それから何日かして、今田三人(いまだみつと)君のことを思い出しました。彼は4歳上、3年ばかりの付き合いでしたが、まさに人生の種まきでした。今日はその話を聞いてください。
もう15年あまりになりますか、開拓地の一部が競売になりました。地方事務所の某課長さんから、是非買い入れるようにと要請が来ました。貧乏のどん底で牧場経営に追われている私たちにはそんな余裕はありません。そのことを申し上げてお断りすると、隣の餅ノ木部落に使っていないお前の土地があるではないか、買い手を見つけてやるからその金で購入しろと勧めてくださいました。それが別荘を作られた桐子さんと、退職後ペンションを建てる予定の坂本さんでした。
坂本さんの土地は道路に面していましたが、桐子さんの土地は狭い小道はあるものの、道路との間には今田さんの土地があり、ある意味の袋地になっていました。その解決が買っていただく条件になったのです。
今田さんは、38豪雪のあと、餅ノ木集落に見切りをつけて離農され、広島の団地に住居を購入して生活されていました。田舎の人は愚直といわれるほど勤勉で正直ものです。離農した何人かの私の友人も、それぞれに住居を購入して都会に根を下ろした人が多かったのです。その数年前に既に人生を終えていた今田さんもその一人だったのです。
20数年も無音だった今田さんを、お願い事で訪ねるのは心が重かったのですが、手配をしてくださった人の好意に応えるためにも、足を運ばなくては、と思ったのです。電話連絡をし、仕事を終えて帰宅された息子さんを訪問して、ことの次第を説明してお願いしたのです。
話を聞き終わった彼は言下に「分かりました。見浦さんの言われるようにしましょう」
そして言葉を続けて、「亡くなった父が、小板で信頼できるのは見浦だけ、が口癖でした。その人のお頼みですから。」と。
忘れていた、青年時代の出来事を思い出しました。
昔の小板は青年団活動が盛んでした。集落の事業に協力する、郡の体育祭に出場する、追宴会と称して田舎芝居をする等々でした。動員から帰った翌年、青年団に入団した私は最年少者としてしごかれることになりました。
その年の末、恒例の追宴会(赤穂義士討ち入りの12月14日に開演する村芝居のことをそう呼んでいました)の準備に駆り出されました。今の草野先生の家の下がわにあった会館(小板小学校、2代目の校舎を転用していました。)日頃物置と化して荒れ果てている内外を整理して舞台を作る。その作業の最中のことでした。
その日は各自、鋸(ノコ)や鉈(ナタ)、鎌(カマ)を持参するようにとの通達でした。私の父は学校の先生、刃物などの研ぎ方は知りません。教えてくれる人のない我流で研いだ私の刃物が切れるはずがありません。悪戦苦闘する姿を見た仲間が私の道具を見て「物は切れないが息は切れるで」と声を合わせて笑う始末、悔しかったですね。
それを黙ってみていた今田君が私をそっと物陰に呼びました。「俺の道具を使え」その一言はうれしかった。そして信頼に値する人を見つけたと思ったのです。
翌年、年長者が結婚などで退団して、彼が小板青年団の団長に就任しました。彼の優れた人間性に心服していた私は、団員として裏表なく協力しました。当たり前のことです。
やがて、彼は、自分で判断のつきかねる事柄は、「おい、見浦、このことをどう考えるか」と真っ先に相談してくれるようになりました。私もその信頼に応えるために一生懸命努力した記憶があります。
たったそれだけの、彼が団長だった2年足らずの短い時間のことを、彼は生涯覚えていて、息子さんに話していたのです。
何十年も昔の、それも彼の優しさに応えた、小さな誠心誠意が大きく花開いて帰ってきた。私の人生の大切な曲がり角で、生きることの不思議さを実感した瞬間でした。
そうして袋地の道路の問題は無事解決して、売りに出た開拓地は見浦牧場の一部になりました。
私の住んでいる自然は、種をまかなければ何も生えてきません。雑草でも、風や鳥や動物が種を運んできてはじめて生えるのです。芽が出て葉が茂って初めて花が咲く、当たり前のことですが、人生も同じでした。
そこでお聞きします。
貴方は人生の種まきをしていますか?
いい種を撒きましたか?
種まきをしないで大きな花が咲くことを望んではいませんか?
2007.10.4 見浦 哲弥
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