2022年11月23日

観光は世間話から

2015.9.26 お産の牛や子牛、育成牛用の牧草刈が私の仕事の一つです。毎日、約1トンの草刈は機械化のおかげで2時間ほどで完了します。牧場初期は刈払機で刈り、ホークで軽トラに積み込んで運ぶ、一連の作業は肉体的にも時間的にも大変でした。その草をあっという間に平らげて足らないと鳴く牛達、他家の夕食のにおいのする中、暗闇まで作業をしたことは思い出したくもありません。そんな昔は遠くなりました。 あるお爺さんの話ではないが「昔のことを思えば極楽で」、そんなきつい作業だったのです。

見浦牧場は旧国道と大規模林道に接して牧草地があります。機械化したとはいえ40年も50年も前の外国製のトラクターでの作業は道路を散策する都会人には珍しい風景なのでしょう。立ち止まるのは歩行者だけでなく、乗用車までもとまります。そんな時は機械を止めて一言二言世間話をするのです。
時々は温かい言葉が返って来ることがあります。それが私達、田舎人が忘れかけていることを思い出させてくれるのです。

なぜか昔から田舎の人から話しかけることは少なかったようです。方言の強いこの地方は小学生の頃から標準語を話せ、方言は使うなと教えられたせいなのでしょうか、それとも生活の違いから共通の話題がないと思ったからでしょうか、転校、 転校で違う方言を体験してきた私にはその壁がありませんでした。そして田舎の人は無愛想だなどと思ったものです。しかし、それは間違いでした。標準語の都会人に方言が日常の田舎人は気後れを感じて話せなかったかも知れません。本当は田舎の人も話し好き、都会の生の情報のように、ここ小板の日常の出来事には都会人も興味があると云うことを知らないだけでした。

一方で、都会人も自分たちの生活と異なる社会や生活のしくみに興味をもつている、ただ話しかけるきっかけがないだけでした。その扉が開かれると次々と異次元?の世界の扉が大きく開かれる、興味深々が始まるのです。でもなかなかそんな機会がない、でもきっかけさえ掴めれば立ち話からその地方の産業、歴史にまで話が繋がる、方言を気にしなければ田舎の人も話し好きなのです。

例えば、ここ芸北地区は明治の初めまでタタラ製鉄が生き残った地区、歴史のかげでは松江の尼子氏と吉田の吉川氏が商品としてのタタラ鉄を巡って争ったと云う話を聞いたことがあります。そして小板には関係のありそうな地名が数多く残っているのです。公的に道路地図記載されている道戦峠(ドウセンタオ)、その隣の島根側の集落の名前が甲繋(コウツナギ)、鎧を修理すると読める、集落をながれる小川が太刀洗川(タチアライカワ)、小板側に越して道路脇の峰が鷹の巣城、その麓が城根、その前の谷あいの小川が応戦原、その下流の分岐した小川の小さな原っぱ(現在は大規模林道が通っている)が血庭、まだある、鷹巣城の裏側に麓からは確認できない平地があって隠れ里。

こんな小さな集落にも昔をしのぶ地名が山積している、しかし住民は語り継ごうとはしないし、こんな話が都会人の興味を引くなどとは想像もしない、道端の世間話が、この小板の歴史が観光資源の一つだとは考えたこともない、いやこの話を知る住民は私で最期になりそうである。

見方を変えれば足元に色々な資源が埋まっている、この話は一例にすぎない、都会人が興味をもつ話は山積しているのに、 観光、観光と浮かれている。私は足元の資源も見つめ直して欲しいと思っている。

無価値と思っていることが立場が変われば資源であることが多い、ただ視点を替えて見つめ直す思考がない、都会が華やかだと思いこんでいるだけでは物事が正確にはつかめない、無価値と思うことが実は有用な資源かも知れない。都会の華やかさにつられないで、もう一度足元を見つめ直して欲しい、これは小板に生きた老人の提言である。

2021.1.10 見浦哲弥


ひらべ

2015.8.20 早朝、牛を飼いに牛舎に行く途中、道沿いの小板川にひらベ( ヤマメ )を見た。青年時代、水眼(水中メガネ)を片手に水中ホコを持って追っかけた魚だ。私は不器用でね、三国ではテンガマ(手長エビ)を追いかけて竹田川の浅瀬を水眼で探し歩いたものだが、なかなか取れなくて、中型の1匹をゲットしたときは嬉しかったね。ただそれを食べる方法を知らない。大家のお婆さんが食べないのならくれろと云うので差し上げたが、あの三国での川遊びの記憶は今でも鮮明で、80年の時の流れを経ても昨日の出来事のようだ。

小板に帰って大畠(見浦家の屋号)の家の前の小川は深入山から流れ出る水、清川で都会の少年の好奇心をそそる世界だったね。

小板川は三段峡に流れ込む、その流れ口が高い滝でね、本流から小板川に魚などが遡上できない、それに気づいた地元の青年たちが三段峡で釣った魚を小板川に放流したのだと聞いた。私が帰郷した頃は臥龍山にも途中の滝のため魚が遡上できないところが幾つかあって、あの谷は私が、この谷は俺が放流したと云う人の話を聞くことが出来た。小板の魚たちには少なからず人の手が加わっているのだ。地域にはそれぞれの歴史があるものだと興味を持った最初である。最も同じ川の住民でも亀さんは足をお持ちで、雨降りの日、自力で道路によじ登ってくる強者、一度発見して捕まえた。うなぎは雨降りの日、坂の小道に小さな水流が出来るとそれを利用して上流によじ登るのだと、餅の木の先輩から聞いたことがある。しかし、小板川の合流点は急すぎてそんな登り口はない。従って小板川ではうなぎは見かけたことはなかったね。もう一つ不思議なのは生活力の強いウグイを見かけないことだ、同じ仲間のドロバエ(アブラハヤ)は多いのにね。

開話休題、中でも美しい、ひらべ(ヤマメ)は宝石に見えたね、横腹の紋様に魅了されてね。それでホコ(ヤス)と水中メガネで追いかけたのだが、敏捷な魚でね、町場の少年の手には負えなかった。時たま捕まえた時は嬉しくて、塩をつけて焼いたら格別な味で、感激したものだ。

臥龍山に六の谷と云う渓流がある。松原川が空城から滝山川に流れ下るところから分流して上空城を遡る、そして人道から離れて山中に消えるのだが、2-3キロ先で大きな滝に出会い乗り越えて、向きを変え臥龍山の頂上を目指す、それが六の谷。この川も滝が大きくて魚が登れなくて、先輩が放魚したのだとか。魚影の濃い川でね、よく箱眼鏡と水中ホコを持って魚とりに行ったものだが、熊の棲家が近くにあることに気付いてからは恐ろしくて行けなくなった。しかし、大きな岩の陰の巨大なひらべの魚影を見た時は興奮したのを覚えている。

小板の川はひらべとゴギ(イワナ)の棲家、ゴギは薄猛な魚で小さな蛇をくわえて泳いでいるのを見たことがある。ゴギも美味しい魚だが敏捷で町場の少年には捕まえることが不可能に近かったね。

河川改修とて護岸を改修してからは小板川の魚影は極端に薄くなった。辛うじてヒラベとドロバエは散見するが、ゴギも、テンギリも、イモリも姿を消した。コンクリートとブロックで固めた護岸は彼等の隠れ場所を激減させたのだ。おまけにアオサギやシロサギが足繁く訪れて川をあさる。隠れ場所が少なくなった小板川は格好の餌場になったらしい。

私が帰郷して80年、小さな小川の小板川も変貌した。そして昔を知る人は私を含めても1-2人か、少年の頃の小板川は老人の記憶のなかで消えつつある。

2021.1.6 見浦 哲弥

#書きかけだった文章をようやく仕上げました。


2022年7月14日

明けまして

2021/1/1 明けましておめでとう。あと50日生き延びたら90歳になる。ヘルペスと、ヘルニアと、常在肺炎と、左足の交通事故の後遺症、まだある、 落ち着いているが日本脳炎のウイルスが体内にいる、こんな体でも、ここまで生き残れる、有り難いとしか言いようがない。

92歳まで生きるという目標を90歳に引き下げて懸命に生きたつもりだが、少しばかり欲が深すぎた。体力の低下がこれほど大きな影響を持つとはね。誰も話してはくれなかった老化の現実、おまけに例年どおり冬も到来して歩行の困難は積雪で倍増、愛用のミニショベルにたどり着くまでが一大事業と相成った。

それでも、まだコンピュータのキーボードは叩ける。切れ切れに浮かぶ文章をより多く残そうと目下懸命の努力中、いつか誰かの目に留まるかも知れないと、僅かな希望を持っているのだが。

しかし、振り返れば90年は長い時間だ。記憶の最初は小学校に入学する年の2月、2.26事件の松尾大佐の葬儀の記憶から84年もの長い時間を見つめてきたことになる。通常、人間の老化は体だけでなく頭脳の老化も引き起こす。いわゆる老人ボケ、死の恐怖から逃れるためにね。これも長い進化の歴史のなかで取得した防衛本能、 私が接した老人達に例外は殆どなくてボケていったね。無謀にも、それに挑戦して最後まで見てやろうと考えたのだから、神をも恐れぬ所業と厳罰に処せられそうである。

しかし、その結果学んだことは、前向に生きる努力を怠らなければ、頭脳の劣化の速度は遅くなるのでは、ということだ。老人になるほど体の諸機能は急速に衰える、その速さは想像以上だったが。

前向きに生きることで、私は今、たどる指針のない道を懸命にひた走っている。毎日起こる新しい現象に、「ヘ一終わりはこんな具合にか」と感心しながらね。それに比べるとお向か重さんが心臓の血栓?で急死したのは、余計なことを考えることなく終わりを通過したのだから、幸せだったかも。しかし、最期に友人の私(思い込みかもしれないが) には一言、言い残したかったのではと想像している。

しかし、人生は苦しいことが山積みだったが、視点を替えてみれば楽しかったこと、嬉しかったことも山積みだった。幸運だけを追いかけなかった、苦難も前向きに何とか耐え抜いたおかげでだと思っている。勿論、 家族を初め多くの人々の協力のおかげと感謝をしているが、素晴らしい人生だったね。

ただ、使い抜いた体は満身創痩、最期まで気力を保てるかは不明であるが、何とか頑張りたいと思っている。

最期に支えてくれた家族に、 先生方に、友人達に感謝の言葉を残さなくては、有難うとね。

本当に有難う、そして残る人達の幸せを心から祈っている。

2021.1.5 見浦 哲弥

2021年11月9日

重さんが死んでいた

2020.12.29 お向かいの一人暮らしの重さんが死んでいた。私の晩年のよき友だった重さんが推定2日前に死んでいた。ショックである。

最近、時々姿が見えないことがあって、85歳の彼も年取ったなと見ることもあったが、私より5歳も若い、当然、 私の終末が早いと決め込んで、時折の姿が見えない時も、今日は早仕舞かと気にもかけなかったのに、朝、西田君とコッチャンが「Sさんが死んでいる」と飛び込んできて大騒ぎとなった。

昨日、彼の松原の同級生のT君が、S君がいないと尋ねて来て立ち話をしたのだが、まさか死んでいるとは思いもしなかったね。

原因が不明で孤独死となれば警察が出動、一般人は手が出せない。警察が来て救急車もやってきて死亡診断書の作成のため病院へ。おまけに彼の子供さんは奈良県、緊急と電話をしても小板につくのは夜の9時頃になるとのこと。おまけに明日の午後は大寒波が襲来するとて、大雪と暴風雪警報がでている始末。お向かいの無人の無点灯のS家を見ていてもなすすべがない。息子さんが戻ったら集落の人に連絡をとって一応集まろうと云うことにはしたが、8時半になってもS家は無点灯、気が焦るがいかんともし難い、まさに最悪のタイミング。

重さんは心臓の血管に問題があって2箇所にステント (血管拡張の器具)を入れている。半年ごとに検査を受けて不具合を事前に察知して手当をするシステムだとか、10月にその検査を受けに行くと言っていたのだが、帰宅しても変わった様子が見えなかったので長生きをするなと思っていた矢先、最近体の各所に異常が起きて不安感いっぱいの私が後になろうとは思っても見なかった、まさに一寸先は闇、 人の命は儚いものだ。

大阪で大型トラックの運転手として働き、 結婚して、子供さんを大学に進学させ、働きに働いた彼、親父さんの死亡を機に折角手に入れた農地を荒らすわけにはいかないと帰郷、地元の建設会社の大型トラックの運転手として長年働いた。ご存知のように小板は街の中心から20キロメートル離れていて、冬は積雪の多いところ、そこからの通勤は普通なら不可能に近い、それを軽トラの4輪駆動車を駆って通ったのだから根性である。母親を看取って、奥さんの癌との戦いに明け暮れて、疲れていた彼の自慢は、腕のいい石工さんだった親父さんに仕込まれた腕。 彼の自宅が小板の氏神さんの入り口にある関係で、お宮と私有地の境界は土を削っただけではっきりしていない、この境界を石積みしたいが彼の口癖だった。 あまり熱心なので、私は忙しいので石積みの手伝いは出来ないが、使う石は私が提供しようかと提案したんだ。彼、本当に持ってきてくれるかと乗り気になってね。ちょうど大規模林道の餅ノ木峠の残土を牧場に埋める話があって、その中から石垣に適した石を選び出して運べばと云うことになって、彼が石を積む役、私が石を選んで境内までダンプで運ぶ役、私もまだ若くて元気だったが大変だった。石が境内に運び込まれると彼が懸命に石積み、現在の小板のお宮になったんだ。

彼の努力を知っている私は、寄進の額を神殿に掲載しろと神楽団のボスに要求、神殿の壁を見渡すと”寄進、誰々" と書かれた板額が目に入るはずだ。主役は重さん、私達は手伝い、それを文字の大きさで表わせと要求して、以来、小板のお宮は重さんを無視しては何もできなくなった。で、 境内で二人きりになるときは、あの時、石垣を作ってよかったなと話し合ったものだ。

それから重さんの私への信頼度が変わったような気がする。まもなく集落の人数が減りはじめたとき葬式は家々で個々の責任ですることと、当時の自治会長と新任のボスが決定、息子の和弥と随分反対したのだが、俺達がボスで決定したから余計なことを言うな、と受け付けない。そうしているうちに新たに小板に定住したお家のおばーさんが死んで、小板では葬儀はこの方法でやると押し付けて強行、あとで身内の人に聞くと寂しい思いをしたのだとか。そこで放っておけなくて私がお葬式の同行(どうぎょう:自治会等で葬儀の運営全般をお手伝いすること)再建に乗り出したんだ、相棒に重さんを選んでね。二人で見送った人は10人を越すはずだ。減りゆく住民では出来る手伝いは限られてはいたが、皆で見送る方式は再現された。そして重さんは名実ともに小板の実力者になった。

彼とは色々な仕事をした。死んでやると雪山に入ったH君を二人で救出したこともある。あの時は、スキー場の事故の救援で集落で動けるのは私と彼の二人、人命には替えられないと雪山に入った。H君は助けたが、彼も私も疲労は極限、 危うく倒れるところだった。

力を合わせてこの小さな集落を守ってきた。振り返ってみれば彼は自分の親、 兄弟、家族のために人生の殆どを費やしたように見える。粗削りに見えるが優しさを秘めていた彼、私の数少ない親友の一人だった。

大切な友が先立った。5歳も年長の私がまだ生き残っているのに。道路端の日だまりに椅子を並べて「小板はええところよの一」と語り合った日は思い出の中に消えた。5歳年長の私はまもなく後を追う。そして別の世界で「あん時はの一」と世間話を語るのを楽しみにして暫しの別れに耐えようと思っている。

2020.12.31 見浦哲弥


2021年11月8日

田舎も流行

 2015.11 住民の流出で衰退した経済を何とか立て直そうと田舎が懸命に知恵を絞っています。でも私には上滑りに見えるのですが、そんな感じの地方再生です。

我が町でも新商品が出ては消え、消えては出現する、そんな繰り返しが何度かありました。木工品あり、農産物あり、漬物あり、様々でした。そして最初はマスコミも華やかに報道してくれる、役場の有線もこれこれしかじかと放送する、これは本物かと思っていると何時の間にか話が消えて話題にもならなくなる、 その繰り返しでした。そろそろ本物が登場してもいい頃だと思っているのですが。

現在の日本は資本主義経済の時代です。またの名を競争経済、資本の大きさで相手に打ち勝勝つのか、一歩先を歩いて先行利潤を手に入れるのか、この二択しかありません。この集落の自称お金持ちが資金に物を言わせると競争に参入して、間もなく敗者になり無産階級に転落したのは、何億円規模の資金だけでは競争ができる金額ではないことを知らなかったためです。

日本経済が発展するにつれ、資本だけで競争に勝つためには、私達が想像も出来ない大きな額が必要になっていたのです。そして資本家と呼ばれる階層の人たちと労働者と呼ばれる無産階級の人たちに分化していたのです。しかし無産階級とはいえ持ち家があり、ささやかな近代家具を持ち、子供たちに高等教育を受けさせることが出来て、自分たちは無産階級ではないと信じている人たちから、全く資産を持たない本当の無産階級の人達まで様々です。 しかし、日本は大部分の国民が自分たちの生活は向上したと認識できる社会を作り上げたと満足している、大部分の国民がそれで良しとしている、その意味では日本は平和国家です。しかし、その平和を続ける為には何をなすべきかの意見を聞くことは非常に少ない、そんなことでは、平和がいつまでも続くとは思えないのです。

でも小さな小板のような集落ではこんな社会論は適用されないと貴方は思うかもしれませんが、現実にはいくつも起きたのです。そして分限者(ぶげんしゃ:金持ちの意)と呼ばれた人達が次々と破滅して無産階級に落ち込んでいったのです。しかも一般の人達よりは高い教育をうけていて、無知だとは言えない人達が例外もなく破滅していった。私はなぜかと何度も何度も考えたものです。

そして彼らの共通しているのは肉体労働を極端に嫌っていたことだと気づいた、それは小板だけの特殊な現象だったかもしれませんが、少なくとも私の周辺では例外はなかった。

さて、どうすればいいのか、それは私たちの生産した品物を買ってくれるのは誰かと考えることです。それが農協や市場だと考えると現実が見えなくなります。たしかに農協や市場に出荷して代金が入ってきますが、それはただの中継ぎでしかない。本当のお客さんは末端の消費者以外ではありえません。しかし、消費者にも大会社の原料部門から、サラリーマンの奥さんまで数多くあります。その誰に買ってもらうのか?、その相手によって生産する商品の品質が違い、数量が決まります。ところが一般の農家の人は物が出来たけーと農協に持ってゆく、市場の卸問屋に持ってゆく、それだけで満足の行く代金が手元に入ると考える、実際には商品が不足している時には有り得ますが、それは物が不足して、国民が飢えに苦しんだ頃のお話です。様々な商品、 もちろん食品から衣料品、家具、自動車に至るモロモロの品物は消費者の要求を満足させたとき以外は、需要供給のバランスで一定の価格に定着するものです。生産者のコストに関係なくです。

私達は、そんな経済システムの中で暮らしている、それを理解しなければ農民と言えども生き残ることは不可能なのに、そんな話をしてくれる農家にお目にかかることはまれでした。

食料の自給率が38%と報道されているとき、 国の底辺を支える農民がもう少しこの社会システムを理解して前向きな経営をしてもらいたいと願うのは老農夫の高望みなのでしょうか。

私は、こんな老人の迷論に反撃される人が一人でも多いことを願っています。どうすべきか、真面目に考える時期にきている、そして、底辺の人達にもっと温かく、後進国と呼ばれる国々には、もっと思いやりをと望むのは考えすぎなのでしょうか。

2020.11.12 見浦哲弥


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