「全農見浦」、屠場に牛を出荷すると出荷主の確認を容易にするために牛の腹部に黄色いペンキでマーキングする、その折、見浦牧場の牛に書く ネーミングである。従前は農協専属の屠場への出荷だったから、出荷主の確認は、日本の牛全頭に装着が義務付けられている耳標の確認でことが足りたのだが、現在は合理化のため小さな屠場は廃止されて、この地区は広島の屠場に出荷する。100万都市広島の屠場には全国から牛が集まる。勿論、耳標確認はするのだが、屠場の職員が確認しやすくするために胴体に名前を書き入れる。確認を容易にするためにね。
最初に何と書こうかと思ったんだ。が、ふと思い出してね、遠い昔、農協の自前の屠場ができる前、まだ農協の肥育牛売買の部門が確立していないときだ。そのころは農協経由で広島や呉の屠場に処理を委託して肥育牛を出荷していた。最初の肥育牛を当時の広島の屠場に連れて行った時、弱小の農協経由の出荷と知った3-4人の業者に「よくそんなボロ牛を持ってこれるな」などと散々いじめられてね。その悔しかったことは、あれから60年も経ったのに昨日のことのように思い出す。
時代が変わって、今や農協の上部団体の全農(全国農業協同組合連合会の略)の食肉部も力をつけた。今は幹部となった黒木君や早世した中野君などの優秀な青年が入社してきて、旧態依然の食肉業界の実情に悲憤慷慨(ひふんこうがい)したものだ。その後、立ち遅れた農協組織も自前の屠場を持つほどに力をつけた。
そして大都市に成長した広島市は旧来の屠場を整理して近代的な大屠場を新設することになった。国も市も業者もそれぞれに資金を負担してね。それが現在の見浦牧場が利用している広島市の食肉処理場なのだ。資金力で力をつけた農協を無視して業者だけの屠場運営は不可能になったかどうかは知らないが、農協の発言力は大きくなった。
そのおかげで小さくなって屠場に肥育牛を搬入することはなくなったが、私には初めて広島の屠場に牛を出荷したときの屈辱を忘れることができない。そこで我が牧場の牛には、ことさらに「全農」の文字を加えて、「全農見浦」とマーキングしている。見浦牧場の小さな意地、他愛のないことだが、その意地が見浦牧場を支えてきた、私はそう思っている。
しかし、経済は常に走り続けなければならない。時代が止まることはないし、停滞は、即、競争からの脱落を意味する。小さな牧場だからこそ、意地も戦力にしなくては生き残れない。そして、今日も我が出荷牛には「全農見浦」と大書する。
これが小さな小さな見浦牧場の意地なのである。認められたいから大書するのではない、自分を支えるための意地なのである。
2020.09.24 見浦 哲弥
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