2018年12月5日

Sさん

Sさんは私の同級生である、小板に移住した時から松原の高等科を卒業するまでのほぼ4年間、お隣のSさんはクラスメイトだった、おとなしい性格で国語と書き方が得意、悪筆の私など及びもつかない綺麗な文字が書ける秀才さんだった。そろそろ色気づき始めた少年には、まぶしい、眩しい美少女に見えた。勿論、食べるに事欠く没落地主の少年には遠い遠い存在だったのだが。

あれから長い長い年月が過ぎて彼女が痴呆症を発症し施設に入ったと聞いてから10年
以上も過ぎた気がする。先日、八幡の晴さんの姉から晴さんにSさんの容態が良くないから、別れにゆかないかとの誘いに翌日に連れ立って見舞いに行った。帰ってからの報告では、ロも下も管で繋がれていてね、生きていると言うだけだったとの話、華やかだった美人の彼女を知るだけに無残で、天の神様は時たま酷いことをなさると思った。

私にとって異性を感じた女性は彼女が2番め、子供から少年に、そして成人にと時々に心に残る異性は、人生が終ってみると苦楽をともにした晴さんしかいないが、私にもほのかな好意を持った異性は存在したんだ.

福井市旭小学校の2年生のとき、い組の級長に選ばれて授業開始の「気おつけ、礼」の号令をかけるのが級長の仕事の一つだった。終了時の号令は副級長のKさんが受け持って、嬉しかったね。級長は黄色の肩章、副級長は緑の肩章、先生との連絡で教員室に出入りが許されてね、副級長と連れ立って行ったものだ。Kさんは目の大きい明るい顔立ちの女の子だった。80年たっても名前を覚えているから私にとって大切な異性の1人だったかも。

次に異性として女性を見たのはSさんである。6年生の時だから私が早熟だったのか。しかし時は私の多難な人生が始まった時期、男子の友達と違った感情を持っても恋とは違ってほのかな関心だけだったがね。そして彼女は高校に、私は毎朝わらぞうりで草刈りに、この差が屈辱感になり勉強にのめり込んだ原動力の一つだったことは否定しない、若かったからね。

最初に検定に合格したのは20歳だったか。工業高校の電気科卒業の資格、これでは小板を脱出して都会で食べてゆくには力不足、次の高等工業卒業の検定に合格したら彼女のことを考えて、などと妄想したが世の中はそんな甘いものではなかったんだ。結果として最良の伴侶と結婚することになった人生は波乱万丈としか言いようがない。

彼女が隣村にお嫁に行った日、発熱して昏睡状態におちた。日本脳炎の発症である。そして半月生死の境をさまよった。幸い父の教え子の久賀医師が雄鹿原病院の院長で彼のおかげで命を救われた。3日間不眠不休で治療にあたられたとか、失恋?はしたが、久賀先生という生涯の師を得た。今振り返ると私の歩く道はこの道しかなかった気がする。

それからの長い年月、義姉として彼女と会うことは度々あった。お互いに歳を重ねて茶飲み話で「あんたが初恋だったんで」と話してみたいと夢見た事もあったが、その前に痴呆になって私の思い出の中だけのSさんになってしまった。

でも、私の大切な女性の1人だったことだけは変わりがない。

もうすぐ私の人生も終わる。私の人生は晴さんなしでは考えられぬ、大切な人だ。ただ、心の片隅に二人の異性がいた事は否定はしない。そしてSさんが淡い初恋の人だった記憶も心に残っている。
「さようならSさん」

2018.6.30 見浦哲弥

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