2019年4月28日

島津和弘様

思いもかけず、お便りを頂き惑激しています。たしか安佐農協でお会いして以来かと思いますので1 0年にもなりますか。息子の和称からご活躍をお聞きしてはいましたが、退任されて、お百姓さん専業とは思いませんでした。お元気な近況をお知らせ頂いて感謝しています。
今回の記事、農協の取材は、お受けしたくはなかったのですが、色々とお世話になっている関係で止む得ずお引き受けしたのです。あんな写真になって困ったなと苦笑しているところです。
私達は何も立派なことをしたわけではありませんし、中山牧場のように大成功したわけでもありません。ただあの当時の中島先生、榎野先生や県農業改良課の皆さんの夢を農民の側から追っかけてみただけなのです。30初めの青二才にしては課題が大きすぎ、投げ出すには根が深すぎた。気付いたときは一部の人に注目されるようになっていましたが。

そのきっかけは中島先生との出会い、孫に読ますために書いた文章がありますのでお送りします。田舎親父の想い出話で、つれづれにお読みください。それからが榎木先生、そして佐田さんを初めとする皆さんがた、どなたにもお世話になりました。あれから、安全で、美味しくて、リーズナブルな値段の和牛肉の生産牧場を50年、追い続けました。牧場の初期に太田市の国立農業試験場中国支場を見学したことがあります。そして和牛の放牧飼育について教示を仰ぎました。先日、その時の資料が出てきました。その余白に放牧用の和牛は何処で購入すれば良いのだろうかと、私が書入れをしていました。芸北の牧野組合の牛が雪中で凍死した事件から、寒中はマイナス15度にも20度にもなる小板では寒さに耐える牛をベースにしないと成り立たない、その牛は自分で作らなくては何処にもいないと知ったのです。和牛の選抜改良は兵庫の神戸牛で長い歴史があり、数多くの牛飼いの努力の結晶、結果であることは理解していました。それを個人で挑戦する、無謀としかいいようがありません。でも若かった。放牧一貫経営の油木方式の解決のキーはこれだと信じ込んだのですから。兵庫の例から見て既存の資源をフル利用しても10年や20年の話ではない、 70年いや100年単位の仕事、有限の命の人間にとって成果を見ることは不可能だなと理解したのです。さすれば和牛と言う畜産業を、和牛と言う家畜を、和牛飼育と言う産業の社会への役割を、次世代により多く伝えて私が願った目標を追ってもらいたい、勿論、我が子とはいえ別個な人格、こうであれと強制はできない、理解しやすい生き方をしてみせ、理解される牛との付き合い方を見せて、次世代として育てるしかない、それが成功したら彼にも次の世代への努力をしてもらってと、考えたのです。

長男は九大の農学部を卒業したのですが、都会に去りました。末っ子の和称がガールフレンドを連れて帰ってあとを継いでくれました。井口高校の電算部の仲間だった二人は小板の自然の中で和牛という命を見つめ、それを日本の産業の中で生き続けさせることに興味を持ってくれています。私は結果をつかむことは出来ませんでしたが、次世代に繋ぐことは出来たのではないかと満足しています。そして、あの写真の視線の先に新中国山地の農業が出現することを願っているのです。

お送りした文章は孫に読ませるために書き綴ったものです、お暇があったら読みください。

お葉書、本当に有難うございました。くれぐれも、お体大切に願いあげます。又、ご教示いただくことを楽しみにしております。奥様によろしく。

2013.2.15 見浦哲弥


 見浦牧場のもう1人の恩師を紹介します。よき指導者でアドバイザーでした。"岡部先生"、何十年も見守ってくださいました。
 農業教育に一言。"代用教員"で中学生を教えたことがあります。サラリーマン教員だけでなく現役の実践家も農業教育に利用すべきではないか? 素人の戯言です。

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