けを発見、急遽骨上げを午後に変更してもらったとか。勿論、責任は野武士の棟梁にある。願人と3人がかりで、焼き直してお骨にしたとか、野武士の棟梁の役が嫌われるのは、これがあるから。

ところが、どうした弾みか次回も同人が大将、性懲りもなく同じことをする。原因を探すのでなくて運が悪かったと思い込んでいるらしい。見かねて、「そんな方法では又生焼きぞ」と意見をしたら怒った。「そんなら、お前がやれ、生焼きだったどうする」「1人で始末をしてやらー、その代わり言うたとうりにやれ」「その口を忘れるな」。

それで、先輩に教えてもらった方法を忠実に再現した。でも内心は不安でしたね。売り言葉に買い言葉でのタンカですから。翌朝、明るくなるとすぐ火葬場に飛んでゆきました。お天気にも恵まれて見事に焼きあがっていた時は、1人で火葬場にいることも忘れましたね。

自称名家のご主人、「ええ具合に焼けたそうなの」と一言。次回から頭でもない私が火葬場で意見を述べても反論する人はいなくなりました。悔し紛れに彼が私につけた肩書きが”穏亡(オンボ)の大将”。
そんなこんなで火葬場での私の発言は重みを増しました。自称名家氏も火葬場では異論を挟むことはなくなりました。でも”穏亡の大将”の呼び名は定着しました。同席した野武士一同が賛成したからです。以後藁焼きの火葬が続いた間は葬式になると私の呼び名は”穏亡の大将”でした。

やがて稲の転作が始まり、藁が手に入り難くなりました。成人の火葬には最低300キロの藁が必要です。どの家でも年に1-2件ある葬式のために藁を準備して置くのですが、稲作農家が減り始めて集まる藁が少なくなりました。秤を持ち歩いて大きな農家にお願いして確保することもしました。
それに火葬の日が晴天とは限りません。火葬を完全にするために穴の底に木炭を1俵(15キロ)敷くことにしました。これは大成功でした。地面からの湿気を遮断するだけでなく、雨や雪で火力が不足する時も藁が燃え切れてからも火力を維持できて完全に焼ける。それからは生焼けはなくなりました。

話がそれました。藁焼きの話です。穴の底に木炭を1俵を広げます。その上にお棺の長さだけ堅く束ねた藁を並べる。6-7個くらいか、これが土台。その上にお棺を乗せ周りを同じ束ねた藁で固めるのです。それから藁の小束で小山に盛り上げ、天辺に藁帽子を載せて完成。家の屋根に似ているとて人生最後の普請とも言う人もいる。野に作るから野普請、だから段取りをする人足を野普請と呼ぶ人もいる。
綺麗に積みあがったところで身内の人が藁の小束に火をつけて、それで周囲に点火して退場。野武士は藁の小山に完全に火が回るまで番をするまでが仕事。火をつけたら絶対につついてはいけない。これも先輩の教えでしたね。そこから空気が入って蒸し焼きにならずに失敗すると。

やがて米つくりも機械化して秋の風物詩だった稲ハゼが姿を消しました。藁は短く切られて田んぼに放置されるようになりました。若者は都会に、移住をする家も出て人手が足らなくなりました。交通の便利もよくなって町の火葬場を利用することになり、藁焼きの火葬は小板から消えました。

お葬式を終えて、公民館で後始末をしながら、前深入山の麓を流れて行く火葬場の煙を見て「今日の煙は〇〇さんの方に流れるのー、この次はあんたの番かいのー」と冗談を言いながら故人を見送った。遠くなったあの頃、私の頭の中では、まだ昨日の事のようです。
           
2012.6.12 見浦哲弥

2012年9月2日

カナクソ物語

貴方は集落崩壊のレッテルを貼られている過疎の村、小板集落が200年前までは中国山地の中で当時の産業の一部をになって栄えたことをご存じですか?今日はその話を聞いて下さい。
 
70年前父に従って小板に帰郷した時、家の前の小川に無数の小穴が明いた黒い石が散乱、不思議に思ったものです。何しろ福井の川にも三国の海岸でもそんな小石や砂利は見たことはありませんでしたから。
友人に聞くと「カナクソ」と当然のように答えます。これがカナクソとの出会いでした。小板は川の中にカナクソという小石がある異境だった。

ところが1年ばかりして、ある爺様がカナクソを掘らして欲しいと頼みにきました。小板川が狭い山間に入って曲ったところに何枚かの小さな山田がありました。その田圃の底が現場でした。地名はカジヤ、鍛冶屋さんがあったと聞かないのに地名がカジヤ、随分不思議の思ったのですが、この地方ではタタラバと呼ぶ日本古来の製鉄所をカジヤと呼んでいたのです、お隣の松原部落にはカジヤという屋号もありました。

その田圃の底が谷川に接するところから製鉄で出た鉱滓が流れ出したのが、川の中の黒い砂利だったのです。そう言えば川底に埋まっているカナクソは赤い粉?(サビ)がついていました。鉄サビだったのですね。

例によって、この話しも父に聞きました。彼の話しでは小板には何カ所もタタラバが存在したと言います。

旧191国道沿いの前述のカジヤ、道戦峠手前の国道の向かい側、国道深入峠の深入山中腹のイシカスミ、川下のモチノキの対岸(大規模林道から500メートル?ばかり下流)の4カ所、道戦峠とイシカスミの2カ所は確認していない。
 
松原にも何カ所かあったらしい。一つはホテル「いこいのむら広島」の下流の湾曲した国道の橋を渡った斜面、ここは、この地方で最大のタタラバだったと言います。旧国道の道ばたの29人塚という大きな石碑は、このタタラバが雪崩に遭って死者が29人も出た、その慰霊のため浅野藩の鉄山師、加計さんが建立したとか。

もう一つは戦時中に勤労奉仕でカナクソ運びをしたウシロヤマ(松原自治会の所有林)にありました。ずいぶん山奥だったのは覚えていますが、もうその場所は定かではありません。

この近辺の山には100年を超す古木は数えるしかありませんでした。タタラ用の木炭にするために皆伐されたためです。良質の鉄は出来るものの効率の悪いタタラ製鉄は膨大な木炭を消費したのです。

ともあれ、タタラ製鉄は中国山地の重要な産業でした。

ところで子供の頃に家の前の川端に五右衛門風呂の3倍はあろうかという大羽釜が放置してありました。親父様にあれは何に使ったのかと聞くと、大畠(見浦の屋号)は松原地区のタタラ最盛期に一儲けを企んで、作り酒屋を始めたことがあっそうなと話し始めました。その商売が当たって酒が売れて売れて、倒産したんだと。酒が売れたのに倒産したとは何事かと、さらに聞くと職人は気前よく酒は買ってはくれたものの、支払いは勘定日払いの掛け売りばかり。おまけに流れ職人の中には勘定を踏み倒す奴が仰山でて、とうとう黒字倒産。勘定あって銭足らずの廃業をしたんだ、その名残の大羽釜だと。

酒屋では失敗してもタタラとは縁が続いて、製品の鉄を牛馬の背中につけて運ぶ人足の中継宿として道路沿いにダヤ(馬小屋)付きの農家(宿屋)を開業、自炊ではあったが干し草や藁は準備してあって、小さな中継基地の役割をしていたとか。

そんな関係で芸北地区のタタラ製品運搬の元締めだった加計の前田家と親交ができたとか、後年、ヒョンな事で、社会党の地方政治家だった前田睦雄先生に可愛がって頂く関係ができたのは、そんな繋がり(ちなみに前田先生は前田家の跡取り)。


昭和19年、そのカナクソが脚光を浴びました。

高性能で恐れられた零戦が敵地に不時着したのです。それを無傷で手に入れたアメリカ軍は徹底的にしらべて盲点を掴んだのです。それは軽量化の為に防弾板を積んでいないことでした。後ろからパイロットを狙えば簡単に撃墜できることを知ったのです。

アメリカ空軍の新しい戦術に零戦の被害は激増したと記録にあります。その対策として軽くて強靱な防弾板に使える高性能の鉄板を探したら、加計町にあった帝国製鉄のカナクソと木炭を使った鉄板が最適と判明したのです。それから国の要請で大増産が命令され、この地帯にてんやわんやの大騒動が始まったのです。

それまでは小遣い稼ぎにと細々と続けられていたカナクソ掘りが、役場から何月何日まで何貫匁(1貫目=3.75キログラム)掘り出せと集落に命令が来る。鉄よりは軽いもののカナクソは重量物、道路に近いタタラ場跡しか採掘していなかったのが、それでは割り当てをこなせない、山の中のタタラ場も掘り返されましたね。道路から1キロや2キロも離れたタタラ跡からトンノスという負い籠で運んだのを覚えています。さすがに4キロ離れたモチノキのタタラ場は無傷で残りましたが、場所を知っているのは私以外にあと何人いますか。

むちゃくちゃな戦争ですから子供達も動員されました。高等科(今の中学生)の生徒も駆り出されました。学校のある松原で山の中から負い出しました。遠くて重くて道路脇の集積場に降ろすと秤で計って、「お前は後、何貫運べ」と命令されてへとへと、それから小板まで7キロを歩いて帰る、気が重たかった、たしか家に帰った時は真っ暗でした。


まだありまして、燃料の木炭も大増産。帝国製鉄の木炭は聖湖から丘一つ越した、中ノ甲という三段峡源流の原生林に、大勢の人間が送り込まれての木炭作り。学校があって、お店もあって、集落ができていまして、木炭は出来るのだが、そこから加計の工場まで運ぶのが大事業。砂利道の1車線の山道を製鉄所まで約50キロ、木炭ガスの小さなトラックがダツというモッコの親玉に詰め込んだ木炭を山積みにして運ぶ。3トンか4トン、それよりも小さかったか?

それでも木炭運びのトラックはガソリンの特配があった。急坂にかかるとエンジンにガソリンを足してやる、そのお陰で何とか急坂を越えてゆく。民間のバスはそれがない、登りで満員だったら動かなくなる、男のお客さんは降りて歩く、登らないときは後ろから押す。そんな情勢の中でも精神力でアメリカに勝つと、竹槍訓練。信じた国民も馬鹿だったが、それを命令した東条首相は靖国神社に祭られて代議士が参拝する、何かおかしいとは思いませんか。

あれから70年近く経ちました。子供の頃に見た川の中の黒い砂利は珍しくなりました。やがてカナクソ物語を話す老人もいなくなります。その時はこの文書だけが黒い石の由来を話すことになるのでしょう。

さからう事の出来ない時の流れ、過ぎた時間の向こうからの私の話に、耳を傾けてくれるのは誰かな。

2012.5.18 見浦 哲弥

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