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2019年2月13日

岡本豆腐の復活

2018.2.6 三段峡豆腐の岡本さんが来訪した。壮年の男の人二人を連れて。先日、岡本さんが営業を再開するとの噂が流れてきて、家族で喜んでいた矢先だったので嬉しかったね。

彼との付き合いが始まってもう30年近くにもなるだろうか、長い長い時間が経ってしまった。副産物のオカラの引取を依頼にこられてからの付き合いで、何十年にもなる。

その彼が私の話の何に感銘したかは知らないが「それなら俺は大豆から取る豆腐の数を決めて、それでお客さんの心をつかむ」と宣言したのです。律儀な彼は原料の大豆の値段が上がっても初心を守り抜きました。大豆は国際商品ですから経済の変動で高騰する時もある、それを愚痴を言いながら頑張る、そんな彼は私達家族の心の友に変化して行きました。そして30年近くのお付き合いが続いたのです。

人の心理は不思議なもので、彼の豆腐への姿勢は少しずつファンを増やし始めた。そして30年、冷蔵庫に岡本豆腐がないと寂しくてと言うお客さんが出始めたのです。品質にこだわる岡本豆腐は決して安くはありません。しかも絹ごし豆腐とは違った田舎豆腐、でも口にすると「あー、これは岡本豆腐」と一瞬で訴えてくる、その味はどこの豆腐も及ばない味の田舎豆腐に変化していたのです。

田舎豆腐は個性が強い豆腐です。スーパーに並べられた豆腐は見た目と一瞬の味にこだわる、大量生産と万人向けの味と、そしてコスト削減と、市場経済の中での生き残りゲームの世界です。 同じ視点では後発の商売に勝機はありません。私が学んだ経済は大資本で価格競争をするか、一 歩先んじて新しい価値を創造するかしか競争で生き残る手段はありませんでした。

まして新人がゼロから参入するのは困難の極みです。当然敗退者が続出する世界なのです。しかし、悪貨は良貨を駆逐すると言い切れる世界でもありません。時間はかかりますが、いい物はいい、悪いものは悪いと評価してくれる世界でもあるのです。ただ時間がかかる、そんな時"手を抜いたら儲かるよ"の声がかかる、そんな一面がある世の中なのです。多くの人がその誘惑に打ち勝つことが出来ない、それは利益追求が第一と理解している経営者が多いからなのです。勿論、資本主義の世の中ですから赤字の垂れ流しでは破滅が当然ですが、その狭間を消費者に自分たちの思いが理解してもらえるまでの時間を懸命にくぐり抜ける、そんな戦いなのです。しかし、私達の時間は有限です。その焦りから消費者に思いが届くまで耐えることが出来ないで失敗者が続出する、そんな世界を見続けてきました。

夢を持って挑戦する新人に「頑張って」とエールを送ることは簡単ですが、困難に打ち勝ってと簡単に激励するのは私には出来ません。ただ成功を祈るだけなのです。

岡本豆腐はそんな戦いを生き抜きました、私の素晴らしい友人なのです。

2018.8.27 見浦哲弥

2017年11月7日

青年と話す

2012.4.5 家畜薬会社のセールスマンが訪ねてきました。担当の亮子君が(息子のお嫁さん)留守で誰もいない、やむ得ず相手をすることになりました。
少しばかりの世間話でお茶を濁すつもりが、彼が本気になったので、つい長話になってしまいました。今日はその報告です。

見浦牧場の事務所には、目下病後の子牛や母牛不具合などで離乳して乳牛のミルクで飼養している子牛が4頭同居しています。
それを見ながら、最近の和牛の品種改良の話から始まったのです。ご存知のとおり現在の和牛の世界はサシの追求一点張り、近親交配は当たり前、おかげで血が濃くなって、様々な弊害が出始めているのです。私達はサシはA3程度で、体力のある飼い易い牛をと、血の分散を考慮して交配、淘汰を続けてきたのです。長い年月が経って少しはそれらしい牛が出来るようにはなったのですが、種雄牛を作って独自の和牛を作るのには頭数が少なすぎます(母牛が80頭前後では)。従って市場で供給されている精液を購入するしか方法がありません。

日本の和牛は近代育種が取り入れられるまでは、母牛選抜と言う方法で改良されてきました。いい母親が出ると、それに評判のいい雄牛を掛け合わせるという、母親中心の改良選抜で出来あがった系列を蔓牛(ツルウシ)と称して大切にしました。その大先輩が兵庫県、有名な但馬牛はそれなりの長い歴史があるのです。
浅学をかえりみずにお話すれば、兵庫県に2系統、岡山県、広島県に1系統ありました。その後、鳥取県、島根県に突然変異の優秀なオス牛が現れて和牛界の地図を書き換えましたが。

しかし、時代は変わりました。人工授精という技術が開発されて、優秀な種雄牛の精液が手に入るようになりました。私が子供の頃は、小板にも松原にも種牛という県有牛がいましたが、見浦牧場を始めた頃は耕運機の普及に伴って廃止され、種付には隣の八幡村まで10キロの道を牛を連れて行ったものです。
時はあたかも牛の人工授精が普及を始めた頃、私達も懸命に技術を習得しました。でも最初は凍結精液ではありませんでした。加計にあった家畜診療所の冷蔵庫に保管してあるストロー入りの生精液を発情の度に取りに行ったものです。
やがて精液の凍結技術が開発され普及して来ました。でもそのボンベが外国製で十数万円もする。まだ為替が360円前後の頃ですから、貧乏な私達には高価でね。でもなくては仕事にならない、飛び降りる気持ちで買いましたね。

そんな牧場を始めた頃の苦労話をしながら、何故ここまで生き残ったのだろうかと、私の思いを話したのです。

失敗続きの最初、授精に来られた神川獣医さんに聞かれました。「直腸に手を入れた事がありますか」「獣医ではないので入れたことはありません」と何気なく応えると神川さんが烈火のように怒ったのです。最初は何故叱られたのか判りませんでした。呆然としていると怒りを抑えた先生が話し始めました。
「貴方は和牛飼育を仕事にすると言った。それはプロになるということ。初めから出来ないと諦めるのではプロの資格はない。挑戦して少しでも目標に近づく努力をする、それがプロ。子宮の状態を知るのは直腸に手を入れて直接触れるのが最良なんだ。それを獣医師でないからと最初からあきらめる、それではプロになれない」、同じような仕事をしてもプロとアマチュアでは心がけが違うと教えられたのです。
そして「40日後に妊娠したかを診にくる、その時君の判断を聞く、それが君のプロテストだ」と言い残して帰られたのです。

久しぶりの心の底からの叱責は、まだ若かった私を懸命にさせました。牛には気の毒だがこれも勉強と毎日直腸に手を入れて子宮を触りました。そして微妙な変化を読み取ろうとしたのです。最初は何も伝えてこなかった指先が10日もすると何かを教え始めました。日常的な変化と違う微妙な何かを。
40日が経ちました。神川獣医さんが来場されました。例の牛を枠場に繋いで直腸検査が始まりました。先生の次に直腸に手を入れた私に聞かれました「どう判定するかね」、「左の子宮角が少し腫れてます。妊娠プラスです」。何にも言われずに私の顔を見つめられた先生は、それから態度を変えられました。農家と獣医さんの関係でなく、畜産の師と弟子の関係に。自分の持っている知識を、私に植え付けようとするように。何年かして定年で故郷の山口に帰られた先生は、「見浦はどうしているか」と、気にかけていただいたとか。

職業人であることは、アマチュアで満足することではない、常にプロの道を歩き続けること。生きることの厳しさと、仕事に対する執着心とが必須であることを教えていただいた。
人生いたるところ、先生あり、そんな生き方が出来た幸せをかみ締めていますと。

そんな話をしたのです。熱心に聞いてくれた彼、私の気持ちが何処まで伝わったかな。今日は生き方の受け渡しをした報告です。

2012.10.25 見浦哲弥

2017年5月7日

見浦弥七

彼は私の父である。従って貴方にとっては曽祖父ということになる。先祖というものは若い時は興味がないもので、私も祖父のことにはあまり知らない。まして曽祖父ともなれば、断片的な知識しかない。しかし、その遺伝子は私の生涯に大きな影響を与えたのだから、知らないということは残念なことである。それにようやく気がついた。そこで貴方が私の轍を踏まないために記憶にある父のことを書き残すことにした。貴方の記億の断片にでもなれば幸いである。

彼は明治20年に生まれた。父は弥三郎、一人っ子だった由で大切にされたという。見浦家は彼で8代目、血統が続いた点では小板では最古。ところが伝えられる歴史では2代ごとに栄枯盛衰を繰り返したという家柄、弥三郎は家運を盛り返した人で、弥七の時代は見浦家の頂点の時代、これが彼の才能を開花させた。

貴方は明治政府が初等教育の義務制を施行したことを知っているだろう。国の政策だから小板にも小学校がつくられ義務教育が始まった。明治の初めのことである。小板の小学校跡にある廃校舎は三代目、但し義務制は下等小学校と呼ばれた4年生まで、それからは加計にあった上等小学校に進学したんだ。但しこれは義務教育でなくて授業料が要ったらしい、それも4年制でね。勿論、中学校も高等学校も大学も存在したのだが山奥のどん百姓の小倅が行けるわけもなく、上等小学校で我慢した由。ところが寄宿舎がないので下宿、それでも卒業までは資金が続かなかったとかで2年で中途退学、従って正規の教育は6年しか受けていない。

ところが彼の祖父亀吉はは頭の切れた人で国道建設(191号線)のおり、県のお役人と渡り合って小板の集落をかすめて通す計画を集落を縦断させることに変更させたという、これが旧国道、当時は従前の権利が侵害されると新しい交通に反対する連中が多くて、鉄道が町から離れたところに通ったり、道路が集落を外れたところに建設されたりして後年に問題を残したところが多かったのに、彼は道路から離れた集落はやがて消滅すると、小板の真ん中を縦断させた。お陰で田圃を2分された農家が激昂して殺してやるといきまいたとか。弱小集落の小板が生き残ったのは彼の先見性のお陰だと思っている。ところが、そんな頭が切れる彼が文盲で字が読めない。息子の弥三郎は字が読めるのだが、一言居士(いちげんこじ)で親父のやり方が気に入らない。県庁や役場から文書が来ても「何とか何とかトー」と要点を言うのみ、文意のみでニュアンスも糸瓜(へちま)のない読み方、爺様、大いにむくれたのだが読めるのは弥三郎だけでは喧嘩にもならない。そこで弥七に勉強させて知識をつければ弥三郎に頭を下げずに済むと気がついた。亀吉爺様、家長の権威を発揮してこれからは知識の時代、弥七には勉強をさせると宣言、以来、どんな繁忙期も親父が「勉強をする」と言ったら仕事に出なくて済んだとか、私とは偉い違いである。もっとも頭の良さは、これから話すように抜群で天と地ほどの違いはあったのだが。

昔は満20歳になると兵役が義務で徴兵検査と称して体格検査がある。甲、乙、丙、と区分されて甲、乙に区分された青年は2年間の兵役につく。兵役にも職種があって、兵科というのだが軍隊が進歩するにつれて兵科も増えて、親父さんの兵科は工兵、今様に言えば軍隊の土建屋。
ところで話はもどるが彼は明治20年生まれ、従って徴兵されたのは明治40年という事になる。貴方も歴史で習ったと思うが日本がロシアと戦った日露戦争というのがある。極東に大きな国土を持つロシアが冬季も使える不凍港を求めてシベリアからの南下政策で当時の中国、朝鮮にまで勢力を伸ばし始め、日本の権益と衝突して戦争になった。GNPが6倍の大国と日本が国家の存亡をかけて戦った戦争である。当時、大連の近くにある旅順港はすでにロシアに租借され東洋におけるロシア極東艦隊の軍港として整備されていた。それを守る堅固な旅順港要塞、この攻略に乃木将軍指揮の陸軍が膨大の戦傷者をだしたのだ。当時の日本軍は指揮官が先頭に立って戦う戦法だった。従って将校の戦死者が続出、それを補充するために苦慮したんだ。将校は兵隊と違って養成に時間がかかる。そこで兵隊の中から優秀な人間を選抜して短期間で将校に仕上げる制度をつくりあげて対応したんだ。これを1年志願兵制度という。明治37,8年に起きた日露戦争から2年も経過した明治40年頃は将校の補充も完了していて、士官学校などの養成機関の卒業生などの正規の補充で事足りていたと聞く。ところが優秀な人材を発掘するという、この制度は日本が第2次世界大戦で敗戦になるまで存在したんだ。需要に応じて合格者を増減しながらね。

親父さんはこれに挑戦した。結果はその年、全国で3人の合格者のうちに滑り込んだ。何しろ徴兵されて2年の兵役がすむと階級が一つ進んで1等兵になって帰るのが普通。それからは赤紙と呼ばれた徴兵令状で軍務について階級があがる。ちなみに小板では伍長が最高位だった。当時の若者は小学校の高等科を卒業すると青年団なるものに入団、定期的に軍事訓練を受ける。そのときに在郷軍人と称して昔の軍人が階級章のついた軍服を着て指導にくる。普段は茶店の親父さんが軍服を着ると伍長さん、途端に発言に重みが増す、そんな田舎に2年で将校になって帰ってきたから大変だ。いっぺんに町内の有名人になった。
ちなみに彼の最後の兵役の位は工兵中尉、家の中にサーベル(西洋式の長剣)もあったし軍服もあった。今でも倉を探せば彼が学んだ軍隊の教科書があるはず、手榴弾の製造から爆薬の取り扱い、陣地の建設など興味を引く記述がある。

もともと勉強好きの彼が1年志願の合格で自信をつけた。そして教員の資格認定試験に挑戦したんだ。そして合格したのが中等教員数学科、これが彼に広い世界を見させたらしい。それからは暇があれば数学の勉強、後年、彼が口癖だった言葉は「数学は貧乏人の学問、紙と鉛筆があれば新しい世界をのぞける」と。
勿論、勉強の面白さに取り付かれた彼は小板を脱出、広島の第一中学校に(現在の国泰寺高校)奉職、小板の西岡の娘さんと結婚して牛田に住みついたとか。
当時の大家さんだった岡本のオバサンが言っていた。勉強に気がのると一週間も10日も一言も口を聞かなかったとか。最初の奥さんとは広島で死別。熊本の県立第一中学校に転勤した。しかし、その間の消息は知らない。そして福井の第一中学校(現在の藤島高校)に転勤、私が物心がついた頃は教頭先生だった。ある年福井で陸軍の大演習があり、福井城址にあった第一中学校の校舎が臨時の大本営(天皇宿舎)になって、接待係となって天皇(昭和天皇)陛下のお世話をしたと聞く。彼の口癖は昭和天皇は純真で気さくな青年だったと。後年、第2次大戦に参戦、内外の人々に多大の被害を与えた張本人という巷間の説に賛成の私を叱って、「軽々に人を判断をしてはいけない、彼はそのような人間ではないと教えられた。そして「私は3000人の青年を育てた教育者としての経験からも彼が戦争を指導したということはありえない、私の知る昭和天皇は正義感の強い純真な青年だった」と、この話が私の世界観に大きな影響を与えたんだ。
昭和14年、彼は県立三国高等女学校の校長に就任した。昭和16年、様々な出来事の末の圧力で退職するまでの2年間、私は三国で多感な少年の時期を過ごした。従ってこの頃からの父の記億は伝聞ではない。

三国の2年間で父には大きな事件が二つ起きた。その一つは生徒の女学生と他校の中学生との雑魚寝事件、当時の女学校には不純異性交遊は即退学と校則にあったそうで、それが発覚した。勿論、父は即、退学を申し渡したのだが、生徒の親が地域の有力者で内分にと圧力をかけてきたとか、こんなことが明るみに出たらお嫁に行けなくなる、何とかならないかと。父は校則は校則、たとえ有力者の子女でも特別ではないと突っぱねた。

翌年、三国の汐見というところにあった住居の周りに、目の鋭い刑事と警官がうろつくようになった。後年、父はそのときのことを話してくれたのだ。
昭和15年、アメリカとの国際関係が緊張を始めていた頃、学校に話を聞いてくれと大本教の教祖が訪ねてきたとか、父は外ではと校長室に入れて話を聞いたとか、ところが大本教は戦争反対を主張していた、時の政府、特に過激な軍部の注意団体だったのだ。その教祖を校長室に上げて話を聞いたのだから、尾行が本部に報告したのは言うまでもない。父としては正式に訪ねてきた訪問者に門前払いを食らわす非礼は出来ないと校長室で話を聞いた、当然の行為だったのだが、社会は父の常識の範囲を超えて暴走を始めていたんだ。翌日から尾行と、汐見の家の監視がついた。翌年の学期末、父は教職を辞した。54歳、定年にはまだ時間があった退職の裏にはそんな事情があったのだ。有力者の反感をかっていた父には抵抗するすべはなかったとか。
退職が決まった翌日の新聞には三国高等女学校長、見浦弥七氏勇退と大きな記事、あの勇退の大きな見出しは記億にある。

退職が決まってからの父は原稿書きに没頭したんだ。生涯の勉強課題だった数学の本の、題名は”非ユークリッド幾何学問題集”確かこんな題名だったと記憶している。もう物資が不足し始めていて用紙が手に入らない。ガリ版刷りで外装だけは印刷所の好意で製本してもらった。配達された本の山が玄関に積まれた光景は瞼に残っている。それを友人や学校関係に配って数学者見浦弥七が表舞台から姿を消したんだ。引越しの手伝いにこられた先生に、「父ちゃんが本を出したんだ」と自慢したら「私も貰った」と返事をされて誇らしかった。その年か母が難しい本を出して「これは数学の学会の本、ここに父ちゃんの論文が載っている」と話してくれた、「これで2度目なのよ」と。
この時のことは長く記億にあって後に聞いたら、一度だけ話をしてくれた。「俺は専門の非ユークリッド幾何学でアインシュタインの相対性原理の証明をしようとしたが、どうしても出来なくて、それが残念だった。当時の日本には彼の理論を理解できる学者が4人いたんだが、俺はそのうちに入れなかった」と。

父が小板を離れたのは17歳の頃、それから兵役が終わって一時期小板で生活した時があったが、間もなく結婚、そして広島の第一中学校に奉職し、牛田に居を構えた、出来の良すぎる一人息子のわがままを弥三郎爺様は止めるすべがなかったとか、時おり知人を頼んで様子を探らせたり、生活費を送ったり、陰では随分気を使ったと聞いている。
ともあれそんな按配で親父さんの農業は見よう見まねで経験がない。日本のように地勢や気候が千差万別のところでは耳学問や見よう見まねでは、成果は上がらない。弥三郎爺様、見るに見かねて口に出して意見をしたとか、折悪しく親父さんの退官を聞きつけた神戸の某私学から数学教官として迎えたいと校長さんが、広島からバスで5時間の小板まで訪ねてきた直後、「わしのやり方に文句があるのなら、また学校にもどる」と宣言されて、弥三郎爺様何も言わなくなった。翌年、母(淑)が亡くなって、半年後、弥三郎爺様が死んだ。そして素人百姓の父と小6を頭に5人の子供の大畠の悪戦苦闘が始まったんだ。

大畠に”上殿のオバサン”なる古くから手伝いに来るお婆さんがいた。田植えの季節になると何人かの婦人を連れて現れる、早乙女さんである。そして見浦の田植えが済むと蓑造りの材料になるコウラなる草の採集に来る。大畠には彼女のためのコウラ池(コウラをつけて腐らせるため池)があった。腐って繊維だけになったコウラを綺麗に洗って干して自宅に持ち帰って、冬の間にそのコウラで蓑を編む。北陸の藁で作った蓑と違って、上殿のコウラ蓑は軽くて耐久力と保温に優れて高級品、そんな関係で彼女には父も頭が上がらない、長い間のそんな関係で見浦家の内情は何から何までご存知、私たちが生まれるときも福井まで駆けつけて家の中の切り回しをしてくれた。母が亡くなったときも最後の看病の采配を振るってくれて、まさに身内の大叔母さん、それが父のにわか百姓を見てこれでは見浦家は滅びると感じたらしい。とはいっても子供は小学6年生が頭、他の子供はまだ幼い、そんなことは言っても背に腹は変えられぬと私の特訓が始まったんだ。今でも忘れないのが田植え、泊り込みの五月女さんは夜明け前に苗取りに田圃にでる、したがって起床は5時、朝飯を食って支度をして田圃に出ると、東の空が僅かに白みかける、寒い朝は苗代に薄氷が張っていて、最初の一足は身がすくむ、そんな田植えの季節が始まるとオバサンが「哲弥さん、起きんさいよー」と呼びに来る、父が起きるのは30分後、弟妹が起きるのはさらに遅い、幼い子供の食事を済ませて、親父さんがオドロを(小枝を集めた薪、木小屋という小屋に前年集めて乾かしてある)担いで来て畦道で盛大に焚き火をしてくれる、それが待ちどうしくてね、そこで冷え切った身体を温めて再び苗取り、この頃に地元の五月女さん達がやってくる、9時過ぎに朝飯、一日5回の食事、5度飯という制度、なぜ5度飯なのか訊ねたことがある、答えは貧乏な家庭では朝食を取らずにくる、手伝い先の3度の食事が全てなんだ、漬物と辛い味噌汁のおかずなんだが腹いっぱい食べられることが田植えの手伝いの要件なんだと、年配の五月女さんの間での田仕事は子供ながら社会勉強だった。

閑話休題、そんなわけで上殿のオバサンの教育は尋常でなかった、牛のロープ作りも、夜なべの粉挽きもオトコシ(住み込みの男衆)と同じ扱い、後年兄弟が「兄貴、よく知っているね」と感心してくれたが、それも彼女の教育のおかげなんだ。
当時、見浦家には雌牛、雄牛が一頭ずつ、たてがみが白と茶色の馬が2頭、の計4頭いたんだ。雄牛とは言え体が小さくても気が荒くてね、力はあるんだが言うことを聞かない。お爺さんが見浦で生まれたんだからと飼い殺し状態の牛だったが雄牛だから言うことをきかない。腹を立てると角を下げて向かってくる、住み込みの林蔵さんも雇い人の又一さんも怖がって、結局は小学生の私が使うことに、ムチで叩いたことのない私には仕事を止めようとゴネルことはあっても追っかけれることはなかった。ところが短気な親父さんは、歩かんのならこうするとムチで叩くもんだから、牛君言うことをきかない、仕事ははかどらない。結局、田圃で牛使いは私と言うことなった。動員で家を空けた1年、親父さんは、どうやって仕事をこなしたんだろうね。

とはいえ、私心のない親父さんには集落の揉め事が持ち込まれる。相続の争いから、浮気の始末まで、ただでさえ見浦の仕事が山積しているのに解決に走り回る。自分達が食料が足らないというのに、ジャガイモが少しばかり多く出来たからと疎開した家族に届けさせられたこともある。父が亡くなった後、そこの奥さんから「貴方のお父さんには大変お世話になって」と涙ぐんでお礼を言われた。でも人に迷惑をかけることだけは極端に嫌ったね。そんなわけで見浦家に伝統に従って衰亡の坂道を転げ落ちて、どん底から這い上がるという歴史の繰り返しが起きた。でも、どんな時でも、揺るぎのない信念で生き抜いた親父は私の誇りなんだ。

彼の人生の師が誰かは知らない。見浦家では勉強以外には特別はなかったと、借金の言い訳に新庄(今の北広島町)へ行かされた話は何度も聞いた「旦那さん今年はこれだけしか出来なんだけー、後は来年でこらえてつかーさい」の口上で。その悔しさが弱者への配慮になり、勉学へのバネになった。でも不器用な人だったな。

長々と父弥七の話を書いた。彼の全貌を伝えることは出来ないが一面だけでも理解してもらえたら望外の満足である。彼に較べれば私はとるに足らない人間だが全力をあげて生きたことだけは認めて欲しい。そして彼の遺伝子が私を経て貴方にも伝わっていることを忘れないで欲しい。

人生は長いようで短い。認められようと、認められまいと、全力で生きる。それが自然を神とし、父を師として生きた私からの伝言である。

2016.1.11 見浦 哲弥

2015年11月14日

他人に返せ

ご存じかも知れませんが、私の母方は越前藩の中級の侍で、祖父も祖母もその環境の中で育ちました。従ってその影響は孫の私にも及んで、武士は食わねど高楊枝などと、思い違いもしましてね。私の子供時代を知る人は、老人になった現在との違いに驚く事でしょうね。

あれは二十歳過ぎ、世の中の仕組みを教えてもらおうと、加計の前田睦雄先生に弟子入りしました。先生は、加計家、佐々木家、前田家、加計3名家の一員、政治的には左でね、日本社会党の地方活動家、何が気に入られたか自分の子供の様に可愛がって頂いた。他人に頼るなと侍の教育を受けた私は心苦しくて、ある時先生に申し上げた。「先生、もう結構です、こんなに親身にしていただいても、ご恩返しはできない」と。それを聞いた先生が怒ったこと、烈火の如くとの言葉がありますが、正にその言葉どおり、怖かったのを覚えています。

やがて怒りの収まった先生が、その理由を説明してくれました。「他人の善意に、返せないからと断る、それでは世の中は成り立たない、返せない善意は、必要とする他人に返せば良いんだ」と、商売と善意との違いが判らなかった私が新しい目を持った瞬間でした。

聖書に「自分がして欲しいと、思うことを他人にして上げなさい。自分がして欲しくない事は人にしてはいけない。」との意味の教えがあります。幼い頃、日曜学校に通って教えられたことです。(幼年期は福井市で育ちました)それを思い出したのです。

勿論、家族を抱えて生活していますから、私達の善意などささやかな物ですが、余っていて他の人が必要な物は差し上げてはと考えて生きてきました。
その一つが堆肥です。百姓には堆肥は大切な資源でした。昔は深入山の草刈り場に競争で材料の山草を刈りに行ったものです。
ところが牧場を始めて牛が200頭近くにもなると、年間で1500トン前後も出ます。材料の一部がオガクズや木屑に変わりましたが、よく腐らせると見事な堆肥になるのです。

私も人並みに欲張りですから、懸命に牧場に撒くのですが、天候や仕事の都合で幾ばくかは残るのです。それを皆さんに差し上げようと決めたのです。勿論、金、金の世の中ですから堆肥も有価物、金に換えて一円でも経営にプラスにしろと指導もありました。でもそれではお金に縁のない私達は受けた恩を返すことは出来ない、せめて堆肥ぐらいは差し上げようと言うことになりました。
ところが私達は大の金持ち嫌い、金を出すから積んでくれ、もってこい、儲かるんだから文句はあるまい、そんな人の気持ちも金で買えるという考え方が嫌いなのです。勿論、市場経済というシステムに首まで浸かっているのですから、そればかりでは飢え死に間違いなしですが、せめて一つ位は損徳抜きがないと人間ではなくなる、そう考えているのです。
話し合って私達の気持ちを理解した人は、気兼ねなく堆肥を積みに来る、こんな野菜が出来た、お米が変わったと見本を持ってくる、世間話で時間を忘れる時もある、山奥の小さな集落に住む私達が広い社会との接点を持つことが出来る、そんな効能をもたらしてくれたのです。

今年も堆肥の季節になりました。常連になった人達が見浦牧場を訪れてくれるのを心待ちにしています。お元気な近況を聞かせて貰えるのを楽しみに、お待ちしているのです。

2012.5.8 見浦哲弥

2013年3月2日

ドンベイと経済

市場経済という言葉をよく聞くようになりました。日本経済の基本で、政治も、商業も、農業もこの法則に従って動いているのですが、国民が正確に理解しているとは思えない。教育が悪いのか、マスコミの解説が下手なのか、もどかしく感じることがあります。今日はドン百姓の見浦が飛んでもない説明をしますので、笑い飛ばして下さい。

経済というのは、大胆に解説すると、生産から消費までの流れ、(主にお金と物ですが)を総称する事だと思っています。昔の小板でもそうでしたが、田舎では自給自足が基本でした(これを自給自足経済といいます)。必要品も出来るだけ自分のところで生産しましてね。
たとえば牛に使うロープ(牛綱と言います)、現在はKPロープとよばれるプラスチックの製品を使用していますが、子供の頃は春先に畑に大麻の種をまく処から始まって、お盆過ぎの刈り取り、蒸して皮をはぎ、水に晒して白い麻の繊維に仕上げるのです。麻(お)と言いましてね、ロープの太さに束ねて端を天井の梁に結びつけ、3人でかけ声をかけ合いながら力一杯、撚(より)をかける。撚りが弱いと柔らかい縄になつて役に立たない。牛綱一本でも飛んでもない時間と労力と技術を加えて作ったものです。牛綱1本でも大変な貴重品でした。
戦後は田舎でも、自給自足の経済から生産物の大部分を売却して、その代価で必要な資材を購入して、生活する交換経済に変化したのです。

ところが戦争中に施行された食料管理法(食管法)で基幹食料の米、麦は政府が全量買い上げ、政策価格で売り渡す方式になり、価格は需要供給で決まる市場価格ではなくて、政府が決める政策価格が何十年も続いたのです。その結果農民は、米価闘争をやれば価格が上がると政治闘争にうつつを抜かす事になりました。そして選挙の季節ともなれば東京に何万人もの農民や農業関係者(農協の職員)を集めて米価の値上げをぶちあげる、米価闘争が日常化したのです。
当時、私は戸河内農協の理事、理事会で組合長が「東京の大会に2名の派遣が割り当てられているので旅費の支出を認めて欲しい」と提案、その理由が「専業農家が多い農協は熱心なんだが、都市型の農協は米価が下がる方が組合員の利益だと消極的だ、が本年だけはもう一年と言うことなったので、認めて欲しい。」

こんな裏話のある食管法ですが、その最大のデメリットは農民が日本の経済の仕組みが市場経済に移行しているのに、その仕組みを理解しなかったことです。
物の値段は需要供給のバランスで決まると言うことを理解できなかった。米価は政府と交渉の結果で決まるもの信じ込んだ。その為には自分たちの息がかかった議員を一人でも多く国会に送り込むことだと思い込んでしまった。

ある年、小板の小学校で運動会がありました。小さな集落ですが、それでも生徒が30人ばかりいましたね。集落の全員が集まって、それなりに賑やかでした。
その折り、大人の賞品に即席麺のドンベイが出たのです。丁度普及の始まりで珍しかった。会が終了して後始末をして、残った賞品のドンベイを食べようと言うことになりました、お湯を沸かしてね。
一口食べた友人が言いました「これは旨い、なんぼでも食える」。
丁度、その秋から米の過剰を抑制するために減反政策が始まっていたのです。前述の友人口癖は「政府はけしからん、米を作るなとは何事か」。
便利で味のいい加工食品の登場で米の消費が減り国や農協の倉庫に米があふれて、やむをえず始めた減反政策、しかし、その本当の意味を農民が理解できなかった。自分たちはお米を食べなくなったのに、都会の消費者にはもっと米を食えはエゴ以外の何者でもありませんでした。

市場経済では、消費と生産が均衡するように価格が動きます。此の原理が理解できれば、このシステムの中では何が一番大切かが理解できるはずです。生産者にとって消費者の動向が、消費者からは生産者の現状を、それぞれ理解することが基本になっていることを。
ところが消費者は値段の安いことだけを注目して、どんな所で、どんなシステムで生産されて居るのかは考えない。明日も来年も10年先も生きているかも知れないのに、その時の生産はどうなっているかは考えない。農産物は足りないからと言って翌日から増産できるものではない。お米は1年に1作しか出来ないし、野菜も何ヶ月もかかる、まして田圃や畑が植物が育つようになるのには、何年も何十年もかかるのに私達は関係ない、である。
一方生産者は市場の要求だけに注目して、見てくれや外装だけにエネルギーを費やす。
農産物は命の源なのに、自家消費と販売用とは差別して作る。自分たちが食べるお米や野菜には堆肥を入れ農薬は使わないように努力するのに、市場に出荷する農産物は見てくれ重視、金肥ザグザグ、農薬たっぷり、そんな農民がまだ存在するのです。
市場経済では利益のマキシマムが正義だと教えます。それだけを、ひたすら信じ込んで、自分の利益だけで消費者のことは考えない、そんな人がいます。立場が変わると自分たちも消費者なのにね。

さて、市場経済の中で利益を上げるのには2つの方法があるのです。

1つ目の方法は競争相手より一円でも安く生産する、その為には小規模生産より大規模生産の方がコストが低い。当たり前のことですが農薬でも飼料でも1-2袋ずつ購入するよりも纏めて大量買いをする方が単位当たりの値段ははるかに安い。見浦牧場でも輸入の干し草は25トンのコンテナで、配合飼料はバラで5トン車が配送してくる。1-2頭飼いの牛飼いさんから見れば飛んでもない安さの値段です。それでも牧場の中では小さな方に属します。コストで大型牧場に競争するには力が足りません。

もう一つの方法は人より先んじる事です。これなら大牧場が同じ技術や考えを持つまでは競争相手がいないので利益を上げることができます。
見浦牧場のように資本力の小さい、土地が広くない牧場で生き残る為にはこの方法しかないのです。
ですから既存の後追いだけでは駄目なのです。学校での知識や専門書は基礎の基礎であって、それだけでは利益は上がらない、そこから一歩も二歩も先んじた分だけが、競争力になる、これが私達の考えなのです。

それならどうしたら、先んじることが出来るのかと、貴方は聞くでしょう。
それが、「柴栗と鉛筆」で述べた柴栗と鉛筆の理論なのです。

もう一度振り返って欲しい。消費者が何を望んでいるか、それを知ることは柴栗が何処で実っているかを理解する事。でも、それだけでは足りない、そこへ一歩でも二歩でも先にたどりつくこと。さもないと栗は人が拾ったあと、ゴミにもならないイガがあるだけ。先にたどりつくための方法は自分の足下にお手本があるのに気がついていないだけ。
繰り返しましょう。人に先んじること、その為には我が身を削ること。

今日の話しは、これまでです。思いが文章に伝わらないもどかしさはありますが、気持ちの一端でも触れて頂けたら幸いです。

2012.9.2 見浦哲弥

2013年2月26日

柴栗と鉛筆

私が小板に帰った頃は柴栗の全盛時代、ベテランになると一日に30リットルも50リットルも拾う、ところが私が栗拾いに行くと空の毬(イガ)ばかりで栗がない、たまに栗に出会っても手のひらに一杯も拾えれば大漁、当時は藤田屋の婆様と住福の爺様が小板の名人として存在していた。
2人ともナバ(注:キノコの意)取りも神様で、あやかりたいと思っても遠く及ばない。ある時、名人の技を解説して教えてくれた年寄りが名人の名人たる所以を教えてくれた。ポイントを押さえた話で、目から鱗が落ちた。今日はその話しを。

栗拾いも人に先んじる事が全てで、その為には栗の木が生育するのはどんな所か、何処にどんな栗の木があって、今年の成り具合はと、日頃から観察するのだと言う。名人ともなると「そりゃー、よう知っとるけーのー」。
栗にも熟期がある。早生と晩生と、どんな天候で落ち始めるか、落ちる時間も日によって違うのだと教えられた。
そう言えば、栗林は東南面や北面の表土の厚い肥沃な所でしたね。谷によって差がありましたが、おまけに品種まであって、極めて行けばきりがない。名人はそれを全部頭に入れているのだとか。簡単には名人になれない。

藤田屋の婆様は、その日が来ると暗いうちから目的の林に行って待つ、明るくなると拾い始めて袋詰め、私達が山に入る頃は、袋詰めの栗を自宅に運搬中、大人と赤ん坊の勝負で問題にならない。
雨降りの朝は特に大漁で、そんな日は婆様も拾い残しがある。そんな場所に行き当たったら柴栗の絨毯で小さな栗は無視、そんなことが時にはありました。
それはまさに市場経済の成功条件、頭を使い、苦労をいとわない。誰もが知っていることなのに、気が付くのが少し遅すぎた。お陰で私は人生の終わりでもまだ成功していない。

ところが、世の中は名人の独走を何時までも許すほどヤワではない。20歳ばかり年下の住福の謙一爺様が名人を追い抜こうと登場した。婆様の技術を盗もうと虎視眈々、一寸した世間話にも頭を突っ込んでくる。元々頭のいい婆様、この野郎と気が付いた。
途端に柴栗やナバの話しはしなくなった。そんなことでは謙一爺様はへこたれない。今度はシーズンになると婆様の行動に目を凝らす。ところがそんなことはご承知の婆様、おとりの行動で粕を掴ます、夜明けの暗いうちに家を抜け出す。爺様はさればとて夜のうちから婆様宅が見えるところで番をする。婆様は跡をつけられたと気付くと目的地には行かない等々、丁々発止の知恵比べ。その内に若さの謙一爺様が少しずつ婆様に追いついた。そして小板は2大名人の時代に突入。一般人には運が良ければおこぼれがある、そんな時代が続いたんだ。

一歩先んじなければ何もない、こんなお手本があるのに、やり手を称する連中が、あそこは何々をして儲けたそうな、あいつは何々を売って成功したそうな聞くと、前段がなくて人真似のオンパレード、うまく行かないと運が悪いと他人のせい、そして失敗、倒産、そんな人が多かったな。

たかが柴栗、それでも換金するほど拾おうとすると努力がいる、勉強がいる。
最近は使われることが少なくなった鉛筆は、我が身を削って始めて字が書ける、線が引ける、削らなければ、ただの棒切れではないか。謙一爺様が藤田屋の婆様の行動を夜明け前から見張った努力は、是非はあるにしろ我が身を削った努力ではないのか。

ある時小板では勉強家?と称する人が訪ねてきた。彼は陸軍で下士官にまでたどりついた人、曰く「見浦や、お前は人のやらないことやって辛苦ばかりする。わしゃー利口なけー、人がやって美味いことが判ったことをやる」とのたまった。返事のしようがなかったね。
勿論、最後は倒産、現在は廃屋の痕跡が残るだけ。

今日は我が身を削って、一歩先んじる、市場経済の中で生き残る処世訓の話。

2012.9.3 見浦哲弥

2013年1月6日

幸せの数

この地方では運のいいことをマンがいいといいますが、他人はとかく良くみえるようです。
友人のO君の口癖は「わしゃーマンが悪い」でした。
ところが私からみると彼は人並み以上に幸運だったと思うのですが、マイナス面だけ取り上げて、不幸じゃ不幸じゃが口癖、これには我慢ができませんでした。

生意気なようですが、早く母を亡くし、恵まれた中産階級の生活から一転して没落地主の厳しい現実の中で生きた私には幸運だけがやってくるというのはおとぎ話の中だけ、いやおとぎ話にも運不運はありましたね。結末が幸せで終わるだけ。
そんなわけで「マンが悪い、マンが悪い」のセリフに我慢ができませんでした。

彼が60過ぎのときでしたでしょうか、例によってマンが悪いが始まりました。聞き流そうと思ったがそのときは虫の居所が悪かった。それでつい本音が出てしまいました。

”君はマンが悪いを口にするけれど、運のよかったことを数えてみたことがあるのかい、私から見ると君の幸運の数は他の人より多い気がする、数えてみようか”
彼は憤懣やるかたない顔で私をにらみつけました。そこで私は知る限りの彼の幸運を並べて見せたのです。

君はお母さんの連れ子、それを実子同様に大事にしてくれた養父、彼曰く、「小学校に入学するとき、いじめられては」、と入籍してくれたな。

20代の後半、結核で長期入院をしたとき、養父と奥さんが力を合わせて子供たちを養い家庭を守ってくれた、それは幸運とは言わないのかい。

6人いた子供さんが全員成長できた。医者から見離された大病のお子さんもいたのに。

と数え始めたのです。黙って聞いていた彼が「もういい」と一言、それ以後は私の前では「マンが悪い」が消えました。

人間誰でもいいことばかりではありません。苦しいときもあれば、悲しいこともある。家庭が明るくて、家族が助け合って、貧乏でもあるが食べることには事欠かない、贅沢は夢でも時には笑いはある。そんな生活でも心の持ち方一つで幸せにも不幸にもなる。

私の人生の物差しは自然、山奥の小板は文化の恵みは薄いが、山川草木、周囲はすべて自然、おまけに私たちは動物相手に働き、生活している。だからこそ自然が物差し、お寺さんでもない、牧師さんでもない、それが自分の物差し、身近な自然現象が生きるよすがを教えてくれる。

人間だから不運が続くことはある。しかし悪天候が続くことはあっても、やがては晴れてそよ風が吹く。生きていてよかったと春風も吹く。そしてあきらめてはいけないと自然が教える。
幸せの数と不幸の数は同数かもしれないが、心の持ち方一つで不幸と思っていることが幸せに変わる。そして幸せの数がひとつでも多ければ素晴らしい人生なんだと気づいてほしい。

一度だけの命、生まれる定めは自分では決められない。でも生き方や考え方は変えることができる。だから自分の幸せと不幸の数を比べてみよう。ひとつでも幸せが多いと気づいたら、生き方も変わるかもしれない。

人生の終わりにたどり着いて色々なことが見え始めている。もう私には役に立たない話だが、若い貴方には参考になるかもしれない。いい人生にしてください。

2012.3.8 見浦 哲弥

2012年7月14日

雪国の教え

1945年12月敗戦の年、国民総動員令で14歳の私も新庄村(現在の北広島町新庄)に動員されていました。敗戦は8月15日、日本中が混乱に次ぐ混乱で動員先の農兵隊に正式に解散命令がきたのが12月の末でした。
今日からは大手を振って帰れると聞かされて、帰心矢の如くで一食分の握り飯と一日分のお米をもらって(当時お米がないと何処でも泊めてもらえなかった)リュックを背負って宿舎を出たのが10時過ぎだったと思います。新庄から小板まで約40キロ、自動車の普及した現在では4-50分の距離ですが、子供の足では1日がかり、懸命に歩けば日暮れまでには小板に帰れると思い込んだのです。

新庄から大朝まではさして登りもなく歩きやすかったのですが、芸北に出るには大谷という大きな峠を越さなければなりません。その頂上あたりから雪が降り始めたのです。足は支給された地下足袋、雪が解けて濡れて、その冷たさをこらえて、家に帰れる、その一心で歩き続けました。
中野村、美和村、雄鹿原村(いずれも現在の北広島町)を過ぎてあと10キロという橋山という集落にたどり着いたときには薄暗くなっていました。おまけに積雪は20センチくらい、街灯もない山道で懐中電灯もなく、途方にくれましたね。
橋山部落は当時6戸ぐらい農家があったと記憶しています。灯りを頼りに一軒の農家の戸をたたきました。囲炉裏端におられた老夫婦が何か用事かと聞かれた。それまで張りつめていた気持ちが途切れてなきながら事情を話したのです。
何処までいくのか、何処の集落のなんと言う家かと確認された後は、早く囲炉裏にあたれ、腹が減っているだろうから飯を食え、疲れているだろうから早く寝ろ、・・・。

翌日は雪も止んでいい天気だったと記憶しています。朝ごはんをご馳走になってお世話になったお礼を言って、「おいくらお払いしたらよろしいでしょうか」と申し上げたのです。動員とはいえ解散時にいくばくかの給料をもらっていました。食事をさせてもらい、泊めてもらった、何とか支払いはできると思ったのです。

ところがお爺さんが顔色を変えて叱りました。「金はいらん。よく覚えておきんさい。雪道で難渋したときは誰でも助けることになっておる。それはいつ自分も雪道で遭難することになるかもしれん。人を助けないで自分が助けてもらえるわけがない。昔から雪道の難儀は助けることと教えられてきた。あんたも忘れんさんな。」と諭されたのです。
子供ながらに心に響きました。でも帰宅してすぐお礼にはいけませんでした。10キロの道は動員で弱った体には遠い道でした。そのうち、仕事に勉強に(独学をしていました)追われて、お礼を申し上げたのはそれから40年後、農協の役員で一緒になったお孫さんに「貴方のお爺さんにお世話になりました。」と。

でも「人を助けないで、人に助けてもらえるはずがない」は私の大切な教えになったのです。

2012.2.10 見浦 哲弥

2012年5月20日

こがーなお客さんがおるんじゃけー

時折、広島の大きな電気店のチラシが入ってきます。広島という地方都市を拠点として全国展開をしている有名な電気店です。そのチラシを見るたびに50年あまり前に聞いた「こがーなお客さんがおるんじゃけー」とお店の隅から聞こえた声が蘇るのです。

貴方は再販制度というのをご存知ですか?メーカーが販売価格を指定して系列店に商品を卸す制度です。戦後確立したこの制度で消費者は大メーカーの品物はどこで買っても同一価格、そして今考えると想像もできない高い価格を押し付けられていたのです。たとえば子供が広島に下宿することになり、扇風機を買ってやりました。20センチが9000円、1-2年後に30センチの扇風機が4000円で買えたときには、詐欺まがいの価格設定だと憤慨したものです。

発足当時、第一産業という社名だったこの会社は全国から倉庫に眠っている商品や過剰在庫の商品を買い集めて安値で販売してくれたのですから、貧乏な私たちには救いの神、早速熱心なファンになったのは言うまでもありません。

しかしながら第一産業は広島市内にある。当時は広島市まで行くのは役場のある戸河内まで約20キロの山道を歩いて、そこからボンネットバスで3時間、おいそれとは行けない遠い遠いところでした。

あれは昭和29年かな、何の娯楽もない雪の中、ラジオを聴いて寝正月と決め込んだ元旦にそのラジオが故障、戦後素人が組み立てた安物のラジオで修理がきかない。困りましたね。家中のお金をかき集めても1万円弱しかない。町の電気屋に頼むと2万円前後もする。まだ何もかも品不足の時代で何もかも高かった。
この手持ち金では安売りの第一産業にいくしか方法がないと思い込んだのです。

当時は私も20代前半、血気盛んでした。思い立ったら即実行。80歳を超した今では想像もできません。お正月の2日というのに広島に出かけたのだから。現在はお正月の初売りは2日が当たり前で元旦から開いているお店も珍しくありませんが、当時は正月三が日はお休みと決まっている。食べ物屋も休業が当たり前でした。それも忘れていたのですから頭に血が上っていた。

広島に着いたのは昼過ぎ、紙屋町の第一産業に駆けつけると大戸が堅くしまっていました。そこで初めて正月は休みだと気が付いたのです。休みでしたと手ぶらで帰るには小板は遠すぎる。えーいままよと潜り戸をたたきました。大声で「こんにちは」と何度も呼びながら。

暫くたたくと「何ですか」と声がして壮年の男の人が顔を出しました。「ラジオを売ってください」と言うと「今日は休みです」との答え。当たり前です。でも朝早くから一日ががりで出てきた広島、「はいそうですか」で引き下がるわけにはいきません。実はこういうわけでと説明して、何とかなりませんかと食い下がりました。暫く考えた男の人は「そんな理由ならお売りしましょう」と店内に入れてくれました。「その棚がラジオです。お好きな品を選んでください。」言い終わると商品棚の陰に消えたのです。

照明の消えた店内は明かり窓の光だけ、目を凝らさないと何も見えませんでした。
やがて目が慣れて棚の上の商品が見え始めました。バラックのお店とはいえ、山県の山奥まで名前が通った第一産業、いろいろなラジオがありました。そのとき、品定めに懸命な私の耳に聞くともなしの声が聞こえてきました。人がもう一人いたのです。男の人が。
「もう一度やろうや」「そうはゆうてものー」・・・その繰り返しでした。
「正月にの、山県の山奥からお客さんが第一産業いうて訪ねてきてくれる、わしらー間違うちゃーおらん。こがーなお客さんがおるんじゃけー、お客さんのためにもう一度やってみようや。」「そうよの、お客さんが来てくれるんじゃけーの」

聞くとはなしに聞いた話、ラジオが買えた嬉しさに気にも留めませんでしたが、帰宅して新聞を読んで驚いた。第一産業は年末に倒産していました。

家電メーカーが価格をコントロールできる再販制度を維持するため、製品の出荷停止を含めて様々な圧力を加えたといいます。一地方の小さな販売店が抵抗するには規模の差があまりにも大きかった。独禁法が当たり前の現在では想像もできませんが、それが現実でした。
私が訪れたとき、第一産業はそのどん底にあったのです。そうするとあの会話は?

聞くともなしに耳に入った会話、そうです。もう一度大企業に挑戦しようとしていた、社長さんと腹心の重役さんとの会話だったのです。それから何年かすると、また第一産業の看板が上がりました。小さなお店だったが嬉しかった。

貧乏な私たちはささやかな品物しか買えなかった。でも電気製品を買うときはまず第一産業でした。耳の奥に残る「お客さんがおるんじゃけー」の言葉に促されて。

第一産業は社名がデオデオに変わり、エディオンに変わり今では日本でも3本の指の中に入るまで発展しました。先々代の「お客さんがおるんじゃけー・・・」の言葉を忘れない限り、まだ発展するでしょう。偶然めぐり合った小さな接点、若かった私には生涯の勉強になりました。

2012.2.3 見浦 哲弥

2012年2月26日

私の恩師 榎野俊文先生

先生に初めてお会いしたのは、県庁の中島部長の会議室、当時先生は神石の油木種畜場の場長先生。
2度目はその数ヶ月後の油木種畜場で開かれた、多頭化一貫試験の講習会で。

当日、会場の種畜場についた私は、講習会が始まる前に事務所にご挨拶に伺ったのです。ちょうど先生が講師の技術員に指導についての注意事項の説明をされているところでした。
話が済むまではと遠慮して事務所の外で待っていたのですが、聞くともなしに聞こえてきたのは、「今日は受講者の中に大物がいます。手抜きをしないで丁寧に説明をするように」という言葉でした。うれしかったな。共同経営に失敗して、再び和牛飼育に挑戦を決めたのですから、少しでも自分の知識を補う、そのためならどんな努力でもする覚悟でしたから、ぜひともその大物氏を見つけ出して教えを受けたいと思ったのでした。

教室での講義あり、飼育の現場や、飼料畑の見学、牛の放牧状況の説明など、盛りだくさんの内容でした。ところが2日間の授業の間、注意深く観察したのに、問題の大物氏を発見できなかった。学んだ新技術は多かったのに、物足りない気持ちで帰途に着いたのを覚えています。
その大物氏が、実は自分のことだったと知ったのはそれからずいぶんたってからのことでした。

それからも問題が起きると試験場を訪問しました。しかし、備後の油木町は岡山との県境に近い、広い広島県をほとんど完全に横断するわけですから、辛いドライブでした。何しろ高速道路など存在しない時代、でも新しい技術に対する欲望は、まだ若かった私を駆り立てたのでした。

何度も私の文章の中に登場したお隣の芸北町農協が経営する、芸北大規模草地と呼ばれる大牧場の建設が始まったのが、再生見浦牧場のスタートと同じころ、5団地に分かれているとはいえ、220ヘクタールに及ぶ広大な牧場は、私には夢のまた夢、ここにも学ぶべき技術は存在するはずと、時間をつくっては見学に通いましたね。

当時はまだ珍しかった大型のトラクターをはじめ、外国製の農機具が勢ぞろい、山林や原野が見る見る畑になっていく、私には異次元の羨望の世界でした。
でも、和光農園解散の事後処理でお近づきになれた、県の畜産関係の幹部の方が場長として就任され、お話を聞く機会も増えました。
中島先生の会議室の一件以来、どの先生方も顔見知り、疑問点は丁寧に教えていただきましたね。

2代目から3代目に油木の種畜場の場長先生だった榎野先生が就任された、恩師が身近にこられたことで本部があった雄鹿原には足しげく何度も通いました。

先生には私のように熱心に教えを請うた人間が2人いたのです。一人は私より何年か早く門をたたいた福山の中山さん、当時40歳前後だったと聞きました。彼が広島県で和牛の分野で大成功した中山牧場の先代社長さん、和牛を飼いたいのでと門をたたいたとか。先生の話を聞いた彼は中年に差し掛かった自分には短い時間で学習するには実地に学ぶしかないと考えたとか。「それでのー、屠場の屠夫の助手になっての」と、先生が楽しそうに話されたのです。
屠場とは家畜の処理場のこと、家畜とはいえ動物の命を奪うところ、働く現場は異様な緊張の世界、その順列の厳しさは他業種では想像もできない厳しさがあるのです。40も過ぎた中年のオッサンが勉学のためとはいえ、最下層の助手として働く、少々の勇気では勤まらない、それを勤め上げて必要な知識を吸収して、牛を飼い始めたのです。

市場で子牛を買ってきて、15ヶ月から20ヶ月あまり太らせて市場に売る、肥育牛経営という方式に取り組んでまもなく、一番利益が上がるのは解体して消費者に直接売る最終段階だと気がついた彼は直販事業を立ち上げたのです。既存の精肉販売業者の様々な妨害を受けながら道を切り開いて成功への道を登ったのです。

私は中山さんの後に榎野先生に入門した2人目の民間人の弟子になるのです。

先生の2人の評価は、中山君は商売人でのーと、あんたは農業にこだわる百姓でのー、が先生の口癖でした。時は農民が高収入を目指して突っ走る時代、新分野を切り開こうと苦難の道を歩き続ける弟子を暖かいまなざしで見つめていてくださいました。

中山さんの仕事も大変でしたが、和牛の放牧一貫経営も理想とは違って困難の連続でした。仲間たちが脱落し、公営牧場が閉鎖していく中で、場長として芸北大規模草地の後身の公営牧場を経営された先生は、試験場で立案され試験された基幹技術が小さな周辺技術の集積がなければ成り立たないことを痛感されたのです。

そしてあるとき私に頭を下げられました。「見浦君、申し訳なかった。」と。
驚いて何事ですかとの私の問いに「実は新しい牛飼いがこれほど難しいとは思わなかった。簡単に勧めて苦労をかけている。本当に申し訳なかった。」と。

先生が油木の種畜場の場長だったときに開発、実験された”多頭化放牧一貫経営”、この方式を選んだのは私自身でしたから、苦労するのは自分の選択の結果、他人を恨んだことは一度もない。それを先生が自分の責任のように感じて頭を下げられた、この先生の優しさが見浦牧場の精神的な支えのひとつだったのです。

退官されて西条の実家にお帰りになりました。先生の実家は西条の中堅どころの酒造メーカー。「酒屋が傾いて仕方なしに役人になった」と話しておられました。
西条は仕事の合間に訪問するには少し遠い、でも、来場される部下だった方々に近況をお聞きすると、年をとられて物忘れが多くなられてとのこと、お元気なうちにお伺いしなくてはと時間を作っていきました。
酒蔵に隣り合ったご自宅の縁側におられた先生は目を丸くされました。「覚えていらっしゃいますか」と申し上げると「見浦君じゃー、忘りゃーせんよ」と答えられました。

近況を報告して雑談をしばらく、楽しそうに話される先生は昔と変わりありませんでしたが、お年を召されたの感じは否めませんでした。

「また遊びにこいよ」との言葉が先生との別れでした。それからまもなく老人性痴呆症が始まったのです。旧部下の方々が、「もう俺の顔がわからなくて」と話されるのを聞くのが辛かった。
そのうち、何ヶ月も前になくなられたとの訃報が伝わってきました。油木の場長先生の時に所員に「今日は大物の講習生がくる」と話していた先生、「すまなんだ、和牛がこんなに難しいとは知らなんだ、それを勧めて」と詫びられた先生、その温顔が私の心の支えのひとつでした。

初めて中島先生の会議室でお会いしてから50年近くになります。

先生、見浦はまだあのときの先生の夢を追い続けています。

2011.2.26 見浦 哲弥

2011年7月20日

「これなーに?」~見浦牧場の教育論~

内孫の淳弥が盛んに「これなーに?」を連発しています。彼は見浦牧場の現経営者見浦和弥の次男坊、その姿を見ていると、40年も前に亡くなった父の教えを思い出すのです。

あれは、私の最初の子供、祐子が生まれた時、父が改まって話してくれたのです。

・・・

人は自分の子供は誰も可愛い、そして特別だと思うものだ。その挙句に頭もいいはずだから勉強もできるはずと無理強いをはじめる。世の中にはそんなに天才も秀才もいないのに。

私は30年あまり中学校(旧制)の数学教師をした。広島第一中学校(現国泰寺高校)、熊本第一中学校、福井第一中学校と、各県トップの中学校でだ。第一中学校はその県の優秀な生徒が集まってくる。その中で理数科を選ぶ連中は頭が切れるやつ、そんな連中を3000人教えたんだ。その中で天才秀才と認めたのはたった3人しかいなかった。そんな連中を実際に教えた俺が自分の子供を冷静に見るとみな平凡、一人も天才秀才はいなかった。だから努力の積み上げ以外、自分を高める方法はないんだ。

だが、勉強好きの子供はできる。それは好奇心の強い子供に育てることなんだ。それには最初が肝心なんだ。
子供は2歳から3歳の頃に「おかーさん、これなーに?」を聞く時がある。このときの対応が大切なんだ。聞かれたら本気で答えてやること。「あんたにはまだ無理、大きくなったら教えてあげる」が最も拙劣な対応だと。

子供は意味がわからなくても、大人が本気で答えてくれると、次も安心して聞いてくる。
そして新しいものに興味を示し、疑問を持つこと、答えを探すことに抵抗がなくなる。これが成長するにつれて、彼の性質になって、視野が広がっていく。それが学校での学習にも威力を発揮し始める。もっとも、学科の好き嫌いが大きくなる傾向があるが。

・・・

と教えられたのです。

私の子供は長女の祐子をはじめとして、女3人男2人の5人、いずれも就学時には平均以下だったのが、3年生4年生になるに従って学友を追い抜いていく、そして本校の戸河内中学校に入るころにはクラスのトップを争うようになる。父兄のみなさんが"見浦の子は頭がいい”と評価するのですが、本当のところは誰もしらないのです。「おかーさん、これなーに?」から始まっていることを。

父の教えの通り、「これなーに?」から育てられた好奇心は、人生を自分の力で歩いていくための能力の一つとなって子供たちを支えてくれているようです。
この記事を目にすることで、一人でも多くの親御さんが、お子さんの「これなーに?」を大事にしてあげてくれることを願っています。

2011.1.30 見浦 哲弥

2010年7月24日

あわてる乞食はもらいが少ない

この言葉は私が最も憤慨した罵声である。
もう過去の話しになった米の生産調整、貴方はまだ覚えておいでだろうか、敗戦後の日本が直面した問題に深刻な食糧不足があった。しかし政府の手厚い保護と技術の進歩で米作りは進歩し、日本の農村では最も安定した有利な作物になった。
ところが、食生活の変化でコメの消費が減少、余剰が生じ、その米を農業倉庫に保管して需要の増加を待ったのだが、余剰米は増加するばかり、農業倉庫(主に農協の所有)の保管量も増加、古古米(保管の年数がたつごとに食味が減退する、まずくなる)は食糧不適で飼料用として安く売り払うなど、食管会計(独立の食糧管理会計)の赤字は危機的に増大、たまりかねた政府はコメの生産調整に乗り出した。すなわち、コメを作らないと補助金をもらえる。その上政府の指定する作物を作ると補助金の上乗せもある。まじめに考えると随分農民を馬鹿にした政策なのですが、背に腹は代えられない。
その政策は昭和41年から始まったのです。基準は昭和40年にお米を作った田んぼが対象になる。ところが見浦はその40年に転作をして飼料用トウモロコシを作ったのです。一輪車しか行けない6アールほどの田んぼを除いて全面的に転作、したがって転作料と呼ばれた補助金の対象にはならなかった。

それを伝え聞いた反見浦派の人たちが集まって曰く「理屈ばっかりこねやがって、補助金がいっそも貰えんげな、あーゆうんを、あわてる乞食はもらいが少ない、ゆうんよ」と。さすがに笑い過ごすには重すぎましたね。

働かないとお金がもらえる、そのほうがよほど乞食に近い、てめーたちのほうが本当の乞食なんだと喉まで出かけたが多勢に無勢、ぐっとこらえましたが悔しかったな。
でもそれからの長い年月が経って振り返ると、あの笑った人たちのほとんどは厳しい市場競争の中で脱落していきました。
最も、投資と称して値上がり前の近郊の土地を購入、高く売って大金をつかんだ人がこの集落からも出ましたから、真面目にコツコツと働いて積み上げるのは時代遅れと思い込んだのは無理はありません。
しかしその人も子供さんがお金儲けは真面目に働くことではなく、うまく立ち回ることだと思い込んだからたまりません。親類も巻き込んですべての財産を失う羽目に追い込まれたのだから、あの時の高笑いはなんだったのでしょうね。

そうはいっても、真面目にコツコツ積み上げるのには勇気が要ります。特に若いころは周囲の運のいいやつばかりが目について、自分が情けなくなりました。
人生は努力の集積だと説かれても、格好のいい奴がちやほやされるのをみると、なんでもっと好男子に産んでくれなんだかと親を恨みましたし、体育の時間に要領が悪く仲間に笑われて自信を失って人をうらやむ、子供の頃は特にそうでしたね。
まして努力をしないで親の財産のおかげでのうのうと暮らす、うらやましいよりは反感を持ちました。この世の中は不公平ばかりとね。

集落の集会で金持ち談義が始まりました。裕福な2-3の人と取り巻き連中が能天気な話を延々と続けます。
聞いている人たちの中には生活の厳しい現実を抱えている人もいる。たまりかねて大きな声がでました。「世の中には生活の厳しい人もいるんだぞ、少しは考えて話せ。人の気持ちにはなれんのかい。」痛い指摘にお金持ちが激昂しました。「何か言えば銭がない銭がない口癖だがな。金がなけにゃ借りて使え、つまらんやつじゃあ」
話しの場が水を打ったように静かになりました。
後年、この人が破たんして無一文になったとき、誰も親身になってくれないと嘆いているのを聞いたことがありますが、自分がその種をまいたことは忘れてしまったのでしょう。

ニクソンショックで飼料の高騰、牛価の暴落で資金ショートに追い込まれたことがありました。ちょうどそのころ友人が思いもかけず高値で売れた山林代、700万円をどう使おうかと悩んでいると相談を受けた時は、さすがに世の中の不平等を恨みました。でもあきらめたりうらやんだりしないでど努力しました。その結果が今日だと思っています。浮き沈みは人生のならい、それを一つ一つ乗り越えてはじめて幸せや成功があると理解するまでには長い時間がかかりました。

汗を流さないで手に入る運は幸運ではなくて不運なのかもしれない、そんな話をしてくれる先輩が周囲にはいませんでした。そこに今の社会のひずみがあるのかも知れません。
ですからあえて声を大ににして伝えたいのです。この社会は努力せず、汗を流さないで手に入れたものは影絵でしかないのですよ、と。最も一日や一年や努力しても評価はされません。友人のように6年も努力したと訴えても誰も認めてはくれません。昔から10年ひと昔といわれてきました。最低が10年はかかる、今にはじまったことではないのです。
幸いなことに人間は、力のない子供と老人の間の時間を除いても、4-50年の長い時間を与えられています。どんな環境の人もチャンスは与えられているのです。そのことに気づくのと気付かないのが人生の大きな違いになって表れるのです。

最後にこの文章に目を留められた貴方、悔しい思いをしたときに思い出してください。悔し涙はマイナスではない、貴方の心次第で大きな力になることを、そうやって人生を歩いた人間が数多くいることを。
たった一度の人生です。くじけながら、泣きながら、それでも歩いている人がいることを思い、負けないでください。そしてその人たちは普通で平凡な人なんだということを。
汗しないで手に入れるものは本物ではない、それだけを知っている人たちだということを。

2009.7.31 見浦哲弥

2010年1月14日

岡部先生

あれは見浦牧場と義弟の田尻の牧場に、それぞれが和牛を10頭余り飼っていた頃ですから昭和45年前後だと思います。
50歳くらいの紳士が訪ねてこられました。「牛が放してあるのを見たので、どんな考えで飼っているのか話を聞かせてほしい」と。
てっきり新聞社の記者さんだと思い込んだ私は、「取材はお断りしています。」と申し上げたのです。
実は新聞の取材では苦い思い出があったのです。

この地方は中国新聞のエリアで、数年前、中国山地という連載記事がありました。
どういう経緯で取材にこられたのか定かではありませんが、当時義弟の弘康夫婦と共同経営していた和興兄弟農園を取材され、記事になりました。
農業部門をすべて統合して月給制、原則時間から時間の労働、4人の協議による経営方針の決定など、文字だけ並べれば理想の経営ですが、現実はそんなに甘くはなく、厳しい毎日だったのです。
それがちょっとした心の食い違いから崩壊するのは一瞬でした。なにしろ14歳のときから働きづめの私と、農業高校で習った教科書の農業を信じ切っていた義弟では初めから無理な協業でした。
問題を抱えながらの和興農園の記事は好意的な記事となって新聞に掲載されました。しかし、1年もたたないうちに崩壊したのですから、私にとっては苦い教訓となったのです。

ですから、紳士が「どうして取材を断るのですか?」の問いに、「農業は1年や2年で答えがでる、そんな考えでは何もできないのです。絵に描いた絵空事は農業ではないと思うのです。20年か30年して、実績をお見せしながら、こうこうです、とお答えをするのが農業だと信じているのです。」と。

翌年、再び息子さんと来場されました。長野の岡部です、と名乗って。
なぜこんな山奥に再度おいでになったのですか、とお聞きすると、実は前年、お宅とお隣とを息子と2人で訪ねたのです。お隣では、農業はすべて農政の責任、農政はかくあるべきと、当時農村にまん延していた農民評論家の考えをきかされました。
ところがお宅では、農業は結果がすべて。実績を見せられないのに、夢を本物らしく話すのは戯言、本当の農民ではない、そう返事をされた。あちらこちらと日本の農村を歩いたが、そんな対応の農民は珍しかったので、詳しく聞いてみたいと再訪することにした」と。

そういえば、私の政治の師、前田睦男先生も同じことを言われたことがありました。「見浦は変わっとるけーの」。
どうも私は変人のようですね。自分では普通の常識人だと信じているのですが。

閑話休題、先生は長野の人。若いときから農民教育に携わって、日本の農業普及員の制度を作ることに関係したこと、農林省の外郭団体に籍を置いて、農業の現場の調査報告をしていることを話されたのです。
しかし、ご自身のことは詳しく聞かせてはもらえませんでした。ですから40年あまりのお付き合いの中でも、先生は正体不明、が私の実感なのです。
ですが、変人見浦の話はよく聞いてくださいました。そして問題だなと思われた点について、ご自身の見聞の中からその答えになる、さまざまな現場の話をしてくださいました。それが私という小さな世界の住人が井の中の蛙にならずにすんだ大きな力になったのです。

それからは、西日本を調査旅行される時は必ず立ち寄られました。愛用のぼろぼろのブルーバードに乗って。
あるとき、私が日本の農民は勤勉だから、と申し上げたら、次においでの時はたくさんの写真を持ってこられました。そしてその中の1枚を示して、「これをどう思いますか」と聞かれました。
その写真には牧草地や畑が延々とはるかな山並みまで続く石の牧柵(?)で囲まれている風景でした。
「これは、畑にあった石ころを拾って積み上げてできた石垣なのですよ。これを作ったのはイングランドの農民。農民はどの国でも勤勉が当たり前。勤勉だけでは競争にならないのでは。」
”耕して天にいたる、これ精なるや、これ貧なるや”、中国清朝海軍の提督が遠洋航海で瀬戸内海の島々を見ての感想の言葉だと聞きました。
世界に冠たる日本農民の勤勉と思い込んでいた私には衝撃でした。農民は何処でも勤勉は当たり前、それなら外国の農民にまさるためには何があるか、学習と新しい発想しかない、そう確信したのです。

もともと考えることが好きな私が情報集めに懸命になりました。読書は当然ですが、それぞれの専門家には年齢の上下は関係なく教えを請いました。そしてその情報を分析して組み立てなおして、家族の意見を聞きました。子供でも真理を突くこともありましてね。
それがこの牧場で話しこむと面白い、考え方の切り口が違う、の原因なのですよ。

あるときはスイスの山岳酪農の写真を見せていただきました。私は、その1枚にくぎ付けになりました。出来上がった干し草を巨大な風呂敷に包んで、急斜面を車のある道路まで引き下ろしている写真でした。
少年時代、向深入と呼ばれた草刈り山から、干草を背負子(オイコと呼んでいました。)で背中に負って運びおろすつらい作業は、何か変わる方法はないかと思案したものです。上り下りの回数を少なくしようとたくさん背負うと膝がガクガクしましてね。却って疲労が大きくなる。ほどほどに背負うと、何回目かの急斜面の登りはものすごく疲れる。ずいぶん考えましたね。
ふと気がついたのは冬に引くそり、あれが使えないか、さっそくテストしました。しかし雪がないので草山でそりをひく、急斜面でも無理がありました。それなら上の梶棒だけなら、とこれはうまくいきました。背中に負う何倍も積んで、二人で(一人は転覆防止のため側面に)斜面を駆け下る、ガクガクする膝に力を入れながら背負っておりる苦しさに比べると天国でした。
ところが再び梶棒を担ぎあげるときは、背負子の何倍もの重量を持ち上げなくてはなりません。苦しかったですね。なんとか方法はないかと考えましたが、それ以上の知恵は出ませんでした。

ところがその写真では、大きな風呂敷に干し草を包んで引き下ろしている。これなら背負子の何倍も運べて担ぎあげるエネルギーも最小、まさに参ったの心境でした。
以来、外国とか、異業種とか関係なく、役立ちそうな技術や方法は積極的に取り入れましたね。
自分たちのエリア外の話でもしらないことは熱心に聞きました。本気で聞くと、相手の人も真剣になって、時には秘中の秘を話してくれる、そんなときは貧乏も忘れました。

ときたま機械の修理を依頼、そんなとき、サービスマンの人が、見浦さんに修理にいくと、仕事を休んで懸命に観察する、疑問をぶつける。教えないわけにはいかないし、教えれば次回は自分で挑戦する、「苦手じゃー」といいながら教えてくれました。日本という国は本当にいい国でした。

貴方はまだ覚えていますか、よど号ハイジャック事件を。赤軍派と呼ばれる過激派の連中が日航機を乗っ取って北朝鮮に逃げた話しです。
その時人質の乗客の身代わりになった政府高官が山村政務次官、その彼が農林大臣に就任したのです。
そして、「私は今の日本の農村の実態を知らない、誰か詳しく話せる人を探せ」と官僚に命じられた。そして岡部先生に白羽の矢が立てられた。
「農林省にきて大臣に農村の現場の実情をレクチャーしてくれるように」と指定の時間に大臣室に出頭すると「今日は岡部先生に勉強させていただくので一切の来客をお断りするように」と秘書官に命じられて、その日は一日中日本農業の現況と問題点についての話で費やされたと。

それから私の身辺にも異変が起き始めました。
最初は農林省(今の農水省)課長さんが牧場を見たいと連絡がありました。牧場つくりでいろいろお世話になっているのですから断るわけにもいかずお受けしました。
おいでになったのは、山本さんという課長さん、驚いたのはお供の多さ、肝をつぶしました。岡山の農政局、県庁の畜産課、地方事務所、普及所、役場などなど10台余りの公用車がついてきました。
あきれるや腹が立つやら、国道にずらりと並んだシーンはまだ目に浮かびます。
何を話したかはもう定かではありませんが、和牛の放牧一環経営の思いを述べていた記憶があります。ところが、最後に「見浦くん、金城牧場を知っているか」と聞かれました。”背負うた子に教えられ”に登場する、島根県金城町の大牧場です。5軒の農家の共同経営で自己資本5億円、国や県の補助金が20億円、総工費25億円、牧場面積百何十町歩という大牧場、何回も何回も見学に行った牧場です。
「よく知っています。最初から何回も見学に行かせてもらいましたから。」と申し上げたのです。ところが山本さん、しばらく考えてきかれました。「実は、その金城牧場がおかしくなって、再建を考えているんだ。君ならこんなときどう考えるか聞かせてほしい。」と言われたのです。

どんな人にも物おじしないのが私の身上、そこで持論を申し上げました。
日本列島は北から南まで3000キロ、沿岸から小板のような山地まで1000メートル余りの高低差、地勢学上、牧場ごとに千差万別の条件の違い、だから再建するのなら、一番地域を知りぬいている現場の人間が中心になって再建計画と立てないと不可能だと思いますと。
しばらく目をとして考えていらっしゃいました。やがて「計画の数字がきれいすぎたなー。あれは、お百姓さんではない、県のお役人がつくったなー。」と。

落ち目になった金城牧場の見学には、それきり行けなくなりました。倒産の危機は見浦牧場も例外ではありませんでしたから、落ち目の時に見学に来られるなど、小心の私たちには思っただけでつらい、私たちが嫌なものは他人も同じだと思ったのです。
それから何年かして、もう安定した頃と訪問しました。共同の農家の人は牧場経営から手を引いて一角で養豚に転進していました。豚は和牛より資金回転が速い、資本力の小さい農家には、和牛の多頭経営はもっとも難しい農業部門だったのです。

そして、牧場は島根県の畜産事業団の直轄になっていました。広島県の芸北大規模草地開発の牧場と同じように。

山本さんがお帰りになったあと、今度は広島県から依頼がありました。農林省の課長さんがもう1人話しを聞きに行きたいというが、引き受けてくれるか?
前回の大名行列で懲りた私は、丁重にお断りしました。ところがなんとか引き受けてほしいと強引です。上級官庁からの依頼では無理もありません。再三の依頼に私も本音がでました。前回はお供が大勢いらっしゃいました。お話は課長さんの他、おひとり二人なのに、10何台かの車は税金の無駄遣い、この牧場の生き方に合いませんと。
ところが折り返し返事がきました。その条件をのめば引き受けてくれるかと。そこまでくると、もう断る理由がなくなりました。旬日を経て東京から来場された方々を見て驚いた、課長さんと秘書官と運転手の3人だけ、その時点で私も前向きになりました。

それから半日、一番大きい草地を見下ろす丘に腰掛けて話しこみました。秘書官、運転手さんまで加えて。
見浦牧場のこと、和牛の一貫経営を始めたこと、これからの日本農業のこと、この地帯の農民気質のこと・・・・、話は尽きませんでした。
彼の名は川村さん、私より少し年長の40代から、ものすごく頭の切れる人で、自分の知らないことはとことん問い詰めてくる、変な農民の話しは面白かったのかもしれません。
夕方肌寒くなり始めて、また会いたいと言って帰って行かれました。日本の高級官僚には素晴らしい人がいる、目が覚める思いをしたものです。

それから間もなく県庁から再び依頼がありました。旅費は一切持つから、東京に行ってほしい。そして本省で課長連中の会議でこの間の話しを繰り返してほしいと。
時は建設当初の見浦牧場、猫の手も借りたいほどの忙しさ、でも日本の農業の中枢の頭脳はどんな人たちか、お会いしたら勉強になるだろうなと強く思いましたね。
ところがそれを聞いた家内の春さんは怒りました。勉強は教えられるほうが足を運ぶもの、教えにこいとは本末転倒ではないか、学歴や肩書にひれ伏してきた農民では考えない発想でした。
そして偉くなるつもりなら離婚してほしいと脅されました。
何度思い返しても、家内は女に生まれたのは間違い、男だったら田尻は崩壊ではなく発展中であったろうと思います。天の神様は大変な偏屈者ですね。

次の会においでになった岡部先生に川村さんのことをお聞きしたのです。それによると川村さんは大蔵省のエリート、時は田中角栄氏が自民党の幹事長のとき発表した日本列島改造論が世の中の話題をさらっている時、これを読んだ川村さんがこんな政策をとったらバブルが発生すると反対の論文を発表したのです。後年予告どおりにバブルが発生しました。東京の地価の総額でアメリカ全土が買えるなどと、バブルの幻想に国民が浮かれて経済が崩壊寸前までいきました。
その後始末に膨大な税金と空白の10年という時間を浪費したのですが、それは20年あまり後の話。

その田中さんが大蔵大臣になり大蔵省に乗り込んでくる、貴方もお聞きになったことがあると思いますが、彼は敵味方を峻別することで有名。反対の論文を発表した職員を許すわけがない。心配した時の高木大蔵事務次官は彼を田中さんの目の届かないところに隠すために農林省に送り込んだ、将来日本を背負う人材をみすみすつぶすわけにはいかないと。
ちなみに高木さんは何年かあと、国鉄総裁になって中曽根さんと国鉄民営化に豪腕を振るった人物。

そんな理由で図らずも農業にかかわった川村さんがデスクワークで満足するわけはなく、見浦牧場においでになり、変人見浦の話に共感された。そんな裏話をお聞きしたのです。
そんなこんなで川村さんとの縁は切れました。しかし、彼ほどの頭脳、どこかで噂話ぐらいは聞けるかと思ったのに、3年たっても4年たっても音信はありませんでした。その後、岡部先生が来場された時、川村さんのその後をお聞きしたのです。沈痛な表情で「彼はガンで死んだ」と言われたときは、大切な人ほど早死にすると世の中の無情を恨んだものです。

先生もご高齢になり、従前のように日本中を歩き回れる事が少なくなりました。ときどき届く年賀状でお元気を確かめながら、私の牧場経営に大きな影響を下さった先生のことは、家族全員忘れることはありませんでした。
4年前、先生から若者3人を連れて見学にいくと知らせがありました。嬉しかったですね。見浦牧場の最初からご存じの先生が現在をどうご覧になるかと。

帯広の若者3人を連れておいでになった先生は、昔とほとんど変わりはありませんでした。思わず、「先生、おいくつになられました?」とお聞きしたら「90何歳」と答えられました。
そうして牧場を歩いて、地勢が変わったことを指摘されました。道路工事の残土を無償で受け入れて改良しましたとお答えすると、公共事業と農業を結びつけたか、公共投資と農業投資の連携は社会資本の効率投資の手段だったな、と感心していただきました。

日本の、広島県の片田舎で偶然の出会いから、40年あまりもご指導いただいた、こんな素晴らしい出会いもあるのです。先生が次の時代の農業人を育てようとして目をかけてくださった、ご恩返しは何もできませんでしたが、そのお気持ちは継いでいこうと思っています。そして伝えてゆこうと努力しています。
私の文章をお読みになっている人の中に、明日の日本の農業にいくばくかの関心を抱いていただくなら、先生のお気持ちの一半でも受け止めていただきたいと思います。

今日は、岡部先生と見浦牧場のかかわりを報告しました。

2008.8.22 見浦 哲弥

2009年8月17日

作戦戦略 院長先生のアドバイス

和牛の飼育をした人なら誰でも、ご存じの病気があります。子牛の白痢症、生後10日から30日ぐらいに発症する下痢で、特徴は便が真っ白になる、軟便から、水様便になり、最後は血便になって死亡する。
一農家で飼養する牛が1-2頭で、年間子牛が1頭か2頭しか生まれない規模のときはほとんど発病ししない、あまり気にならない病気だったのですが、多頭化するにつれて多発するようになり、見浦牧場のように年間50頭以上も生まれると全頭発症する重要な病気になったのです。

もう30年あまり前になりますか、西日本の和牛農家の皆さんが、近くにある「いこいの村広島」というホテルで京大の宮崎先生を招いて研修会を開いたことがあります。その折、「見浦さんの牧場では、子牛の白痢病はどのくらいの割合で発症しますか?」と質問されました。「100パーセント」とお答えしたら、どっと笑われました。
まだその時代には、放牧の形式で子牛の多頭生産をしている農家はなかったのです。
しかし、1戸あたりの牛の飼養数が増えるにつれ、発症も増えて問題になりました。ですが、当時は適切な治療法は確立していなかったのです。

しかし、第二次世界大戦でチャーチル首相の命を救った抗生物質は畜産の世界でも威力を発揮していました。
白痢症も最初は獣医さんが処方してくれたオーレオマイシンオブレットの錠剤1/2を飲ませるだけで快復。抗生物質の威力に白痢症恐れるに足らずとおもったのですが、それからが大変でした。
何頭かの治療をするうち、薬の効き目が落ち始めたのです。1/2錠が1錠になり、3日も連続投与しなければおさまらない。そのうちに他の薬剤と併用しなければならなくなりました。

獣医さんがテラマイシンを使ってみますかと提案。治るものなら何でもとテラマイシンの筋肉注射に切り替えたのです。効果抜群、たちまち白い下痢便が健康便に変化し、いい抗生物質にあたったと喜んだのですが、これも前回と同じように効果が落ち始めたのです。
それでも4年ぐらいは効果があったのですが、ついには他の抗生剤に替えなくてはならなくなりました。これがこ私たちが「耐性菌の発生」と呼ばれる抗生物質の問題に出会った最初でした。

さて、それからは次々と効果のある抗生剤を探し回りました。ところが最初は効果があってもすぐ効かなくなる。しかも1-2年ぐらいでね。
もちろん問題点が見えたのですから、猛勉強を始めました。ところが抗生物質の耐性菌問題は人間の病気でも解決されていない大問題、答えなどあるわけがありません。
そのうちに、使える抗生物質(もちろん畜産用ですが)あらかた使ってしまって、獣医さんに「見浦さん、こんなことをしていたら使う薬はなくなるよ」と忠告される始末。
もっとも勉強で少しは知識を得ていましたから、効かなくなったテラマイシンの使用だけは厳禁していました。

テラマイシンの使用を厳禁していた理由は、細菌は最初は薬剤に耐性を持っていないはず、連用するから耐性を持つ、抗生物質が微量しか存在しない自然界では耐性を持つ細菌より耐性のない本来の細菌のほうが生存競争で勝つはず、それならば本来の細菌が生存競争で勝ち残るのに十分な期間を置けば、細菌の耐性はなくなるに違いない、こう思ったのです。それを効果の無くなったテラマイシンで確認しようと思ったのです。

10年が過ぎました。手に入る抗生物質もなくなりました。再びテラマイシンに帰るしか方法がなくなりました。
でも、ただ再使用するのでは能がない、何かプラスになる考えはないか、切れの悪い頭で懸命に考えました。ちょうどそのころ、傷の手当てで戸河内病院に出かけることがあったのです。

外科は院長の繁本先生、手当てを受けながら考えていたことが口に出ました。
「先生は治療をされるとき、細菌をどう思って対応されているのですか?」と聞いたのです。先生の答えは私の想像の他でした。
「細菌とは知恵比べなんだ。どうやって相手の裏をかいてやっつけるか。細菌もこちらの手の内を読んで抵抗してくるからな。薬の種類、投薬の量、回数、併用する薬、等々、人間と細菌の戦争なんだよ。」、場数を踏んでこられた先生らしい意見でした。

でも、この話は私の懸案に光をさしてくれました。白痢症の治療も細菌との戦争なんだ。それなら奴さんが混乱するようなことを考えればよいのではないか。
テラマイシンは細菌の分裂を防ぐ抗生物質、それにもう一つの抗菌剤を加えれば、大腸菌くん、少しは混乱するのではないか。とはいえ、こちらの腹を見透かされて両方の薬に耐性を持たれてはやぶへび、細菌への効き方が異質の抗菌剤なら、大腸菌くんも悲鳴をあげるのではないか、おまけに乳酸菌のように、大腸菌の繁殖を邪魔する生菌(生きた菌、腸内で繁殖して大腸菌が増える邪魔をする)を加えたら、と作戦計画が浮かんできたのです。
今、思い返しても、頭がさえていましたね。

いろいろ考えた結果、殺菌剤には化学殺菌剤のサルファジメトキシンを選びました。生菌剤は乳酸菌製剤。この3種を配合して白痢症の子牛に投与しました。ところが効果がいまいち。
でも、諦めませんでした。知恵比べなんだとの院長先生の言葉を思い返して、生菌剤を替えることにしたのです。ちょうど薬屋さんから、子牛の下痢用に開発したからとテスト薬がおいてあった。それが枯草菌の製剤でした。乳酸菌の替わりにその枯草菌の製剤を入れた3種混合の薬を投与したのです。子牛の症状が劇的に快方に向かった時はうれしかったですね。
家内の春さんが、「まぐれよー」と酷評しましたが、以来20年余、この方式で治療が成功してきました。ただし、ウイルス風邪の併症のときは、肺炎を発症することが多くて、別途に肺炎治療が必要ですが、これで見浦牧場では白痢症の対策が確立したのです。

確認のため、獣医さんの意見を聞いて回りました。ところがたとえ効き目があるにしても、投薬方法が間違いという意見が多かった。なにしろ生きた菌の生菌剤と、菌を殺す殺菌剤とを一緒に水に溶かして投与するというのですから非常識です。殺菌剤と生菌剤は時間をおいて別々に投与すべきという意見が大勢でした。常識的に考えればその通り、さらばと実験をしました。各々の薬量、投薬方法、ありがたいことに実験動物には不自由しません。試される牛は大変だったと思いますが。

その結果が、子牛の体重25-30kgに対し、
・テラマイシン注射薬5cc
・ジメトキシン1-1.5g
・ミノトール(枯草菌製剤)20g
を150-200ccの水に溶いて飲ませるのが最良という答えが出たのです。
発症の初期なら3日、泥状便以降なら4日投与するという処方で白痢症の治療が20数年続いているのです。
もっとも、サルファ剤にも耐性が出ますので、ダイメトンなど、形の違う製剤に代えて使うなど努力はしていますが、この長い時間効果が持続していることは、見浦牧場の大きな財産になりました。

現在は世の中が進歩していて、それぞれの専門家が高い技術を誇っています。私たちのような素人が立ち入られる分野ではない、餅は餅屋にまかせろ、は現代の常識ですが、案外な見落としと隙間はあるのです。地道な観察と発想は、このような思いもかけない新技術を発見することもあるのです。

われわれの世界はまぐれあたりで成功するような安易な世界ではありませんが、今日の報告のような出来事は案外多いのでは?

この文章を読まれた貴方、一度自分の周りや考え方をじっくり見なおしてみませんか?大切なことや素晴らしい現象を見逃しているかもしれませんよ。
「ありゃー、まぐれじゃー」と否定する前に。

2009.8.13 見浦 哲弥


PS
この処方が白痢症に対して長期間にわたって効果を持続している理由については、いまだにはっきりしておりません。もし心当たりがある方がおられましたら、仮説でも結構ですので、是非情報をお寄せください。

2009年5月5日

誰も知らない可部線ないしょ話

この話は可部線建設が加計駅で止まって延線工事が5年も6年も中断した時の話です。
覚えている人は、ああそんなこともあったね、とおっしゃるはずですが、それが後年可部線が廃線になる大きな原因になろうとは、当時は誰も思いもしませんでした。
当事者は口を閉ざし、数少ない真実を知る人はこの世を去りました。でもエゴは身を滅ぼすという見本のような事実を今日は話してみましょうか。

戸河内の町長選挙で6票差で当落が分かれたことがあったのです。
当選したのは革新派とみられた丸山鶴逸さん、私より20歳の先輩。彼の初めての町議選の時、小板の若者たちの集まりに、当時問題になっていた横郷林道建設不正の話をしてもらいに来ていただいたときからですから、長いおつきあいでした。
そんな関係で、及ばずながら、その町長選挙の応援に参加したのです。

当落が判明した翌日は大変な騒ぎで、誰もが俺の一票が当選を決めたと自慢する、前代未聞の選挙でした。6票差ですから、3人が投票を変えていたら結果は逆になります。そんな僅差の勝利でした。

ところが選挙後1週間もしないうちに、鶴逸さんから会いたいと連絡がありました。当選後のあいさつ回りで忙しいはずの彼が黒子の私に用事とは何事かと思いましたね。
役場の近くにあった”けやき”という小さな喫茶軽食のお店が指定の場所でした。
あとから来られた丸山さんは、角のボックス席を指定して、周りを確認して話はじめられました。
その内容は1町民の私には衝撃的な町議会の話でした。

「見浦くんや、わしゃ可部線を戸河内まで開通させるのが公約じゃけぇ、選挙の後、すぐ岡山の国鉄の管理局へいったんよ。そこで早期着工を陳情したら、局長さんが”来んさるところが違がやーせんかの”と笑うんよ。わしゃー、何をいわれとるんかわからんでの、何度もきいたらの、」と話始められたのです。

実は国鉄は可部線の延長は規定の事実として実施しようとしたのです。ところが敷設の路線で苦情が出て中止になっていると、そしてその苦情はお宅の議会からですよと、しかも議長さんはじめ議員さんの連名で、われわれの要求が通らなければ鉄道は敷設させないと、陳情されているのです。と

驚いた丸山さんが詳しく訊ねると、加計から殿賀を通って上殿、戸河内への路線と、上殿から少し曲がって筒賀の中心を通って戸河内への路線と2案があったのだといいます。
山間の小さな村落でも鉄道が通れば通勤通学の便利が良くなる、おまけに土曜日、日曜日の観光にも力になる、そんな思いで筒賀村が鉄道誘致をと願ったのは当然過ぎるほど当然の話です。
筒賀を通っても時間的にも2~3分多くかかるだけ、それで村の中心に駅舎ができる、しかも上殿にも駅は作るという計画ですから、ぜひそうしてあげてと協力するのが隣村としての友情だろうと思うのですが、実際は筒賀に線路が回るのなら建設は反対、と戸河内議会が決議したというのですから、非常識この上もありません。
ようやく事情を理解した丸山町長は、平身低頭議会の理不尽をわびて、その足で筒賀村役場に出向いたとか。
当時筒賀村は吉原村長、後年、安佐農協の監事として同席する機会に恵まれて、その折の話を聞かせていただきましたが、汗顔とはまさにこのことでして、恥ずかしくて。
私も戸河内町民の一人として申し訳ないと頭を下げるだけでした。
吉原先生曰く、丸山さんは筒賀村の役場に来られて、手をついて謝られた。それで水に流したのよと。
そして、「筒賀村にも駅を作るよう、全力を挙げるので、可部線延長に協力してもらえないか」と丸山町長に頼まれたと、筒賀村にも駅舎ができるとなれば、村民も鉄道の恩恵にあずかることができる。過去は水に流して、鉄道の早期着工に協力して努力しようと、約束したんだと話されたのです。

しかし、丸山町長の話はこの後がありまして、路線が確定して筒賀村経由が決まった時、「議長がのー”戸河内のメンツがつぶれた”と町長室にきて男泣きをしたのよ、見浦君はどう思う?」とあきれ顔で話された。あまりの非常識と、このような人物に集落のボスというだけで地方政治を任せる、選挙民への憤りを私にぶつけられた、そんな思いで聞いたものです。

国鉄は政治線と呼ばれる鉄道の新設と、国労・勤労などとよばれた労働組合の経済原則を無視した権利の主張、待遇の改善で、民鉄と呼ばれた私鉄グループが黒字経営なのに、最大規模の国鉄は赤字続き、税金の垂れ流しという批判が起き始めていました。
政治家も官僚もどうにかしないと、国鉄は破滅、ひいては国家財産の破たんにつながりかねないと、その対策に奔走していました。その最初が国鉄の分割民営化でした。その次に来たものが採算の取れない政治線建設の中止でした。
そして三段峡駅から板が谷の真下まで掘り進められていたトンネルも、松原から150m掘られた斜坑も建設中止で無駄になりました。
ここに糞詰まり線と酷評される経済価値の低い鉄道が完成したのです。

さらに進められたのが、採算の取れない赤字路線の廃止、特に将来性のない盲腸線と呼ばれる路線は真っ先に対象となりました。
さらに沿線住民の減少と経済優先の社会は、可部線廃止を時間の問題にしてしまいました。

建設から約30年、廃止が具体的になり、赤字縮小のため利用者の増大が存続の条件になりました。それから泥縄の存続運動、鉄道の必要を説く声は大きくても、反省の声は聞こえませんでした。あの時の議員さんで生き残っていた人は何人も居たのに。

鉄道問題と同時に町村合併の問題が起こりました。
可部線建設の裏事情に通じていた野上さんが町長選に立候補しました。相手候補は鉄道の筒賀村の通過に反対した議員。もちろん、野上さんを支持しました。

立候補で挨拶に来られた彼に、「ここの票は4票だけど、全部あなたに入れるけぇ、周りの町村と仲良くして」というと、「仲良くすりゃ、ええんじゃの」と裏の裏まで知り抜いている彼らしい返事でした。
当選した野上さんが指揮する合併前提の町運営は、見ていて胸が痛くなるような他町村に対する気遣いでした。彼の努力で戸河内町民は農協合併の時のような、蚊帳の外に出されて、どこかに入れてくれとお願いしなければならないという悲しい思いはしなくてすみました。
町長在任中、最愛の奥様を亡くした彼は、町村合併が成立して間もなく、精根尽きはてたように亡くなりました。
現在は旧戸河内役場が新安芸太田町の役場、合併前に危惧した問題はどこにも見えません。老体にむちうって全力投球された野上さんは戸河内町の数少ないすぐれた人材でした。

さて、存続運動に夢中の地元民に国鉄が出した条件は、赤字額の削減でした。そのために要求されたのは最低乗車人員の確保でした。沿線の地元民は設定された利用客の増大に懸命になりましたが、沿線住民の減少と、自家用車の普及という現実には逆らうべくもなく、目標に届かずに廃止が決定しました。
最後の年、廃線を惜しむ名残客で三段峡への観光客は膨れ上がり、ホテル、旅館、土産物屋、etcは大いににぎわいました。ローソクの最後の火が燃え上がるように。
満席だったお別れ列車が走った翌日、三段峡線はひっそりと死んでいきました。

鉄道の路線も駅舎もそれぞれの自治体に贈与されて処理を待っていました。ところが目先だけの町会議員が数人、復活を叫んで運動を始めました。経済的な問題で廃止されたのに、その解決策なしに署名運動で圧力をかけて復活しようと、駄々っ子の悪あがきのような運動を始めたのです。おまけに不成功の時には返金すると約束して募金まで集め始めたのです。

町会の選挙の折、立候補の知人が訪ねてきました。鉄道問題を取り上げるなら、建設の時からのいきさつを調べないといけないよ。表面だけの現象で判断すると大きな間違いをするよ。その気持ちがあれば、私の知っていることは話してあげる、とアドバイスをしたのですが、又の機会に聞くよ、と上っ面の運動に関与して暴走、先輩として残念の一字でした。

現在は鉄路は撤去され、駅舎は改築されてバスの停留所、役場の前の路線は大きな駐車場として利用されています。しかし、延々と続く路盤と橋梁は、ありし日の可部線を思い起こさせます。はからずも立ち会うことになった鉄道建設の裏話、思い返す度に悲痛な面持ちで語った丸山鶴逸さんの温顔を思い浮かべるのです。

今日は、あなたの知らない過去からの報告を聞いていただきました。

2009.2.23 見浦 哲弥

2008年10月4日

信頼

 Jさんという大工さんがいました。昔かたぎで腕のいい大工さんでした。私より20歳ばかり年長の先輩。今日はその人との話です。

 20歳前半、稲作りに成功しました。当時、小板の最高反収は1.7石(250キロ位)、見浦家は1.2石(180キロ位)もう少し少なかったかな。それが2年余りの稲作りで2.5石(350キロ)を超す多収穫に成功しました。この話は、そのときから始まったのです。

 新しい稲作りに挑戦した私たちに、集落の人たちは悪口雑言でした。小板で一番稲作りがへたくそが多収穫を目指して新しい挑戦を始めたのですから当然でした。
 当時は何から何まで伝統やしきたりが大事。代掻きひとつでも昔からの方式があって、最初は右回りに輪を描いて回り、次に縦に並べて右回り左回り、最後が再び右回りを繰り返しながら、最初の地点に戻る。順序が厳然と決まっていましてね。代掻きは田圃の土をドロドロにして植えやすくするのが目的のはずなのに、古老から教えられたことを正確にやる、それが米作り。私はそれを、違うんじゃないか、要は目指すべきは多収穫で方式はどうでもいいというのですから大変。田圃の回りにはいつも人がいましてね。へたくそがやせ牛で仕事をしている、と笑っていたのです。が、新しいことをはじめるととたんに人が増えましてね。特に田植え枠のときはひどかった。

 田植えのときは田植え枠という道具を使うのです。田圃に筋をつけて苗を植える目印にする六角枠Tいうのがありまして、3センチぐらいの杉の角材を組み合わせて六角の円筒を作り、田圃に転がして目印をつけていく。ぬらしたり乾かしたりの連続ですから、良質の材料でいい大工さんが時間をかけないと出来ない。皆さん、それはそれは大事にしていました。
 ところが見浦家には一世代前の田植え枠、3本の細い角材を組み合わせた平面枠で植えるところにはしるしが付いていて、印のところに苗を植えたら向こう側を持って手前に返す。その連続で田植えをする方式でした。この枠は材料はそこそこで、大工さんも普通の大工さんで作れる、ただし能率はかなり悪かったですね。

 当時の私たちには、新しく六角枠を作るお金も才覚もありませんでした。悔しくてね。本を読み漁りました。ある本の挿絵にT字型の枠の横棒に苗を植える目印の木片を打ちつけ、縦棒を引っ張って田圃にしるしをつける道具が載っているのを見つけました。これなら私にも作れるさ。早速自作して、改良して何とか使えるようにしたときにはうれしかった。何しろ参考になるのは小さな挿絵だけでしたから。

 この枠の欠点は、人間が引っ張って歩くのですから、上筋が右に左に曲がるのです。六角枠は上手に転がすと見事な直線になるのですが、私が作った枠、”ばば”(後に馬場と呼びました)は、その欠点がありました。で、この方式で田植えを始めると、大勢の人が集まりましてね。
 隣の婆様などは田圃のふちで「こがーなことで、米ができりゃー百姓はいらんよー」と、大声の悪口でした。野次馬が皆うなづいていましたっけ。

 ところが、私が父から独立して、小板で最低の米作りからの脱却を目指して猛勉強していたことは、皆さんはご存知ない。朝倉書店、養賢堂などの専門書を買い込んで読みふけりました。入門書なら何とか理解できたものの、専門書は小学校の知識ではさっぱり分からない。分からないで済ませられる性格なら苦労はないのですが、夜が眠れない。
 考えた末、農業試験場に勉強に行くことにしました。ところが近くには稲の試験場がない。仕方がないので西条の農業試験場に一晩泊で通ったのだから、若かったのですね。
 もちろん、豊かではない財布ですから、一度により多くの事柄を学ばなければなりません。理解できない点を列挙して教えを請いましてね。帰宅して稲や田圃を調べ、もう一度本を読み直す。その繰り返しでした。

 何度目かの訪問で、いつもは研究員の方が相手をしてくださるのに、その日は場長先生が出てこられました。「今日から私が見浦君の相手をするから」と、いまから考えると先生は私の熱心を高く買ってくださったのですね。勉強がはかどったのは言うまでもありません。

 そんなこととは知らない集落の人たちは、見浦の若造が生意気に、新しい稲作りを始めたげな、年寄りに教えてくださいと頭を下げないで、うまいこといくわけがない。やりそこなったらわろうてやろうで、と。前年までが悲惨な稲作りでしたから無理はありませんが、そんなこんなで、大勢の野次馬が集まったのです。

 さて、そんな皆さんの期待に反して、その年の稲作りは大成功でした。先生に教えられたことと、私が気づいた寒冷地の稲作りの盲点対策が成果をもたらしました。

 翌春、二人の方が訪ねてこられました。いずれも40過ぎの働き盛り、飯米百姓と呼ばれた0.5-0.6ヘクタールの小農の人でした。
 そのうちの一人が
「見浦さん、稲作りをおしえてくれーや」
「どがーな稲作りが知りたいんよ」
「肥料が少なくて米が仰山とれる米作りよ」
「おじさん、それは飯を食わせないで仕事をしろというのと同じやで」
それを聞いておこったのなんの、考えてみたら、そこの子供たちは青白い顔でやせていましたっけ。
 もう一人が前述のJさんでした。
「見浦さん、恥をさらすようだけど、米作りが下手で飯米がたらんのよ。なんとかもう少し仰山取れるように教えてもらえんかの」
20歳も年少の私に頭を下げられたのです。食べ盛りの男の子が二人、それが昔の見浦くらいの米作りでしたから、苦しさはよく分かるのですが、それよりもJさんの真剣さに心を打たれました。
「わかりました。私の稲作りを教えましょう。ただし、条件があります。この一年は私が申し上げたとおりの稲作りをしてもらいます。ひとつでも間違ったら、結果の責任は負いません。しかし、私の言葉どおりに作られたら、1石7斗(225キロ)を保障しましょう。もし、出来なかったら差額は私が米を差し上げます。」

 そして稲作りが始まりました。2ー3日おきにJさん宅を訪ねて稲の育成状況を見ました。入り口に黒板を備えてもらい、不在のときは要点を記して、すぐに対策をしてもらいました。施肥、防除、水の管理、エトセトラ・・・・・・・。
Jさんも奥さんも懸命に、青二才の私の言葉に従ってくれました。

 秋がきました。丹精した稲は彼の田圃では見たことのない見事な実りでした。

 自分の仕事が忙しい私は、結果が見えてきた時点で「もう大丈夫ですね」と申し上げて、訪問は中止しました。

 稲刈りが済み、脱穀が終わった12月。
Jさんが大きな紙包みをもって訪ねてきました。
「見浦さん、お世話になりました。」と。
「1石7斗より多かったですか?」の問いかけに、
「だいぶ多かった」と答えられました。
正直なところ、少なかったら補償の約束は、まだ経済的に弱い私には大きな負担でした。
お礼にといただいた紙箱にはワイシャツが1枚、安物でしたが、Jさんの精一杯の感謝がこめられていました。

 でも、この話はこれだけでは終わらなかったのです。

 あれは何年でしたか、国道191号線の付け替え工事が始まったときです。新道がJさんの家の近くを通ることになりました。
かねがね、自分で建てた家で生涯を送ると決めていた彼は、道路が所有地を通過することを頑として承知しませんでした。情勢次第で路線が変更されて立ち退きを迫られては、と思い込んだのです。
 建設事務所が来ました。役場が来ました。自治会長も行きました。立ち退きはない。道路は30メートル以上離すと約束しても、「あんたらでは信頼できない、見浦を呼んでくれ。彼が間違いないと保証したら同意するが、それ以外では話にならない。」と。
 困り果てて役場が私の元にやってきました。「なんとかしてもらえないか」
 集落の道路委員だったとはいえ、地権者の意向を役場に伝えて調整するまでが仕事、決定を保証するなど、権限もないことを頼まれたのは初めて。役場の再三の懇願に、とうとう、「約束する。もし変更するよなことが起きたら、自分のこととして戦う」
「見浦さん、本当じゃのー」
「本当じゃ」
それを聞いて彼は役場の人に
「見浦さんが約束してくれたけぇ、判をつくけぇ」
Jさんは分家さん、おとなしい人で、集会でも意見を言うことはなかった、物言わぬ私の指示者でした。他にも何人かいた同様の人たちが、集落での私の力だったのです。

 何年かしてJさんが亡くなりました。息子さんと同居していた奥さんが認知症にかかりました。病状は進行して、徘徊が起きるようになりました。そして、ご主人と二人で建て、ともに働いた田圃の周りをうろつくようになりました。昔の住居は跡形もなくなっているのに。
 息子さんの顔を見て、「貴方はどなたかいのー」と見分けが付かなくなりました。それなのに、たまにであって「おばさん、わしが分る?」と聞くと、じっと目をすえて「わかるよ、哲弥さんじゃー」と答えてくれました。

 息子さんの記憶は消えても、私の記憶は残っていた。あの稲作りの一年がお二人に与えたインパクトの大きさを教えられて、人生において誠実に相手の立場を考えて生きることの正しさが証明されたと思っているのです。

 人の心に住む、それは私の生き方。それがたまたま実現したJさんの物語。貴方はどう感じましたか?

2008.6.28 見浦 哲弥

2008年8月15日

お寺さんは翻訳者

 先日、S豆腐のOさんが、久しぶりにお寺に説教を聴きにいったと、こぼしていました。
何でも、集落の物故者の法要とかで、久しぶりでしたね。と。
ところが、お坊さんの説教のまずさに、時間が過ぎず、大変でした。なにせ何を伝えようとしているか、全く判らないのだから、あれなら見浦さんの文章を読んだほうが、まだましですと。
 自分の拙い文章が優れていると思い上がってはいませんが、お寺さんの説教のまずさには、閉口している私ですから、大いに同感しました。
 しかし、そんな話を聞くと、もう20年になりますか、事故で死んだS寺の若い跡取りのお坊さんを思い出します。

 彼が父親の住職の名代として報恩講に来てくれたのは、もう何年前になりますか。彼の姉が長女の戸河内中学校の同級生ですと申し上げたら、私との年齢関係がお分かりいただけるでしょう。
 龍谷大学を卒業して宗教家としてホヤホヤの彼に、先代の住職との触れ合いからの話をしたのです。

 先代住職は彼の大叔父、当時の私は二十歳を越したばかりの血気盛んな若造。父が、これからはこの子が大畠を引き継いでゆきます、よろしく。と紹介しました。
 そのとき私は申し上げたのです。
私の代になりましても、家としてはこれまでどおり檀家としてお付き合いさせていただきます。しかし、私が浄土真宗の信者になるかならないかは別です、と。
16歳のとき出会った流川協会の竹下牧師さんの、「体の栄養失調は治るけれども、心の栄養失調は治らない」の説教が心に染み入っているので、それを越す説得力がないと他の教義は受け入れることがないでしょう、と。

 その話から、若い彼は、本気になって私を論破しようと、議論を仕掛けてきました。しかし、彼の論議は頭の中で組み立てた論法、仏陀が自然の真理で辿り着いた仏法の真髄で説得しない限り、自然の中で暮らしている私には勝てません。でも次の年の報恩講にも、僕はこう考えたが、と真剣でした。
 何度かそんなことを繰り返すうち、私は彼は本当の宗教家になれる、信者が求めている心の叫びに応えることのできる、浄土真宗の通訳者になれると本気で考えるようになりました。

 それから毎年、彼が報恩講の導師として来場するたびに、お互いの考え方をぶつけ合って議論しました。もちろん、彼と私が親子ほどの年齢差があることなど、意識はしなくなりました。彼の心の人間に対しての暖かさが本物と判るにつけ、彼に対する期待が大きくなりました。彼も、私の自然の子としての生き方が判るにつけ、僧侶としての立場を離れて、それを理解しようと努力するようになりました。
「見浦さん、貴方の考えを突き詰めていけば、自分の墓は要らないと考えているのでは?」
 彼が私の人生観の中に立ち入った瞬間でした。この時、本物の宗教家が誕生したと思ったのです。この近辺では出会うことがなかった、宗教家としての僧侶に出会ったのです。
うれしかったな!!

 あれは何年でしたか、大きな台風が来ました。中心がこの地帯を通り過ぎ、風の通り道は風神の道路とばかりに大木がなぎ倒されました。風がこれほどの力を持っていようとは。
 小板も何本かの風神の道ができました。家の後ろの松の大木が倒れたのはこのときでした。もし、これが家の方に倒れていたら、私たちの家族は全滅、そんな恐ろしい台風の夜でした。
 夜が明けて被害が明らかになるにつれ、様々な情報が入ってきました。その中に悲しい知らせがあったのです。
 彼が老人夫婦の非難を手伝いにいって、洪水の川に転落、老人夫婦ごと流されて死亡したとの知らせでした。大災害時の行動としては軽率との非難もありましたが、それも若さゆえ、彼の人間としての優しさゆえでした。

 将来、この地区の精神的柱になったであろう彼の死は、ここ、太田川地区の浄土真宗団に大きな打撃を与えたと思っています。あれから彼に匹敵する人間性を持った仏教家にはまだお会いできません。
 神様も仏様も時々は大きな悪戯をなさる。私の残った時間の中で、彼のような宗教家にもう一度お会いできればと、かすかな期待をしています。

 宗教家は教義の翻訳者、でも、ベースに人間としての優しさが必要なのですよ。

2008.4.6  見浦 哲弥

2008年8月13日

晴江さんと無限大

 ”∞”このマークを知っていますか?数学で泣かされた「無限大」の記号です。無限大にどんな数を加えても、引いても無限大。無限大にどんな数をかけても無限大。どんな数も無限大で割るとかぎりなくゼロに近くなる。
 どうでもいいようなこの公式が出てきたときは、数学とはなんとバカな事を本気で教えると思いましたね。それが牧場作りの最中に登場しようとは、そしてそれが農業のもっとも大切な真理だったとはね。今日はその話をします。最後まで読んでください。

 昭和45年、見浦牧場の開墾が始まりました。ブルドーザーが木の根を掘り、土を起こして平らにしていく。戦後の緊急開墾がクワとカマで大地に挑んだ姿を知っているものとしては隔世の感がありました。
 しかし、貧乏な私たちには、その開墾の方法に表土扱い工法ではなく、地成工法を選ぶしかありませんでした。

 表土扱い工法とは、最初に表面の黒土を剥いで別の所に積み、その下の芯土や岩盤を削って平らにして、表土を戻す方法です。植物が生育していた肥えた土が表面になるので、理想の形の工法ですが、重量物の土を大量に動かすので大変高価につく。(田圃の耕地整理で採用されていますが、10アール当たり100万円を越すといわれています。)
 地成工法とは、文字通り、高いところを低いところに埋めていく。結果、表土は埋められ、芯土が表面に出ます。植物にはうれしくない状況を作るのですが、何しろ工費が安い。しかし、牧草がよく伸びるところと生育不良のところができる。確か、付帯工事(取り付け道路や排水路など)を含めて、10アール当たり14万円あまりだったと記憶しています。ですから、表面には石ころがゴロゴロ、浮陸直し(でこぼこな押し)が大きかったところは特にひどかったですね。

 見浦牧場のメインの畑は10ヘクタール弱あります。その畑も石ころだらけでした。拾っても拾っても石ころがでてくる。その当時はモアー(草刈機)はレジプロ(バリカン式)で小石が当たって刃が傷むと草刈中止。短い夏の草刈シーズンの貴重な時間が飛ぶように消えていく。でも石拾いは第一の優先事項でした。
 しかし、外国に比べれば小さい区画の10ヘクタールも夫婦二人での石拾いともなると広大です。しかも完全な手作業。毎日毎日、朝から晩までの石拾いは遅々として進みません。ついに私が音を上げました。

 「石は無限にある。無限からいくら引いても残りは無限、こんなきりのない作業はもうやめた」と。
 それを聞いた妻の晴さんが怒りました。烈火のごとくです。
「なんぼ残りが無限でも、拾っただけ石が減ったと考えられんのか。数学では正しくても、その公式は農業で正しいとは限らない」と。
 まさに、愚公のことわざの世界を突きつけられた、そんな衝撃でした。
 私は少年期を都会で中産階級の生活の中ですごしました。私の中では意識するしないにかかわらず、都会人の合理主義が考え方の基礎になっていたのです。農業ではそれは成り立たない、彼女の言葉はその点を痛烈についていました。

 中国には”愚公山を移す”という古い諺があります。愚公という農民が田畑に陰をする邪魔な山を移したという話です。途方もないことと笑う世間をよそに、黙々と工事を始めたという話です。はじめは何の変化もないように見えた山が、子供、孫、曾孫と耐えることもなく続けられて、やがて山が平らになって立派な農地が出来上がったという話です。
 小さな人間の努力も積み重ねると、不可能と思えることも可能になる。まさに晴さんはその点を指摘したのです。理詰めで物事を考えるあんたには、無数にある石ころは無限かもしれないが、私には有限と見えると、農民の血が彼女に言わせたのです。このときから彼女はパートナーではなくて身近な教師になりました。

 農業には農民の考え方が必要なのです。もちろん産業構造の中の一員としての現在の農業には近代的な都市感覚も必要であることは言うまでもありません。しかし、それだけでは農業を支えきれない。農民が持ち続けた理念を忘れては日本農業は生き残れない、そう考えるようになりました。

 あれから長い年月が過ぎました。石ころだらけだった牧場もずいぶんきれいになりました。もちろん石ころが皆無になったわけではありませんが、無限だと考えたことは笑い話になりました。

 私も老人になりました。そして長い時間の人生の過ごし方に、ささやかですが、確信を持てるようになりました。

 様々な職業には、それぞれ取り組むための信念と生き方があるのだと思っています。
 それが長い長い人生を支えていくのだと。

2007.10.3 見浦哲弥

2008年6月29日

立ち話

 昔といっても、50年ほど前の話ですが、よく立ち話がありましたね。あぜ道で気のあった友人と会うと、そこでも、あそこでも、と始まっていましたね。あぜ道に腰を下ろして、煙管を取り出したら最後、「もう昼だけぇ、またにしようや」になるまでに半日はかかる。のんびりとした時代でした。
 高度経済成長が始まった、池田総理の時代から、そんな田園風景が消え始めました。生活を支えるために他業種に働きに出る兼業農家が増え始め、時間を惜しんで働く、働き蜂の日本人が増えました。特に農村は、です。

 時代は変わって、小板にも別荘が建ち始め、都会の人たちの姿が多くなりました。長い会社勤めから開放されたリタイヤの人たちは、自分たちと違った世界の田舎の人たちとの世間話も、田舎暮らしの一面として期待したのでしょうが、なかなかどうして、通り一遍の付き合いはあっても、深くのめりこむような付き合いは程遠い、が現状、そんな感じです。

 それにつけて、何年か前、取材に訪れたアメリカ人が、話題が彼の琴線に触れたとたん、糸が切れたように話し始めた、あの場面をよく思い出すのです。たかが立ち話でも、興が乗って話し込むには、共通の話題という接点がなくては始まりません。集落の住人は、天候の話、隣人の噂、作物の出来等々、接点はいくらでもありますが、都会の人と集落の人との間には、何を話題にすればよいか迷っている、だから挨拶だけで終わりにする、そんな関係のようです。

 しかし、考えてみればもったいない話で、違うエリアで暮らした隣人は、大変な情報の持ち主で、その点が理解できると、立ち話が学習の場に変わって、貴重な知識獲得の教室に変わってしまうのですが。

 先日、道端で草刈をしていました。このあたりではめずらしい50馬力のトラクターを使って。普通は日本製で20馬力前後の新型なのに、当場の機械は30年、40年前の外国製、しかも作業機も外国製、操縦者は70をはるかに過ぎた老人となれば、興味を持つのが当然かもしれませんね。でも立ち止まるだけの人が大部分で、話しかけてくる人はさすがに少ない。時代のせいですか。

 ふと気がつくと、圃場の縁に人が立っていて話しかけてきました。
「面白そうですね」と
「興味がおありですか?」
「いや、このあたりでは見かけない機械ですから」
「そりゃぁ、もう40年以上も前のイギリス製ですからね。」と話が弾み始めました。
「私の牧場は貧乏ですから、新品の機械は買えなくて、人がスクラップに出す程度の機械を安く手に入れて、使っています。」
「でも、修理がいるでしょう?」
「業者に依頼すると修理費が高くて、新品のほうがよくなります。ですから勉強して自分で修理するのです。」

 話は次々と進んで、30分ばかり続きました。
 相手の人にすれば、日ごろ手に入れることの出来ない情報の山だったでしょうね。
 でも、私にしてみれば、都会の人が何に興味を持つのか、その一端を知っただけでも貴重でした。おまけに、見浦牧場の和牛のことも、少しばかり付け加えましたから、いつの日か役立つかもしれません。

たち話、ただの時間つぶしにするのも、勉強の場にするのも当人しだい。限られた時間なら有効に使ってほしいなと思っています。

2008.2.9 見浦 哲弥

2008年5月5日

人生の種まき

 先日三段峡豆腐の岡本さんとの世間話がはずみで宗教談義になり、良きにつけ、悪しにつけ、結果には必ず原因があるという話になりました。聖書の中にも、良き種を撒かば良き麦を刈るべし、悪しき種を撒かば悪しき麦を刈るべし、(60年も前の記憶ですので、文言は定かではありませんが)とあります。本当のことなんですと結論して別れました。
 それから何日かして、今田三人(いまだみつと)君のことを思い出しました。彼は4歳上、3年ばかりの付き合いでしたが、まさに人生の種まきでした。今日はその話を聞いてください。

 もう15年あまりになりますか、開拓地の一部が競売になりました。地方事務所の某課長さんから、是非買い入れるようにと要請が来ました。貧乏のどん底で牧場経営に追われている私たちにはそんな余裕はありません。そのことを申し上げてお断りすると、隣の餅ノ木部落に使っていないお前の土地があるではないか、買い手を見つけてやるからその金で購入しろと勧めてくださいました。それが別荘を作られた桐子さんと、退職後ペンションを建てる予定の坂本さんでした。
 坂本さんの土地は道路に面していましたが、桐子さんの土地は狭い小道はあるものの、道路との間には今田さんの土地があり、ある意味の袋地になっていました。その解決が買っていただく条件になったのです。

 今田さんは、38豪雪のあと、餅ノ木集落に見切りをつけて離農され、広島の団地に住居を購入して生活されていました。田舎の人は愚直といわれるほど勤勉で正直ものです。離農した何人かの私の友人も、それぞれに住居を購入して都会に根を下ろした人が多かったのです。その数年前に既に人生を終えていた今田さんもその一人だったのです。

 20数年も無音だった今田さんを、お願い事で訪ねるのは心が重かったのですが、手配をしてくださった人の好意に応えるためにも、足を運ばなくては、と思ったのです。電話連絡をし、仕事を終えて帰宅された息子さんを訪問して、ことの次第を説明してお願いしたのです。
 話を聞き終わった彼は言下に「分かりました。見浦さんの言われるようにしましょう」
 そして言葉を続けて、「亡くなった父が、小板で信頼できるのは見浦だけ、が口癖でした。その人のお頼みですから。」と。
 忘れていた、青年時代の出来事を思い出しました。

 昔の小板は青年団活動が盛んでした。集落の事業に協力する、郡の体育祭に出場する、追宴会と称して田舎芝居をする等々でした。動員から帰った翌年、青年団に入団した私は最年少者としてしごかれることになりました。
 その年の末、恒例の追宴会(赤穂義士討ち入りの12月14日に開演する村芝居のことをそう呼んでいました)の準備に駆り出されました。今の草野先生の家の下がわにあった会館(小板小学校、2代目の校舎を転用していました。)日頃物置と化して荒れ果てている内外を整理して舞台を作る。その作業の最中のことでした。
 その日は各自、鋸(ノコ)や鉈(ナタ)、鎌(カマ)を持参するようにとの通達でした。私の父は学校の先生、刃物などの研ぎ方は知りません。教えてくれる人のない我流で研いだ私の刃物が切れるはずがありません。悪戦苦闘する姿を見た仲間が私の道具を見て「物は切れないが息は切れるで」と声を合わせて笑う始末、悔しかったですね。

 それを黙ってみていた今田君が私をそっと物陰に呼びました。「俺の道具を使え」その一言はうれしかった。そして信頼に値する人を見つけたと思ったのです。

 翌年、年長者が結婚などで退団して、彼が小板青年団の団長に就任しました。彼の優れた人間性に心服していた私は、団員として裏表なく協力しました。当たり前のことです。
 やがて、彼は、自分で判断のつきかねる事柄は、「おい、見浦、このことをどう考えるか」と真っ先に相談してくれるようになりました。私もその信頼に応えるために一生懸命努力した記憶があります。
たったそれだけの、彼が団長だった2年足らずの短い時間のことを、彼は生涯覚えていて、息子さんに話していたのです。

 何十年も昔の、それも彼の優しさに応えた、小さな誠心誠意が大きく花開いて帰ってきた。私の人生の大切な曲がり角で、生きることの不思議さを実感した瞬間でした。

 そうして袋地の道路の問題は無事解決して、売りに出た開拓地は見浦牧場の一部になりました。

 私の住んでいる自然は、種をまかなければ何も生えてきません。雑草でも、風や鳥や動物が種を運んできてはじめて生えるのです。芽が出て葉が茂って初めて花が咲く、当たり前のことですが、人生も同じでした。

 そこでお聞きします。
 貴方は人生の種まきをしていますか?
 いい種を撒きましたか?
 種まきをしないで大きな花が咲くことを望んではいませんか?

2007.10.4 見浦 哲弥

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