私は決して意志強固と誇れる人間ではない、それが50年余りも見浦牧場を続けてこられたのは家内の協力は勿論だが、様々な人のお陰だと思っている。
当然のことだと思っていたのだが、先日の”食べる通信”の記事を読み返すと、我ながら、よくも頑張ったと呆れている。米作りといい、しいたけ栽培といい、牧場経営といい、目標を定めたらひたすらに追い求める、愚直に、熱心に。そんなときには恥とか体裁などは考えたことがなかった。当然のことだと信じて歩んだのだが、考えてみれば少々異常である。
若者は先輩に服従し、集落の掟を守って、集落のボスの決定には無条件で従う、悪しき伝統は敗戦という日本国はじまっての大転換が起きても山奥の小板では無縁の話だった。
その絶対の権威に公然と歯向かったのだから、昔ながらのボス様のご機嫌が良いわけがない、それが貧乏人の小倅なら一捻りで潰すところだが、落ちぶれたとはいえ見浦先生の子供、真正面から手が出せない、ボスの年寄りたちが切歯扼腕(せっしやくわん:歯ぎしり・腕握りして悔しがること)した気持ちは自分が年寄りの仲間入りをして理解できるようになった。
しかし、時代は民主主義の時代、どんなにあらがってもが逆には回らない。理解の外のボス連中が見浦のあり方を認めないで無視の方針を取ったのは止むを得なかったのか。一方少数ながらも私には支持者がいた。しかし、その大部分は力のない底辺の人達だったが「見浦さんが言うのだけー」の信頼は有り難く強い支えだった。お陰で集落の中でも、集落の外でも崩れることはなかった。
しかし、繰り返すが集団の中での完全無視は辛い環境である。地域外で有力な理解者を持って居ても、日常の生活の場での悪口雑言、もしくは無視は集団で暮らす習性の人間には思いの外むごい環境なのだ。その中で何とか自分を支えきったのだから、私達は案外意思が強いのか、もしくは無神経なのか?。ところが振り返れば何度も崩れそうになったし、諦めかけた時間が蘇る、支えたのは「意地で候」の侍魂だったのかもしれない。
長い年月を経て片手で数える人数に減った住民の中では見浦を無視しては集落が成立しなくなった。そして表面に出ることを極力嫌う生き方に絶大な?信頼が寄せられていると感じることもある。力の無くなった小板ではあるが、生き残りの可能性は周辺集落よりは高い。しかし、この人数では集落の発展は望むべくもないが、何時の日か蘇る日もあるかと、微かな希望を持って今日も生きているのだ。
2018.3.9 見浦哲弥
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