2017年7月23日

牧場の親父の社会構造論

もう50年余りも牛を飼っています。しかも放牧形式の集団飼育で、この方式の飼育形態は日本では数少ないのではと思っています。
近辺でも見浦牧場のような小さな牧場から中山、松永のような大牧場まで大小様々な牧場が存在しています。
私が生きたこの中国山地でも大小様々な形態の牧場が設立され消えて行きました。辛うじて生き残った牧場の一つ、見浦牧場が生きている日本社会の仕組みを、牛を飼う生活を通じて考えて見たいと思うのです。
最初の2頭から現在の180頭まで増えてゆく過程の中で、彼等が群れを作る仕組みや、集団のルール、ツキノワグマから身を守る護身術、等々、生きるための変化を作り上げて行きました。そんな彼等を見ていると人間も教えられるところが多々あるのです。今日はその話を聞いてください。

牛は集団で暮らす動物で厳然たる順列がありますが、その一生をよく見ると、生後12ヶ月くらいの所に境があります。それまでは、はっきりした順列が無いのです。勿論、餌を食べる時は力の強い子牛から食べ始めるのですが、横合いから小さな子牛が割り込んできても頭で押し出すくらいで、追っかけていじめることはありません。ところが12ヶ月を過ぎると押し出すだけでなく後を追いかけて順列を守れといじめるのです。
牛の世界は厳しい順列の世界、その能力と力で決まる順列を守ることで集団の中での生活が許される、そんな厳しい掟で集団が維持されている。注意深く観察すると他にも数々の掟があり、それを守ることで集団で暮らすことが許される、牛はそんな掟を守る集団なのです。

ここ小板はツキノワグマの生息地、近隣の山林が人工林に変わって、自然の食料が減りました。一方、登山客やトレッキングなど観光客が増加し、弁当のなどの残り物の味を覚えて集落の近隣で生活する個体が増えました。彼等は生きるための知恵を持っています。知能も体力も野生動物の中でも図抜けて高い。他の文章で報告した様に見浦牧場でも被害が出ているのです。

もともとこの地帯のツキノワグマは性質が温和と言われています。
天候が良くて、山にドングリや柴栗が豊富で食べ物が充分あれば、牧場の周りで気配は感じても、牛の餌を狙って畜舎や倉庫を荒らすことはありません。
ところが自然は時々悪天候も贈り物とする。山が不作で食べ物がなくなると彼等の頭がフル回転をする。生きるためにね。人間の周囲に現れて、農作物を狙い、果樹園を荒らす。そして畜舎に侵入して牛の餌を横取りをする。それでも足りない時は倉庫を壊して餌をあさる。

十数年ごとに、極端な悪天候がやってくる。輸入や備蓄の取り崩しなど、人間は生きるための手段を持っているが、それを持たない熊君は最後の手段として牛を襲うのです。

襲撃されて死亡した牛は、これまでに7頭あまり、食われたのは2頭ですが、追い回されて暴走して死亡、恐怖のショック死など死因は様々ですが、この50年間にかなりの被害がありました。

ところが牛も知能が高い動物、熊に対する恐怖は集団の中に知識として蓄積されて弱いながらも対抗する方法を編み出しているのです。
まず、1―2頭で行動することがなくなりました。近くで熊の気配を感じたら集団が大きくなり、一箇所に留まる時間が短くなります。たとえ美味しい草があっても絶えず移動します。そんな集団の行動を見ていると、熊がどの方向にいるのか、近くなのか、気配だけなのかが判るのです。
もっとも乳離れをしたばかりの子熊だけの時は集まってからかっていましたから、危険に際して彼等なりの判断を持っているようで、さすが高等動物と変な感動をしたものです。

朝夕、牛を見ながら生活していると、人間と同じように個体によって少しずつ性質が違います。優しい牛、気の荒い牛、仲間をいじめる牛、いたずら牛、など様々です。
ところが注意深く見ると、いじめる牛の集団は小さくて、いいリーダーで優しい牛の集団は大きくなるのです。

思い出すと見浦牧場の最初は1―2頭飼いの農家が生産した子牛を買って初めたのです。放牧しても夕方になると人間が集めて畜舎に連れて帰らなくてはなりませんでした。そして10数頭に増えた頃も夕方の牛集めは仕事の一つ、しかも何頭かは別行動、広くもない牧場を探して歩くことが日課でした。
ところが何時の頃からか、この作業がなくなりました。別行動の牛が出ても数頭以上の集団を組みます。熊の被害が出始めた頃からですね。

彼等は自然の摂理に從って行動しているのです。1頭でいる時に襲われたら100%殺される。ところが集団が大きいほど、殺される確率も確実に小さくなる。そして集団の大きさを、リーダーの優秀さと優しさが決めている。この法則に気付いた時は驚きましたね。動物の本能は人間の教科書より素晴らしいと。

戦後の日本経済の高度成長で道路が良くなりました。生活も豊かになりました。市場経済の恩恵を受けて一般の人達も、それなりの恩恵を受けました。そして、すべての事柄をお金に換算して利害を判断する悪しき考えが常識化しました。田舎から思いやりや、助け合いの精神が消えて、「なんぼ呉れるんなら助ける、儲けにならないなら、わしゃ知らん」などとぬかす奴まで現れて、殺伐な雰囲気が流れることもある、そんな時代になりました。

私が「ヒューマンリング」に書いた当たり前の人助けが美談となリました。文章「同行崩壊す」を読んだ人が感心して、これでないと田舎は成り立たない言ってくれました。当然のことが忘れ去ろうとしていると。

イギリスの産業革命をもたらした原始資本主義は極端な格差を生み出して、底辺の人達は基本的人権まで否定されました。この問題を理論的に論破したマルクスの資本論は議会制社会主義と一党独裁の共産主義の政治体制を生み出しました。しかし、70年余りの共産主義の政治体制は崩壊し、人間はひとつの枠、ひとつの考えに押し込むことは不可能だと答えが出ました。
そして時代はアメリカの修正資本主義、全世界がこのシステムに飲み込まれました。しかし、メイフラワー号でアメリカに移住したイギリスの清教徒のグループは資本主義の欠点を聖書の教えでカバーしようとしました。それが世界に修正資本主義を広める要因となりました。
が、日本人はキリスト教と資本主義の微妙なバランスで成り立っているアメリカの方式を宗教抜きで導入しました。いや日本の宗教家がことの本質を理解しないまま、政治に結びついたり、在来の殻にこもったりして新しい役割を担うことを放棄してしまった、私にはそう感じるのです。

敗戦から70年、都市には高層ビルが林立し、新幹線の高速運行は当たり前に、高速道路と自家用車は当然の必需品になりました。そんな豊かな日本なのに、何かが欠け、何かが間違っている、それが私の文章が思いもかけない人達に読まれ、感銘?を与えている原因では、そう思っているのです。

私は昭和29年に日本社会党に入党しました。「格差のない平等な社会」のモットーは、動員で強者が弱者を搾取する現実を少年の目で確認した私には魅力でした。が、この組織の中にも様々な格差があり、差別がありました。
広島であった若手党員の研修会で当時の江田書記長が会の終了後、取り巻きだけを連れて街に繰り出して行った時、理想と現実のギャップを感じたものです。

ある時、県本部に前田先生(山県郡の活動家の大先輩)のお供で立ち寄った時、呉の市会議員の立候補者と立ち話をする機会がありました。「どうして社会党ですか」と、お聞きすると「選挙で票が集まるから」と当然のように答えられた。思想信条が同じだからという言葉を期待していた私にはショックでした。左の人間でも目前の利益が優先するのだと。

しかし、前田先生は私心のない人でした。正しいと信じたら利害は思考の外でした。そのせいで加計町の3大名家の一つと評された前田家が崩壊したのですから、その生き方は私に影響を与えました。弱者に助けを求められたら全力を尽くせと、前田先生、私の親父さんなど、私は何人かの素晴らしい人生の師を持つたのですが、貧乏からは逃れることは出来ませんでした。でも、理屈だけの人間にならなくて済みました。

理論は大切です。しかし所詮は人間の考えたこと、絶対はありません。それを自然の摂理で補正しながら参考にして生きる、その一つが無学な農夫の社会構造論なのです。

たった、それだけのことなのに「見浦さんの方へ、足を向けて寝られん」と感謝された時は心臓が引っくり返るほど驚きました。平凡な人間にはショックが大きすぎた。
当然のことを、ほんの僅か、お手伝いしただけで、その言葉をもらえたのには、私の社会構造論が役立っているのかもしれません。

2017.3.11 見浦哲弥

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