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2023年2月21日

町議選

お隣の元町議会議員だったご婦人が亮子くんを訪ねてきた。今年は我が安芸太田町の町議会議員の改選期である。思い出せば私も政治の師、前田先生の勧めで町会議員に立候補したことがある。見事に落選したが私の人生には幸運だった。それはその選挙で人間の裏側をまともに見ることが出来たからだ。応援をすると自己推薦でやってきて見浦には絶対投票するなと運動した自称友人がいて、将来自分が選挙に出るときに障害になりそうだから潰しておかなければとの考えだったようだ、そんな人が何人かいた。世間知らずの私が知らなかった異次元世界の一面だった。 

私は侍の子として育てられた。卑怯なことはするな、弱者には配慮をが母の口癖だった。おまけに親父さんは天下無類の正義漢で、努力する生徒には無償の補修授業を毎晩続けていた。教職を去っても教え子に出会うと異口同音に「先生には世話になって」が聞かれたものだ。私はそれが 当然のことと聞いていたのだが、人生をあるき始めると、その生き方を貫き通すのには強烈な意思の裏付けがなくては出来ないと知ったものだ。 

昭和20年の敗戦で世の中の常識が反転して何が正義かがわからなくなって、社会主義に興味 もった私は当時の社会党に入り加計の活動家の前田睦夫さんの弟子になった。党の会合で労働組合の活動家の議論(幹部連は大卒のインテリが多かったね)を聞く機会が増えて、我が身の知識の欠落を痛感、アダム・スミスの国富論、マルクスの資本論、など付け焼き刃で勉強したもんだ。ところがこれらの経済のバイブルと云う理論も現実の経済の中で四苦八苦の見浦家の実情からは理解ができなくてね、社会党の代議士大原亨先生の末端の部下となって現実の政治を教えてもらったんだ。 

あの時、一度だけ前田先生の熱心さにまけて町議選に立候補したことがある。とは言え実際の地方政治には知識がなかったので、当時、猛烈なインフレで物価の値上がりに庶民が悲鳴を上げていた頃で、このインフレで誰がどんな仕組みで庶民の懐からお金を巻き上げているか、仕組みを話して歩いたんだ。それが大変な人気になって街頭演説に行くと人っ子一人見えなくなる、行きががりでなどで選挙をするものではないな、友人に話したら「物陰を見ろ」と注意された、よく見 と家の影、物の後ろに人陰がみっしりだった。見浦の演説を聞いたと云うことがボスに知れたら、どんな圧力が掛かるか判らないと、隠れて聞いてくれたのだと云う。それを見た味方の候補者がこのまま行ったら自分が危うくなると方針を替えたのたのだとか。選挙は住民の利益を守るためにあると信じていた私だが、保守も革新も自分のために行動すると知って距離を置くことにしたんだ。いい勉強だった。

でも選挙後色んな所で叱られたな。一つは見浦先生の子供だと云うことを言わなかったこと、 2つ目は選挙で見えた人間の裏側が嫌いで、それきり政治の表側には立たなかっこと。 40年も 経って町の反対側の二郷で1度きりで選挙に出なかったと叱られたことなど、見えない信頼は大きかったようだ。政治は勉強はするものだが人間の裏側が見えてしまうのが恐ろしい。大原先生には政治を辞めるなと引き止めていただいたが私の住む世界ではなかった。先生が「農業にも人がいるからな」弟子を辞める許可を貰ったのは16年後、いい勉強にはなったがね。 

遠い遠い70年も昔の思い出、選挙があるたびに自分の判断の正しかったことを痛感するんだ。選挙は清濁併せ持つ度量がないと住む世界ではない、それには強烈な意思がいる。一度きりの私の人生をそれにかける勇気はなかったね。そして農業に人生をかけて、少しは自信をもって人に 話せる世界を持てた、そんな遠い遠い過ぎた日の決断を思い出したんだ。

 一度きりの人生、貴方も最良の道を歩かれることを心から願っている。 

2021.3.3 見浦哲弥 

2023年2月19日

運転免許終了

2021.2.21 運転免許の更新をしなかった。まだ運転は出来る自信はあったが老人の運転事故の報道が多発、老化で能力の低下は私も自覚していて、50キロ以上のスピードは出さないことにして注意を払ってきたのだが、やはり周囲の人からすれば90歳の老人が公道を走行するなど危険そのものと反対。その上老人の運転事故で死亡者続出と報道されれば、やはりこの あたりで自動車運転は止めるべきと、自分に言い聞かせたんだ。

とはいえ、20代中頃にマツダの軽三輪トラックを買って院てて免許を取りに練習所に通ったのが始まりで、運動神経が劣る私には免許取得は大きな障壁でね、何度も通っては落ちて自信を失っ たものだ。自慢するわけでは無いが、運動神経は人並み以下で周囲の連中には笑い話の種になっ た私の弱点の一つだった。

あれから65年、新車に乗ったのは親父さんが直腸癌で看病に広大病院と小板との掛け持ち往復をしたときだけ、最初は軽三輪で往復したのだが、故障の多い中古車では身動きが出来なくてね、有り金をはたいてパプリカの新車を買った、新車を買ったのは後にも先にもこれl台、空冷の2気筒で27馬力、シートはハンモック、暖房もラジオもなくてただ走るだけ、でも信頼性の高い車で、よく走ったね。ドライブに見学にと家族で走り回った。それ以後は、トラックから乗用車、軽自動車、トラック、ダンプと様々な車を乗り回したが中古車のみ、随分ひどい車もあっ て、牛の出荷の途中で故障、騙し騙し辛うじて家までたどり着いたこともあった。 

それでも、車のおかげで西日本だけだが多少は見聞が広がって、完全な井の中の蛙にはならなかった。私の置かれた人生では望外の見聞を得られたと満足している。

その運転免許証を失効させるのには流石に惜しくて迷いはあったね。しかし、最近のニュースに高齢者の引き起こす自動車事故の多発で死傷者の報道が話題になると、他人事では無くなって 免許証の失効を決意したんだ。

60何年に及ぶ運転歴の中で人身事故は起こさなかったから、それで良しとしなければと思っている。 しかし、小板の集落から外部へと思っても自動車の足がない今、随分と世界が狭まった感がある。私の持ち時間は後少しだが世界が自宅の周りだけになった。時折、親父さんのお墓の前で 「親父、まだ生きてるぞ」と報告する生活だけ、明日は判らないぞと思いながら。 

貧乏と言いながら自動車のおかげで多少だけれど世間が広がった。いい人生だった。もっとも現在はコンピュータを通り越して皆さん電子機器を手足のように使いこなす、私から見ると異次元世界、ま、自家用車の時代に行き合わせただけでも幸せとしなければと思うことにしている。 

大学に入学する孫の明弥のところに学校でコンピュータは必須だから購入して来るようにと通知がきた。 ザラ紙につけペンで勉強した私には現在は異次元である。

免許返納の老人が60年余りも恩恵に浴した運転免許証、失効の寂しさは思い出で補うことに している。

2021.2.21 見浦哲弥

2023年2月18日

小さな牧場の小さな肉屋

2021.1.16 見浦牧場は中国山地の芸北地区にある小さな小さな牧場の一つである。この牧場を開設して60年余りになる。色々な経緯があって生涯を畜産の和牛飼育にかけようと思ったのは、まだ若かった28歳。開設時の苦労も昔話になって経緯を知る人は皆無になった。

 私は人生は出会った人々の生き方に影響を受けると信じている。七塚原牧場の現場の人達は少年の疑問に親切に答えてくれた、黒ボク(火山灰土)の話(黒い土は豊かな土と信じていた) 、馬鈴薯の2度作り、ラミー(西洋麻)収穫から機械加工まで、燕麦という飼料麦の栽培と収穫、西洋式の畑の除草の方法。私の生き方が変わったのは、あの七塚原の半年の体験からだ。

もっとも新庄にあった農兵隊山県支部では極限まで追い込まれて、絶望したことも何度もあった。そんな時に辛うじて耐えることが出来たことは両親の教えだと感謝している。 

しかし、世の中は競争だとは云うものの、対立相手の足を引っ張って勝つと云う手段を取る連中もいて一筋縄では行かないものだ。そんな連中が存在する社会の中で自分の信念に忠実に生きるためには、逆境に如何に耐えるかを学習するしか方法がない。逃げ道はなかった、辛かったと感傷にふける時間ももったいない、人生は短くて1度きりのなんだと痛感する今日この頃ではね。 

しかし、没落地主の子倅が牧場経営を目指すなどは目標が大きすぎる、小板の大多数の人達が百姓を知らない見浦が成功するわけはないと思い込んだのも当然だった。特に資産家を自認する小金持ちは高校にも行けんやつが生意気にと批判する、その舌の根が乾かないうちに、助けろと やってきた、連中の牛に事故が起きて獣医さんが間に合わないとなると「なんとかしてくれ」とやってくる、そして応急手当が成功すると「ありゃーまぐれじゃー」と批判、その舌の根が乾かないうちに次回もとやって来る。生活に追われている貧乏な人達は誠実で金持ちがインチキとくれば結果は当然のところに帰結する、但し、徐々にね。

とは言え見浦牧場も失敗が無いわけで はない、次々と死亡する牛が出て涙も出なかった事もあった。が負けず嫌いだけが取り柄の私 だ。原因の追求のためには努力を惜しまなかった、これだけは胸が張れる。

 何度か危機があったが牛の下痢O157に感染して衰弱した時は出入りの獣医さんが「今度は見浦さんは危ないで」と話すほど体力が低下した。流石の私も音をあげて進学を予定していた三男の和弥に家に帰るように依頼したのだ。が、彼の人生の可能性を揃み取った責任を私は忘れることが出来ない。 

幸運にも彼に好意を寄せていた亮子君が追いかけてきてくれて人生をともにしてくれた。苦難の見浦家には最大の贈り物だった。しかも3人の男の子にも恵まれた。

そこへ長女の裕子さんの府中ニュースで働いていた三女の律子さんが帰ってきて見浦の牛肉を売ると、道端に小さな加工場とお店を建設、ゼロからの加工販売を初めたんだ。律子は私の子供の中で最高に意思が強く行動的、こうだと目標を決めたらひたすらに走り出す、男尊女卑ではないが男だったら 成功者の一員に数えられたろうな。見浦牛肉のみを仕入れて加工をして、宣伝をして、販売に飛び回って。あれから何年経ったろうか、見浦牛肉の味の良さが徐々に広がって、遠くからのお客さんも来始めて、思いの外の好評で。

昔何度か行った試食肉の頒布で「子供が脂まで食べた」と云う評価に支えられて追求してきた見浦牛、霜降りの神戸牛の後追いをしないで独自路線を歩いたことは正しかったと思っている。牛肉は食品、商品である以上、見た目も必要だが、その前に安全で美味しいことが必要と牛をできるだけ自然の中で育て、外見の等級でなくて小板の自然に適応した牛を追い続けた。そして外部からの遺伝子の導入は雄牛の精子のみの方式を6 0年以上続けて作った見浦牛は独特の味を持っているのでしょうね、その価値を純真な子供の舌が教えてくれた。今その味を理解したお客さんが遠方からお店に訪れてくれる、有り難いことです。

小さな小さな見浦牧場、その中で育てた大きな夢、それをお客さんが認めてくれた、それが私の勲章なんです。それは家族の協力と私の小さな願いに協力していただいた多くの人々の善意の結果だと思っています。

有難うございました、心から感謝をしています。

2021.2.21 見浦哲弥

2023年2月8日

農兵隊のM上君

2019.11.3 見浦牧場ミートセンターへ農兵隊での同僚のM上と名乗ってお客さんが買い物に来てくれた、と店番の家内から伝言があった。が、75年も彼方での同僚、名前を記憶しているのは出身学校が近接の町村の1 0人あまりでしかない。まして旧都谷村と言えば当時の私 には外国、しかも、90近くもなると生き残っている仲間も数人でしかいない。どう記憶をたどっても彼が誰だったか思い出せないのは残念である。

 しかし、農兵隊の1年は私にとって苦難の1年でもあったが、新しい農業への視点をもたらしてくれた。失う物も大きかったが得るものも大きかった。志願して行った七塚原牧場の半年がなかったら現在の見浦牧場は存在していなかった、私の人生では、それほど大きな出来事だったん だ。敗戦後の混乱の小板を振り返ると時代の変化を認識出来なくて敗退していった人の多かったこと。私にとって農兵隊は人生の学びの世界の一つだったのだ。そこでは生き残るための戦いがあって友と呼べる人を得ることが出来なかったが、私を信頼をして生涯付き合ってくれたのはM場君ただ一人だったから。 しかし生き残るのが精一杯の敗戦直前の弱者の集団、それも平等な社会ではなく小利口や強者が力を振るう生存競争、敗戦後のより平等への道をたどった日本の社会からは想像もできない非条理の世界だった。そのなかで七塚原牧場の使役の募集があった時、それに志願したことが生涯のプラスになったのだから、逆境もまた、プラス、マイナスの世界だった。

しかし新庄にあった山県郡農兵隊の本部には楽しい思い出は皆無だったね。敗戦後、マッカーサー司令部の手前、教育機関と看板を替えて、つけ焼刃の教育が始まってからは、数学と理科が得意の私は仲間から大切にされたね。何しろ教える教官が素人、仲間も利口な奴は進学で高校(中学校)へ、勉強ができない生徒が農兵隊に振り向けられたのだから、 1 2 0人の隊員のなかで何とか先生?の話が判るやつは2-3人もいたかな。そんな状態だから、宿題でも出ようものなら大変で出来るやつのところへ殺到する。数学と理科が得意の私のところにも集まったね。もちろん、先日まで鈍いと嫌がらせ専門の連中は、さすがに来なかったが、遠くで睨みつけるだけ。おかげで、後年、私の記憶にない人まで農兵隊の見浦君と親しく声を掛けてくれる、M上君もその中の一人だったらしい。 

何年か置きに開かれた同窓会に1-2度参加したが、大部分が江の川水系の連中、太田川水系の人間は少なかったね。M上君は都谷村だったから江の川系か、申し訳ないが、彼の記憶はその程度である。しかし、何十年も覚えていてくれたことには感謝である。 

私の人生を語る時、農兵隊は良きにつけ、悪しきにつけ、強烈な思い出の宝庫である。あの極限状態の中で生き抜けたのだからと逆境でも頑張れた、その意味では私の大切な記憶である。

 2021.1.14 見浦哲弥

2022年11月23日

ひらべ

2015.8.20 早朝、牛を飼いに牛舎に行く途中、道沿いの小板川にひらベ( ヤマメ )を見た。青年時代、水眼(水中メガネ)を片手に水中ホコを持って追っかけた魚だ。私は不器用でね、三国ではテンガマ(手長エビ)を追いかけて竹田川の浅瀬を水眼で探し歩いたものだが、なかなか取れなくて、中型の1匹をゲットしたときは嬉しかったね。ただそれを食べる方法を知らない。大家のお婆さんが食べないのならくれろと云うので差し上げたが、あの三国での川遊びの記憶は今でも鮮明で、80年の時の流れを経ても昨日の出来事のようだ。

小板に帰って大畠(見浦家の屋号)の家の前の小川は深入山から流れ出る水、清川で都会の少年の好奇心をそそる世界だったね。

小板川は三段峡に流れ込む、その流れ口が高い滝でね、本流から小板川に魚などが遡上できない、それに気づいた地元の青年たちが三段峡で釣った魚を小板川に放流したのだと聞いた。私が帰郷した頃は臥龍山にも途中の滝のため魚が遡上できないところが幾つかあって、あの谷は私が、この谷は俺が放流したと云う人の話を聞くことが出来た。小板の魚たちには少なからず人の手が加わっているのだ。地域にはそれぞれの歴史があるものだと興味を持った最初である。最も同じ川の住民でも亀さんは足をお持ちで、雨降りの日、自力で道路によじ登ってくる強者、一度発見して捕まえた。うなぎは雨降りの日、坂の小道に小さな水流が出来るとそれを利用して上流によじ登るのだと、餅の木の先輩から聞いたことがある。しかし、小板川の合流点は急すぎてそんな登り口はない。従って小板川ではうなぎは見かけたことはなかったね。もう一つ不思議なのは生活力の強いウグイを見かけないことだ、同じ仲間のドロバエ(アブラハヤ)は多いのにね。

開話休題、中でも美しい、ひらべ(ヤマメ)は宝石に見えたね、横腹の紋様に魅了されてね。それでホコ(ヤス)と水中メガネで追いかけたのだが、敏捷な魚でね、町場の少年の手には負えなかった。時たま捕まえた時は嬉しくて、塩をつけて焼いたら格別な味で、感激したものだ。

臥龍山に六の谷と云う渓流がある。松原川が空城から滝山川に流れ下るところから分流して上空城を遡る、そして人道から離れて山中に消えるのだが、2-3キロ先で大きな滝に出会い乗り越えて、向きを変え臥龍山の頂上を目指す、それが六の谷。この川も滝が大きくて魚が登れなくて、先輩が放魚したのだとか。魚影の濃い川でね、よく箱眼鏡と水中ホコを持って魚とりに行ったものだが、熊の棲家が近くにあることに気付いてからは恐ろしくて行けなくなった。しかし、大きな岩の陰の巨大なひらべの魚影を見た時は興奮したのを覚えている。

小板の川はひらべとゴギ(イワナ)の棲家、ゴギは薄猛な魚で小さな蛇をくわえて泳いでいるのを見たことがある。ゴギも美味しい魚だが敏捷で町場の少年には捕まえることが不可能に近かったね。

河川改修とて護岸を改修してからは小板川の魚影は極端に薄くなった。辛うじてヒラベとドロバエは散見するが、ゴギも、テンギリも、イモリも姿を消した。コンクリートとブロックで固めた護岸は彼等の隠れ場所を激減させたのだ。おまけにアオサギやシロサギが足繁く訪れて川をあさる。隠れ場所が少なくなった小板川は格好の餌場になったらしい。

私が帰郷して80年、小さな小川の小板川も変貌した。そして昔を知る人は私を含めても1-2人か、少年の頃の小板川は老人の記憶のなかで消えつつある。

2021.1.6 見浦 哲弥

#書きかけだった文章をようやく仕上げました。


2021年11月9日

重さんが死んでいた

2020.12.29 お向かいの一人暮らしの重さんが死んでいた。私の晩年のよき友だった重さんが推定2日前に死んでいた。ショックである。

最近、時々姿が見えないことがあって、85歳の彼も年取ったなと見ることもあったが、私より5歳も若い、当然、 私の終末が早いと決め込んで、時折の姿が見えない時も、今日は早仕舞かと気にもかけなかったのに、朝、西田君とコッチャンが「Sさんが死んでいる」と飛び込んできて大騒ぎとなった。

昨日、彼の松原の同級生のT君が、S君がいないと尋ねて来て立ち話をしたのだが、まさか死んでいるとは思いもしなかったね。

原因が不明で孤独死となれば警察が出動、一般人は手が出せない。警察が来て救急車もやってきて死亡診断書の作成のため病院へ。おまけに彼の子供さんは奈良県、緊急と電話をしても小板につくのは夜の9時頃になるとのこと。おまけに明日の午後は大寒波が襲来するとて、大雪と暴風雪警報がでている始末。お向かいの無人の無点灯のS家を見ていてもなすすべがない。息子さんが戻ったら集落の人に連絡をとって一応集まろうと云うことにはしたが、8時半になってもS家は無点灯、気が焦るがいかんともし難い、まさに最悪のタイミング。

重さんは心臓の血管に問題があって2箇所にステント (血管拡張の器具)を入れている。半年ごとに検査を受けて不具合を事前に察知して手当をするシステムだとか、10月にその検査を受けに行くと言っていたのだが、帰宅しても変わった様子が見えなかったので長生きをするなと思っていた矢先、最近体の各所に異常が起きて不安感いっぱいの私が後になろうとは思っても見なかった、まさに一寸先は闇、 人の命は儚いものだ。

大阪で大型トラックの運転手として働き、 結婚して、子供さんを大学に進学させ、働きに働いた彼、親父さんの死亡を機に折角手に入れた農地を荒らすわけにはいかないと帰郷、地元の建設会社の大型トラックの運転手として長年働いた。ご存知のように小板は街の中心から20キロメートル離れていて、冬は積雪の多いところ、そこからの通勤は普通なら不可能に近い、それを軽トラの4輪駆動車を駆って通ったのだから根性である。母親を看取って、奥さんの癌との戦いに明け暮れて、疲れていた彼の自慢は、腕のいい石工さんだった親父さんに仕込まれた腕。 彼の自宅が小板の氏神さんの入り口にある関係で、お宮と私有地の境界は土を削っただけではっきりしていない、この境界を石積みしたいが彼の口癖だった。 あまり熱心なので、私は忙しいので石積みの手伝いは出来ないが、使う石は私が提供しようかと提案したんだ。彼、本当に持ってきてくれるかと乗り気になってね。ちょうど大規模林道の餅ノ木峠の残土を牧場に埋める話があって、その中から石垣に適した石を選び出して運べばと云うことになって、彼が石を積む役、私が石を選んで境内までダンプで運ぶ役、私もまだ若くて元気だったが大変だった。石が境内に運び込まれると彼が懸命に石積み、現在の小板のお宮になったんだ。

彼の努力を知っている私は、寄進の額を神殿に掲載しろと神楽団のボスに要求、神殿の壁を見渡すと”寄進、誰々" と書かれた板額が目に入るはずだ。主役は重さん、私達は手伝い、それを文字の大きさで表わせと要求して、以来、小板のお宮は重さんを無視しては何もできなくなった。で、 境内で二人きりになるときは、あの時、石垣を作ってよかったなと話し合ったものだ。

それから重さんの私への信頼度が変わったような気がする。まもなく集落の人数が減りはじめたとき葬式は家々で個々の責任ですることと、当時の自治会長と新任のボスが決定、息子の和弥と随分反対したのだが、俺達がボスで決定したから余計なことを言うな、と受け付けない。そうしているうちに新たに小板に定住したお家のおばーさんが死んで、小板では葬儀はこの方法でやると押し付けて強行、あとで身内の人に聞くと寂しい思いをしたのだとか。そこで放っておけなくて私がお葬式の同行(どうぎょう:自治会等で葬儀の運営全般をお手伝いすること)再建に乗り出したんだ、相棒に重さんを選んでね。二人で見送った人は10人を越すはずだ。減りゆく住民では出来る手伝いは限られてはいたが、皆で見送る方式は再現された。そして重さんは名実ともに小板の実力者になった。

彼とは色々な仕事をした。死んでやると雪山に入ったH君を二人で救出したこともある。あの時は、スキー場の事故の救援で集落で動けるのは私と彼の二人、人命には替えられないと雪山に入った。H君は助けたが、彼も私も疲労は極限、 危うく倒れるところだった。

力を合わせてこの小さな集落を守ってきた。振り返ってみれば彼は自分の親、 兄弟、家族のために人生の殆どを費やしたように見える。粗削りに見えるが優しさを秘めていた彼、私の数少ない親友の一人だった。

大切な友が先立った。5歳も年長の私がまだ生き残っているのに。道路端の日だまりに椅子を並べて「小板はええところよの一」と語り合った日は思い出の中に消えた。5歳年長の私はまもなく後を追う。そして別の世界で「あん時はの一」と世間話を語るのを楽しみにして暫しの別れに耐えようと思っている。

2020.12.31 見浦哲弥


2021年10月16日

読書

私は読書が好きだ。子供の頃から母から本を与えられて読書の習慣を植え込まれた。おかげで小卒の学歴ながら一応の知識を持つことができ、大卒の専門家と話してもなんとか意思が通じた。しかし、小板は山奥、中心の役場までは20キロの距離、雑誌がおいてある小さな文具店が1軒、本屋の体裁をした書店は30キロの彼方にあった。それも私が育った三国の書店の1/10にも満たない小さな小さな規模のね。10歳で小板に帰郷し敗戦1年後までの5年間が私の読書の最悪の期間だった。

戦後1年の冬、仕事ができない冬の間だけという条件で広島に働きに出た。英語の塾に通うのが目的でね。本通りの森井という文具屋さんが働き口で、夜学に通ったんだ。私が英語のラベルくらいは読めるのは、そのせいである。

働き先から泊めていただいた岡本さんの家まで帰る途中に広島駅があり、その道端で本の露天商がいた。勿論、混乱の極みの戦後である。道端のマットの上に数少ない商品を並べただけの露天商中の本屋?の中に月刊の"科学朝日”を見つけたときは嬉しかったね。乏しい財布をはたいて買ったのは云うまでもない。しかし時は戦後のインフレーションの時代、本の価格欄に次々と紙が貼られて新しい値段が表示される。朝、覗いたときは時間がないので帰りに買うことにして、その帰りには値上がりしていてね、物凄いインフレの時代だった。そんな「しまった」と思ったことは何度もあったね。しかし混乱の時代でも”科学朝日”は真面目な本でね、戦時中の空白の時間を埋めてくれた。私にとって貴重な雑誌だった。

小板は広島市から70キロあまり、道路事情は良くない。当時は行くのも1日、帰りも1日、文化には遠い地域だった。従って若者の憂さ晴らしは、神楽と田舎芝居と酒と女の子、貴重な人生の大切な時間が空転して過ぎ去ってゆく、虚しかったね。いっときは強要されて付き合ったこともあったが、振り返れば、あの時間は惜しいことをしたなと残念である。気がついて一線を画したが返って来たのは変人のレッテルだったね。

しかし、与えられた空間が時代と離れていたと悔しがっても、時は休みなく過ぎ去ってゆく、悔しかった。せめて読書ぐらいはと何度も思ったものだ。

地元の青年団の付き合いも止め、神楽団も退団して講義録や参考書を読みふけり、理解ができないときは発電所を訪れて教えを請うた。貧乏な1青年の疑問に真正面から教えてくれた人達、戦争には負けたが日本はいい国だった。

5年の歳月の積み上げは私のような凡人にも、それなりの評価をしてもらえた。

電気工事士1種の国家試験には合格したが、見浦家は私の願いを聞ける状況にはなかった。私の5年間の努力は親友のN君の発奮に資した、それだけで終わったのだが、少ばかりは役に立ったのでは。

しかし、本読みの習慣は一生残った。 科学物の雑誌や推理小説はいくら読んでも飽きることはなかったね。今、その本達が空き部屋を占領している。貧乏だった私は書架を作り収める事は叶わなかったので、一読したらダンボールの中に直行、専門書から、雑誌、 週刊誌まで至るところに積み上げてある、雨漏りの蔵の2階は古いリンゴ箱に詰め込まれた雑誌の山、古タンスには親父さんの数学の専門書が仕舞込まれいて腐り始めている、時代は変わって現代は電子の時代、コンピューターをはじめ、電子機器が氾濫、昔の書架に保存できるのは一部の金持ち族以外は困難になった。

そして、老人は自分がたどった道を思い出してはつぶやく。が、今はその声を聞く人はいない。

とにかく世の中は変わった。貧乏に追われたが私は読書と云う素晴らしい国に逃げ込む事ができた。これはこれで良しとしなければ、と思っている。

でも倉庫や物置に眠っている書籍の山、もう一度読むことが出来たら、あの希望に満ちた青春時代にもう一度、触れることが出来る、と叶わぬ夢をみる。人は愚かな弱い生き物なのだ。

2020.12.21 見浦哲弥


2021年4月16日

2020.09.28 長い間、海を見に行く機会がなかった。小板は中国山地の頂点近くにある、どちらの海にも60-70キロは走らなくては行けない。体力が落ちてからは久しく行けなくて、何とか気力、体力がある間にもう一度海を見たいと思っていた。

今日、3女の律子君が暇が出来たので連れて行こうかと誘ってくれた。午後で気力が落ち始めていたが彼女も仕事の隙間を作ってのこと、好意には従わなくてはと彼女の自動車に乗り込んだのだが。

10年あまり前の元気な体なら気にもかけなかった益田の海は遠かったね。 途中で止めるわけには行かないし、体力の限界だった。それでも、たどり着いた益田の海は最高だった。市街から高津川を渡って2-4キロで萩につながる国道9号線は10キロばかり海岸に沿って走る、そこは日本海、遮るもののない大海から波が押し寄せてくる。

牧場をはじめて何度も困難に行き当たった、精神力が強くない私は止めようと思ったことは何度かあった、その都度、この海を見に来たものだ。日本海の荒波が後から後から絶えることなく押し寄せる、海岸で砕け散っても、次の波が押し寄せて。はじめたからは命のある限り追い続けよと教えているようにね、その波頭を見続けているともう少し頑張ってみようと思ったものだ。

あれから何十年たったのか記憶はさだかではないが、この海の押し寄せる波に何度も勇気をもらった、もう少し、もう少しとね。その益田の海は懐かしくもあり、厳しくもあり、そして私の先生でもある、最後まで全力で生きよと声をかけてくれた心の師だった。

私は地球という自然の中に生きている。生まれてくるのも、この世を去るのも私が決めるのではない、総て自然の命ずるまま。でも私は自然と会話ができる感性を持てたと思って生きた。変人見浦と評価するのは貴方の自由だが、一度は視点を変えて自分も自然の影響下にあると考えて見ることは出来ないか。考え方が広がるかもしれない、見えなかった幸せに気付くことができるかも。

2020.11.6 見浦 哲弥

2020年12月1日

怨念

あれは共同経営の後始末で走り回っていた頃の話だ。理想に燃えて多角経営を共同で始めたのはいいが相手が悪すぎた。義弟のHが逃げの名人とは知らずに家内の弟だからと一方的に信じたのが間違いのもと、自分の不明が原因だから誰も恨むところはなかった。しかし、押し付けられた借金の山には苦労したな。

その折に出会った小さな出来事の一つ。

牧場の開設の話を聞きつけた農機具メーカーのセールスマンがやってきた。「牧場を開設中というので機械の売り込みにこさせてもらった、お隣で実演会を開くのでお宅も見て購入を検討してほしい」と。

正直、逆さに降っても、そんな資金はどこにもない、見るだけならと言っても可能性のない期待をもたせるわけには行かない、私の信条に反すると正直に内情を話してお断りしたんだ。

実際に実演会があったかは記憶はないが、何日かして、そのセールスマンが話を聞いてくれとやってきた。

私は「貴方にはうちの事情をお話してお断りしたはず」と答えたら「今日はその話ではない。胸の内を誰かに話さないと収まらない。是非、少しばかり時間を割いてほしい」との頼みで聞くはめになった。

私が気が付かなかったが実演会は実際にあったらしい。そして今日は売り込みに行ったというんだ。ところがお隣さんはもう他のメーカーに注文したから用事がないと言われたと、悔し涙を流しながら話す。 勿論、 競争の時代だから、価格が折り合わないとか、機械の適合性とか、様々な条件があって買う買わないはお客さんの自由だが、実演会までやらせて一言も挨拶もなくて他社に乗り換える、これには我慢ができなくて、人間のやることではないと、誰かに胸の内を明かさないと収まりがつかなくてと。実演会は当時の金でも10万円以上かかったとか、懸命の売り込みだったのに商品の欠点や価格の折り合いでキャンセルなら諦めもつくが一言もなくて、他社に決めたからお宅からは買わないは酷すぎると。

私は昔、ヤンマーの舶用エンジンのセールスをしていたことがある、付き合いのあった網元の中には空約束で裏切られたことも何度かある、そんな網元は最後は破産して無一文になって路頭に迷った、お隣も必ず破綻する、見浦さんにはこのことを覚えていてほしいと。

うっぷんを吐きだして少しばかり気分の収まったセールスマン氏、「ありがとありました」 と礼をいって帰っていった。見浦牧場の再生に苦闘の連続の毎日で忘れていたが、セールスマン氏の予言どうり、お隣が崩壊するのには20年の時間は必要でなかった、家族は崩壊しー人ボッチで酒で気持ちをまぎらわす、そして「どうがーしてかいの一」と言いながら敗残の身を晒して生きた。

私は、セールス氏のあの悔し涙の顔だけは忘れることができない、「見浦さん、貴方は本当の話をして断った、だから開いてもらいたいと寄った」、今でもあの時の顔は思いだす。

人間は誠実に生きるのが基本、自己中心の一時逃れの生き方では資格はない、でもそんな人が案外多くてね。

お隣さんは「なして、わしゃー運がわるい」と世間を恨んで死んだが、あの世なるところでこの話を思い出したら、今度は真面目に生きてほしいものだと思っている。

2020.7.24 見浦哲弥


2020年8月23日

父 見浦弥七 1

自分を語るときに、父見浦弥七を真っ先に記述しなければいけないのに、彼のことは散文的に文章のそこここに述べるに留まりました。それは、私のつたない表現力では描ききれない、大きな大きな人だったからです。素晴らしい人でした。そして、優れた点も欠点も合わせ持っていた大人物でした。見浦家は2代おきに変革が現れるという言い伝えがあります。人間の質もその法則に従うとしたら彼は偉大な人間でした。もっとも欠点も偉大でしたが。

しかし、そろそろ、この話も書き始めないと私の時間は残り少なくなりました。書き終わるまでには、長い時間が必要になりそうですから、老骨に鞭打って頑張るつもりです。

彼は祖父見浦弥三郎の1人っ子として生まれました。もともと頭がよかった彼が農夫でなく、都会人として歩き始めたのは、見浦家の内部事情が影響しました。 私の曽祖父見浦亀吉は頭の良かった人だと伝えられています。明治の終わりに広島ー益田間に国道191号線が建設され、小板が山奥の寒村から、国道沿いの集落に格上げになった折、その路線が通るのが深入山の南側か北側かで広島県と争ったといいます。1車線の砂利道とはいえ牛馬しか通れない古道がトラックやバスが走る車道になるのですから、当時としては大変革だったのです。

その重要性を、中国山地の小さな集落の、文盲の爺様が直感したというから凄いことです。ところが彼は役所から来た文書が読めない文盲、息子の弥三郎に読んでもらうのだが、彼は要点だけ読んであとは省略する、悔しがったそうですね。そこで考えた、孫の弥七は頭がいい、勉強させて弥三郎の代わりをさせよう、孫ならば素直に俺の言うことを開くだろうと。もともと勉強好きだった親父さんの環境がそれで一変したのだとか。それからは猫の手も借りたい農繁期でも勉強をすると言うと別扱いだったそうで、その話はよく聞きましたね。

もともと勉強好きだった弥七は爺様の後押しが始まってエンジンがかかった。当時は義務教育は小学校は4年制、その上は加計に高等小学校があって2年、これには授業料が要った、しかも民家に下宿してね。出してはもらったが資金が続かなくて中退。それでも負けず嫌いの彼は中退というハンディを独学で切り抜けようとしたんだ。後年、述懐して日く、数学は貧乏人の学問でね、鉛筆と紙さえあれば幾らでも勉強できると。その彼が実力を発揮して認められたのは20歳の兵役で徴集されて陸軍に入ったときから。
当時は国民の男子は20歳になったら2年間の兵役を勤めることが義務だった。特別に身体が弱くない限り兵役拒否は処罰の対象になった。最下等の2等兵で入隊し2年で1階級進んで1等兵で除隊する。義務でね、明治の初期に定められた兵役制度は欧米の列強に伍して生き残るための制度だった。

ところが親父さんは2年の兵役が終わって除隊する時は将校に任官していた。7階級昇進していたんだ。陸軍工兵少尉見浦弥七とね。 これには小板の人達は驚いた、いや戸河内が、いや広島が。この年、一年志願と呼ばれたこの試験に合格したのは全国で3人、その1人だったのだから驚くのは当たりまえ、その人物が上等小学校中退の学歴だけと来たのだから。

この1年志願の制度は他の文章でも紹介したので簡単に記述すると、 日露戦争のときに作られた将校の緊急補充のために兵隊の中から優秀な人材を発掘して対応した制度だったんだ。
ところが父が受験した頃は将校の不足はぼ解消していて、制度だけが残っていた。従ってその内容も随分厳しいものになっていたとか。そんなわけで、その年の合格者は全国で3人だったと。

除隊してから中等教員数学科の国家検定に合格、30何年の教員生活が始まったのです。 最初に奉職したのは広島第一中学校(現在の国泰寺高校)、牛田に住居を借りて住んだ、遠縁の柴木の岡本さんが広島で工務店を始めた時に、資金作りに少しばかり手伝いをしたとかで、後日私も可愛がってもらった。その関係で岡本の奥さんから、その頃の父の話を聞くことが出来たのです。その頃の父は最初の奥さんとの二人暮し、奥さんは小板の西岡の娘さんだったとか、子供はいなくて、勉強好きの親父さんは勉強に興が乗ると1週間ぐらいも口も聞かずに机に向かっていたとか、そんな話は多くあったな。
その最初の奥さんは早く亡くなられたらしいが、その詳しい話は開くことはなかった。

広島の次の奉職先は熊本の県立第一中学校で、それから福井の第一中学校 (現在の藤島高校) で福井中学校のの教頭から三国高校の校長まで13年勤務したんだ。そんな関係で福井第一高等女学校の家庭科の先生だった野村淑と恋愛、結婚したのだという。彼女が私の母である。野村家は女ばかり七人の姉妹、従って長女が婿を取って野村家を継ぐということが決まっていた。その淑が野村家を出るというので大騒ぎになった。勿論、裁判官だった爺様の定吉は絶対反対、広島の水飲み百姓のせがれに野村家の跡取娘をくれてやるわけにはゆかないとね。

野村家は陪臣とはいえ、殿様の松平春鎌公に直に進言ができる名家、ドン百姓とは身分がちがう、まだ土農工商の身分制度を引きずっていた時代だったから身分違いだと。それでも日頃おとなしい淑はこればかりはと1歩も引かない。定吉爺さん福井から二日もかかる小板に自分で調査にやってきた。彼は退官して公証人役場を開いて成功した才覚人、調べることはお手の物、財産の調査から家系、風評まで調べたんだとか、小板の古老も調査があったことは覚えていて話してくれた。

結果は百姓とはいっても、ただの百姓ではないらしいし、資産もあるらしい、やむを得ないかと結婚を許したとか。ところが野村家も定次が死亡後様々な問題が起きて、その解決に親父が東奔西走、その私心のなさが野村の姉妹の信用を得たのは後の話。

私が小学1年の時、野村の祖父、定次が死んだ。お葬式が盛大でね、福井市の有力者の一人だった事を記憶させられた。焼香の順序が私が筆頭でね、足が震えたのを今でも覚えている。

ところが祖父には2号さんがいてね、子供がいた。いわゆる庶子といはれる存在だ。当時は男子相続の時代、野村家が2号さんに乗っ取られると、大騒動になった。親父さんがこの後始末で東奔西走していたのを思い出す。親父さんは、こんな大人の世界のことも子供の私にみんな話してくれた。あれも家を守るための布石だったかも。そして私はこましゃくれた子供になった。

2020.5.3 見浦哲弥

2020年5月29日

思いもかけず可部の町

帯状疱疹で入院した市民病院の4階から可部の町を見ている、そして過ぎた人生を振り返って記憶の中の可部の町を思い出している、子供の頃、少年、青年、若者、初めて自家用車を持った頃と、長かった人生の折々に触れた可部が走馬灯のように思いうかぶ。

最初の記憶は福井から毎年夏休みには小板に帰った。広島の相合橋のたもとの左官町から出ていた、屋根と後ろに荷物を積むところがあった小さなフォードの三段峡バス、太田川に沿って延々4時間(記憶では)、終点は八幡のよもぎ旅館前だったと記憶しているが定かではない。

このバス旅行は母親には苦難の旅だった。小さなバスが時には天井の荷物の枠まで人を載せて煙を吐きながら坂道をのぼる。体の弱い彼女が車酔いで苦しんでいたのを覚えている。
広島の市街を外れると1車線の狭い道路、それも舗装道路がすぐ砂利道になって、揺れながらひたすら可部の町を目指して走り続ける。両側に家並みが続くようになると可部、ところが町の真ん中で道路が鍵の字に曲がるところがある。そこで対向車に出会うものなら大変、運転手が高度な運転技術を発揮しないと離合できない、スリルだったね。その曲がり角に大きな背の高い石灯龍があったのが記憶に残っている。

可部の町を外れると現在の八千代を目指す道路と太田川の上流を目指す道路に分かれる。これからが狭い砂利道を太田川の上流を目指してひたすら走る苦難の道路になるのだ。
長い直線道路が亀山まで4キロあまり続く、歩いても歩いても終わらなかった道路、やっと終わると飯室に越す峠を登る、太田川沿いにたどる道は曲がりくねって距離が何倍にもなる、それで苦肉の峠越し、小さなバスは青い煙を吐きながらよじ登ったね。力が足りなくて登れなくなると男のお客さんはバスを降りて後押し、思い出しても気分が悪くなる風景だったね。都会人の母はバスの揺れとガソリンの匂いで車酔、青い顔して耐えていた、昨日のことのようだ。峠を越えて飯室をすぎると曲がりくねった太田川に沿って延々と川端を走る。途中に2箇所ほど手掘りのトンネルがあって道路のトンネルは珍しくて印象が深かった。それからが加計、それからも役場のある戸河内までは30キロもあった。

長い川沿いの悪戦苦闘の道が戸河内で終わり、それからはひたすらの登路、何しろ280メートルの標高から890メートルの水越峠を越さないと小板にたどり着かない、その間25キロ、オンボロバスが悲鳴を上げながらひたすら登る、何時間かかったろうかは、記憶の彼方である。
峠を過ぎ、上田屋なる一軒家を過ぎて1キロの谷間を抜けると、一望の田園風景が広が
る、最近のウォーキングで訪れる都会人が「えーところじゃー」と感嘆する平和なミニ田園である。

今でも私の記憶には、大きな茅葺きの農家の広い縁側から前深入が霧の中から現れて、やがて一望5ヘクタールの水田に一面の稲の葉が風にそよぐ風景、子供心に深く食い入った自然、それが小板だった。

家の前の小さな小川、色んな魚がいてね、 ドロバエもいた、ゲンゴロウもいた、都会の福井にはなかった自然、まだ生きる厳しさを理解できていない子供には天国だった。

80年も彼方の遠い思い出、はからずも入院して4階の病室から、変貌して様相の変わった可部の町を見下ろしながら、過ぎ去った様々な思い出をたどって、人生を振り返った。生きるということは、そんな時間も必要だよと教えられているように。
そして母の「テッチャン、人間は真心が大切なのよ。それがわかる人になって」の最後の一言が蘇ってきて。

遠い遠い過ぎ去った時間を思い出させてくれる可部の町、変貌を遂げて昔を偲ばせるものは少ないが、私には大切な記憶の中の街なんだ。

2020.3.10 見浦 哲弥

2019年3月3日

私の自動車遍歴

私が住む小板は広島市から約100キロ、昔風にいうと25里、中国山地の分水嶺近くにある、瀬戸内海より日本海に近くて益田市まで70キロ(これは最近の話)私の少年の頃は無舗装の一車線がいくつもの峠を越えてやっと海にたどり着いた、それでも瀬戸内海よりは近かったね。

そんな中でT家にイギリス製のマチレスなるオートバイが入った。荷物を積んで走る車ではないが、人一人を後ろに乗せて走る。積載量はわずかでもスピードが桁違い、 50キロや60キロの荷物を簡単に運ぶのを羨望の目で眺めたものだ。暫くして自転車につける補助エンジンが発売された。外国製ではないので努力すれば庶民でも何とか買える値段、我が小板にも2台が入った。 1台はホンダのカブ号、まだ幼稚なエンジンでなかなか始動しない、エンジンが動くと「かかった」と大喜びをしたものだ。
都会の復興が始まると中国山地の林産物の需要が増えて、小板にもT家が500キロ積みのダイハツの3輪車トラックを、 S家がマツダの1トン積3輪トラックを購入して山仕事に利用し始めた。小板のモータリゼーションの始まりである。

親父さんから90アールの田圃を任されて独立はしたものの私達は貧乏のどん底、自前の足をもつ余裕はない。でも時代はモータリゼーションの夜明け、他家の自前の交通手段に羨望は増すばかり、その折、友人が広島の取引先で軽三輪トラックの中古の出物があると伝えてきた。値段は 13万円、新車が20何万円だと記憶しているが、その話に飛びついた。そして我が家にも自前の交通手段がやってきた。これが見浦家のモータリゼーションの始まりである。でもとんでないボロでね、マツダが競争相手のダイハツのミゼットに対抗するために作った、性能より外観という、良心を疑われるような車だった。
丸ワッパの2人乗り、300キロ積みの荷台があって、故障がなければ夢のような便利な車だったが、今なら犯罪になりそうな品質だったね。360ccのⅤ型2気筒空冷エンジンで小さな冷却用のファンがあってね、公称13馬力、非力でね、虫木峠を登れない。休んでは情カをつけて一寸ずりでよじ登る、スバルのR360は乗用車ではあるが4人乗って道路を走るのに何ら問題はないというのに。性能の差に呆れて、マツダのセールスマンに聞いたことがある、同じ360CC なのにどうして力が違うのかとね、その答えが「私達もその理由がわからない」と。それからは マツダにファミリアが登場するまでは自動車会社としては敬遠したね。

親父さんが癌で広大病院に入院した時に、看病と大畠(オオバタケ:見浦家の屋号)の農業と二つの仕事をこなす羽目になった。そしてボロ車ではあっても軽三輪は広島で看病をして夜中に小板にトンボ帰りの足となったんだが、これが故障の連続でね。パンクはするわ、バッテリーは上がるわ、エンジンは掛からないわ、 大変な騒ぎ。この事はジャッキが別売りで懐具合の都合で購入してなかったから、民家に借りに行くと、返してくれる保証をしろ、など、夜中に泣きべそをかきながらの広島通い。さすがに何とかしないと思い立って我が人生で1度の新車を購入したんだ。トヨタのパプリカ、41万円だったかな、家中の小銭までかき集めて手に入れた車は評判は悪かったがトヨタの歴史に残る名車、安くても走りは本物の自動車だった。水平対向空冷2気筒700cc、27馬力、定員4人を載せて坂道も快調に走ったが、冷房がなくて、冬は寒くて、もう一つの欠点は簡単なハンモックシート、それらを我慢すれば50キロー60キロの連続走行は問題はなかった。ただ2気筒のポトポトと乗用車らしからぬ排気音は頂けなかったが、室内には聞こえてこないし気にすることはなかった。オヤジの退院後はドライブを楽しませてもらったものだ。お巡りさんに「お百姓が乗用車を乗りまわす時代になったか」と変な感心をされたり、最高の車だったね。

しかし、新車に乗ったのはそれが最後、以来、私の自動車人生は中古車のオンパレード、しかも廃車寸前の車ばかりだった。乗用車もトラックも、軽自動車も、そして国産の自動車メーカーの全てに付き合ったんだ。
だがボロ車とはいえ、近代文明の利器である。荷物も運んだし、親父の看病で広島へも通えた、近隣ではあるが見聞を広げることも出来た、研究会に欠かさず出席できて知識を吸収できた。 見浦牧場の自動車はボロ車だったが、大きな実益をもたらしてくれた。たとえ人がどんな批判をしようともである。

そして世の中は自動車の世の中、ウォーキングと称して歩きを楽しむ人たちが異質に見える、そして休日ともなれば軽自動車からスポーツカーまで人影が薄くなった小板を走りすぎる、これが時代の進歩と言うものかと老人は納得している。
現在、見浦牧場はトラック3台に乗用車1台、ミートセンターの律子君の車まで入れると5台の車が乏しい家計から税金を収めて日本国に奉仕している。

2018.11.15 見浦哲弥

2018年12月5日

Sさん

Sさんは私の同級生である、小板に移住した時から松原の高等科を卒業するまでのほぼ4年間、お隣のSさんはクラスメイトだった、おとなしい性格で国語と書き方が得意、悪筆の私など及びもつかない綺麗な文字が書ける秀才さんだった。そろそろ色気づき始めた少年には、まぶしい、眩しい美少女に見えた。勿論、食べるに事欠く没落地主の少年には遠い遠い存在だったのだが。

あれから長い長い年月が過ぎて彼女が痴呆症を発症し施設に入ったと聞いてから10年
以上も過ぎた気がする。先日、八幡の晴さんの姉から晴さんにSさんの容態が良くないから、別れにゆかないかとの誘いに翌日に連れ立って見舞いに行った。帰ってからの報告では、ロも下も管で繋がれていてね、生きていると言うだけだったとの話、華やかだった美人の彼女を知るだけに無残で、天の神様は時たま酷いことをなさると思った。

私にとって異性を感じた女性は彼女が2番め、子供から少年に、そして成人にと時々に心に残る異性は、人生が終ってみると苦楽をともにした晴さんしかいないが、私にもほのかな好意を持った異性は存在したんだ.

福井市旭小学校の2年生のとき、い組の級長に選ばれて授業開始の「気おつけ、礼」の号令をかけるのが級長の仕事の一つだった。終了時の号令は副級長のKさんが受け持って、嬉しかったね。級長は黄色の肩章、副級長は緑の肩章、先生との連絡で教員室に出入りが許されてね、副級長と連れ立って行ったものだ。Kさんは目の大きい明るい顔立ちの女の子だった。80年たっても名前を覚えているから私にとって大切な異性の1人だったかも。

次に異性として女性を見たのはSさんである。6年生の時だから私が早熟だったのか。しかし時は私の多難な人生が始まった時期、男子の友達と違った感情を持っても恋とは違ってほのかな関心だけだったがね。そして彼女は高校に、私は毎朝わらぞうりで草刈りに、この差が屈辱感になり勉強にのめり込んだ原動力の一つだったことは否定しない、若かったからね。

最初に検定に合格したのは20歳だったか。工業高校の電気科卒業の資格、これでは小板を脱出して都会で食べてゆくには力不足、次の高等工業卒業の検定に合格したら彼女のことを考えて、などと妄想したが世の中はそんな甘いものではなかったんだ。結果として最良の伴侶と結婚することになった人生は波乱万丈としか言いようがない。

彼女が隣村にお嫁に行った日、発熱して昏睡状態におちた。日本脳炎の発症である。そして半月生死の境をさまよった。幸い父の教え子の久賀医師が雄鹿原病院の院長で彼のおかげで命を救われた。3日間不眠不休で治療にあたられたとか、失恋?はしたが、久賀先生という生涯の師を得た。今振り返ると私の歩く道はこの道しかなかった気がする。

それからの長い年月、義姉として彼女と会うことは度々あった。お互いに歳を重ねて茶飲み話で「あんたが初恋だったんで」と話してみたいと夢見た事もあったが、その前に痴呆になって私の思い出の中だけのSさんになってしまった。

でも、私の大切な女性の1人だったことだけは変わりがない。

もうすぐ私の人生も終わる。私の人生は晴さんなしでは考えられぬ、大切な人だ。ただ、心の片隅に二人の異性がいた事は否定はしない。そしてSさんが淡い初恋の人だった記憶も心に残っている。
「さようならSさん」

2018.6.30 見浦哲弥

2018年8月11日

腕時計

牧場で作業をしていると腕時計は必須の道具である。私は日頃愛用しているカシオ腕時計が最高だと思っている。何しろ安い、軽くて長持ちがする、そのくせ時間が正確、誰でも身構えなくても買える。貧乏人にも正確な時間を贈り物としたクオーツ時計は日本人が世界に贈った最高の貢献だと思っている。
私が20代の頃、行商のオッサンが衣料品を売り歩いてきた。腕時計もその商品の一つだった。新品あり中古品ありだったが、その高いこと、私には高嶺の花だった。小板の青年のステータスは背広と腕時計とバイクだった。戦後間もない頃の話である。

このクオーツ時計は説明書には寿命は5年とあるが、ばらつきはあるものの7年も8年も動き続ける。寿命が尽きるのは樹脂性のバンドが先である。したがって私のデスクの中にはバンドが切れただけで時間は正確な腕時計が4個も転がっている。バンドだけを購入して取り替えればと思うのだがバンドの価格が新品の時計の6―7割もするのだから取り替える手間まで考えると、つい新品に手を出してしまう。結果、机の中で4個のバンドの切れた古時計が正確な時を刻んでいるという次第。

振り返ると世の中の進歩で様々な事柄が変わった。そして便利になり想像もつかなかったような恩恵を人間に与えた。飯炊きも、洗濯も、衣料品も、昔を偲ぶよすがもない。食品だって冷凍で腐らない、冷蔵庫には冷凍庫が付随しているから、これが当たり前だと思いこんで技術の進歩に感謝の一言もないのは如何かと思うのだが。

私の少年の頃は各家に振り子時計はあった。ネジでゼンマイを巻いて振り子の長さで速さを調節する。高級になるほど一回のねじ巻きで長い時間動き続ける。我が家の時計は三国から持ち帰った新式だった。それでも一週間しか動かなかった。ところが乾電池が動力のクオーツの電気時計になり一度の電池交換で1年以上動いた。素晴らしいと感心していたら電波時計なるものに変化して自動的に時間の遅れを調整してくれる。今や我が家の時計が”何時何分”と言ったら日本中の時計が同じ時間を示すのだ。それが当たり前だと開発した人々に感謝の思いを一片も持たないのは近代人のおごりなんだろうか?

ともあれ私の生きた短い時間の間でも、様々で素晴らしい進歩があった。60年も70年も年齡の違う孫達の人生ではどんな出来事が起きるのだろうかと夢を見る。しかしながら、老いた私の頭脳は未来の画像を描く想像力は、もはやない。ただ幸せな未来であれと祈るのみである。

2018.2.15 見浦哲弥

2018年7月21日

母の記憶

若くして(44歳)世を去った母の記憶は5人の兄妹の中で私が一番多い。振り返ると私の人生は厳しかったが、引き換えに母の思い出も多い。それは私の幸せの一つだった。でも同じ血を分けた兄妹にその記憶を伝えることは私の義務の一つだと思いついて、この拙い文章を書くことにしたんだ。

昭和16年、三国から小板に帰った日のことから始めよう。あれは確か4月の16日?だった。八幡まで通っていた小さなバスは、松原止まりになっていた。秋には太平洋戦争が始まる年だからガソリンの備蓄が始まっていたのか。

トーチャンがヒロ子さんをカーチャンが乳飲み子だったサチ子さん背負って、男の子もそれぞれに荷物を背負ってね。小春日和の温かい日だった。松原の停留所の奈良津商店の前から3キロほど歩いてオシロイ谷の近道の入り口の山桜が満開だったのを覚えている、しかし記憶はそこまで、急な近道は辛かったんだろうね。

大畠の家は茅葺き屋根の大な家でね。囲炉裏端の大部屋に10ワットの裸電球が一つ、これには親父も驚いて臨時灯を何箇所かにつけたのだが、便所が大変だった。ダヤとよばれた畜舎が囲炉裏端の部屋と壁一つで隣り合う内ダヤとよばれる方式で、そのダヤを取り巻くように小便所と大便所が作られていてね。大きな木桶が埋められてその上に厚板が並べてある、その隙間に用をたす方式だから怖かったね。おまけに、そこには電灯がなかったから、行灯(あんどん)のロウソクに火をつけて恐る恐るゆく。落っこちる危険があったからね、とても一人で行ける代物ではなかった。カナダのサチ子さんも「あれは怖かった」と、恐怖だった。

そんな前時代な環境の中での生活が始まったんだ。水は横穴からでる溜まり水、大木を刻み込んだ水槽に時々ナメクジが来訪してね。煮炊きはガスでなくて囲炉裏の自在鉤に掛けられた鉄鍋と煙突のない竈(かまど)で煙が天井から屋根裏に這い上がる、これが茅葺屋根を長持ちさせている秘訣らしい(福井では都市ガスがあった)。壁1枚で牛馬と同居の劣悪な環境、おまけに蚤君とハエ君とは遠慮なく人間に襲いかかる、除虫菊の殺虫剤を物ともせずにね。おかげでノミ取りの名人にはなったが、その劣悪な環境は都会人のカーちゃんには厳しすぎたんだ。それでも目を閉じると重いダオケ(木造の餌桶)を引きずって牛に餌をやっていた姿が目に浮かぶ。辛かったろうと思えるようになったのは牧場を初めてからだ。子供だった私は懸命に働くカーちゃんの姿だけが記憶に残っている。

確か稲刈りが終わった頃、「首の所にグリグリが出来たのよ」と言ったのを覚えている。「痛くはないんだけど」と話していたっけ。秋口の天候が厳しくなった頃だったから「春になったら病院に行こう」と。

翌年、4月の温かい日に隣の雄鹿原病院に行くとて、お供を申し付けられた。カーちゃんがサチ子さんをおぶって、私がヒロ子ちゃんの手を引いて、一日がかりで雄鹿原病院に行った。10キロ足らずの山道だったが峠が2つあってね、大変だった。

確か、ここでは病名の診断も治療もできない、もっと大きな病院に行ってほしいと言われたとか。帰り道で話した地元のおばあさんに「朝鮮から何時きなさった、日本語が旨い」と言われて憤慨していたっけ。この地方では福井の方言は珍く、私達も学校で言葉がおかしいとイジメられたから。

ようやく、田植えが済んで広島の県病院(だったと記憶しているが)へ行ったんだ。その頃は病気の進行が本人にも判って行く気になったんだと思う。

慣れない百姓で手の離せない親父さんは、私にお供を命じたんだ。勿論、松原までは歩き、バス、市内電車、乗り継いで行った病院の診断は「付添はきているのか」と聞かれて「息子が来てます」と言ったとか、「子供では話にならない、大人をよこしなさい」と言われたと。話を聞いた親父どんが飛んで行って病状を聞いて、もっと大きな病院でなくてはと、親戚の東京の山村病院に連れて行ったんだ。ところが診察をした院長が親父さんを叱ったという。こんなに病状が進行している人間を東京まで連れてくるとは非常識だとね。すぐ連れて帰れ、途中で倒れるかもしれないが一刻を争うとね。その予言どおり広島で動けなくなって、昔、お世話をした岡本さんの二部屋の小さな家を借りて寝付いたんだ。

私は覚えてないがヒロ子ちゃんとサチ子ちゃんは福井の野村に預けられた。叔母ちゃんが迎えに来たのだと思うけれどこの部分は記憶がない。男の子3人は学校があるからと、藤政の婆さまに飯炊きを頼んであって食事の心配はなかったが、オカズが毎日高菜の煮付けばかりで閉口した。高菜の葉っぱを下からもいで煮付けるだけ。でも兄弟3人だけの生活は心細かったね。何日かして戸河内の若本のタクシーが親父さんに頼まれたと迎えに来た。近道をするとてバスのルートとは違う道を走る車に不安で肝を冷やしたのを覚えている、おまけにスペアタイヤを落として探しにもどるハプニングまであってね。それでも広島でトーチャンとカーチャンの顔をみて安心したんだが。

衰弱したカーチャンに少しでも栄養になるものを思っても戦争で自由に物が買えない時代、岡本おばさんが「まだ広島駅で牛乳の立売がある」と言うので達ちゃんと買いに行ったんだ。勿論、数に制限があるから行列に並んでね。うまく行ったら一本づつでカーチャンに2本飲ませることができる。毎朝、にきっさんとよばれた広島東照宮の前の道を広島駅に通ったんだ。ある朝、怖いお兄さんが凄んできた、「お前らが並ぶけー、俺らーの取り分が減った、明日からくるな」とね。恐ろしかったけどカーチャンに飲ませる牛乳だ「はいわかりました」というわけにいゆかない。「おかーさんが死にかけているんだ、それに飲ませる牛乳だけー止めるわけにいかん」と大声で泣いてやった。達ちゃんも一緒に泣いてくれて、大人が子供二人を泣かせていると人が集まり始めて事なきを得たんだ。恐ろしかったが、それからも何日か広島駅に通ったんだ。

病気が進行して痛みに悲鳴を上げるカーチャンに親父どんが医者に「何とか痛みを止めてほしい」と願ったんだ。丁度、私が隣の部屋にいる時、医者が答えていわく、「モルヒネがあるが、それを初めたら10日も持たない」と。

そしてモルヒネの注射が始まったんだ。痛みを感じなくなって何日目かの記憶はない。カーチャンの部屋にタッチャンと信弥さんが呼び込まれて、鮎の塩焼きを一口づつ食べさせてもらっていた。そして「仲良く暮らすのよ」と言い聞かせていた。隣の小部屋に居た手伝いの上殿のおばさんが声を殺して泣いていた。

そして私が呼ばれたんだ。小板のお爺さんが母に木彫りの仏さんを持ってゆくようにと頼まれたのを宗教が違うと断ったことを知っていて、「人の真心は宗教も人種も国籍も年齡も貧富も関係がないんだよ、なぜそれが判らない、情けない」と叱られた。そして人の真心がわかる人間になれと諭された。そして「兄弟仲良く」と。それが母と話した最後になった。確か夕方頃だった。翌朝、目を覚ましたらカーチャンは死んでいた。それからの記憶はない。最後に厚生館(そう覚えている)という大きな火葬場でカーチャンが大きな火炉の鉄の扉に消えた瞬間の絵が頭に残るだけ、小板であった葬式も記憶はない。

小板の葬式に来た律ちゃんおばさんが仏壇の遺骨に花を備えながら、「優しい姉だったのよ」と話してくれたのを覚えているだけ。

ヒロ子ちゃんもサチコちゃん福井から帰っていたが「カーチャンの所に帰る」と大変だったとか、「聞いてくれない」と風呂場で化粧品を壊されてねと。

それから半年後の冬に82歳の弥三郎爺様が息を引き取った。その死に水は取ることが出来たが、それから親父さんの悪戦苦闘が始まって、大畠はどん底に走り込んだんだ。百姓素人の親父さんとカーチャンが居ないと半泣きの5人の子供達の泣き笑い人生がね、今日はここまで。

でも、県病院の帰りに道端の甘酒屋の前で「哲ちゃん、甘酒を飲もう」と言った母に、「甘酒は嫌い」と断った事が生涯、悔いとして私を苦しめた。何故一緒に甘酒を飲まなかったのだろうと、反省しきりだった。

でも兄妹5人、80歳を越えて元気で生きている、有り難いことである。心を残して先立ったカーチャンの願いが私達を守ってくれた、そう信じている。兄妹の中で一番の不肖の兄貴だが、皆が「兄ーちゃん」と呼んでくれるのに甘えて迷惑ばかりかけて一生を終わることになった、「本当に有難う」。

2018.3.24 見浦哲弥

2018年3月25日

蒸気機関車

私は蒸気機関車が好きだ。テレビで蒸気機関車が登場する番組は見逃す事が出来ない。
この遠因は私の生まれた福井の記憶にあるらしい。小板の大畠に戸河内の上殿から手伝いに来ていた佐々木さんという小母さんがいた。弟の信弥さんが生まれたとき、身内同然だった小母さんに手伝いに来てもらったんだ。後年、小母さん曰く、「哲弥さんには参ったよ。少しでも時間があったら汽車を見に行こうと駄々をこねて」と。

福井の住所は駅の裏側にあった。ほんの少し歩くだけで福井駅の操車場につく。昔は大きな駅には必ずあった広い操車場、鉄道の進化で見られなくなったが、その風景は脳裏に焼きついている。
操車場の古枕木の柵にすがって何時間も汽車を見ていたんだとか。動輪4個だけの豆機関車が長い貨物列車から貨車を1両ずつ切り離して引いてゆく。その先にある小さな盛り上がりに押し上げると”トン”と坂の下りの方に押し出す。そこで貨車は自力で走り出すんだ。貨車のブレーキところには赤と青の小旗を持った操車係が何時の間にか乗っていて、旗を振り振り坂道を下るんだ。下った先にレールの切り替えのポイントがあって、行き先の貨物列車の後尾めがけて走る。連結の瞬間は赤旗が振られて「ガシャン」と大きな音がして完了。
その作業が面白くて、今度の貨車はどっちへ行くのかと懸命に眺めたものなんだ。

福井は裏日本、鉄道は北陸線、表日本の東海道線、山陽線と違って2級鉄道だった。従って1級線で勤めを果たした機関車が勢揃いで、コブの数、形、動輪の数、大きさ、デフェンダーのあるなし、先導車輪は、ないのから2軸まで、炭水車がある、なしなど、様々だった。だから福井の操車場は私の好奇心を満足させる絶好の教室だったんだ。

福井の見浦では夏休みになると父の故郷の小板に帰るのが恒例だった。広島から小板までの小さなバスは嫌いだったが、広島までの汽車の旅は楽しかった。2級路線とはいえ北陸本線は幹線、牽引する機関車は骨董品ではない。おまけに福井から敦賀に出るまでに今庄という山越しがあった。現在は北陸トンネルが貫通していて10分足らずで通過してゆくが、当時はスイッチバックで前進後退を繰り返しながら、その峠を越してゆく。あれから80年足らずで、このスイッチバックは数少なくなって、貴重な、その一つが当県の備北にある、孫には見せたいものの一つである。

北陸線は琵琶湖の北端、米原で東海道線に接続する。ここからは東海道線、大阪からは山陽線で、日本の新鋭の機関車を見放題。楽しかったな。大きな機関車が長い客車を引く、力強いし頼もしいのだが煤煙も凄くて風向きによっては、煤や石炭の微粉が窓から飛び込でくる。車窓の景色に夢中になってしがみついていると鼻の穴が真っ黒になってね。福井から帰るのには広島で必ず一泊するのだが、まず風呂、昔の汽車旅行でお風呂が欠かせないのは、この煤煙のおかげ。

昔は現在のようなトンネル掘削の技術がなかったから、長いトンネルは少なかったが、それでも鉄道の特性でトンネルは多かった。トンネルに入る前に必ず汽笛がなる。急いで窓を閉めないと車内が煤煙で一杯になる。昔の汽車旅行には現在と違った世界があったんだ。

広島の手前に西条という盆地がある。その間の瀬野川駅と八本松駅の間に急な坂道が続く。山陽線の新型機関車でも、この坂道には苦闘した。八本松からの下りは快調に走るものの、瀬野川駅からの登りは応援の機関車が後ろにつく。そして汽笛を合図に西条に向かって、前ひき、後押しで登ってゆくんだ。もっとも、これは敗戦から立ち直りはじめてからのこと。敗戦直後は機関車が1両であえぎながら辛うじて登ったんだ。何の用事でその汽車に乗車したかは記憶にないが、満員で客車のトイレに入れないので、飛び降りて線路わきで用を済まして、走って再び飛び乗れるほどのスピードだったと言えば理解をしてもらえるだろうか。

瀬野川駅には、そのために沢山の機関車がいたね。福井の機関区とは違って最新の蒸気機関車がね。世が世なら、そんな私はいっぱしの鉄道マニアになっていたと思うのだが。

日本が高度成長期に突入すると、蒸気機関車は見る見る姿を消して、公園の片隅にひっそりと残骸をとどめるだけになった。そして世の中は、ディーゼル機関車、電気機関車、高速電車とめまぐるしく進化をとげたんだ、そして現在は新幹線と高速道路が主役、私の昔話を聞いてくれる人はいなくなった。

でも、私に頭の中には機関車の汽笛と蒸気の音が鮮明に記憶されている。

テレビの画面に機関車がでると目が釘付けになる、私は85歳の鉄道マニアなんだ。

2015.9.15 見浦哲弥

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