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2023年2月18日

ねこやなぎ

2021.1.23 まだ厳寒なのに先日から冷たい雨が降る。冷たいと言っても雨は雨、昨日今日と雪が減って重い雪に変身した。今日は堆肥置き場の除雪でカッパを着ての作業、時はまだ1 月、春は遣いから、まだネコヤナギの蕾は見えないはずと小川を覗いたら、小さな白い蕾が伸び始 めていた。自然は春を忘れてはいないなと少しばかり心が暖かくなった。

最近は天気予報も正確になって、ほぼ1 0 0%近く当たる。私の子供の頃はラジオの天気予報よ り下駄を放り上げて、その表か裏かで判断をしたほうが正確なんて失礼なことを口にしたものだが、最近は降り初めの時間から雨量まで、ほぼ正確に予測する。もっとも日本の地形は複雑で局所的な予測の誤りは防ぎようがないが、昔を知る人間の一人として100%の信頼を置いている。

その天気予報によれば月末にもう一度、寒波が襲来すると云う。積雪で遅れた仕事が山積している身としては悪天候はなるべくこないで、私の健康維持に協力して欲しいと厚かましい願いをしている。

そこに膨らみ始めたねこやなぎの芽、こりゃぁエエことがあるかなと思ったり、衰える体を考えて春にはたどりつけないなと悲観してみたり、人間は弱い生き物である。 

しかし、自然は人間の思惑には関係なく粛々と時を進める、残った時間が判明しない私はプラスに考えたりマイナスに悲観したり。

 独り寝の私は最期は一人でだ旅立つ、その覚悟は出来ているが、本来は気の弱い私はちょっぴり寂しいだろうなと、考えたりして。 

でも精一杯生きたっもりだ。自然がご褒美に春風の時までの時間をくれないかなどと、儚い願いを持ってはいるがね。

小板の春は素晴らしい。あの爽やかな春風をもう一度味わうことが出来たら、望むだけなら誰にも遠慮はいらないはず。 

ねこやなぎの芽が大きくなり始めた。老人の堂々巡りの考えをよそに、自然の時は休むこを知らな い。 

2021.1.23 見浦哲弥

春風

あと10日で2月である。2月の10日にもなると、一瞬温かい風が吹いて、春遠からじを期待する。それがあと10日の我慢である。今冬は仕事が何もかも遅れて季節に追われどうしだった。従って心にも体にも余裕がない、おまけに老齢と病後の体力低下が相まって作業の能力低下がおびただしく牧場の戦力にならない、そんな無力の私だから後何日で春風が吹くと、ひたすら それを期待している。

ところが神様は中々のひねくれ者で我々凡人の願いとは反対のことをなさる。今年は最近にない降雪で辛うじて準備が間にあったスキー場には恵みの雪だったが、仕事の遅れた見浦牧場には最悪をもたらした。おまけに老人の私の体調はこの冬を乗り切れるかどうかが紙一重の状態にある。肺炎の後遺症、ヘルペスの不安定、その上ヘルニアときた。こんな状態にコロナの恐怖まであって、直近の生きる目標は誕生日までだが後32日もある。どうも人生の終わりは穏やかには行かないものらしい。

今日は1月20日、快晴だが気温は低い、対策がしてある水道も凍った、最近は暖冬が続いて小板にとって有り難い傾向と喜んでいたが自然はそんなに甘くない。久方ぶりの厳寒がやってき た。寒いなと屋外の寒暖計を見れば零下1 0何度、それが日中だからたまらない。もっとも小板で体験した最低温度零下24, 5度、あまりの寒さだったので忘れられない、冷たいのでなくて 痛かったね。 

だから小板の春風は極楽の風と待ちわびる、小春日和の小板はまさに天国、その天気が1年中続くなどは夢のまた夢だが、人の性で、その夢に限りなく憧れる。

先日、亡くなったS川君の口癖は「小板はええ所で」だった。私も同感と何度も話し合ったものだ、冬がなければね。

小板の春は彼の言葉どうりの極楽、しかし、まだ当分は冬将軍は立ち去らない、気弱になった老人がひたすらに春を待ちわびているのに。 

2021.1.21 見浦哲弥

2022年11月23日

カイツブリ

牧場の沈殿池に飛来して来たカイツプリ、小型な水鳥が13羽が小さな池を泳ぎ回るのは愛らしかった、幸い見浦牧場は養鶏業ではないので、鳥インフルエンザにはご縁がない、伝染される心配はないので安心して可愛いねと言う、素直に眺めることができる、牧場に住み着いているカラスたちが餌にはならないかと狙うのだが、さすがのカラスも水の中では手が出ない、池の周りを取り巻くだけ、おまけに飛行速度はカイツブリの方が早い水面から飛び立てばカラス何をするものぞである。

ところが養鶏場に水鳥が伝染すると伝染病のウイルスが蔓延、鶏が死だのでと検査を受けると渡り鳥が運んだ鳥ウルスと云うことで全部の殺処分、そして埋設の報道がニュースソースにのる、越冬のため渡来する水鳥がウイルスの運び屋では対策が大変である。

最も偶蹄目の牛も野生のイノシシも偶蹄目、牛の伝染病が発生すると彼等が運び屋になると云うから、見浦牧場のような放牧形式の飼育牧場では全滅の可能性が高い、近隣に牛の飼育場がないのが唯一の頼みの綱、一種の神頼み、物事は簡単には成功させてはくれない。

牛も口蹄疫などウイルス由来の伝染病があり、何年か前、熊本の周辺で蔓延、全頭殺処分が行われた、あの時はひたすら中国地方にはこないことを祈ったものだ、放牧経営の見浦方式は伝染病には弱い、流行すると、即、羅患、全頭処理の憂き目に合う、他人事ではない。

しかしながら、野生の鳥獣を全滅させて対策するなど言い出す奴が出ないのは、人間にも常識があると云うことか、地道な消毒管理で可能性を少しでも少なくする、その努力の積み上げしかないのだ。

従って牛の伝染病に関係のない、カイツプリは降雪寸前の風物詩、5面ある沈殿池を渡り歩いて厳冬の雪の到来で水面が見えなくなるまでの時間をこの集団が羽を休める、カラスと違って愛らしい姿で水面を泳ぎ回るのは一服の絵である。

小板は厳しい気象条件の中にある。都会の快適な生活環境とは程遠いが、目を凝らせば都会人が見ることのない自然があり、生物の営みがある。その価値を認めるか、認めないかで地域への愛着心が違ってくるのだと思っている。小さな風物画のカイツブリはその自然の贈り物の一つ、しかし、間もなく厳しい冬がやってくる。それが過ぎて温かい春の日が小板に訪れるまで、凍らない水面を探して姿を消すカイツブリ、温かい春の日差しが戻って来て、彼等が北の故郷にもどる前に見浦牧場を訪れてくれる日を思い浮かべるのだが、私の命がそれまで続くかと言われると?マークになる。私も年老いた、愛らしいカイツブリの集団が泳ぐ姿を見れるか否かは神のみが知る、できれば小春日和の日にもう一度会いたいものだと願っている。

2021.1.10 見浦哲弥


ひらべ

2015.8.20 早朝、牛を飼いに牛舎に行く途中、道沿いの小板川にひらベ( ヤマメ )を見た。青年時代、水眼(水中メガネ)を片手に水中ホコを持って追っかけた魚だ。私は不器用でね、三国ではテンガマ(手長エビ)を追いかけて竹田川の浅瀬を水眼で探し歩いたものだが、なかなか取れなくて、中型の1匹をゲットしたときは嬉しかったね。ただそれを食べる方法を知らない。大家のお婆さんが食べないのならくれろと云うので差し上げたが、あの三国での川遊びの記憶は今でも鮮明で、80年の時の流れを経ても昨日の出来事のようだ。

小板に帰って大畠(見浦家の屋号)の家の前の小川は深入山から流れ出る水、清川で都会の少年の好奇心をそそる世界だったね。

小板川は三段峡に流れ込む、その流れ口が高い滝でね、本流から小板川に魚などが遡上できない、それに気づいた地元の青年たちが三段峡で釣った魚を小板川に放流したのだと聞いた。私が帰郷した頃は臥龍山にも途中の滝のため魚が遡上できないところが幾つかあって、あの谷は私が、この谷は俺が放流したと云う人の話を聞くことが出来た。小板の魚たちには少なからず人の手が加わっているのだ。地域にはそれぞれの歴史があるものだと興味を持った最初である。最も同じ川の住民でも亀さんは足をお持ちで、雨降りの日、自力で道路によじ登ってくる強者、一度発見して捕まえた。うなぎは雨降りの日、坂の小道に小さな水流が出来るとそれを利用して上流によじ登るのだと、餅の木の先輩から聞いたことがある。しかし、小板川の合流点は急すぎてそんな登り口はない。従って小板川ではうなぎは見かけたことはなかったね。もう一つ不思議なのは生活力の強いウグイを見かけないことだ、同じ仲間のドロバエ(アブラハヤ)は多いのにね。

開話休題、中でも美しい、ひらべ(ヤマメ)は宝石に見えたね、横腹の紋様に魅了されてね。それでホコ(ヤス)と水中メガネで追いかけたのだが、敏捷な魚でね、町場の少年の手には負えなかった。時たま捕まえた時は嬉しくて、塩をつけて焼いたら格別な味で、感激したものだ。

臥龍山に六の谷と云う渓流がある。松原川が空城から滝山川に流れ下るところから分流して上空城を遡る、そして人道から離れて山中に消えるのだが、2-3キロ先で大きな滝に出会い乗り越えて、向きを変え臥龍山の頂上を目指す、それが六の谷。この川も滝が大きくて魚が登れなくて、先輩が放魚したのだとか。魚影の濃い川でね、よく箱眼鏡と水中ホコを持って魚とりに行ったものだが、熊の棲家が近くにあることに気付いてからは恐ろしくて行けなくなった。しかし、大きな岩の陰の巨大なひらべの魚影を見た時は興奮したのを覚えている。

小板の川はひらべとゴギ(イワナ)の棲家、ゴギは薄猛な魚で小さな蛇をくわえて泳いでいるのを見たことがある。ゴギも美味しい魚だが敏捷で町場の少年には捕まえることが不可能に近かったね。

河川改修とて護岸を改修してからは小板川の魚影は極端に薄くなった。辛うじてヒラベとドロバエは散見するが、ゴギも、テンギリも、イモリも姿を消した。コンクリートとブロックで固めた護岸は彼等の隠れ場所を激減させたのだ。おまけにアオサギやシロサギが足繁く訪れて川をあさる。隠れ場所が少なくなった小板川は格好の餌場になったらしい。

私が帰郷して80年、小さな小川の小板川も変貌した。そして昔を知る人は私を含めても1-2人か、少年の頃の小板川は老人の記憶のなかで消えつつある。

2021.1.6 見浦 哲弥

#書きかけだった文章をようやく仕上げました。


2021年10月18日

小板の雪景色

小板の冬は、おおよそ2月の10日がピークである。12月の終わりから、ひたすら寒さに向かって走り続けた冬将軍が一息をつく、それが2月の10日頃、昔の小板の住民はひたすら体を小さくして冬将軍のご機嫌を損じないようにと、その日を待った。時折、無謀にも「何を」と挑戦して事故につながった人もいて自然は非情である。私の知る限り近辺で雪で死亡の悲劇をもたらしたのが2件あった。かく云う私も死の直前まで追い込まれた事がある。大自然の前には私達は本来は無力なのだ。

私は福井市の生まれで三国港で育った。彼の地も雪国で雪は珍しくないが雪質が違う。標高のせいなのか、海が近いせいなのかは知らないが、小板に帰っての冬は異常な体験だった。人生の殆どを過ごして厳しい小板の冬が私の常識になったのだが。

貴方は雪の結晶をご存知だろう、六角形の見事な結晶を。雪国でなくても雪が降れば見ることができる。ところが雪片に目を凝らすと見る見る溶けてあの見事な造形をはっきりとは確認できない。結晶が六角形であることぐらいは見れるが写真で見る鋭角の美しい造形は運が良くても一瞬で消え去る。

ところがここ小板では中国山地の北面を駆け上がってきた水蒸気が低温と低湿度のお陰で見事な結晶を披露してくれる。その六角形の芸術品は数々の造形の違いを演じて、雪国の寒さを一瞬忘れさせる。寒さの厳しい日は結晶が崩れるのが遅くて次々と現れる造形に時間を忘れたものだ。

貴方が早起きなら新雪の雪面に様々な生き物の足跡を見る。その形で昨夜の動物たちの行動を想像する。雪に覆われた世界は動物たちにとって生き残りゲームの壮絶な戦い、しかし私達人間は足跡から動物を想像し、彼等の行動を想像する。その生き残りゲームの足跡から、こっちも負けられないと気力を振り絞る。静かな早朝の新雪は命の戦いの厳しさを伝えてくる、そんな視点で足跡を見てやってほしい。

早朝、一面の銀世界は雪国ならどこでも同じ、ではない。地形や気候、高度、湿度、温度で様々に変化する。冬も日毎に新しい側面を見せる。それを感じ取るか、取らないかで、貴方の思いも変わるだろう。都会は住みやすい、小板は住むには様々な困難がある、 しかし、目をこらせば貴方の知らなかった一面を持っている、住む住まないは別にして、貴方の知らない小板の自然を見て欲しい、これは都会で育ち、小板で人生を送った老人のささやかな願いである。

2020.12.14 見浦哲弥

 

2021年2月16日

ツクツクボウシ2

夏の日、小板の自然はアブラゼミの大合唱である。暑い暑いと言いながら時を忘れて仕事に精を出す。タ方ふと気がつくとセミの声の中に微かにツクツクホウシと秋の前ぶれの声が交じっていた。

今は河川改修で消え去って偲ぶべきもないが、うまれ故郷の三国の九頭竜川と竹田川の河口の交点にあった汐見の桜堤防、夏はアブラゼミの大合唱だった、遠い遠い少年の記憶が昨日のことのように蘇る。あの大合唱には及びはないが、小板でも同じセミの合唱は聞こえる。そのセミの声にツクツクボウシの声が交じると、季節は一気に秋になだれ込むのだ。それを聞くと冬近し、小板の一番の厳しい季節が目前と身構えるのだ。時間は止まることはない、いや高齢になるにつれて時間が高速で過ぎてゆく、残りの時間は少ないよ、と声をかけながらね。

ツクツクボウシの鳴き声の時間は短い、何日かして、ふと気がつくともう聞こえない、時は急速に秋になり、冬に走りこむ、そこで若かりし時代とは時間の流れの速さが異なることに気がつく。二度とない時間が去る現在の感覚は体験したことのないもの、長い地中での生活の末、晴れやかに命を歌った蝉たち、彼等の地上の時間も短い、そして私も振り返れば短い命だった、精一杯生きたのだろうかは自信がない。

夏のひと時、ふと耳に止めた蝋の声が心に染み込んで幸せを感じている。

2020.09.26 見浦 哲弥


2021年2月3日

巨大な猪家族

元スキー場の草刈りで巨大な猪家族に出会った。50メートルも離れていたかな。巨大な成獣のペアと仔猪が4頭。人間がいると確認しても逃げないのだから、小板も野獣の天下になり初めた。仔猪は懸命に餌探しだが、巨大なペアは時おり顔を上げてこちらを確認をするだけ、人間のほうが飲まれてしまってね。本来ならトラクターに飛び乗ってその場を離れるべきなのだが、奴さんたちの行動に注意を集中してしまって、彼等がやぶの中に消えるまでをただ見つめるだけ。消えてから危ないと感じたのだから私ももうろくした。

小板も豪雪の時期が過ぎて暖冬が続くようになった。そのせいで昔は見なかった動物までご機嫌伺いにやってくる。サギもその一つ、アオサギとシラサギが二羽か三羽、お陰で小板川の小魚は激滅してたまにしか見かけない。少しは遠慮してくれと声をかけたくなる。

ただ、あれほどいた兎は見かけなくなった。冬の朝は彼等の特徴ある足跡が雪面一杯に広がっていたものだが、最近は年に1一2匹見かけるだけ。ところが猪はバツグンに増え、牧草地を初め道路端まで、およそミミズがいそうなところは徹底的に掘りまくる。普通の田畑は電柵を設置しないと収穫皆無になるありさま、おまけに日中でも見かけることが多くて、人間何するものぞの勢いである。これでは年老いた住民が集落から逃げ出すのも無理はない。

ところが小板で見かけるのは、この一家族だけでない。我が家の近くでも5頭のウリ坊(縞模様の残る仔猪)を連れた一族を確認したと家族が報告、とんでもない非常事態が発生しているのだ。

かっては2-3人もの猟師がいて獣を追い回していたのに、老齢化で一人もいなくなってから小板は彼等の天国と相成った。少数になった人間様は被害におののくだけ、幸い事故は先年、熊に引っかかれた1件だけで、幸いと云うしかない。

さて、見浦牧場はこれからこの野獣たちとどう付き合ってゆくのか、老人は大いに気がかりである。

2020.09.26 見浦 哲弥


2021年1月18日

星の瞬き

小板まきばの里キャンプ場の淑子くんがミニキャンプ場の報告に来た。試験開業の結果が思いのほかの反響で驚いたと。

その中で小板の星空の美しさにキャンパー達が感心していたと。最近の都会は不夜城のようで、夜でも煌々とライトに照らされた夜空はただの暗黒のカーテンに過ぎない。勿論、月や光度の高い星々は存在を訴えてはいるものの夜空は寂しい。地球は天の川星団の中に存在する。本来の夜空は満天に無数の星々が輝いているのだが、都会の住民にはそれは見えない、そして忘れがちになる。

都会の発展で夜空の暗黒が失われ、周辺の住民も反射で輝きを失った夜空では無数の星々を確認することは不可能になったが、夜空の星が見えなくても人間の生活には直接の影響はない。いつしかそれが当たり前になって神秘的な満天の星空は都会人の意識の外になった。

ところが、小板まきばの里キャンプ場で夜空を見上げると、そこには別の世界が広がっている。深入山と臥龍山に挟まれた小板は谷底ではなく小さな高原、都会の明かりの影響は全く無く、晴れた日は昔の夜空を再現してくれる。天の川銀河をはじめ、無数の星々が自然そのままの夜空を演出しているのだ。

もう何年昔になるだろう、貴方は百武彗星が地球に接近したのを覚えているだろうか。小さな碁星だったが長い見事な尾を引いて、小板の空一杯に広がった見事な天体ショー、都会の明かりの影響のない小板だから見られたショー。息子の和弥が、これが見られるということが何百万円の価値があると言うことを小板の人は誰も知らないと嘆いた。昨日のことのように覚えているが、小板の住民の話題にはならなかった。

小板まきばの里キャンプ場のお客さんが小板の夜空が素晴らしいと歓声を上げたと聞くと、自然がまだ一杯の小板に限りない愛着を感じる。自然の素晴らしさを再発見してくれる都会人に大きな共感を感じる。思わぬ共通点の発見に次の世界を夢見る見浦牧場、その未来を私の残り少ない時間でどこまで見ることが出来るのやら、痛感するのは人の命の儚さである。

2020.8.18 見浦 哲弥

 

2021年1月16日

ツクツクボウシ

仕事に追われて気がつくとツクツクボウシが鳴いていた。長い梅雨が晴れてミンミンとミンミンゼミが鳴いて、やっと夏が来たと思ったら、ツクツクボウシ、お盆近くで、はや秋が気配をみせた、それがツクツクボウシの声、それでも塩辛トンボは飛んでも、まだ赤トンボの大群は姿を見せないから、もう少しは夏があるのかな。

振り返ると70年前のこの頃は、向深入で野草の干し草刈りの真最中、草刈鎌一丁で刈り取りから、転草(裏返しにする) 、草集めまで手作業、出来上がった干し草を背負って山腹の急坂を道端まで運ぶ、そんな重労働の連続だったな。元気盛んの青年でも辛かった仕事でね。お盆が過ぎると晴天が続く日がなくて毎日通り雨ががやってくる。お陰で折角の干し草が牛が食べない敷科となって残念がった遠い違い日の思い出が蘇る。

小板は中国山地の小さな集落である。戦後ようやく訪れた平和でも広島から小さなバスで4時間も5時間もかかる超山奥、日に2本のバスが都会と結ぶ、たった一本のラインだった。なにしろ電話もなかったから役場と連絡するのも1日がかり、病気になったら大変だった。そんな超辺境の地だった小板には、自然だけは一杯だったね。

雪が降って、春が来て、夏がタ立を連れてきて、そして田園が稲穂で色づいて、そんな自然の営みが当たり前のように続いていた。よく見れば微妙に変化はしていたのだが。そして今年も最高の気温の猛暑のときが過ぎようとしている。それを教えてくれる一つがツクツクボウシ。

忘れがちな時の移ろいを教えてくれる自然、そして我が身の老いを痛感させられる時間、そして、よく生きたなと感慨にふけっている。

2020.8.15 見浦 哲弥


2020年10月29日

カラスのボス

 見浦牧場の西側は小さな小山である。四方を見下ろせる小山の松林はカラスの絶好の宿泊場所、いつのころからかカラスの大群が住み着いた。考えてみれば三段峡をはじめとしてキャンプ場、深入山や刈尾山の登山道等、都会人が集まるところが近辺にある。カラス君にしてみれば食事には大変都合がよろしい。おまけに都会人が少ない日には牛舎に侵入して牛の餌を盗食、天国だとのたまう。人間様には大迷惑なのだが、カラス君は馬耳東風、いやカラス東風で傍若無人である。

この地方の三段峡をはじめとする都会人が集まる場所は、厳しい積雪期が過ぎるとカラスどもの恰好のレストランに変化する。目ざとい彼らは好機到来とばかり観光地を周るツアーに出発して見浦牧場のカラスも激減、10~20羽で安定する。それでもいたずらはやめないが冬期のようなすさまじさはない。スカベンジャーとしては我慢の範囲内である。

10月13日、カラスの軍団の一部がご帰還である。総勢50羽ぐらいか、ここは俺たちの餌場だとて子牛の餌に群がる。人間が折ったぐらいではびくともしない度胸の持ち主たちである。この春はノフウド(生意気、やんちゃの意)なサブリーダを罠で捕まえて見せしめにぶら下げてやったら、彼らもしばらくはおとなしくなったのだが、もう記憶の彼方に消し去ったらしい。また思い知らせてやると老人は唇をかみしめる。

そして来る雪、伴ってカラス軍団の本体も見浦牧場にご帰還になる。また切歯扼腕(せっしやくわん:悔しいがどうすることもできないこと)して悔し涙を流しながら雪解けを待つことになる。自然はいいことばかりではないんだ。

おい、カラス、俺は年は取っても無抵抗になったわけではない、覚悟していろよ。

2019.10.13 見浦 哲弥


2020年6月18日

暖冬

積雪がほとんどなかった暖冬の冬だったが、3月も半ば過ぎになって時々は冬景色を展開する。昨日の春景色が、今朝は一面の銀世界、ネコヤナギの芽はもう春ですよと告げているのにである。

ともあれ私の体験したことのない冬だった。梅は咲いたし桜も早咲きの知らせがあるのにね。

地球温暖化が叫ばれてから久しい。最初はこの大きな?地球が人間が化石燃料を少々焚いたくらいで気温が上がるなど、たわけたことと笑い飛ばしていたものだが、私の子供の頃の何メートルの積雪も徐々に少なくなって1メートル前後、冬も楽になりましたね。が、今年は40センチの積雪が3-4日でゼロに、過ごしやすいと言えば有り難いが、何やら空恐ろしい、と思っていたところに新型コロナウイルス、老人の死者が続出して世界は大混乱、これも地球温暖化のせいか。脳天気な日本人も抵抗力の少ない老人や虚弱者の死者が続出するにつれて、大変だ大変だと大騒ぎになった。日本だけでなく世界中がね。

現在日本は世界の長寿国、平均寿命が男性82歳、女性88歳。だが、このウイルス騒ぎで平均寿命は確実に下がる、何歳になるかは神のみぞ知るではあるが。高齢者の私も、そんな関係で新聞の死亡欄には眼が止まる、私より長寿の人が何人死んだのかとね。普通は30人位の死亡者の中で89歳以上は2-3人位、勿論、 90何歳の人も散見する。友人のY君は95歳だから頑張っているねと感心する、もっとも同級生は全滅したそうだが。春が来て彼が小板の別宅に元気で帰って来てくれると私も目標ができて張り合いがあるのだが。

現在、この集落では私が最長老、今度はあいつと誰もが予則しているのだが、意地っ張りの私は足を引きずりながらトラクターに乗っている。乗り降りには悪戦苦闘なのだが、そこさえ見られなければ、あいつは元気だなと感じるらしい。本人はお迎えも近いと予感していて、長寿の仲間が少ないので寂しい限りなのにね。

しかし、人生の終わりは誰もが経験するのだが、その瞬間の話をする人はいない。当然である、一度死んで蘇って次の世界の話をする人など、聞いたことがない。宗教界の人達は様々な次の世界の話を見てきたように話すが、それぞれの空想の世界、説得力がない。それを信じる信じないは個人の自由だが、船坂さんや福住の姉さんに、本気でどう解釈をしているかと迫られて、返事に窮したことを思い出す。まして、その最後を私の返事どうりに実行されて、私には大きな精神な重荷になった。

しかし、長い雪の下で苦開する生活を経験した身には、暖冬は大きな贈り物である。そして私は新しい春を迎えることができた。せっかくの自然の大きな贈り物、どういう結末かは知らないがもう少し頑張ることにしたんだ。

2020.4.8 見浦 哲弥

2020年2月8日

朝霧

2019.4.19 ほのかな朝霧だった。深入山の峰が霧の中から浮かんで、所々、咲き始めの山桜が白雲の中から顔をだす。桃源郷と呼んでも惜しくはない風景だ。息子の和弥は、これがあるから、ここに住む値打ちがあるのだと宣言する。ところが世の中は物質至上主義、物、金、名誉、必要や実用に関係なく欲望の大展開である。私の住む小板は自然のオンパレード、その中で「これがあるから田舎は辞められない」とは、息子の至言である。

小板の生活環境は厳しい。幼稚園も小学校も20キロの彼方になって、中学校も30キロの距離を役場指し回しのタクシーが迎えに来る。小板にもあった小学校の分教場、中学校が消えてからもう何年たったろうか、記憶も定かではなくなった。幸い小学校の校舎は集落が払い下げを受けて僅かに面影を残していて住民に昔を偲ばせてはいるが。

しかし、人は減って、ささやかな賑わいも減って、寂しくなった小板、それでも自然の素晴らしい風景は昔日と変わらない。心ある人にしか届かないのが残念だが、古い住民は「小板はええーの一」と去りし日の記憶を新たにする。

どんなに世の中が変わっても小板の自然は地球が続く限りそこにある。それを感じる人が住む限り、この素晴らしい風景には意義がある。生きることの素晴らしさという意義がね。

小板の厳しい生活環境は引き換えに自然の素晴らしさを贈り物にしてくれた。友人の「小板はええーところで」のセリフには私も同感である。

前深入の山腹をためらいながら白雲が登ってゆく。この風景が見られるのは今度は何時だろうかと思いながら見送るのだ。

2019.4.19  見浦哲弥

2019年7月18日

稲刈り

秋、今年も稲刈りの季節がやってきた。お向かいのS家では3連休を利用しての稲刈イベントのために、兄弟、子供、孫たちー族が集まった。住居横の広場に6-7台の自動車が整列するのは壮観である。しかし、今年は期待の連休が雨で始まった。従って折角の一族の集合が時間つぶしで過ごして3日め、ようやく到来した晴天に、10アールばかりの田圃に機械と10人ばかりの大人が殺到し、あっと云う間に終了、夕方には自動車の一群は姿を消した。例年はノンビリと時間をかけて楽しむ行事が都会のあわだだしさで追われて、収穫を祝うこともなく終了とは傍観者にも寂さが伝わってきた。

わが小板には盛期20ヘクタールの水田があった。小さな盆地とはいえ黄金の稲穂が山の麓まで続いて、水があるところは全て水田だった。早春の緑、10月初めの黄金色は大切な我が故郷の風景のひとつだったのだ。 あれから80年近く年月は過ぎた。旧国道を松原側から走って小板集落に出ると一望の山村が出現する。牧草地あり、稲穂の揺れる水田あり、深入山と苅尾山とに挟まれたミニ盆地小板の、”ほっと”する風景である。その風景もさらに500メートルも走ると無残にも朽ち果てた農家や荒れた水田が目に付き始めるが、今日はそこまでは目をやらないことにしよう。
中国山地の集落が無住となって人影の消えた家々が山林に帰り始めてずいぶんになる。往年の姿を知る私達も気づかずに通り過ぎる杉林の中にも目を凝らすと田圃の石垣が見える。せめてもの故郷のしるしにと整備された墓所もある。そんな寂しい風景が、そこここに見える中国山地だが、ここ小板の入り口の風景は中国山地はまだ生きていると訴えているんだ。

閑話休題、稲刈りの話だ。作付けは10アールと50アールの2軒、最近は稲作りも近代化と
様々な機械が登場、田植えが機械なら、除草は農薬、稲刈りは刈り取りと同時に脱穀を機械がやる。稲を乾燥するイナハゼは遠い遠い昔となって老人の私には異次元の世界になった。それでも今の稲作を伝えたいとS家でもO家でも子供や親類を集めて春の田植えから秋の稲刈りまでの実演イベントを開催する。S家の小さな田圃の作業は人と機械でアッと言う間に終了。一方のO家では田起こしと堆肥撒き、畦草刈りは、都会住まいの当主が子供や孫を引き連れての農作業だが、田植えと稲刈りは耕作会社に委託して大型機械がやってくる。従って、これも一瞬で終了。眺めていると何日も腰を屈めて泥田を這い回ったのは夢だったかと思うのである。

しかし、一方の荒れ果てた田圃を見ると華やかだった子供の頃の小板を思い出す。ちいさな集落にも大勢の人がいたな、いたずら仲間の子供たちも十分な数でね。80年近くの年月で何もかも変わって、少しばかりの稲刈りでもを見ることが出来るのは幸せの一つなのだと。

ともあれ小板の稲刈りは終わった。出来ることならば来年も再来年も、この風景が続くことを願っている。それが長い年月を小板で暮らした老人のささやかな願いでもある。

2018.10.26 見浦哲弥

2019年6月22日

今年も燕がやってきて

2019. 5. 16 今年も燕がやってきて、ここが私の定席とばかりガレージの天井に営巣、それを我が家の猫くんが乗用車の屋根から良き鴨と狙うという恒例の活劇が始まった。勿論、数が減ったツバメ君、猫やカラスの餌食にしてたまるかとネットを張って対策をしたのは言うまでもない。

昔はといっても茅屋根の時代だが小板にも燕が沢山やってきた。春先まだ残雪が残っているのに燕が春が来たかと偵察にやってくる。「燕がきた」は、まだ春遠しと思っていた住民に春は其処まで来ていると告げに来てくれた。害虫退治のツバメ君に好意を持つ農家は早速木の枝と藁で営巣の台を作って高い囲炉裏の天井から吊り下げる。当時多かった青大将君が卵を狙ってやってくるから燕と人間は共闘するのだ。燕も営巣するため安全には知恵を使うんだ。そして春先から秋の訪れの匂いがするその日まで小板の空で燕が昆虫を追い回す。彼らの餌の中には農業の害虫も少なくない。従っていたずら専門のカラスと違って燕は農民の友達で人間の住居の近くに営巣する。そして子育てのドラマを演出してみせる。泥土と藁や枯れ草の巣作りは小さな体の燕夫婦が懸命に働いた成果、そして人間と燕が協力して夏を演出、南の国へ旅立つ日まで小板の空の燕は風物詩の一つなんだ、懐かしい遠い思い出も蘇る風物詩なんだ。

その貴重な燕君、巣作りをして、抱卵をして、子燕の黄色いくちばしが覗いて、黒い頭が親が運ぶ餌の取り合いをする頃にやっと何羽孵ったとわかる。今年は4羽だった、5羽だったとね。育ち盛りの子供の餌のために親鳥夫婦は早朝から夕暮れまで休む暇がない。懸命な姿は自分たちの子育てを思い出す。「我ながらよく働いたな」と、それが生き物の宿命なんだなーと。

6.16 5羽の子燕が巣立った。猫にもカラスにも襲われずに無事にね。昨年は片親が死んで1羽で懸命の子育てだったが、いかんせん力不足、栄養が足りなくて巣立ちに落下して飛び立つ力が足りず、無残にも何者かの餌食になった。そんなこんなで電線に5羽の子燕が止まって、親燕の餌を待つ光景は心があたたまる。餌を運んできた親ツバメがロ移しをしないで「ここまでおいで」と空を飛ぶ訓練をする。まるで人間の家族を見るようだ。子燕が自分で餌が採れるようになると親ツバメは次の子育てに入る。秋の大旅行の前にもう一度の子育て、急がないと南へ海を渡る体力の2番子は育たない。生き延びるということは大変なことなんだ。

毎年繰り返される小さな小劇場、でも素晴らしいドラマ、今回は大成功だった。次も成功裏に終わるよう今から祈っているんだ。

2019. 6. 18 見浦哲弥

2018年6月18日

足跡

 雪国の朝は足跡から始まる。と言っても人間の足跡ではない、動物たちの足跡である。

新雪に刻まれた足跡は雪国の少年の空想をかき立てた。二つ爪の足跡は猪、2つ揃えて並べるのはうさぎ君、5つ爪痕を残すのは狐君と狸君と貂(てん)の皆さん、足跡の大きさで大体の種類がわかる。油断がならないのが5本爪の大きな足跡、熊君である。冬は冬眠しているはずだから滅多には出会うことのない足跡だが秋口の脂の蓄積が少なかった個体は雪があるのに出張してくる。これは空腹で気が立っているから危険この上もない。昨年の冬の終わりに猪の餌場を荒らしていた。その足跡は山里は平和ばかりではないぞと教えていた。

とはいえ厳寒の早朝の足跡は寒さの中での生物の生き様を伝えてくる。静かな凍りついた空気の中にも生き物の生存競争を伝えてくる。そのささやかな証の一つが足跡である。

しかし、住民が減るに従って足跡も少なくなった。住民の生活残渣も彼等の生き残りを助けていた証だったのかもしれない。ともあれ私の子供時代に乱舞していたウサギの足跡は少なくなった。代わって狸君が増えたようだ。栄養失調で倒れる子狸が例年3―5頭にのぼる。田圃が1/10に減ってカエルや蛇などが激減しているせいで動物性タンパク質の不足が原因らしい。牛の餌は植物性のタンパク質のみだから、いくら盗み食いをしても体力は回復しない。そして死、生きるということは野生でも厳しい。昔は動物の死骸はキツネくんの貴重な餌で人目につくことはなかったのだが、最近はその掃除屋さんの減少で死体の処理は人間の仕事ということに相成った。住民の減少は動物の足跡にも影響を与えている。

2018.3.11 見浦哲弥

2018年6月17日

前に深入、後ろに苅尾

島津邦弘先生の著書”山里からの伝言に”見浦牧場”の一文がある。
西中国山地の一角、優美な山容を見せる臥龍山(苅尾山)と深入山の間に開けた、標高700メートルの高原、見浦牧場がその舞台である,と紹介されている。その見浦牧場から見える深入山を住民は前深入と呼ぶ。主峰の深入の頂は見えないがとんがり帽子の主峰と東側の中腹のコブは絶妙なバランスで優しい深入山を演出してくれる。西側の稜線は主峰の深入山と重なってイデガ谷の荒々しさは隠れて一瞬火山であることを忘れることが出来る。しかし国道191号線の道戦峠から振り返ると山容が一変する。イデガ谷はまさしく溶岩の流れた跡であつた。

前深入山と深入山の間には半径が約500メートルぐらいの丸い草地がある。火山と知ってから眺めると、これが火口跡だと理解できる。もっとも現在はイデガ谷の反対側に小さなキビレ(谷)があって火口の水は松原側に流出する。集落松原の好意で小板集落の簡易水道の水源として利用させてもらっている。

国道191号線を北上して益田市に向かう。安芸太田町を経て虫木峠のトンネルを抜け松原交差点を左折して約3キロ、樹間から草原の丸い深入山の山頂が見えてくる。草原は昔の放牧場の跡である。春なら草原の丸みの山容は安らぎを感じさせる。ふもとに建つ”いこいの村 広島”を過ぎて標高820メートルの深入峠に差し掛かる。あじさいロードとよばれる国道は、花盛りには都会人でなくとも自然の豊かさに感激する。これが地元の若者流出の一因だった事実を知る私は複雑な思いである。また、冬季はここ深入峠が、191号線では最高の積雪になる。4キロ益田寄りの道戦峠は標高860メートルと40メートルも高いのに積雪はわずかだが少ない。從って深入峠を越えられたら道戦峠も県境の峠もなんとか通れる、地元民しか知らない知恵である。

閑話休題、国道が付け替えられた結果、旧国道と現国道で深入山を一周できるようになった。そして深入山ウォーキングと称して大会が開催される。三々五々カラフルな都会人の流れは一時、中国山地の過疎を忘れさせる。そして独立峰深入山は有名?になった。

苅尾山(臥龍山)は見浦牧場の北面に見える。深入山と違って褶曲運動で隆起した連山である。頂上は平で深入山より標高が低く見えるが、実際は深入山より高い。穏やかな山容で全山を覆った森林は心を癒やす穏やかな優しさを伝えてくる。小板側からは見えないが山頂近くまで自動車道が整備されて登山は易しい。ところが10数年になるか益田の女子学生惨殺の舞台になって住民の間に優しい山容とともに忌まわしい記憶が付随するようになった。しかし、訪れる人には優しい小板のイメージを膨らませてくれる名山である。

褶曲で出来た苅尾山は多くの雨水を吸収して、いたるところに湧き水を供給する。溶岩で水不足だった小板の中で絶えることのなかった湧き水3箇所は深入山の溶岩が及んでいないところ、苅尾山の褶曲岩盤の端だった。

ともあれ友人のS君曰く、「小板はええーところで。深入と苅尾が見えて、季節を味わえてのー」と、同感である。

2018.1.22 見浦哲弥

2018年5月6日

18豪雪

38豪雪と言うのがあった。私がまだ20代だったと記憶しているがとんでもない豪雪で今でもこの地方の語り草である。何しろ茅葺屋根の家が一軒押し潰されて家人が箪笥に畳を差し掛けてその下で震えていたとか、配電線の電柱の下をくぐる時は気をつけないと3000ボルトの高圧に触れるのでウンと頭を下げないと感電するとか、お宮の鳥居は雪に埋もれて跨いで通れたとか、確か長女の裕子さんが1歳のときだと記憶するから65年も昔の事である。

しかし、最近は世界的に温暖化に向かっているとかで、そんな話をしても誰も真面目に聞いてくれない。降雪が少ないのは地球の気温の上昇とか都合のいい話をでっち上げていたら、今年はとんでもない豪雪と相成った。

何しろ初雪が1ヶ月早い。通年は最初の雪は完全に消えて根雪になるのは12月の20日頃、年によってはお正月に雪がなかったこともある。それが11月に降った雪が根雪となったからたまらない。昔は田仕事がすんで茅刈が終わったら家の回りにその茅で雪囲いをするだけだったが、牧場を経営していると根雪になる前にするべき仕事は山積している。牛は雪が降ったとて冬眠をする事はないのだから、通常の冬でも2ヶ月間は雪のために出来ない仕事がある。畜舎のボロ出し(清掃)から始まって、雪囲い、機械の整備、等々である。それが全部未了、牧草地には積雪、おまけに厳冬が始まったのだから、牧草をはじめ濃厚飼料は多くいるわ、私は老化で能力が低下するわで、四面楚歌の状態に突入したんだ。

最近はお隣の八幡地区に降雪の自動計測機が設置されたらしくテレビでも北広島町八幡地区の積雪量として報道される。八幡地区は小板と稜線一つ隔てた隣村、積雪量は殆ど同一か多少小板が多いか、それが全国の積雪量トップと伝えられたのだからたまらない。いや降るとも降るとも、計測器は正確な降雪量を求めて風の影響を受けない所に設置する。ところが現実には無風でシンシンと雪が積もるなど、殆どありえない。風が吹く、吹雪になる、そして窪地に雪を吹き寄せる、テレビは積雪1.8メートルと報道しても現実には2-3メートルにも及ぶところがある、それが雪国の常識なのだ。都会人には理解出来ないだろうが、それが現実、生きのこるためには、それに耐えなければならない。今年も日本の雪国では死亡事故が発生しニュースとして報道された。小板でも何年か前、屋根からの落雪で死亡事故が発生した。中国山地では毎年のように雪による死亡事故が発生するのだ。

しかし根底に横たわる雪国の危険を報道するマスコミは少ない。

国が豊かになり除雪の機械も整備されて国道を初めとして主要道路、生活道路はほぼ完全に除雪されるが、天候までは管理されていないから、無謀な都会人の事故は絶えない。私が交通事故にあったのも対向車が橋の上の雪解け水の凍結で滑走して衝突されたのだ。雪国の常識は都会人の非常識で、事故が多発している。しかも、この地帯はスキー場のメッカ、都会から雪を求めて訪れる人達が凍結した道路を高速でとばす、その間を走る地元人の恐怖は少々ではない、それが1日も早い春を期待するのだ。

例年2月10日を過ぎると冬の表情が衰えて春の匂いが漂ってくるものだが、今年はその兆しもなく、どこまで続く厳寒かという寒さが続いたんだ。やっとお天道様は春を覚えていたか思える日和は3月になってから、桜前線の話が間近になってからだから、今年のお天気は意地が悪い。が、雪ではなくて雨が降るとは、さすがの大雪も少しばかり姿勢を変えた。そして溜まりに溜まった牧場の仕事が蟻の歩みではあるが進み始めた。しかし、残念なことに老齢で体力低下の私は気ばかりが焦る。春きたりなばも大変である。そして季節が見浦牧場にプラスの日和であることを祈るのである。

3月に入って溜まりに溜まった仕事の解決に追いまくられる。掃除が出来なかった畜舎は汚れ放題、朝から晩までショベルが2台とダンプが動いても解決に程遠い。おまけに孫たちの進学、進級で亮子君は仕事のやり繰りと子供の学校行事で目の回る忙しさだ。そして老人夫婦は痛い足を引きずっての作業で能力は激減、近来にない危機的な状態は続いている。幸い牛価が高値安定で何とか経営は維持してはいるのだが、今年も多難な1年が始まっている。

2018.3.26 見浦哲弥


2018年3月25日

猛暑

2015.8.1 梅雨があがったと言いながら続いた悪天候が晴れ上がって、遅れに遅れた草刈、ローリングが出来ると喜んだら今日は38度を越す猛暑、テレビも有線も熱射病で倒れる人続出と報じる。とはいえ草刈はやめる訳に行かず一日中トラクター作業。ところが貧乏牧場、キャビンつきのトラクターは皆無、従って冷房なる近代設備とは無縁だから、炎天下、作業帽が日差しをさえぎるだけ。連日、35度の高温がしては熱中症にならないよう老化した頭に鞭打って水を飲み塩分を取る。それでもこの高温はただ事でない。40度に達したところもあるというからと、自分を慰めるのだが、何処まで続く猛暑かなである。

8.11 天気予報では午後から雨で午前中に刈り倒した草の取入れをとの計画が朝から小雨、予定は狂ったが猛暑の終焉である。もっとも、ここ2-3日は夜半から朝までは気温の低下で凌ぎやすくはなっていたのだが、久方ぶりの雨は秋到来を告げている。考えてみれば時間が飛ぶように消えてゆく。何処まで続くと思った猛暑も一瞬だった。

小板は海抜780メートル、高冷地である。真夏の一時を過ぎれば朝晩は都会人が羨望の空気と気温の世界である。勿論、それを狙って別荘が増える。自然が満載の小板では様々な生き物がいる。大はツキノワ熊から猪、狐、狸、いたち、てん、鹿にいたるまで、野生動物に付き合うのは日常である。ただし、豊富だった小板川の魚や水棲動物は住み着いたサギ君の活躍で全滅に近いが、自然と対話するのには事かかない。

8.14 お天気が回復するが、回復すれば仕事が追いかけてくる。朝からトラクターで草刈、牛の予防注射をして、刈おきの草のレーキング。朝晩は涼しくとも日中は30何度、朝夕は過ごしやすいのだが、その温度差の大きさで疲労が蓄積する。それでも真夏は過ぎた。これからは真冬に直行するのみ。そして「早よう暖くう(ぬくう)ならんかのー」と、ぼやく寒い日がやってくる。こうして”年々歳々時相似たり、歳々年々人同じからず”を繰り返す。

真夏の猛暑になると母が亡くなった広島の夏を思い出す。私の育った福井も三国も、まして小板では想像も出来ない暑さだった。おまけに広島名物の夕凪と来る。昭和17年の日本では冷房などはデパートくらい、あとは扇風機があればご馳走と言う世界、団扇と風鈴にひたすら頼るその中で、癌で倒れた母を見送る、私にとって残酷な暑さだった。

小板は深入山と臥竜山との間にある、小さな高原である。最盛期には100人足らずの住民と20ヘクタールの水田があった。かの有名な38豪雪では4メートル近い積雪があった。しかし、夏は爽やかな風が谷間を吹き抜けるし、真夏でも朝夕は季節を忘れる涼しさだった。
が、地球温暖化の影響か、小板にも猛暑がやってくる。今年のように36度も越えると、そして連日ともなると、熱中症も他人事でなくなる。しかも、この時期は牧草の収穫で炎天下のトラクター作業が続く。そのせいか、新型のトラクターは運転席はキャビンで、エアコン、ステレオつきだが、貧乏牧場の年代物のトラクターは屋根もない。3時間も連続作業をしていると目が回ってくる。が、圃場の大きさや作業の都合では、そんなことも言っておれない、「えー、ままよ」と頑張る。勿論、水筒のお茶を飲みながらね。

とにかく小板も猛暑だった。が、幸いなことにお盆を過ぎると、又高冷地の気象が戻ってきた。毎朝の爽やかな空気は小板ならではである。

8.26 猛暑が過ぎて爽やかな空気がやってきて「エー季節やねー」となる。途端に晴天が続かない。御蔭で草刈の予定が狂って作業がうまく行かない。世の中は ”エーこと”と都合の悪い事がセットでやってくる。

2015.8.26 見浦哲弥

2016年1月13日

紅葉の頃

今年も山々が色付きはじめました。観光資源の少ないこのあたりでも、晴れ渡った青空と見渡す限りの紅葉の景色は、都会人には格好の観光材料なのです。
地元で暮らしている住民は残り少ない好天をいかに有効に使うかと懸命なのですが、三々五々風景を楽しむ都会人を「ええことよの」と羨望の眼で見送るのです。

でも誰もお互いに話しかけない。住民も観光の都会人も、ただ通りすぎるだけ。せいぜい目礼をするのが精一杯か。何故なんでしょうね、同じ言葉を話し、同じ教育を受け、同じテレビを見ているのにね。

幼年期を都会で過ごした私には、その垣根が見えないのです。ちょっとしたきっかけがあれば、ちょっとした会話をすることにしています。それが大変喜ばれる。なぜ皆さん、それに気がつかないのか、私は不思議に思うのです。
確かにこの地方には方言がありました。広島弁も独特ですが、その上にもう一つアクセントの違いがありました。当時は小学校から標準語で話せと厳しく指導されていたので、心の中に地元の言葉に劣等感を持つようになったのかも知れません。

方言は地方、地方に存在します。私が生まれた福井市と育った三国町ではアクセントに違いがありました。転校した小3のときは言葉の意味が理解できなくて困ったものです。でも同じ日本語なんだから、すぐなれて話せるようになる。私が方言に抵抗感がないのは、そのせいだと思っているのです。

現在の日本人は誰でも標準語を話します。でも小さい時から地域の方言に親しんでいた地元の老人は都会人と見ると標準語でと身構える。それで話の範囲が狭まるのです。それを聞かされるほうは興味が薄れるのは当然でしょう。

道端で作業をしていると話しかけてくる都会人がいます。田舎の風情を楽しんで歩く人は見ているだけで心が和みます。そして一言、声をかけると大抵は答えが帰ってくるのです。そして話が続いてゆく。小さな山間の高原にも歴史があります。取るに足らないような話でも、それが都会人の知識と関連してくると、俄然興味が湧いてくるのです。例えば聖湖の湖底に沈んだ樽床部落は平家の落人の末裔とか、同じ三段峡の支流の横川は樽床の人とアクセントが違います、さて?とか、それから小板は尼子氏と吉川氏の古戦場で地域の中の地名の戦いの後が偲ばれるとか、眼前の深入山は死火山で小板川の川底を見るとその片鱗が見えるとか。
ただ何となく散策するのと、それなりの知識を持って歩くのとは風景も変わって見えるはずです。それを提供するのは小板に住む住民の小さな責務と思うのですが。

紅葉の頃は柴栗が落ちる頃、市販の大栗とは違った味の濃い柴栗の季節は、山からのささやかなプレゼントです。小板の山がまだ柴栗で覆われていた頃、栗拾いは重要な秋の仕事だった。何しろ一日の20リットルから50リットルも拾う、水につけて虫を殺して乾燥して仲買人に売る、立派な収入源だったんだ。
それが或る年、クリタマバチがやってきた。あれはまだ新緑の頃だったね。八幡の方から栗の木が枯れ始めたんだ。それがクリタマバチ、新梢の芽の根元に卵を産み付ける、孵化した幼虫は樹液を吸収しながら成長する、だから樹液の行かない新梢は枯れてしまうんだ。そして幼虫が成長するにつれて、その部分が玉になる。それでクリタマバチと呼ばれるんだ。新梢が伸びないから葉が出来ない、辛うじて葉になっても小さな葉で幹の栄養を補えない、そして枯れるというパターンだった。見る見る柴栗が枯れて山が茶色になった。これで柴栗は全滅かと思ったんだ。
ところで、その当時は「進化」という現象は専門書の中だけと思っていたが、現実にその存在を見せてくれた。栗の木の中に枯れない木が出てきたんだ。クリタマバチに寄生されても虫頴(幼虫が住み着いた幼芽)が大きくならない。そして幼虫が死んでしまう。そのほかクリタマバチが寄生しない木もあったんだ。特に栽培する大栗は強かったね。

そんなわけで生き残った柴栗のおかげで今年は例年になく豊作。勿論、全盛期には比べようがないが、道端のそこここに栗が落ちている。都会人が大喜びする自然がそこにある。10月10日は恒例のウォーキング、色づきはじめた風景と木の実が都会人を満足させるだろう。

2015.10.8 見浦 哲弥

2012年9月21日

蛙の声

2011.4.23 今年始めて蛙の声を聴きました。小さな声ですがケロケロの声はやっと春が来たと告げていました。

2-3日前、10センチにも及ぶ積雪があった今年の冬、何もかもが異常で死者まで出した豪雪、誰も彼もが一日も早い春の到来を望んだのに足踏みの連続、桜前線の北上も小板では他国の話でしたが、やっと蛙が鳴いた、やっと。 

蛙といえば昔は田圃に水を入れて田仕事が始まると大合唱が始まったものです。盛りの夜はうるさくて眠りが妨げられた。水田が1/10にも減った現在では蛙は場所を探すのが大変で、見浦牧場の牧草のロール置き場の水たまりは彼等には格好の場所に見えるのでしょう。おびただしい産卵、オタマジャクシと続くのです。子供達が大喜びで騒ぐ、豊かな自然があった昔の田園は彼等生物達の極楽だったのですがね。

ところが過疎化と転作で水田が激減、蛙も泥鰌(ドジョウ)もメダカも姿を消したのです。 

そして見浦牧場の水溜りにオタマジャクシが現れる。それが春の好天が続くと水が干上がって全滅する。見かねて水を汲んだりするのですが、春は本業の牧場が忙しい、いや忙しいのを越して多忙の連続、気がついて見に行くと全滅している。オタマジャクシとは言え命の消滅は厳しいもの。小板の自然も変わりました。

ところが、加計の吉水園で有名なモリアオガエルは増えました。この蛙は水たまりの上の草や木の枝に、真っ白い泡を作って、その中に卵を産み付ける。その泡の中で卵が孵化して、小さなオタマジャクシになり水に落ちて育つ、独特の生き方を持っている、これが吉水園では池の上に花が咲いたように卵が産み付けられる。それで有名なのですが、見浦牧場でも大小二カ所の池で見られるようになったのです。昔は時折田圃の石垣に見られるにすぎななった現象が、本当に花が咲いたように無数にぶらさがる。

運良く孵化する直前に出会うと水面に差し出た枝は白い花が咲いたよう、自然の妙とはいえ見事な眺めです。純白で綺麗なのは数日ですがね。この蛙は増えたのだと思います。

しかし、身近の風景をよく見ると、子供時代は当然の事と受け入れていたことが激変しています。

蛇が少なくなりました。餌の蛙が減ったのが原因でしょうが、草むらの中の”グッ、グッ”の声をたどってみると、蛙が蛇に飲み込まれている最中なんて事もよくあったのです。そんな光景は、もう何十年も見ません。ところがマムシはよく見ます。例年家の回りで4-5匹は殺しますか。多い年は10匹以上、毒蛇なので噛まれたら大変で入院する騒ぎになります。生きたまま一升瓶に入れて焼酎を加えて蝮酒(マムシザケ)を造ると言う友人もいましたが、噛まれて予後が悪く死んだなんて事もあって、もっぱら見つけたら殺す事に精出していますが、増えた気がします。住人が減って蝮酒製造業者がいなくなったせいでしようか。

この地方は蝦蟇蛙(ガマガエル)が多いのです。松原の高等科に通う頃は雨降りの日は必ず道の中に”ドンビキ”(がまがえる、蝦蟇蛙の事)がいました。小さくても背中のイボイボが気持ちが悪いのに、時々巨大なのが現れましてね。のっそり、のっそりと歩く、動作が鈍いものだから自動車に潰されたりして。卵も独特、林の中の水溜まりに長い紐状になって産み付けられていました。

この蛙も珍しくなりました。もう何年も見ていません。そして卵も見かけることはなくなりました。

土日にもなれば整備された道路を都会人が散策する。ウォーキングあり、サイクリングあり、アマの写真家も歩く。藁屋根はなくなり、モダンな別荘が散見されて風景も変わった。従って足下の蛙君の生活が変化したのは当然かもしれない。変わっていないのは深入山だけ。

昔は遠くなりました。あの蛙の大合唱はもう一度聞いてみたいですね。

2012.6.6 見浦哲弥

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