一貫経営論争
丁度その頃、黒牛が小型耕うん機の急速の普及で急減し、役牛から肉牛への転換が提唱され、どの様な経営方式が、また黒牛の改良が、産業として生き残るために必要かと、盛んに議論されていました。
昭和38年から昭和42年まで 京都大学の上坂教授と広島県農政部長の中島さんと間で、「和牛の一貫経営論争」がおきました。資本回転の遅さと、投下資本の大きさなどの問題から、「子牛生産の繁殖農家と、育成肥育の肥育農家の分業体制が基本である」とする上坂理論と、家畜商による中間マージンの解消と、飼育過程による情報の還元による経営の合理化と向上を実現するためには「繁殖と肥育を一つの経営でカバーする一貫経営を目指すべきである」とする中島部長の理論が「畜産の研究」誌上で闘わされました。これが業界では有名な、かの「一貫経営論争」なのです。
一貫経営実証試験
その中島理論を実証するため、広島県は油木種畜場で2年間の実証試験をおこないました。 試験の内容は、利用する耕地は10ヘクタール 、繁殖母牛は30頭、肥育方式は出荷月齢19ー20ケ月の若令肥育方式で、子牛や育成牛を合計した総頭数90頭、作業員2名で 技術的、労力的、経営的に成立するか否かを確認する試験でした。その2年間の試験の間に何度も油木種畜場にお伺いして勉強させて頂きました。その折りに榎野先生、佐田先生を初めとして、当時日本和牛界の一方の雄と言われた、広島県の技術陣の方々とお近ずきになれました。そして、その試験の結果は、何とか経営が成立つのではないかとの答えがでたのです。
しかし、問題もありました。種畜場のある油木町は、広島県の黒毛和牛の本場「神石牛」の中心地で、試験の母牛もいい牛が揃っていました。どうしたらそんな牛が持てるか夢のようでした。私達がそれに匹敵する牛群を育て上げるには、それから30年の年月が必要でした。
問題はそれだけではありません。10ヘクタールもの耕地の年間を通じた耕作、100頭近くの牛の管理など、機械化なくしては成り立ちません。油木種畜場で使われていたのは、20HPの国産のトラクターを中心として、プラオ(すき:plow)、デスクハロー(円盤砕土機:disk harrow)、ツースハロー(歯かん砕土機:tooth harrow)、モアー(刈り取り機:mower)、サイドレーキ、ヘイメイカー、トレーラー、カッター、マニアスプレッター(堆肥散布機)、等で、当時の私達にとっては夢のまた夢でした。なにしろ10万円もだすと平均以上の子牛が買えた時代です。そのトラクターは120万円したのですよ。ヘイメイカー、スプレッダーは外国製で、為替レートが360円の時代ですから想像するのも恐かった。
一貫経営への思い
それでも挑戦してみたかった。若かったこともあったのですが、なにより、これまでの慣行経営を敢然と批判した、中島理論に夢を感じて、人生をかけてみようと思った。私も素晴らしい時間を持っていたんですね。
当時、見浦牧場の耕地面積は田畑併せて1.8ヘクタール、牧場と言うには程遠い規模でしたが懸命でした。
120㎡の角型サイロを内蔵した畜舎をS39年に建てました。その当時は畜舎を建てて牛を導入したら、即、畜産経営が成り立つと思っていたのですから、甘いと言えば「盲蛇に怖じず」の言葉そのままでした。
昔の小板では、農家には和牛は役牛として必需品でした。大畠(オオバタケ:見浦の屋号)でも常時2ー3頭の牛と2頭の馬がいました。ですから、牛の飼育は素人ではないと思い込んでいました。とんでもない!なまじそんな経験などは障害になるほど、産業としての和牛飼育は異質な世界でした。次から次と起こる問題は、いま考えると、よくぞ乗り越えてきたものだと感慨無量になります。
その当時を思い出すと、戸河内でも百百君(ドドよむ)、中前さんなど仲間が20人位いました。油木の試験場に視察にも行きましたし、山県郡の連絡会にも30人ほど集まって 新しい和牛経営を築き上げるのだと、気勢をあげたりもしました。ですから全国ではかなりの数の若者が、中島理論に傾倒して走り始めていたのです。ところが、上坂先生が指摘された通り、油木方式は資本の投下量が大きく、資本回転は農業の中でも最も遅く、利潤も小さいとくるのですから、自己資本の少ない農家にとっては、長い辛い時間との闘いなるのですが、それを何人の農家が知っていたのでしょうか。
技術的には相反するテーマを一つの経営の中に持たなければならない矛盾、すなわち、繁殖育成は動物の生理に忠実に飼育しないと成績は上がらないし、肥育部門はいかに家畜の能力をとことん利用し抜くか、この点は理論からは想像もつかない大きな壁でした。
しかも 小板は新しい理屈や方式には、強い抵抗をする山村共通の保守的な風潮が色濃く残るところで、話し合う仲間もなく、孤立して新方式の牛飼いに挑戦するのは精神的にも苦痛でした。
貴方は踏み込み式の厩(ダヤと言いました、)を覚えていますか?地面から1ー2メートルほど掘り下げて1年中敷料を足して行く方式で、農閑期の冬に腐った敷料を堀りだして田圃までソリで配る、早く言うと畜舎と堆肥舎とが合体したような物です。これが大変な代物で、牛は堆肥の上で生活している。夏はガスと下からの熱で、畜舎の中は灼熱地獄になります。いま考えるとよく牛が生きていたものだなと、感心するような環境です。おまけにそれが内ダヤといって、一つ建物のなかに人間と同居しているのだから大変です。匂いはひどいし、ハエが真っ黒になるほど食べ物にたかるし、そんな世界がつい50年ほど前は当り前でした。そんな牛飼いからすると、中島方式の和牛飼育法は異次元世界に違いありません。挑戦する私には今までの経験などないに等しかったのです。先日広島での勉強会で元畜産会の鬼塚さんが「見浦さんは人の通った事がない道を歩いた」と話されたそうですが厳しい道でした。
一貫経営への挑戦
昭和40年、共同経営の和興農園を解散して個人経営に戻り、以後和牛経営を主力としました。2年続いた義弟との共同経営を解消したとき、これからどの様に生きるべきか大いに悩みました。交通の不便な寒冷地の小板では、和牛の他は考えられませんでした。そこで昭和41年「見浦牧場における和牛一貫経営について」と題して 私は、考え方と試算をレポートとして書き上げました。いま読み返すと幼稚なものですが、農民が独自の立場で数字を挙げながら新しい農業を主張をしていると、評判になりました。ある県のお役人は「プロローグがあってエピローグがあって飼料生産から飼育計画表まで作られている」、と感心して頂きました。中でも牛の生産予測表は見浦独自の発想があった由で、それからは「計算尺を自由に操る農民」と紹介されるようになりました。試行錯誤はありましたが、日本の和牛界に見浦牧場があると言われる、独特のテーマ・農民哲学の出発点でした。
では、その試行錯誤の歴史を綴ってみましょう。それらの問題の解決の中から次の発想・理論が生まれてきたのですから。
和牛経営にとりくんで2年目の春、一冬の敷藁を出すのに悪戦苦闘しました。藁を切らないで長藁のままで踏ませたのですから、汚い巨大なフェルトが出来上がったと言った形です。それを、肥堀(コエホリ)と称する丈夫な三鍬(ミツグワ)で、一鍬一鍬掘り起こして、一輪車に積んで屋外に積み上げる作業を、一週間繰り返しました。4ー5頭しか居なかったはずですが、随分辛い仕事だった気がします。今から考えると、ウソと思うような話ですが40年前のことです。
餌の確保も一筋縄ではいきません。1.8ヘクタールしかない耕地で、より多くの飼料を確保するには、デントコーン(トウモロコシ)しかありませんでした。幸い暗渠(あんきょ:地下水路)排水をすませた水田が多かったので、可能な限り作付しました。よく出来ましたね。梅雨が上がって晴天が続き始めると音を立てて伸びました。背丈が3メートルにもなって、戦時中に七塚原種畜場で働いていたときと同じ様な出来ばえに大喜びでしたが、それからが大変でした。手で刈って 耕うん機で運んで、カッターで切って、サイロに吹き込む。人手から人手の作業で重量物でもあり、時間がかかる、時期がみるみる過ぎてコーンが枯れ始める、台風がきて倒れる、いやはや大変でした。
他にも問題がありました。ギシギシが増えたのです。もともとこの地帯には、スイバとウシスイバと呼ばれるギシギシがあつたのですが、本名がエゾノギシギシと呼ばれるウシスイバが、牧草の種子に混じって進入したのです。世界中で牧草地の大悪草と呼ばれるだけあって、見る間に広がりました。私達はまだこれの対応策を持っていませんでしたから、北海道から買った「ギシギシ抜き」なる鍬で一本一本抜いて歩く人海戦術で対応しました。しかし切れた根っこからも切れた根の数だけ新しく生えてくるという強烈な生命力。子供達に一本一円の懸賞を出したところ、金額的にこちらが悲鳴をあげました。夏の間林間学校にきていた女子商の農業実習でギシギシ取りをお願いしたら、種は落ちるし根は切れるし、翌年ますます増えて参りましたね。現在の方式(トウがたたないうちに根元を切って、根元に除草剤をまく)になるまでは試行錯誤と積み上げの連続でした。これなどほんの一例に過ぎません。おいおい話しますが、新しい仕事と言うものは、口で話すような簡単なものではありませんでした。
念願のトラクター導入
昭和46年、ようやく待望のトラクターが入りました。クボタL240、24HP。隣の義弟のところでは、4年も前から18HPと38HPのトラクター2台体制でしたから貧乏な私達の悲願でした。でもその作業機が買えません。トラクターだけではタイヤの付いた発動機に過ぎません。
牧草地の開拓
45年、小板にあった国有地110ヘクタールの開墾が始まりました。昭和27年、戦後の食料不足時代に、緊急開拓事業として小板地区で強制買上げされた土地でしたが、くわしい調査をしたら水田としては利用出来る水不足する事が判明して、長らく利用しないで放置してあった土地です。これも話せば長い物語になるので、またの機会に譲るとして・・・・広島県による開拓が始まりました。いいだしっぺの私の割当地の、上(カミ)の家の後ろの土地が最初でした。ブルトーザが何台も入ってみるみる広い畑が(外国に比べると小さなものですが)出来上がって、何から何まで新しい事ばかりでした。
種まき
初めに引き渡された畑、8ヘクタールに牧草の種を蒔きました。最初に買ったブロードキャスター(粒状肥料を撒布する作業機)で知恵を絞って種をオカクズと混ぜて蒔きました。本来肥料をまく機械ですから頭を使わないとうまく撒けません。
その後は土と蒔いた種を混ぜるためにハローをかけなければなりませんが、山から木の枝を切り出して、柱に結び付けてトラクターで引っ張り回しました。それから鎮圧と言う作業をします。表面に重いローラをかけて、土を押さえて土中の水分が、毛細管現象で種子の近くに集まり易くして、発芽を促す作業ですが、専用のローラは買えない。そこでドラムカンをつないで、心棒をつけ、水をいれてローラの代わりにしました。
草刈
そんな代用品の仕事でも牧草は生えて見事な草地になりました。次は草刈です。ところが昔からの日本の鎌は牧草が苦手です。そこでオーストリア製の大鎌を買い入れました。大変よく切れるのですが、小柄な日本人は、体格の大きい外国の人とは体力が違います。疲れて広い面積を刈払う事などできませんでした。ところが面白いことを発見しました。それは刃物の切れ味に関しての、日本人とヨーロッパの人たちの考え方の違いです。鎌だけかも知れませんが、日本の鎌は刃先と草の滑る長さが短く、西洋の大鎌はその滑り量がとても大きいのです。従って形の違いだけでなく、材質も焼き入れの刃付けの方法も違ったのです。いつかこの話も詳しく話したいものですね。
その翌年、レシプロの小型モアー(草刈機)を買いました。七塚原の牧場で働いた20年前は馬2頭引きのレシプロモアーを見て、すごいなと感心したのですが、小型とは言えさすがは機械、能率は当時の見浦牧場の必要以上のものでした。
乾燥
しかし、草を刈ってから後はまた手作業です。手作業の道具の一つはヘイホークでした。堆肥を扱うマニアホークは子供の頃から馴染みがありましたが、草に使うヘイホークは動員で牧場で働いた時に、初めてお目にかかった代物です。早速3本買いましたね。それを使って刈り取った牧草を反転して乾かして集める。夏のお天気でも3日も4日もかかりましてね。晴天がつづけばいいのですが、小板は知る人ぞ知る多雨地帯。ほとんど乾いた干し草を、雨で濡らすそんなことが続き、泣くに泣けませんでした。
雨が来そうになると、急いで山積みにしてテントを掛けるのですが、これも大変な仕事で、現在の様に気象衛星があって正確な天気予報がでるわけでなく、ラジオの天気予報と、故老のいい伝えの雲の流れを見ながら判断して、作業をするのだから、当たるも八卦当たらぬも八卦状態でした。
あるとき夕方に急に天候が悪化しました。干し草を集めて山積みを始めたのですが、その日は量が多くて夜明け近くになりました。おまけに天候は良くなりはじめて、一晩中無駄な仕事をしたのです。へとへとになりながら、東の空が明るくなるの見た気持ちは今でも忘れません。こんな事をして本当に和牛の牧場を作ることができるのだろうかと、気の強い私がそう思ったのですから、幼子を抱えた晴さんは随分心細かったでしょうね。
そこで何はなくてもと、草を集めて列にしたり反転したりする「ヘイレーキ」という作業機を、なけなしのお金で購入しました。当時36万円、オランダ製で、2組のホイールに掛けられた、爪のついたチェーンが回転して草を集めてゆく、そんな機械でした。その説明書の中に何度も「ウインドロー」と言う単語がでてくるのです。それが気になって色々調べました。やっと「ウインドロー」が「風」と「列」の熟語と気がついたときは嬉しかった。ところが、それに大きな意味が含まれていたのです。
日本の干し草は、日光に当てて乾かすのです。ですから表側が乾いたら返して裏側を日にあてる、その作業の繰り返しでした。ところが「ウインドロー」は風で乾かすのです。草をふんわりと盛り上げて列を作る、風がその中を通って水分を取る、列が草の重みで低くなると、つくり直して又フンワリさせる。その繰り返しだったのです。それが判ると干し草作りの能率が面白いほど上がりました。
干草作りから得たもの
この出来事で、大事な事を学びました、それは一つの事柄でも、色々な見方、考え方があると言うことです。それからは、問題に行き当たると必ず何通りかの答えを探す習慣が付きました。小さな事なのですが見浦牧場の生き残りには、役だっていると思っています。
1998年9月11日 見浦 哲弥
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