昔は年寄りはどちらかといえば役立たず、邪魔者扱いでした。ところが日本が経済大国と発展するにつれ、功労者として大切にしろとの政府からのお達し、そこで始まったのが敬老会。
当初は小学校分教場の運動会に便乗、教場の窓際に設えたひな壇に座らせられて、婦人会の手作り弁当をいただくという敬老会が出来上がりました。
当日の接待係は婦人会長と部落長さんと決まっていて、自分の子供が運動会の主役というお母さんはいい迷惑、他家のお父さん、お母さんが子供と運動会を楽しんでいるのを横目で見ながらお年寄りの面倒をみるという、行き過ぎた敬老会でした。
そのうち分教場も本校に統合されて、小板に運動会もなくなりました。それでも9月15日が来ると分教場の教室に年寄りが集められて手作り弁当をいただくという構図は続いたのです。でも想像してください。子供たちがいない教室で年寄りがぼそぼそと世間話、世代が違う接待係の部落長さんと婦人会長さんが、仕事や家事や子供に気をやりながら貴重な時間をつぶす、今考えると昔の出来事や集落の歴史、仕事の内訳など貴重な知識を聞くための大切な時間だったのですが、そこまでは気がつかなかった。
そんな時代の部落長を押し付けられて、「今年も敬老会かー」とため息をつく私に家内の晴さんが例のごとく一言、「そんならホテルでやったらええ、飯を食って風呂へ入って、気兼ねがなくて、年寄りは喜ぶで」。
4キロばかり離れた深入山のふもとに”いこいの村広島”という年金基金で建てられたホテルがある、それを利用はできないかとの彼女の提案は、いつものことながら的を得ていました。
いわれれば招待されるほうも気兼ねしている、接待係とは年代が違って話題も少ない、そんなシステムより、日常と違った食事をし、お風呂に入ってのんびりできる、忙しい現役の人間がいらいらしながらの接待よりは喜ばれるかもしない、そう思いましたね。
後は費用が問題。役場から敬老会用と支給される金額はそう多くはありません。送迎用のマイクロバスの派遣を含めてホテル側と交渉、やりくりで何とかできるとわかったときはうれしかったですね。
最初のホテルでの敬老会は好評で、おまけの食事後の入浴は大好評、参加のお年寄りから「よかった」とお礼を言われましてね。
ところが、反対派のボス連中は大批判、見浦は集落の行事を独断で変更した。民主主義をいい始めたのは見浦ではないか、それが民意を踏みにじったと喧々囂々の騒ぎになりましてね。これは予想外の反響でした。
でもこの件では主役の接待を受ける老人たちが喜んでいるのだからと、ほっかぶりを決め込んだのです。おかげでますます反対派の評判は悪くなりましてね。が私の任期中はこの方式で敬老会を押し通したのです。
さて、後任の部落長に反対派のボスが就任、早速見浦色一掃に乗り出しました。中でも敬老会改革?は世論(小さな集落でも世論はあります)の支持を得る最短距離と意気込みなすった。
そこで最年長の某おばあさんに、今年からは敬老会は旧方式で行いますと通告したといいます。ところがそのお婆さんが怒った。「のんびりできて、お風呂まで入れてるのに、どうして変えなきゃならん。わしゃー反対ぞ」と「実は前々回から敬老会をホテルでやると決めたのは見浦の一存で、部落の決めでなかった。それで元に戻したいから」と返事をしたとか。ところがこのお婆さんは小作人をしながら、貧乏の中で営々と5人の子供を育てた気丈者、そんな答えでは引き下がらない。「敬老会は年寄りを慰労する会ではないのかい?部落のために開く会なのかい?わしゃー見浦さんの敬老会のほうがええ」と譲らなかったとか。
この一言で小板では、敬老会はホテルで食事してお風呂にはいってマイクロバスで送迎してもらう今のシステムが確立したのです。
反対派のボスたちも敬老会に招待される年齢になりました。今日は敬老会とご夫婦がお迎えのマイクロバスに乗られる風景を遠くから見て昔を思い出して複雑な気持ちになりました。
でもこれが底辺の庶民の素直な姿、それを理解し、それでも支えていかないと小さな集落は成り立たない。私もそれが理解できる年齢になりました。人の世は複雑で面白い。命の終わりまでそれを楽しんで生きようと思っています。人生万歳。
2011.9.15 見浦 哲弥
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