上殿(カミトノ)の武田という博労(バクロウ)から、「2頭で10万にするから」との言葉にのせられて購入した牛です。1頭は「いいあさひめ号」で小柄な島根の牛、もう1頭は「どい号」で被毛の赤い韓牛の血が入っていると思える大型の牛でした。今から考えると、両方とも随分ひどい牛でしたが、とにかく和牛でした。
収量アップへの挑戦
私が和牛生産に取り組む前は、家の田んぼを受け継いで稲作を営んでいました。しかし、この稲作が大変で、かなり小板の水準に近づいてはいたものの、深い田んぼと多い雑草、冷たい水、多発する病気などで、10アール当り200キロも取れれば豊作でした。強電(電力技術)の勉強をあきらめて家の農業の立て直しを始めていた私は、猛然と稲作の勉強を始めました、朝倉書店、養賢堂などから専門書を取り寄せて読みふけりましたが、悲しいかな、小学校卒の学力では理解するのは大変な努力が必要でした。そこで、昭和28年、晴さんとの結婚を期に、あちらこちらに二人で勉強に出ることにしました。
当時、県の中央農事試験場は西条(いまの東広島)にありました。小板は交通の不便なところですから泊まりがけになります。でも、理解に苦しむときは何度も何度も出かけました。初めは若い研究員が応対してくれたのですが、そのうち、場長の石川先生が直接教えてくださるようになりました。あるとき、石川先生が「見浦君は遠いのによく勉強に来るね。近くの連中が君の10分の1も熱心さでも持ってくれれば、、、」と言われたことがありました。こんなに足しげく通ってくる人はいなかったのでしょうね。
そのうち、私達は予測収穫量に対して、必要な養分を計算して施肥する肥料設計を始めました。当時はまだ肥料の知識は一般化しておらず、まして窒素、燐酸、カリの3要素の量を計算するというようなことは、この地域の農民の常識の外だったのです。その上、試験場や普及員の指導は国の平均値に基づいており、この小板の気候、風土に適した施肥法・施肥量等とは大きな差があって、指導と結果が大きく食い違っていたのです。
そこで私は実際に試験しながら、その違いを埋めていくという方法を取りました。これは大成功で、収量が一気に増えて、それまでの1.5倍、300キロを越しました。
春先から稲がグングン伸び始めると、人が集まりました。
「こんなに出来ると、すぐ病気で枯れてしまうよ。」
当時はイモチ病が蔓延して、どの農家もその対策に手を焼いていました。しかし、私は、試験場の指導通り、適期に適量の農薬を散布して、イモチ病を防ぐことに成功し、秋には見事な稲穂がたわわに実りました。
それからは、非難の声は影を潜め、私達の稲作は注目の的になりました。肥料をやっても、水をあてても、どこからともなく人が現れて、「いくらいれたのか。」、「なぜ浅水にするのか。」、「どんな農薬を撒いたのか。」と、うるさいこと。返事をすると、その日の内に「見浦は何の農薬をまいたらしい。」と知れ渡ります。とにかく大変な早さでした。
その中で、2人の農民が教えてくれと、訪ねて来ました。一人はKさん、「肥料をやらないで、米を沢山とる方法を教えてほしい」といわれました。そこで、「それは飯を食わせないで、仕事をさせるのと同じやで。」と言うと、「人を馬鹿にして」と憤然として帰ってしまいました。
もう一人はJさん。当時40すぎくらいでしたか。「反別が少ないうえに(50アール位だったと思います)収量が少ないので飯米にも事欠く有様なんだ。恥を忍んでお願いするんだが、何とか教えてもらえないだろうか。」と、20半ばの青二才に頭を下げられました。私がはじめて大人として扱われた時でした。そこで、「1年間だけ、私の言う通りにして稲を作ってください。ただし、少しでも違った事をされたら責任はもちません。しかし、申し上げた通りにされて、もし1石7斗以下の収量だったら、差額は私がお米を差し上げましよう。」と約束しました。
それから半年、Jさんは、ご夫婦で懸命に稲を作られました。1~3日おきに見に行って、随分厳しいことを申し上げたのですが、それにも関わらずです。
秋になりました。Jさんの田んぼは見事に実りました。実収2石2斗。苦しい家計の中からワイシャツを1着もって御礼に来られました。高価なものではなかったけれど、それに込められた感謝の気持ちは痛いようでした。それから亡くなられるまで、「見浦は約束を守る」と信じて頂きました。
湿田を乾田に
稲は出来るようになったのですが、見浦の田んぼは湿田、床(耕土の下に作った粘土の層)の無い田んぼ、耕土が極端に深い田んぼなど、問題のある田んぼがほとんどで、耕作作業時間が他家の2倍以上かかるのが普通でした。試験場の場長先生は、「暗渠(あんきょ:地下水路)排水」が必要だと指摘されました。そこで農業土木の専門書を読んで本格的な工事をすることにしました。本格的な工事を選んだ理由は、戦時中に食料増産対策の一つとして、加計高校の生徒が勤労奉仕で施工してくれた、簡易暗渠がまったく効果がなかったという、苦い記憶があったからです。
地下水位を地下何センチにするのか、に始まって、本線はどの位置に、支線は何メートル間隔にするか、暗渠の材料は、深さはと、色々問題があり、一つ一つ解決してゆかなければなりませんでした。そしていろいろ検討した末、暗渠の材料は愛媛産の土管、深さは一番浅い所で90センチ、支線の間隔は15メートル、勾配は120分の1、としました。掘削の機械はありませんから、全部手作業になります。とても秋口や春先だけでは、作業が終わりそうにないので、施工する田んぼは稲の作付けを止め、1年中暗渠工事をしました。これがまた大変な話題を提供して、「もったいない事をする。暗渠は稲を刈取った後でするものだ。」などと非難の的でした。その批判も、翌年3石近くも収穫するという素晴らしい稲ができて一遍に無くなりました。
しかし、暗渠は問題も発生させました。それは水不足でした。小板は水源を深入山に求めています。その深入山は死火山なので、ナメラと呼ぶヒビのない岩磐が浅いところに広がっています。そのせいで日照りが続くと、すぐ川の水が減って水不足が発生するのです。
父の昔話に、小板に見浦の先祖が移り住んで来たときに、7つの沼があったといいます。暗渠をして判ったのですが、確かに作土の下に厚い泥炭の層が(1~2メートル)ありました。そして何本かの川の跡 砂利の筋がありました。暗渠の結果、その泥炭の層が収縮してヒビが入り、排水がよくなりすぎました、湿田で辛うじて均衡をとっていた水利が、バランスを失ったのです。ポンプで川から揚水すると川下から苦情がでます。おまけに40~60センチもあった作土が有機物の分解が良くなったせいで、15~20センチに減って保水力が悪くなり、水不足に拍車をかけました。そこで水田を畑にする事を考え始めました。
小板では平らにできて水があるところは、どんな小さな所でも水田にしていたのです(当時の山村では米は数少ない換金作物の一つだったのです)。そのため、畑は傾斜地に追いやられます。ところが、小板は年間雨量2100ミリと言う多雨地帯です。雨による畑の表土の流出(エロージョン)が激しく、それを防ぐためにこの地方では、種蒔をしたあと、表面に「カケ」といって藁や刈草を薄くひろげるのです。カケは土が流れるのを防ぐと共に、雑草が生えるのを遅らせ、又腐ることで肥料にもなる優れた技術ですが、残念なことに草取りなどの作業がすべて手作業になって、労働生産性が極端に低いのです。
昭和20年に働いた七塚原種畜場では、西洋式の畑作業(例えば、カケをせずに草取りはホーと呼ばれる鍬(クワ)で削りとる)を学びました。同じ手作業でも数倍も能率が上がります。エロージョンのエの字も知らなかった私はいたく感心し、帰郷して早速実行してみたのです。ところが梅雨末期の豪雨、真夏の夕立、夏から秋の台風、と年中行事のように降る雨で、折角の表土がみる間に流亡してしまいました。既存の技術には問題があるものの、その中には長い年月の経験による真理も含まれていたのです。この失敗の経験から、排水さえうまく行けば、エロージョンの心配のない平らな水田を畑に転換して野菜や果物を作ったら、新しい道が開けるのかも、と思ったのです。それから何年か後に、見浦の水田は全部畑に転換されるのですが。
機械化の始まり
その頃は、ようやく戦後の混乱も落ち着き始めて、戦後、細々と続いていた農業機械、特に耕作機械にも新型が登場し始めました。湿田でも作業できる、キャタピラーのクランク型の耕作機がT家に導入されました。水冷単気筒の6馬力のエンジンを登載して、後部の10個余りの鍬(くわ)をクランクで動かす、巨大な鉄の化物のような機械でしたが、とにかく牛で耕す事に比べると問題にならないほど高能率でした。それに農耕牛と違い、農繁期を過ぎたら餌をやる必要がありません。若い農民の羨望の的でした。でも、機械としてはずいぶん未熟な代物で、故障が多い上に、単能機で耕すことしかできない、重量が大きくて移動が大変と、色々問題もありました。
そこで無理をして、畑作業にも使え、荷車を引いて運搬にも使える、万能機の耕作機(歩行トラクター)を探しました。シバウラのAT3型というのを選んで三次まで調べに行きました。販売店で紹介されてアメリカ帰りの老農夫を訪ねました。70才を越したというその人は、きれいに整備された色々の作業機とその使い方を教えてくれました。それがハンドトラクターと呼ばれる外国型の農業機械との出会いでした。耕作機を「耕す機械」として考えるのではなく、「動く原動機(パワーステーション)」として、作業機を取り付けることで初めて機械として役割を果たす、その考え方の新鮮さは、70を超した老翁がそれを当然として受け入れている事と共に大変な驚きでした。30数万円の出費は当時の私達には大きな負担でしたが、ようやくその機械を手に入れたときは、本当に嬉しくて、それが見浦牧場の機械化の始まりでした。
空冷6馬力の石油発動機、前進3段後進1段に高低2段のサブミッシヨン、デフの組替えで乗用・歩行の両用になる本格的な国産機でしたが、耕地整備がされていない日本では時期尚早で、生産台数も少なく、湿田に入れば沈没してまうし、デフを組替えないでトレイラーを引かせると、前進より後進の方が速いという始末、おまけにデフの組替えは大変な作業でした。しかし、その分解や組み立てが私の機械人生の始まりだったのです。さらに、乾田と湿田との仕事の能率の違いのあまりの大きさに、私は土地改良を痛感したのです。
中島先生との運命の出会い
そうこうしているうち、義弟との共同経営の和興兄弟農園を設立、和牛、水稲、椎茸の多角経営をやろうということで、牛飼いをはじめたのです。ところが、畜舎を作って牛を飼育すれば、即収益があがると考えたのだから、こんな幼稚な考えのスタートではうまく行くはずもなく、自慢じゃないけれどたちまち躓きました。
共同経営が破綻する直前に、農業改善事業の適用を受けて開拓をやらないか、との話がありました。何軒かの農家が集まって一つの農場を作って、経営規模の拡大と近代化を計ると言うものです。分業による技術の向上、担保保証能力の増大による資本の集積、事務処理の確立、など優れた点も多く、専門家の推奨の方式でした。賛成してくれたのは、義弟のT家、義姉のK家、友達のY家、H家の5軒。ところが、すぐ問題が発生しました。構成員の奥さん連の競り合い、ジェラシー、男性は比較的実力の評価は公正だったのですが、奥さん連に巻き込まれて、家柄や小板の居住暦の長さまでが議論の種になる始末、一番年少の私がリーダーでは収拾は不可能でした。おまけに社長の義父が財産の保全を計って、土地の名義を孫に換えてしまいました。たしか計画には同意して、100パーセント成功しろと釘をさした人なのにと、憤慨しても解決にはならず、結局わずか3ヶ月で解散となり、後始末に走り回りました。おまけに誰が原因かと追求されていわずもがなの発言をするなど、私もミスの連続で、そのケアにはその後20年も30年もかかりました。
県も町も本気でその事業を推進してくれていましたから、ただ止めますだけでは良心がとがめます。仲間の家は一軒一軒謝って精算して歩きました。「県や町はそれが仕事だから、わざわざ行く必要はない」という意見もありましたが、私は一人で謝って歩きました。
県庁に行ったときです。県農政部へ行き、課長さんにお詫びしようと意を通じますと、しばらく待てと待たされました。1時間以上経った時、農政部長室へ通されました。驚きましたね。課長さんに面会をお願いしたのに、部長さんとは。当時の部長さんは、中島建先生、広島県で最も若くて部長に就任した秀才と言われた人です。えらいことになったとビビってしまいました。「何しに来たのか」聞かれて、正直にわけを話して、「わたしの力不足でご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」とお詫びしました。すると中島先生は、「何何をしてほしいと頼みにくるのなら判るが、中止になったと謝りに来たのはお前が初めてだ」と、あきれつつ、話を聞いてくださいました。
ところが、何を思われたのか、「オイ、君、今から会議があるから、しばらく部屋の隅で待っとれ」と命じられたのです。
さて どんな会議が始まるのかと思ったら、課長さんや試験場長さんたち10人ばかりの幹部会議が始まったのです。会議の内容は農政部長さんが今度のアメリカ視察で感じたことを、如何に広島農業に反映させ、将来の競争に備えるか、との話でした。これから開発される農地は、労働生産性を上げるため、区画は大きく、形状にも配慮をしなければならないという話や、水利や農道の整備の話、水稲 牧畜 園芸、それぞれの場合の話もあった様な気がします。まだ小さな圃場、曲がくねった細い農道、雑草の繁った水漏れする水路、それが大部分の時代の話です。
一通りの議論が終わったところで、中島先生が私の方を向いて「今の話を聞いて何を感じたか意見を話すように」と言われました。ビックリ仰天とはこのことで驚きましたが、逃げる訳にも行かず、思わず日頃考えていることを話しました。
「先生方の話の中に、エロージョンのことが出ませんでした。それが気にかかります。雨量の少ない瀬戸内地方と違って、私の住む芸北地方は年間雨量2000ミリ前後。水田ならいざ知らず、畑の場合はエロージヨン対策を念頭に置かないと成り立たないと思います。アメリカの穀物地帯の年間雨量は600ー800ミリと聞いています。私も畑作を自分ではじめ、2ー3年で表土を流して畑を駄目にした事があります。生意気な様ですがこの問題も大切な事だとおもいます。」
その様に申し上げたと記憶しています。
一瞬室内がシーンとしました。これはいい過ぎたと反省したのですが、中島先生は何も言わずに会議を終わらせました。
それから他の方々が退席して中島先生と二人きりになった時、先生は若造の私に真剣に話されました。
「見浦君、今の畜産、特に和牛飼育は価格の乱高下に翻弄される投機になっている、私はこれを産業にしたいのだ。そうでないと和牛は生き残れない」と。
この一言が私に和牛と心中することを決意させたのです。私の人生の大きな大きなステップでした。
和牛一貫経営論争
当時、和牛の将来について、日本を二分した論争が行われていました。詳細はその1ー2年後知ったのですが、概要は次の通りでした。
その頃、日本の農村でも農作業の機械化が始まりました。戦前、岡山の興除村から始まった機械化は、大きな水冷の石油発動機を積んだロータリー耕うん機の形で始まってはいたものの、高価で重い機体がネックとなり、普及は微々たるものでした。1950年頃からアメリカから輸入され始めた小型の耕うん機(メリーテーラー)が、この流れを一変させました。安価(在来機の5分の一内外)と軽量(2人で持ち上げられました)のこの機械に刺激されて、輸入・国産機が入り乱れて急速に普及して行きました。当時、広島県には役牛として13万頭の和牛がいましたが、耕運機の普及に反比例して激減して行きました。なにしろ機械はシーズンだけガソリンを食わせれば、あとは倉庫のなかで眠っていてくれます。農民がなけなしの金をつぎこんだこの機械で農繁期を済ませると、そそくさと出稼ぎに行く、色々な形はあっても小板も例外ではありませんでした。
しかし 資源の乏しいこの日本で、折角これまで維持してきた貴重な肉資源を、このまま衰退させてはいけないと考える人が、まだ沢山いたのです。そして役牛としての需要がなくなるのなら、肉牛として改良して存続させよう、その為には一日当りの増体量を外国の肉牛の 1,1 ㎏(当時 和牛は 0,5 - 0,6 )㎏に近づける。30ヶ月以上もかかった出荷月齢を24ヶ月位にする。500㎏半ばだった体重を600㎏以上にするなど、多くの改良目標が掲げられました。論争の主題になったのは、その飼育形態だったのです。
その一つは、京都大学の上坂先生が提唱する、子牛の生産から9ー10月位まで飼育して、家畜市場で売却する繁殖農家と、その子牛を購入して肉牛として仕上げ、食肉市場で売却する肥育農家との分業という従来の飼育方式。
もうひとつは、かの広島県農政部長の中島先生が提唱する、繁殖と肥育を一つの経営でカバーする、一貫経営と呼ばれる方式です。一貫経営の最大の狙いは、家畜商による中間マージンの解消と、飼育過程の情報の還元による経営の合理化と向上でした。しかし この一貫経営方式には多くの問題がありました。まず母牛に人工授精をして、生まれた子牛を肉牛に仕上げて、代金が入ってくるまで35ヶ月以上かかります。その間1円の現金収入もないので資金繰りが難しい。飼育期間の前半と後半では、技術の考え方がまるで違う。牛のように大きな家畜はただでさえ、資本の集積が大きいのに資本の回転率が低すぎる等等・・・・・
上坂先生の主張は、「日本の零細な農民にはこの方式は定着しない。農民の知恵として出来上がった分業方式のほうが適している」というものでした。「繁殖から肥育までの生育全般を管理観察しないと改良は出来ないのでは」との質問に、「家畜の改良は試験場や研究所や一部の専門家の仕事で、一般農民のあずかるところではない」、その様なことを言われていたと記憶しています。負けん気の私が益々敵慨心を燃やしたのは言うまでもありません。
多頭化一貫経営の完成をめざして
昭和40年、広島県は多頭化一貫経営試験?と称して、油木の試験場で広島県の主張を証明するためのテストを行いました。
その概要は、畑面積10ヘクタール、母牛30頭、その子牛、肥育牛、総計90頭、それを2人で管理飼育する、というもの。
母牛は年間屋外飼育、干し草は倉庫兼用の給与小屋での自由採食、サイロはトレンチサイロで、可動の給与枠での自由採食、肥育牛は簡単な雨避け牛舎、機械は18馬力の小型トラクターの一貫作業。この試験は2年間行われました。その結果、一貫経営は可能との結論が出たのですが、問題は山積していました。
今から思えば、その時この方式で一貫経営を始めた農民の中で、生き残ったのは見浦牧場だけ?なのですから、問題はあまりにも多すぎたのかもしれません。
私は、この試験の間に何度も見学や研修に参加しました、そして、その考え方の合理性に大いに賛同したのでした。しかし障壁も高くて、先達もいない、どうやって乗り越えるかは大変なことでした。
よく揃った30頭の母牛、簡単とは言え、サイロ、乾草小屋、スタンチョン(給餌槽)などの施設群。小型トラクターと牧草用の作業機一式(当時はまだ中古品は出回らず、輸入品が主力でずいぶん高価でした。)
その年か、翌年かは定かではではないのですが、油木の試験場の講習会に出席した時の事です。場長先生(榎野俊文先生、後に私の人生の師の一人になられた人)に、ご挨拶のため事務室の前までゆくと、先生が研究員の皆さんに「今日の講習生の中に大物がいるから、指導は念入りに手を抜かないように」と話していました。私は、大物とはどんな人かな、是非教えを受けたいものだ、と思ったのです。講習の間も休憩の世間話の時も、注意を払いましたが、とうとう、それらしい人にはお逢いすることはできませんでした。「まさか、私が大物?そんなことあるはずが.・・・・」と思いましたが、どうも私への接し方が違います。「なぜ、私が大物扱い?」、あれこれ考えた挙句、やっとあの中島先生と出会った会合の事に思い当たったのです。
20代の半ばに、地方政治家だったもう一人の先生、前田睦夫先生が
「社会は人で成り立っている。人の命が有限である以上、自分の考え方や見方を、次の時代に伝える為の若い人を探して、そして育てるのだ。社会と言うものはそうやって続いて行く。私もそうして育てられた。」
と、話されたのを思い出しました。
でも、まさか自分がそんな評価を受けようとは・・・・・・・。
ともかく、私達夫婦は、広島方式の和牛の多頭化一貫経営の完成をめざして走り始めたのです。長い長い道のりだとは気づかずに。。。それは昭和40年の事でした。
1998年9月14日 見浦 哲弥
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