2021年11月8日

田舎も流行

 2015.11 住民の流出で衰退した経済を何とか立て直そうと田舎が懸命に知恵を絞っています。でも私には上滑りに見えるのですが、そんな感じの地方再生です。

我が町でも新商品が出ては消え、消えては出現する、そんな繰り返しが何度かありました。木工品あり、農産物あり、漬物あり、様々でした。そして最初はマスコミも華やかに報道してくれる、役場の有線もこれこれしかじかと放送する、これは本物かと思っていると何時の間にか話が消えて話題にもならなくなる、 その繰り返しでした。そろそろ本物が登場してもいい頃だと思っているのですが。

現在の日本は資本主義経済の時代です。またの名を競争経済、資本の大きさで相手に打ち勝勝つのか、一歩先を歩いて先行利潤を手に入れるのか、この二択しかありません。この集落の自称お金持ちが資金に物を言わせると競争に参入して、間もなく敗者になり無産階級に転落したのは、何億円規模の資金だけでは競争ができる金額ではないことを知らなかったためです。

日本経済が発展するにつれ、資本だけで競争に勝つためには、私達が想像も出来ない大きな額が必要になっていたのです。そして資本家と呼ばれる階層の人たちと労働者と呼ばれる無産階級の人たちに分化していたのです。しかし無産階級とはいえ持ち家があり、ささやかな近代家具を持ち、子供たちに高等教育を受けさせることが出来て、自分たちは無産階級ではないと信じている人たちから、全く資産を持たない本当の無産階級の人達まで様々です。 しかし、日本は大部分の国民が自分たちの生活は向上したと認識できる社会を作り上げたと満足している、大部分の国民がそれで良しとしている、その意味では日本は平和国家です。しかし、その平和を続ける為には何をなすべきかの意見を聞くことは非常に少ない、そんなことでは、平和がいつまでも続くとは思えないのです。

でも小さな小板のような集落ではこんな社会論は適用されないと貴方は思うかもしれませんが、現実にはいくつも起きたのです。そして分限者(ぶげんしゃ:金持ちの意)と呼ばれた人達が次々と破滅して無産階級に落ち込んでいったのです。しかも一般の人達よりは高い教育をうけていて、無知だとは言えない人達が例外もなく破滅していった。私はなぜかと何度も何度も考えたものです。

そして彼らの共通しているのは肉体労働を極端に嫌っていたことだと気づいた、それは小板だけの特殊な現象だったかもしれませんが、少なくとも私の周辺では例外はなかった。

さて、どうすればいいのか、それは私たちの生産した品物を買ってくれるのは誰かと考えることです。それが農協や市場だと考えると現実が見えなくなります。たしかに農協や市場に出荷して代金が入ってきますが、それはただの中継ぎでしかない。本当のお客さんは末端の消費者以外ではありえません。しかし、消費者にも大会社の原料部門から、サラリーマンの奥さんまで数多くあります。その誰に買ってもらうのか?、その相手によって生産する商品の品質が違い、数量が決まります。ところが一般の農家の人は物が出来たけーと農協に持ってゆく、市場の卸問屋に持ってゆく、それだけで満足の行く代金が手元に入ると考える、実際には商品が不足している時には有り得ますが、それは物が不足して、国民が飢えに苦しんだ頃のお話です。様々な商品、 もちろん食品から衣料品、家具、自動車に至るモロモロの品物は消費者の要求を満足させたとき以外は、需要供給のバランスで一定の価格に定着するものです。生産者のコストに関係なくです。

私達は、そんな経済システムの中で暮らしている、それを理解しなければ農民と言えども生き残ることは不可能なのに、そんな話をしてくれる農家にお目にかかることはまれでした。

食料の自給率が38%と報道されているとき、 国の底辺を支える農民がもう少しこの社会システムを理解して前向きな経営をしてもらいたいと願うのは老農夫の高望みなのでしょうか。

私は、こんな老人の迷論に反撃される人が一人でも多いことを願っています。どうすべきか、真面目に考える時期にきている、そして、底辺の人達にもっと温かく、後進国と呼ばれる国々には、もっと思いやりをと望むのは考えすぎなのでしょうか。

2020.11.12 見浦哲弥


0 件のコメント:

コメントを投稿

人気の記事