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2018年5月27日

ショベルが壊れた

2018.2.2 ミニショベルが壊れた。彼の名前は三菱WS200、島根の店頭で売れないで8年店晒しされた機械である。勿論、8年も年式が古いとくればすでに旧型、時は4気筒エンジンの時代に変化していたが、これは2気筒、しかし貧乏な私達は型式や年式にクレームをつける身分ではない、仕事をこなしてくれれば文句は言わないと、大枚80万円を支払って購入したんだ。購入して間もなくシリンダーにヒビが入ってクレーム、しかし、良心的なセールスが修理に奔走してくれて、それからは快調に見浦牧場を走り回ってくれた。導入時に800時間ぐらいだったメータは数年もたたない内に3000時間を越え、メーターケーブルが切れてから十数年、この機械だけは動かなかった日がなかったから、もう1万時間は遥かに越えたのでは。その機械が遂に黒煙を上げて終焉した、もっとも活躍を必要としている時期にね。

20年余り過酷な使われ方をされた機械である。終焉があるのはやむを得ないが、時期が悪すぎる。新たに導入するには昨年末からの出費で見浦牧場は目下金欠状態でやり繰りを考えると頭痛がする、が、仕事は待ってくれない。老人の頭脳に命令をして考えるのだが、なかなか良案が生まれない。錆びついた頭脳がやっと出した結論は、予備の運搬用ミニショベルのバケツを修理してさしあたって代用する案だ。どう考えても他に良案は浮かばなかった。底の抜けたバケッツの修理は大改造の大仕事だが、いくら私が老人でも1週間あれば目鼻が付くと踏んだのだが・・・・・。

どこで迷い込んだのかは知らないが、87歳になる老翁にまだ仕事が押し寄せてくる。幸せなのか、不幸せなのか、私は幸せだと信じることにしているが。

2018.2.2 見浦哲弥

2018年5月13日

高齢者講習

高齢者講習なる制度がある。自動車の運転免許の更新に関する制度である。確か75歳以上になると運転免許の更新は、この講習を受けた後でないと受けられない。時代は長寿時代、高齢者が激増して、老化が進行した運転手がハンドルを握る、おまけに高齢者に多いアルツハイマー病を始めとして記憶力の低下などの認知症を発症する割合がふえて、これに起因する交通事故が多発し始めた。前進と後進のレバーの位置を間違えてお店に突っ込んだり、ブレーキとアクセルのペダルの踏み違いで人身事故を起こしたりと、老人の痴呆絡みのニュースが多い。そこで高齢者の免許更新に新しい歯止めが設けられたと言う次第である。

私も年相応に物忘れが進行中、特に記憶する能力の低下が著しい。トラクターのレバー操作など昨日までは考えることなく出来たのに、一瞬、どうだったかと迷う。もっとも先輩の友人は田圃の中でレバー操作の記憶が消えてトラクターが立ち往生、隣家に故障したと駆け込んで笑い話になった。確かその時点の年齢は今の私より10歳は下だった。そんな事もあって現在の私の悩みを本気で聞いてくれる人はいない。が、私も確実に人生の終わりに近づきつつある。

現在は3月から施行された、痴呆の選別検査なるものにパスしないと高齢者講習も受けられなくなった。そして、その講習を受けるために11月1日に沼田自動車学校に出向いた。

久方ぶりの高速道路、単独運転は慣れるまで少々不安だったが、長い運転歴で通い慣れた道、思い出すにつれて快調に走る。もっとも制限速度を確実に守る運転は後続車の追い越しの連続、これのほうが怖かったね。指定時間の2時間前に到着、時間を持て余す。なにしろ当方は足が痛い、歩き回って時間を潰すの手段が取れないので閉口したね。

指定時間に教室に向かう。試験官の職員は顔なじみの人、彼も老人になっていた。受験者約20人、全員が私より若いと思われる人達、くたびれかたも様々である。席が隣の男性「オジサンなんぼの」「86よ」「俺より3つ上か」と。

テストは例によって16通りのイラストが幾つ覚えられるかの試験、正確な現在の日付、曜日、時間、住所、氏名、電話番号、年齢、の記入、指示された時間を正確に時計の文字盤に書いて表現するの3点。ところが意地が悪いことに問題を見せた後に、別の話題を持ち出して関心をはぐらかしてから答案用紙に記入させると来る。記憶力の低下は個人ごとに異なるが、最初のイラストの試験が老人には一番つらい。示された時は確実に覚えたと思っていても、間に他のことが耳に入ると見事に記憶が消える。懸命に思い出そうとするが何のイラストだったか思い出せない。若い諸君には想像もできない老人の世界なのである。

それに比較すると他の2点は私には覚えやすい。もっとも電話番号は多少の不安があるが、時計の文字盤は時間から時間の毎日の仕事のつながりで、こればかりは自信がある。お隣の紳士君は「覚えたと思ったのにイラストは3しか書けなかった」と、そして「家の周りしか自動車に乗らないのに難しいことになって」と憤慨。「あがー言いいんさんな、お互いこの年まで、この元気は有り難いんで」と話すと「そがーいや、そうじゃな」と機嫌をなおして「次の講習は一緒ならええですのー」と。

そして1週間後だという公安委員会からの通知を待ったんだ。

先日、その通知が来た。成績は80点、75点以上は正常と判断されて、次の高齢者講習の費用は3000円安い。摘要に「正常です、痴呆症ではありません」ときた。早速、次の高齢者講習を申込んだのは言うまでもない。これで後三年はトラックに乗れる。今日は、まだ元気だという話。

2017.11.10 見浦哲弥

2015年1月6日

酒断

私を知る人の多くは、見浦さんは酒が嫌いと認識している。
事実 酒席は嫌いだし、たまたま 同席しても一滴も口にしないのだから、お酒は駄目のレッテルを貼られているのも当然だが、昔を知る人は本当にしてくれない。

本当はお酒は美味しいと思うし、一汗かいた後のビールは最高の甘露だと感じもする。妹の結婚式で酒の飲めない父にかわつて列席のお客の返杯を受けて回って前後不覚になったこともある。それがある時を境に一滴も口にしなくなったのだから、その前後を知る人が不審に思ったのは無理のない話、「何、俺の杯は受けられないというのか」とすごまれた事もあるのだから。

40年近くも昔の話しです。畜舎を見てきた私は今晩はお産はないと判断したのです。
牛は分娩が始まる一日前位から食欲が落ちる、そわそわする、他の子牛を気に掛ける、など何かしら兆候があるものです。一日の作業の終わりに予定日の近い牛は必ず観察してお産に備える。それでも知らない内に生まれたと言うことが半分以上いますから自然は有り難いのですが。
しかし、難産も少なくはないのです。胎児が大型だったり、産道に入るのに姿勢が悪かったり、奇形だったり、様々な理由で。

でも、人間の介助で大部分の胎児の命を救うことが出来る。それが畜産家の腕前だと思うし、たとえ家畜でも与えられた命を救うことは使命だと考えているのです。

その晩も何頭かいたお産の予定の牛を見て今夜はお産はないと判断して、晩酌を飲んだのです。一日の労働を癒すささやかな休息でした。
ところが夜中になって一頭の分娩が始まりました。しかも胎児が大きくて難産になりました。哺乳類は骨盤の中を産道が通っています。筋肉だけなら伸縮ができますが骨は拡張は出来ません。帝王切開で取り出すか、間に合わないときは胎児を糸のこで切断して取り出すか方法は限られています。しかし、大部分の場合は前足を伸ばしてその間に頭を乗せ、最小の断面にして引き出せば助かる事が多いのですが、産道に入り始めると臍の緒が圧迫されて血液を通じての酸素の供給が遮断されるので、分秒を争う作業になるのです。

正常でも微妙な作業、アルコールが体に入っている状態では気は焦っても体が動かない、指先が思うに任せない、時間だけが空回りする。ようやく引き出した時は完全に死亡していました。最初に子宮の中で手に触れた時は元気で動いていて死産になるとは思はなかったのに。
アルコールが子牛の生死を分けた、恐ろしいと思いましたね。家畜とはいえ命は命、一時の安らぎの為に子牛の命を犠牲にした、飲まなきゃ良かったと後悔しても後の祭り、ほぞを噛む心境でした。

その日から酒は断ちました。悪友達が酒席で一滴も飲まない私に鼻先に杯を突きつけてこれでも飲まないかとからかっても、あの命の消えて行く瞬間を思い出して耐えました。
何年か経ちました。いつの間にか私が酒好きだった事は、誰も忘れていまいました。
そして、見浦は酒嫌いが定着して、何十年も経ちました。そして、煙草も吸わず、酒も飲まずで81歳まで長生きをさせてもらいました。今でもあの夜の子牛の命が消えていった瞬間の悔しさが忘れられません。でも、それが長生きに繋がった。人生は何がプラスで、何がマイナスになるか判らない、不思議なものだと思っています。

2012.3.16 見浦哲弥

2014年1月28日

ラジオ体操

2013年7月 夏休みがやってきました。我が家の腕白孫、3人もラジオ体操が宿題の一つ。眠たがるのをたたき起こして体操をする。私たち老人も形だけの参加をするのですが、昔習った体操とは違う、先生役の亮子君を見ながらの体操です。ところが出来ない形がいくつかある。何しろ二人とも80歳を越していますからね。でも員数にはなる。

ラジオ体操で記憶にあるのは三国での夏休み、いまと同じように朝の体操会に参加することと決められていましたな。学校に行ってもよし、町内会の体操会に参加してもよし、ただし参加の捺印を貰うことが条件でした。私は母の許可を得て弟と二人、町内会の体操会に参加することに決めました。
会場は愛宕山、汐見の家から500メートルばかりの町屋の裏の小さな丘、頂上に広場がありましてね、そこが会場。学校の会場はそこから700メートルばかりの登りで離れていたからな。

時間になると町内会の叔父さんがラジオを大切そう(当時は貴重品でした)に抱えてのぼってくる。私たちのほかに何人かいた子供は大勢の大人に混じって懸命に体操をする。でも朝は眠くて困った。目覚めの悪い孫たちを見て昔も今もと変わらないなと苦笑する。

「お早うございます」と大声で挨拶をする。これは母から厳しく教えられたこと。始めは「お早う」の返事だけのオジサンが、終わり頃はいろいろ声をかけてくれて、嬉しくて夏休みが済んでも、愛宕山の体操会には通った。確か秋雨が降り続くようになって止めたのかな。初めて大人に存在を認められた小3の頃、懐かしく思い出す。

ところが我が子のラジオ体操は記億がない。確か15分ほど離れた分校の体操会に子供たちが通ったと思うのだが覚えがない。何しろ貧乏に追われて生活を維持することが全てだったからな。

さて、今年のラジオ体操である。メインの三人の孫たちはゲームが忙しくて夜が遅い。したがって朝が眠い。不平だらだらを、亮ちゃん(お嫁さん)が叱咤激励するのだが、言うことを聞かない。これではならじと朝の牛飼いが済んだ晴さんが(家内)曲がった腰を伸ばして参加。そうなると無視するわけに行かず私も参加。曲がらない腰を曲げ、飛べない跳躍は省略してみんなにあわす。ところが最近のラジオ体操は私の小学校の頃とは違う。皆を見ながらワンテンポ遅れたラジオ体操、それでも員数にはなる。

そのうちに、和弥も参加、律ちゃんもワン公の散歩のついでにと全員体操になった。こうなるとメインの腕白坊主達もサボるわけに行かぬ。何とか全員のラジオ体操が続いた。

真夏の早朝は小板の数少ない財産、すがすがしい深入山、流れ行く雲、そして澄んだ空気、その中での毎朝のラジオ体操は私たち夫婦に結構な贈り物になった。

もっとも、これには落ちがあって、学校が始まると子供たちがストライキ。7時半にはスクールバスがやってくるので時間がないが口実。これで見浦家のラジオ体操会は来年まで中止ということになった。

もう私たちは結構な年寄り、来年があるとは限らないが、楽しみにしている。

2013.10.7 見浦哲弥

2014年1月17日

総力戦

見浦牧場は主力の和弥夫婦と私達老人二人組の4人体制で運営している。勿論80を越した私と家内はサポートだが、それでも私が畜舎の掃除、家内が肥育牛の餌やりが責任範囲だ。
ところが家内の晴さんが時々入院する、途端に私の仕事が多くなる。ま、何とかこなせるので問題にするほどの事ではないのだが、計画にしたがって休み、食事をし、就寝をする、それと仕事を一致させなくてはいけない、これが思考力の落ちた老人には案外の重荷なのだ。この「計画を立て、実行する」と言う簡単なことがうまく行かないなど、つい先頃までは考えもしなかった。これは思考力の低下に他ならない。老人になると、とんでもないことが起きる。

家内の前回の入院は白内障の手術、入院は短かったが仕事への復帰は1ヶ月あまりかかったな。今回は子宮の全摘出だから身体の負担も大きい、仕事の復帰も時間がかかる。唯でさえ忙しい見浦牧場、彼女も決心がつくまで何年もかかったのだ。思い切ったときは81歳、今度は手術に体力が耐えることが出来るかが問題になった。手術が成功しても回復には時間がかかる、場合によれば現場復帰は出来ないかもしれない。勿論仕事より人命が大切、当然のことだが、それに彼女が欠けた後の仕事の段取りを完全にしないと入院してはくれない。
やっと納得させて入院したのがH25/1/11、手術はうまく出来たのだが、80の高齢は回復が遅くて、本人の仕事復帰を抑えるのが大変だった。3月中旬になり少しずつ外の仕事をはじめて、4月に何とか畑仕事も出来るようになった。
見浦牧場の4人体制を3人でこなしたのだから大変と言えば大変だが何とかなるものである。

復帰とは言え、外の仕事は医者から堅く止められていた。ところがご本人、家事よりは外の仕事が好きと言う根っからの田舎者、一部でもやらせろとのたまう。勿論、雪も消えて一日5時間前後の肥育牛舎の管理は、体力の温存のため無理。
しかし、私も肥育牛の飼養のため、機械作業が重荷になる。畜舎の掃除、堆肥撒きなど、重作業との両立は結構疲れる、彼女が見かねての申し出だが、4月まではと引っ張る,それでもそこまで元気になったのは神様が見捨てていないお陰。

4月も後半になった。彼女ほぼ体力を戻したようだ。ただし頑固病は進行した。もともとの気性の激しい人が頑固になったのだからたいへんだ。これも老化の一つか、元気になった事で良しとしなくてはなるまい、天なる神に感謝している。

2013年の平均寿命は男性が78歳、女性は86歳、女性は男性より8歳も長い。私はもう平均寿命を4歳も越しているのに彼女はまだ6歳も残している。体力があったのは当たり前かと言う事にして納得している。

5月、もう昔に帰った。元気になって牛飼いや畑仕事をしている。今回の冒険は成功したようだ。やはり私の最後は彼女の世話になろう。彼女は「あんたの尻しごう(始末のこと)は真っ平」とのたまうが、元気な方が面倒を見るのは世のならいだから。

2013.5.3 見浦哲弥

追記
7月の参議院選挙で自民党が大勝、財政再建が日程に乗り始める。身近なのは高齢者の国民健康保険の自己負担が 65-75歳までは20パーセントに戻されたが76歳以上は従前どうり10パーセント。ちなみに晴さんの今回の入院費は60数万円、10パーセントだから何もかもで10万円は要らなかった。子供の頃、田川のお爺さんが倒れた時、「一度でいいから医者に診せたかった」はお婆さんの悔やみ言、私達はいい時代に暮らしているのだと思う。

2014年1月7日

熱中症

2013/8/17  熱中症にかかった。以前は熱射病と称した奴だ。連日35度をこす猛暑に、最初は息子の和弥がかかった。外見は変わらないのに仕事にならぬ、テレビでは毎日熱中症で病院に担ぎ込まれた話が多いのに、小板に住んでいる限り関係がないと思い込んだのが間違いのもと、それでも充分水を飲むなど対策をしていたのだが、もう一つの要素を忘れていた。

見浦牧場には2キロ離れたところに4ヘクタールばかりの採草地がある。昔はスキー場だったところだ。スキー場だったくらいだから高低差はある。何回かに分けて刈り取るのだが、例年なら近所に住む熊君の心配だけですむ。ところが今年は猛暑、連日36度を越すというのだから。小板は夏だけは別天地で別荘も増えたというのに、夜まで27,8度をうろうろする、夏の最大の魅力だった風も粘りつく感じで都会と変わらない、とんでもない夏の到来になった。
それでも、草刈も順調に済んで最後に残ったのがスキー場跡の一番急な小山、これを作業機を付けた総重量2トンのトラクターで上下しながら刈るのは毎年恐怖だった。昨年は同じ場所で、トラクターに足をひかれる事故もあったからなおさらで、緊張して注意力を集中して作業、それが悪かった。

時は12時、約1時間の作業で最後の周囲の掃除刈り、これが恐ろしい。草の中に外部から色んなものが転げ込んでいる可能性がある、しまったとブレーキを踏んでもトラクターは止まらない、タイヤが滑走を始めるだけ。異物はないか、滑走はしないか、などと注意力を120パーセントまで発揮する。もう少し、もう少しと自分を励まして、時間にして5分足らず、これが発症の引き金を引いた。

下まで降りてほっとするまもなく異状に気がついた。頭が痛い。「しまった、熱中症になった」、「モアーをたたんで家まで走行できるか」。
道路走行の途中の記億はない。一日に1台か2台しか交通量のない旧国道、何とか家までたどり着いて頭を冷水で冷やし始めて記億が戻った。それから風呂で冷水のシャワーを浴びて身体を冷やして、なんとか落ち着いたと思ったが、熱中症の後遺症が始まった。
熱中症というのは体温調節の機能が変調することだそうだ。一応身体を冷やしてほっとしたのも束の間、頭痛が始まった。ところが日本脳炎の後遺症と異なって、良くなったり悪くなったりする。朝方は落ち着いていて快方かなと思っても、午後になると物凄く疲れて頭痛が再発する、2時間ばかり寝ていると、気力が回復する、その繰り返し、おまけに食欲が消えた、3日間は殆ど食事が出来なかった。

一番大変だったのはコーヒーが飲めなくなったことだ。私は前立腺肥大で昨年末は病院で薬を処方されて服用した。ところが副作用がひどくて、発疹が体中にでて、猛烈に痒くて寝られない。薬剤師に聞いても、どの薬も大なり小なり副作用がある由で、私の体質がこの副作用に弱いらしい。そこでコーヒーを従前の4杯から6杯に増やして薬は中止したのだ。この民間療法が効いて小便の量が安定していたのに、コーヒーが飲めなくなったのだ。おまけに小便の量も激減、尿毒症の心配まで加わった。

8/24 土曜日というのに小便が出なくなった。明日は日曜日、倒れると緊急病院を探す羽目になる。さすがの私も大田病院に駆け込んで、かくかくしかじかと内科の先生に事情を説明する。先生いわく「明日倒れることはありませんね。小便の量が少ないのです。様子を見ましょう」。何しろ、H家の爺様は「あと一日で田植えが済む、我慢しろ」と言われて、頓死している。小便が止まって頓死するのは肥育牛でも多い病気で進行が早い。さすが私もビビったね。
幸い翌日から少しずつ小便の量が増え始めて安心はしたものの、微々たる回復で熱中症の恐ろしさが身に沁みた。何しろ今夏は老人が熱中症で大勢死んだというから、私も名を連ねるところだったのかも知れない。

暑さと水分不足を注意することが対策と信じていたが、ぎりぎりの状態では恐怖心も引き金になる、新しい教訓だった。

声を大にして自分に言う、"熱中症の警報がでたら仕事の量を半分に減らそう"。来年はうまくやるぞ。

2013.9.2 見浦哲弥

2013年4月25日

こんな人がいた !!

2012.9.16 思いもかけないことが起きました。
見浦の私設スクラップ置き場が満杯になったので、かねて付き合いのある業者”信栄巧社”引き取り方を依頼したのです。
来場したのはスクラップ専用の10t車と信栄巧社の軽トラでの手伝いの人の2人、いつもの社長は他に仕事が入ったとかで姿が見えなかった。
スクラップは思いもかけず2台以上もあった。買い取った隣家の倒壊した車庫の整理で出た鉄屑が多量にあったためだが今日はその話しではない。
それは、信栄巧社の置き場までトラックが往復する時間の間に起きた小さな出来事。

湯来まで往復すると2時間ばかりかかる。手伝いのオジサン、60ばかりかな、食事に行ってもまだ時間があまる、小さな車の中での時間潰し、手持ちぶさたを見かねて私の文章”幻の古戦場”を差し上げた。暫くして再び通りかかると、「面白かった、実は私は歴史ものが大好きで、小説から歴史書までずいぶん読んだ」と話しかけられた。

彼は上深川の生まれで、高校中退で広島で解体屋に就職、現在は自分で営業している。近頃は仕事が少なくてねと、その業界の話しをしてくれた。こちらも異業種の内輪話は大好きで興味深く聞かせて貰ったね。

私の文章に興味を持たれたのならと手持ちの”愛国心を考える”、”こんな処で、こんな話しを聞こうとは”、”こがーなお客さんがおるんじゃけー”を追加で差し上げた。
ところが私も忙しい81歳の現役、立ち話を続けるわけにも行かず、やりかけの仕事を済ませて再び通りかかったら、”こんな話し”のアームストロング砲は気が付かなかった、あれだけ歴史書を読んだのにと悔しがる、おまけにマスコミの愛国心の解説は納得のゆかなかったが、牛の集団行動から愛国心は家族愛の延長でなくては本当の愛国心ではないの説明で長い間の疑問がとけた、信栄巧社の社長は友達で何度も手伝ったが、その内で今日は最高の収穫だった、来て良かった、日本には私を納得させる人間はいないと思っていたのに、こんな処にいた!。
聞いてる私が驚く程の感激、私の文章でも人に感銘を与えるのかと、その事が衝撃でした。

コンピューターが出来ますかと聞くと、私は出来ないが家内は出来るとの答え、それならホームページで見て下さい、私の文章も掲載してますから、それで読んで下さいと、お願いしたのです。

また来る、是非、また来たいと言って帰られた彼、また人脈が増えた?のかな。
自然というフィルターを通した考え方が説得力を持つのかも知れませんね。
今日は「こんな処に、こんな人がいた!!」と喜んでくれた人がいた、その報告をしました。

2012.9.19 見浦哲弥

2012年6月29日

老化を自覚させられた事故

2012.1.31 とうとう大事故を引き起こして若い連中に迷惑をかけています。私の脳の劣化を自覚させられた事故です。
朝最後に残った牛舎の(上)の除雪にパワーショベルを移動することになりました。いつものことで一人で自走を始めたのですが、前面新雪で川と道路の境は判然としない。いつもなら降車して足場を確認するのに、山側が見えるから川までは距離があると思い込んで進行して土手を踏み抜いて横滑り、小川に転落した。何しろ10トンあまりの重量の機械ですから大変、日ごろは用心していたのにと後悔しても後の祭りでした。
例年は地表が凍結し、踏みつけられた雪も氷になってなまじ地表より堅く、川の上の雪上でも作業ができたのが、今年は地表が凍っていない、雪面は凍っていても地表との境は土も雪も凍らない異常現象が起きていたのを頭が忘れていた。先日も今年の雪は異常だなと確認していたのに、そのことは頭の中から完全に消えていた。そして川岸によりすぎて転落した。

驚きましたね。ショベルが突然横滑り、そのまま小川の中に横転した。最初は何が起きたか理解できなかった。幸い体の一部を打撲しただけで頭はなんとか正常、機外へ出て川からよじ登って驚いた。深さ2メートルの小川に見事にはまりこんでいる。漏油しているかと真っ先に川を覗き込んだが幸い点滴ぐらい。それを確認して家へととんで帰った。
時は厳冬、粉雪がちらつき、気温は零下。私の機械事故の中では最大の事故。老化による思考力の退化を痛感しました。

バケツ容量4.5のショベルは重量が10トンばかりある。引き上げるには大型のクレーンが必要。戸河内の中前石油に依頼したら全機種出払って、手元にあるのは小型車のみで都合が付かない。それにクレーン車は雪道に弱くて積雪があっては協力はできないと。
こうなると智恵を振り絞ってでも自力であげるしかない。隣家の島川君の協力で息子と3人、あーでもない、こうでもないと雪の中で悪戦苦闘、これが目下の現況、あきらめないのが見浦の身上だが、さすがに頭が痛い。

ところが今年は2月にはいっても連日零下何度が続いて作業にならない。春先の出水を考えると胸が痛むが、手のうちようがない。ついにあきらめて正式に引き上げを依頼した。路面の雪が消えたら作業をするとの約束で、心は急くが他に対策のしようがない。現場を見に来てくれた土建屋さんは護岸を破壊して引き起こしてあげるかと提案、しかし、公共物の破壊は修復しておくとはいえ問題が多く、しかも、いまは厳冬、改修は春先以降になる。そしてこの方法で引き上げられる保証もない。悩みに悩みぬきましたね。おかげで食欲はなくなるわ、狭心症の症状は出るわで散々になりました。

幸い3日間の努力で、真横から45度の傾きまで引き起こすことに成功。漏油もないので4月までは目をつぶることにしました。一応役場には届けてあるので処罰は受けるでしょうが、これは自業自得、何があってもあきらめることにしました。
しかし小川とはいえ断面の1/2を遮断している。大水が出ると溢れそうで、最悪を想像すると夜が眠れない。人生の終わりにはとんでもないことも起きるものです。
どうも私の人生は波乱万丈、いつも落とし穴が傍らに控えている。この調子では最後の瞬間はどんな終わり方になりますやら、平和な臨終ではなさそうです。

老人になるということで恐ろしいのは、思考の退化、脳細胞の減少だと何かにつけて思い知らされています。モノ忘れ(ド忘れと言います)が進むのは老人の共通点ですが、私はまだタイヤショベルが操作できる。恐ろしくて疲れは人一倍ですが、牧場の労力配分の中ではまだ作業から離れるわけにはいかない。大変辛いことです。さすがにパワーショベルは恐怖で操作できなくなりましたが、この調子ではこのパソコンの操作もできなくなるのも時間の問題、皆さんに近況を報告するのも不可能になる、その日は遠くなさそうです。

3.9 中前石油に依頼してあったレッカー車が来ました。標準35トン最大50トンの吊り上げ能力の巨大な車が現場に入って吊り上げてくれました。
1月半も川の中に鎮座していたショベルが動き始めたときは嬉しかった。レッカー車のゲージが12トン強を示した由で、他の方法ではだめでしたね。が転落時の3日の作業で45度の傾きまで起こしてあったものだから、雪解けの増水でもかろうじてエンジンルームには水が入らなかった。おかげでエンジンが動いてアームを動かすことができた。
アームをたたんで最高に持ち上げて、それにワイヤーをかける、それが機体を傾かせずに吊り上げる唯一の方法、目が点でした。アームにワイヤーをかけるその工法は知らなかった。
エンジンが動かないと大変だとつぶやいた中前の工場長の言葉が重かったのですね。厳冬の3日間の雪中作業が無駄でなかったので、今回のアクシデントも最悪よりは少しよかったなとは和弥の弁です。
吊り上げられたショベルはオガクズ小屋の前においてあります。片方のキャタピラがはずれていますが、これは春が来て雪が消えてからはめるつもりです。
ただ、事故がなくても軽い財布が今度の支払いに耐えることができるかと今度はそちらの心配をしています。

現金なもので川の中にショベルがないと気が軽くなりました。悩んで悩みぬいたのがうそのようですが、今度は何をしでかすかと不安で時間が過ぎていきます。

2012.3.15 見浦 哲弥

2012年2月11日

2.26事件と私

2.26事件は昭和11年に起きた、日本陸軍の過激派が起こした政界要人暗殺のテロでした。
昭和天皇の考えを押しつぶして、大陸侵略に日本を引きずり込んだ、平和日本を語るときには忘れてはいけない、忌まわしい、そして貴重な教訓でした。
それが、中国山地にすむ一農民の私の傍らをとおりすぎていった、今日はその話を文章にしましょう。

昭和11年2月21日、東京で陸軍によるクーデターがおきました。
当時困難を極める国際状況の中、平和的な解決を模索するが言おうと、東北地帯の打ち続く凶作で貧困のきわみに追い込まれた農村の救済のため、軍部の予算要求に大鉈を振るった財政、それに反感を持った一部将軍と過激な青年将校が起こした、政府転覆のテロでした。
この事件で、拡大一方の軍備予算に大鉈を振るった高橋是清大蔵大臣、昭和天皇の平和的外交を支えていた木戸内務大臣、軍部の過激派を抑えた首相の海軍大将岡田啓介ほかの政府要人が暗殺されました。

事件後、陸軍の意見を代弁したとて、反乱軍を鎮圧しない軍の優柔不断ぶりに怒り心頭に発した昭和天皇が、「朕の大事な重臣を暗殺した反乱軍を誰も鎮圧しないならば、朕が近衛師団を指揮して征伐する」と発言されて、あわてた陸軍が急遽鎮圧し、首謀者を即決裁判で銃殺、加わった兵隊はその後の危険な戦線に繰り返し送り込んで戦死させてもみ消し、歴史からの抹殺を図ったのです。
巷で噂された本当の首謀者、某陸軍大将は軍の司法官が懸命に立証しようと努力したにもかかわらず、影の圧力で罪を問うことができませんでした。
日本は、これを境に破滅の戦争にのめりこみ、何百万人の国民と二千万人といわれる外国人の命を犠牲にしたのです。

なぜ私がこの事件に大きな関心を持ったか、それは頭から離れない強烈な場面の記憶があるからです。
それは真っ黒な広いお庭に煌々と燃える篝火(かがりび)、喪服を着た大勢の人、黒い着物の母が狂ったように泣いていました。
近親者が集まった松尾大佐のお葬式だと知ったのは、何年か後、5歳の子供が鮮明に覚えているのですからよほどの衝撃だったのですね。

小学2年のとき、通っていた旭小学校の校庭に大きな胸像が建てられました。陸軍大佐松尾大蔵の銅像です。そのころから父や母から2.26と呼ばれた日本陸軍による反乱とそのテロで時の政府の要人が数多く暗殺されたことを少しずつ教えられ、長じるにつれて関連の本を読み、その概要を自分のものにしたのです。
今日では、多くの人がそれぞれの立場でこの事件を論じています。素人でしかない私が論評を加えることはやめますが、青年のころ、父の従兄弟のYさんにこの事件で何があったのかと聞かれたことがありました。当時福井の見浦家に下宿して女学校に通学していた彼女には何も知らされなかったか、事件の巻き添えにすることをお恐れた父母が何も話さなかったのでしょう。そこで、私が知る限りのことを話したら、「哲っちゃん、あんたよく知ってるね」と感心されたのは事件後50年もたってから。

そこで偏見かもしれませんが、私が知る限りのことを書いておくことにしたのです。

当時の首相は福井県出身の海軍大将岡田啓介、元来海軍は幹部養成の仕上げに必ず遠洋航海で世界の各地を訪問する仕組みがありました。
それで装備を維持し、世界の体制に遅れをとらないための研究は陸軍より現実的でした。したがって日本の国力から他国とはことを構えないことを是とする穏健派の指導者が多かったのです。まして、日中戦争解決の目鼻がつかない現実の中ではアメリカやイギリスを刺激しない外交を国是としていました。ところが陸軍は中国の指導者だった蒋介石将軍を支援する米英に一泡ふかすべきの強硬論者が多かったといいます。
その黒幕の総帥が真崎甚三郎対象、彼にそそのかされた青年将校が政府に反対して、穏健政策を堅持する要人の暗殺を目的としたクーデターを起こした、それが2.26事件なのです。

事件当日、義弟の岡田啓介首相の官邸を訪れていた松尾大佐は、玄関の方向で銃声を聞くや、「貴方は大切な体、死んではいけない」と押入れに隠し、壁にかかっていた写真をはずして、「俺が岡田だが」と庭に下りていったといいます。たちまち機関銃の乱射を受けて即死、現在と違って情報の少ない当時、岡田首相の生死は官邸からの脱出が成功して生存が確認されるまで、日本中が息を潜めて様子を伺ったと聞きました。

当時、父は福井第一中学校の教頭、維新革命の妨害をした松尾大佐の一族を皆殺しにするために、金沢駐屯の陸軍が福井に攻めてくるといくので、これで我が一家も全滅か、と覚悟をしたといいます。(母方の野村家は松尾家と縁続きでした)。
青年のときは陸軍の工兵中尉であった父は、福井であった陸軍大演習で福井城の中にあった福井第一中学が大本営(臨時の御座所)になった関係で、当時まだ青年だった昭和天皇のお世話をしたといいます。父が真剣な態度で当時の話をしてくれ、そして巷で伝えられているこの事件に私なりの解釈をもつようになったのです。

反乱鎮圧後、軍法会議が開かれて真相究明が行われることになったのですが、事件に直接関係した将校たちの銃殺でけりがつけられ、本当の黒幕たちに司直の手は及ばなかったと聞きました。新聞その他に公然と指摘された真崎将軍には何のお咎めもなかったとか、皇道派と呼ばれたこのグループに東条将軍や山下将軍が含まれていて、この人たちが日米戦争の口火を切ったのですから、2.26事件は前哨戦だったと理解しています。

昭和16年12月8日、日米戦争が始まりました。第二次世界大戦とも呼ばれる大戦争です。戦争開始が決まった最高機関の御前会議で開戦を渋る天皇に当時総理大臣だった東条が決断を迫ったといいます。
僅かに、この戦争は何年で済むのかと聞かれたとか、それに一年半と答えた東条に、その後長引く戦争にお前の話は違うと責められたとか、業を煮やした東条が天皇暗殺も検討したとか、真偽様々な情報が流れています。

戦後、天皇は戦犯と主張した私に、父は人の噂だけで軽々に判断をしてはいけないと意見したのです。それなら親父さんは知っているのかと反論する私に、「彼はそんな人間ではない」と断言したのです。そして前述の話をしてくれたのです。

歴史が中国山地の片隅に住む私の傍らを過ぎて行った話、どうでしたか?
でも気をつけて探せば貴方の周辺でも大きな歴史の破片が転がっているのではありませんか?ただ知らないだけ、知ろうとしないだけ。

2011.10.1 見浦 哲弥

2011年7月24日

こんな処で、こんな話を聞こうとは

あれは、牛肉の輸入自由化が国際問題になったころですから、もう何年前になりますか。
中国新聞社会部の友人から電話がありました。「おい、見浦君、取材をうけてくれんか」、
中国新聞の連載記事”中国山地”に登場してからは何人かの記者さんと知り合いになりました。その一人からの依頼でした。
何事ですかと聞くと、「アメリカの特派員から依頼されて」とのこと。
即座に断りました。「恥をかかせなさんな、わしが英語が出来ないことはよくご存知のはず、真っ平ご免で」

当時は日本の肉牛農家に大問題が持ち上がっていたのです。それは牛肉輸入の自由化。

日本の自動車をはじめとする工業製品が、安くて高品質とアメリカ市場で競争力を発揮、危機感を抱いたアメリカ政府は見返りとして圧倒的競争力を持つ農産物の輸入増大を日本に迫ってきたのです。その一つが牛肉輸入の自由化、広大な農地と一農場が何万頭という規模、それに対する日本は零細な農場で10頭余りも飼えば大きな農家といわれる畜産業、結果は最初から決まっていると、死活をかけた反対運動が全国の肉牛農家に起きたのです。

S記者は言葉を続けます。
「あがー(そう)いいなさんな。向こうの依頼は面白い農家を紹介してくれとゆうんじゃがの、優秀な農家はぎょうさん(沢山)知っとるんじゃがの、面白い農家はあんただけなんよ」
「甥坊にハーフのカナダ人がいての、わしが英語ができんでえらい苦労したけーの、真っ平御免なんよ」
「そこは心配いらんよ、優秀な通訳を連れていくけぇ、助ける思うて受けてくれや」
「そこまで言うんなら今回だけやで」

当日現れたのは記者さんと背の高い外人さんの2人、約束が違うと思ったら、外人さんは流ちょうな日本語を話す。聞けば東大の新聞学科に留学中とか、サイドビジネスで特派員をやっていると。
彼の名前や会社名は聞いたと思うのですが、その後の議論のショックで定かな記憶がない。確かなんとかジョージだった気がするのですがね。

彼は開口一番「牛肉の自由化はどう思いますか」と聞いてきた。
私が答えたのは「賛成ではないが、反対はしない」でした。
それを聞いて彼曰く、「この話で牧場関係者に意見を聞いて歩きましたよ。でも全員が絶対反対と答えました。貴方のような意見の人は一人もいませんでした。その理由を聞かせてください。」と食い下がってきたのです。
「お答えしてもよろしいのですが、それには私の歴史観から説明しなくてはなりません。長くなりますが、よろしいですか。」
「結構です。聞かせてください。」

秋の小春日和の午後でした。庭石に腰掛けて、話し始めたのです。

「初めにお断りしておきますが、私は初等教育しか受けていません。申し上げることが我田引水で正しい歴史観から外れているかも知れません。あくまで山奥の農夫の戯言と聞き流してください」と前置きして。

・・・
私の先祖は関ヶ原の戦いで西軍に属し、負け戦の落ち武者狩りに追われて中国山地に逃げ込んだと聞いています。各種の文献によれば、当時の日本の人口はおおよそ2700万人、それから徳川幕府が270年続いて完全な鎖国政策を敷きました。300年後の明治初期の人口は約3000万人といわれています。内戦も外国との戦いもなかった幕府の政権の下で人口がほとんど増えなかった。もちろん新しい水田の開発や長崎の出島を通じた多少の技術流入があったにせよ、この間に3000万人にしか増えなかった人口、これが日本という島国が養うことができる人口の限界を示していると思うのです。

ところが、明治維新から日本の人口は急激に増加しました。敗戦時の1億人(植民地の人口を含みます。)この間たったの85年、それから60年あまりで1億3000万人、この急激な人口増加の原因は日本の経済発展によることは誰もが知っています。

しかし、この発展は外国から資源を輸入して、加工して輸出する加工貿易であることは当然のことですが、それが成り立った条件を深く考える人が少ない。自分たちの生存につながる話なのに。

明治維新のときに、フランスは徳川幕府を、イギリスは薩長連合を支持してインドで成功した用に日本の植民地化を期待したとの評論があります。しかし、隣国中国で起きたアヘン戦争の結果を熟知していた日本人は、西郷さん、勝さんの話し合いでの江戸城明け渡しにも見られるように、泥沼の内戦には踏み込まず、先進国に付け入るすきを見せなかった。

それをみたイギリスは、日本を友邦国として育て、東洋の植民地経営に利用しようと方向転換をしたのです。そして結ばれたのが日英同盟。

イギリスと同盟を結ぶということは、その貿易圏を利用できる。すなわち、当時世界最大だったポンド貿易圏が利用できるということだったのです。勿論、幾ばくかの制限はあったにしろ、原料の輸入、製品の販売に大きな便宜を得て、勤勉な日本人の国民性と相まって順調な経済発展をし、当時の世界五大強国の末席にまで駆け上がったのです。

その日英同盟の最大の恩恵は、明治37、8年の日露戦争でした。北の強大国、帝政ロシアは東洋での植民地拡大を狙ってシベリヤから南下をはじめました。極東での不凍港を求めて。
そして、日清戦争で日本に敗れて混乱する中国から、シベリヤから東シナ海の大連に至る鉄道の敷設権をえて、鉄道の建設が始まったのです。わずか10年前の戦争で国力を使い果たしていた日本が恐怖したのは言うまでもありません。

僅かな日本の権益も侵害されて、日本自体の植民地化の危険さえ感じたのかもしれません。そして開戦やむなしの結論が出ました。
しかし戦うためには膨大な資金が要ります。工業が発達初期の日本では新型の兵器は外国から輸入しなればなりません。大砲も弾薬も一部しか自給できません。兵器の輸入のための資金は国債を発行して資金の豊かな外国に購入してもらおうとしました。
しかし東洋の小さな島国、当時GNPがロシアの1/6で有色人種で新興国の国債は信用がありませんでした。負ければただの紙切れになる日本の国債の購入は、万に一つの大ばくちですからね。
当時の蔵相高橋是清の奔走があったとはいえ、その国債を売りさばいてくれたのはロンドンの金融街シティー、おかげでなんとか戦費を調達できた。

貴方は日本海海戦で東郷元帥率いる日本海軍がロシアのバルチック艦隊を全滅した大勝利の話は知っているでしょう?昔の教科書では東郷元帥の名指揮と日本海軍の猛特訓の成果だと教えられました。アドミラル東郷の名は世界に轟いたと。何も知らない子供は精神力がロシアの大艦隊をせん滅したと信じ込んだのだから恐ろしいい。この思い込みがアメリカとの戦争に竹槍で戦うことにつながり、本気で竹槍訓練をしましたから、歴史の改竄ぐらい悪質な罪はないと思うのです。
私は読書が好きですから日本海海戦の大勝利に日英同盟の恩恵をまともに享受した日本、それを日本側に都合のいいように捻じ曲げた義務教育の歴史の教科書にたどり着いたのです。

イギリスは当時世界最高と称されたアームストロング砲を日本に軍艦に搭載してくれましhた。しかも最新の戦術を開発した海軍大佐を日本に派遣、その理論を詳細に提供してくれたのです。
次にバルチック艦隊がヨーロッパから極東に航海する経過を世界に散在していた植民地から日本に通報していたのです。

初戦に日本がかろうじてロシアに勝利して旧満州国で追撃し、奉天で軍隊の再編成のために整然とシベリヤに撤退していくロシア軍を、弾薬の不足からただ傍観するしかなかった日本軍。それを見たイギリスはアメリカと計って戦争終結の圧力をロシアにかけてくれたのです。これが日本の窮状を救った。持久戦になり長引けば国力が尽きていた日本はひとたまりもなかったでしょう。

もちろん、権謀術数の国際政治の世界、善意だけで物事は成立しない。かの国の利益につながる思惑があったことは否定しませんが、少なくともイギリスは日英同盟にしたがって行動してくれた。その結果、日本はロシアの植民地にされることはなかったのです。

しかし私が教えられた日露戦争の歴史はこの点に全く触れていない。日本人が勇敢で国民が総力を挙げて戦って得た勝利だと、情報の少なかった当時の日本人は政府の見解をうのみにするしか方法がなかった。

日露戦争後10年ほどして第一次世界大戦がおきました。
ドイツ、オーストリア連合と、イギリス、フランス、アメリカなどの諸国が世界を二分して戦った戦争です。日本も日英同盟にしたがって参戦したのです。
戦争は長期戦になりました。ドイツとフランス国境付近に気付かれた塹壕で持久戦が始まりました。映画「西部戦線異状なし」で日本人にもよく知られています。
戦車が登場し、毒ガスが使われ、次々と投入される新兵器、人的物的資源の果てしない消耗戦は本国が小さく人口が少ないイギリスには大きな負担でした。
そこでイギリスは友好国に協力を要請したのです。

お金持ちのユダヤ人には戦争終了後ユダヤの国を作るという約束で戦費の拠出を、植民地インドには戦後の独立と引き換えに義勇軍の派遣を、日本には日英同盟にしたがって陸軍一個師団のヨーロッパ戦線投入を要請したのです。

大戦の終了後、約束の履行を迫ったユダヤの建国は先住民のアラブの激しい抵抗を引き起こし、現在のイスラエルとパレスチナの紛争となり流血が続いています。
一方独立を期待して義勇軍を送ったインドへの約束不履行はガンジーの独立運動につながりました。これらのイギリスの不誠実は日本の歴史教科書の中で協調されました。

が日本はどうしたのか、「外国の戦争に日本人の血は流せない」と、東洋にあったドイツの植民地を占領することでお茶を濁したのです。ユダヤやインドと違って、日本は日露戦争で借りがあるのにも関わらず、前述の政策で逃げたのです。
相手のイギリスの立場から考えると日本の態度は不誠実、かつ信頼できない相手になったと認識されても仕方がない行為でした。

日英同盟は一年の予告期間を守られれば、一方的に廃棄出来る条項がありました。これに基づいてこの同盟は英国側から破棄されたのです。

日本は明治政府以来の政策で重工業の導入、加工貿易の拡大で国力の増大を計ってきました。
加工貿易は原料の輸入と製品の販売があって初めて成立します。ポンドの貿易圏の利用が難しくなった日本は世界の中で様々な妨害に直面しました。

そこで為政者は考えた。それなら独自の経済圏を作ればいい。そうして当時軍閥が割拠し、国として混乱の極みだった中国への侵略がはじまったのです。それが日本の歴史上はじめての敗戦になった日米戦争につながるのです。

明治維新後に国民が営々として築き上げてきた資産も領土も失って膨大な死傷者を出し、周辺の国々に多大な被害をもたらした無謀な戦争は、自分の利害だけを考えて友邦国の信頼を裏切った日英同盟の破棄から始まっていると思うのです。

牛肉の自由化の問題は日米の国際問題、輸入超過で貿易赤字のアメリカが収支のバランスを目指して得意の農産物の輸出拡大を計る、当然のことです。
それを自国の都合だけで一方的に拒否するのは信義に悖(もと)る行いだと思うのです。
交渉して譲るべきところは譲り、妥協点を探す、それを最初から全面拒否することは間違いです。まして、軍事を含めあらゆる点で緊密な関係にあるアメリカで牛肉で敵対するのは決して国益にならない。
ましてアメリカ、イギリスの政治の中心民族であるアングロサクソンを敵に回すなど、日英同盟破棄の愚を繰り返すようなもの、たかが牛肉で同じ間違いを犯してはならない。
私はそう思っています。

・・・・

そう申し上げたのです。

ところがこれを聞いた特派員氏の反応がすごくてこちらが驚いてしまいました。
彼曰く、「こんな話を日本で聞こうとは思わなかった。それも東京ではなく広島で、広島市ではなく山県の戸河内(現在の安芸太田町)で、それも町なかではなく町境の山のなかで、しかもお百姓さんから。」

そして、今度は自分の話を聞いてくれと話はじめたのです。

彼はアイルランド移民の2世で、母国がイギリスの植民地で200年も苦しんだことを子供の時から繰り返し聞かされた。その植民地政策が過酷そのものだったと。
しかし移住先のアメリカで苦学してハーバード大学に入り、アングロサクソンの友人が数多く出来た。彼らと付き合って感じたことは、この民族の政治感覚が素晴らしいということだった。
イギリス(政治の中心はアングロサクソンが握っている)の植民地政策には批判はあるものの、かれらの政治能力の高さは認めざるを得ない、そう思っていた。
それと同じ意見を日本の、こんな山奥で農民の貴方から聞こうとは。。。。と。

それからいろんなことを話した気がします。気がつくと夕方、肌寒くなっていました。
S記者がアイルランドが植民地だったとは知らなかったとつぶやいたのを、特派員君が猛然と勉強不足だと抗議したのを覚えているくらいで、後は何を話したか記憶にありません。
私の歴史解釈が外国人に認められたショックで、他のことは記憶が出来なかった。

帰り際に「忘れるところでした。今日の目的は牛肉自由化でした。反対しないと言うなら、どうやって競争するのですか、聞かせてください。」と。
そこで「消費者の声をより多く反映することが競争力になると思っています。お国の方は太平洋の彼方から日本の消費者を見る、私は2時間の距離で100万人の消費者と接触できる。これを武器にしようと思っています」と答えたのです。

しばらく考えていた彼は、「今日は勉強になりました。お礼にアメリカ農商務省が抱えている問題を1つだけお教えします。対応する時間はまだあります。頑張ってください。」

5-6年前、退職したS記者が訪ねてきました。昔話の終わりに「外人を連れてきたことがあるけど覚えているかい」と聞きました。「覚えているよ」と答えたものの、あの出来事が私の人生の勲章だったことは胸にしまっておきました。

「こんな処で、こんな話を聞こうとは」は、わたしへの最大の褒め言葉だったのです。

2011.5.5 見浦 哲弥

2010年8月10日

ドキュメント 正義の無賃乗車

思い返すと、当時は些細なことと忘れてしまっていたことも、本当は重大な意味があったことがあります。

昭和20年8月5日、私たちは広島の県庁の建物疎開の作業から、本部の庄原の七塚牧場へ呼び戻されました。
おかげでかろうじて生き延びてこんな文章を書くことができ、人間の運の不思議を痛感しているのですが。

派遣されていた仲間は私を入れて5人、建物疎開とは名目で本部の建物修理用の釘の採取が目的でした。
当時は民間には新しい釘の入手など全く不可能でしたから、知恵者の幹部の発案で派遣されたのです。10日ばかりの作業が済んで1日早い引き上げ命令で、広島駅から芸備線に乗車することになったのです。
当時は旅行も大変な制限がありまして、公式の旅行証明書がないと切符は手に入らない、わずかに発売されている自由切符は長蛇の列、それでも入手の可能性は限りなくゼロに近い、敗戦前夜の混乱の世界でした。

私たちは建物疎開に派遣され、本部に連絡のための旅行と書かれた証明書を持っていましたから、行列を横目に簡単に切符を手に入れたのですが安心したのが悪かった。

広島駅に着いたのは5時ごろだったと思います。切符を手に入れなくては安心できないと、長い行列をしり目に公用の窓口で簡単に切符を買って、さて乗車までは時間がある、駅の周りでも見てみるかと歩き始めてすぐ、仲間の一人が切符がないと騒ぎ始めました。しまい忘れかと服から荷物まで徹底的に調べても出てこない、本人は泣き出すし、皆も青くなりましてね。証明書は切符と引き換えですからもう一度買うことはできません。いまさら行列に並んでも買える目途は立ちません。落としたのかと歩いた道を何度も回りました。当時の切符は貴重品ですから、拾われたら最後出てくる気遣いはありません。
乗車の時間は刻々と迫ります。仲間が「もうどうにもならんで、本部に帰ったら幹部に迎えにきてもらうけぇ、お前はここへ残れーや」と言い出しました。えらいことになったと泣きべそだった彼が遂に大声で泣き出しました。「おいてかんでくれー」。

その時、ふと思ったのです。キセルはできないかと。小板に帰郷する小学5年生まで毎年夏休みには家族全員で福井から広島までの汽車旅行が恒例でした。
駅で切符を買い、改札を通る仕組みは仲間の中では私が一番よく知っている。

当時の混乱の中でも、見送り人用の入場券は誰でも自由に買うことができました。ですから私が考えたように入場切符を使って列車に乗り込むキセルという不正乗車をする人は少なくはなかったのです。
対策として車内の検札は厳しかった。ただ、ぎゅうぎゅう詰めの満員だと車掌さんが仲を通って検札に歩くことができない。それを期待したのです。
もうひとつ、降車駅で改札を通るときの問題があるのですが、父が改札を通るとき、家族全員の切符を扇形に持って駅員さんに渡していたのを覚えていたのです。怪しいと不審をもたれなければ、1枚1枚調べはしない。枚数と人数を確認するだけ、それならうまくいくかも知れない。

「一人置いていかないでくれ」と号泣する向井君(彼の名前を思い出すのに20年あまりかかりました)を見て、こりゃ置いては帰れん、大バクチになるが仕方がないかと考えました。

そこで皆に相談した。実は1つだけ方法があると思うけど、ばれたらただでは済まない。警察が憲兵隊かとにかくトンデモナイ目にあうことになる、それを承知ならと相談すると、号泣している向井君を見捨てて帰るなどと無情なことを言う仲間はいませんでした。置いていかれるのは自分だったかもしれないと思うと、人ごとではありませんでしたからね。
「一緒に帰れる方法があるのなら、それをやろうや。」そこで入場券で乗車して改札口を出るときにごまかす方法を話したのです。
原爆前夜の広島駅は招集された予備校の兵隊さんや見送りの華族、買いだしで田舎にいったオバサンたち、私たちのような動員された学生など、さまざまな人でごった返していました。今でも目を閉じると広島駅の大ドームの下の人いきれを思い出します。

さて、衆論は一致しました。入場券も買いました。予定の列車にもぐりこみました。客車は満杯で立錐の余地もない、これは幸いと思いましたが用心したほうがいいとトイレの前で頑張ることにしました。検札があったら向井君をトイレにいれて他の連中は陽動作戦をするのが打ち合わせでした。
幸いにもあまりの満席で車掌が通路を通れない、恐れた検札はかなったのですが、三次に近付くにつれ、車内が空いてくる、恐ろしくてね。
三次と甲立の真ん中ぐらいでそれまで離れていた芸備線と国道54号線が並走するところがあるのです。三次に肥育牛を出荷するときにそこまで来て線路を見ると、あの時は恐ろしかったなと、恐怖がよみがえってきましてね、何十年も消えませんでしたから、よほどのことだったのですよ。

三次を過ぎるともうすぐ、当時は”山之内東”(現在は七塚)が降車駅、30分もかかりません。5人で何度も何度も打ち合わせを繰り返しました。
私が先頭で切符を5枚見えるようにして改札係に渡すこと、全員は大声で挨拶をして改札口を通ること、駅の明りが見えなくなるまでゆっくり歩いて絶対に走らないこと、ばれたら警察か憲兵隊かでただではすまないことをよくよく考えて申し合わせには従うこと。

駅で降車した人は私たちの他は4-5人だったと思います。真っ暗でしたから8時過ぎごろだったでしょうか「ただいま帰りました」大声で挨拶をして打ち合わせどおり、私が先頭で改札口を通りました。駅の照明がやけに明るく感じて、いつ「オイ君たち」と声がかかるかと、戦々恐々としながら、でもゆっくり歩きました。
駅を出ると20メートルばかりで曲がり角、戦時で街灯は点灯していませんから、そこからは真っ暗、がそれまでが長かった。
全員が陰に入ったとたん、誰が言ったか「走れ!」釘が入った重いリュックサックを背負って全速力で走りました。山道に入って何処でも隠れられるところまできてよ、誰言うともなく「助かった」と、へたばりこんだのを覚えています。

この話は誰にもしないと約束して本部に帰りました。「御苦労だった」といわれても、いつばれるかと心配でした。
しかし、翌日は原爆が落ち、10日もしないうちに敗戦と大事件が続いてこんな小さい事件は忘れられてしまいました。

しかし、この事件は敗戦で社会も見浦家も混乱に次ぐ混乱、生きてゆくことに精力を使い果たした私は思い出すこともありませんでした。ふと広島から帰ったのは何日だったかなと気になったのは20年も過ぎていたと思います。そして当事者の向井君を思い出したのです。
それが8月5日だときづいた時、あのキセルをしなかったら彼を殺していたと。

長い人生には様々なことが起きます。気がつかないうちに少しは善行をしていたのかな?

向井君、幸せに生きているのかな、もう人生を終えたのかな、私も終盤になった今日この頃、遠い昔話を思い返しています。

2009.7.13 見浦哲弥

2010年4月14日

天狗松

母屋の後ろの斜面に生えていた老松が枯れました。私たち3兄弟が子供の時にほとんどてっぺんまで登って遊んでいた松、小学生の私たちが2人がかりでないと手が届きませんでしたから、当時でもかなりの年数だったと思うのです。それから70年近くたちました。あまりにも巨大になっていて、除去するにはどうすればよいかと心配をする始末。大きな枝は川のほうに2本も3本も伸び出て、近くから見るとアンバランスの極限、枝の下は車庫、倒れたら即交通手段を失います。「やれんことよの」とため息の連続でした。

ところが平成20年の暮れごろから枯葉が目立ち始めました。今年(平成21年)の6月ごろには青葉が全く見えなくなって完全に枯死。家内の春さんは、早く専門家に依頼して処理しろとせっつくのですが、農山村は過疎と老齢で専門の職人がいなくて、心当たりの人が思い浮かびません。高所作業が専門のきこりさんは友人を含めて何人もいたのに、老齢化で現役ははるか遠くになりにけり、の人ばかり。やむを得ず私が挑戦することにしたのですが、何しろ高い。あの上に上がると考えただけでも心臓をつかまれるように恐ろしい。
が、後始末はどうしても必要。冬になり、積雪で倒れるまでにはもう時間がない。
追い込まれて退化した頭が考えた。老松はもう死んでいるのだから痛くはない。足場の横木を直接幹に打ち付けても痛みはないはず、それなら登れるかも、と実行することにしたのです。

老松といえば私が小板に帰郷した時に、見浦の墓所の後ろに2本の老松がありました。住み込みの林蔵爺さんが「ありゃー天狗松ですけーの、切ったらたたりがあるますけーの」と御宣託、ところがまだ50代だって親父ドン「迷信じゃー」とぶち切ったから大変、翌年の春から母はガンでたおいれる、冬は祖父が老衰で死亡(82歳でした)2頭いた白毛と赤毛の馬と牛が次々と病死、その挙句に親父様、水車の修理中におっこちてけが、往診してもらった戸河内の丸山医師曰く「肺から空気が漏れる音がする、手の打ちようがない。安静に」とのご託宣、意気消沈した親父ドン、子供たちを枕元に読んで顔を見回しながら、「哲弥、お前は長男、後をよろしく頼む。」私は中学の1年生でしたよ。
親父ドンは運よく何日かして怪我が快方に向かって全快、笑い話になりましたが、天狗松といえば思い出します。

今度の松も私にとっては天狗松、枯れ始めてから私の失火、春さんの交通事故、肥育牛の頓死、そういえば焼けた牛舎だけ火災保険が掛けてなかった等等、並べれば結構あります。縁起担ぎだったら「たたりじゃー。」というところかもしれません。

ところが見浦の家族は能天気、人生は浮き沈み、ええ時もあれば悪いときもある、孫を含めて家族全員なんとか元気、プラスマイナスゼロじゃー。おかげで失敗続きの私も頑張っていられます。

今から60年前、日本は無謀な戦争を始めて見事に敗戦、明治の御維新以来、営々と蓄積した資本も資源もことごとく使い果たしました。わずかに残った国内資源の山林も、消失した都市の住宅再建に燃料にと乱伐につぐ乱伐で丸裸になったのです。日本の経済が再建されて都会がみるみる変貌を始めた頃は、小板の山林には100年以上の大木がある山は5本の指で数えられました。
ですから一般に30センチもあれば大木のうち、木材の値段も高騰しましてね。こりゃー山林はもうかる、都会へ出て就職して退職金や年金をもらうよりは造林をして売れる気を育てるほうが正解と山仕事に精を出す友人がいましてね。ところが日本の経済が大発展、世界第二の経済大国とやらになって、国の銀行にはドルがじゃらじゃら、山から木を切り出して製材して使うより、お店で買ったほうが安い、いい品物がそろうと、国民の目が輸入品に向いて、国内材の安値が続きましてね、退職金代わりに杉の木を育てた友人はぼやくことぼやくこと。

2009年8月19日 最後の足場3本を打ちつけました。前日から明日は懸案の老松の伐採処理をするのでと、息子の和弥に協力を頼んでワイヤーの取り付け作業。てっぺんに上がるのは私ですが、下で工具やワイヤー、ロープを供給するのは彼、私の希望するものを瞬時に判断して細引きに結び付けてくれる、余人には代えられない相棒なのです。以心伝心でないと15メートル以上もある高所では、バランスをとっているのが精いっぱい。もっとも安全ベルトで体の保定はしているのですが、恐怖心は青年時に比べると何倍も大きいのですから。
頂点から3メートルばかりしたの幹にワイヤーを結びつけて本日の作業は終了。明日は高所でのチェンソーの使用、思うだけで身がすくみました。

2009年8月20日 朝、今日は枯れ松を始末しようぜー、と息子に声をかけました。本当は恐ろしくて逃げ出したい自分に声をかけたのですが。
4-5日前から10トンのパワーショベルを背後の高台に据えて準備はできていました。そのショベルと枯れ枝をワイヤーで結び、上部から切り落としていくのが作業の段取りです。
一度に根切りをして引き倒すには巨大すぎて機械の力が足りません。ですから上から枝、幹、と四段階に分けて切り落とすことにしたのです。問題は樹上で切断の作業をすること。足場が不安定ですからこれが一番危険。もちろん安全ベルトは装着して命綱は確保してあるのですが、手鋸でも怖いのにチェンソーの操作とは、恐怖恐怖、また恐怖でしたね。
最初、大きな枝2本は手鋸で2/3ほど切り、後は息子が機械で引き落とす。そのたびに木の上から下りたり登ったり、不安定な足場を頼りに、意地と息子を頼りにうまく真下の車庫に損傷を与えずに作業が済んだときには、ほっとしました。懸案の難事業が事故もなく終了した。夕方には二人ともへとへとでした。

伐採をした老松の年輪を数えた亮ちゃんの報告では130年プラス10年ぐらいとのこと。私の子供の頃にはすでに70歳の大木だった、長い長い付き合いの松の木でした。
この松の木は3代にわたる見浦家の盛衰を見て何を感じたのでしょうね。その年輪を見つめていた和弥は約100年以前に年輪の間隔が非常に密な時期があったのを発見。天候が不良だったかもしれないと話しました。
何時か老松を代弁して物語を書いてみましょうか。

あと半年で79歳、今日は恐怖と戦って枯れ松を処理した報告でした。

2009.9.29 見浦哲弥

2009年9月2日

代用教員

長い人生の出来事で忘れていたことが多々あります。今日はその中の1つの話を聞いてください。

先日、内孫二人を病院に連れていくことになりました。息子は仕事で手が離せず、応援として嫁のお供で私は孫の監視役。
病院は20キロ離れた雄鹿原病院。この地方では60キロ以内の小児科は雄鹿原病院の吉見先生のみ。子供が激減したのですから当然です。
先生は私より10歳ぐらい先輩だったと記憶しているのですが、まだお元気で、見浦家はことあるごとに雄鹿原病院。私も子供も孫も3代にわたってお世話になった、ホームドクターのような関係の先生です。

気さくな先生で、人間性が素晴らしい。身障者の女性を愛されて、大病院院長の父君の反対を押し切って結婚、地方の病院で障害患者のためにつくされた、聞こえてくるのは暖かい話だけ、その先生との会話からの報告です。

「先生、お元気でなによりです。」ここしばらくご無沙汰でしたから、お歳の割にお元気な先生に、お世辞抜きのごあいさつを申し上げると、「2年前に退職したのが、医師不足でまた働いています」と言われました。
先生はしばらく仕事をされた後、思い出したように「見浦さん、確か、代用教員をされた見浦さんですね」と聞かれたのです。
私は小学校しか出ていません。もちろん教員資格はありません。学校で働いたこともありません。先生は誰かと間違えられたのだとそう思ったのです。
が、思い出したのです。あの話だなと。

あれは、小板に松原小学校小板分校があったころ、ダム工事関係のお子さんはもういませんでしたから、昭和35年か6年か。そんな頃だと記憶しているのですが、当時小板分校の藤戸先生から依頼があったのです。
先生は文科系で、理科工作は全くの苦手、冬の間だけその授業を受け持ってもらえないか、子供たちの貴重な時間を浪費するのはみていられないからと。

春から秋まで道路が通行可能な時は、本校から専門の教師が通ってきて授業をしていました。ところが交通が途絶する冬の間は先生が小板通勤するのは不可能に近い。もちろん、全く除雪がされなかった時代とは違って、何度かは交通可能になるのですが、吹雪が始まると1週間も2週間も除雪ができなくて交通途絶。藤戸先生夫妻は教員住宅に居住されていて、女子の家庭科は家内が受け持つので何とかなりそうだが、男子の理科工作、これだけはどうにもならない。見浦さんは電気の資格をお持ちとか、その知識を子供たちに伝えてもらうわけにはいかないか?

私の持っている資格は、電気事業主任技術者の3種と2種、ちなみに3種は工業高校電気通信科卒業の資格、2種は高等工業電気科卒業の資格です。
もともと、数学が好きだった私が、小板脱出のため、6年かけて独学して、ようやく手にした免状でしたが、家を守れとの父の命令で忘れようと努力していた学問。それを役立ててほしいと依頼があったのです。

藤戸先生の熱心な頼みもさることながら、子供たちの時間が無駄になる、という言葉は説得力がありました。自分の独学を振り返ると時間を惜しんで勉強した若かりし日のこと、少年の頭脳にとって、その時間がどんなに貴重であるかを知っている私は、拒絶する勇気がありませんでした。

さて、私のようなものでよければ、と承知して、条件を出しました。理科工作の範囲であれば、教科書にない問題を教えてもよろしいかと。
先生曰く、時間が無駄になるのが怖くての考えだから、貴方の考えで授業をして子供のためになると思う方法で授業してください。
ならば、と考えましたね。子供たちが興味をもって、しかも将来に少しは役立つ教材はないかと。しかも教科書から離れてもよいとお墨付きをもらったのだから、これを100パーセント利用しない手はないと。

当時の小板は農業機械が普及し始めた初期、モミすりや脱穀(稲扱ぎ)が機械化され、子供たちの身近に農業機械を見る機会が多くなっていたものの、大人たちが大切に、難しそうに取り扱う、子供たちが悪戯でもしようものなら大目玉、子供の好奇心が入り込めない聖域でした。どんな風になっていて、どうやったら回るのか、興味津津の世界でした。
10年ほど前の私もそんな事が知りたかったな、そう考えたのです。

ちょうど、三菱の空冷の農業エンジンの手持ちがありました。戸河内にあった吉尾農機店から買った、2.5馬力の小型エンジンが。中古の機械でしたので、何度も分解して構造は知りぬいている。これを教材にしようと思ったのです。

根雪が降って、授業が始まりました。教卓の上に乗せたエンジンを前にして、子供たちに「冬の間、藤戸先生から理科の時間を受け持ってほしいと頼まれました。私は専門が電気工学ですが、子供のころエンジンが回るのが面白くて大変興味を持ちました。そこで、この時間を使って、みなさんにエンジンを教えたいと思います。エンジンが回る仕組みはもちろん、中がどうなっているのか、どんな部品がどんな役割をしているのか、一緒に勉強していきたいと思います。」と。

教材にしたエンジンは、4サイクルの単気筒の空冷。種類や仕組みを黒板で説明する間は、まあ授業だから聞くかという態度だった生徒も、授業が進んで、分解が始まり、部品を前にして仕組みと役割の説明がはじまるとだんだん本気になりました。複雑な機械も分解した部品を1つ1つ手にとって説明を受ければ、誰もがそれなりに理解できる部品でした。
しかし、スパナとドライバーで次々と今まで見えなかった機械の心臓部が出てくる。火花を飛ばすプラグもよく見るとその構造がそれぞれ意味を持っている。その電気を起こす仕組みは、磁石と細い銅線を巻いたコイル。それで電気が起きる。次々と登場する新知識。子供たちの大部分は本気になりましたね。
1月と2月と冬じゅうかかった授業も、分解と説明が済んで、テーブルの上に部品が並べられました。今度はその組み立て。子供たちの目は「ほんまに、しゃーないんかのー(大丈夫なのか)」そう言っていました。実は私も組み立ててうまく回らなかったらどうしよう、内心はどきどきものでしたね。

授業の目的が修理を教えるのではなくて、関心を持ってもらうことでしたから、組み立ては確か2時限か3時限で完了したと記憶しています。そして、いよいよ試運転。”子供たちが注目している。なんとかうまく回って”と心の中では祈っていました。
ところが当人が緊張しているものだから、エンジンも不調。最初はプルプルでおしまい。代用教員の先生が教壇で震えてりゃ世話がない。神様仏様と願った2回目にエンジンに命が蘇ってブーンと回り始めた時は、私のほうが感激しちゃって生徒の顔を見るのを忘れたのですよ。
でも授業が終了してお別れのあいさつをしたとき、彼らの態度は違っていた。そんな感触でしたね。

卒業式の日、畑で仕事をしていたら、学生服姿の上級生4人と出会いました。「卒業おめでとう」という私に「ありがとうございました」と答える彼らの態度が先生に対するそれでした。そう思ったのは、私のうぬぼれでしたか。

それから何年かして、餅ノ木部落の生徒のお父さんに出会いました。開口一番、「おい、見浦君。うちの子に何を教えたのかい。君が教えた生徒が4人も自動車の整備工になったぞ」と笑いながら話して行きました。嬉しそうにね。

50年あまりの歳月の末、思いもかけず、吉見先生の口からでたこの話は、どうして先生に伝わったのかしばらく悩みました。一般に学校の先生とお医者さんがこんなことを話し合う機会が多いとはおもえませんが、藤戸先生が退職されてから伝わったのなら理解ができます。藤戸先生は雄鹿原のお寺の出身、リタイアされてから住職になられました。土地のお寺さんとお医者さん、これなら接触する機会が多くて、こんな昔話が伝わっても不思議はない。こう結論を出したのです。

遠い遠い若かりし日の出来事、その一つがこんな形で蘇りました。まるで昨日の出来事のように。「人の心に住む」というささやかな私の願いが、こんな形で実現していたのかもしれませんね。

2008.9.2 見浦 哲弥

2009年7月8日

裏話 小さな農協の監事の小さい声

ひょんなきっかけから農協の役員に選ばれて、かれこれ15年近く農協の経営に参画しました。
内部にはいって業務が理解できるにつれ、矛盾や改良すべき点が目につくようになりました。
理事時代、組合長をリコールして交代させたこともありますが、今日はその話ではなく、1期務めた監事の時の裏話を聞いてください。

農協の役員は勘弁してくださいと辞任した私に、今度は監事をやれ、と依頼がきました。
もうやらないと言ったのに、どういうことや、と聞くと、役員選考委員会で決まったんや、是非とも引き受けろと。
農協の役員は3年ごとに総代会の選挙で組合員の中から選ぶ建前になっているのですが、実際には旧農協(戸河内農協も戸河内、松原、上殿、寺領、二郷の合併農協)の地区から役員選考委員が選出されて、この地区からは誰と誰を出したいと推薦する。その結果を地区に持ち帰って承諾を得て総会にかける。総会では選考委員会の提出した名簿を承認する、という手順になっていました。
ちなみに松原地区は理事2名、監事1名。

私は4期理事を務めましたから12年務めたことになります。他の方の半ば名誉職?と違って、牧場の仕事で目が回る忙しさ、その中で月一の役員会は苦痛でした。
中島先生の言葉に人生をかけて生きてきた私は、在任中に「次期組合長は君だから身辺をきれいに」と忠告され、そんな話が事実になったら一大事と理事を辞任し、農協の出資金の名義も息子に書き換えて安心していた矢先だったから驚いた。

「名義も息子にして農協から手を引いた、と何度も貴方に話したのに」と怒っても「蛙に小便」で「今から選考委員が集まって代人を決める時間がない」と取り合ってくれない。田舎では役員というと名誉職、それが嫌だという奴の気がしれないと。

泣く子と地頭には勝てないと、新しく出資をして監事に就任、後に責任問題に連座させられて賠償までさせられたのですから、まさに踏んだり蹴ったり、でもその話は又の機会にして、今日はどこでもあった地元農協の見えない裏話です。

さて、監査に就任しました。ところが理事仕事は12年も務めれば経験で大概の業務が理解できますが、監事は素人、勉強もしましたし、経験者のお宅を訪問して話を聞きました。
ところが現実にはどこから手をつければよいか、誰も的確な指示はしてくれない。最年長の元郵便局長氏は算盤を出して伝票の再計算に血道をあげる始末、そんなことは違うのではと思ったのだが、相手が先輩では。

ならば私の道を行くかと、監査会担当の議長に貸付金の帳簿を見たいと要求すると、別室でと案内された部屋の机の上に帳簿が山積みされていました。しまった、これを全部調べるのかと後悔しましたがあとには引けない。関係書類も見たいので、というと、部外秘ですので、と念を押されて借用書までならべられた時には、監査役の権限の大きさと責任の重さに心臓が締め付けられる思いでした。
もちろん、私も農協から融資を受けていましたから、自分の書類もその中に含まれていました。

帳簿の項目ごとに関係書類を照合していくと、借用書の自署捺印の欄の署名の筆跡が同じものが何通かありました。窓口の職員が代書したのでしょうね。これは違法です。
利子の支払がなされていないのが何通か。これはどんな理由で遅れたのか、督促の現状はと課長の説明を要求。目下厳しく支払を請求中で、最後は裁判まで考えている、疑問の項目には当然の処置をとっていると説明を受けるなど、監査の業務にも少しは慣れてこの方式で受け持ちの仕事をこなそうと決めた矢先、とんでもない不正処理の項目が目に留まったのです。

それは、貸付原簿のある項目でした。通常、貸付金は毎年一定の金額で減少していく。これが原則です。元金の返済があるためです。ところがこの項目の貸付金は減少どころか、毎年増えている。しかも小さな金額ではない。この項目の借用書を探し出して確認すると、私の友人、町の有力者で、農協の中でもかつては有力な役員だった。
しかも私の考え方に理解を示して協力してくれた友人。
何度も何度も確認をして事実を理解したときは、頭の中が真っ白になりましたね。農協でも資金関係の情報は関係者以外に漏れてはならないとの鉄則があります。めったなことは口に出せない、そこで担当している金融の課長を呼んで、この貸付の詳細な情報を要求したのです。

やってきた課長が言いづらそうに話した全容は次の通りでした。
数年前から元金の返済が止まったこと、その後利息の支払いもなくなったこと、相手が農協でも有力な役員だったこともあり、対応に苦慮して監査時に監事にも相談したこと、しかし明確な指示がなく、やむをえずこのような違法な帳簿処理で粉飾したこと、等等を報告してくれたのです。

そういえば、組合長と専務が「誰さんはしわい(注:苦しい)で」と話をしているのを聞いたことがありました。この件は根が深く誰もが避けていた案件だったのです。
勘ぐれば、こじれてしまったこの件を解決するには、正論ばかり主張する見浦を使おうと考えていた人がいたかも。
その時には気がつかなかったのですが、以後の経過はそう教えていました。

難問を先送りした前任の監事には腹が立ちましたが、現監事の中では私がずば抜けて長い役員経験者、これは一人で担ぐしかないなと結論を出しました。そこで文章にして同僚の承認を得て理事会の結論にする方法を取ることにしました。

こう書くと、迷いもなく正しい決断をして実行する正義漢見浦と思われるかも知れませんが、とんでもない。
私も農協を通じて国から牧場建設の資金の貸付を受けていましたし、運転資金として、餌代、子牛の貸付など、直接、間接に農協からの借入金がかなりの額になっていました。

私は見浦家の没落を体験して、借金が嫌いでした。ところが自己資金の都合がつく範囲で小さく小さくまとまろうとする考えに、農協の専務さんが「今の時代に事業をしようとすると他人の資本も考えないと成り立たない」と意見をされたことがあるのです。ところが資本論をはじめとして経済の知識を少しはかじっていた私は、その対極にある恐ろしさも知っていました。友人の話は即、明日の私かもしれない。その恐怖心と責任感との間を何度往復したことか。あなたは笑うかも知れませんが、小心者にはつらい辛い決断だったのです。

監事に就任したら最初の集まりで監事のボス筆頭監事を互選します。幸いFさんというベテランの先輩がいたので、全員一致で彼を選んだのですが就任間もなく病を得て亡くなられ、後任はということになりました。前歴からういうと、見浦さん、あなたが筆頭幹事という意見を押さえて、年長のSさんにボスをお願いしました。その関係でSさんは私の意見を尊重してくださいました。悪いけれどこれを利用させてもらおう、そう思ったのです。

そこで、理事会に出す監査報告書は各自が分担した分野を書く、そして総評を筆頭幹事が書くようにと提案して了承してもらったのです。私の報告がうやむやになることを防ぐためには報告書がそのまま理事会に届くことが必要でした。

大口の不正処理の貸付金があること、その貸付金は償還が止まっていて利息の支払いもここ数年なされていないこと、その借受人が当農協の役員であった町の有力者であること。数字と実名を記載した報告書を書いたのです。

しかし、私も農協から融資を受けている身、経済活動の世界では明日は何が起きても不思議はない、努力をしていても彼に起きたことは私にも起きる、わが手でわが首に縄をかけ、絞首台に登るのと同じことではないか。それは恐怖心との戦いでした。

かろうじて自分を失わずに書いた報告書はそのまま理事会に届きました。はじめは黙々と読んでいた理事さん達は、やがて憤然として声をあげました。「組合長、これは事実なのか」、「事実です。」と答えた組合長に安堵の色が見えたように感じたのは、私の思い過ごしだったのでしょうか。前任の監事だった理事さんが口をつぐむなかで、早急に厳正な処理をと理事会の結論が出るのに時間はかかりませんでした。

その後の役員会で、この問題の処理が済んだとだけ報告がありました。聞こえてきた噂は、彼の会社が倒産したこと、彼が病を得て亡くなられたことでした。

私には人の上に立つとか、判断を下す立場などの役割は重すぎて引き受けたくありません。でも人間には逃げられない時もある。
この出来事は、そんな辛い重い決断の出来事でした。

後に安佐農協との合併が成立して、新農協の滝中組合長が旧戸河内農協の役員との懇談会にやってきました。その席上「実は私は6農協(安佐、戸河内、筒賀、加計、芸北、豊平)の中で戸河内農協の経理が一番悪いと予測していたのです。ところが合併して内容を精査して驚きました。一番きれいだったのです。」と話されたのです。末席で聞いていた私は、そのときはじめてあの決断は正しかったのだと思ったのです。

今日は私の人生の中で忘れられない出来事の話、危うく逃げ出すところだった怖い怖い思い出を聞いてもらいました。
見浦さんも人の子と軽蔑しましたか?でもこんな辛い決断は二度とは起きてほしくありませんね。

2009.2.23 見浦 哲弥

2007年5月26日

混浴

 この言葉から想像する場面はたいそう色っぽい。しかし私の混浴の相手は子牛、おまけに糞まみれとくると、大変な勇気が必要なのです。
 18年の暮れ、そのアクシデントが起きました。

 本来、牛は生まれた時はびしょぬれです。母親が必死に舐めて被毛の粘液を除き、体温が一時的に上昇して被毛を乾かす。被毛が乾くと毛が空気を含んで断熱層を作り、体温を維持するシステムが動き始める。造化の神様はすごい事をします。
 春から秋まで気温の高いときは保温の心配はしないですみます。自然の繁殖はこれに合わせて時期があるのです。
 ところが、経済の中で利益を上げる経営をするとなると話が違ってくる。とくに和牛は子牛が生まれないと収益はありません。乳牛はミルクと言うもう一つの収益があるのですがね。だから一年一産が目標になる。必然的に気温の低い時にもお産がある。その対策が重要な技術となるのです。生まれたら出来るだけ短時間に被毛が乾く手段をつくす。その為に母親が舐めない時は、洗いざらしの手ぬぐいを何枚も使って拭く。強力なヘヤードライヤーで乾かす(昔は4-5百ワットの器具しか手に入らなくて苦労しました)。500ワットの投光器を並べて温度の高いエリアを作る。などなどです。
 見浦牧場は屋外の群飼育、お産が近づくと群れから離して産室の牛舎に収容しなくてはなりません。ところが残念な事に私達は人間、完璧を目指してもミスが起きます。記録誤りや思い間違い、原因は様々ですが、結果は笑い話ですまなくなります。

 今回の騒動は乳房の腫れ、陰部の腫脹、腹部の大きさから、空胎と思い込んだところから始まりました。それも複数人の眼で確認してそう判断したから問題です。
 日が暮れて夜の餌やりに繁殖牛舎に上がった私達は、運動場の雪の中に生まれたばかりの子牛を発見したのです。既に体温が下がって微かに悲鳴を上げるだけ、しまったと思っても手遅れ、すぐ住居に担ぎ込んで「風呂を沸かせー!」。昔の五右衛門風呂と違って、安物とはいえボイラーですから、数分でお湯が貯まり始めます。湯温はショックを少なくするため38度、首を支えるため人間が一緒に入って抱えて身体を支えてやるのです。
 嫁の亮ちゃんが聴診器で心音を確認しながら、途切れそうになると顔をひっぱたいてショックを与える。まるで戦争でも起きたようなさわぎです。体温が上がるにつれ微かな心音が強くなる、温度を調節する係りの和弥(経営主)も必死。家族総動員でした。
 風呂で耐える事1時間。ようやく心音も正確になり筋肉に力が入り始めた頃には、私の体力も限界に達していました。しかし子牛の体温はまだ35度。通常生まれた直後の体温は39度前後、まだ不十分でしたがこれ以上続けると今度は人間の事故が起きる。入浴を中止してミルクを飲ませてみる事に決めたのです。
 最初に飲ませるのは乳牛の初乳。子牛は胎盤を通して各種の抗体を受け取る事が出来ません。抗体は初乳で受け取る。しかも腸壁の組織が生まれて数時間で密になるため、単体がかなりの大きさの抗体は、腸壁の組織が密になるまでに飲ませないと吸収されないのです。まさに時間との争いでした。
 しかし、生命力の強さは、時には人間の常識外の仕事をします。
一口、自力で飲み落としたのです。
「飲んだ!」見守っていた全員に、希望の緊張が走ったのです。子牛が一瞬休んで、ゴクゴクと続けて飲んだ時は、「やったー!」と歓声が上がりました。
 生き物を飼う、生命の強さを実感する、この喜びがあるからやめられない。
 一口ごとに身体に力が入り、1リットルあまり飲んでくれた頃は体温も上がり始めていました。「助かったのー」「よかったのー」全員が思いを一つにした瞬間でした。

 あれから110日あまり、毎日4リットルのミルクを飲んだ子牛は、あのドラマは片鱗も想像できない元気一杯の子牛に成長しました,まもなくミルク給食が終わります。
 あと2年の付き合いが終わる頃にはどんな牛になっているやら、私に見守る時間があるのやら、と、色々な思いを持ちながら毎日牛と暮らしています。

2007/4/6 見浦哲弥

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