那須は県道296号線を国道191号線の戸河内の明神橋(コンクリート製の白い逆アーチの橋)を渡って大田川の分流を吉和村に向かって走る、深い峡谷の中を走る1車線の道路は約10キロで那須に向かう分岐点に達する、左の坂道を登ること1キロ、突然眼前が開けて南面の緩斜面、それが那須である。
那須には歴史がある。言い伝えによれば源平の合戦にも遡るという人もいて、平家物語の那須の与一が先祖との説もあるが、長い日本の歴史の中で敗者が安住の地を求めて辿り着いた秘境、その一つが那須の部落なのかもしれない。この近辺にはそのような話の集落が数多く存在するのだそうだ。
先日、買い受けた2トントラックの代金支払いをかねて岡田君宅を訪れたのだ。彼が林業会社を経営していた時に使用した車が不要になったため買い受けたもの。私が那須を最初に訪れたのは50年前の町会議員選挙に立候補した時、当時は20数戸の立派な集落で、突然あらわれた別天地に感激したものだ。
吉和村から流れる大田川の支流沿いの打梨から分かれる谷川沿いの杉林は長い歳月を物語る巨木に変化していた。そして現れた那須も家並みは昔のままでも、人影もなくひっそりと死に絶えていた。ただ岡田君の家だけが息づいているだけ。小板と違って残骸を晒した家は見えないが、無住の家々は生きることをとめていた。
私が最初に訪れた那須には小学校の分校があった。本校は本流沿いの打梨小学校、子供の声の聞こえる校舎前で選挙演説をした覚えがある。しがらみが存在した住民は家の陰など姿を見せずに聞いてくれた。姿を現してきたのは子供達ばかりだったな。遠い遠い那須の一つの思い出だ。
同じ崩壊集落でも小板と那須では大きな違いがある。小板も崩壊集落であることに違いはないが、別荘を含めると50余戸の住居がある。この数は、停電で電力会社に問い合わせて始めて知った数で、住民は別荘の正確な数は知らなかった。従って常住する住民の数は那須と大差はないが、休日ともなると人間の息吹が濃く感じられるのだ。
中国山地の同じような条件の集落が片や消え去る運命を感じるのに、片や何年かすれば何とかなりそうと希望的観測が出来るのは交通の便の違いだと思っている。
那須は道路のドン詰まりに集落がある。私が知る限り、このドン詰まりを解消しようとする計画が2度あった。一つはトンネルで恐羅漢スキー場の横川集落に繋ごうとする計画、この話は地元の反対で駄目になり、それなら横川林道に連絡する道路の建設をと建設が始まったが、時遅くバブルの崩壊で建設は中断された。
そしてドン詰まりの那須が誕生したんだ。時代が移り変わって自動車が普及して、整備された道路が居住の条件になった。そしてドン詰まりの那須は無住の集落へ追い込まれたんだ。私は内部事情を詳しくは知らない。私が20代のはじめ、那須には優秀な指導者がいたと聞いていた。残念なことに交通事故で亡くなられた。その後に我こそは御山の大将との目立ちやさんが指導者に据わって、時代を先駆ける先見性が持てなかった。友人の岡田君が懸命な努力はしたが彼が権力を得た時は再生のチャンスは過ぎ去っていた。
2016.1.1 中国新聞に連載”中国山地”が再び始まった。その第一号の記事が岡田君の那須の紹介だった。滅び行く集落の中で孤軍奮闘する岡田君夫妻の紹介と希望で記事が終わっていた。50年前の”中国山地”も深く読め込めば滅びの記録だった。なぜこの流れが続くのだろうか。この時代は市場経済なる怪物で動かされている。このシステムは、巨大な資本を持つか、たとえ小さくても彼らの一歩先を歩く以外に勝ち残ることは出来ない。世の中には経済紙あり、評論家の解説ありで、様々の情報は溢れていて、誰もが我こそは人よりも先が見えると自負している。小板も例外なく俺の方が偉いと自負なさる方の山積だった。そんな社会の片隅で岡田君は懸命だった。働き口を作るとて山仕事の会社を作り集落の人に働き場を提供した。
彼とは農協の役員として、農業委員会の委員として、何年か共に働いた。そして何度かあった改革のときの信頼できる友人だった。残念なことに彼が那須の指導権を握った時は再生の時代は過ぎ去っていたんだ。
自分がなくて、約束をを守る、そんな彼は戸河内町でも数少ない人材だった。田舎のボスの通例の地方政治には乗り込まず、ひたすら那須の人々の仕事場を確保することで那須を守ろうとした。が、時代は厳しい。タイミングを失した那須は彼の努力にもかかわらず、少しずつ力を失って彼1人の集落になった。私と同年代の彼は何時の日かの那須の復活を夢見て今日も頑張っている。
私は、その彼の健闘にエールを送ってはいるが。
2016.1.28 見浦哲弥
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