2023年2月18日

ねこやなぎ

2021.1.23 まだ厳寒なのに先日から冷たい雨が降る。冷たいと言っても雨は雨、昨日今日と雪が減って重い雪に変身した。今日は堆肥置き場の除雪でカッパを着ての作業、時はまだ1 月、春は遣いから、まだネコヤナギの蕾は見えないはずと小川を覗いたら、小さな白い蕾が伸び始 めていた。自然は春を忘れてはいないなと少しばかり心が暖かくなった。

最近は天気予報も正確になって、ほぼ1 0 0%近く当たる。私の子供の頃はラジオの天気予報よ り下駄を放り上げて、その表か裏かで判断をしたほうが正確なんて失礼なことを口にしたものだが、最近は降り初めの時間から雨量まで、ほぼ正確に予測する。もっとも日本の地形は複雑で局所的な予測の誤りは防ぎようがないが、昔を知る人間の一人として100%の信頼を置いている。

その天気予報によれば月末にもう一度、寒波が襲来すると云う。積雪で遅れた仕事が山積している身としては悪天候はなるべくこないで、私の健康維持に協力して欲しいと厚かましい願いをしている。

そこに膨らみ始めたねこやなぎの芽、こりゃぁエエことがあるかなと思ったり、衰える体を考えて春にはたどりつけないなと悲観してみたり、人間は弱い生き物である。 

しかし、自然は人間の思惑には関係なく粛々と時を進める、残った時間が判明しない私はプラスに考えたりマイナスに悲観したり。

 独り寝の私は最期は一人でだ旅立つ、その覚悟は出来ているが、本来は気の弱い私はちょっぴり寂しいだろうなと、考えたりして。 

でも精一杯生きたっもりだ。自然がご褒美に春風の時までの時間をくれないかなどと、儚い願いを持ってはいるがね。

小板の春は素晴らしい。あの爽やかな春風をもう一度味わうことが出来たら、望むだけなら誰にも遠慮はいらないはず。 

ねこやなぎの芽が大きくなり始めた。老人の堂々巡りの考えをよそに、自然の時は休むこを知らな い。 

2021.1.23 見浦哲弥

春風

あと10日で2月である。2月の10日にもなると、一瞬温かい風が吹いて、春遠からじを期待する。それがあと10日の我慢である。今冬は仕事が何もかも遅れて季節に追われどうしだった。従って心にも体にも余裕がない、おまけに老齢と病後の体力低下が相まって作業の能力低下がおびただしく牧場の戦力にならない、そんな無力の私だから後何日で春風が吹くと、ひたすら それを期待している。

ところが神様は中々のひねくれ者で我々凡人の願いとは反対のことをなさる。今年は最近にない降雪で辛うじて準備が間にあったスキー場には恵みの雪だったが、仕事の遅れた見浦牧場には最悪をもたらした。おまけに老人の私の体調はこの冬を乗り切れるかどうかが紙一重の状態にある。肺炎の後遺症、ヘルペスの不安定、その上ヘルニアときた。こんな状態にコロナの恐怖まであって、直近の生きる目標は誕生日までだが後32日もある。どうも人生の終わりは穏やかには行かないものらしい。

今日は1月20日、快晴だが気温は低い、対策がしてある水道も凍った、最近は暖冬が続いて小板にとって有り難い傾向と喜んでいたが自然はそんなに甘くない。久方ぶりの厳寒がやってき た。寒いなと屋外の寒暖計を見れば零下1 0何度、それが日中だからたまらない。もっとも小板で体験した最低温度零下24, 5度、あまりの寒さだったので忘れられない、冷たいのでなくて 痛かったね。 

だから小板の春風は極楽の風と待ちわびる、小春日和の小板はまさに天国、その天気が1年中続くなどは夢のまた夢だが、人の性で、その夢に限りなく憧れる。

先日、亡くなったS川君の口癖は「小板はええ所で」だった。私も同感と何度も話し合ったものだ、冬がなければね。

小板の春は彼の言葉どうりの極楽、しかし、まだ当分は冬将軍は立ち去らない、気弱になった老人がひたすらに春を待ちわびているのに。 

2021.1.21 見浦哲弥

2023年2月8日

除雪で死亡事故

 朝、亮子君が、昨日松原で除雪機の死亡事故があったと報告、名前は発表されてないが事故のあった家はこれこれだとパソコンの画面で表示、地図と家の写真ではH君らしい、高齢者 と云うから間違いはない。松原の友人に確認したいが葬式にゆく気力もないし、ウイルス騒ぎで必要以外は集まるなの要請の中で、要注意の老人の私も動けば迷惑と云う人が多いかも知れないと、聞こえなかったことにした。 

それでも私は働く、後ろを向いたら、そこで私の人生は終わりだと。しかし、ショベルでの除雪はところによるがタイヤがギリギリのところまで川べりに近寄る。この雪のように一度に多量に降雪があると家の周りの小川はすぐにいっぱいになる。勿論、2月の後半にもなると水温も上昇して 投入した雪もすぐ消えて流れてくれるのだが、 1月では水温が低すぎて溶けるよりたまる量が多くて小川がいっぱいになる。ギリギリまで川べりに近寄って雪を押し込まないと処理が出来ない、今年はその典型的な雪なのだ。従って老化した頭脳に極限の緊張を強いての作業、疲れることは想像の以上である。 

雪国では除雪機はぜひとも持ちたい有力な機具である。ところが構造上回転部分が露出している危険な機械の一つ。小さな小板の集落でも2度も事故があった。死亡事故までは行かなかったが不注意に回転部に近づいての怪我あり、騒音で屋根の積雪が滑り始める音に気づかず下敷きになって死亡したの2件。今回の松原の事故の詳細は聞いていないが、除雪機での作業中だと聞いた。 先日、孤独死をしたS君の口癖が「大雪が降らなけりゃ、小板はエエー処ところで」だった。私も全く同感だが、物事には必ず裏側がある、毎日が雪との戦いだが、2月の10日をすぎると春の香りがただよって来る、そして2月の21日まで生き伸びれげ私の90歳まで生きるという目標を達成したことなる。 あと少し機械操作に気を付けて頑張ろうと思っている。

2021.1.14 見浦哲弥

農兵隊のM上君

2019.11.3 見浦牧場ミートセンターへ農兵隊での同僚のM上と名乗ってお客さんが買い物に来てくれた、と店番の家内から伝言があった。が、75年も彼方での同僚、名前を記憶しているのは出身学校が近接の町村の1 0人あまりでしかない。まして旧都谷村と言えば当時の私 には外国、しかも、90近くもなると生き残っている仲間も数人でしかいない。どう記憶をたどっても彼が誰だったか思い出せないのは残念である。

 しかし、農兵隊の1年は私にとって苦難の1年でもあったが、新しい農業への視点をもたらしてくれた。失う物も大きかったが得るものも大きかった。志願して行った七塚原牧場の半年がなかったら現在の見浦牧場は存在していなかった、私の人生では、それほど大きな出来事だったん だ。敗戦後の混乱の小板を振り返ると時代の変化を認識出来なくて敗退していった人の多かったこと。私にとって農兵隊は人生の学びの世界の一つだったのだ。そこでは生き残るための戦いがあって友と呼べる人を得ることが出来なかったが、私を信頼をして生涯付き合ってくれたのはM場君ただ一人だったから。 しかし生き残るのが精一杯の敗戦直前の弱者の集団、それも平等な社会ではなく小利口や強者が力を振るう生存競争、敗戦後のより平等への道をたどった日本の社会からは想像もできない非条理の世界だった。そのなかで七塚原牧場の使役の募集があった時、それに志願したことが生涯のプラスになったのだから、逆境もまた、プラス、マイナスの世界だった。

しかし新庄にあった山県郡農兵隊の本部には楽しい思い出は皆無だったね。敗戦後、マッカーサー司令部の手前、教育機関と看板を替えて、つけ焼刃の教育が始まってからは、数学と理科が得意の私は仲間から大切にされたね。何しろ教える教官が素人、仲間も利口な奴は進学で高校(中学校)へ、勉強ができない生徒が農兵隊に振り向けられたのだから、 1 2 0人の隊員のなかで何とか先生?の話が判るやつは2-3人もいたかな。そんな状態だから、宿題でも出ようものなら大変で出来るやつのところへ殺到する。数学と理科が得意の私のところにも集まったね。もちろん、先日まで鈍いと嫌がらせ専門の連中は、さすがに来なかったが、遠くで睨みつけるだけ。おかげで、後年、私の記憶にない人まで農兵隊の見浦君と親しく声を掛けてくれる、M上君もその中の一人だったらしい。 

何年か置きに開かれた同窓会に1-2度参加したが、大部分が江の川水系の連中、太田川水系の人間は少なかったね。M上君は都谷村だったから江の川系か、申し訳ないが、彼の記憶はその程度である。しかし、何十年も覚えていてくれたことには感謝である。 

私の人生を語る時、農兵隊は良きにつけ、悪しきにつけ、強烈な思い出の宝庫である。あの極限状態の中で生き抜けたのだからと逆境でも頑張れた、その意味では私の大切な記憶である。

 2021.1.14 見浦哲弥

2022年11月23日

カイツブリ

牧場の沈殿池に飛来して来たカイツプリ、小型な水鳥が13羽が小さな池を泳ぎ回るのは愛らしかった、幸い見浦牧場は養鶏業ではないので、鳥インフルエンザにはご縁がない、伝染される心配はないので安心して可愛いねと言う、素直に眺めることができる、牧場に住み着いているカラスたちが餌にはならないかと狙うのだが、さすがのカラスも水の中では手が出ない、池の周りを取り巻くだけ、おまけに飛行速度はカイツブリの方が早い水面から飛び立てばカラス何をするものぞである。

ところが養鶏場に水鳥が伝染すると伝染病のウイルスが蔓延、鶏が死だのでと検査を受けると渡り鳥が運んだ鳥ウルスと云うことで全部の殺処分、そして埋設の報道がニュースソースにのる、越冬のため渡来する水鳥がウイルスの運び屋では対策が大変である。

最も偶蹄目の牛も野生のイノシシも偶蹄目、牛の伝染病が発生すると彼等が運び屋になると云うから、見浦牧場のような放牧形式の飼育牧場では全滅の可能性が高い、近隣に牛の飼育場がないのが唯一の頼みの綱、一種の神頼み、物事は簡単には成功させてはくれない。

牛も口蹄疫などウイルス由来の伝染病があり、何年か前、熊本の周辺で蔓延、全頭殺処分が行われた、あの時はひたすら中国地方にはこないことを祈ったものだ、放牧経営の見浦方式は伝染病には弱い、流行すると、即、羅患、全頭処理の憂き目に合う、他人事ではない。

しかしながら、野生の鳥獣を全滅させて対策するなど言い出す奴が出ないのは、人間にも常識があると云うことか、地道な消毒管理で可能性を少しでも少なくする、その努力の積み上げしかないのだ。

従って牛の伝染病に関係のない、カイツプリは降雪寸前の風物詩、5面ある沈殿池を渡り歩いて厳冬の雪の到来で水面が見えなくなるまでの時間をこの集団が羽を休める、カラスと違って愛らしい姿で水面を泳ぎ回るのは一服の絵である。

小板は厳しい気象条件の中にある。都会の快適な生活環境とは程遠いが、目を凝らせば都会人が見ることのない自然があり、生物の営みがある。その価値を認めるか、認めないかで地域への愛着心が違ってくるのだと思っている。小さな風物画のカイツブリはその自然の贈り物の一つ、しかし、間もなく厳しい冬がやってくる。それが過ぎて温かい春の日が小板に訪れるまで、凍らない水面を探して姿を消すカイツブリ、温かい春の日差しが戻って来て、彼等が北の故郷にもどる前に見浦牧場を訪れてくれる日を思い浮かべるのだが、私の命がそれまで続くかと言われると?マークになる。私も年老いた、愛らしいカイツブリの集団が泳ぐ姿を見れるか否かは神のみが知る、できれば小春日和の日にもう一度会いたいものだと願っている。

2021.1.10 見浦哲弥


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