卒業後は家に帰って農作業の手伝いをした。地元の小さな農協に頼まれて就職、組合長とたった2人の小さい農協だったが、今でいうセクハラに耐えきれなくなって3月で辞めてしまった。
私の生まれた集落は、広島県の北海道と言われて、冬は2メートルを超える雪に覆われてしまう、20軒ばかりの小さい集落だが、当時はそれぞれの家に後継ぎの若者がいて、青年団で結構、積極的な活動をしていた。その青年団の仲間に入れてもらった。地域の新聞の紙面作り、原紙きり、ガリ刷り、今考えると充実した面白い時期だったと思う。
昭和28年3月 青年団の仲間だった主人と結婚した。
実家と100メートルしか離れていない家だ。親戚でもある彼の家ではあったが、家の中の事は何も知らなかった。
終戦当時の混乱期は、どこの家も大なり小なり苦しかったのだとは思うが、私達のところも例外ではなかった。嫁ぎ先の彼の家は、このあたりでは「分限者」と言われ、かつては田圃も小作にだしていて裕福な家の部類に入っていたようだが、農地開放で小作地はとりあげられ、唯一の収入源であった恩給は激しいインフレのおかげで、雀の涙ほどに価値が下がり、経済的には火の車であったのだ。
20才そこそこの私達に、義父は「結婚を期に独立してやってゆけ」と、 田圃9反、それに雨漏りがする大きな茅葺き屋根の家を任されたのだ。
その日から、悪戦苦闘が始まった。春とともにはじまる農作業、稲の植え付けの準備である。牛の手綱を取って代かきもした。大きな2反もある、爪先立ちして歩かないと股まで浸つてしまいそうな深い田圃に入って、2日も3日も田植えをした。
どんなに頑張っても、稲作りは秋にならないとお金にならない。現金収入を得るために炭焼きもした。雑木の山ではあったが、農地開放でもとりあげられずに山が残ったおかげだ。その山に炭窯を作って炭焼きをした。
昭和29年1月 長女が生まれた。寒い大雪の降った日だった。主人と弟が10キロ離れた八幡まで産婆さんを呼びに行ってくれたが、10時間以上もかかってやっと帰ってきた。産婆さんも、もうかなり年だったと思うが、本当に良く来て下さったものだ。いま思っても感謝感激である。彼の母も、私の母も、早死して居なかったので、子育ては大変だった。風呂が離れにあったので、風呂にいれるのも一大事だった。私が子供と一緒に風呂にはいり、あがるときに大声で彼を呼ぶ。彼は大雪の中、すぐに脱げるようにと下駄をつっかけてやってくる。子供を受け取ると、子供が凍ってしまわないうちにと、必死で母屋に駆け込むのだ。あの当時は男親が子育てを手伝うと言う時代ではなかったが、彼はお襁褓(オムツ)の取り替えなど積極的にやってくれた。
昭和29年春 ボロボロの萱屋根の家を何とかしなければと、思い切って建て替える事になった。向こう見ずな彼は、何も知らないのに山師をやって金を稼ぎ、製材も自分でして費用を節約し、12月に新しい家に何とか入れた。学校みたいな変な家だと悪口を言われたが、少なくとも雪が舞い込む事は無くなった。
そして、また春が来た。
どうすれば収入を増やす事が出来るか、切実な問題だった。彼は炭焼きで腰を痛めてしまった。炭焼きはつらいだけで高収入を得る事ができない。替わりになる物を探す事が始まった。
農事試験場など関係機関の門をたたいて助言をこうたが、標高750メートル、積雪で3ヶ月孤立する悪条件の中では、なかなか見つからなかった。
とにかく炭焼きをやめ、残った雑木を利用して椎茸栽培をすることにした。「椎茸は現金が入るまでに3年はかかる。そんな事をしなくても、木材をパルプに売ればすぐ現金になって、高く売れるのに」と言われたりもしたが、1万本まで増やした。
雑木を伐つた跡には大栗を植えたりしたが、それも雪や病気でうまくゆかなかった。しかし、その時植えた栗の木が、今でも4、5本残っていて、秋になると実を付ける。薬剤散布をしないので虫喰いだらけだが、それを狙って烏や熊がやってくる。それでも拾いに行けば、彼らの残り物でも秋を楽しむ事は出きる。
椎茸はよく生えた。日中は椎茸取り、夜は網に並べて乾燥機での乾燥作業と忙しかった。自然栽培なので、春に集中して生えてくる。やっと作業が一段落したときは他家では田植えの準備は出来上がっていた。わが家ではそれから田耕しを始める始末。田植えの適期が短い寒冷地では、両立はなかなか難かしかった。
当時、牛を使って田起こしをすると、1反に2日かかった。牛を使っていては能率は上げられないと、なけなしのお金をはたいてトラクターを買った。しかし 膝の上まで浸かる軟らかい田圃では、役に立たなかった。そこで考えた。湿田だから駄目なのだから、暗渠(あんきょ:地下水路)排水をしよう、と。雪に埋もれてしまう冬には出来ないので、稲作りを休んで、スコップとつるはしだけで、背丈ほどの排水溝を掘って、土管を入れて、又土をもどす。気の遠くなるような仕事だった。しかし、苦労の甲斐あって、暗渠排水をした田圃にはトラクターが入れるようになった。乾田になった田圃は、あの深かった土はどこへ行ったのかと、思うほど浅くなって作業が楽になり、能率が上がるようになった。
昭和35年に次女が、36年には長男が生まれて、育児が忙しくなった。この頃から病院でお産をするようになった。年子だったので大変だった。長女の時は乳母車が買えなかったので、木の箱の中に布団を敷き、子供をいれて田圃の畦道に連れて行って仕事をしたけれど、次女のときは乳母車が買えた。その中に2人を入れて仕事場を連れまわったものだ。
昭和38年はあの有名な、38豪雪でえらく難儀をした。4メートルの大雪に悲鳴を上げ、都会に出て行った人たちは少なくなかった。北風が吹きすさぶ厳冬には、風が吹き寄せる吹き溜まりにすごい量の雪が積もる。私達の家は入り口だけは雪は無かったが、一歩踏み出すと軒先を越す雪の壁が出来ていた。水道はまだない。どんなに冷たくても洗濯物をすすぐのは川、その川へゆけなくなり困ってしまった。そこで川へ行くためのトンネルを掘った。雪が少なくなった今では想像もできないが。
その頃から時代が変わり始め、自家用車が持てるようになり、冬も道路の除雪がしてもらえる様になり、田舎の暮らしもそんなに不便ではなくなっていった。
椎茸の原木が不足した。手山がそんなに在るわけもなく、遠くまで買いに行くなど、もってのほか、と椎茸に見切りをつけた。国有地に働きかけ、開拓をして牛を飼う事になって、それからが又試行錯誤の闘いが始まった。昭和38年に3女、44年に次男が生まれた。5人の子供達を育て、大学まで出すのは容易ではなかったが、奨学金に助けられて、なんとか皆育てる事ができた。学校に行きたくても貧乏であきらめ、独学で電検の2種と3種の資格を取った主人は、子供達に「学校に行きたければ一度だけチャンスをあげる。家の経済状態では国公立以外は不可能だけど、君達がそれを乗り越えたら全力を挙げて手伝う」と申し渡した。ワンチャンス・ワントライ方式と名付けた壁を、子供達は皆乗り越えてそれぞれ仕事に付いている。ただ跡を継がせた次男には借りを作ってしまつた。
話は前後するが、昭和38年 2頭のボロ牛を買い込んで牛飼いを始めた。冬季の交通が困難なので、交通が必要な出荷や仕入れが少なくて済む、黒牛の繁殖から肥育までの一貫経営をめざしたのだ。京都大学の先生や広大の先生が出来ないと太鼓判を押したのに、である。手本がないのだから毎日毎日が戦争だった。しかし一年一年少しずつ牛を増やして40年でやっと180頭と30町の牧場を(うち10町は小作)作り上げた。40年あれば何千頭にも増やすことに成功した人もいるが、家族経営にこだわった私達にはこれが限界だった。
次男が高校の時、主人が病気になった。その頃子供はみんな都会にでていて2人だけだった。どんなに苦しくとも牛飼いは休む訳に行かず、次男に学校を休ませて手伝わせた。
主人は若い頃、「農業は嫌だから町へ出て勉強をしたい」と言ったら、義父が「お前が出たら家が潰れる」と、頼まれてしかたなく家を継いだ。それが今でも悔しくて、子供達には好きなようにさせると強がりを言っていたが、病気の時はどうしようもなくなり、次男に大学はあきらめて高校卒業後かえって手伝ってくれるように頼んだ。
次男は素直に聞き入れて、帰郷して後継者になってくれ、主人が60才の時経営を移譲した。5年後高校時代の後輩の娘さんと結婚して5年、今では経営者として2人で働いている。私達も手伝って家族4人それぞれが分担して仕事をこなしている。
気がつけば、70才、がむしゃらに働いてきたが、もう人生の終わり、長いようで、短いようで。
生き物を飼うと言う事は、一日もたりとも休みもない。酪農はヘルパー制度なるものがある由だが、肉用牛にはそんな話は聞いた事がない。泊まり掛けの旅行など、夢のまた夢。しかし、それが出来なかったからといって、暗い人生だった訳でもない。なにしろ、文明なるもののおかげで、いながらにして世界のニュースを知る事のできる世の中だから、気の持ちようである。
振り返れば、色々あったが、何事も前向きに考えて突っ走る彼のおかげで、ハラハラドキドキ。
面白い人生を本当に「ありがとう。」
2001年1月29日 見浦 晴江
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