幸い私はまだ聞こえるので不自由を感じないが、確実に難聴の道を歩んでいることは自覚している。音楽の高音が聞こえなくなってもう何年になるか、貧乏の中でたった一つの趣味だった音楽好きも、手作りのHi-Hiがコンポにかわり、そして現在はラジオで満足している。高音が聞こえなくなり、音楽に艶がなくなったからだ。幸い、まだ人の声はほぼ?聞こえているので不自由は感じないが。
しかし、晴さん(家内)の難聴は深刻な段階に差し掛かった。最初は補聴器を購入すれば解決すると安易に考えていたらしいが、老人の難聴は生理現象だから受け入れなくてはと遠回しの意見をしても、頑固な彼女は(頑固だからここまでやってこれた)補聴器さえ買えば解決すると聞き入れない。実は私の友人のY君は90を越す高齢者だが、彼も4―5年前から耳が聞こえなくなり始めた。話好きな奴で近くで作業をすると缶コーヒーを持ってやってくる、畑の畦に座って延々と世間話。友人だから付き合うのは苦にならないが、話が終わらなくて仕事が出来ない、これには参った。その彼が耳が遠くなり始めた。長い間、工場勤めをした彼は相応の年金を受け取る。早速、補聴器を購入、これで大丈夫と思ったとか、思わなかったとか。が、今度は物忘れも進行、補聴器が行方不明となった。探しあぐねて新品を購入、再び行方不明。メーカーは喜んだが、さすがに本人も疲れた。おまけに補聴器でも難聴が解決出来なくなるほど進行、ついに諦めて、昨年は近くに仕事に行っても手を挙げるだけ、話にこない。仕事の邪魔にはならないが寂しさもある、老いるということは厳しい現象である。
この経験があるから、晴さんも難聴を素直に受け入れなくてはと思うのだが、彼女中々納得しなくて、補聴器に解決を求める、これも老化の過程の一つかと静観することにした。
自然の掟として、人間は生き物、必ず老いる。私は他人の批判でなく、自分の老化を素直に受け入れなくてはと、自戒しているところである。
2017.1.4 見浦哲弥
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