2018年8月11日

私と秘境Y部落

2008.10.3 突然アマチュア写真家が来訪、例によって牛の写真を撮らせてほしいと、老夫婦が訊ねてこられました。お二人とも高級なデジカメを持たれて。
見浦牧場に牛の写真をと来場されるプロやアマチュアの写真家は多いのですが、ご夫婦だけで写真を撮りにお出でになる方は珍しく、お聞きすると、隣部落のY出身で昭和35年に集落を離れられた方とお聞きしました。
今でこそ大規模林道が開通して距離15キロ、自動車で15分足らずの距離ですが、従前は餅ノ木集落を過ぎ、大きな峠を越して田代集落(道上に斜面にへばりつくように6戸の農家がありました)を通りこして20キロあまりの山道、健脚を誇る若者でも徒歩で5時間の遠い遠い集落でした。

小板は深入山の麓にある集落です。朝夕眺めるその山は子供の頃から裏庭のような身近な山、小学生の頃は何かというと深入山の登山、成人してからも深入山にあった放牧場の山焼きや牧柵の修理など何度登ったことやら、1153メートルの頂上から南を望めば恐羅漢山の麓から三段峡の名勝猿飛の上流にY部落の全景が真下に見えるのです。更に頭を右に回すと山かげに三段峡の中流から分岐して三つ滝を経て八幡川の上流、樽床と八幡の一部も見えました。

伝聞ですから正確ではありませんが、樽床もY集落も源平の戦いに敗れた、平家の落ち武者が隠れ住んだところとか。見浦の先祖は関が原の落ち武者と聞いていましたから関心がありました。小板と樽床は4キロしか離れていません。そんな近い集落なのに樽床から小板に移住してきたのは、家内の親元が5代前、約150年ほどの昔、それまでは周りの集落と交流が少なくて独特の文化を維持していました。それが特徴的だったのは言葉のアクセント、福井から帰ってきた私には小さな峠一つで大きく違う言葉は異様でした。この疑問をぶつけると父は落ち武者集落の言い伝えを話してくれました。
樽床集落の中央を流れる八幡川、それによって、二分された集落、そこにも成り立ちの影響があったのかも知れません。

Y集落も平家の落人集落と聞きました、ところがY集落の人達には樽床のような言葉のアクセントの違いは感じられませんでした。現在は林道が通じていますが隣部落の那須にも、吉和にも大きな大きな峠がそびえていて、連絡路は急な小道と三段峡の峡谷の中の小道だけ、ここも樽床と同じ孤立集落だったのに、何故かと随分考えたものです。

そうは言っても微妙にアクセントの違いはありました。でも隣部落の樽床と違い、Y集落は間に田代、餅ノ木の2部落があってY集落の人と接触が出来たのは成人になってから、落人部落と言うのは私の記憶違いかもしれません。

私がY集落に始めて足を踏み入れたのは昭和29年、Y集落が電化されて集落が喜びに沸きたっていた頃、煌々と電気がついて華やかでしたね。
それまでは交通も儘ならぬ山奥への配電線の建設に電力会社が二の足を踏んでランプ暮らしだったのです。小板、八幡、樽床は小水力発電の大佐川電気利用組合に加入、60キロワットの小水力発電所を建設、一応の電化は出来ていましたから、未電化で満足な道路もないY部落は本当の秘境集落だったのです。

そこで、落差もあり水量もある横川川に発電所を作ることになったのです。ところが電気の智識のない住民が明かりほしさに闇雲に作った発電所、電力の消費のない夜中と昼間の電力はどうするかと問題が起きました。そこで夜中でも電灯を点けっぱなしにしろということに、真っ暗な山中に突如と現れる不夜城、異常な光景でした。その余剰電力を使った産業をおこす術を見つけられなくて、発電所の建設資金の返済に行きずまって町に肩代わりしてもらう羽目に、代償に広大な集落の共有林を町に引き渡した、そこからY部落の衰退が始まったのです。周辺の集落の崩壊より10年以上早く始まったと記憶するのですが。

無責任の外部の人間として一言言わせて貰えば、集落から離れて行くのは資産家、インテリから、この人たちは本来は最後まで頑張るべき人たちからでした。それがまだ若かった私は異様に感じたのでした。外界の文明をより多く理解している階層から崩れたのは、老人になって理解が出来るようになりました。でも、その人たちは地域を大切にと説いたはず、そして団結することで生活を維持してきたはずの人たちから崩れたのは私には理解の外でした。

私の母方は越前の武士、娘ばかりだった長女の長男が私と言うことで幼い頃から侍の子として育てられました。辛いからと真っ先に逃げ出すなど教えのなかにはありませんでした。そんな環境で育った私だからY集落の崩壊は異様に見えたのかもしれません。

残った集落が3戸余りになった頃、広大な部落有林だった山林はスキー場となって登場しました。日本でも有数のパウダースノーのスキー場は有名になりましたが、旧住民は民宿やレストハウスの経営でお茶を濁す、または季節労働者として働いています。

もっとも、見浦牧場も完全に無関係ではない。餅ノ木集落とY集落の間の田代峠の道路残土は近辺が国定公園で捨て場がない、従って見浦牧場の谷を埋めて牧場整備に利用させてもらいました。何十年かして牧草地から三段峡の岩石が出て何故と頭をかしげる人が出ないともかぎりません。

ともあれ私の見るY集落は微妙に時代に乗り損ねた集落に見える。長い時の流れの中では取るに足らない出来事かもしれないが?

2016.2.6 見浦哲弥


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