当時の私たちは、できるだけ家族で見学に行き、それぞれが感じた事を話し合うのが習慣のようになっていました。いつもは家内と、時には子供たちと出かけたものでした。
金城町の牧場は、小板から車で約1時間の距離、ちょっととした仕事の合間の気分転換のドライブにはもってこいです。ぼろ車でも移動するには関係なく、「勉強にいこうで」の一言でよく見学に行きましたね。
その日は、小学4年だった和弥と一緒に見学に行きました。曇空で少し寒い日だったと記憶しています。
牧場とは名ばかりの見浦牧場と違って、200トンのタワーサイロが建ち並び、外国製の大型機械が勢ぞろいする金城牧場に、子供の和弥も興味津々です。
「お父ちゃん、これは何?」
「これはなー、ブロアーゆうてな、刻んだ草をあのサイロの上まで吹き上げて中へ詰め込む機械じゃね。あのサイロはな、高さが20メートルもあるんよ。見浦の機械は5メートル揚げるともう詰まって、大変なんだがの。大きい機械はすごいんよ。」
「中の草はどうして出すん?」
「一番下にの、アンローダーちゅう機械があっての、かきだすんよ。ここじゃの、その草をベルトコンベアにのせて畜舎の餌箱にの、自動的に入れて行くんよ。」
彼は黙って説明を聞いていました。そしてコンベアの先の畜舎のなかをのぞき込んでいました。やがておもむろに、こういいました。
「お父ちゃん、それなら牛の病気はどうして見つけるん?」
衝撃でした。ハンマーで横面を張り飛ばされたような一言でした。その視点で施設を見直すと、なるほど牧場全体が工場のような雰囲気です。この牧場を訪問する度に感じていた違和感はそれだったのです。命のある動物を無機物の機械と同じ感覚で扱うのは間違いではないかとの問いかけは、子供でも大人の及ばない発想を持つ、そう教えていました。見浦牧場のモットーに「動物は友」の言葉が入ったのは、この時からなのです。
牛は人間の言葉では話せません。体調の変化や、食欲の有無、飼料の不良などを、飼い主が観察して、先手をうって手当しなくては病気を防ぐ事は不可能です。金城牧場では係員が一頭一頭観察して記帳していました。それは一見合理的なやり方に見えますが、非常に手間がかかる割に病気の発見が難しいのではないかと思うのです。見浦牧場では、牛群の間を歩いている内に、何となくあの牛は様子がおかしい、あの子牛は被毛に艶がない、などと群で病牛を探しています。牛は一頭ずつ見ても異常は見つけ難いものです。それより他の牛と比較して評価する方が違いが見つけやすいのです。
牛飼いで大事なことは、大規模に機械化された施設ではなく、まず牛を見る事、牛と話ができる事、そんな基本に触れる問いかけを小学生の和弥がしたことは、本当に驚きでした。その驚きは、今でも昨日の事のように思い出せます。
たとえ家畜とはいえ、牛も一個の生命体。見浦牧場の基礎にある「畜産は命を扱う産業」という考え方が、この牧場の人間にふれあう人に、新鮮な感じを与えるのだと思います。
その彼も、30の坂を越えました。小学生だったあの日から、どのような人間になるかと、期待と不安で眺めていた私は、命の意味をいつも噛みしめている畜産家として育った彼に誇りを感じているのです。
見浦 哲弥
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