ところが牧場屋にとって、その急変は大変な重圧なんだ。西日本には梅雨がある、同じ春の遅い北海道はそれがない、この違いがこの地帯の重圧だったんだ。遅い春とかかさず訪れる梅雨、その短い期間の間に、雪で破損した牧柵の修理、1年間の溜まった堆肥の散布、そして一斉に伸びる牧草の刈り取り、これらの作業が殺到するんだ。おまけに牧場の大敵のギシギシ君(雑草で大敵)も懸命に成長する、除草剤のスポット散布が待ったなしと来るから、牧場の人間は春を楽しむ余裕などない。桜が咲いたねと横目で睨むだけ、新緑が綺麗と都会の車が土日には殺到するが私達にとっては異次元の話である。
しかし、私の長い人生の中で一つだけ激変した事がある。それは牧草の処理である。先にも話したが、春先に急激に成長する牧草は、年間で収穫する収量の2/3にも達する。在来の野草は牧草のような急激な成長はしないので、田植が済んで畦や家の周囲の草刈、梅雨が終わって草刈山の干し草刈と何とか農作業にパターン化されていたが、開拓で造成した牧草地の春先は異次元の世界だった。
何しろ、最盛期には一日で何センチも伸びる、野草と違って収量も桁違い、まだ少なかった牛達に懸命に刈り取っても膨大な草が余る、それは刈り取って貯蔵するしかないが、問題山積だったね。その笑い話のような経過を今日は聞いてほしい。
冬の牛達の食料のため干草を作るのは昔から行われていた。ただし、真夏の梅雨明けからお盆(この地帯は8月15日)までの強烈な日差しと晴天が続くことが条件、それでも最低3日の晴れが続くことが必要だった。しかし、その真夏も8月に入ると夕立がやってくる。折角の干草も1度の雨で草の養分の40パーセントが流れてしまう。ただし1回の雨なら、牛君は文句を言いながら食べてくれるが、3回となると見向きもしなくなる。干草づくりはお天気との戦いだったんだ。勿論、各地に測候所が設置されて、百葉箱とよばれる観測器がみられたし、戦後は高空気象の調査のためラジオゾンデが上げられていた。しかし、現在のように正確な予報でないので当たるも八卦、当たらぬも八卦と言う条件の中で、梅雨前の干草など不可能に近い。それでもスプリングラッシュがやってくる。何度も何度も挑戦して泣いたんだな。そして処理できないうちに梅雨に入る、1ヶ月近くの雨続きのうちに牧草は1メートル以上に伸びて花が咲き、種をつける、でもあと少しで梅雨が晴れる、そうしたら干草ができると神頼み、ところが伸びに伸びて頭が重い牧草は雨降りにそよ風が吹いただけで倒伏、広い牧草畑が絨毯を引いたようになり、腐り始める。おまけに根まで腐って裸地になるんだ。泣くに泣けないとはこのことだったね。
当時、中国山地で肉牛として和牛を飼うと農業の次の展開を考えた人間は少なからずいた。上は国の農水省から、県の畜産関係の部署から、末端の私達、農家に至るまで、研究会と称して講習から見学会まで、戸河内から高田郡へ見学に行った時は40人乗りのバスが満杯だった。それが50年経った現在、加計、筒賀、戸河内3日町村合併の安芸太田町で牛を買っているのは2件、しかも、後継者がいて長期展望で経営しているのは見浦牧場だけ、如何に困難な道だったか、もっとも、少々思考のちがう私達はとんでもない大仕事とは思ってはいなかった、ただ目の前にある問題を一つ一つ徹底的に追っただけ、それが農学の範囲を離れようが、離れまいが、自分達が納得できる答えを追い続けただけなんだけど、外部の人には変わり種の農民と見られていたらしい。
それは牧草の対策でも同じことだった。もともとが理科系の頭だから(電検の3種と2種をもっている)一つ一つ納得しないと前へ進めない。例えば牧草の刈り取り、昔からの日本の鎌でも刈れない事はないが、田圃の畦ならまだしも広い牧草畑では能率の上がらないこと、まさに蟷螂(カマキリ)の斧の状態なんだ。そこでオーストリアの西洋鎌を購入したんだ。ところが私の時代の日本人は体格が小さい、日本の鎌よりは能率が高いが疲労が激しくて仕事にならない、鎌の構造も違い研ぎ方も違う、おまけに日本の在来草が混じると能力がガタ落ちになる、勉強にはなったが見浦の戦力にはならなかったね。
その次は背負いのエンジンカッターと中古の軽トラック、猛然と伸びるスプリングラッシュに立ち向かうには、恐竜に立ち向かうドンキホーテといった感じで能力不足で畑には牧草が腐っているのに牛は腹を減らすという笑い話、仲間達があきらめるか、農機具屋の口車で借金で外国製の大型機を導入する中、見浦牧場は身の丈のシステムを追い求めたんだ。
さて、その頃、農業の近代化の掛け声で国が補助金と融資をすると声がかかった。14ヘクタールの牧草畑に悲鳴を上げていた私は借金に嫌悪を感じながら、その話に乗ったんだ。そして当時ようやく本格的なトラクターの製造を始めた24馬力のクボタトラクターを購入することにしたんだ。ところが当時の制度は補助金は個人でなく、その地区の農業集団を通じて申し込まなければいけなかった。そのボスが牧場に必要でもない付属機までつけて注文してくれた。御蔭で1/2の補助が1/3の効果しかなくて、貧乏のどん底の見浦牧場は苦しみを増やしたんだ。それに懲りて翌年から少しずつ購入した作業機は全て自前、和興農園の後粗末を押し付けられていたし、今考えると良く凌いだもんだ。それで最初に購入したモア(トラクターにつける作業機、モアは草刈機)はレシプロ(バリカン方式)国産の4フィートだったね。時は外国製のロータリーモアが輸入され始めていてお隣の牧場は70何万円の最新型、見浦牧場のモアは14万円、個性の強い機械で中々満足に動いてくれない、勉強もしたが苦労の連続だった、レシプロモアは石ころに弱い。運動しているナイフに小石が入ると曲がるんだ、ひどいときはナイフが折れる、途端にその部分は草が切れない、作りたての我が牧場は拾い残した小石が多い(「無限大」の文章を読んでください)、限られた天候の中の分解修理に何度泣かされたことか、それに比べお隣の外国製の能率のよさは垂涎の的、世は金の時代と悔し涙を流したものだ。もっとも24馬力のトラクターでは力不足で動かすことは不可能だったが。
そのモアの悪戦苦闘の最中に日本人の優れた特性を見た。当時、国産のモアでもナイフは北欧製だったが何年かして国産のモアの刃が供給されるようになった。硬くて切れ味が良くてそこそこの価格だったが、使ってみると大きな欠点があった。硬すぎて石をかむと折れるのである。北欧製の刃は曲がってもよくよくの事がないと折れない、圃場でハンマーで曲がりを直せば使える、そんなところにも先進地の知恵が秘められていた。
あれから日本型のコンバインが普及して稲作用では世界で高い技術を誇る、その刈り取り部のモアは手入れをしなくても能力が高い、日本の農業機械も大いに進歩したのだから、農業も進歩したかと問われると反省しきりになるのだが。
少しづつ牧草機械をそろえていったが、牧草の保存は干草が主流、降雨量の多い小板での干草は問題が多かった。当時は他にはサイレージしかなかった。七塚原の牧場で働いときから各種のサイロを見せてもらった。歴史的な木造のタワーサイロから石つくり、ブロックつくり、地下サイロなど、いずれも少なからぬ資金投入が必要な施設である。繰り返すが貧乏の私達、サイロ用のブロックを買い込んで3トンのミニタワーサイロを建設したんだ。確かにサイレージは出来たが材料の草の吹き込み、小さい取り出し口、手間のかかることおびただしい。さすがこれは主力にはならないと早めに諦めたんだ。それでもサイロ関係には色々な製品が出現した。合成樹脂と袋に詰め込むバックサイロ、結束した牧草を積み上げビニールフイルムで被覆するスタックサイロ、等々、牧草の保存方法は畜産関係者の難問の一つだったんだ。勿論、我が見浦牧場も試行錯誤、失った労力も資金もとんでもない大きさだった。
そこに登場したのが工場生産のタワーサイロ、鋼板で製作され新しい技術で塗装されたサイロは良質なサイレージの生産を可能にした。ところが原料を詰め込むのも取り出すにも専用の機械が必要なんだ。大型の200トンサイロは外国にも普及し始めていたから、それなりの専用機械が販売されていたが10トンや20トンの小型サイロは日本独自のもの、コスト的に和牛牧場が採用して採算を取るなど不可能、それでも島根の金城牧場で200トンサイロが林立しているのを見たときは、自分達の和牛牧場が成功するとは思えなかったね。ところが、何度目かの見学で最新サイロにも問題を抱えていることを知って中国山地独特の技術を追求することで、可能性はあるかも知れないと思ったんだ。
そんな折、愛読していた農業誌にロールベーラーの紹介記事が出た。水分が70パーセント以下になればフイルムでラッピングをすればサイレージになる。それから色々な本で確認をしたね。その結果は、これが唯一の解決策だと確信したんだ。
機械で巻き上げたロールの直径で機械の大きさを表す、輸入品は160センチと120センチ、国産化して小農の要望にも応える形で現在は60センチと90センチがあるが、私はドイツのアッセンブリの機械、タカキタの120センチを選んだんだ。しかし高価な機械でね、340万もする、ロールにフィルムを巻く機械は北欧製で100万円弱、貧乏人が出せる金額ではない、農林事務所に補助金の申請書を出して、残りは長期の低利融資を受けることで購入が出来たんだ。ところが問題があって、当時の見浦牧場には中古で買った38馬力のトラクターしかない。これでは平地では何とかなっても斜面ではベーラーを牽引することができないのではないかとクレームが入ってね。牽引できない斜面では空で上部まで上がって下りで作業をすると説明をするやら大変だった。
それや、これやで何とか機械は導入できた、作業も何とかこなした、ところが問題はそれからだった、運搬はどうするかである。トラックの荷台に歩み板を並べて押し上げる、当時、最初の24馬力のトラクターはフロントローダー(小さな土砂用のバケツが付いた荷揚げ装置)が付けてはいたが、どんなに頑張っても200キロ止まり、押し上げるしかない、さて折角の機械が宝の持ち腐れになると思案していたら、家内の晴さんが一言「戸河内のガソリンスタンドから貰ったトラックは使えんかい」。
考えてみればスタンドの配送用に使われた車、後部にドラム缶の積み下ろし用にリフトがある、荷台は小さいが2本同時に積み下ろしが出来る、ただしリフト重量は400キロ、でも力が足らなけりゃ人間が助けりゃいい、軽けりゃ1人、重けりゃ3人もちあげる、それなら使えるぞ。
しかし、ドラム缶用の荷台は小さいので改造が必要、当時はガス溶接の設備しかなくて、素人で、500キロにも耐える改造は至難の業だったね。
出来上がった改造車は3個のロールを積んで大活躍、随分長いお世話になった。廃車になっていたくらいだからエンジンの不調には泣かされたが。
そんなこんなで、一応牧草の収穫貯蔵のシステムが完成したんだ。このシステムは予想外の成果をあげて、牧草はおろか野草まで草と名が付くものは何でも貯蔵できる、水分70パーセント以下という条件に配慮さえすれば腐敗することはない、水分が少なければ干草の野外貯蔵にもなる、小板での草システムの完成であった。見浦牧場のような年間放牧の冬季飼育にはもって来いのシステムだった。ただベーラーがカッテングシステムのない旧型なので、給与時に少々無駄が多いが、荒い野草も刈り込む見浦牧場では牛が不可食部分を選別して食べると思えば我慢が出来る。
こうして小さな貧乏牧場が牧草の一貫処理のシステムを作り上げた。あれから、もう20年あまりにもなる。ラッパーを駆動するのは廃車のトラクターの活用から現在はミニショベルの廃車が動力を供給している。何台か揃った中古のショベルを動員すれば、一人でも刈り取り、集草、ローリング、ラッピングと作業が流れる。問題は我が家のベーラーは初期の製品で生産台数が少なく、部品の供給がおぼつかないことだが、にわか修理屋の親子が知恵をしぼり、アイデアを出し合いながら動かしている。
付け加えるとベールローダーには構造的に、芯から固くかためる芯巻き式と、外側から巻きしめる外巻き式の2種類がある。水分大目の干草を芯巻き式で巻きしめて芯部から発熱、火事になったと報告があって、見浦牧場は外巻き式である。
こうして私達の羨望の的であったタワーサイロは目標ではなくなった。出入りの農機具屋のセリフ、「私らタワーサイロのある農家には用心してセールスに行くんだ。ベーラをすすめたら、タワーサイロを作る前に言え、と怒られる」と。
ともあれ、この地帯の牧畜のブラックホール、牧草の保存は体系が出来上がった。石油資源が枯渇してラップが手に入らない事態が生じない限りこの方法は生き残るだろうし、この方式の放牧型和牛飼育は定着するだろう。挑戦を始めてから50余年、成功はしなかったが道筋だけは作り上げた、これが私の誇りなのである。
世人からみれば取るに足りない成功談、小さな小さな積み上げだが、そんな集積が日本社会だと思っている。
2015.6.30 見浦哲弥
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