2021年4月14日

病院食

2020.10.14 明日は直腸の内視鏡検査、従って今日から明日の検査のための病院食以外の食べ物は禁止となる。折角食欲が出て間食が欲しくなった現況では一種の悲劇になった。それでも仕事から手を引く気にはなれない。空腹を抱えても、秋の日は気まぐれ、仕事はできるときに片付けないと、とは長年の習性である。ところが、この直腸の内視鏡検査の準備食と云うのはチキンの入ったお粥、味はいいのだが、ごく少量で食事の内には入らない、準絶食に近い食事、これは飢餓に近い空腹である。

10.15 朝食の病院食のおも湯のような食事をして安芸太田病院へ。血液検査をしてレントゲン写真をとったら予測外のところに貧血の病巣が見つかった。内視鏡検査は中止、即入院と云うことに。そこで病院食にありつく。美味しかったね。病気や怪我は不可抗力の場合が多いが治療はできる。しかし、老化した体では回復するかしないかは神のみぞ知るで、 結果は運命に任すしかない。そして残念ながら老化は止めることは出来ない。老人は健康が第一だと痛感したね。それからは毎日の抗生剤の点滴、採血、2日毎のレントゲン撮影、血液検査、 病巣が少しずつ小さくはなっては行くが、その進行は遅くてね。それでも食事が待ち遠しくなっていた、それが回復に向かったサインだったんだ。今度は時間が気になって、90歳にあと少しの私にとって残された時間は僅かなことは確か、その時間を病室の天井を見るだけに費やすのはいかにも残念で、何時始まるかわからない頭脳の劣化は、2度ない時間が失われてゆくのを考えると1種の恐怖だったね、

この恐怖の対策の為、ボケとか痴ほうとかが1種の防衛本能として起きると考えているのだが、それが幸せか不幸かは凡人の私にはわからない。とはいえ老化の進行は止まることを知らない、おまけに体の機能の低下も同行する、昨日が出来たことが今日は出来ない、トラクターに乗り込むのも最新の注意が必要と劣化が進む、残念だが、これが老化だと理解をするしかない。で、病室で無為に時間がすぎるのが悔しくてね。そして病が回復に向かうと毎回の食事の量が足りない、次の食事の時間をひたすら待つ自分がいた。そして人間、何歳になっても食欲が出ると言うことは素晴らしいことだと気がついた。

病院食は限られた費用で決められた栄養を供給しなければならない。だから苦心の作とは思うのだが2度ほどあった小さいシシャモ (最近不漁の小魚)の千物など、高価と言われる材料の使用は調理会社のセンスを疑ったね。如何に安く如何に美味しくを追求する、プロなら当然のことなのにねと。

入院して幸い少しずつ快方に向かうにつけ、様々なことに関心が広がり始めた。私には貧しいながら、どうしてと考える経営者の素質が少しはあったのかも。

たかが入院、たかが病院食、その中にも改良点がある気がしてね。老人の戯言である。

2020.11.7 見浦 哲弥


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