2023年2月8日

農兵隊のM上君

2019.11.3 見浦牧場ミートセンターへ農兵隊での同僚のM上と名乗ってお客さんが買い物に来てくれた、と店番の家内から伝言があった。が、75年も彼方での同僚、名前を記憶しているのは出身学校が近接の町村の1 0人あまりでしかない。まして旧都谷村と言えば当時の私 には外国、しかも、90近くもなると生き残っている仲間も数人でしかいない。どう記憶をたどっても彼が誰だったか思い出せないのは残念である。

 しかし、農兵隊の1年は私にとって苦難の1年でもあったが、新しい農業への視点をもたらしてくれた。失う物も大きかったが得るものも大きかった。志願して行った七塚原牧場の半年がなかったら現在の見浦牧場は存在していなかった、私の人生では、それほど大きな出来事だったん だ。敗戦後の混乱の小板を振り返ると時代の変化を認識出来なくて敗退していった人の多かったこと。私にとって農兵隊は人生の学びの世界の一つだったのだ。そこでは生き残るための戦いがあって友と呼べる人を得ることが出来なかったが、私を信頼をして生涯付き合ってくれたのはM場君ただ一人だったから。 しかし生き残るのが精一杯の敗戦直前の弱者の集団、それも平等な社会ではなく小利口や強者が力を振るう生存競争、敗戦後のより平等への道をたどった日本の社会からは想像もできない非条理の世界だった。そのなかで七塚原牧場の使役の募集があった時、それに志願したことが生涯のプラスになったのだから、逆境もまた、プラス、マイナスの世界だった。

しかし新庄にあった山県郡農兵隊の本部には楽しい思い出は皆無だったね。敗戦後、マッカーサー司令部の手前、教育機関と看板を替えて、つけ焼刃の教育が始まってからは、数学と理科が得意の私は仲間から大切にされたね。何しろ教える教官が素人、仲間も利口な奴は進学で高校(中学校)へ、勉強ができない生徒が農兵隊に振り向けられたのだから、 1 2 0人の隊員のなかで何とか先生?の話が判るやつは2-3人もいたかな。そんな状態だから、宿題でも出ようものなら大変で出来るやつのところへ殺到する。数学と理科が得意の私のところにも集まったね。もちろん、先日まで鈍いと嫌がらせ専門の連中は、さすがに来なかったが、遠くで睨みつけるだけ。おかげで、後年、私の記憶にない人まで農兵隊の見浦君と親しく声を掛けてくれる、M上君もその中の一人だったらしい。 

何年か置きに開かれた同窓会に1-2度参加したが、大部分が江の川水系の連中、太田川水系の人間は少なかったね。M上君は都谷村だったから江の川系か、申し訳ないが、彼の記憶はその程度である。しかし、何十年も覚えていてくれたことには感謝である。 

私の人生を語る時、農兵隊は良きにつけ、悪しきにつけ、強烈な思い出の宝庫である。あの極限状態の中で生き抜けたのだからと逆境でも頑張れた、その意味では私の大切な記憶である。

 2021.1.14 見浦哲弥

2022年11月23日

カイツブリ

牧場の沈殿池に飛来して来たカイツプリ、小型な水鳥が13羽が小さな池を泳ぎ回るのは愛らしかった、幸い見浦牧場は養鶏業ではないので、鳥インフルエンザにはご縁がない、伝染される心配はないので安心して可愛いねと言う、素直に眺めることができる、牧場に住み着いているカラスたちが餌にはならないかと狙うのだが、さすがのカラスも水の中では手が出ない、池の周りを取り巻くだけ、おまけに飛行速度はカイツブリの方が早い水面から飛び立てばカラス何をするものぞである。

ところが養鶏場に水鳥が伝染すると伝染病のウイルスが蔓延、鶏が死だのでと検査を受けると渡り鳥が運んだ鳥ウルスと云うことで全部の殺処分、そして埋設の報道がニュースソースにのる、越冬のため渡来する水鳥がウイルスの運び屋では対策が大変である。

最も偶蹄目の牛も野生のイノシシも偶蹄目、牛の伝染病が発生すると彼等が運び屋になると云うから、見浦牧場のような放牧形式の飼育牧場では全滅の可能性が高い、近隣に牛の飼育場がないのが唯一の頼みの綱、一種の神頼み、物事は簡単には成功させてはくれない。

牛も口蹄疫などウイルス由来の伝染病があり、何年か前、熊本の周辺で蔓延、全頭殺処分が行われた、あの時はひたすら中国地方にはこないことを祈ったものだ、放牧経営の見浦方式は伝染病には弱い、流行すると、即、羅患、全頭処理の憂き目に合う、他人事ではない。

しかしながら、野生の鳥獣を全滅させて対策するなど言い出す奴が出ないのは、人間にも常識があると云うことか、地道な消毒管理で可能性を少しでも少なくする、その努力の積み上げしかないのだ。

従って牛の伝染病に関係のない、カイツプリは降雪寸前の風物詩、5面ある沈殿池を渡り歩いて厳冬の雪の到来で水面が見えなくなるまでの時間をこの集団が羽を休める、カラスと違って愛らしい姿で水面を泳ぎ回るのは一服の絵である。

小板は厳しい気象条件の中にある。都会の快適な生活環境とは程遠いが、目を凝らせば都会人が見ることのない自然があり、生物の営みがある。その価値を認めるか、認めないかで地域への愛着心が違ってくるのだと思っている。小さな風物画のカイツブリはその自然の贈り物の一つ、しかし、間もなく厳しい冬がやってくる。それが過ぎて温かい春の日が小板に訪れるまで、凍らない水面を探して姿を消すカイツブリ、温かい春の日差しが戻って来て、彼等が北の故郷にもどる前に見浦牧場を訪れてくれる日を思い浮かべるのだが、私の命がそれまで続くかと言われると?マークになる。私も年老いた、愛らしいカイツブリの集団が泳ぐ姿を見れるか否かは神のみが知る、できれば小春日和の日にもう一度会いたいものだと願っている。

2021.1.10 見浦哲弥


観光は世間話から

2015.9.26 お産の牛や子牛、育成牛用の牧草刈が私の仕事の一つです。毎日、約1トンの草刈は機械化のおかげで2時間ほどで完了します。牧場初期は刈払機で刈り、ホークで軽トラに積み込んで運ぶ、一連の作業は肉体的にも時間的にも大変でした。その草をあっという間に平らげて足らないと鳴く牛達、他家の夕食のにおいのする中、暗闇まで作業をしたことは思い出したくもありません。そんな昔は遠くなりました。 あるお爺さんの話ではないが「昔のことを思えば極楽で」、そんなきつい作業だったのです。

見浦牧場は旧国道と大規模林道に接して牧草地があります。機械化したとはいえ40年も50年も前の外国製のトラクターでの作業は道路を散策する都会人には珍しい風景なのでしょう。立ち止まるのは歩行者だけでなく、乗用車までもとまります。そんな時は機械を止めて一言二言世間話をするのです。
時々は温かい言葉が返って来ることがあります。それが私達、田舎人が忘れかけていることを思い出させてくれるのです。

なぜか昔から田舎の人から話しかけることは少なかったようです。方言の強いこの地方は小学生の頃から標準語を話せ、方言は使うなと教えられたせいなのでしょうか、それとも生活の違いから共通の話題がないと思ったからでしょうか、転校、 転校で違う方言を体験してきた私にはその壁がありませんでした。そして田舎の人は無愛想だなどと思ったものです。しかし、それは間違いでした。標準語の都会人に方言が日常の田舎人は気後れを感じて話せなかったかも知れません。本当は田舎の人も話し好き、都会の生の情報のように、ここ小板の日常の出来事には都会人も興味があると云うことを知らないだけでした。

一方で、都会人も自分たちの生活と異なる社会や生活のしくみに興味をもつている、ただ話しかけるきっかけがないだけでした。その扉が開かれると次々と異次元?の世界の扉が大きく開かれる、興味深々が始まるのです。でもなかなかそんな機会がない、でもきっかけさえ掴めれば立ち話からその地方の産業、歴史にまで話が繋がる、方言を気にしなければ田舎の人も話し好きなのです。

例えば、ここ芸北地区は明治の初めまでタタラ製鉄が生き残った地区、歴史のかげでは松江の尼子氏と吉田の吉川氏が商品としてのタタラ鉄を巡って争ったと云う話を聞いたことがあります。そして小板には関係のありそうな地名が数多く残っているのです。公的に道路地図記載されている道戦峠(ドウセンタオ)、その隣の島根側の集落の名前が甲繋(コウツナギ)、鎧を修理すると読める、集落をながれる小川が太刀洗川(タチアライカワ)、小板側に越して道路脇の峰が鷹の巣城、その麓が城根、その前の谷あいの小川が応戦原、その下流の分岐した小川の小さな原っぱ(現在は大規模林道が通っている)が血庭、まだある、鷹巣城の裏側に麓からは確認できない平地があって隠れ里。

こんな小さな集落にも昔をしのぶ地名が山積している、しかし住民は語り継ごうとはしないし、こんな話が都会人の興味を引くなどとは想像もしない、道端の世間話が、この小板の歴史が観光資源の一つだとは考えたこともない、いやこの話を知る住民は私で最期になりそうである。

見方を変えれば足元に色々な資源が埋まっている、この話は一例にすぎない、都会人が興味をもつ話は山積しているのに、 観光、観光と浮かれている。私は足元の資源も見つめ直して欲しいと思っている。

無価値と思っていることが立場が変われば資源であることが多い、ただ視点を替えて見つめ直す思考がない、都会が華やかだと思いこんでいるだけでは物事が正確にはつかめない、無価値と思うことが実は有用な資源かも知れない。都会の華やかさにつられないで、もう一度足元を見つめ直して欲しい、これは小板に生きた老人の提言である。

2021.1.10 見浦哲弥


ひらべ

2015.8.20 早朝、牛を飼いに牛舎に行く途中、道沿いの小板川にひらベ( ヤマメ )を見た。青年時代、水眼(水中メガネ)を片手に水中ホコを持って追っかけた魚だ。私は不器用でね、三国ではテンガマ(手長エビ)を追いかけて竹田川の浅瀬を水眼で探し歩いたものだが、なかなか取れなくて、中型の1匹をゲットしたときは嬉しかったね。ただそれを食べる方法を知らない。大家のお婆さんが食べないのならくれろと云うので差し上げたが、あの三国での川遊びの記憶は今でも鮮明で、80年の時の流れを経ても昨日の出来事のようだ。

小板に帰って大畠(見浦家の屋号)の家の前の小川は深入山から流れ出る水、清川で都会の少年の好奇心をそそる世界だったね。

小板川は三段峡に流れ込む、その流れ口が高い滝でね、本流から小板川に魚などが遡上できない、それに気づいた地元の青年たちが三段峡で釣った魚を小板川に放流したのだと聞いた。私が帰郷した頃は臥龍山にも途中の滝のため魚が遡上できないところが幾つかあって、あの谷は私が、この谷は俺が放流したと云う人の話を聞くことが出来た。小板の魚たちには少なからず人の手が加わっているのだ。地域にはそれぞれの歴史があるものだと興味を持った最初である。最も同じ川の住民でも亀さんは足をお持ちで、雨降りの日、自力で道路によじ登ってくる強者、一度発見して捕まえた。うなぎは雨降りの日、坂の小道に小さな水流が出来るとそれを利用して上流によじ登るのだと、餅の木の先輩から聞いたことがある。しかし、小板川の合流点は急すぎてそんな登り口はない。従って小板川ではうなぎは見かけたことはなかったね。もう一つ不思議なのは生活力の強いウグイを見かけないことだ、同じ仲間のドロバエ(アブラハヤ)は多いのにね。

開話休題、中でも美しい、ひらべ(ヤマメ)は宝石に見えたね、横腹の紋様に魅了されてね。それでホコ(ヤス)と水中メガネで追いかけたのだが、敏捷な魚でね、町場の少年の手には負えなかった。時たま捕まえた時は嬉しくて、塩をつけて焼いたら格別な味で、感激したものだ。

臥龍山に六の谷と云う渓流がある。松原川が空城から滝山川に流れ下るところから分流して上空城を遡る、そして人道から離れて山中に消えるのだが、2-3キロ先で大きな滝に出会い乗り越えて、向きを変え臥龍山の頂上を目指す、それが六の谷。この川も滝が大きくて魚が登れなくて、先輩が放魚したのだとか。魚影の濃い川でね、よく箱眼鏡と水中ホコを持って魚とりに行ったものだが、熊の棲家が近くにあることに気付いてからは恐ろしくて行けなくなった。しかし、大きな岩の陰の巨大なひらべの魚影を見た時は興奮したのを覚えている。

小板の川はひらべとゴギ(イワナ)の棲家、ゴギは薄猛な魚で小さな蛇をくわえて泳いでいるのを見たことがある。ゴギも美味しい魚だが敏捷で町場の少年には捕まえることが不可能に近かったね。

河川改修とて護岸を改修してからは小板川の魚影は極端に薄くなった。辛うじてヒラベとドロバエは散見するが、ゴギも、テンギリも、イモリも姿を消した。コンクリートとブロックで固めた護岸は彼等の隠れ場所を激減させたのだ。おまけにアオサギやシロサギが足繁く訪れて川をあさる。隠れ場所が少なくなった小板川は格好の餌場になったらしい。

私が帰郷して80年、小さな小川の小板川も変貌した。そして昔を知る人は私を含めても1-2人か、少年の頃の小板川は老人の記憶のなかで消えつつある。

2021.1.6 見浦 哲弥

#書きかけだった文章をようやく仕上げました。


2022年7月14日

明けまして

2021/1/1 明けましておめでとう。あと50日生き延びたら90歳になる。ヘルペスと、ヘルニアと、常在肺炎と、左足の交通事故の後遺症、まだある、 落ち着いているが日本脳炎のウイルスが体内にいる、こんな体でも、ここまで生き残れる、有り難いとしか言いようがない。

92歳まで生きるという目標を90歳に引き下げて懸命に生きたつもりだが、少しばかり欲が深すぎた。体力の低下がこれほど大きな影響を持つとはね。誰も話してはくれなかった老化の現実、おまけに例年どおり冬も到来して歩行の困難は積雪で倍増、愛用のミニショベルにたどり着くまでが一大事業と相成った。

それでも、まだコンピュータのキーボードは叩ける。切れ切れに浮かぶ文章をより多く残そうと目下懸命の努力中、いつか誰かの目に留まるかも知れないと、僅かな希望を持っているのだが。

しかし、振り返れば90年は長い時間だ。記憶の最初は小学校に入学する年の2月、2.26事件の松尾大佐の葬儀の記憶から84年もの長い時間を見つめてきたことになる。通常、人間の老化は体だけでなく頭脳の老化も引き起こす。いわゆる老人ボケ、死の恐怖から逃れるためにね。これも長い進化の歴史のなかで取得した防衛本能、 私が接した老人達に例外は殆どなくてボケていったね。無謀にも、それに挑戦して最後まで見てやろうと考えたのだから、神をも恐れぬ所業と厳罰に処せられそうである。

しかし、その結果学んだことは、前向に生きる努力を怠らなければ、頭脳の劣化の速度は遅くなるのでは、ということだ。老人になるほど体の諸機能は急速に衰える、その速さは想像以上だったが。

前向きに生きることで、私は今、たどる指針のない道を懸命にひた走っている。毎日起こる新しい現象に、「ヘ一終わりはこんな具合にか」と感心しながらね。それに比べるとお向か重さんが心臓の血栓?で急死したのは、余計なことを考えることなく終わりを通過したのだから、幸せだったかも。しかし、最期に友人の私(思い込みかもしれないが) には一言、言い残したかったのではと想像している。

しかし、人生は苦しいことが山積みだったが、視点を替えてみれば楽しかったこと、嬉しかったことも山積みだった。幸運だけを追いかけなかった、苦難も前向きに何とか耐え抜いたおかげでだと思っている。勿論、 家族を初め多くの人々の協力のおかげと感謝をしているが、素晴らしい人生だったね。

ただ、使い抜いた体は満身創痩、最期まで気力を保てるかは不明であるが、何とか頑張りたいと思っている。

最期に支えてくれた家族に、 先生方に、友人達に感謝の言葉を残さなくては、有難うとね。

本当に有難う、そして残る人達の幸せを心から祈っている。

2021.1.5 見浦 哲弥

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