もう何年昔になるだろう、国道1 9 1号線の改修工事が一時中止になった。その時、はからずも 後始末を仰せつかって、超多忙の毎日の中で、地元の説得やらお役所との折衝やらで1年を棒にふった。当時、金儲け組が新道を種に横車を押しまくって工事が中断、その連中が新道が完成し たら昔を忘れて利便を謳歌しているのを見ると、あの時のことは忘れたかと嫌味の一つも言いたくなる。世間では珍しくはないことだが。ま、文章にして残して溜飲を下げるかと、書き残すことにしたんだ。
前口上はこのくらいで国道1 9 1号線が建設されるとき、深入山の北側にと運動したのは我が曾祖父の亀吉爺さん、小板の将来を最優先した我儘だったかもしれないが、おかげで過疎が声高に言われて山村の崩壊が始まっても、小板集落は比較的穏やかな住民の減少で壊滅的な激変は免れた。私は亀吉爺さんの国道1 9 1号線の深入山北側コースへの無理押しが遠因の一つだったのではと思っている。その視点からすると亀吉爺さんは先見の明があった。
ところが頂点の水越峠は海抜8 8 0メートル、ひょうたん曲がりと呼ぶ小さなつづら折りの頂上付近の急坂が降雪時の交通を妨げる。そして堀割った峠は雪のたまり場、ブルドーザーで押しても難所であることには変わらない。それは小板に遅い春をもたらす、国道1 9 1号線の最大の難所だったのだ。
それを深入山の南側に付け替えれば最高点が海抜820メートルと峠の高さが各段に低くなる。たかが6 0メートルと言うなかれ、中国山地の脊梁を越す1 9 1号線最大の難所だったんだ。それが改修の目玉の一つだったのだから。
貴方は覚えているかもしれないが、功罪半ばの田中首相が日本を復興するには物流の効率化が大切と主張、その一つが道路を改良、整備、新設、して交通利便の改革を図らなければ日本の復興はないと、ガソリン税なる制度を作った。その内容がすごい、本体のガソリンより税金の方が高い、おまけにガソリン税は全部道路改良と新設に放り込むと云うのだからとんでもないと思ったものだ。そして至るどころで道路建設と改修が始まった。砂利道が舗装道路に、1車線が2車線に、曲線道路は直線になって建設業が1大産業になった。○○組などと云う巨大建設会社が出現し、小さな田舎町にも建設屋が乱立した。そして競争に次ぐ競争、起業をしない人間は労働者として比較的高賃金の建設業で働いた。
ところがもう一つあってね。道路の拡幅や付替えの為の用地買収、これがゴネればゴネるほど値上げになると思い込んだ人達が出現、おまけに、そこ以外に通すところがないとなると地価が暴騰、儲けた連中がでた。金儲けの話はこんな山奥にも伝わってくる。ところが田舎の御仁が知る頃には、すでに時代遅れになっているのだが、金に目がくらむと人間は非常識になって平常心では考えられない行動に出る、そんな人が小板にも現れてね。後始末で難儀をさせられた。
1 9 1号線国道の改良工事の一つは島根と広島の県境から始まって、安芸太田町に向かって進行した。気がついてみればお隣の甲繋(こうつなぎ)集落まで到達していて、物好きにも見学に 行ったものだ。曲がりくねった1車線の道路が2車線に改良されていて、つづら折りの曲線も穏やかに、そして直線に、木造の橋は頑丈なコンクリート橋に変貌していて、凄いねと感心したものだ。
改修が町境の道戦峠に間近になると、小板にも役場の建設課と県の建設事務所が用地買収の話でやってきた。ときは小板一番の財産家と言われた某氏がちょうど自治会長で小板の代表、用地買収で一儲けと考えたのだから、小板も運が悪い、いや後始末をさせられた私が最悪の被害者か。現地説明とて某氏が案内してここをと指差した土地は彼の所有地、しかも数箇所もあって、その1角を必ず通れと強要、曲がりくねったその路線は改良どころか改悪、第一繋がらない、案内されて呆れた係官の顔は今でも目に浮かぶ。ところがそれを聞いた住民の中から一人で決めるのは民主主義ではないとの声、あわてた某氏、道路改良の会合を開いた。その過程が、あまりにも 馬鹿馬鹿しいので欠席したのだが、出席した人が報告にきて白く、 「各人が最良と思うところに 新設道路の希望線を書き入れてくれ」と、のたまったのだとか。金儲けの話は伝わるのも早い、 自治会長氏が自分の土地のことだけで新設道路の予定線の変更を要求した話は皆さんすでに全員が御承知、遠慮することはないと自分の土地の1角を通る予定線を書き入れた、 6本だったか 9本だったか忘れたが、切れ切れの新道路の予定線が提案されたんだとか。さすがの某氏これには手を焼いた、ご自分の都合はそのままに、関係者を説得するのは不可能と思ったらしい、それで、この道路改修問題はほって置くことにしたんだとか。
当時、 (現在でも楽ではない)危機的状態だった牧場を放り出して道路改修問題に首を突っ込むわけには行かず、危うきは近寄らずの方針が私の現実だった。ところがお隣の松原の自治会長から「小板は道路改修には興味がないらしいから、松原と板ケ谷の路線から改修をお願いする」と言ってきた。農協の合併の時に、はからずも混乱を収めた事があって、私は松原では小枝の実力者?との認識があっての申し入れ、勿論、買いかぶりだったがね。戸河内から松原にひたすら登る路線は海抜300メートル足らずの役場前から600メートルを越す虫木峠への急坂を登る難所、松原集落の早期改修の願いの強かったところだ。小板が道路改修に反対ならこちらを先に、は当然の話し。云われて、この問題は某氏が自分の都合で放置してあったな、と気がついたんだ。世話をするのは勘弁してもらいたいが、道路の改修は見浦牧場にも出荷や餌の購入で是非ともの事業、それが5~10年も繰延になるとは笑い事ではない、逃げるわけにはゆかなかった。収拾ができないと気がついた某氏が故意に放置したなと気付いたんだ。そこで松原の自治会長氏に、すぐに対策をするからしばらく時間をくれろと願ったんだ。
ところが松原集落にもこの問題は切実、小板の対応のまずさは絶好のチャンス、簡単には譲ってはくれない。仕方がないので、松原が先行すると云うなら板ケ谷から深入山に道路トンネルを新設するように運動すると脅したんだ、あくどいとは思ったがね、板ケ谷は虫木峠の登り口、地図で確認してもらうと理解できるが板ケ谷、虫木峠、深入山を線で結ぶと正三角形、虫木峠―松原の路線は、この三角形の2辺を走る、板ケ谷と深入山をトン ネルで結ぶと距離は1/2になる。先日、島根県の長大道路トンネルを見学に行ったばかりだから、まんざらの空論ではなかったのだが、これは格好の脅しになったね。松原氏に「判った、待つからトンネルの話はするな、その代わり小板の道路改良は速やかにやれ」と要求されたんだ。
こうなっては逃げるわけには行かない。小板に帰って中堅のO氏とH氏にこの話をしたんだ。O氏は小さな木材業者、H氏は食品の移動販売の仕事、両者とも道路の改良は切実だった。
両君とも話を聞いてすぐ行動した、何しろ生活がかかっている、道路改良の内情を知ったからには放っておけない、早速、某氏のところに押しかけて道路改良を促進しろと要求した。ところが何本も予定線を作り上げた原因が自分にあることは某氏もご存知で、それをすぐ解決して役場と県に交渉して 道路改良を進行させるなどとは、お坊ちゃんの某氏は恐ろしくて返事ができなかったらしい。そこで何年も放置しておいて今更できないと云うのなら自治会長を辞職しろ要求して辞任させたと。
それから両君が今度は「どうする」と聞きにきた、時間がないから自治会の会合を開いて事情を話して私を自治会長に選挙しろ、急いで体制を立て直して役場や県と交渉しなければ道路改良 は松原が先行する、それが嫌なら直ちに行動を起こせと、だだし、O君とH君は道路委員として協力してくれることが条件だがと。勿論、お隣まで伸びてきた立派な道路を諦めて松原に先行を譲るなど、お人好しで金儲け好きの某氏以外に反論する人はいなかったとか。
2―3日もしないうちに会合が開かれて私の要求が全部通った、そして今度はどうすると来た。勿論、ここまで来れば逃げるわけには行かない。役場に連絡して道路改良の話を進行してくれ、集落の意見は統一したと伝えたんだ。
役場の担当者は喜んだね、県と間で言い訳に苦労していたらしい、早速、飛んできて打ち合わせ、来たっいでにと現在の大規模林道の交差点(当時は林道は建設されていなかった)付近の所有者に道路改修で用地買収の問題がおきたらどうしますかと聞きに行ったんだ。小板で2番目の 某某有力者をつれてね、ところがここの親父さん、かねてから小板の金持ちを信用していない、 上手いこと話に乗せて利用するだけで裏切るからと相手にしない、某某有力者が「ワシが立ちあって居るのだから信用して」とのたまったが「余計悪い」と話に乗ってこない、ついに役場氏、見浦を呼んで頼もうと云うことになった。そこで呼び出し、忙しいのにね、道路改修の進行を役場に申し入れている関係で行かないわけに行かない、「私が聞いたから、もし話がちがったら自分のこととして戦う」と約束、途端に親父さん「見浦さんが受けあってくれたら前向きに話す」 、と豹変、某某有力者のメンツは丸つぶれ、お陰で生涯「見浦の野郎」と恨まれたね、勿論、底辺の人たちに信頼のない某某氏の家は息子の代で傾き始めて倒産、崩れかかった巨大な藁屋根はまだ 残っているが、所有者は不明である。
閑話休題、建設事務所がやってきた。「今度は見浦さんが代表だとか、小板の要望は何ですか」 と。 「一つだけあります、改修道路と旧国道の接点が都合とはいえ離れすぎる、できるだけ集落 の中心に近づけてもらうこと」と、お願いした。他はすべて県の方針に従うと、特に場所は指定しなかったが、小さな谷が埋められて現在の乗り入れ口になったんだ。
工事は急ピッチで進行したが用地買収で問題がでた。杉の植林地で植えて3-4年目、2度目の下刈りがすんで伸び始めた杉林を通ると云う。流石に持ち主の親父さんが頭にきたね、そこで道路委員の3大衆の登場、ところが買収の価格には国が定めた評価基準がある、その項目に当てはめて買収金額を設定する、現場の査定員が勝手に金額を変更するわけに行かない。ところが査定価額が一律でね、何年生だから〇〇円と云う査定。貴方はご存知かもしれないが、 植林は皆伐をして枝葉は横畝に積み上げて畝の間をきれいに刈り払って苗を植える、積雪で傾いたり、食害にあったり、枯れたり、雪起こしあり、植え替えもありで、枯れ苗の捕植もする、その上、 2度目の刈直しありで、 4-5年までが一番、手がかかる、その前半があって造林した木が やっと伸び始める、買収する植林地はその段階だった、やれやれと思ったところに買収騒ぎ、文句を言ってきたから自治会長として聞いた、買収の査定には一本一本切って年輪を数えて査定す るのかと、査定官いわく、そこまではやらない、それなら、せめて10年くらいの年数の評価をしてもらえないか、それで終わりと云うことで、と。査定官が渋い顔をしたのは云うまでもないが、こちらの言い分を真剣に考えてくれた、それで話が纏まるのならと。ところが欲張りのご当人これは交渉次第でいくらでも値上がりできると思い込んだ、10年生ではまだ足りぬ、40年で査定しろとね、さすがに査定官も、この無理難題には承知しかねると相談にきた。「ほっておきましょう、どうせ工事は5-6年はかかる、その間に解決がつかなければ公用地の強制買収の法律を適用しましょう、地元は反対しませんよ」と。係官は喜んだね、それきり欲張り爺様のとこ ろには係官は現れなかったとか、欲張り爺様は見浦の世話にならんでも県庁に勤めている友人に頼むと憤慨したとか、それでも工事は着々と進行、爺様期待の友人氏の世話の話が聞こえぬうちに解決したらしく、完成時に所長さんが挨拶に来て日く「大変お世話になりました、何か記念品を差し上げたいが」ときた。「滅相もない当然のことをしただけ、鉛筆の1本でも貰ったら私の信用は丸つぶれになる」と丁重にお断りしたんだ。 ちなみに申し添えるが道路用地に私の山林も買収されて2 0 0万円余の代金をえた、ところが道路問題で飛び回った関係で牧場も2 0 0万円を越す大赤字、資金ぐりで四苦八苦の見浦牧場には痛撃だったね、ゆきががりで道路改良に付き合ったのだが厳しい選択だった。
しかし、新道で問題を起こした連中が颯爽と利用するのを見ると、嫌味の一言も言いたくなる。そして私は大人物ではなかったなと、自分に言い聞かせている。
2021.1.18 見浦哲弥