経済というのは、大胆に解説すると、生産から消費までの流れ、(主にお金と物ですが)を総称する事だと思っています。昔の小板でもそうでしたが、田舎では自給自足が基本でした(これを自給自足経済といいます)。必要品も出来るだけ自分のところで生産しましてね。
たとえば牛に使うロープ(牛綱と言います)、現在はKPロープとよばれるプラスチックの製品を使用していますが、子供の頃は春先に畑に大麻の種をまく処から始まって、お盆過ぎの刈り取り、蒸して皮をはぎ、水に晒して白い麻の繊維に仕上げるのです。麻(お)と言いましてね、ロープの太さに束ねて端を天井の梁に結びつけ、3人でかけ声をかけ合いながら力一杯、撚(より)をかける。撚りが弱いと柔らかい縄になつて役に立たない。牛綱一本でも飛んでもない時間と労力と技術を加えて作ったものです。牛綱1本でも大変な貴重品でした。
戦後は田舎でも、自給自足の経済から生産物の大部分を売却して、その代価で必要な資材を購入して、生活する交換経済に変化したのです。
ところが戦争中に施行された食料管理法(食管法)で基幹食料の米、麦は政府が全量買い上げ、政策価格で売り渡す方式になり、価格は需要供給で決まる市場価格ではなくて、政府が決める政策価格が何十年も続いたのです。その結果農民は、米価闘争をやれば価格が上がると政治闘争にうつつを抜かす事になりました。そして選挙の季節ともなれば東京に何万人もの農民や農業関係者(農協の職員)を集めて米価の値上げをぶちあげる、米価闘争が日常化したのです。
当時、私は戸河内農協の理事、理事会で組合長が「東京の大会に2名の派遣が割り当てられているので旅費の支出を認めて欲しい」と提案、その理由が「専業農家が多い農協は熱心なんだが、都市型の農協は米価が下がる方が組合員の利益だと消極的だ、が本年だけはもう一年と言うことなったので、認めて欲しい。」
こんな裏話のある食管法ですが、その最大のデメリットは農民が日本の経済の仕組みが市場経済に移行しているのに、その仕組みを理解しなかったことです。
物の値段は需要供給のバランスで決まると言うことを理解できなかった。米価は政府と交渉の結果で決まるもの信じ込んだ。その為には自分たちの息がかかった議員を一人でも多く国会に送り込むことだと思い込んでしまった。
ある年、小板の小学校で運動会がありました。小さな集落ですが、それでも生徒が30人ばかりいましたね。集落の全員が集まって、それなりに賑やかでした。
その折り、大人の賞品に即席麺のドンベイが出たのです。丁度普及の始まりで珍しかった。会が終了して後始末をして、残った賞品のドンベイを食べようと言うことになりました、お湯を沸かしてね。
一口食べた友人が言いました「これは旨い、なんぼでも食える」。
丁度、その秋から米の過剰を抑制するために減反政策が始まっていたのです。前述の友人口癖は「政府はけしからん、米を作るなとは何事か」。
便利で味のいい加工食品の登場で米の消費が減り国や農協の倉庫に米があふれて、やむをえず始めた減反政策、しかし、その本当の意味を農民が理解できなかった。自分たちはお米を食べなくなったのに、都会の消費者にはもっと米を食えはエゴ以外の何者でもありませんでした。
市場経済では、消費と生産が均衡するように価格が動きます。此の原理が理解できれば、このシステムの中では何が一番大切かが理解できるはずです。生産者にとって消費者の動向が、消費者からは生産者の現状を、それぞれ理解することが基本になっていることを。
ところが消費者は値段の安いことだけを注目して、どんな所で、どんなシステムで生産されて居るのかは考えない。明日も来年も10年先も生きているかも知れないのに、その時の生産はどうなっているかは考えない。農産物は足りないからと言って翌日から増産できるものではない。お米は1年に1作しか出来ないし、野菜も何ヶ月もかかる、まして田圃や畑が植物が育つようになるのには、何年も何十年もかかるのに私達は関係ない、である。
一方生産者は市場の要求だけに注目して、見てくれや外装だけにエネルギーを費やす。
農産物は命の源なのに、自家消費と販売用とは差別して作る。自分たちが食べるお米や野菜には堆肥を入れ農薬は使わないように努力するのに、市場に出荷する農産物は見てくれ重視、金肥ザグザグ、農薬たっぷり、そんな農民がまだ存在するのです。
市場経済では利益のマキシマムが正義だと教えます。それだけを、ひたすら信じ込んで、自分の利益だけで消費者のことは考えない、そんな人がいます。立場が変わると自分たちも消費者なのにね。
さて、市場経済の中で利益を上げるのには2つの方法があるのです。
1つ目の方法は競争相手より一円でも安く生産する、その為には小規模生産より大規模生産の方がコストが低い。当たり前のことですが農薬でも飼料でも1-2袋ずつ購入するよりも纏めて大量買いをする方が単位当たりの値段ははるかに安い。見浦牧場でも輸入の干し草は25トンのコンテナで、配合飼料はバラで5トン車が配送してくる。1-2頭飼いの牛飼いさんから見れば飛んでもない安さの値段です。それでも牧場の中では小さな方に属します。コストで大型牧場に競争するには力が足りません。
もう一つの方法は人より先んじる事です。これなら大牧場が同じ技術や考えを持つまでは競争相手がいないので利益を上げることができます。
見浦牧場のように資本力の小さい、土地が広くない牧場で生き残る為にはこの方法しかないのです。
ですから既存の後追いだけでは駄目なのです。学校での知識や専門書は基礎の基礎であって、それだけでは利益は上がらない、そこから一歩も二歩も先んじた分だけが、競争力になる、これが私達の考えなのです。
それならどうしたら、先んじることが出来るのかと、貴方は聞くでしょう。
それが、「柴栗と鉛筆」で述べた柴栗と鉛筆の理論なのです。
もう一度振り返って欲しい。消費者が何を望んでいるか、それを知ることは柴栗が何処で実っているかを理解する事。でも、それだけでは足りない、そこへ一歩でも二歩でも先にたどりつくこと。さもないと栗は人が拾ったあと、ゴミにもならないイガがあるだけ。先にたどりつくための方法は自分の足下にお手本があるのに気がついていないだけ。
繰り返しましょう。人に先んじること、その為には我が身を削ること。
今日の話しは、これまでです。思いが文章に伝わらないもどかしさはありますが、気持ちの一端でも触れて頂けたら幸いです。
2012.9.2 見浦哲弥
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