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2016年12月14日

愚弟賢兄

2015.8.21 中国新聞に中山畜産の近況を報じた記事があった。従業員632人、牧場が福山、笠岡、真庭の3箇所、直営の店舗が8箇所、年間売り上げが133億円、飼養頭数が8000頭、日本でも有数の巨大牧場であると。お隣の島根県にも同じ規模の松永牧場がある。見浦牧場のようなミニ牧場から見ればたいそうな大牧場である。

ところが創業者の中山伯男さんは私の兄弟子になる。確か私より10歳くらいの先輩のはず、当時油木の種畜場の場長だった榎野俊文先生の門下生。

和牛飼育に取り組んだのも殆ど同じ時期、教えを頂いたのも同じ先生、が、歩いた道は環境も考え方も天と地ほど違った、今日はその話をして見ましょうか。

榎野先生は中島先生の部下、その出会いは”中島健先生”で書いた。当時、油木の種畜場の場長先生だった。福山の奥にある種畜場には勉強のために何度も通ったんだ。油木町と戸河内町は県の西と東の端にある、広い広島県を横断するのは道路事情が良くなかったあの時代では、とんでもない距離だったんだ。
でも、まだ若かった私はカローラの中古車を駆って何度も訪問して教えを請うたんだ。

時は役牛だった和牛が肉用牛と変身を始めた時期、目標は一日増体量が700グラム前後の能力を海外並みの1.1キログラム以上に改良することと、1-3頭の飼育規模を10頭以上に拡大すること。そうしなければ生き残れないと、畜産の専門家が考え始めた時期、経済が拡大して外国貿易が盛んになれば、外国産牛肉の輸入の拡大で国内の肉牛生産は一敗地にまみえると、国も県も担当者は本気で考えたのだ。

そして広島県が考えたのが放牧一貫経営、親牛10頭を基本として育成牛、肥育牛など30頭を1セットとして飼育するシステム、繁殖と育成は放牧飼育、肥育牛は屋外のパドック牛舎、これが基本のシステムで油木の種畜場で試験飼育が始まったのだ。

規模は3セット、計90頭、牧草畑10ヘクタール、これを作業員2名で管理運営する、機械設備は20馬力の国産トラクターと作業機一式、試験期間2年で始まったんだ。その最高責任者が榎野俊文場長、私は熱心な民間人の弟子、記憶が消えたところもあるが、そのようなプロフィールだった。
勿論、何度も見学と学習に通ったのはいうまでもない。

同じ頃、榎野先生のところに牛のことで教えを請うた人がいた。確か福山近辺の人で40歳ぐらいではなかったか、学ぶにつけて自分の年齢では普通の方法で学習するには時間が足りない、現場で実習しなければとてもついては行けないと、屠場の見習助手になったと、先生が楽しそうに話してくれたものだ。ところで助手は屠場では最下級の職種、命のやり取りの職場だから極度の緊張の世界、ミスでもしようものなら年齢など人間扱いなど微塵もない、そんなところに40男が勉強すると飛び込んだのだからと、先生は話す、それが中山伯夫さん、現在は日本でも指折りの牧場に成長した中山牧場の社長さんなのだ。彼が榎野先生の民間の1番弟子で私が2番弟子。

ところが1番弟子は偉すぎた。彼は成功して日本でも有数の牧場主になったのに、私は50年余りも夢を追い続けても、いまだにゴールは遥か雲の彼方、人に誇るべき成果はまだない。ただ、榎野、中島先生の一貫経営の夢を日本でただ1人、追い続けている。両先生にあの世でこの報告したら喜ばれるだろうな、が、私の唯一つの成果なのだ。

遠い日、榎野先生の門を叩いた2人の青年、天と地ほど違った結末は愚弟賢兄の見本のようなもの、勿論、愚弟は私なのだが。

2016.1.29 見浦哲弥

2012年7月18日

一貫経営のこだわり

今日2008.04.16 恒例の予防注射(気腫阻)がありました。家畜保健所から3人、家畜診療所から2人、いつもながら90頭あまりの注射はそれなりの大仕事です。
仕事が終わって雑談のときに気になることがありました。今日はその話、見浦牧場の和牛の放牧一貫経営の成り立ち、考え方について話してみようと思います。

私たちの経営は子牛の生産から肉牛の販売まで、端的に表現すれば、精液を買って、屠場に仕上がった肉牛を売る、(本当は消費者に直接生肉を販売したいのですが)それが現状のシステムです。
この基本は昭和40年から2年間、神石郡油木町にあった広島県立雪種畜場の多頭化放牧一貫経営試験がお手本です。
この試験は当時畜産界で大論争になった、和牛の将来についての、京都大学上坂教室と広島県農政部の中島部長以下広島県畜産技術陣との対立、それに関連して広島県が行った実証試験がそれです。

当時、広島県の多くの若者が、この多頭化試験の成果に夢をかけたのですが、45年の歳月は見浦牧場を残してその多くを戦線から離脱させました。

ですから、家畜保健所の職員の方が、この牧場の基本の考え方を興味深げに聞かれたので、45年前に何が広島県の和牛の世界に起きていたのか、それを解決しようと懸命に努力した広島県畜産技術陣があったこと、それに夢をかけた若者が数多く存在したこと、そんな事実を書き記す責任が見浦牧場にはある、そんな気がしたのです。

ここ芸北地区は和牛と呼ばれる黒牛については、広島県の後進地で、山県郡の牛は広島県で最低のランクに分類されていました。特に芸北地区の牛は島根和牛の血統の影響を受けて、ブランドが確立していた神石牛が基本の広島牛からは相手にされない雑駁(ざっぱく:雑然として統一がないこと)な牛の集まりでした。
でもその芸北地区から和牛飼育に農業の夢をかけた若者が数多く出たのは、昔から広大な山地を利用した夏山放牧の歴史があったからなのです。
小型耕運機が普及する以前の和牛は、春先の農繁期の活躍がすむと、各集落に付属していた大小の放牧場に放すのが慣わしでした。真夏のお盆前後は駄屋(牛舎)に収容して、刈り草を踏ませて堆肥つくりに励み、涼しくなるとまた放牧場に戻して稲刈り、秋じまいが済んで初雪が訪れるころ再び駄屋に連れ帰る、そんなパターンで牛を飼っていた経験から、新しい放牧形式の和牛経営は簡単に成功すると思い込んだ。しかしそこから長い試行錯誤と失敗の歴史が始まったのです。

今にして考えると失敗の原因は、役牛と肉牛との違いを完全に認識していなかった事だと思うのです。もちろん、技術者は問題点は捕らえていました。一日増体重を0.6キロから欧米の肉専用腫の1.2キロに近づける必要性を声を大にして叫んでいましたから。(現在は0.9から1.0キロぐらい)

当然のことながら、役牛は農耕作業のために存在し、子取りはおまけ、もちろん先進農家は繁殖と育成に努力と技術の積み上げをしていましたが、大部分の農家は博労(ばくろう:牛馬の売買・仲介を業とする人)のいうまま、技術も売買も彼らの思うがままでした。従って和牛飼育の利益も彼らの懐に直行、それでも農繁期に活躍して堆肥が取れて米が取れれば満足、それが大多数の農家でした。
それでも、「わしらー牛を飼うとった。牛は素人じゃない」と自負していましたから、役牛が肉牛に変わるという意味を理解していた農家はいなかった。そう思われても仕方がありませんでした。

役牛から肉牛に変化した和牛は、一年一産が目標、牛が鳴いた(発情)けー、種付(授精)をしたでは通らない世界、微妙な行動の変化からもその前兆を読み取り、適期授精をしなくては成績はあがりません。
私が「あの牛は明日発情するよ」というと、そんなことがどうしてお前にわかるのかとまず疑う、的中すると「ありゃーまぐれよ」と片付ける、そんな農民まで和牛で儲けると乗り出してきましてね。そんな受け手の事情は指導する側にまったく理解されていませんでした。要は官の指導に従えば儲かると。

肥育専門の農家は福山を中心として、温暖な瀬戸内海沿岸に集中していました。冬季の低温に晒される中国山地ではそれなりの新しい技術の開発と対策が必要でしたが、農家はえらい先生の言葉と教科書を丸呑みして、自分たちの創意工夫を積み上げる努力をしなかったのです。
そのころ、豊平町(現在の北広島町)で和牛界の神様、京都大学の上坂先生の講演がありました(現在でも神がかり的人物)、但馬牛の牛の飼い方が基本の飼育法と市場の評価の話で、これからの和牛はこの方法で金儲けを目指す、そんな話でした。会場を埋め尽くした農家はおいしい話に熱心に聞き入りました。熱気がありましたね。
その但馬牛を作り上げるために、兵庫の農家たちが長い年月、営々と努力を積み上げ、創意工夫で築き上げた歴史にはまったく関心を払わないで、高値で売れて金儲けができる、そこだけが頭に入った、そんな感じの講演会でした。
先生もサシの入った高級肉を作りさえすれば経営は安定すると話された。消費者の立場からすれば、安全なうまい牛肉をより買いやすい値段で生産し供給してほしい、そんな視点はありませんでしたね。

以来、日本の和牛はサシA5の霜降り高級肉を狙うのが主流で、残念ながら一般的な都市生活の皆さんにリーズナブルな価格で世界最高の食味の牛肉を供給する、そんなことを言う農民は和牛の世界から排除されてしまいました。

しかし、消費者の立場を見据えた見浦牧場の考え方は、一部のマスコミから高い評価を受けて何度か取材を受け記事になりました。時代を動かす力はなかったにせよ、犬山市の斉藤さんのように、この記事がきっかけで脱サラし消費者本位の肉屋を開業されて成功された人も出ました。ささやかな力になったかもしれませんが大勢に影響はありませんでした。

貴方もよくご存知のように、日本の農家は南北に3000キロメートル、高低差1000メートル以上の多様な農業環境におかれています。その中で農業を営んでいるのです。
その条件の中で、より安く、よりおいしく、より健康的な和牛肉を生産供給するためには、その地域、その牧場に適した牛を選抜し育て上げなければなりません。偏見かもしれませんが、工業的な飼い方で生産されるブロイラーと違って、牛は高い知能を持つ哺乳動物なのです。ですから物言わぬ彼らの気持ちを理解することが、最終の利益につながっていることを忘れてはいけないのです。

和牛には登録という仕組みがあります。明治の終わりに和牛の大型化を狙って外国の種雄牛を導入し、交配したのです。当時はまだ藩閥政府の名残が残っていた時代、各県がそれぞれの思いで種雄牛を導入したのだからたまりません。日本中に被毛が黒いだけが共通の多種多様な和牛が出来上がったのです。
大型化はしたものの、耐久力がない、野草が利用できない、環境への適応性が低い・・・様々な欠点が認められるようになったのです。

大正に入って、これではいけない、品種として統一性がないと和牛という品種がなくなる、と危機感を持った人たちが京都に和牛登録協会を設立、牛の戸籍簿、すなわち登録をしないと和牛とは認めないという制度の運用を始めました。
研究者が集まって、将来の和牛の理想像を設定、より近いものに高得点を与えて記録する和牛登録制度を作り上げました。
何代も高得点を得た牛の子供は高等登録、一般の牛は普通登録、遺伝的にレベルの低い牛は補助登録とランクがありましてね。(もっとも私はこの方面の知識は多くありませんから、正確を必要とされるときには登録協会に確認してください)登録牛の子供以外は登録できなくして、斉一性を目指したのです。
ちなみに貧乏な見浦牧場の牛は普通登録の最低レベルの牛ばかりでしたね。

子牛が生まれると最初に子牛登記をします。この登記には父親の確認のために精液証明書と授精作業をした獣医師や授精師の種付け証明書が要ります。そこで初めて子牛は和牛の仲間入りをするのです。この登記がないと子牛を売買することができない。
子牛が成長して16ヶ月になると24月齢までに登録検査を受けなければ和牛として登録してもらえない。現在では両親が登録牛でないと子供は和牛として認められないのだから、農家にとって大切な業務なのです。

さて、登録検査です。複数以上の検査官が体重、身長、胸囲、管幅(腰骨の幅)等々を計測、被毛、背線、舌、等々を目視で観察(外貌検査といいます)、理想像からどのくらい減点するかで点数を決めるのです。ところがその点数は決して私たちが求めている性能を現していない。
問題は農家の側にもありました。この登録検査ですが、子牛市場で子牛に値段がつくときに、母牛の登録点数が高いと競値も高い、その差が無視できないほど大きくて、検査のときに磨き上げるのは序の口で、子牛のうちから栄養過多にして太らす(人情として見栄えのいい牛は高めの得点になります)ところが子牛から太った子牛は肥育牛として本格的にえさをやると、途中から成長を止めて丸くなる、病気に弱い、等々マイナス点ばかりなのに、子牛生産農家と肥育牛農家との利害が一致しないため改善できない。
そこで同一経営内で子牛生産と肥育飼養を行って問題を解決しようとするのが一貫経営なのです。

ところが子牛生産は牛本来の生理を大切に健康に留意して育てる、肥育経営はその生理を最大限に利用して飼料をいかに効率的に牛肉に変えるかを追求する。それは相反する技術の集積なのです。ひとつの経営体の中で、二つの相反する技術を保有しなくてはいけない。見浦牧場では分業の形でそれぞれが分担をしているのですが、バランスをとるのが難しい。家族の中でも論争がありましてね。

新しい方式には解決しなければならない問題がこの他にも数多くありました。走り出した一貫経営もいつしか分業の世界になり子取り農家と肥育専業に分化しました。そして何千頭の巨大な肥育牧場と零細な子取り農家という形が出来上がったのです。
わが友人の中山牧場は2000頭あまりの大牧場と直接販売のお店を持つという形で大成功しましたが、見浦牧場はいまだに一貫経営という夢を追い続けています。牛肉生産という技術は消費者の牛肉に寄せる評価を子牛生産に反映させる、その繰り返しで発展してゆくと信じているからです。
幸い50年の時間が経過した現在、日本の各地で僅かながら一貫経営の声が聞こえるようになったのは嬉しい限りです。

しかし、この長い年月の間に私の不注意で数多くの牛たちの命が無駄に失われました。無知ということが生き物にどんなにむごい犠牲を要求することになるのかを畜産農家としては常に心に刻んでいかなければならないのです。
目を閉じれば、未熟ゆえに倒れた牛たちの顔が頭に浮かびます。人間が生きるために犠牲になるのが家畜の定めとは言え、最後の瞬間までは同じ生き物としての思いやりが農家には必要なのです。その姿勢で彼らと接することが新しい発見と知識をもたらし、経営の利益に結びつくのだと、私は信じています。

この文書を書き起こしてから、もう4年もコンピュータの中で眠っていました。ようやく文章に仕上げることができました。文節がつながらないところは老化ゆえとお許しください。

2012.3.6 見浦 哲弥

2010年10月10日

中島先生

中島先生は当時広島県の農政部長、広島県庁の歴史の中で最年少で部長になられた秀才、その人との出会いが、私の50年の和牛との付き合いの始まりとなろうとはね。人生は不思議なものだなと痛感しています。
その小さな出会いが日本畜産の一部門、和牛界に一石を投ずるかも知れないと来れば・・・・・。
私は皆さんに、一喜一憂をしないで、懸命に生きていれば、平凡な人間でも充実した一生になることを知って欲しいと思ってこの文章を書いています。

あれは昭和40年のことです。私は何戸かの農家で農業会社を作ったのです。参加してくれた農家は5軒でした。
時間から時間の労働、労働成果に基づく月給制、当時はそんな考えの若者が全国に多くて数多くの組織が出来ました。この周辺で生き残っているのは、広島では有名なナシの幸水園、山口の船方総合農場等々、もっとも我が農園は3ヶ月で破綻しましたが。

私の農業会社、和興兄弟農園が崩壊した経緯は又別の機会に報告しますが、今日はその後始末の中でおきた出来事の話です。

当時、国もそれまでの零細な農家では世界の中での競争には生き残れないと、再編して経済的に足腰の強い農家に育てる事業に力を入れていました。その一つが農業構造改善事業だったのです、勿論我が農園もその対象で行政機関が動き始めました。私達の計画で何を指導すべきか、どうすれば補助金や融資の対象になり得るのか、もう多くの機関が走り始めていました。
それが、スタート直後に崩壊したのですから、取り組んで頂いた方々には大変なご迷惑をかけたのです。私はお詫びに行くのは当然の義務だと思ったのです。
メンバーに相談したのですが、事業は中止したのだから、もう世話になることもない、だから謝罪に行く必要はない、が答えでした。

でも私は納得できなかった。善意の人に迷惑を掛けたのなら謝罪するのは当然、それが父母の教えでした。
そこで暇を見つけて頭を下げて歩きました。役場、農協、地方事務所、農業普及所、そして最後に県庁を訪れたのです。こう文章に書いてしまえば簡単ですが、失敗を謝って歩くのは辛い仕事です。「すみませんでした」だけでは済みません。必ず理由を聞かれる。他人に責任を負わせるのは簡単なことですが、考えれば私の未熟が総ての原因、そんなことは出来ません。針
の筵に座るとはこの事でしたね。
おまけに仲間達からは冷たい視線、その最中でしたから、よけい辛かった。
でも、ここで逃げてはと自分を励まして後一つの県庁を訪れたのです。受付で「畜産課長さんにお会いしたい」と申し込んだときは、これで終わりと腹が座りました。ところが受付嬢が電話を掛けて私に指定した場所は、3階の農政部長室。変だとは思ったのですが課長さんが部長室に出かけているのだなと、自分なりに解釈して部長室の秘書官受付に出向いたのです。「戸河内の見浦ですが、受付でここに来るように指示されました。畜産課長さんにお会いしたい」と。「見浦さんか、このイスで待つように」と言われて、秘書官室の隅のイスに座って待つこと2時間、長かったですね。しかし、非は私にあります。これで最後なのだからと自分に言い聞かせて、ひたすら待ちました。やがて部長室の扉が開いて、秘書官が「中島部長です。こちらが戸河内の見浦君」と紹介されたときは驚いて、課長さんにお会いしたいとお願いしたのに部長さんとは、と舞い上がってしまいました。

何しろ、県知事,副知事の次が部長、広島県でもっとも若くて部長に就任された秀才と後で聞かされた、その人に鋭い目で見つめられて「今日はどういう用事で来たのか」と聞かれて、しどろもどろになりながら、途中で投げ出した理由を説明して「申し訳ありませんでした」と頭を下げるのが精いっぱいでした。

黙って聞いていた先生は「謝ることだけで来たのか」と一言、「ご迷惑をおかけしたのでお詫びするのが当然ですから」と、申し上げると「この次は、うまくやるので宜しくと、頼みに来る人間は多いのに、すみませんでしたと謝るために来たのは、お前が初めてだ」あきれていました。が、ちょっと考えられてから「今から会議がある、部屋の隅で話を聞くように」と私に命じられたのです。何しろこちらはお詫びに来た弱みがあります。遅くなるので帰ります、とは言えませんでしたね。

会議室の隅にあるイスに座って待つことしばし、集まったメンバーを見て驚いた。畜産課長を始め、各種畜場、試験場の場長 、畜産関係の科長さん達、広島県畜産の指導者の蒼々たるメンバーばかり、10人ばかり出席されていたのかな、 私は小さくなっていましたね。

議題はアメリカの畜産を視察して帰られた部長さんの報告とこれからの広島県の畜産、特に役牛から肉牛に変換を始めた和牛の振興が主題だったと記憶しています。その為に県内に散在する牧場適地をいかに開発するかに議論が集中したのです。しかしスタートでつまづいて夢やぶれた私には遠い話しでした。
1時間か2時間か、定かではありませんが退庁時間が迫って会議がお開きになりました。やれやれこれでお詫び行脚も終わりだと、ホッとして見上げた窓外の夕焼けが、やけに印象に残っています。
ところが、その時、中島先生が私に声を掛けました「見浦君、今の会議で気がついた点を話してみたまえ」、晴天の霹靂とは正にこの事でした。真面目に聞くのだったと反省しても後の祭り、泥縄で思い返しても人に話すような論点はありません。ぼんやりしていたのですから。

でも一つだけ気に掛かることがあったと思い出したのです。それは会議中に原野や山林を開墾したら土が流れるだろうなと思った事です。
実は小板は年間雨量2100ミリと言う多雨地帯、畑作には特別な耕作方法があったのです。種を蒔くと必ず表面に薄く藁か刈り草を広げる。確かに土は流れにくいし、雑草の生えるのを遅らせる、おまけに少しは肥料になる、優れた方法なのですが、気温が上がって雑草の勢いが強くなると除草は手作業しかない。大きな畑になるとやっと終わったと振り返ると又草が伸びて元の黙阿弥なんて笑い話で、炎天下の草取りは辛い作業でした。

14歳の時の動員で七塚原の牧場で働いて、アメリカ式の畑作を見ました。それは雑草が生えたら、カルチベーターやホー(草を削る鍬)で草を削る、又伸びてきたら削ればいい、その内に作物が生長して地表を覆うから、雑草は伸びなくなる。
作業効率は桁違に高いのですから体にも楽、合理的だなと感心したのです。

ところが、ここ小板は数少ない換金作物の稲作の為に平地や緩やかな斜面はことごとく水田、こんな中国山地の畑は水利が悪くて稲が作れないか、傾斜が厳しくて田圃にならないか、そんな条件のところだけが畑、梅雨や真夏の夕立の時は、このアメリカ式の畑作では大切な表土が泥水になって流れ下りましてね。
父親から借りて耕作した20アールの畑の3年後は斜面の上側は表土がなくなって芯土が出ていました。これがエロージョンと呼ばれる土壌流亡の現象でした。

悔しかったですね。負けず嫌いの私ですから、農業誌や文献を読みあさりました。図書館は遠いし、インターネットはない時代、得られた情報はわずかでしたが、等高線作付けとか、牧草を帯状に栽培する方法とか、世界の各地でも工夫がされていると知ったのです。そして非能率な小板の畑作も、長い年月で考えられた土壌流亡防止の優れた方法だったと理解したのです。

そのことを思い出しながら「先生方の話の中で気に掛かることが一つありました。新たに牧場を開くと言うことですが、これから開発するところは雨量の少ない瀬戸内海沿岸地帯でなく雨量の多い中国山地が多いと思うのです。だとすると土壌流亡をどうして防ぐか、その対策のお話が全くなかった」と、前述の体験と私の思いを話したのです。

ふと気がつくと会議室がシーンとしていました。全員の視線が私に集中していました。「しまった、言い過ぎた」と、冷や汗が出ましたね。何とか話し終えたときは逃げ帰ることだけを考えていましたね。
会議は終了しました。全員が退席したのに、先生は部長室に行って座るように命じられました。机を間にして着席された先生は、ご自分の和牛に対する思いを話し始められました。
「和牛は日本の宝、だがこのままでは生き残ることはできない。いかにして、安くて、安全で、美味しい牛肉を供給するかが大切なのに、現実の農民は本質を離れて高値狙いばかりを追っている。現在の和牛経営は投機なのだ。これを経済合理性に基づいた産業にしなければいけないのだ」と。

50年近くも昔のこと、詳細は忘却の彼方ですが、話の趣旨はこの様なものだったと記憶しています。

しかし、感激しました。農業教育もまともに受けていない一青年に、自分の思いを情熱込めて語る、しかも広島県農業政策のトップが一回りも二回りも年下の私に。
先生の情熱に飲み込まれた私は、夕闇が迫っていることも気にならなくなっていました。

これが私が和牛経営に生涯を掛けることになったきっかけなのです。

当時、広島県は和牛の放牧一貫経営の試験をしていました。母牛30頭で子牛を生産し肥育牛として市場に売却する方式です。しかし一般には子牛生産と肥育牛生産は分離して経営するのが主体でした。(和牛界では子牛を生産する繁殖経営と、その子牛を購入して肉牛に仕上げて市場に出荷する肥育経営とに分離しています。現在でも殆どがこの方式です)
繁殖経営は零細な農家が多く、肥育経営は何千頭の巨大経営を初めとして大型が多い、それなりの問題を抱えている仕組みなのです。

しかし、私達が基本とした油木種畜場の多頭化放牧一貫経営試験も数多くの問題を含んでいました。そして、この方式に挑戦した公営民営の大牧場も、民間の中小牧場も殆どが敗退して行きました。乗り越えなければいけない問題があまりにも多く存在したのです。

見浦牧場は、まだ試行錯誤中の牧場ですが、多くの方々の善意に支えられ、家族が力を合わせる事で、辛うじてここまでたどり着きました。そして思うのです。
中島先生の ”和牛経営は投機ではいけない”の言葉をかみしめながら、これからも、この道を歩き続けて行こうと。

”人生意気に感ず ” 人間にとって出会いがどんなに大切か、今日はその話しを聞いていただきました。

2010.3.31 見浦哲弥

2006年11月25日

パブロフの牛

 貴方は“パブロフの条件反射”という事はご存知でしょう。1936年 ロシアの生物学者パブロフ教授が発見した、動物の条件反射のことです。小学校3年のとき叔母が買ってくれた科学の本に紹介されていた記事で、なぜか記憶に深く残ったのです。
後年、和牛の一貫経営にのめりこんだ時、大きく役立った理論でした。今日はその話を書きたいと思うのです。

 昭和43年、小板の開拓が始まる時、開拓の希望者は、それぞれ、事業計画書を町の担当者に提出したのです。
何日かして、友人のF君が話に来ました。
「おい、見浦やー、Nがのー、お前が牛を165頭も飼う言ゆた、ゆうて笑いよったで。牧場へ1―2頭連れて行くのも、一仕事なのに160頭とは、馬鹿も休み休み言え、たわけた奴よのーと。それんだがのー、俺もどうやるんか聞きたいよ。ほんまに、どうやるんなら?」と。

 そこで条件反射を思い出したのです。犬で出来るのなら、牛で出来ないはずはない。N君は小板の中の私の反対派の大将でしたから、売り言葉に買い言葉で、思わず私はズバッと言いきったのです。
「これから見浦の牛はのー、訓練してのー、わしが“整列”ゆうて号令をかけると、一列に並んでの、右向けー右、前に進めと言うとの、並んでついて来るようにするけー、問題はないんよの。」
 それを聞いたF君が馬鹿にされたと思ったのか、いやもう怒った怒った。
「なんぼ、大畠(見浦の屋号)でも、そがぁな事が出来るわけがありゃぁせん。人を馬鹿にするのも、ほどほどにせー」
「そんなら出来たらどがぁすりゃー」「おー、そんときゃ、小板中を逆立ちをして歩いてやらー」と、喧嘩別れになりました。

 パブロフの犬を使った実験では、餌を与える時に必ずある音を聞かせたといいます。
私達もそうですが、食事の時は自然と口の中に唾が湧いてきます。動物も同じで餌を前にすると唾が湧く。それを確認する実験でした。パブロフ教授の予想どうり、ある期間繰り返すと、音を聞くだけで、唾が湧いてきたというのです。

 そこで、見浦牧場でも餌をやる時は音で合図することにしたのですが、その音が問題でした。ベルにするか、ホイッスルにするかと、音源を色々検討したのですが、物忘れの名人が揃っている見浦牧場で、牛を呼ぶときに特定の器具を必ず持って行く事は不可能との結論で、自前ののど、すなわち、「モォーン」と私が声を上げる事で決着したのです。但し、この方法は人が変わると声質が変わるので牛が理解してくれないという欠点がありましたがね。

 さて、広言の手前、「あれは口からでまかせ、できなんだーや」、ではすまされません。毎日牛に餌をやる時は、独特の鳴き声で牛を呼ぶのですが、すぐ憶えて行動してくれる、そんな虫のいい話しはありませんでした。
 頼りはあの理学書にあった「繰り返す事で生物が反応する」という文章だけ。3ヶ月繰り返しても牛が応えてくれないときは、さすがに駄目かと諦めかけましたね。ただし、そこでへたばらないのが、たった一つの私の取り柄、泣きべそをかきながらも続けましたね。

 三月が過ぎてしばらく経ったある日、1頭の牛が私の声で頭を上げました。そして私の鳴き声を確かめたのです。何度目かの鳴き声に牛舎のほうに歩き始めた時は嬉しかった、本当に嬉しかったですね。 牛舎に帰った牛は、そこに餌がある事を確認すると、翌日も私の鳴き声を聞いて来てくれました。
 一つの山を越すと次が心配でした。一頭訓練するだけで3ヶ月、他の牛も訓練するとなると、また同じ苦労をしなければならない。この方式は再検討かと心配したのです。ところが、ボスの行動を見て真似をする牛が出始め、1ヵ月もしないうちに、群れ全体が同じ行動を取るようになったのです。教科書の何処にも記述されていない、牛の群飼育方式の発見でした。

 しかし、1度でも人間が違う行動を取ると彼らは混乱します。それを見て、人間も同じなのかと気付きました。約束したら必ず守る、それが信用なのだと。1度ぐらい大丈夫などと考えると、牛でも混乱する。まして人間はと。牛は真理を教えてくれる友達、彼らからも生き物のルールを学ぶべきだと。

 見浦牧場の信条「自然は教師、動物は友、私は学ぶ事で人間である」の「動物は友」の言葉が生まれた瞬間でした。

2006.8.9 見浦哲弥

2005年12月10日

和牛の一貫経営で思うこと ~見浦牧場の経営戦略~

最近BSEの後遺症や飼育農家の高齢化で、和牛の飼育頭数が減りました。その影響があってか、牛価の高値どまりが続いています。そのせいで、なんぼで売れた、儲かったで、とか、どの雄牛の種を使ったら儲かるんなら、とそんな話ばかり耳にします。私が牛を始めた40年前とまったく同じです。この40年の間に日本も農村も天地がひっくり返るほど大変動があったというのに、考え方はまったく変わっていない、悲しいことです。

私が和牛に一生を費やすきっかけとなったのは、時の広島県の農政部長の中島建先生の「今の和牛は投機だ、これを産業にしなければ和牛は生き残れない」の言葉ですが、今も、そのまま、忠言として伝えたいと思っています。

よく、和牛だけでなく、日本の農村は崩壊した、再生しなければ、のかけ声は耳にはしますが、どう再建するのか、答えはだれも持っていない。それが現状のようです。

特に現場の農民が物事を根本から考えようとしない、さしあたって儲かったら、若い人も農業に帰ってくれるだろう、自動車を買ってやったら家を継いでくれるだろう、そんな甘い考えの仲間たちを見るのは、心が痛むことです。

見浦牧場では、問題に行き当たったら、できるだけ根本に近い考え方を模索します。たとえば、病気で熱が出たら、熱さましを飲むのではなく、何が原因なのかと、前日までの健康状態、食事、仕事、対人 等を考えるのです。その結果、病院にいくのか、薬を飲むのか決める。でも、そんなことは誰でも実行している。ですが、その考え方を、農業を考えるときも、牛と付き合うときも、経営を考えるときも、機械を修理するときも、経済を予測するときも、応用しているのです。

もちろん、素人ですから正確に予測し、判断することは出来ません。しかし、知識が足らないときは、先進地を歩き、先輩に指導を仰ぎ、読書をし、情報を検索する、そして、現象を繰り返し繰り返し観察する。模索の中から結論を引き出すのです。

しかし、それでもうまくいかない、試行錯誤の連続、壁に突き当たっても、あきらめない。当たり前のことですが、それが見浦牧場が生き残った一因だと考えています。

昭和38年から始まった和牛経営も、児高との協業が解消して、単独経営に復帰し本格的に畜産経営を始めたころ、広島県も新しい和牛経営の構築を検討していました。昭和41年ごろのことです。

当時は和牛はあたれば儲かるが、そうでなければ儲かるのは馬喰(ばくろう)さんだけ、が実情でしたから、利益を上げるにはコストを下げるか、特別の高値を狙うかの二者択一でした。もちろん、見浦牧場はコスト低減を第一の目標としました。何しろ、山県郡の牛は、広島県の最低ランクでしたから、高値を目指すなど考えられませんでした。

そのころ、前述の中島先生をはじめとする広島県の畜産技術陣は、和牛の将来像を、多頭化と放牧技術の導入、そして、子牛生産から肥育仕上げまでをひとつの経営の中で行う一貫経営でと提案していました。その実現化の実験として、油木の種畜場で多頭化試験が行われたのです。無畜舎、群飼育も取り入れて。これもコスト削減には重要な技術で、私は大賛成、多いに同感したのです。2年続いた試験が好成績に終了した後、この方式を県の方針として、芸北町の大規模草地開発(のちの畜産事業団)が採用したのです。

昭和41年、この地方を38(さんぱち)豪雪に劣らない大寒波が襲いました。降り続く雪の中で、マイナス10度以下の日が続いたのです。そして、最低気温はマイナス24.5度の低温を記録しました。無畜舎で越冬をしていた牛群には過酷な寒さでした。

見浦牧場はかろうじて間に合った小さな畜舎に牛がもぐりこんで難をさけ、畜舎に入れない牛は建物の影で吹雪をしのぎました。でも冬が終わってやっと命をつないだときは、見る影もないやせ衰えた牛ばかりになっていました。

しかし、建物がほとんどない、芸北町の事業団の牛は悲惨だったといいます。寒さと雪との闘いで体力を失った牛たちは、雪の中に座り込んで立てなかったと。降り続く雪に埋もれて、やがて息絶えた牛は、あくる朝、吹雪のやんだ雪面に角だけが並んでいたと聞きました。

ここから、見浦牧場と事業団の対応が違ったのです。事業団の人々は、この厳しい気象条件では、冬期の無畜舎飼育は難しい、と翌年から畜舎の建設が始まりました。ところが、見浦牧場には、畜舎建設の資金がありません。どうやってこの難問をクリアするか、考えて、考えて、考え抜きました。

そのとき、冬を越して弱りきった牛の弱り方に違いがあると気づいたのです。

牛は品種によって気候に対する耐性が違うと聞いていました。チベットの牛は寒さに強く、インドの牛は暑さに強いなど、もしかしたら、同じ品種の中でも気候への耐性が違うのではないか、それなら、選抜淘汰の繰り返しで、寒さに強い牛を作ればよいではないか。それが門外漢(私は電気工学が専攻で、電気事業主任技術者の資格の2種と3種をもっています)の強いところで、大胆に結論を出したのです。

そのころ、見浦牧場は、子牛生産もうまく機能していませんでした。当時は、授精技術の転機でして、人工授精法が普及し始め、各集落にいた県貸付の種雄牛が廃止になり、従前の方式だと、10キロ離れた八幡まで種付けにつれていかなければならなくなりました。ところが人工授精だと、技術の未熟もあってなかなか受胎しない。これも経営の死活問題でした。そこで、これも同じ発想で対応したのです。

人間でも、子沢山の家庭もあれば、子宝に恵まれない家庭もある。そして、子供の多い家庭は代々兄弟が多い。これは遺伝の力が大きいからだろうと。それなら同じ哺乳動物の牛も同じはず。これを選抜の条件にしよう。

ある会合で和牛の飼育技術の指導がありました。席上、かくあるべき、こうすべきとの話のあとで、私は自分の牧場の条件にあった牛をつくって、対応しようとおもうと申し上げました。ところが、指導の先生は、「そのような仕事は試験場やブリーダーのような専門家の仕事で、農民が個人でやるのは不可能だ」と断言されました。

頭にきましたね。何しろ最終学歴小学校卒の劣等感の塊の私ですから、「なに?素人にはできない?バカにするな!」と憤慨しました。

田舎ではどんなに良い意見でも、高い学歴がないと「いうだけなら誰でもできる」と一言で片付けられて、相手にしてもらえません。ところが目の前に結果を突きつけると、何も言わなくても認めてくれます。二十代のはじめ、肥料計算をして稲の多収穫裁判に成功したときは、一夜にして私に対する評価が変わりました。もっとも、あいつは何を考えているのかわからない、用心しなければ、という声も大きくなりましたが。

そこで、それなら、見浦牧場の牛を作って見せてやろうじゃないか、と心に決めました。なぜ、専門家でないと牛の改良が出来ないのか、選抜淘汰で難しいのは何なのか、考えましたね。ちょうどそのころ、長男の晴弥が九州大学の農学部に在学していましたので、彼に、なぜ専門家でないと選抜淘汰ができないのか、専門書で調べて、教授に確認してくれと頼みました。

そしてその答えは、牛の選抜淘汰は非常に長い時間が必要である。そして、選抜淘汰は、途中で要素の変更をすると、目的に到達することが難しい。そういう意味合いの答えが返ってきました。つまり、最初に何十年後の目標を正確に立てることが、素人には難しいということでした。

たとえば、和牛登録教会の評価基準の中に骨味という項目がありました。枝肉重の中の骨の重量が少ないほど、肉屋さんが喜ぶ、ということで作られた項目だったのですが、放牧飼育を始めたら、この項目の評価が高い牛は皆脱落してしまいました。骨の細い牛は、放牧のような運動量の多い飼育方法には耐えられなかったのですね。それで専門家の皆さんにお会いする度に、この点を指摘して、あなたはどのように和牛を改良したいのですか、骨が細くて、舎飼しかできないモヤシ牛が目標ではないでしょうね。と申し上げていたら、いつの間にかこの項目がなくなりました。

ことほど、長期の目標を立てるのは難しい。そういうことだったのです。ところが、私たちはこれが問題になるほど困難なことだとは理解できませんでした。

私たちの供給する商品は、サラリーマンの人たちがちょっと奮発すれば買って貰える、それぐらいの価格で、最高の旨い肉を提供する、それが最終目標でしたから。

家内の晴さんいわく、「一部の金持ちに食べてもらうために、人生をかけて牛肉をつくる、そんなバカらしいことはできない。」強い支えでしたね。

目標が決まっているのですから、あとは簡単。出来るだけコストが下がるような牛を作ればいいのですから。見浦牧場の環境で、健康であること、赤ちゃんをたくさん産んでくれること、肉屋さんが喜ぶサシはほどほどでよいこと、 など、選抜の指標を作ったのです。

1.寒さに強いこと(寒さに強い牛は晩秋になると綿毛が生えてくる)

2.放牧向きの体形であこと。(骨格がしっかりしていて、ある程度足が長いこと)

3.多産型であること(発情が発見しやすい、排卵時期が発情期間とずれない、分娩後発情再起日数が短いこと など)

4.哺育能力が高いこと

5.肉牛として早熟であること

6.肉質はA3以上であること

目標が決まれば、あとは生まれた子牛を結果で選別するだけ、雄は肥育牛として出荷して、成績がよければその母親を極力繁殖牛として長期利用する。雌の場合は、その生育状況、初産の種付け・分娩・子牛の哺育状況をその母親の成績とする。簡単なことです。

ただし、時間はかかります。雄の場合は24ヶ月から27ヶ月後、雌の場合は、最短でも26ヶ月後になります。(生まれた子牛の生育を見ますので)。ですから、あの母親は優秀とわかったときには、他の理由で淘汰されていることもあって、「しまった」ということもおきますが、長い年数を続ける間には、いつの間にか牛が変わっていくのです。

私は視点を変えさえすれば、凡人にも何十年先の目標を正確に立てることができると思います。目標が立てられれば、ただひたすらに目標に向かって歩き続けるだけ。

雪国で暮らす私たちは、新雪の中では目標を決めて歩かないと、まっすぐ歩けないことを知っています。

経営は目には見えません。それなのに、目標を持たない、金儲けだけが目標というのでは、経営が安定するのは夢物語です。

まして、農業の中でもっとも時間のかかる和牛の一貫経営で正確な目標を持たないということは、即不可能のレッテルをはることです。

私の友人で、小規模ながら一貫経営を目指した男がいました。彼いわく、「俺は六年も一生懸命牛を飼ったが、旨くいかなかった。」と。私は絶句しました。たった、6年では何も変わらない。それは、時間と資本の浪費だと。

でも彼のような農民は珍しくありません。見浦牧場に見学にこられた人の中に「もっと早よう儲かる話をしてくれー」と発言された方が何人かいました。それが農村の一面でした。

長い年月が過ぎました。そして、ここ、芸北地区の和牛農家は激減しました。でも失敗の本当の原因はなんだったのか、理解をした農民にはまだ出会っていません。

根本に帰って目標を持つ、少しづつでも独自の技術と実績を積み上げる。私はこれが和牛経営の基本だと思うのですが、依存として繁殖と肥育経営は分離されていますし、乳牛の仮腹のスモール肥育を一貫経営と称するにいたっては、和牛経営を産業にとの中島先生の夢とは、似ても似つかぬ形だと思っています。目標達成の一過程だとするのなら許されるとは思いますが、やはり、基本は忘れず追求していく、この姿勢は何よりも大切だと思うのです。私たち、見浦牧場は、これからもこの道を歩き続けます。

心あるかたがたの声援を期待しながら。

2003年12月13日

商売の基本

見浦牧場と、芸北の事業団とがあれほどやってやりまくって、
とうとうこっちは残って、あっちはつやけて(注:つぶれて)しもうたけど、
あんなかに、なんでやろうねっていうのがどれほどあったかわからん。
そいだが、それは、一番基本的なことやねん。

「何を」作るんか、ということと、
「だれのために」作るんか、ということ、
それは、「何が」作るんか、いうことだけぇ。

ほいたら、それにおうた牛を作って、
肉屋のために作るんだったらサシをいれにゃぁいけんが、
そうじゃなくて、お客さんに作るんなら、
認められようが、認められまぁが、
おいしい肉を作りゃあえぇ、安全な肉を作りゃあえぇ。
それを認められるまで、何年かしらんが、もくもくとその間、積み上げて、積み上げて、積み上げて、積み上げて。

そいで、それを作るのは何や?
それを作るのは人間じゃのぉて牛なんや。

そうすると、牛をまずつくることが始まりや。
その牛の、なんでその京都の大学の先生のいうような牛をつくらにゃいけんのや、
神石の先生のいうような牛をつくらにゃいけんのや、
ここにおる牛をつくりゃあええんやん。

ここにおうて、格好がわるうても、ここでちゃんと子供を生んで、健康で、
人がどがぁ言おうが、そがぁなものは関係ないわぁや。

一番なのは、お客さんが喜んでくれて、
それを作るのは誰かゆうたら作る道具をちゃんとここに合うようにしてく。
そりゃ、商売の一番基本やん。

近頃よう、何であれだけにみんな、当時の本読んだりして、
京大の学士さんがいっっぱいきて、広島の技師屋さんがいっぱい来て、
なんであっちがつやけて、こっちが残ったんか。
資本も裂けるほどかけての。

そうすると、こりゃあ、金の大きさでもなしに、
人数の多さでもなしに、
一番大事なのは、何が一番ここに求められているかっちゅうことを
じーっと見抜くこと。それだけやなぁ、と。

2003.9.14 見浦哲弥談

2003年1月26日

和牛の道(2)

 昭和38年12月 見浦牧場の前身、(有)和興兄弟農園に2頭の和牛(黒牛)が入りました。戸河内町上殿の武田家畜商の世話で金10万円、何も知らない私には角があって「モー」と鳴く、まさしく牛でした。今で言う育成牛で、小柄なほうが ”いいあさひめ”号。島根の牛で(当時は広島の牛より格安だった)連産性(子牛をたくさん産む能力)が高かったが、問題の多かった牛。もう1頭は”第2どい”号。韓牛の様な被毛が赤い牛で体格はよかったが、大型なのに繁殖成績が悪く、たった1頭産んだ子牛も小型で被毛が赤く、すぐ肥育になってしまった牛。これが見浦牧場のスタートでした。

一貫経営論争

 丁度その頃、黒牛が小型耕うん機の急速の普及で急減し、役牛から肉牛への転換が提唱され、どの様な経営方式が、また黒牛の改良が、産業として生き残るために必要かと、盛んに議論されていました。

 昭和38年から昭和42年まで 京都大学の上坂教授と広島県農政部長の中島さんと間で、「和牛の一貫経営論争」がおきました。資本回転の遅さと、投下資本の大きさなどの問題から、「子牛生産の繁殖農家と、育成肥育の肥育農家の分業体制が基本である」とする上坂理論と、家畜商による中間マージンの解消と、飼育過程による情報の還元による経営の合理化と向上を実現するためには「繁殖と肥育を一つの経営でカバーする一貫経営を目指すべきである」とする中島部長の理論が「畜産の研究」誌上で闘わされました。これが業界では有名な、かの「一貫経営論争」なのです。

一貫経営実証試験

 その中島理論を実証するため、広島県は油木種畜場で2年間の実証試験をおこないました。 試験の内容は、利用する耕地は10ヘクタール 、繁殖母牛は30頭、肥育方式は出荷月齢19ー20ケ月の若令肥育方式で、子牛や育成牛を合計した総頭数90頭、作業員2名で 技術的、労力的、経営的に成立するか否かを確認する試験でした。その2年間の試験の間に何度も油木種畜場にお伺いして勉強させて頂きました。その折りに榎野先生、佐田先生を初めとして、当時日本和牛界の一方の雄と言われた、広島県の技術陣の方々とお近ずきになれました。そして、その試験の結果は、何とか経営が成立つのではないかとの答えがでたのです。

 しかし、問題もありました。種畜場のある油木町は、広島県の黒毛和牛の本場「神石牛」の中心地で、試験の母牛もいい牛が揃っていました。どうしたらそんな牛が持てるか夢のようでした。私達がそれに匹敵する牛群を育て上げるには、それから30年の年月が必要でした。

 問題はそれだけではありません。10ヘクタールもの耕地の年間を通じた耕作、100頭近くの牛の管理など、機械化なくしては成り立ちません。油木種畜場で使われていたのは、20HPの国産のトラクターを中心として、プラオ(すき:plow)、デスクハロー(円盤砕土機:disk harrow)、ツースハロー(歯かん砕土機:tooth harrow)、モアー(刈り取り機:mower)、サイドレーキ、ヘイメイカー、トレーラー、カッター、マニアスプレッター(堆肥散布機)、等で、当時の私達にとっては夢のまた夢でした。なにしろ10万円もだすと平均以上の子牛が買えた時代です。そのトラクターは120万円したのですよ。ヘイメイカー、スプレッダーは外国製で、為替レートが360円の時代ですから想像するのも恐かった。

一貫経営への思い

 それでも挑戦してみたかった。若かったこともあったのですが、なにより、これまでの慣行経営を敢然と批判した、中島理論に夢を感じて、人生をかけてみようと思った。私も素晴らしい時間を持っていたんですね。

 当時、見浦牧場の耕地面積は田畑併せて1.8ヘクタール、牧場と言うには程遠い規模でしたが懸命でした。
120㎡の角型サイロを内蔵した畜舎をS39年に建てました。その当時は畜舎を建てて牛を導入したら、即、畜産経営が成り立つと思っていたのですから、甘いと言えば「盲蛇に怖じず」の言葉そのままでした。

 昔の小板では、農家には和牛は役牛として必需品でした。大畠(オオバタケ:見浦の屋号)でも常時2ー3頭の牛と2頭の馬がいました。ですから、牛の飼育は素人ではないと思い込んでいました。とんでもない!なまじそんな経験などは障害になるほど、産業としての和牛飼育は異質な世界でした。次から次と起こる問題は、いま考えると、よくぞ乗り越えてきたものだと感慨無量になります。

 その当時を思い出すと、戸河内でも百百君(ドドよむ)、中前さんなど仲間が20人位いました。油木の試験場に視察にも行きましたし、山県郡の連絡会にも30人ほど集まって 新しい和牛経営を築き上げるのだと、気勢をあげたりもしました。ですから全国ではかなりの数の若者が、中島理論に傾倒して走り始めていたのです。ところが、上坂先生が指摘された通り、油木方式は資本の投下量が大きく、資本回転は農業の中でも最も遅く、利潤も小さいとくるのですから、自己資本の少ない農家にとっては、長い辛い時間との闘いなるのですが、それを何人の農家が知っていたのでしょうか。

 技術的には相反するテーマを一つの経営の中に持たなければならない矛盾、すなわち、繁殖育成は動物の生理に忠実に飼育しないと成績は上がらないし、肥育部門はいかに家畜の能力をとことん利用し抜くか、この点は理論からは想像もつかない大きな壁でした。
 しかも 小板は新しい理屈や方式には、強い抵抗をする山村共通の保守的な風潮が色濃く残るところで、話し合う仲間もなく、孤立して新方式の牛飼いに挑戦するのは精神的にも苦痛でした。

 貴方は踏み込み式の厩(ダヤと言いました、)を覚えていますか?地面から1ー2メートルほど掘り下げて1年中敷料を足して行く方式で、農閑期の冬に腐った敷料を堀りだして田圃までソリで配る、早く言うと畜舎と堆肥舎とが合体したような物です。これが大変な代物で、牛は堆肥の上で生活している。夏はガスと下からの熱で、畜舎の中は灼熱地獄になります。いま考えるとよく牛が生きていたものだなと、感心するような環境です。おまけにそれが内ダヤといって、一つ建物のなかに人間と同居しているのだから大変です。匂いはひどいし、ハエが真っ黒になるほど食べ物にたかるし、そんな世界がつい50年ほど前は当り前でした。そんな牛飼いからすると、中島方式の和牛飼育法は異次元世界に違いありません。挑戦する私には今までの経験などないに等しかったのです。先日広島での勉強会で元畜産会の鬼塚さんが「見浦さんは人の通った事がない道を歩いた」と話されたそうですが厳しい道でした。

一貫経営への挑戦

 昭和40年、共同経営の和興農園を解散して個人経営に戻り、以後和牛経営を主力としました。2年続いた義弟との共同経営を解消したとき、これからどの様に生きるべきか大いに悩みました。交通の不便な寒冷地の小板では、和牛の他は考えられませんでした。そこで昭和41年「見浦牧場における和牛一貫経営について」と題して 私は、考え方と試算をレポートとして書き上げました。いま読み返すと幼稚なものですが、農民が独自の立場で数字を挙げながら新しい農業を主張をしていると、評判になりました。ある県のお役人は「プロローグがあってエピローグがあって飼料生産から飼育計画表まで作られている」、と感心して頂きました。中でも牛の生産予測表は見浦独自の発想があった由で、それからは「計算尺を自由に操る農民」と紹介されるようになりました。試行錯誤はありましたが、日本の和牛界に見浦牧場があると言われる、独特のテーマ・農民哲学の出発点でした。

 では、その試行錯誤の歴史を綴ってみましょう。それらの問題の解決の中から次の発想・理論が生まれてきたのですから。

 和牛経営にとりくんで2年目の春、一冬の敷藁を出すのに悪戦苦闘しました。藁を切らないで長藁のままで踏ませたのですから、汚い巨大なフェルトが出来上がったと言った形です。それを、肥堀(コエホリ)と称する丈夫な三鍬(ミツグワ)で、一鍬一鍬掘り起こして、一輪車に積んで屋外に積み上げる作業を、一週間繰り返しました。4ー5頭しか居なかったはずですが、随分辛い仕事だった気がします。今から考えると、ウソと思うような話ですが40年前のことです。

 餌の確保も一筋縄ではいきません。1.8ヘクタールしかない耕地で、より多くの飼料を確保するには、デントコーン(トウモロコシ)しかありませんでした。幸い暗渠(あんきょ:地下水路)排水をすませた水田が多かったので、可能な限り作付しました。よく出来ましたね。梅雨が上がって晴天が続き始めると音を立てて伸びました。背丈が3メートルにもなって、戦時中に七塚原種畜場で働いていたときと同じ様な出来ばえに大喜びでしたが、それからが大変でした。手で刈って 耕うん機で運んで、カッターで切って、サイロに吹き込む。人手から人手の作業で重量物でもあり、時間がかかる、時期がみるみる過ぎてコーンが枯れ始める、台風がきて倒れる、いやはや大変でした。

 他にも問題がありました。ギシギシが増えたのです。もともとこの地帯には、スイバとウシスイバと呼ばれるギシギシがあつたのですが、本名がエゾノギシギシと呼ばれるウシスイバが、牧草の種子に混じって進入したのです。世界中で牧草地の大悪草と呼ばれるだけあって、見る間に広がりました。私達はまだこれの対応策を持っていませんでしたから、北海道から買った「ギシギシ抜き」なる鍬で一本一本抜いて歩く人海戦術で対応しました。しかし切れた根っこからも切れた根の数だけ新しく生えてくるという強烈な生命力。子供達に一本一円の懸賞を出したところ、金額的にこちらが悲鳴をあげました。夏の間林間学校にきていた女子商の農業実習でギシギシ取りをお願いしたら、種は落ちるし根は切れるし、翌年ますます増えて参りましたね。現在の方式(トウがたたないうちに根元を切って、根元に除草剤をまく)になるまでは試行錯誤と積み上げの連続でした。これなどほんの一例に過ぎません。おいおい話しますが、新しい仕事と言うものは、口で話すような簡単なものではありませんでした。

念願のトラクター導入

 昭和46年、ようやく待望のトラクターが入りました。クボタL240、24HP。隣の義弟のところでは、4年も前から18HPと38HPのトラクター2台体制でしたから貧乏な私達の悲願でした。でもその作業機が買えません。トラクターだけではタイヤの付いた発動機に過ぎません。

牧草地の開拓

 45年、小板にあった国有地110ヘクタールの開墾が始まりました。昭和27年、戦後の食料不足時代に、緊急開拓事業として小板地区で強制買上げされた土地でしたが、くわしい調査をしたら水田としては利用出来る水不足する事が判明して、長らく利用しないで放置してあった土地です。これも話せば長い物語になるので、またの機会に譲るとして・・・・広島県による開拓が始まりました。いいだしっぺの私の割当地の、上(カミ)の家の後ろの土地が最初でした。ブルトーザが何台も入ってみるみる広い畑が(外国に比べると小さなものですが)出来上がって、何から何まで新しい事ばかりでした。

種まき

 初めに引き渡された畑、8ヘクタールに牧草の種を蒔きました。最初に買ったブロードキャスター(粒状肥料を撒布する作業機)で知恵を絞って種をオカクズと混ぜて蒔きました。本来肥料をまく機械ですから頭を使わないとうまく撒けません。

 その後は土と蒔いた種を混ぜるためにハローをかけなければなりませんが、山から木の枝を切り出して、柱に結び付けてトラクターで引っ張り回しました。それから鎮圧と言う作業をします。表面に重いローラをかけて、土を押さえて土中の水分が、毛細管現象で種子の近くに集まり易くして、発芽を促す作業ですが、専用のローラは買えない。そこでドラムカンをつないで、心棒をつけ、水をいれてローラの代わりにしました。

草刈

 そんな代用品の仕事でも牧草は生えて見事な草地になりました。次は草刈です。ところが昔からの日本の鎌は牧草が苦手です。そこでオーストリア製の大鎌を買い入れました。大変よく切れるのですが、小柄な日本人は、体格の大きい外国の人とは体力が違います。疲れて広い面積を刈払う事などできませんでした。ところが面白いことを発見しました。それは刃物の切れ味に関しての、日本人とヨーロッパの人たちの考え方の違いです。鎌だけかも知れませんが、日本の鎌は刃先と草の滑る長さが短く、西洋の大鎌はその滑り量がとても大きいのです。従って形の違いだけでなく、材質も焼き入れの刃付けの方法も違ったのです。いつかこの話も詳しく話したいものですね。

 その翌年、レシプロの小型モアー(草刈機)を買いました。七塚原の牧場で働いた20年前は馬2頭引きのレシプロモアーを見て、すごいなと感心したのですが、小型とは言えさすがは機械、能率は当時の見浦牧場の必要以上のものでした。

乾燥

 しかし、草を刈ってから後はまた手作業です。手作業の道具の一つはヘイホークでした。堆肥を扱うマニアホークは子供の頃から馴染みがありましたが、草に使うヘイホークは動員で牧場で働いた時に、初めてお目にかかった代物です。早速3本買いましたね。それを使って刈り取った牧草を反転して乾かして集める。夏のお天気でも3日も4日もかかりましてね。晴天がつづけばいいのですが、小板は知る人ぞ知る多雨地帯。ほとんど乾いた干し草を、雨で濡らすそんなことが続き、泣くに泣けませんでした。

 雨が来そうになると、急いで山積みにしてテントを掛けるのですが、これも大変な仕事で、現在の様に気象衛星があって正確な天気予報がでるわけでなく、ラジオの天気予報と、故老のいい伝えの雲の流れを見ながら判断して、作業をするのだから、当たるも八卦当たらぬも八卦状態でした。

 あるとき夕方に急に天候が悪化しました。干し草を集めて山積みを始めたのですが、その日は量が多くて夜明け近くになりました。おまけに天候は良くなりはじめて、一晩中無駄な仕事をしたのです。へとへとになりながら、東の空が明るくなるの見た気持ちは今でも忘れません。こんな事をして本当に和牛の牧場を作ることができるのだろうかと、気の強い私がそう思ったのですから、幼子を抱えた晴さんは随分心細かったでしょうね。

 そこで何はなくてもと、草を集めて列にしたり反転したりする「ヘイレーキ」という作業機を、なけなしのお金で購入しました。当時36万円、オランダ製で、2組のホイールに掛けられた、爪のついたチェーンが回転して草を集めてゆく、そんな機械でした。その説明書の中に何度も「ウインドロー」と言う単語がでてくるのです。それが気になって色々調べました。やっと「ウインドロー」が「風」と「列」の熟語と気がついたときは嬉しかった。ところが、それに大きな意味が含まれていたのです。

 日本の干し草は、日光に当てて乾かすのです。ですから表側が乾いたら返して裏側を日にあてる、その作業の繰り返しでした。ところが「ウインドロー」は風で乾かすのです。草をふんわりと盛り上げて列を作る、風がその中を通って水分を取る、列が草の重みで低くなると、つくり直して又フンワリさせる。その繰り返しだったのです。それが判ると干し草作りの能率が面白いほど上がりました。

干草作りから得たもの

 この出来事で、大事な事を学びました、それは一つの事柄でも、色々な見方、考え方があると言うことです。それからは、問題に行き当たると必ず何通りかの答えを探す習慣が付きました。小さな事なのですが見浦牧場の生き残りには、役だっていると思っています。

1998年9月11日 見浦 哲弥

2002年9月22日

和牛の道(1)

昭和38年の12月に2頭の牛が入りました。これが見浦牧場の始まりでした。当時は義弟との全面協業の和興兄弟農園の時代で、和牛、水稲、椎茸の多角経営でした。と言えば聞こえはいいのですが、考え方も技術も経営も幼稚そのもので、2年後に解散してしまいました。しかし、とにかく、この時見浦牧場の最初の牛が導入されたのです。

上殿(カミトノ)の武田という博労(バクロウ)から、「2頭で10万にするから」との言葉にのせられて購入した牛です。1頭は「いいあさひめ号」で小柄な島根の牛、もう1頭は「どい号」で被毛の赤い韓牛の血が入っていると思える大型の牛でした。今から考えると、両方とも随分ひどい牛でしたが、とにかく和牛でした。

収量アップへの挑戦
私が和牛生産に取り組む前は、家の田んぼを受け継いで稲作を営んでいました。しかし、この稲作が大変で、かなり小板の水準に近づいてはいたものの、深い田んぼと多い雑草、冷たい水、多発する病気などで、10アール当り200キロも取れれば豊作でした。強電(電力技術)の勉強をあきらめて家の農業の立て直しを始めていた私は、猛然と稲作の勉強を始めました、朝倉書店、養賢堂などから専門書を取り寄せて読みふけりましたが、悲しいかな、小学校卒の学力では理解するのは大変な努力が必要でした。そこで、昭和28年、晴さんとの結婚を期に、あちらこちらに二人で勉強に出ることにしました。

当時、県の中央農事試験場は西条(いまの東広島)にありました。小板は交通の不便なところですから泊まりがけになります。でも、理解に苦しむときは何度も何度も出かけました。初めは若い研究員が応対してくれたのですが、そのうち、場長の石川先生が直接教えてくださるようになりました。あるとき、石川先生が「見浦君は遠いのによく勉強に来るね。近くの連中が君の10分の1も熱心さでも持ってくれれば、、、」と言われたことがありました。こんなに足しげく通ってくる人はいなかったのでしょうね。

そのうち、私達は予測収穫量に対して、必要な養分を計算して施肥する肥料設計を始めました。当時はまだ肥料の知識は一般化しておらず、まして窒素、燐酸、カリの3要素の量を計算するというようなことは、この地域の農民の常識の外だったのです。その上、試験場や普及員の指導は国の平均値に基づいており、この小板の気候、風土に適した施肥法・施肥量等とは大きな差があって、指導と結果が大きく食い違っていたのです。

そこで私は実際に試験しながら、その違いを埋めていくという方法を取りました。これは大成功で、収量が一気に増えて、それまでの1.5倍、300キロを越しました。

春先から稲がグングン伸び始めると、人が集まりました。
「こんなに出来ると、すぐ病気で枯れてしまうよ。」
当時はイモチ病が蔓延して、どの農家もその対策に手を焼いていました。しかし、私は、試験場の指導通り、適期に適量の農薬を散布して、イモチ病を防ぐことに成功し、秋には見事な稲穂がたわわに実りました。

それからは、非難の声は影を潜め、私達の稲作は注目の的になりました。肥料をやっても、水をあてても、どこからともなく人が現れて、「いくらいれたのか。」、「なぜ浅水にするのか。」、「どんな農薬を撒いたのか。」と、うるさいこと。返事をすると、その日の内に「見浦は何の農薬をまいたらしい。」と知れ渡ります。とにかく大変な早さでした。

その中で、2人の農民が教えてくれと、訪ねて来ました。一人はKさん、「肥料をやらないで、米を沢山とる方法を教えてほしい」といわれました。そこで、「それは飯を食わせないで、仕事をさせるのと同じやで。」と言うと、「人を馬鹿にして」と憤然として帰ってしまいました。

もう一人はJさん。当時40すぎくらいでしたか。「反別が少ないうえに(50アール位だったと思います)収量が少ないので飯米にも事欠く有様なんだ。恥を忍んでお願いするんだが、何とか教えてもらえないだろうか。」と、20半ばの青二才に頭を下げられました。私がはじめて大人として扱われた時でした。そこで、「1年間だけ、私の言う通りにして稲を作ってください。ただし、少しでも違った事をされたら責任はもちません。しかし、申し上げた通りにされて、もし1石7斗以下の収量だったら、差額は私がお米を差し上げましよう。」と約束しました。

それから半年、Jさんは、ご夫婦で懸命に稲を作られました。1~3日おきに見に行って、随分厳しいことを申し上げたのですが、それにも関わらずです。

秋になりました。Jさんの田んぼは見事に実りました。実収2石2斗。苦しい家計の中からワイシャツを1着もって御礼に来られました。高価なものではなかったけれど、それに込められた感謝の気持ちは痛いようでした。それから亡くなられるまで、「見浦は約束を守る」と信じて頂きました。

湿田を乾田に

稲は出来るようになったのですが、見浦の田んぼは湿田、床(耕土の下に作った粘土の層)の無い田んぼ、耕土が極端に深い田んぼなど、問題のある田んぼがほとんどで、耕作作業時間が他家の2倍以上かかるのが普通でした。試験場の場長先生は、「暗渠(あんきょ:地下水路)排水」が必要だと指摘されました。そこで農業土木の専門書を読んで本格的な工事をすることにしました。本格的な工事を選んだ理由は、戦時中に食料増産対策の一つとして、加計高校の生徒が勤労奉仕で施工してくれた、簡易暗渠がまったく効果がなかったという、苦い記憶があったからです。

地下水位を地下何センチにするのか、に始まって、本線はどの位置に、支線は何メートル間隔にするか、暗渠の材料は、深さはと、色々問題があり、一つ一つ解決してゆかなければなりませんでした。そしていろいろ検討した末、暗渠の材料は愛媛産の土管、深さは一番浅い所で90センチ、支線の間隔は15メートル、勾配は120分の1、としました。掘削の機械はありませんから、全部手作業になります。とても秋口や春先だけでは、作業が終わりそうにないので、施工する田んぼは稲の作付けを止め、1年中暗渠工事をしました。これがまた大変な話題を提供して、「もったいない事をする。暗渠は稲を刈取った後でするものだ。」などと非難の的でした。その批判も、翌年3石近くも収穫するという素晴らしい稲ができて一遍に無くなりました。

しかし、暗渠は問題も発生させました。それは水不足でした。小板は水源を深入山に求めています。その深入山は死火山なので、ナメラと呼ぶヒビのない岩磐が浅いところに広がっています。そのせいで日照りが続くと、すぐ川の水が減って水不足が発生するのです。

父の昔話に、小板に見浦の先祖が移り住んで来たときに、7つの沼があったといいます。暗渠をして判ったのですが、確かに作土の下に厚い泥炭の層が(1~2メートル)ありました。そして何本かの川の跡 砂利の筋がありました。暗渠の結果、その泥炭の層が収縮してヒビが入り、排水がよくなりすぎました、湿田で辛うじて均衡をとっていた水利が、バランスを失ったのです。ポンプで川から揚水すると川下から苦情がでます。おまけに40~60センチもあった作土が有機物の分解が良くなったせいで、15~20センチに減って保水力が悪くなり、水不足に拍車をかけました。そこで水田を畑にする事を考え始めました。

小板では平らにできて水があるところは、どんな小さな所でも水田にしていたのです(当時の山村では米は数少ない換金作物の一つだったのです)。そのため、畑は傾斜地に追いやられます。ところが、小板は年間雨量2100ミリと言う多雨地帯です。雨による畑の表土の流出(エロージョン)が激しく、それを防ぐためにこの地方では、種蒔をしたあと、表面に「カケ」といって藁や刈草を薄くひろげるのです。カケは土が流れるのを防ぐと共に、雑草が生えるのを遅らせ、又腐ることで肥料にもなる優れた技術ですが、残念なことに草取りなどの作業がすべて手作業になって、労働生産性が極端に低いのです。

昭和20年に働いた七塚原種畜場では、西洋式の畑作業(例えば、カケをせずに草取りはホーと呼ばれる鍬(クワ)で削りとる)を学びました。同じ手作業でも数倍も能率が上がります。エロージョンのエの字も知らなかった私はいたく感心し、帰郷して早速実行してみたのです。ところが梅雨末期の豪雨、真夏の夕立、夏から秋の台風、と年中行事のように降る雨で、折角の表土がみる間に流亡してしまいました。既存の技術には問題があるものの、その中には長い年月の経験による真理も含まれていたのです。この失敗の経験から、排水さえうまく行けば、エロージョンの心配のない平らな水田を畑に転換して野菜や果物を作ったら、新しい道が開けるのかも、と思ったのです。それから何年か後に、見浦の水田は全部畑に転換されるのですが。

機械化の始まり
その頃は、ようやく戦後の混乱も落ち着き始めて、戦後、細々と続いていた農業機械、特に耕作機械にも新型が登場し始めました。湿田でも作業できる、キャタピラーのクランク型の耕作機がT家に導入されました。水冷単気筒の6馬力のエンジンを登載して、後部の10個余りの鍬(くわ)をクランクで動かす、巨大な鉄の化物のような機械でしたが、とにかく牛で耕す事に比べると問題にならないほど高能率でした。それに農耕牛と違い、農繁期を過ぎたら餌をやる必要がありません。若い農民の羨望の的でした。でも、機械としてはずいぶん未熟な代物で、故障が多い上に、単能機で耕すことしかできない、重量が大きくて移動が大変と、色々問題もありました。

そこで無理をして、畑作業にも使え、荷車を引いて運搬にも使える、万能機の耕作機(歩行トラクター)を探しました。シバウラのAT3型というのを選んで三次まで調べに行きました。販売店で紹介されてアメリカ帰りの老農夫を訪ねました。70才を越したというその人は、きれいに整備された色々の作業機とその使い方を教えてくれました。それがハンドトラクターと呼ばれる外国型の農業機械との出会いでした。耕作機を「耕す機械」として考えるのではなく、「動く原動機(パワーステーション)」として、作業機を取り付けることで初めて機械として役割を果たす、その考え方の新鮮さは、70を超した老翁がそれを当然として受け入れている事と共に大変な驚きでした。30数万円の出費は当時の私達には大きな負担でしたが、ようやくその機械を手に入れたときは、本当に嬉しくて、それが見浦牧場の機械化の始まりでした。

空冷6馬力の石油発動機、前進3段後進1段に高低2段のサブミッシヨン、デフの組替えで乗用・歩行の両用になる本格的な国産機でしたが、耕地整備がされていない日本では時期尚早で、生産台数も少なく、湿田に入れば沈没してまうし、デフを組替えないでトレイラーを引かせると、前進より後進の方が速いという始末、おまけにデフの組替えは大変な作業でした。しかし、その分解や組み立てが私の機械人生の始まりだったのです。さらに、乾田と湿田との仕事の能率の違いのあまりの大きさに、私は土地改良を痛感したのです。

中島先生との運命の出会い

そうこうしているうち、義弟との共同経営の和興兄弟農園を設立、和牛、水稲、椎茸の多角経営をやろうということで、牛飼いをはじめたのです。ところが、畜舎を作って牛を飼育すれば、即収益があがると考えたのだから、こんな幼稚な考えのスタートではうまく行くはずもなく、自慢じゃないけれどたちまち躓きました。

共同経営が破綻する直前に、農業改善事業の適用を受けて開拓をやらないか、との話がありました。何軒かの農家が集まって一つの農場を作って、経営規模の拡大と近代化を計ると言うものです。分業による技術の向上、担保保証能力の増大による資本の集積、事務処理の確立、など優れた点も多く、専門家の推奨の方式でした。賛成してくれたのは、義弟のT家、義姉のK家、友達のY家、H家の5軒。ところが、すぐ問題が発生しました。構成員の奥さん連の競り合い、ジェラシー、男性は比較的実力の評価は公正だったのですが、奥さん連に巻き込まれて、家柄や小板の居住暦の長さまでが議論の種になる始末、一番年少の私がリーダーでは収拾は不可能でした。おまけに社長の義父が財産の保全を計って、土地の名義を孫に換えてしまいました。たしか計画には同意して、100パーセント成功しろと釘をさした人なのにと、憤慨しても解決にはならず、結局わずか3ヶ月で解散となり、後始末に走り回りました。おまけに誰が原因かと追求されていわずもがなの発言をするなど、私もミスの連続で、そのケアにはその後20年も30年もかかりました。

県も町も本気でその事業を推進してくれていましたから、ただ止めますだけでは良心がとがめます。仲間の家は一軒一軒謝って精算して歩きました。「県や町はそれが仕事だから、わざわざ行く必要はない」という意見もありましたが、私は一人で謝って歩きました。

県庁に行ったときです。県農政部へ行き、課長さんにお詫びしようと意を通じますと、しばらく待てと待たされました。1時間以上経った時、農政部長室へ通されました。驚きましたね。課長さんに面会をお願いしたのに、部長さんとは。当時の部長さんは、中島建先生、広島県で最も若くて部長に就任した秀才と言われた人です。えらいことになったとビビってしまいました。「何しに来たのか」聞かれて、正直にわけを話して、「わたしの力不足でご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」とお詫びしました。すると中島先生は、「何何をしてほしいと頼みにくるのなら判るが、中止になったと謝りに来たのはお前が初めてだ」と、あきれつつ、話を聞いてくださいました。

ところが、何を思われたのか、「オイ、君、今から会議があるから、しばらく部屋の隅で待っとれ」と命じられたのです。
さて どんな会議が始まるのかと思ったら、課長さんや試験場長さんたち10人ばかりの幹部会議が始まったのです。会議の内容は農政部長さんが今度のアメリカ視察で感じたことを、如何に広島農業に反映させ、将来の競争に備えるか、との話でした。これから開発される農地は、労働生産性を上げるため、区画は大きく、形状にも配慮をしなければならないという話や、水利や農道の整備の話、水稲 牧畜 園芸、それぞれの場合の話もあった様な気がします。まだ小さな圃場、曲がくねった細い農道、雑草の繁った水漏れする水路、それが大部分の時代の話です。

一通りの議論が終わったところで、中島先生が私の方を向いて「今の話を聞いて何を感じたか意見を話すように」と言われました。ビックリ仰天とはこのことで驚きましたが、逃げる訳にも行かず、思わず日頃考えていることを話しました。

「先生方の話の中に、エロージョンのことが出ませんでした。それが気にかかります。雨量の少ない瀬戸内地方と違って、私の住む芸北地方は年間雨量2000ミリ前後。水田ならいざ知らず、畑の場合はエロージヨン対策を念頭に置かないと成り立たないと思います。アメリカの穀物地帯の年間雨量は600ー800ミリと聞いています。私も畑作を自分ではじめ、2ー3年で表土を流して畑を駄目にした事があります。生意気な様ですがこの問題も大切な事だとおもいます。」
その様に申し上げたと記憶しています。
一瞬室内がシーンとしました。これはいい過ぎたと反省したのですが、中島先生は何も言わずに会議を終わらせました。

それから他の方々が退席して中島先生と二人きりになった時、先生は若造の私に真剣に話されました。
「見浦君、今の畜産、特に和牛飼育は価格の乱高下に翻弄される投機になっている、私はこれを産業にしたいのだ。そうでないと和牛は生き残れない」と。
この一言が私に和牛と心中することを決意させたのです。私の人生の大きな大きなステップでした。

和牛一貫経営論争

当時、和牛の将来について、日本を二分した論争が行われていました。詳細はその1ー2年後知ったのですが、概要は次の通りでした。

その頃、日本の農村でも農作業の機械化が始まりました。戦前、岡山の興除村から始まった機械化は、大きな水冷の石油発動機を積んだロータリー耕うん機の形で始まってはいたものの、高価で重い機体がネックとなり、普及は微々たるものでした。1950年頃からアメリカから輸入され始めた小型の耕うん機(メリーテーラー)が、この流れを一変させました。安価(在来機の5分の一内外)と軽量(2人で持ち上げられました)のこの機械に刺激されて、輸入・国産機が入り乱れて急速に普及して行きました。当時、広島県には役牛として13万頭の和牛がいましたが、耕運機の普及に反比例して激減して行きました。なにしろ機械はシーズンだけガソリンを食わせれば、あとは倉庫のなかで眠っていてくれます。農民がなけなしの金をつぎこんだこの機械で農繁期を済ませると、そそくさと出稼ぎに行く、色々な形はあっても小板も例外ではありませんでした。

しかし 資源の乏しいこの日本で、折角これまで維持してきた貴重な肉資源を、このまま衰退させてはいけないと考える人が、まだ沢山いたのです。そして役牛としての需要がなくなるのなら、肉牛として改良して存続させよう、その為には一日当りの増体量を外国の肉牛の 1,1 ㎏(当時 和牛は 0,5 - 0,6 )㎏に近づける。30ヶ月以上もかかった出荷月齢を24ヶ月位にする。500㎏半ばだった体重を600㎏以上にするなど、多くの改良目標が掲げられました。論争の主題になったのは、その飼育形態だったのです。

その一つは、京都大学の上坂先生が提唱する、子牛の生産から9ー10月位まで飼育して、家畜市場で売却する繁殖農家と、その子牛を購入して肉牛として仕上げ、食肉市場で売却する肥育農家との分業という従来の飼育方式。

もうひとつは、かの広島県農政部長の中島先生が提唱する、繁殖と肥育を一つの経営でカバーする、一貫経営と呼ばれる方式です。一貫経営の最大の狙いは、家畜商による中間マージンの解消と、飼育過程の情報の還元による経営の合理化と向上でした。しかし この一貫経営方式には多くの問題がありました。まず母牛に人工授精をして、生まれた子牛を肉牛に仕上げて、代金が入ってくるまで35ヶ月以上かかります。その間1円の現金収入もないので資金繰りが難しい。飼育期間の前半と後半では、技術の考え方がまるで違う。牛のように大きな家畜はただでさえ、資本の集積が大きいのに資本の回転率が低すぎる等等・・・・・

上坂先生の主張は、「日本の零細な農民にはこの方式は定着しない。農民の知恵として出来上がった分業方式のほうが適している」というものでした。「繁殖から肥育までの生育全般を管理観察しないと改良は出来ないのでは」との質問に、「家畜の改良は試験場や研究所や一部の専門家の仕事で、一般農民のあずかるところではない」、その様なことを言われていたと記憶しています。負けん気の私が益々敵慨心を燃やしたのは言うまでもありません。

多頭化一貫経営の完成をめざして

昭和40年、広島県は多頭化一貫経営試験?と称して、油木の試験場で広島県の主張を証明するためのテストを行いました。
その概要は、畑面積10ヘクタール、母牛30頭、その子牛、肥育牛、総計90頭、それを2人で管理飼育する、というもの。
母牛は年間屋外飼育、干し草は倉庫兼用の給与小屋での自由採食、サイロはトレンチサイロで、可動の給与枠での自由採食、肥育牛は簡単な雨避け牛舎、機械は18馬力の小型トラクターの一貫作業。この試験は2年間行われました。その結果、一貫経営は可能との結論が出たのですが、問題は山積していました。
今から思えば、その時この方式で一貫経営を始めた農民の中で、生き残ったのは見浦牧場だけ?なのですから、問題はあまりにも多すぎたのかもしれません。

私は、この試験の間に何度も見学や研修に参加しました、そして、その考え方の合理性に大いに賛同したのでした。しかし障壁も高くて、先達もいない、どうやって乗り越えるかは大変なことでした。
よく揃った30頭の母牛、簡単とは言え、サイロ、乾草小屋、スタンチョン(給餌槽)などの施設群。小型トラクターと牧草用の作業機一式(当時はまだ中古品は出回らず、輸入品が主力でずいぶん高価でした。)

その年か、翌年かは定かではではないのですが、油木の試験場の講習会に出席した時の事です。場長先生(榎野俊文先生、後に私の人生の師の一人になられた人)に、ご挨拶のため事務室の前までゆくと、先生が研究員の皆さんに「今日の講習生の中に大物がいるから、指導は念入りに手を抜かないように」と話していました。私は、大物とはどんな人かな、是非教えを受けたいものだ、と思ったのです。講習の間も休憩の世間話の時も、注意を払いましたが、とうとう、それらしい人にはお逢いすることはできませんでした。「まさか、私が大物?そんなことあるはずが.・・・・」と思いましたが、どうも私への接し方が違います。「なぜ、私が大物扱い?」、あれこれ考えた挙句、やっとあの中島先生と出会った会合の事に思い当たったのです。

20代の半ばに、地方政治家だったもう一人の先生、前田睦夫先生が
「社会は人で成り立っている。人の命が有限である以上、自分の考え方や見方を、次の時代に伝える為の若い人を探して、そして育てるのだ。社会と言うものはそうやって続いて行く。私もそうして育てられた。」
と、話されたのを思い出しました。
でも、まさか自分がそんな評価を受けようとは・・・・・・・。

ともかく、私達夫婦は、広島方式の和牛の多頭化一貫経営の完成をめざして走り始めたのです。長い長い道のりだとは気づかずに。。。それは昭和40年の事でした。

1998年9月14日 見浦 哲弥

2002年4月21日

和牛一貫経営牧場 見浦牧場について

本日は、遠路はるばるのご来場、ご苦労さまです。

本場は私どもが、日頃100点評価の55点牧場と申し上げていますように、まだ合格点をいただいていない未完成の牧場です。
 見学のお話がありましたときは、何度もお断りしたのですが、たってのご依頼ということでお引き受けしました。したがって皆様のご参考になる点がどれほどあるかはわかりませんが、われわれを取り巻く環境も日に日に厳しくなる今日この頃、小さな事一つでも、心におとめ頂ければ幸いです。

さて、昭和40年から41年にかけて、京都大学上坂教室の上坂教授と広島県農政部の中島部長の間で、有名な和牛の一貫経営論争が行われ、本県油木種畜場で多頭化一貫経営試験が行われました。
いま振り返ってみても、その発想はすばらしく、自由化を目前とした我々に、25年も前に一つの答えを提案した広島県の技術陣に、心からの敬意を表しています。

あれから、長い年月が立ちました。いつのまにか、あのときの考えで経営を続けているのは当場だけとなりました。それが皆さんの関心を引くのでしょう。

最近、なぜこの牧場がここまで生き残ったのか、よく考えます。
もちろん、多くの方々のご指導、ご協力、御支援を得たことは大きな要因ですが、そのほかにあげるなら、次の7点ぐらいだとおもいます。

1.私どもは大変貧乏でして、いい牛が買えませんでしたので、やむを得ず、悪い牛に良い種雄を交配して、その子を次の基準で選抜し、また良い種雄を交配するということを激しく行いました。
連産性が高いこと
保育能力が高いこと
管理しやすいこと
この牧場で生育がよいこと
増体能力が高いこと
肉質がよいこと


2.先進地や試験場を家族で訪問して、複数の目で先進技術の修得に勤めました。そして、その技術を視点を変え、考え直して、利用できるものは積極的に取り入れました。

 しかし、既存の技術にも盲点があります。たとえば、骨味のよい牛(管囲の大きなものは登録検査で減点されました。)を、との指導で、一時それを選抜の基準にしたことがありました。数年後、牛が小さくなったと指摘されました。なぜ小さくなったのか、私達は原因を懸命に追いました。そして、ようやくたどり着いた結論は、骨味のよい牛とは舎飼用の牛で、運動量の多い当場のような牧場には向かないということでした。そこで、当場では、前述のような優先順位で独自の選抜をしているのです。皆さんがごらんになると、良い牛にはみえなくても、やっとこの場に適した牛になり始めているのです。

3.農業には長い歴史があります。私達はとかく、もう技術的にもすべて出来あがっていると錯覚しがちです。しかし、その農家農家はそれぞれ土地が違い、気候が違い、人間が違っているように、箇々の農業も小さくても、独自の経営、農業技術を持たないと、生き残れないのです。それを私のところでは、スキマ技術と呼んでいます。どんな立派な入れ物でも、スキマがあっては、水はたまりません。そのスキマを埋めるスキマ技術の開発こそ、私達農民の「チエ」の見せ所だと思っています。

4.与えられた条件の中で最善を尽くす、これが私達のモットーの一つです。
 古い機械は安く手に入れて修理しながら使う、これも限られた資本を有効に使う手段です。
 機械の知識がないので、真似が出来ないという人もいますが、「テレビを見る暇はあっても、勉強の時間はない」では、生き残り競争に勝てないと思うのは私だけでしょうか。

5.手順を変えたら、もっと効率良く多くの仕事ができないか、良く観察して、手を抜いても結果が変わらぬようにできないか。
たとえば、最初牧柵を作るときは全体を同じように作りました。しかし、牛は隙を見ては脱走します。でも、良く観察すると、破られるところと、破られないところは、一つの傾向を持っています。そこで、脱柵しやすいところは厳重に、牛が嫌うところは手を抜いて牧柵をつくることにしたら、所要労力は1/2になりました。このような工夫の積み上げがこの場の持ち味なのです。

6.私達は普通の人間です。ですから、失敗は当然だと思います。しかし、一度きりの人生ですから、失敗も無駄には出来ません。なぜそうなるのか、3人それぞれの立場で議論するのです。
 原因が不明で牛が事故死や病死したときは、必ず解剖してもらいます。所見が納得が行かなければ、自分たちでやることもあります。それを3人で確認するのです。失敗の中からも何かを得ようとする努力、長い時間にはそれも力になるのかもしれません。

7.柔軟な考え方を大切にしています。家内はよく「わたしゃぁ、かんがえたんじゃがのぅ」と言います。突拍子もない発想の様でも、それにキラメキを感じたときは、どうしたら実現できるかと3人で案を出し合うのです。3度に1度ぐらいの割合で成功しています。
 最近は3人がそれぞれの立場で、いろいろな考えを話し合うことが多く、それが、この牧場のエネルギーになっています。

 福山の中山畜産の社長は、榎野俊文先生門下の私の兄弟子で、大成功されたことは皆さんも良くご承知ですが、その発想の独自性はつとに尊敬している所です。しかし、その技術を学ぼうとする人は多くても、なぜそう考えるのかと、中山さんの考え方に思いを至らせる農家にお会いしたことがありません。

  これからは世界が相手です。そのためには、それぞれの条件を最大に利用する独自性の強い農業を作りあげることが大切です。
 二十数年前、千屋の試験場を訪問して、いろいろとご指導を受けました。その折、あの有名な「牛を囲わずに人家や畑に柵をする」千屋方式の面影を見て、その独創的な発想にその将来をみたのです。
 現在は、その気になれば、さまざまな情報が容易に入手できるすばらしい時代です。しかし、どの情報を採用し、そのデータから何を読み取るか、それを考える力が非常に重要になってきました。技術も大切ですが、考え方がより大切だとご理解ください。

 最近、叶芳和先生の「農業 先進国型産業論」(日本経済新聞社)を読みました。大変立派な論説で感心しました。私達の考え方に、非常に近いこの本を是非お読み頂いて、この文章の行間もお読み頂くようにお願いします。

最後に見浦牧場からのメッセージです。
これまで、農民は教えられることになれて、みずから考えて行動することは忘れがちでした。
 当主の義弟にドイツ系のカナダ人がいますが、彼の幾つになっても道を切り開き、前進し、歩きつづける姿は頭が下がるものが有ります。自由化とはかれらと競争することなのです。

この牧場が生き残るかどうかは、まだわかりません。しかし「進歩のない毎日は人生ではない」に言葉のように、私達はこれからも挑戦しつづけるつもりです。

 当場のテーマ「自然は教師、動物は友、私達は考え学ぶことで人間である」を皆様に送ります。 ご健闘をお祈り致します。

平成元年11月13日
   見浦牧場 見浦哲弥・晴江・和弥

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