2019年7月31日

文章が書けなくなりました

84歳と言うのは本人が考えていたより大変なことでした。貴方がご存知のように身の回りのことを雑文に書き流すようになってから、もう20年あまりにもなりますか。最初は小学生の作文のような拙い表現だったのが、おぼろげながら私の思いが伝わる(思い過ごし?)様になって、踏み越えてきた人生の記憶を短文として残してきたのですが、それが辛くなり始めました。意識の集中が続かなくなったのです。

振り返ると長い人生でした。大方を広島の最奥の山間で過ごした人生でした。様々な人との出会い、変動の日本の中で私なりに激変を体験しました。周囲の友人達が信じることが出来ないような出来事にも出会いました。ただ残念なことに多くの場合信じてもらえない、小板の中だけに住んでいて、そんなに広い経験が出来るわけがない、見浦は夢想家だと非難されました。でも私の考えが何時か理解される時がくると、拙い文章を書き続けてきたのですが?。

しかし、記憶を文章にすると言うことは、ただ文字を並べることではありません。拙いながら読み続けてもらう、読者の興味を繋ぎとめなければ意義がありません。頭の中には書きたいことが浮かぶのに、それが文章にならない、やりきれない気がします。従前は拙いながら文字が浮かんで繋がり文章になりました。読み返すと幼稚ながら思いが伝える形になったのに、今はまとまらない、何を言いたいのかと自分に問い返す始末、これが老いるという事なのでしょう。

先人の老化を見てきて、自分だけはああはならないぞと心に誓ったのに例外はありませんでした。今になって思います。一度きりの人生、人が読む読まないに関わらず、心に浮かんだことは記録すべきです。人の役に立つ立たないは別として、自分が生きた証なのですから。

そして、読まれた方が心に留めて、少しばかりでも私の思いが伝わったら、ものすごく素晴らしいことだと思うのです。

2016.10.1 見浦 哲弥

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