病院で看護婦さんに、牛は屠殺されるときに涙を流すのか、と聞かれた、私の心の琴線に触れた話である。答えたいとは思ったが、さすがに高熱の下では適当な言葉が出ない。でもこれは生きることの基本の話、それをこんな形で質問されるとは心外だった。今日は私の考えを聞いてほしい。
私達は食物連鎖の頂点で生きている。各種の肉も魚も穀物も野菜も、彼等は言葉にこそ出さないが、それぞれ生きるための懸命の努力をしていた。少年の頃、稲の籾 (もみ殻をかぶったお米)の種まきの前の作業、浸水(水につける) の作業を手伝った事があった。中にもみ殻が剥げてお米になった粒があって、それも芽を伸ばし始めていた。勿論、機械にかけて白米にしたお米は生命力を失っているが、その前段までは生きる力を持っている。
それは植物であれ、昆虫であれ、動物であれ、生きる努力は変わらない。でも何年もかかって成虫になる寸前のカブトムシの白い大きなさなぎが猪の餌になって無残に食べられてゆく、その幼虫の命と引き換えに猪が生き延びてゆく、それができなくて餌場で餓死した猪がいたな。そんな現実を眼前にみせられて、それが生きると云うことと自然に教えられてきた。人間は食物連鎖の頂点にいるから高等動物の牛や豚や鶏の命も頂戴して生き延びている。そこには可哀想の感情だけでなく、感謝の気持ちがなくてはいけないと、私は信じている。
若かった昔、この手で飼っていた鶏を殺し、山羊や、綿羊を殺して、家族の栄養を補った。でも生き物の命を頂戴して生きると云うことの本質まで理解するのは時間がかかった。
私は、完全に生きたというつもりはないが、先人の一人として多くの命の集積の上で生きてきた、そんな無学な農民の考えも理解して欲しいと思っている。
2020.09.20 見浦 哲弥
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