どうでもいいようなこの公式が出てきたときは、数学とはなんとバカな事を本気で教えると思いましたね。それが牧場作りの最中に登場しようとは、そしてそれが農業のもっとも大切な真理だったとはね。今日はその話をします。最後まで読んでください。
昭和45年、見浦牧場の開墾が始まりました。ブルドーザーが木の根を掘り、土を起こして平らにしていく。戦後の緊急開墾がクワとカマで大地に挑んだ姿を知っているものとしては隔世の感がありました。
しかし、貧乏な私たちには、その開墾の方法に表土扱い工法ではなく、地成工法を選ぶしかありませんでした。
表土扱い工法とは、最初に表面の黒土を剥いで別の所に積み、その下の芯土や岩盤を削って平らにして、表土を戻す方法です。植物が生育していた肥えた土が表面になるので、理想の形の工法ですが、重量物の土を大量に動かすので大変高価につく。(田圃の耕地整理で採用されていますが、10アール当たり100万円を越すといわれています。)
地成工法とは、文字通り、高いところを低いところに埋めていく。結果、表土は埋められ、芯土が表面に出ます。植物にはうれしくない状況を作るのですが、何しろ工費が安い。しかし、牧草がよく伸びるところと生育不良のところができる。確か、付帯工事(取り付け道路や排水路など)を含めて、10アール当たり14万円あまりだったと記憶しています。ですから、表面には石ころがゴロゴロ、浮陸直し(でこぼこな押し)が大きかったところは特にひどかったですね。
見浦牧場のメインの畑は10ヘクタール弱あります。その畑も石ころだらけでした。拾っても拾っても石ころがでてくる。その当時はモアー(草刈機)はレジプロ(バリカン式)で小石が当たって刃が傷むと草刈中止。短い夏の草刈シーズンの貴重な時間が飛ぶように消えていく。でも石拾いは第一の優先事項でした。
しかし、外国に比べれば小さい区画の10ヘクタールも夫婦二人での石拾いともなると広大です。しかも完全な手作業。毎日毎日、朝から晩までの石拾いは遅々として進みません。ついに私が音を上げました。
「石は無限にある。無限からいくら引いても残りは無限、こんなきりのない作業はもうやめた」と。
それを聞いた妻の晴さんが怒りました。烈火のごとくです。
「なんぼ残りが無限でも、拾っただけ石が減ったと考えられんのか。数学では正しくても、その公式は農業で正しいとは限らない」と。
まさに、愚公のことわざの世界を突きつけられた、そんな衝撃でした。
私は少年期を都会で中産階級の生活の中ですごしました。私の中では意識するしないにかかわらず、都会人の合理主義が考え方の基礎になっていたのです。農業ではそれは成り立たない、彼女の言葉はその点を痛烈についていました。
中国には”愚公山を移す”という古い諺があります。愚公という農民が田畑に陰をする邪魔な山を移したという話です。途方もないことと笑う世間をよそに、黙々と工事を始めたという話です。はじめは何の変化もないように見えた山が、子供、孫、曾孫と耐えることもなく続けられて、やがて山が平らになって立派な農地が出来上がったという話です。
小さな人間の努力も積み重ねると、不可能と思えることも可能になる。まさに晴さんはその点を指摘したのです。理詰めで物事を考えるあんたには、無数にある石ころは無限かもしれないが、私には有限と見えると、農民の血が彼女に言わせたのです。このときから彼女はパートナーではなくて身近な教師になりました。
農業には農民の考え方が必要なのです。もちろん産業構造の中の一員としての現在の農業には近代的な都市感覚も必要であることは言うまでもありません。しかし、それだけでは農業を支えきれない。農民が持ち続けた理念を忘れては日本農業は生き残れない、そう考えるようになりました。
あれから長い年月が過ぎました。石ころだらけだった牧場もずいぶんきれいになりました。もちろん石ころが皆無になったわけではありませんが、無限だと考えたことは笑い話になりました。
私も老人になりました。そして長い時間の人生の過ごし方に、ささやかですが、確信を持てるようになりました。
様々な職業には、それぞれ取り組むための信念と生き方があるのだと思っています。
それが長い長い人生を支えていくのだと。
2007.10.3 見浦哲弥
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