2021年11月9日

重さんが死んでいた

2020.12.29 お向かいの一人暮らしの重さんが死んでいた。私の晩年のよき友だった重さんが推定2日前に死んでいた。ショックである。

最近、時々姿が見えないことがあって、85歳の彼も年取ったなと見ることもあったが、私より5歳も若い、当然、 私の終末が早いと決め込んで、時折の姿が見えない時も、今日は早仕舞かと気にもかけなかったのに、朝、西田君とコッチャンが「Sさんが死んでいる」と飛び込んできて大騒ぎとなった。

昨日、彼の松原の同級生のT君が、S君がいないと尋ねて来て立ち話をしたのだが、まさか死んでいるとは思いもしなかったね。

原因が不明で孤独死となれば警察が出動、一般人は手が出せない。警察が来て救急車もやってきて死亡診断書の作成のため病院へ。おまけに彼の子供さんは奈良県、緊急と電話をしても小板につくのは夜の9時頃になるとのこと。おまけに明日の午後は大寒波が襲来するとて、大雪と暴風雪警報がでている始末。お向かいの無人の無点灯のS家を見ていてもなすすべがない。息子さんが戻ったら集落の人に連絡をとって一応集まろうと云うことにはしたが、8時半になってもS家は無点灯、気が焦るがいかんともし難い、まさに最悪のタイミング。

重さんは心臓の血管に問題があって2箇所にステント (血管拡張の器具)を入れている。半年ごとに検査を受けて不具合を事前に察知して手当をするシステムだとか、10月にその検査を受けに行くと言っていたのだが、帰宅しても変わった様子が見えなかったので長生きをするなと思っていた矢先、最近体の各所に異常が起きて不安感いっぱいの私が後になろうとは思っても見なかった、まさに一寸先は闇、 人の命は儚いものだ。

大阪で大型トラックの運転手として働き、 結婚して、子供さんを大学に進学させ、働きに働いた彼、親父さんの死亡を機に折角手に入れた農地を荒らすわけにはいかないと帰郷、地元の建設会社の大型トラックの運転手として長年働いた。ご存知のように小板は街の中心から20キロメートル離れていて、冬は積雪の多いところ、そこからの通勤は普通なら不可能に近い、それを軽トラの4輪駆動車を駆って通ったのだから根性である。母親を看取って、奥さんの癌との戦いに明け暮れて、疲れていた彼の自慢は、腕のいい石工さんだった親父さんに仕込まれた腕。 彼の自宅が小板の氏神さんの入り口にある関係で、お宮と私有地の境界は土を削っただけではっきりしていない、この境界を石積みしたいが彼の口癖だった。 あまり熱心なので、私は忙しいので石積みの手伝いは出来ないが、使う石は私が提供しようかと提案したんだ。彼、本当に持ってきてくれるかと乗り気になってね。ちょうど大規模林道の餅ノ木峠の残土を牧場に埋める話があって、その中から石垣に適した石を選び出して運べばと云うことになって、彼が石を積む役、私が石を選んで境内までダンプで運ぶ役、私もまだ若くて元気だったが大変だった。石が境内に運び込まれると彼が懸命に石積み、現在の小板のお宮になったんだ。

彼の努力を知っている私は、寄進の額を神殿に掲載しろと神楽団のボスに要求、神殿の壁を見渡すと”寄進、誰々" と書かれた板額が目に入るはずだ。主役は重さん、私達は手伝い、それを文字の大きさで表わせと要求して、以来、小板のお宮は重さんを無視しては何もできなくなった。で、 境内で二人きりになるときは、あの時、石垣を作ってよかったなと話し合ったものだ。

それから重さんの私への信頼度が変わったような気がする。まもなく集落の人数が減りはじめたとき葬式は家々で個々の責任ですることと、当時の自治会長と新任のボスが決定、息子の和弥と随分反対したのだが、俺達がボスで決定したから余計なことを言うな、と受け付けない。そうしているうちに新たに小板に定住したお家のおばーさんが死んで、小板では葬儀はこの方法でやると押し付けて強行、あとで身内の人に聞くと寂しい思いをしたのだとか。そこで放っておけなくて私がお葬式の同行(どうぎょう:自治会等で葬儀の運営全般をお手伝いすること)再建に乗り出したんだ、相棒に重さんを選んでね。二人で見送った人は10人を越すはずだ。減りゆく住民では出来る手伝いは限られてはいたが、皆で見送る方式は再現された。そして重さんは名実ともに小板の実力者になった。

彼とは色々な仕事をした。死んでやると雪山に入ったH君を二人で救出したこともある。あの時は、スキー場の事故の救援で集落で動けるのは私と彼の二人、人命には替えられないと雪山に入った。H君は助けたが、彼も私も疲労は極限、 危うく倒れるところだった。

力を合わせてこの小さな集落を守ってきた。振り返ってみれば彼は自分の親、 兄弟、家族のために人生の殆どを費やしたように見える。粗削りに見えるが優しさを秘めていた彼、私の数少ない親友の一人だった。

大切な友が先立った。5歳も年長の私がまだ生き残っているのに。道路端の日だまりに椅子を並べて「小板はええところよの一」と語り合った日は思い出の中に消えた。5歳年長の私はまもなく後を追う。そして別の世界で「あん時はの一」と世間話を語るのを楽しみにして暫しの別れに耐えようと思っている。

2020.12.31 見浦哲弥


2021年11月8日

田舎も流行

 2015.11 住民の流出で衰退した経済を何とか立て直そうと田舎が懸命に知恵を絞っています。でも私には上滑りに見えるのですが、そんな感じの地方再生です。

我が町でも新商品が出ては消え、消えては出現する、そんな繰り返しが何度かありました。木工品あり、農産物あり、漬物あり、様々でした。そして最初はマスコミも華やかに報道してくれる、役場の有線もこれこれしかじかと放送する、これは本物かと思っていると何時の間にか話が消えて話題にもならなくなる、 その繰り返しでした。そろそろ本物が登場してもいい頃だと思っているのですが。

現在の日本は資本主義経済の時代です。またの名を競争経済、資本の大きさで相手に打ち勝勝つのか、一歩先を歩いて先行利潤を手に入れるのか、この二択しかありません。この集落の自称お金持ちが資金に物を言わせると競争に参入して、間もなく敗者になり無産階級に転落したのは、何億円規模の資金だけでは競争ができる金額ではないことを知らなかったためです。

日本経済が発展するにつれ、資本だけで競争に勝つためには、私達が想像も出来ない大きな額が必要になっていたのです。そして資本家と呼ばれる階層の人たちと労働者と呼ばれる無産階級の人たちに分化していたのです。しかし無産階級とはいえ持ち家があり、ささやかな近代家具を持ち、子供たちに高等教育を受けさせることが出来て、自分たちは無産階級ではないと信じている人たちから、全く資産を持たない本当の無産階級の人達まで様々です。 しかし、日本は大部分の国民が自分たちの生活は向上したと認識できる社会を作り上げたと満足している、大部分の国民がそれで良しとしている、その意味では日本は平和国家です。しかし、その平和を続ける為には何をなすべきかの意見を聞くことは非常に少ない、そんなことでは、平和がいつまでも続くとは思えないのです。

でも小さな小板のような集落ではこんな社会論は適用されないと貴方は思うかもしれませんが、現実にはいくつも起きたのです。そして分限者(ぶげんしゃ:金持ちの意)と呼ばれた人達が次々と破滅して無産階級に落ち込んでいったのです。しかも一般の人達よりは高い教育をうけていて、無知だとは言えない人達が例外もなく破滅していった。私はなぜかと何度も何度も考えたものです。

そして彼らの共通しているのは肉体労働を極端に嫌っていたことだと気づいた、それは小板だけの特殊な現象だったかもしれませんが、少なくとも私の周辺では例外はなかった。

さて、どうすればいいのか、それは私たちの生産した品物を買ってくれるのは誰かと考えることです。それが農協や市場だと考えると現実が見えなくなります。たしかに農協や市場に出荷して代金が入ってきますが、それはただの中継ぎでしかない。本当のお客さんは末端の消費者以外ではありえません。しかし、消費者にも大会社の原料部門から、サラリーマンの奥さんまで数多くあります。その誰に買ってもらうのか?、その相手によって生産する商品の品質が違い、数量が決まります。ところが一般の農家の人は物が出来たけーと農協に持ってゆく、市場の卸問屋に持ってゆく、それだけで満足の行く代金が手元に入ると考える、実際には商品が不足している時には有り得ますが、それは物が不足して、国民が飢えに苦しんだ頃のお話です。様々な商品、 もちろん食品から衣料品、家具、自動車に至るモロモロの品物は消費者の要求を満足させたとき以外は、需要供給のバランスで一定の価格に定着するものです。生産者のコストに関係なくです。

私達は、そんな経済システムの中で暮らしている、それを理解しなければ農民と言えども生き残ることは不可能なのに、そんな話をしてくれる農家にお目にかかることはまれでした。

食料の自給率が38%と報道されているとき、 国の底辺を支える農民がもう少しこの社会システムを理解して前向きな経営をしてもらいたいと願うのは老農夫の高望みなのでしょうか。

私は、こんな老人の迷論に反撃される人が一人でも多いことを願っています。どうすべきか、真面目に考える時期にきている、そして、底辺の人達にもっと温かく、後進国と呼ばれる国々には、もっと思いやりをと望むのは考えすぎなのでしょうか。

2020.11.12 見浦哲弥


2021年10月20日

ちぢむ頭脳

技輩は老人である。85歳に限りなく近づいていく。体力の衰えは先人の老人達を眺めて理解していたが、頭脳の衰えは我が身に起きるまで理解することが出来なかった。それが確実におき始めた。その変化は脳細胞の衰弱が原因の現象だと理解しているが、その衰弱が時間と共に増えてゆく。

先立った友人が、あるとき田園にトラクターを運転して出たまでは良かったが、それからの操作が全く思い出せない、これはトラクターの故障だと騒ぎになって笑い話になったことがある。この話は人ごとではなくなった。ロールにフィルムを巻こうとして操作を忘れていた時は、私にも起きはじめたと思ったんだ。人生に終わりがあることは誰よりも理解していると思っていたが、現実を突きつけられると暗然とする。

振り返ってみると本好きの私でも、その読書量の減少は自覚できるほど落ちている、しかも数式が混在すると読み進むことが出来ない。あの数学好きの頭は夢の彼方に旅立ってしまったんだ。

貧乏牧場の見浦ではトラクターが中古ばかり、50年前の機械を筆頭に3社の外国のメーカーの骨董品が稼動している。従って運転操作も多様で、ギヤレバーの位置、ブレーキの踏み具合、ハンドルの切れ味、給油の場所、オイルその他の点検場所、 機械にはそれぞれに個性がある。それを覚えるだけでも大変なのに、作業機が又多様である。先頃までは何とか頭を痛めながらこなしていたのだが、それが苦痛になり始めたんだ。

昔、人間は100億の脳細胞を持つと教えられた、しかし実際に働いているのは1/10くらいだと、あとの遊んでいる脳細胞は現役細胞が倒れた時、記億や信号を変わって記憶し判断を下すのだというんだが。

私もなるほどと思う体験をしたんだ。私が生物に関心を持ったのは、4年生の時に母の妹の貞叔母から貰った科学の本からなんだ(貞叔母は女学校の教師だった)。その中に当時発見されたばかりのパブロフの条件反射の詳しい記事があったんだ。今でも試験に使われる管を何本もつけた犬の写真は鮮明におぼえている。あれが小板に帰って、すぐ小学5年生の子供が牛を使うことにつながり、馬を使ったり、動員で暮らした七塚原の牧場で数多くのことを学んだ出発点だったんだ。ところが、それほど強烈だったパブロフの名前が完全に失念して思い出せなくなったのは40歳過ぎ、さすがに若年性の痴果かと恐怖したね。私は19歳の時日本脳炎を患って後遺症が残った、それが原因の若年性の痴果のはじまりか?とね。ところが頭文字がパ行だったことは覚えていた。それからパピプペポと繰り返したんだ、何日もね。そしてある日パブロフの文字が頭に浮かんだ。うれしかったね、痴果ではないとね。

ところが何年かして再びパブロフが消えた。前回の経験に従ってパ行の繰り返しで記憶が戻った。それからこの年になるまで何度も同じ現象が起きた。しかも、覚えている期間が短くなるような気がする。そして最初の思い出した時の感激がだんだん薄くなる。そこで考えたんだ、記憶は何個かの脳細胞の共同作業で成り立っている、その中の一個の細胞が死ぬと記憶を呼び戻すために死んだ細胞の代りに遊んでいた周りの細胞に情報を伝えて記憶を再生する、その繰り返しで記憶が残って行くのだと。

ただ、5歳の時経験した2.26事件での出来事は80年経った現在でも鮮明だ。あの深夜の松尾大佐の(岡田首相の身代わりになって自ら反乱軍の銃口の前に出て死んだ軍人、私とつながりがあるとか)葬儀、あの灯火は鮮明に脳裏に残る。よほど強烈なインパクトで記憶されたのだろう、動員された脳細胞の数はけた外れに多いのかもしれない。

ともあれ脳細胞減少の現実は本人も実感している。様々な対応でしのいではいるものの、日に日に進行することはあっても回復することはない、生物の宿命である。この上はゆっくり考えることを最優先で衰えた頭脳でも判断は正確でありたいと願うのみである。

2020.12.08 見浦哲弥

お元気ですか、長らく眠っていた文章を仕上げました。



2021年10月18日

小板の雪景色

小板の冬は、おおよそ2月の10日がピークである。12月の終わりから、ひたすら寒さに向かって走り続けた冬将軍が一息をつく、それが2月の10日頃、昔の小板の住民はひたすら体を小さくして冬将軍のご機嫌を損じないようにと、その日を待った。時折、無謀にも「何を」と挑戦して事故につながった人もいて自然は非情である。私の知る限り近辺で雪で死亡の悲劇をもたらしたのが2件あった。かく云う私も死の直前まで追い込まれた事がある。大自然の前には私達は本来は無力なのだ。

私は福井市の生まれで三国港で育った。彼の地も雪国で雪は珍しくないが雪質が違う。標高のせいなのか、海が近いせいなのかは知らないが、小板に帰っての冬は異常な体験だった。人生の殆どを過ごして厳しい小板の冬が私の常識になったのだが。

貴方は雪の結晶をご存知だろう、六角形の見事な結晶を。雪国でなくても雪が降れば見ることができる。ところが雪片に目を凝らすと見る見る溶けてあの見事な造形をはっきりとは確認できない。結晶が六角形であることぐらいは見れるが写真で見る鋭角の美しい造形は運が良くても一瞬で消え去る。

ところがここ小板では中国山地の北面を駆け上がってきた水蒸気が低温と低湿度のお陰で見事な結晶を披露してくれる。その六角形の芸術品は数々の造形の違いを演じて、雪国の寒さを一瞬忘れさせる。寒さの厳しい日は結晶が崩れるのが遅くて次々と現れる造形に時間を忘れたものだ。

貴方が早起きなら新雪の雪面に様々な生き物の足跡を見る。その形で昨夜の動物たちの行動を想像する。雪に覆われた世界は動物たちにとって生き残りゲームの壮絶な戦い、しかし私達人間は足跡から動物を想像し、彼等の行動を想像する。その生き残りゲームの足跡から、こっちも負けられないと気力を振り絞る。静かな早朝の新雪は命の戦いの厳しさを伝えてくる、そんな視点で足跡を見てやってほしい。

早朝、一面の銀世界は雪国ならどこでも同じ、ではない。地形や気候、高度、湿度、温度で様々に変化する。冬も日毎に新しい側面を見せる。それを感じ取るか、取らないかで、貴方の思いも変わるだろう。都会は住みやすい、小板は住むには様々な困難がある、 しかし、目をこらせば貴方の知らなかった一面を持っている、住む住まないは別にして、貴方の知らない小板の自然を見て欲しい、これは都会で育ち、小板で人生を送った老人のささやかな願いである。

2020.12.14 見浦哲弥

 

2021年10月17日

終わり

2020.12.20 脳天気の吾輩も遂に最後の日を意識するようになった。長年、終わりは90歳を意識して生きてきたから(92歳を目標にしていた時あった)、別に恐怖はないが体の機能が次々と失われてゆくと、あと何日、何時間と余命を考えるようになる。

ま、後続の諸君の参考?のため私の現況を少しばかり詳細に述べてみようか。

今年の最初の入院のヘルペスは現在辛うじて進行は抑えているが、症状は快方に向かう気配はない。肺炎は食欲は増加して検査結果も良好だが、相変わらず咳もでるし、多少の痰もでる。病院の岡藤先生の診断によれば、長年住み着いた肺炎菌を絶滅させる力は私にはもうない。歩行力は激滅した。杖がなくては10メートル前後の距離が限界点に近い。しかし、杖があれば2-30メートル位は移動ができるので多少の仕事は可能。幸い小型のショベルなら乗車してしまえば1-3時間ぐらいの仕事は出来るが、両足の血行が不良で氷のように冷たくなり、こたつやアンカで温めるのに2-3時間もかかる。その原因は下肢の血管の老化と理解はしているのだが、薬で治るたぐいではないと書物にあった。何しろ90歳だからね、これも老化が原因と理解している。この文のキーを叩く左手の甲にも4センチばかりの出血斑がみえる。どこに打ち付けたかは記憶にないが大きな出血斑である。もう一つあってヘルニアが再発した。20年余り前に手術して完治、忘れていたのだが再発した等、思いつくままに取り上げてもこのくらいはある。これでは嫌でも終わりが近いと意識せざるを得ない。しかし、90年近くもの長い時間を与えてもらった幸運は感謝しても感謝しきれない。

私の家族は一時しのぎの気休めは口にしない。変人、見浦哲弥としては最高である。振り返ってみれば全てが幸運だったと思っている。有難う、 本当に有難う。

最後に私は自然に帰りたい、” 千の風になって”の歌詞ではないが、見浦牧場の空を何時までも飛んでいたいと願うのだが、欲が深すぎるだろうか。

見浦哲弥

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