2017年1月22日

5度飯

春が来て田植え時になると大畠(見浦の屋号)は5度飯になる。朝5時になると五月女さんの頭が(上殿のおばさん、大畠の女中頭みたいな人で親父様でも頭が上がらなかった)「哲弥さん起きんさいよ」と起こしに来る。泊まり込みの五月女さんの起床時間だ。そして、お茶漬けをかきこんで田植えの苗取りのために田圃へ出る。春とはいえ5月はまだ寒い。日によっては苗代は薄氷が張っていて、5年生の男の子には厳しい気象である。尻込みしても跡取りの男の子はこのぐらいは我慢しろと容赦はなかったね。

それにしても5度飯は都会の3度の食事が当然だった子供には異様だった。勿論、貧しい田舎のことである。漬物と自家製の味噌汁、5度の内、1度か2度、野菜の煮物があればご馳走の世界、魚や肉は盆と正月、食べられるだけ有り難いと思えの世界だった。でも腹が減らなくてね。

ある時、集落の会合で喧嘩があった。山国の例とて集まりの最後はドブロク(密造酒)で酒盛り。どうして、そんな話になったのかは覚えがないが、3度飯が常識の時代に5度目飯とは時代錯誤だと大論争になった。終いには殴り合いでね。会合はメチャメチャ、まだ少年だった私の目には異様だったんだ。

そこで親父さんに聞いたんだ。「なんで5度飯なん?」ところが親父さんの答えは予想外だった。「田植の手伝いに来る人は、家では朝飯を食べないで来るんだ。そして夕飯も家では食べないんだ」。小板にも水呑百姓と呼ばれる貧しい家庭がありました。その人達に配慮して5度、飯を出していたのです。そう言えば5度飯を主張した人はどん底を経験した人、時代遅れと攻撃した人は物持ちの若者でした。

それは人のプライドを傷つけないで人に配慮することの大切を学んだ第一歩だったんだ。

社会が豊かになり制度も充実して、その日の食事にこと欠く話は聞かなくなったが、社会弱者は何時でも存在する。そして相手のプライドを傷つけないで配慮する援助は何時の場合でも大切なんだ。

時代は進んで社会のシステムも生活も進化したようにみえるが、声高に正邪を論じる人が多くなった。そして5度飯のような見えない思いやりは日本人から消えた様に見える。それは社会が生き続けるための潤滑剤だったのに。

2016.10.19 見浦哲弥

0 件のコメント:

コメントを投稿

人気の記事