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2022年11月23日

観光は世間話から

2015.9.26 お産の牛や子牛、育成牛用の牧草刈が私の仕事の一つです。毎日、約1トンの草刈は機械化のおかげで2時間ほどで完了します。牧場初期は刈払機で刈り、ホークで軽トラに積み込んで運ぶ、一連の作業は肉体的にも時間的にも大変でした。その草をあっという間に平らげて足らないと鳴く牛達、他家の夕食のにおいのする中、暗闇まで作業をしたことは思い出したくもありません。そんな昔は遠くなりました。 あるお爺さんの話ではないが「昔のことを思えば極楽で」、そんなきつい作業だったのです。

見浦牧場は旧国道と大規模林道に接して牧草地があります。機械化したとはいえ40年も50年も前の外国製のトラクターでの作業は道路を散策する都会人には珍しい風景なのでしょう。立ち止まるのは歩行者だけでなく、乗用車までもとまります。そんな時は機械を止めて一言二言世間話をするのです。
時々は温かい言葉が返って来ることがあります。それが私達、田舎人が忘れかけていることを思い出させてくれるのです。

なぜか昔から田舎の人から話しかけることは少なかったようです。方言の強いこの地方は小学生の頃から標準語を話せ、方言は使うなと教えられたせいなのでしょうか、それとも生活の違いから共通の話題がないと思ったからでしょうか、転校、 転校で違う方言を体験してきた私にはその壁がありませんでした。そして田舎の人は無愛想だなどと思ったものです。しかし、それは間違いでした。標準語の都会人に方言が日常の田舎人は気後れを感じて話せなかったかも知れません。本当は田舎の人も話し好き、都会の生の情報のように、ここ小板の日常の出来事には都会人も興味があると云うことを知らないだけでした。

一方で、都会人も自分たちの生活と異なる社会や生活のしくみに興味をもつている、ただ話しかけるきっかけがないだけでした。その扉が開かれると次々と異次元?の世界の扉が大きく開かれる、興味深々が始まるのです。でもなかなかそんな機会がない、でもきっかけさえ掴めれば立ち話からその地方の産業、歴史にまで話が繋がる、方言を気にしなければ田舎の人も話し好きなのです。

例えば、ここ芸北地区は明治の初めまでタタラ製鉄が生き残った地区、歴史のかげでは松江の尼子氏と吉田の吉川氏が商品としてのタタラ鉄を巡って争ったと云う話を聞いたことがあります。そして小板には関係のありそうな地名が数多く残っているのです。公的に道路地図記載されている道戦峠(ドウセンタオ)、その隣の島根側の集落の名前が甲繋(コウツナギ)、鎧を修理すると読める、集落をながれる小川が太刀洗川(タチアライカワ)、小板側に越して道路脇の峰が鷹の巣城、その麓が城根、その前の谷あいの小川が応戦原、その下流の分岐した小川の小さな原っぱ(現在は大規模林道が通っている)が血庭、まだある、鷹巣城の裏側に麓からは確認できない平地があって隠れ里。

こんな小さな集落にも昔をしのぶ地名が山積している、しかし住民は語り継ごうとはしないし、こんな話が都会人の興味を引くなどとは想像もしない、道端の世間話が、この小板の歴史が観光資源の一つだとは考えたこともない、いやこの話を知る住民は私で最期になりそうである。

見方を変えれば足元に色々な資源が埋まっている、この話は一例にすぎない、都会人が興味をもつ話は山積しているのに、 観光、観光と浮かれている。私は足元の資源も見つめ直して欲しいと思っている。

無価値と思っていることが立場が変われば資源であることが多い、ただ視点を替えて見つめ直す思考がない、都会が華やかだと思いこんでいるだけでは物事が正確にはつかめない、無価値と思うことが実は有用な資源かも知れない。都会の華やかさにつられないで、もう一度足元を見つめ直して欲しい、これは小板に生きた老人の提言である。

2021.1.10 見浦哲弥


2021年11月8日

田舎も流行

 2015.11 住民の流出で衰退した経済を何とか立て直そうと田舎が懸命に知恵を絞っています。でも私には上滑りに見えるのですが、そんな感じの地方再生です。

我が町でも新商品が出ては消え、消えては出現する、そんな繰り返しが何度かありました。木工品あり、農産物あり、漬物あり、様々でした。そして最初はマスコミも華やかに報道してくれる、役場の有線もこれこれしかじかと放送する、これは本物かと思っていると何時の間にか話が消えて話題にもならなくなる、 その繰り返しでした。そろそろ本物が登場してもいい頃だと思っているのですが。

現在の日本は資本主義経済の時代です。またの名を競争経済、資本の大きさで相手に打ち勝勝つのか、一歩先を歩いて先行利潤を手に入れるのか、この二択しかありません。この集落の自称お金持ちが資金に物を言わせると競争に参入して、間もなく敗者になり無産階級に転落したのは、何億円規模の資金だけでは競争ができる金額ではないことを知らなかったためです。

日本経済が発展するにつれ、資本だけで競争に勝つためには、私達が想像も出来ない大きな額が必要になっていたのです。そして資本家と呼ばれる階層の人たちと労働者と呼ばれる無産階級の人たちに分化していたのです。しかし無産階級とはいえ持ち家があり、ささやかな近代家具を持ち、子供たちに高等教育を受けさせることが出来て、自分たちは無産階級ではないと信じている人たちから、全く資産を持たない本当の無産階級の人達まで様々です。 しかし、日本は大部分の国民が自分たちの生活は向上したと認識できる社会を作り上げたと満足している、大部分の国民がそれで良しとしている、その意味では日本は平和国家です。しかし、その平和を続ける為には何をなすべきかの意見を聞くことは非常に少ない、そんなことでは、平和がいつまでも続くとは思えないのです。

でも小さな小板のような集落ではこんな社会論は適用されないと貴方は思うかもしれませんが、現実にはいくつも起きたのです。そして分限者(ぶげんしゃ:金持ちの意)と呼ばれた人達が次々と破滅して無産階級に落ち込んでいったのです。しかも一般の人達よりは高い教育をうけていて、無知だとは言えない人達が例外もなく破滅していった。私はなぜかと何度も何度も考えたものです。

そして彼らの共通しているのは肉体労働を極端に嫌っていたことだと気づいた、それは小板だけの特殊な現象だったかもしれませんが、少なくとも私の周辺では例外はなかった。

さて、どうすればいいのか、それは私たちの生産した品物を買ってくれるのは誰かと考えることです。それが農協や市場だと考えると現実が見えなくなります。たしかに農協や市場に出荷して代金が入ってきますが、それはただの中継ぎでしかない。本当のお客さんは末端の消費者以外ではありえません。しかし、消費者にも大会社の原料部門から、サラリーマンの奥さんまで数多くあります。その誰に買ってもらうのか?、その相手によって生産する商品の品質が違い、数量が決まります。ところが一般の農家の人は物が出来たけーと農協に持ってゆく、市場の卸問屋に持ってゆく、それだけで満足の行く代金が手元に入ると考える、実際には商品が不足している時には有り得ますが、それは物が不足して、国民が飢えに苦しんだ頃のお話です。様々な商品、 もちろん食品から衣料品、家具、自動車に至るモロモロの品物は消費者の要求を満足させたとき以外は、需要供給のバランスで一定の価格に定着するものです。生産者のコストに関係なくです。

私達は、そんな経済システムの中で暮らしている、それを理解しなければ農民と言えども生き残ることは不可能なのに、そんな話をしてくれる農家にお目にかかることはまれでした。

食料の自給率が38%と報道されているとき、 国の底辺を支える農民がもう少しこの社会システムを理解して前向きな経営をしてもらいたいと願うのは老農夫の高望みなのでしょうか。

私は、こんな老人の迷論に反撃される人が一人でも多いことを願っています。どうすべきか、真面目に考える時期にきている、そして、底辺の人達にもっと温かく、後進国と呼ばれる国々には、もっと思いやりをと望むのは考えすぎなのでしょうか。

2020.11.12 見浦哲弥


2021年3月28日

田舎は子供の天国なのに

2009.9.27 別荘のOさんが通りかかりました。わざわざ車を止めて「ヤー見浦さん」と立ち話、私の周辺には立ち話して行かれる別荘の人が多いのです。中にはブログ”見浦牧場の空から”を見ていると云う人まで現れて。

その一人、Oさんが楽しそうに「こんどの日曜日、孫の運動会での、見に行かにゃーいけんけー」と、さらに言葉を継いで「元気でね、よその子供とは全然ちがうんよ」「そりゃー、 土日に田舎で走り回りゃー、元気になるで」「ほうよ、小板に来始めて5-6年、だが人間、変わるもんよの一」 、目を細めて嬉しそうに話す彼に、先日、隣村に息子とトラックを走らせた時の会話を思い出したのです。

最近、どこの田舎を走っても荒れた田畑と空き家が目に付きます。都会へ住居を移して若者や子供達の消えた村々、時たま登校する生徒さんを見かけると「子供がいる」 と懐かしくなる、そんな農村の現状は、若者が消えて、留守を守る老人ばかり、なにしろ60代では、まだ若者と見られる、そんな田舎には女性が多い、おまけに80歳を越える男性は珍しくないのです。

そんな中で住む人がいなくなると、途端に家が腐り始める、外見は同じでも勢いが無くなって荒れた感じがして、何年かすると外見も痛み始めて、ここも無住になったのかと時代の流れを感じるのです。

私の少年の頃は、田舎は子供の天国でした。遊び場も探検場も山積みで、学校とは違った学びの場所でしたね。

お年寄りが他家の子供でも気軽に声を掛け、悪戯が過ぎると叱られました。ロやかましい年寄りには「糞爺、糞婆」と悪口をたれて、優しい年寄りには「どこどこの爺っさん、婆さん」 と敬称?をつけてね。

時代は流れて田舎の子どもたちは都会に消えた、イタズラも消えて田舎は静かになった、そして活力も消えたのです。私の知っている、 いたずらっ子はどこへ行ったのか、老人になった私は、貧しかったが活力があった昔は懐かしく、記憶の中の子供の頃をよく思い出すのです。

テレビが田舎にも普及して子どもたちが漫画にのぼせたのは、あまり昔ではない気がします。そして今はコンピュータでゲームが主役、老人の私には何がそんなに面白いのか理解が出来ません。

でもお隣に出来た小さなキャンプ場、4-5歳の子供たちが自然の中で遊び場を見つけて嬉々として走り回る、そんな姿を見ると忘れていた自然の中の昔の自分を思い出すのです。

そして、豊かになった時代の今の子供たちが本当に幸せのなのかとね。

2020.11.10 見浦 哲弥



2020年9月3日

移動図書館

我が安芸太田町にも移動図書館なるものがある。小さいながら町立の図書館である。町村合併で各町村にあった図書館が合併して、本館と分館とがあって県立の図書館とも連携がある。希望すれば取り寄せてくれて各種の本が読める。青年の頃、広島市の浅野の図書館に通って都会は素晴らしいと感嘆したのだが、あの頃と比べると隔世の感がある。広域合併で僻地の住民にも読書のサービスをと始まった移動図書館、いつの頃からか始まったか日時は定かでないが、小板のような集落にも月1度訪れてくれる。ところが田舎には読書の習慣を持つ住民が少ない、我が家の場合は都会育ちの亮子くんは小説好きの大の本読み、私は技術書や翻訳物の小説が、息子の和弥は情報はネットでとそれぞれ様々、 家内の晴さんは本は読むけれどの程度、それでも我が家は常時、各種の本に埋もれている。

ところで田舎はとんでもないところで苦情をつける。小板では移動図書館が止まるところは2箇所と決められていて、大規模林道と旧191国道の交差点と国道沿いの堀田商店の前の2箇所。ところが交差点の停留所には見浦家のメンバーしか現れない。従って何時の間にか停点が見浦牧場の入り口に近寄ってしまった。そこでブーイング、決められたところで止まらずに特定の家の便宜を図るとは何事かと。

そこで元来の停点に戻ったのだが、苦情の主は現れないで利用するのは見浦家だけ。運転手君、呆れて正式に停点を見浦家の入り口に変更して、毎月来てくれる。勿論、見浦家は大喜び。残念なのはクレームをつける元気があるのなら、 図書館を利用して見聞を広げてほしいと思うのだが。

小板は人の揚げ足を取ることにエネルギーを費やして、時代に乗り遅れたと私は思っている。そろそろ目を覚まして時代を見つめてほしいと、それだけを願っている。

2020.3.10 見浦哲弥


2018年4月6日

貴方は知っているか、集落那須

2016.11.24 かねて依頼されていた堆肥2トンを那須の岡田君宅まで配送する。
那須は県道296号線を国道191号線の戸河内の明神橋(コンクリート製の白い逆アーチの橋)を渡って大田川の分流を吉和村に向かって走る、深い峡谷の中を走る1車線の道路は約10キロで那須に向かう分岐点に達する、左の坂道を登ること1キロ、突然眼前が開けて南面の緩斜面、それが那須である。

那須には歴史がある。言い伝えによれば源平の合戦にも遡るという人もいて、平家物語の那須の与一が先祖との説もあるが、長い日本の歴史の中で敗者が安住の地を求めて辿り着いた秘境、その一つが那須の部落なのかもしれない。この近辺にはそのような話の集落が数多く存在するのだそうだ。

先日、買い受けた2トントラックの代金支払いをかねて岡田君宅を訪れたのだ。彼が林業会社を経営していた時に使用した車が不要になったため買い受けたもの。私が那須を最初に訪れたのは50年前の町会議員選挙に立候補した時、当時は20数戸の立派な集落で、突然あらわれた別天地に感激したものだ。

吉和村から流れる大田川の支流沿いの打梨から分かれる谷川沿いの杉林は長い歳月を物語る巨木に変化していた。そして現れた那須も家並みは昔のままでも、人影もなくひっそりと死に絶えていた。ただ岡田君の家だけが息づいているだけ。小板と違って残骸を晒した家は見えないが、無住の家々は生きることをとめていた。

私が最初に訪れた那須には小学校の分校があった。本校は本流沿いの打梨小学校、子供の声の聞こえる校舎前で選挙演説をした覚えがある。しがらみが存在した住民は家の陰など姿を見せずに聞いてくれた。姿を現してきたのは子供達ばかりだったな。遠い遠い那須の一つの思い出だ。

同じ崩壊集落でも小板と那須では大きな違いがある。小板も崩壊集落であることに違いはないが、別荘を含めると50余戸の住居がある。この数は、停電で電力会社に問い合わせて始めて知った数で、住民は別荘の正確な数は知らなかった。従って常住する住民の数は那須と大差はないが、休日ともなると人間の息吹が濃く感じられるのだ。
中国山地の同じような条件の集落が片や消え去る運命を感じるのに、片や何年かすれば何とかなりそうと希望的観測が出来るのは交通の便の違いだと思っている。

那須は道路のドン詰まりに集落がある。私が知る限り、このドン詰まりを解消しようとする計画が2度あった。一つはトンネルで恐羅漢スキー場の横川集落に繋ごうとする計画、この話は地元の反対で駄目になり、それなら横川林道に連絡する道路の建設をと建設が始まったが、時遅くバブルの崩壊で建設は中断された。

そしてドン詰まりの那須が誕生したんだ。時代が移り変わって自動車が普及して、整備された道路が居住の条件になった。そしてドン詰まりの那須は無住の集落へ追い込まれたんだ。私は内部事情を詳しくは知らない。私が20代のはじめ、那須には優秀な指導者がいたと聞いていた。残念なことに交通事故で亡くなられた。その後に我こそは御山の大将との目立ちやさんが指導者に据わって、時代を先駆ける先見性が持てなかった。友人の岡田君が懸命な努力はしたが彼が権力を得た時は再生のチャンスは過ぎ去っていた。

2016.1.1 中国新聞に連載”中国山地”が再び始まった。その第一号の記事が岡田君の那須の紹介だった。滅び行く集落の中で孤軍奮闘する岡田君夫妻の紹介と希望で記事が終わっていた。50年前の”中国山地”も深く読め込めば滅びの記録だった。なぜこの流れが続くのだろうか。この時代は市場経済なる怪物で動かされている。このシステムは、巨大な資本を持つか、たとえ小さくても彼らの一歩先を歩く以外に勝ち残ることは出来ない。世の中には経済紙あり、評論家の解説ありで、様々の情報は溢れていて、誰もが我こそは人よりも先が見えると自負している。小板も例外なく俺の方が偉いと自負なさる方の山積だった。そんな社会の片隅で岡田君は懸命だった。働き口を作るとて山仕事の会社を作り集落の人に働き場を提供した。
彼とは農協の役員として、農業委員会の委員として、何年か共に働いた。そして何度かあった改革のときの信頼できる友人だった。残念なことに彼が那須の指導権を握った時は再生の時代は過ぎ去っていたんだ。

自分がなくて、約束をを守る、そんな彼は戸河内町でも数少ない人材だった。田舎のボスの通例の地方政治には乗り込まず、ひたすら那須の人々の仕事場を確保することで那須を守ろうとした。が、時代は厳しい。タイミングを失した那須は彼の努力にもかかわらず、少しずつ力を失って彼1人の集落になった。私と同年代の彼は何時の日かの那須の復活を夢見て今日も頑張っている。

私は、その彼の健闘にエールを送ってはいるが。

2016.1.28 見浦哲弥

詐欺台帳

過疎も進行すると様々な不思議が起きる。お年寄りや、寡婦の1人暮らし、多少、痴呆かと思われる家々に頻繁にセールスが訪れる。そして高価な商品やサービスを言葉巧みに売りつけてゆく。1人を断っても、日を置かず次の業者が現れる。根負けして、そのくらいの金額ならと妥協したら最後、とことんまで搾り取る。そんな商売が、この山奥の小板まで入り込んでいる。

ここでは某家と言うことにする。ある日仏壇の手入れなるセールスがやってきた。世間話の末に「仏壇を見せてくれ」と言い出した。ま、見せるだけならいいかと見せたら、延々と話が続きだしたんだと言う。気がついてみたら大金で仏壇の修復の契約をしていたとか。これはまだいい。修復された仏壇は見事に綺麗になったと言うから、まんざらの詐欺ではなかったようだ。金額は話してもらえなかったがね。

ところが、それから物売りのセールスが次々と訪れるようになったと言う。話を聞いていると何時の間にか買わされている。豊かでもない財布から虎の子が次々と消えて娘さんにも話せない買い物まである。さすがにご主人に先立たれて1人暮らしの奥さん、これは変だと気がついた。これは狙われている、あの連中は横の連絡があるなと。そこでテレビつきインターホンをつけ、在宅時は日中でも戸締りを厳重にした。ご当人、こんな田舎でも戸締りをしないと狙われるなんて、世の中どうかしてないかと、ぼやくこと。ところがあそこが駄目なら1人暮らしの老人宅はまだあると、他の家にセールスの訪問が多くなった。住民が減って世間話の相手がいない現在、口のうまいセールスにとって年寄りを騙すことなど赤子の手をひねるようなもの。今度は田舎に老人だけ置いている都会の子供達が神経を使っている。

幸いと言うと語弊があるが、現在の小板のご老人は、いずれも資産家でない。それでも危ないと、当座の生活費以上のお金は持たせないようにと、配慮する家庭が多くなった。若者は都会に生活の場を持つので、月の大部分は老人の1人暮らしなのだから止むを得ない措置であるが。

それでもセールスがやってくる。老人の家ばかり回る物騒な車がね。最近は詐欺師も近代的に進歩して手段も巧妙。ならばと、私達も見慣れぬ車が老人宅に長時間、停車すると車のナンバーを控えて対抗することにしている。デジカメやスマートホンの時代、イナカッペと馬鹿にするととんでもない仕返しが待っている。小板は老人ばかりだとあなどると痛い目にあうと予告しておく。身構えて対策を立てているのは一人ではない。

一時、無住宅の倉荒しがこの近辺を襲ったことがある。その頃は、この山の中まで泥棒がお出でになろうとは夢にも思わず安心していて見事にやられた。それまでは不審な車の長時間停車は関心を持たれなかったが、詐欺や泥棒の被害が出るに及んで、住民の目が厳しくなった。衰微したとは言え、長い間助け合った歴史は遺伝子の中には残っている。馬鹿は助けないが正直に暮らしている老人に手出しする奴等を、なんとか手痛い目に合わせようと、手ぐすね引いている人間が何人かいるのだ。小板を舐めないで欲しい。

そのせいで最近は詐欺師にやられたという話は聞かない。美味しい話が大好きという人達もいなくなって、年金暮らしの老人ばかりでは、労多くして・・・・という情報が出回ったのかもしれない。

それでも、見慣れない車が止まるとカメラを持った住民が物陰で注目する。
詐欺師諸君、小板は危険地帯に変身したんだ。


2016.1.4 見浦哲弥

2017年10月14日

お祭りと饅頭焼き

2012.10.28 今日はお宮の幟(のぼり)建て、例年村祭り(11月2日)の前の日曜日が、お宮の掃除と幟建ての日である。去年は神楽団の長老が死亡したとて、神楽の奉納は中止だったが、今年は神楽があるとて、少しは明るい雰囲気だった。もっとも舞子は5人、いずれも広島在住、小板居住は60歳あまりの人が1人という現状では、今年が最後か?例年見浦家が勤めていた饅頭焼きは、去年の神楽中止を機に、もう止めようと話し合っていたところに、神楽団からも正式に中止要請があった。80歳になった晴さんにも、子育て最中の亮子くんにも無理、一つの時代が終わった。

饅頭焼きが始まって、もう20年になるか。祭りにやってくる府中の孫たちを見て、晴さんが言い始めた。「昔は神楽の晩には夜店が出てたな」と。私も記憶がある、神殿の前の大杉の根元にテントをかけて、たった1軒、露天のおじさんがやってくる。三国のお祭りの露天には比べるべきはないが、子供達には胸躍る時間だった。それが日中戦争が激しくなった頃なくなった。

敗戦で戦場から復員してきた若者たちが結婚して、子供たちが生まれて小板に賑やかな時代がやってきた。お祭りには夜店がやってきて、地元の堀田商店も饅頭を焼き始めて、小さな鎮守の森も神楽の夜は賑やかだった。

ところが日本の繁栄に逆比例して若者が減り、住所を都会に移す家が出始めて子供たちが少なくなった。外来の夜店はとっくの昔に来なくなって、堀田商店の饅頭焼きも赤字続き、集落の子供は10人ばかり、太鼓の音は昔と同じでも、寂しい村祭りが当たり前になった。

ところが我が家の晴さんは少々発想が違う、夜店がなくて寂しいのなら自分たちでやればいいではないか、子供たちに自分たちが味わった、神楽の晩の夜店の楽しさをプレゼントすればいい、プレゼントは商売でないのだから、利益が出なくても運営する方法があるのでは。

実は彼女が「考えたんだがのー」と話し始めたら大変で、先ず反論が出来ない、華やかではないがポイントを突いていて、なるほどと賛成させられるからだ。
何しろ、集落のことから、農協の理事、農業委員、PTA、まで、あらゆるところに口を出す、正論と感じると無視はできず、解決策を模索して奔走するのは私、長い時間の彼女との生活はこれで何度も泣かされた、饅頭焼きもその一つだった。

そこで条件を付けた、子供たちが負担にならない値段にする、専用の道具は買わないで家庭用の器具で間に合わす、利益はでなくても材料代だけは確保する、その条件を守るのなら最初の資金を見浦家で負担する事に賛成する、もちろん人件費は無償奉仕ということで。

もともと金儲けが目的の発想ではない、年に一度のお祭を楽しみの子供たちに神楽だけでなく、もう一つの思い出を作ってやろうが発想の原点、幼かった自分の思い出と重ねての提案だから、家内も私の提案を受け入れた。

世の中には発想は良くても現実が伴わないことが多い。晴さんの饅頭焼きもプラン倒れにならないかとを心配したのだが、もともと田尻一番の根性屋さん、言い出して走り出したら逃げ出すことが出来ない性質、問題が起きるたびに懸命に対策を考える、圏外の私としては、その熱意を牧場に振り向けてと口まで出かかったが、反動が恐ろしい、ひたすら見守るだけ。が、子供たちが、孫が動き出した、小板の祭りに帰るのは饅頭を焼くためと目的まで変わって男どもを除く見浦婦人同盟のお祭り行事として定着した。おまけに味もいいと評判、儲けは出ないまでもお祭りの神楽と言えば見浦の饅頭焼き、子供たちも小遣いを固く握って神楽の晩をまつ。が、それなりの時間が経過して彼女も年老いて気力が無くなった。我が家の孫達が小板神楽を見ながら見浦饅頭を食べる、そんな時まで頑張るが、続かなくなった。そして遂に中止、翌年か翌々年には神楽を奉納しようにも舞子の動員が困難になった。そして100年余り続いた小板神楽団も解散、お祭りの夜の太鼓も途絶えた。

時は農村の過疎を通り越して無住の集落が出現する時代、一時とはいえ彼女の努力は小板の河内神社の神楽の最後に花を贈った事になった。

あれから、もう10年あまりも過ぎたか、秋の村祭りの日は数少ない住民が集まって境内や内陣の掃除をするだけ、落ち葉を焼きながら昔は賑やかだったがと思い出話に花が咲く、それが何時まで続くかは誰も知らない。
そして晴さんの饅頭焼きも思い出の彼方に消えてゆく。

2017.5.24 見浦哲弥

2015年2月28日

再び同行崩壊す

2014.8.15 とうとう同行が立ち行かなくなりそうだ。今度は組織の問題でなく、住民が同行を維持できる状況でなくなりつつあるのだ。
住民の不幸を分け合って助けると言う理念は、皆が持ち合わせている。しかし、若者がいないのだ。20代、30代の若者は言うに及ばず、40代の住民は我が家の若夫婦(?)だけだと言うのでは、お互いに助け合うという理念は維持できなくなったと言うことなんだ。

が、幸い、その若者が我が家族であることは、同行を最後まで続けられるということ、互助でなくても、仲間に奉仕することと視点をかえることで集落の住民が最後の1軒になるまで維持できる、その負担をするのが私の家族であることで心が休まる、他人に崩壊する小板同行を押し付けなくて幕引きが出来る、これも喜びのうちに数えることにしたんだ。
そして最後は家族葬、何時の日か小板の人口が増えることがあったら、そのとき同行を復活すればと、私のいない時代を夢見るのです。

群れとしての牛飼いにこだわった見浦牧場では、お互いに補完しあう牛達を見て暮らしてきた。集団で暮らす動物の基本は一匹では生きてゆけないが助け合うことで生き延びると言うことなのです。見浦の牛群が草を求めて群れで暮らしている姿を、「凄い」と都会の見学者が感心して見ています。
彼等が本能で作り上げた見浦牛の集団は小さいながら訴えるものを持っているのです。

2014.8.28 私より5歳も年下のN君が亡くなりました。小さな会社を経営していた彼の葬儀は、飯室の葬儀社の会館で行うということになりました。同行の一員として長年協力してくれた彼ですが、集落外の葬儀に同行の人員を派遣する先例はありません。まして同行のメンバーが老齢化して地域内の葬儀も苦慮している現状では遺族の要望に応えることは出来ません。そこで葬儀の日には世話人の私と協力人の島川君が参列して雑用をこなすことで了解を貰いました。
今回はご遺族のご了解を得てこの形で済ませそうですが、同行の有力な協力者を失ったことで、つぎの葬儀はどうこなすか対応策は苦慮しそうです。

いま小板には私より年長の人は3人、同年代が4人、他にも老齢者ばかりで、同行の幕引きが難しい。我家の若者たちが、この困難を軟着陸させられるよう、私の最後の智恵を絞ってみようと思っています。

2014.8.28 見浦哲弥

2013年5月2日

選挙が変わります

小板は人口の減少で投票権を持つ選挙人の数が減りました。選挙毎に開設していた投票所の廃止統合の問題が登場してきました。役場が何時言い出すかと期待?はしていたのですが現実になると難しい問題を多く含んでいるのです。

数年前までは選挙人が50人前後いました。国政選挙、地方選挙の度に投票所が開設されました。長い間、松原小の小板分校が会場で、役場から選挙管理人が2名、地元から選挙立会人が3名が一日中、投票所に詰めるのが習わしでした。

道路が整備され自家用車が普及してからは便利になりました。敗戦後の選挙では選挙の前日、役場の職員が泊まりがけで、投票所の開設にやってくる。ベテランと新人がペアになって。小板には旅館はありませんから、宿泊所の斡旋も部落長(自治会長)の仕事、たいていは自宅に泊めてましたね。昔役場の職員だった老人の中には、見浦さんの家に泊めて貰ったと話す人が多かった。同年代の彼等に会うと見浦さん宅に泊めて貰ってと懐かしむ人に出会うのです。巨大な茅葺きの家で囲炉裏を囲みながらの食事、陸軍の将校で、県内、県外の長い教員生活をしてきた父の昔話は強烈な印象を与えたらしい。

投票が済むと立会人の長が選挙箱を封印して立会人が捺印、投票箱を役場まで搬送するのに一人が付き添う。開票所で選挙管理委員会に引き渡し書類に署名して任務完了となる。
小板は役場から距離20キロあまり、2時間の終了時間の繰り上げでも冬場は帰宅できない。確か役場の前の丸一旅館で一泊して帰宅なんて記憶もあるのです。
その内に役場も公用車が整備されて活躍を始め、徒歩での搬送はなくなったが、小板にやってくるのは悪路用のジープ、ガタガタ揺られてね、引き渡して帰宅するのは7時頃、元気な男性にお願いと言うことになる。
初めは少なかった日当も少しづつ増えて婦人や老人には、一寸した小遣いになる臨時収入、都合の悪い人が出たときは、それも配慮してお願いしたもんだ。が杓子定規が自治会長になると大変、家の順番は義務だからとどんなに都合が悪くても勘弁して貰えない、せいぜい次回と差し替えるが関の山、人に優しいとはどんなことかを知らない人もいました。

昔は立会人は余程の事がないと男性、男女平等は紙の上だけ、女性の発言が重みを増すにはそれなりの時間が必要だった。やがて女性が登場し、立会人は男性が珍しくなる。そして女性と元気な老人の独占場となった。そして過疎が進行、お願いする人にも事欠くようになり、投票場の廃止に繋がった。時は行政改革のまっただ中、一回に20万円もかかる費用の削減は格好の目標だった。

さて、新しい投票場は7キロ離れた松原、一軒だけの餅の木は小板からでも4キロはある、合計11キロ。自動車の時代とはいえ投票も大変になった。来月は小板投票所が廃止されて最初の選挙、安芸太田町の町長選挙がある。高率だった投票率がどの程度になるのか、これも少々気に掛かる。

2012.9.25 見浦哲弥

2012年8月23日

ラスパイレス

もう随分昔の事になりますが合併前のK町でこの事件がおきました。忘れていた小さな出来事でしたが、最近の本末転倒の政治を見ていて思い出しました。

ラスパイレスというのは地方公務員の給料を国家公務員の給料に比較して数字で表したものだと解釈しています。ラスパイレス指数といいましてね。
隣村だったK町の町長に多少左系の資産家のボンボンが就任しました。彼は組合対策として昇給を重ねて、職員の給与が国家公務員より高くなってしまいました。独立会計で国から交付税などの支援を受けていなければ問題はなかったのですが、残念ながら地方の一寒村、交付税は主要な財源でした。
国からの支援がなければ財政が維持できない町村が、国より高い給与を支払うとは言語道断と改善を迫まられたのは当然の成り行きだったのです。
確か10パーセント以上高くて1-2パーセントの他町村の中で突出していました。それで標的になって大きな圧力をかけられたのです。

そして選挙、国との関係改善を標榜して当選した町出身の豪腕政治家が指数改善に乗り出しました。給料の引き下げです。当然職員は反対、職員組合と町長との対立、争いになりました。
この問題で町長になったG氏は一歩も引かない。たまりかねた職員組合は、上部機関の自治労に提訴したのです。あたかも全国でこの問題が提起されているとき、格好の事件として最上部の全国自治労が乗り込んできたから大事になりました。

静かだったK町に赤旗がはためき、紅い鉢巻の組合員が「わっしょい、わっしょい」とスクラムを組んで練り歩く。一変した町内に驚いたのは何も知らなかった町民、様子がわかると、そんなことは止めてくれと、親、兄弟、親類が各組合員に大圧力をかけました。もともと固い信念を持たない大多数の組合員氏は町民のブーイングの大合唱に、1人去り、二人去り、最後は幹部だけになった。
その頃です。戸河内町の町会議員で社会党員のS君が、K町職員組合の書記長K君を連れてやってきた。四面楚歌になり始めた彼に声援が欲しかったのでしょうね。

そして「君はK町の運動をどうおもうんや」と聞いてきたのです。私もまだ若かった、思ったことを率直に口にしたから、K君はいっぺんにしゅんとなってしまいました。
「わしゃー間違うておる思うで、自分たちが正しい思うたら、全自労(全国自治労の略)に訴える前に、町民に理解をしてもらう運動をせにゃー、あんたらー誰から給料もろとる思うんならー」、今考えると随分思い切ったことを言ったものです。雰囲気が1遍に冷え切りましてね、睨みつけられました。そして早々に帰って行きました。
S君とはそれからも長い付き合いでしたが、2度とこの話が話題になることはありませんでした。もっと遠回しに言うべきでしたね。

勿論、この戦争はG町長の勝ち、赤旗の話はK町の恥とばかり、以後私の耳には聞こえることはありませんでした。

でも傷つけたであろう私の一言は心にずーっと引っかかっていました、町村合併で元K町の職員さんとも接触する機会が出来ました。ある時、気にかかっていたK君の消息を聞いてみました。彼は最後まで意地を通したといいます。階段下に机を与えられて定年まで勤めたとか。それが正しいか正しくないか、私には判りませんが人生は一度しかない、一度話してみるべきだったかと反省しています。

長い人間の一生、色々なことが起こります。本質を見誤ると一度しかない人生を社会の底辺で悔やみながら過ごすことになるかもしれない、誰にでもその可能性はあるのです。後輩諸君に申し上げる、人生の曲がり角に出会ったら、立ち止まって相手の立場も考えてみよう、それから前進する事にしようと。

今日はふと思い出した昔語りでした。

2012.5.21 見浦 哲弥

2012年8月18日

新同行、善戦す

2009.5.6 亡くなられた、福住のおばさんを見送りました。

4年前、それまであった、お葬式の互助会、小板同行が労力不足と集落からの支援金の打ち切りで、どうせの事なら葬儀会社に丸投げをして集落は関わらないと決議をし、住居を移して来られた方の葬儀を強行して辛い思いをさせました。
その反省で新同行を立ち上げた経緯は、前回”同行崩壊す”で報告しました。

新同行になって福住さんで8人、私達が故人を見送りました。慣れ親しんだ身内の方の死は大小はあるものの、肉親の方には衝撃、それを少しでも和らげる役割は出来たのではないかと思っています。
今回の様に事故で肉親を失ったときは、お骨にするまでの時間を新同行が物心両面で支えて、気がついたらお仏壇の前に仏様が骨壺に入っていた。
それがどんなに有り難い事か、それは当事者にならないと理解できないことなのです。

実は私は36才で父を事故で失っているのです。

12月の雪の日の夕方、戸河内からのバスで帰宅した父は30センチほどの積雪の中、バス停から50メートルほどの自宅に帰る途中、小川に転落、死亡したのです。
一緒に帰った隣家に嫁いだ妹からの電話で家の周りを捜索をしてもいない、別に小川を探していた義弟の「いたぞ」の声で飛んでいった先は200メート下流の水の中、すでに死亡していました。

私は長男、父には兄弟はなく、亡母の姉妹は北陸、責任は全て私、どうすればと頭が真っ白になったのを覚えています。
家を出たときは80近くとは言いながら、元気な姿だった父が、物言わぬ姿になって目の前に横たわっている、今振り返っても何を考えていたのか、思い出せません。
 
当時、お葬式の時は両隣が願人として差配をするのが小板同行の定めでした。
「お寺さんへの連絡は」「親類への知らせは」「その前に葬式の日時を決めたら」、願人の問いに答えると、次々と人が動いて行く、日頃は何をするにも議論百出で動かない人達が水が流れるように。

もつとも、意見が分かれて折り合いがつかなくなると、口論が起きてせっかくのまとまりが崩れることもあって、それが後に同行の決め事を明文化しろとの命令が私に来ることになるのですが。

でも、父が死んで3日目に、父の骨を骨壺に納めて仏壇に返したときは、もう否応なしに踏ん切りがついていました。
振り返って悔やんでも、どうにもならない、残った者が頑張って、家を支えて行かなければならない、それが、どんなに辛い仕事でも、逃れるすべはないのだと。
 
人間が必ず出会う、大きな衝撃、激しく揺れる心の不安を、ささやかながら支えて上げる、それが同行の精神だと思うのです。

覚悟を決めることを、オリョウギを据えると言います。そのオリョウギが座るまで、支えてあげる、これが大切なんだよと、新同行の仲間達に理解して貰おう、言葉に出して訴えてみよう、そして理解して貰ったら、大声で「新同行善戦す」と叫ぼうと思っています。

2009.6.14 見浦哲弥

2012年8月13日

あじさいロード顛末記

国道191号線を安芸太田町松原から深入山の麓を経て北広島町の町境まで約6キロ、道路のほとりに紫陽花が植えられて、シーズンには地元の人間でも心が癒されます。何も知らない都会人の「きれいね」の一言の陰に、地元の人達の努力と犠牲があることを感じる人はいません。
これは貧しい山村の人達が、豊かな都会人にサービスする、古い田舎の体質から出来たシステムだったのです。
しかも、それも国道の改修で利便を得た地元の人達の発想ならまだしも、目立ち屋のボス連中の上意下達で押しつけられたときては心が痛みます。
たとえ、それが正しいことでも、実際に関わる人達からの発想の形に持って行かないと無理が来る。目下、その無理が極限に達しているのです。人口が減って大切にしなければならない若者達に。

今日はその報告です。

あれはもう何年前になりますか、今は亡き世賀井田(屋号)の肇さんが自治会長でしたから20年も昔です。彼が町の自治会長会議で、国道191号線の付け替え改良工事完成記念に道路沿いに紫陽花を植えてフラワ-ロードを作る事が決まった、ついては地元集落に菅理を委託したいと申し入れがあったと話したのです。「ええ話しだけー、やらにゃーいけまじゃーないか」と。

一言多い私が「それを誰がするのか」と聞いたのです。「勿論集落のみんながやるのよ」。そこで、「一、二年は何とか出来るかも知らんが、5年先10年先誰がやるんね、どこの若いもんが帰ってくるんね」絶句した彼に追い打ちを掛けました。「消防も水道も自治会の出役も、担ってくれそうな若者は2人しかおらんのよ。紫陽花は1-2年では枯れん。自分たちが出来んことを引き受ける、そんな無責任なことを請け負ってはいけん。」

簡単に考えていた彼も、言われてみれば小板の現実は、これ以上の公共の仕事を増やすわけには行かない、「そう言われれば、先のことまで考えなんだ」と。
彼が役場に飛んでいって前言を撤回し、小板地区には紫陽花ロードの管理は請け合いかねると申し入れをしたのは言うまでもありません。
困った役場は隣接の松原自治会に全面管理を依頼しました、発案者がその地区の議員とあれば断るわけにゆかず、引き受けた。
ところが、その先があって、これを学区の父母会(PTA)に委託したのです、若干の委託費を町が負担するということで。

ところが肝心なところに気配りがない。それは山村は人口が減少している、目下減少中ということ。私が松原校に通学していた頃は小学校、中学校(昔は高等科と言いました)合わせて108人、それに小板分校の27人を加えると130人あまりの大所帯、それが十数人に減少している。若者の離村と少子化が重なって農村から若者が消えて、結果として子供がいない。学区の父母会も会員が激減、しかも収入の少ない集落では働き場もない、幸い道路は良くなり、自動車は普及して20-30キロ圏に働きに出る事は可能、父母会のメンバーも夫婦共稼ぎ、たまの休日には山積した家事の後始末で時間が幾らあっても足りない、そんな人達に紫陽花ロードの手入れまで受け負わせた。

ボス共は何を考えているのか、と憤慨しても古い体制を残した山村では若者の不満は上部までは届かない。結果、離村が促進されるという結末。見浦家のお嫁さんも父母会のメンバーと言うことで付き合わされて悲鳴、自分の生活を破壊してまで紫陽花ロードに付き合うのは本末転倒ではないかと助言して脱会させた。

こんな事もあって若者の流出は止めどもなく続きました。そして中学校も、小学校も、幼稚園も消えて行きました。本校があった松原地区の子供より小板地区の生徒が多いと気付いた時は手遅れでした。

若者の都会への流出は時の流れだったかも知れませんが、それを加速するような政治の力が働いた。その一つが紫陽花ロードだったのです。

こんな裏話はあっても梅雨の時期が来れば深入山の国道は紫陽花の花盛りで心が和む。何も知らない旅行者は「綺麗だね」と通り過ぎる。その花の陰の悲喜劇には気付かないで。

今年も夏が過ぎて花の季節は終わりました。紫陽花ロードの「花を大切に」の立て札の側で、ドライフラワーにするため花を切り取って行く人を見かけます。そして隠れた悲劇を知る人もいなくなりました。

2012.6.29 見浦哲弥

2012年7月28日

大規模林道、大朝ー鹿野線(細身谷林道)建設中止

2012.1.19 日本のバブル崩壊がこの小さい集落にも現実の姿で現れました。私たちが大規模林道と呼んで利用している2車線の道路建設が中止になったのです。
今日は見浦牧場を貫通して建設された、この道路の悲喜こもごもの裏話です。

もう30年あまりも昔になりますか、お隣の芸北町で立派な林道が建設されるという話が聞こえてきました。
ところが20キロもある遠い隣町の話、大朝(北広島町)から山口県の鹿野町をつなぐ林道だそうなと聞いても大して関心はありませんでした。その道が隣部落の空城を通ると決まって、にわかに現実味を帯びてきました。隣村の芸北町(現在は北広島町)の役場から、小板通過賛成の同意書が送られてきたのですが、国道191号線の付け替え工事の最中で、それどころではないと放置してありました。
でも、本当かと見学には出かけました。空城川が橋山集落に合流する入り口付近の工事が始まっていて、せまい峡谷の岩盤を削っての工事、こりゃ小板に着くのはいつのことやらと記憶から消してしまったのです。

何年か経ちました。道路は僅かずつ伸びていました。空城川を離れて小さな峠を越え滝山川の上流へと進んできました。そこから小板までは約3キロ、こりゃ完成するぞと期待を持ち始めたのですから現金なもの、進捗状況を頻繁に見に行くようになりましたね。
やがて見浦牧場の芸北町分に差し掛かると、工事会社の社長が工事の残土処分地はないかと訪ねてきました。もともと見浦牧場は谷あり丘ありの地形でそれをならして牧草地にした牧場、埋め切れなかった谷は散在していて場所はある。低地には暗渠排水を、谷には排水パイプを埋設することで契約成立、それから10年あまりも残土の持込が続いたでしょうか。
山間の道路建設は極力残土が発生しないように、山を切り取ったらその土を谷に埋める、そして最短距離になるように設計するのですが、自然相手のこと、そううまくはいかない。残土処理は道路建設の悩みの種だったのです。おまけに小板から横川の間は国定公園の区間があり、見浦牧場に搬入された残土は約7万リューベ、10万トンを超す膨大な量になったのです。
後年、初期の見浦牧場を知る岡部先生が来場されて、公共工事と農地改良の連携というのは盲点だったと述懐されたときは嬉しかった。何しろ当時はこの地方の公共工事で残土を受け入れるときはダンプ1台で幾ばくという補償金を徴収するのが常識だった。それを改良工事を条件で無償?という方式をとったのだから、何人かの友人に人間がよすぎると忠告されましたね。
その関係もあって、中央政府に関係のあった岡部先生が国家資金の有効な投資方式だった「その手があったか」と残念がられた、私の鼻もちょっぴり高くなりましてね。

小板に達した大規模林道は2車線の立派な舗装道路、カーブは多いものの道路規格は国道191号線よりはワンランク上とは工事をした藤本組の社長の話、アスファルトの下の砕石の厚さが違うとか、なんとか。勘ぐればこの道路は国道186号線から191号線に移るときの最短距離、震災その他でいったん火急のための南北連絡道の一部かと考えたものです。
現実には大型車の通行量が多い、一般車は土曜日曜に限られています。もっとも見浦牧場にはありがたい道路で芸北にあった木材工場に週2-3回も木屑取りに利用させてもらった。

国道191号線と交差した大規模林道は名勝三段峡中央の餅の木部落を目指して小板川をくだります。その間約5キロ、三段峡は中流で吉和方向から流れる横川川と旧芸北町八幡高原からの柴木川に分かれる、その中間に餅の木部落があるのです。戸数6戸、川を挟んで小板川に2戸、横川側に4戸、小学校は小板分教場に1時間も2時間もかけて通ってくる、もちろん遅刻、欠けた授業のせいて勉強はできない、当然のことですね。何しろ足の弱い1年生まで連れての登校ですから。しかし、運動能力は抜群、山のことは何でも知っている。町の子の私には尊敬に値する連中でした。その中の一人が1級上の舛見敏夫君、彼は生涯の友でした。

閑話休題、ところが餅の木、小板間は荷車がかろうじて通る悪路、町の中央部へ出るためには、峡谷の中の歩道を出るか、小板を通って25キロの道を500メートルの高低差を含めて走破するしかない。峡谷の中には丸木橋もありましてね。少し出水すると通行不能、病気をすると即お寺さんを呼べの世界、小板まで自動車が通る道をつけるのが悲願でした。
農道として1車線の道路建設が始まったのが敗戦後10年も経ったころだったと記憶しています。ところが小板部落の下流に川まで巨大な岩壁がせり出した場所があって難工事、小さな削岩機での発破工事が時間がかかりまして。でも悲願の道路が完成したときには舛見君も大喜び、これで役場にいくのも楽になると。ところが小板ー餅の木間は100メートルあまりの高低差、大雨が降ると道路は激流で河原に変身、悪路の見本みたいになる。そこで今度は舗装道路がほしいとなった。そんなところに大規模林道、今度こそ僻地から脱出できると懸命になる。町会議員の選挙ともなると林道延伸に努力するの一言で東奔西走、2-3票しかない地域の要望など口約束にすぎないのにね。その挙句に自治会長でしかない私になんとかしてくれと頼みにくる。思わず「心配するな、君が生きている間には必ずつく」と口を滑らせたのが運のつき、「まだつかない」と責められました。

そのうち、横川集落にあった恐羅漢スキー場が戸河内からの横川林道では大型バスが入らないことに気がついた。何しろバブルでスキーバスが大型豪華になって遠くからのツアー客が増えた。ところが道が狭くて芸北地区のスキー場にお客を持っていかれた。この地帯はスキーのメッカ、即スキー場の激戦区、2車線の大規模林道が横川を通ることが問題解決と懸命になる。おかげで舛見訓の苦情を聞くことはなくなりましたね。
やがて餅の木集落?(1-2戸まで減ると集落とはいえないかも)と田代集落(6戸ばかりの集落がありましたがあまりの不便に4-50年前全戸が移住、杉林になりました)の間の田代峠を越えて、立派なコンクリート橋で奥三段峡を渡り、トンネルをくぐると横川川、谷沿いの道を駆け上がると横川部落、最盛期には60戸近くの民家が立ち並んでいたのに、現在は数戸。でもスキー場までは到達した、あと13キロ延伸すれば、高速道路の吉和インター、交通の便では芸北地区随一のスキー場になれる、と思ったところで建設中止。

ちなみに戸河内インターからは38キロ、地域一番の雪質を誇っても、スキー人口減少の最中では経営の好転は望み薄なのでは?

表面の理由は林業の衰退、環境団体の反対など、理由が並べられた。でも私は思う、国民が平和ボケをしたせいではないのかと。私は戦前、戦中、戦後を見てきた。世の中は様々なことが起きる。いいことも悪いことも。
日本は南北に細長い島国。しかも地震国いったん事が起きると大混乱になる。3.11の大震災はこの国の比較的幅の広いところで起きたので、国難ではあっても日本が南北に分断して機能を失う現象は起きなかった。が阪神大震災のときは南北の連絡道が国道9号線のほか数本に限られてこの地帯にもトラックが殺到する事態が起きた。私は大規模林道はこの補完道路の役割があると思っていた。ところが国の財政が厳しくなり、NGOの自然保護の宣伝にマスコミが便乗するにいたって、これ幸いと中止になったと思っている。
自然保護を口にするのならなぜ国有林の独立採算を主張する前に自然保護のナショナルパークの設立を提起しなかったのか、貴重な自然林が伐採され、針葉樹が植林され、食物に植えた野生動物が里山に押し寄せて山村崩壊を引き起こした。これは人災ではないのか。見浦牧場では過去50年に7頭の牛がツキノワグマの犠牲になった。針葉樹林になった国有林には野生動物を飼養する力は想像以上に劣化している。だとすれば災害対策の道路建設は自然保護と同等以上に評価するべきだと思うのだが、年寄りの遠吠えなのだろうか?

とにかく、大規模林道大朝ー鹿野線は終わった。横川のスキー場分かれを過ぎて1車線になりすぐ砂利道になり、やがて40年前吉和村まで駆け抜けた悪路の林道になる。人生の最後にもう一度たどってみたいとは思うものの、おそらくは機会がないだろう。完成していたら吉和のインターにつながる、かくれた主要道になったかもしれないのに。

今日は見浦牧場を横断する道路の裏話を報告しました。

2012.2.29 見浦哲弥

2011年8月8日

ある電話 ~山村の人手不足~

2010.7.20 お嫁さんの亮子君がある電話で悪戦苦闘をしていました。息子の和弥は代わろうとしませんし、受け答えの論旨が支離滅裂になり始める、見かねて電話を代わって驚いた、中国新聞の女性記者さんの取材電話だったのです。

時はテレビの放送がアナログからデジタルに変換される期日まで後一年と迫って、政府もマスコミも懸命に報道合戦を繰り返している最中。
ところが我が見浦家では、先日小板地区で決定した共同デジタル組合に参加しないことに決定したのです。
理由は一つ、10年先の小板では、維持管理していく青壮年(男女を合わせて)2-3人しか想定できないからです。それも不慮の出来事は全くないとの前提です。
それなら地域のニュースは入らなくても個々で対応できる衛星放送の電波を利用してこの問題をクリアしよう、それが私たちの答えなのです。

この結論を導き出した理由が外部の人には理解ができない。国も県も町も財政が逼迫しているというのに、膨大な補助金を出して個人の負担は35000円で抑えるというのに、まだ不足があるのですか?と。もともとアナログの時代から小板は難視聴地帯、正規に受信料を払っているのは見浦家だけ?そんなところに都会並みの映像が見られるのは棚ボタではないのか?

それで本当の理由はなんですか?それが取材の目的でした。
記者さんは30代、お若い彼女にはこの中国山地で起きている深刻な過疎、いや過疎を通り越して消滅の危機にある現状は理解できない。最も地元の人たちも理解したくない、認めたくない。

そんな小さな集落でも存続している間は、色々な公的が義務があるのです。それを列記しましょう。

1.行政との連絡・対応の自治会長
2.たとえ小さいとは言え集落の財政を支える共有財産の管理、財団法人小板振興会の役員
3.小板は一部の家庭を除いて生活用水が不足していました。その対策として40年前に建設した小板簡易水道組合の管理運営業務
4.少ないとはいえ子供たちがいる。しかも20キロのバス通学。学校対策にPTAの役員も必要。
5.お葬式の手伝いなどをする、小板同行(どうぎょう)の運営
6.氏神さんである、河内神社の管理責任の総代さん
 等等、、、

もちろん、人手不足が深刻な現在、男性だけが担う必要はありません。男女同権の現在、女性に期待するところ大ですが、田舎は古いところ、駆け引きや人を動かす所はまだ男性が必要なのです。
今度の共同視聴組合も4、5年は順調に動くと思いますが、10年もすれば様々な問題が発生するでしょう。これまで問題が発生するたびに貧乏くじを引かされてきた見浦家としては、今回は遠慮させていただく、これがこの問題に対する姿勢なのです。

いま、日本中で発生している、過疎、高齢化、その最先端の集落の消滅。
それにささやかな警鐘を鳴らしていると思っていますが、間に合うように人の心に届くことができるのか、せめて大海の一石になればと思っているのです。

2011.5.17 見浦哲弥

2010年3月6日

井上さん

昨日、井上さんという人が訪ねてきました。
以前、会社の仕事で小板の別荘作りに来られたとか、私の記憶には残ってはいませんでしたが、お話をお聞きするうちに田舎の人たちの心が荒廃したのは、小板だけではなかったのかと、さびしくなりました。

井上さんはリタイヤ後、旧八幡村に移住したのだそうです。住居の周りの空き地で野菜や花を作ろうとした、ところが埋め立てられた空き地で、どうしてもうまくいかない、そこで見浦牧場を訪ねられた。

お話をお聞きしながら思ったのです。昔なら周りからサイチンヤキ(世話焼き)が登場して、ああでもないこうでもないと世話をやいた。
そのうちにサイチンヤキが複数になって、当人そっちのけで論争が始まる、記憶にあるそんな風景はまだ新鮮なのに、現実には遠い遠い昔になってしまった。

私たちが余った堆肥の無料提供を始めたのは、もう10年あまりも前になりますか。
無料というのが、みなさんには大変違和感があったらしく、無理にお金を置くと争いになったこともあり、それならと品物を持ってこられるやら、大変でした。
そのうち、家で見浦の堆肥でできたと、大根の一本もお持ちいただければそれが私たちには最大にうれしいと申し上げて理解をしていただきましたが。

実はこんな考えを持つようになったのには、それなりに悲しい経験があるのです。
私たちが貧乏のどん底を歩いているとき、一円のお金も節約しなければならない、そんなとき人が不用品として放置してある品物でも、分けてくださいといえば、いくらいくらと要求される。それもかなりの高額な値段で。
道端の崩れた石も値段をつけられる。人の足元を見て、と悲しい思いを何度もしたのです。
でもそれでわかったことは、もし立場が逆になったら、相手も悲しい思いをするのだろうなと。
本業の商売に関係がない限り、必要でないものは差し上げては、と。

堆肥はまさにそれでした。どんなに努力しても撒ききれなくて余る堆肥は私にとっては無価値、自家用にお使いになるのなら無償提供をしようと。

ところが今や善意も金銭で評価する時代、拝金主義が横行する田舎では真意が理解してもらえなくて、逆に金を払うから積み込みをしろと強要する人まで現れて。
見浦牧場は特別、が定着するまで時間がかかりました。
ようやく「おい、見浦さん、また頼む」と勝手に積み込んで帰られる人が大方になりました。

まして都会の人が移住されてきたら、自然に回りがあつまってサイチンを焼く、そんな昔の風景を復活しようとしている、私たちは現代のドンキホーテ。でもそんな暖かい田舎を作りたいなと夢みています。

多忙で目が回る忙しさですが、近日中に訪問してお役にたてることはないか、見に行こうと思っています。

今日は井上さんの話でした。

2008.4.21 見浦 哲弥

2007年1月14日

同行崩壊す~村社会の壊滅~

平成16年の春、小板の部落総会で一つの議案が可決されました。
それは、何百年も続いてきた村社会への弔鐘でした。しかし、賛成した村人は、そのことがやがて恐ろしい結果をもたらすことを、まだ誰も知りません。世の中の流れと単純に受け入れて、仕方がないと、なかばあきらめていました。が、私と私の家族は微力を承知でこの流れに逆らう事にしました。集落の将来と、子孫の為に。

 私が大畠(オオバタケ)の家を代表して、集落の組織 「小板部落会」に出席を始めたのは、確か19歳のときからです。ですから、この部落の歴史を自分の目で確かめ始めてから55年、父が集落内の事をよく話してくれていましたから、(小学校を卒業した頃からのことは、私なりの解釈ではありますが。)それを含めると60年以上、随分長い小板の時間を見つめていたことになります。
 考えてみると、同年輩の仲間や後輩が部落会に入れて貰えるのは、40歳前後から、たまたま、代表者の戸主が早死にしたときに30代で入会する。それも意見でも言おうものなら、「文句を言うのは、まだ早い」と叱られる始末でしたから、ほかの人達の集落に関する知識が、私よりはるかに少ないのも無理はありません。

 見浦家の先祖は、関が原の合戦で、西軍に属していたと聞きます。落武者狩に追われて中国山地を徘徊し、匹見(島根県)の芋原(山の向こう)に落ち着いたのだと。そこから分かれて小板にきたのは350年程前。その時すでに、4軒の先住者がいたといいますから、かれこれ400年以上もこの集落が存在してきたのだと思うのです。山間の交通の不便な豪雪地帯、何かにつけて助け合わなくては生きて行けない処でです。

 私が集落に参加した時は、数多くの申し合わせ(不合理と思われる事も沢山有りました)が不文律としてありました。その一つが同行(ドウギョウ)だったのです。

 私も最初は同行の意義は分かりませんでした。ただ、お葬式の時は、両隣の人が願人(ガンニン)として現れる。そしてお葬式の総てを取りしきる。田舎の葬式は、こうして行なわれるものと思っていました。
 祖父や母の葬儀のときは子供でしたから何も判りませんでしたが、父の時は大畠の当主でしたから、同行の意味は身に染んで、その重要性を理解しました。 
 身近な肉親が亡くなって、混乱している精神状態で野辺送りをする。実際には中々出来る事ではありません。そんな時「父が死んで」と、一声お隣に声をかけると途端に組織が動き始める。何もしなくても、お寺の手配から家の周りの掃除まで。気がつくと「終わったけー、挨拶をしてくれーや」と、同行全員が食事をしている所に「ありがとうございました」と、お酒を注いで歩いて終わり、本当に有難いと思いましたね。

 その同行がなくなる、しかも部落の総会で多数決で決まったとは、驚きました。口伝だった同行の規約を、明文化し統一したのは私でしたから、ショックは大きかった。

 総会から帰った息子に問いただすと、部落の財産管理の組織、小板振興会の財政が破綻状態で、お葬式に今までのような援助が出来なくなった。過疎と高齢化で人員の確保が出来ない(各戸1人ずつ出る取決めでした)。基本が崩れたのだから、同行そのものを廃止して自治会長が葬儀社を斡旋する、そんな形にすれば、集落に負担がかからなくて済む、そんな提案だった聞きました。「人数もないし、金もないのなら、同行はあっても、なくても同じよー」との声で、反対者もなく多数決で決まったと。彼も対案を持たない以上賛成票をいれる他はなかったと、答えたのです。

 そこで、彼に"同行は助け合いの原点、皆がその本質を誤って解釈し、手間返しの集まりと理解しているけれど、本当は助けを求められたら、出来る人は許す限り力になってあげる、そんな助け合いの組織なんだよ。それを改善でなく全廃して、これからこの集落が続くと思うのか"と意見をしたのです。

 昭和17年の年末、父が先峠(サキダオ:国道191号線深入峠)で炭を焼いていた、鍛冶口と言う人を配給品の事で訪ねた時、(当時は焼子と言って、親方の山に炭小屋と居小屋を作って住み込み、歩合で生活する人が居ました)奥さんが出てきて、主人が2日ほど前に死んだ、相談する所もないので、米びつに押し込んであります、天候が良くなり次第外へ出して焼くつもりですと。仰天した父は部落に帰って、同行を集めて鍛冶口の葬式をしてやろうと提案したのです。ところが「ありゃー小板の同行じゃないけー、やるこたあーいらんよー」の声が上がったといいます。烈火の如く怒った父の「他人の不幸を思いやる事が出来ない奴の手伝いはいらん。わし一人でも葬式をしてやる」の言葉に、同行が動いて、全員で葬式を出してあげたと聞いていました。仲間も「そんな事があったの、そうそう鍛冶口さんだったのー」と。その話しをしたのです。

 和弥(息子)は、それから3日ほど考え抜いて"親父さん、同行を再建して欲しい。考えて見たが同行は助け合いの基本だった。基本が間違っては集落は生き残れない。総会で賛成して、それをひっくり返す行動に出れば、信頼を失い、批判される事は重々承知だが、非難は全部私が負うから、是非動いて欲しい"と。
 間違いと気付いたら行動する、マイナスの結果が予測できるのに踏み込んで行く彼に、さすが我が子と誇りを感じたのです。

 さて、最初口伝だった同行を文章化した話は、今は故人の小笠原福美さんから始まりました。口伝の規約は人によって幾通りも解釈ができます。葬儀が始まっているのに、喧々囂々意見がまとまらないことが、数多くありました。願人が違うとやり方も違う。そこで、小笠原君が「見浦君に、同行の規約を文書にまとめてもらおうや」と総会に提案したのです。面倒な仕事は若い奴に押し付けるに限ると、意見は一致しましたね。私が30を越したばかりのことです。それが最初の「小板部落葬儀施行細則」です。何もないところから始めるのですから、単語一つでも苦労しましたが、知らないと言う強みもあって、当家とか、野武士とか、強引に解釈して文章を作りました。昭和51年5月の事です。
 でも、文章にしてみると、不具合の所や、見落してきた所など、矛盾点などが見えてきました。そこで、叱られたらその時よと、当時としたら思いきった考えで書くことにしました。

 まず、同行の人達は労力奉仕なのです。お金持ちと、生活が一杯の人と、お金のあるなしで、葬儀に違いのある事は間違いだと思いました。それなら、葬儀の内容に天井を設けてやれと。そこで、お寺さんは3人まで、花輪は禁止、生花は一対まで、お棺は箱棺で、上に金襴(金襴は集落で購入して使用する)をかけるだけ、等々。皆が、それが、何を意味するのか判らない内に賛成を貰いました。
 後年、小板では葬式の競争がないので住みやすいと、評価されたとも有りますし、また、この取り決めを無視して花輪を並べられ、皆で決めた葬儀細則を無視するのなら、同行全員を引き上げると交渉して止めさせたり、色々とありましたが、簡素ながら心のこもったお葬式の形は定着したのです。

 簡素ながらという言葉の裏に私のささやかな願いが込められています。都会でもそうですが農村は周囲を意識しすぎます。「隣がああだったから、うちはあれにゃあ負けられん。」そんな見栄の張り合いが強いのです。私が集落に入ってまもなく、ある事件が起きました。

 小板では、毎年12月に持ちまわりの報恩講が開かれていました。ところが、あるお家で引き出物として参加者にアルマイトの汁杓子が出ました。今の100円ショップで見るような安物でしたが、みるみるエスカレートして大きなお鍋になるのに時間はかかりませんでした。住民に大きな負担になったのは言うまでもありません。それを防ぐ意味での簡素な葬儀は大切なことなのです。残った家族の経済的負担を最小にする。新同行には、そんな思いもあるのです。

 さて、時代の流れで人口が減り始めました、特に38豪雪とよばれる4メートルに及ぶ大雪はその勢いに弾みをつけました。時は高度成長とよばれる日本繁栄の時期、その気になれば都会に仕事はいくらでもありました。
 目先の効く人は、値上がりを始めた郊外の土地に投資をして大儲けをするなど、投資の対象にも事欠きませんでした。
 若い青年たちが都会に去り、乏しい資本も山村から流出して行きました。
 そして、小板も中国山地の過疎地に仲間入りしたのです、吉崎、新宅、小松屋、エトセトラ・・・。

 .同行の中に大工さんがいなくなりました。お棺が作れなくなりました。そこで、素人でも作れる厚いコンパネと呼ばれるベニヤ板で作ることにしました。ところが、不幸があってから、板を買いにゆくのでは、半日以上無駄になります。それで、振興会が買い置きする事になりました。
 その内、長い間、集落の中で助け合った仲間ではないか、棺材料くらい只にしろと、言うことになりました。次は写真のないのは寂しいね、遺影の写真ぐらい買ってあげろになり、ほかの集落ではもっと大きな写真だったと、歯止めがきかなくなりました。
 特に苦言の私が引退して、若い和弥になり、ブレーキがかからなくなって、ばらまきは派手になるばかり。バブルは終わって振興会の収入も心細くなる一方なのに、スキー場だ。レジャーだ、観光だと夢を追い続けました。その度に会の財布が軽くなったことは言うまでもありません。
 引き締めができない最大の理由は、引き締めをどこの葬式から始めるかでした。「わしの家の時から、きつーするゆうんは、なんぞ恨みでもあるんか」と言われた時に、真正面から説明して納得させる勇気を誰も持ち合わせていなかった。そう結論するのは酷かもしれませんが、誰もやりませんでしたね。バラ撒きの時の大声の人たちは特にそうでした。
 そう言えば、最初の同行改革のときも、節目になったお家の親類から「ここから葬式に制限するのはどうゆうことなら?てめえの家の葬式を派手にしたらただではおかんぞ」と脅されました。父の葬儀は細則にしたがって簡素な葬式だったので、いっぺんに定着して異論がでなくなったのですが。

 さて、小板では葬式が4-5年有りませんでしたから、その内機会があったら取り上げて、集落の人達に考え直してもらおうと思っていました。
 ところが、お元気だったHさんのおばあさんが、心臓麻痺で倒れたのです。
 何回かの役員会で、同行廃止は問題を含むと、発言はしてきたものの、決まったことだから、との返事を繰り返す幹部に、半ば匙を投げていた和弥も、これには驚いて、振興会長に”疑問が問いかけられている同行廃止なのだから、集落全員に意志の確認が済むまでは、今までどうりにやってほしい。今回だけは強行は止めて欲しい”と、電話で頼んでいました。しかし答えは”多数決で決定したことは変えられない”でした。
 多数決とはいえ、老齢化の進んだ小板では、出席者はいつも5―6人、長い間、小板という集落の中で暮らしてきた、全員の意見を代表しているとは思えません。
 そこで、私も会長に、”それなら緊急に全員の意思確認をしろ。それをしないで葬儀をすれば、取り返しがつかなくなる”と、電話したのです。ところが、会長は”Hさんも了解済みなので、何の問題もありません。総会で決まったことだから、このままやります”と答えてきました。
 やんぬるかな、もはや人を傷つけずに収拾する事は出来ないと、天を仰ぎましたね。

 和弥は、”俺は悪者になってもいいから、小板の住民の立場になって収拾してくれ”と、重ねて頼みます。彼に、この様に本気で頼まれたのは初めてでしたね。
 大畠(見浦の屋号)は私の代になってから、悪役が続きました。開拓、水道、道路と数えればきりがありません。また貧乏くじかよと、さすがに暗然としましたね。

 葬儀が済みました。案の定、不満が続出しました。当事者のHさんは、”小板ではこの方式で葬儀をすると説得された。最近住民になったばかりなので、詳細は知らず従うしかなかった。葬式が済んでから、いろいろ納得がいかない点が多かった。”そう話してくれました。大切なお母さんの葬儀が問題を含む形で強行された。当事者ではない私も”小板の住民として申し訳ない”と、頭を下げるだけでした。

 さて、どう収拾するかを考えました。まず、財団法人小板振興会からの補助は考えられなくなりました。次に過疎と老齢化で労力不足も現実です。これでは従前の方式での同行は全く不可能です。では、同行が始まった原点に思考を戻してみよう、そう考えたのです。
 辺鄙で小さな集落で生きてゆくためには、自然発生する助け合いの精神を、集落の住人が再認識する事が必要でした。
 しかし、役場まで20キロの山道、冬は3ヶ月の雪の下、働き場もない、そんな厳しい環境では、助け合いと言っても最低限の事しかできない。その中で作り上げたのが、この「新小板部落葬儀細則」です。
 添付しますので本文とあわせてお読み頂き、私共の真意を汲みとっていただきたい。そして御意見をお聞かせ下されば幸いです。(→小板部落葬儀細則 全文)

 この新同行になって4人の方を見送りました。特に今回は30代の青年が「見浦さん、この方式でいける」と言ってくれました。嬉しい嬉しい一言でした。

 小板新同行は試行錯誤をしながら、これからも存続の為に努力して行きます。
 どうか暖かく見守ってやってください。

2006.7.27 見浦哲弥

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